はてなキーワード: ムシャムシャとは
昔かーちゃんがキャベツから1mmもないぐらいの赤ちゃんカタツムリを見つけた。
外に捨てるのも排水溝に流すのも抵抗感。結局生物観察的な気持ちで飼うことに。
エサも野菜のきれはしとか卵の殻でいいから楽だった。赤ちゃんかたつむりはすくすく育っていった。種の判別は専門家でないので難しいが、キャベツについてたことも考えて日本のよくある種だと考えた。寿命は1年ぐらいかなと思っていた。
それから3年。一切死ぬ気配を見せないカタツムリは4~5センチほどまで成長。ばかでかくなり夜中もキャベツと卵のからを食いちぎるパリパリムシャムシャといった音が聞こえる。
おっ、ちょっとちょっと、「怠け者」のような嫌な言葉でご自身を卑下しないでくださいよ。
水島版の鋼の錬金術師のアニメっていうのがありまして、ホムンクルスってバケモンの子供が賢者の石を与えられて、ムシャムシャ食ってたら、「おまえもそれが食べられるんだね」って他のホムンクルスがにっこりするシーンがあったと思うんですが、
あなたもおれが「魔法」と呼んだものを食えるんじゃないかなぁそうだったらいいなぁと思ってるんです。おれもにっこりなのですよ。
対岸から見る人がいなかったら月ノ氏の魔法は成立しなかったじゃないですか。
一緒にスターを見て、いいねぇとかよくないねぇとか思いましょうよ。
しかし…
「こういうのやりてぇなあ」と思っていれば、いつかトリックを思いつく時が来るかもしれません。
やらずには居られないかもしれません。
もしもその時が来たらいつでも魔法をかけてくださいよ。
待ってるからね!
本当に本当に可愛がっていた愛猫が、亡くなった。
とんだ2025年の幕開けだよ。
特に大きな持病もなく、心臓は少し怪しくなりつつあるけれどまだ治療する段階ではないので、定期的にエコーで見ましょうねって状況だった。
年明けに病院へ行く予定だった。
全体的な健康診断もする予定だった。
でも死んでしまった。もし12月中に行っていれば、何か変わっていたのだろうか。
悔やんでも悔やみきれない。
わからないけれど、恐らく、心臓が急に止まったのだろう思う死に方だった。
普通に元気だった。ご飯も全部食べていた。おやつも貰った。立ち上がって喜んでいた。
撫でられてご機嫌だった。
180センチ程の高さがあるキャットタワーの一番上に駆け上り、そこでいつものように横になって寝た。
朝、そのままの姿で死んでいた。
たぶん、苦しくなかったと思う。寝ているようにしか見えない穏やかない顔だったから。
でも、なんの心の準備もさせて貰えなかった飼い主達は、とても苦しい。
いつかは先に死ぬのはわかってた。その覚悟はあった。でも今日じゃないだろ。
もっと段階を踏むと思ってたんだ。
病院で、あー心臓悪くなってきてますね、治療始めましょうって言われてさ、お薬貰ってさ、お薬飲ますのむずかしーとか言ってさ、定期的に検査して現状維持ですねとか悪化してるからお薬増やしましょうねとか言われてさ。
そういう未来があると思ってたんだ。
でも苦しいのは本当に可哀想だから、どっちが彼にとって良かったのかはわからないや。
今は、凍結しないように水道の水抜きをした冷蔵庫のように寒い部屋に彼を寝かせて、その横で飼い主は毛布にくるまって尿意を我慢しながらこれを書いている。
左に手を伸ばして彼の大好きだった首筋を撫でれば、生前と全く変わらないふわふわの感触がそこにある。
これが失い難くて失い難くて。
燃やしてたまるか精神が発動してしまいペット火葬業者に全く連絡できないでいる。
寝ているようにしか見えなくて、今にも起き上がって私を見つめてくれそうで。無理。やだ。拒否。
あの、火葬の、扉を閉めるあの瞬間。
骨になってしまえば、多少の諦めがつくだろうというのもわかってるんだけど。なかなかね。
もうちょっとここにいてほしいな。ワガママかな。さみーよ!ふざけんなって思ってるかな。
彼が最後に食べたご飯。そのお皿。数粒のフードが残ったそのお皿も片付けられずにいる
給水機の水も捨てられない
ついこないだ、大容量の猫砂を買ったばかりだった。
おやつも残ってる。
猫草、枯れてきたから、新しく種を撒いたばかりだった。
まだ数センチしか伸びてないよ。あと数日経ってしっかり成長したら、
ほら新しい草だよ〜ってあげる予定だった。
そしたらきっと喜んでムシャムシャ食べて、その後毛玉を吐いただろうな。
ペット可の物件が少なくて、なんか変な形の狭いアパートしか借りれなかったから、
ペット可の一軒家を探してたんだ。
階段があったら、喜ぶかなと思って
全く使わせてくれなかった。
まだまだ未来が続くんだとばかり思ってた。
さっき後悔してもしきれないって書いたけど、後悔してない事もある。
めちゃめちゃ愛したし、めちゃめちゃ愛された。
彼は飼い主が大大大好きなマザコンボーイだった。
私も幸せだった。
本当に優しい猫だった。
私と彼は毎日毎日、愛のキャッチボールをし合って楽しく幸せにふわふわと暮らしていたのに。
突然、わたしにボールを投げてくれたきり、もう二度と受け取ってくれなくなっちゃった。
投げる宛のなくなったボールを手に、私はひとり途方に暮れている。
彼はこれからどこに行くんだろう。
お母さん大好きマザコン子供部屋おじさんだった彼が、たったひとりで、どこかに行けるものなのかしら。
いつもみたいに、お気に入りの白い猫じゃらしを咥えて、高い声で「んんん!」って言いながら、行っちゃうんだろうな。
向こうがあんまり楽しそうだったとしても、頼むから一度くらいは振り返ってよ。寂しいよ。
この文章を読んでくれた方、ぜひ、心の中で彼の旅路を祈っていただけたら幸です。
ついでに、私が火葬業者に連絡できるようにも祈ってください…。
本当に大好きだよ。
いってらっしゃい。
またね。
特大の愛を込めてあなたへ。
今アラサーなんだけど、なんか最近、世界を遠くまで見渡せるようになった感覚がある。
見えなかったものも視界に入るようになったって言うか、独立して認識できなかったような背景の一部が一個体として存在しているって認識したかのような、なんて言えばいいのか、
道路の「トマレ」の白文字が車に乗るようになってから目に入るようになった感じっていうの、
そういう感覚が全てにおいてある。
あとちょっと驚きなのは多分それは他の人にはずっと前から見えてた景色なんだってことなんだ。
わたしは昔からちょっと浮いてるっていうかぼんやりしてる子だった。
みんなが指示されたことをチャキチャキ進めていったり、自分のやりたいことを主張したり行動したりするのをボーッと見てるだけだった。
その頃はあらゆることが自分の世界で起きている出来事だと思えなくて、自己主張したり行動したりすることで干渉できるとはっきり理解できてなくて、この世界で思い通りにできるものはわたしの頭の中にしかなかった。だから頭の中では活発だったけど当然体は動いてないからボーッとしてたんだよね。
でもさ、社会人を数年やってきて、やっぱり自分で考えて選択して、それを行動に写すってのがどうしても必要になる訳よ。
最初はどうしていいかとにかく分からなくて聞きまくってたけど、とにかくやれ!って言われたりして、とりあえず他人の真似してやってみたりしてるうち、そのうち自分の思考に合わせて行動してみたりして、それでわたしの行動で相手や、物体や、状況が変わって変化が生まれて。
最近ようやく、ああ、この世界には本当にいろんなものがあって、わたしはずっと背景だと思っていたものの中にいたんだなって実感が湧いてきた。
それでさ、ふとモンシロチョウのことを思い出したんだよね。(急でしょ?まあ聞いてよ)
そこにモンシロチョウが生まれてから蝶になるまでが、しんちゃんが蝶になりきって漫画で描かれてたの。
モンシロチョウは卵から生まれてすぐ、自分を覆ってた殻をムシャムシャ食べて、そこから葉っぱを食べたりして成長していくんだって。
なんかわたし、ずっと殻を食べてたんだなって思った。
生まれてすぐ目の前にあった自分の殻を食べ始めて、一生懸命食べてる間視界いっぱいの殻が世界だと思い込んでて、当然そんなんことはないんだけど、分かってても殻の中から出てみようとしてなかった。
わたしがそうしている間、他の子はとっくに殻なんて食べ終わってて、自分の這っている葉っぱを齧ってみて食べられるんだとか、空は青いんだとか、この世界にはどうしようもないような天敵がいることとか、それをうまくやり過ごす方法とか、そういうのをとっくに学んだり気づいたりしてたんだと思う。
わたしは今やっと殻を食べ終えたところで、開けた視界の果てがが永遠に見当たらないことにちょっと戸惑って、試しに齧った葉っぱが瑞々しいことに気付いたあたりなんだと思う。
蝶になった人から見たら、未だ青虫のわたしはちょっと哀れに思えるのかもしれないけど、この世界にはまだまだ知らないことがあって、わたしはこれから色んなことを知れるし何にでもなれることに気づけたのだから嬉しいんだ。
来ないまま終わってたと思ってた青春が実はこれから先に用意されていたと気付いた、みたいな。
とりあえず、なんとなく生き延びててよかったよ。
みんなはっきり言わないから言っておくと結婚してから太るようなデブとは離婚した方がいい
なぜならデブというのは体質ではなくて怠惰な精神性・思考の表れだから
デブになると健康上の問題が出ることは分かりきっているし、容姿としてダメなことは分かりきっていて
海に行くだのプールに行くだの温泉に行くだので困ることは間違い無いのに
それでも太ってしまうやつは厚顔無恥・自己中心的で怠惰なブタだから結婚生活を続ける必要なんて無い
そういうやつは決まって「痩せるのは難しい」と言うがそんなことは一切無い
痩せるためには運動する必要はなくて、ただただ食べる量を減らせば良い
「痩せるのは難しい」とか言ってるのは「楽して痩せるのは難しい」であって、そもそも痩せるために頑張ろうなどと思ってない(だから太る)
おやつを食ってご飯も食べて夜食も食べてるから太るのであって原因ははっきりしている
体質的・遺伝的に太ってる奴は成人したら太ってるし、なんなら小学校や中学ぐらいからずっと太ってて、それでいて健康だ
後天的にデブになってるやつは社会人になって自分の好きなようにできるようになったときに
自身を律すること無く計画性も無いし将来予見もできずにムシャムシャと美味しいものを口に入れてるブタなので
性生活だけでなく例えば将来の貯蓄であったりマイホームであったり介護だったりで揉めに揉める
子供が出来てから離婚するといろいろ大変なので結婚して太り始めたらさっさと別れて次の女を捜した方が良い
そうしないと俺みたいに毎晩目を閉じてAV女優を思い浮かべながら子作りする羽目になるぞ
なんでも、火を見ると「影羅(エイラ)」という魔族の人格が現れるそうで、真っ暗な部屋の中で唐突にマッチを擦っては、
「……ヘヘ、久しぶりに外に出られた。この小娘は意思が強すぎて困るぜ(笑」
などと乱暴な口調で叫んだりしていた。
ある日、夕食の時に「影羅」が出たことがある。
突然おかずの春巻きを手掴みでムシャムシャと食べ始めて、「久々の飯だぜ(笑」と言った。
食べ物関係のジョークを一切許さない母が、影羅の頭にゲンコツ振り落とすと影羅は涙目になっておとなしくなった。
そして別人格とやらは、妹が高校に入った辺りでパタリと出なくなった。
最近になって、大学生になった妹にその頃のことを尋ねたら、クッションに顔を埋めて、手足をバタバタさせてのた打ち回っていた。
国木田独歩氏の『源おじ』は、妻を二人目の出産で失い、残された子を水難で失い、一人で舟渡しを営みつつ老境に至るところを、ある乞食の子との縁があり、我が子と思うように世話するも、乞食側からはさしたる恩も情も返されず、夢に出る内心では妻や実子に対する後ろめたさを抱えつつ、ついには乞食に去られ、舟も嵐で失い、生活にも仕事にも支えを失い、首を吊って死ぬという、救いのない話になっている。
だが、まさにこれこそ自然主義文学という感じもした。運命や宿命からはみ出ようとする人間の意志を容赦なく飲み込む決定論的世界観を感じさせる。
夏目漱石氏が言うところの「理想」を坂口安吾氏は「モラル」と呼んでいたが、それがないことに対する解釈の違いが興味深い。世間の潮流の移ろいに伴い、自然主義も興亡していったのであろう。
実はこれこれで、あなたの金剛石を弁償するため、こんな無理をして、その無理が祟って、今でもこの通りだと、
逐一を述べ立てると先方の女は笑いながら、あの金剛石は練物ですよと云ったそうです。
それでおしまいです。
最後の一句は大に振ったもので、定めてモーパッサン氏の大得意なところと思われます。
軽薄な巴里の社会の真相はさもこうあるだろう穿ち得て妙だと手を拍ちたくなるかも知れません。
そこがこの作の理想のあるところで、そこがこの作の不愉快なところであります。
よくせきの場合だから細君が虚栄心を折って、田舎育ちの山出し女とまで成り下がって、何年の間か苦心の末、身に釣り合わぬ借金を奇麗に返したのは立派な心がけで立派な行動であるからして、
もしモーパッサン氏に一点の道義的同情があるならば、少くともこの細君の心行きを活かしてやらなければすまない訳でありましょう。
ところが奥さんのせっかくの丹精がいっこう活きておりません。
積極的にと云うと言い過ぎるかも知れぬけれども、暗に人から瞞されて、働かないでもすんだところを、無理に馬鹿気た働きをした事になっているから、
奥さんの実着な勤勉は、精神的にも、物質的にも何らの報酬をモーパッサン氏もしくは読者から得る事ができないようになってしまいます。
同情を表してやりたくても馬鹿気ているから、表されないのです。
それと云うのは最後の一句があって、作者が妙に穿った軽薄な落ちを作ったからであります。
この一句のために、モーパッサン氏は徳義心に富める天下の読者をして、適当なる目的物に同情を表する事ができないようにしてしまいました。
同情を表すべき善行をかきながら、同情を表してはならぬと禁じたのがこの作であります。
愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐な少女が、
森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。
私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、
然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。
その余白の中にくりひろげられ、私の目に沁みる風景は、可憐な少女がただ狼にムシャムシャ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、
然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、
何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。
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つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成立たないように思われるけれども、
我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、
そこでは、モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ、と。
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