はてなキーワード: 風景とは
この手の話、フリーランスになってあまりにも多くて、もうやりたくないんですけど、
どうしようもないんで電話、メールで何度も催促、法的に訴えてもいいけど、手間とか金で躊躇しちゃいますよね…
やっぱり、お客がいないって言うけど、客なんてどこにでもいるじゃないか、ほら、ネットにこんなに案件がいっぱいある、
は駄目なんですよ、大手を円満退社して、大手から仕事を引き継ぐとか、
でも、そのタイミングで客も一緒に引き連れたりすると、昔いましたよね、
元野村證券で、反社の金を運用して損した穴を一般客の金で埋めて、その客が怒って土に埋められた人が…😟
悪いことは言わない、普通にサラリーマンできる人は続けるべきだし、それが幸せですよ
精神疾患があるとか、身体障害があるとか、仕方なくやると、こういう酷い目にあう、客は他人の足元を見てくるんで…😟
身体障害といえば、敬愛する水木しげる大先生ですが、あの方もそうですよね
講談社で賞を取るまで、足元見られてばかりで、ガロからちょっと明るくなって、鬼太郎ホームランですよ…、流石です、大先生…😟
水木先生は、矢口氏のあまりの絵の上手さに、是非漫画家になりなさい!と言ったらしいけど、
自伝漫画の方だと、地方の銀行を辞めてきた?!もったいない、漫画家なんてやめなさい!みたいなこと言ってた気がするんだけど、
水木先生の自伝漫画とか特に、面白おかしくするために脚色されてたり、悲惨なシーンもなぜか、
矢口先生の供述の方が事実なんだろうけど、自伝漫画の方は、水木先生の心の声だったりしたんじゃないかなあ…😟
9で割れ!!とか見ると、矢口高雄先生はサラリーマンとしてもちゃんとしてらっしゃる、自分みたいな駄目人間とは大違い
妻も銀行員辞めて漫画家になるのを応援してたみたいだし、周囲にも恵まれてる、暖かい
矢口キャラは今でも好きだけど、キャラが安定しなくても、最初からスゲーなと思わされるのは、風景、自然描写、
岩とか、海とか、子供の頃は正直田舎臭いなあ、って、そりゃ当然だし、興味がガンダムとかそういうのだったからだけど、
そういえば、矢口高雄先生のシーラカンス漫画は捨てられなくて、まだ持ってますよ
子供の頃に買ってもらって、ちょっとエッチなシーンもあるという…😟
何の話してたんだっけ、あー、売掛金回収はねえ、結局悪質な客が悪いので、そういう人の仕事は受けない、
受けるぐらいなら餓死する気持ちで生きていく、か、執拗に催促するしかないですね…😟
水木しげる大先生の自伝、ゲゲゲの家計簿とか、ああいうのでもいいけど、
大成功する前の水木先生は催促ばかりしてるし、結婚した妻にも催促に行かせて、
流石に先生も妻に酷いことをさせたと思うシーンがあったはず…😟
ハプバーいきまくっている
かいている私は女です。
先に結論を出すと
・隣でなにやってようが風景のようになる
酒ばっかり飲んでいるか
その人の誕生祭なるイベントがあればそれにむらがる女性がやってきます
なので性を持て余した男性そっちのけで
女子はここぞとばかりに貢いでいる様子がご覧いただけるかと思います
そしたら
それ以上は語らず横顔も何もかも美しい。
どのような経緯でパートナー化したのかと思うとそこの話もききたくなるが
もちろんそこまでは踏み込まない。
他のはぷばーでも
この二人がこのような場所で軽快に性を楽しんでいると思うと
下着姿で歩き回っていた
その方にも「結婚はしているの?」と声をかけたら
やばいな。
わんさかと溢れている
ビギナーズラックだと痛感したのは
濃いめの顔のお兄さん
私が店に入ったあとに入店してきた方
しかしカウンターにいるため店員だったら落ち込むなと思いながら
酔いの力で私も思わず声をかけた
「店員さんですか?」
「いや、常連です」
「もうここ長いので・・・」
二人になり小さなチャンスをうかがっていた
「お兄さんかっこいいですね、めっちゃ好みです」と
これで試していたらしい
「この人はMでもイケる」と
あとから聞いた話だが、後頭部を優しくなでて
髪を優しく掴んで抵抗なければM
そのあとに嫌な顔したら「Mではない?」の判断のひとつだそうだ
私はこの後頭部を優しくつかむにまんまとクリアして
(相手はもともとSだそうです)
人生で初めてだったので本気で焦った、このままでは沼る。
その瞬間だけ絶対好きだった。
適確に急所を狙い動きと手の鮮やかさ、
そのあと初体験をまたした、
手でされているときに
その時に快感の波がぐっと上昇したのを感じた
これ以降、この「子宮を押さえる」が一般常識であると学びました
腰の動かし方が尋常ではなかった
私の中の上をなぞり上げるように展開されている動き
『この人は女をイカせるための動きをしている』
人生でここまで女性のためのセックスをしてくれる人がいるのか?と
私の膣が疑った。
ナチュラルに松葉崩しの体勢になり
これ以上は私が壊れ始めると断点して私からリタイアを申し出た。
もう一人の方は別の場所で。
私が来たしばらくした後に見えた方
外営業の暇がてらきたのかな?
整いすぎた髪型と体格が印象的だった
私もこの場所では初めてだったので
隣の席に座って数回言葉を交わして
「やるなら絶対上手い人がいい!」
「どうしてほしい?」と耳元でオーダーを聞いてくれた
「Sっぽいのが好きです」と伝えるとそれで了承してしまった
部屋に入った瞬間、
片手で押し倒される
もうこれに私の性癖がまた追加されました。
『もう私はMだ、Mでいい』と心で念じました。
ずっと手でやってくれて
「手、疲れないの?」と聞いても
手でしばらくしいたら
「いれて欲しいの?」と笑顔とのギャップの下半身がずっとこちらを
見ていました
「もう、こんなんになっちゃったよ」
そのあと優しくリードしてくれました
途中で私の口を手で押えてくれるという
また新たな私のM性癖を開花させるような予告ない動きに
完全にうっとり状態に(酸欠?)
首絞めも一回してくれましたが
さすがにこれはわたしの中ではSすぎて無理でした
(失神プレイが好きな方もいるそうです)
そのあとは相手がイって終わりましたが
「私がイケなくてごめんね」っといったら
大丈夫だよ」と
とことん優しく接してくれ
もっぱら穏やかな会話調さえも学びになった瞬間だった。
私もこのような優しく接して瞬間を楽しむような
あ、ちなみに二人ともパイパ●でしたよ
(私もかなり泥酔していたので(なんせ女性は永遠に酒はタダ))
女性の動きがとにかく私の中で衝撃的だった
とにかく「エロい」
具体的にいうと
目が潤んでいる
くねくねしている
ずっと見つめてくる、視線が外れない
(ロックオンがすごい)
え・・・・
体型は太っているというかむっちりしていて
絶対肌もやわらかそう(触ってないけど)
と衝撃であった
その女性に
「なんでそんなにエロいんですか?」と聞いた
「ゆっくり話している」と
非常に勉強になる話をきけて嬉しくなる私!
男性をさくっと連れてきて
ずっとチューしたり胸さわられていました
生肌が圧倒的にエロさを出していました
というか近くにいたら絶対この人に取られるんだろうな。
あ、あれか
と私は目の前のいちゃついている風景に
また新鮮な学びを得ました。
「それ」はもう見えていますよね?
もはや「痴女」
顔は化粧っけのない一重の女性
性に対しての余裕の貫禄・・・・
女性としての余裕さ
一体これはなんなんだ??
これはなんだ?
ここでは書き表せられない、強い妖艶さ。
また会えたら話を聴きたいな。
・隣でなにやってようが風景のようになる
そこらへんであえぎ声が聞こえていて
そこらへんで生のプレイが見れるので
思うのですが
多少見られても気にしないし
見てもダレも怒らない
その場でいちゃつこうが
その場で股舐められようが全然気にしない風景がここにはありました
その隣で
そこで誘われ、そこで誘い、そこでやんわりと
断るのも・断れるのも普通
はじめてこの社交場に来たときはびっくりしたけど
慣れってこわいですね。数回で慣れました。
縛られてあえいでいる女性をみて
すごい世界がそれが
やりたくてもやらなくても
見るだけでもOk
これが大人の遊び場ですね
また仕事が落ち着いたら行きたいです。
結論としては
あとタダ酒飲みたい、飲みたがりの一人の女性は
はぷばーオススメです。
別にやらなくてもいい。あわよくばどうにかなればいい。
バレないようにすればいいと思います。
一期一会を推奨しているので楽です。
単女はとりあえずタダ飲みにくればいい。
また何かあったら書きますね
最近、「外国人の親を持つ子どもの出生が過去最多を更新した」というニュースを見た。これを聞いて「ついに来たか」と思った人と、「別にいいじゃん」と思った人のあいだで、まるで温度差が違う。どちらが正しいかはわからないけど、確実に言えるのは、「もう昔の日本ではない」ということだ。
コンビニで働く外国人は当たり前になった。駅のアナウンスには英語と中国語が増え、スーパーにはハラール対応の棚がある。観光地だけでなく、地方の町でも外国人の子どもが増えている。そういう変化を「国際化」と呼ぶ人もいれば、「もう戻れない」と言う人もいる。でも、実際には誰もが少しずつその“変化”に慣らされている。
たとえば、小学校で外国ルーツの子がクラスに数人いることを、子どもたちはもう特別と思わない。だけど大人のほうが「日本語がまだうまくないらしい」「宗教が違うらしい」とひそひそ話す。社会の変化を受け入れるのはいつも子どもで、拒むのは大人だ。
移民政策が明確に議論されないまま、“現実としての多国籍化”だけが進む国。政治家は票にならない話を避け、メディアは賛否両論を並べて終わる。だから街中で「なんか外国人が増えたよね」と言う人の裏には、説明されなかった不安が溜まっていく。
でも、この「違う人たちが増えること」そのものが、本当はこの国の生き延びる道でもある。出生率は下がり続け、労働人口は減る一方。つまり、移民がいなければ経済も医療も教育ももう維持できない。けれど“論理的に正しい”ことが、“感情的に受け入れられる”とは限らない。
結局のところ、問題は「誰が日本人なのか」ではなく、「誰を日本に受け入れられるのか」だと思う。国籍や宗教の話ではなく、この国に住む人たちが、互いに“同じ風景”を共有できるかどうか。その輪郭が曖昧になっていくのを、どこかで怖いと感じている。
もしかしたら、何十年後かには「純日本人」という言葉自体が時代遅れになるかもしれない。でもそのとき、私たちは「失った」と思うのか、「ようやく変われた」と思うのか。いまはまだ、その分かれ道の途中にいる。
・悲しみと怒り
39点くらい。
本当に申し訳ないんだけどこの手法、日本の一般的な感覚の観客からすると「ボラギノール」すぎるんだよね。
展開としては田舎のいじめ死事件を取材する女性記者。しらばっくれる担任、3人のいじめ実行犯。もしかして他殺では。凶器を発見する女性記者。女性記者も昔いじめられており復讐を決意する。おわり。
主犯格の父親が警察署長で事件を握りつぶすという「5億回は見たやつ」でウンザリ。
記者が主人公ということで「こんな何でもない日常の場所が不幸につながっているんですよ」という事件関連場所の風景写真のキリトリはある程度効果的に機能していたと思うが、後半の復讐を決意する部分が急カーブ切ったな~って感じで逆に作品を"浅く"してると感じた。
24点くらい。
何が起こったんやと思って見ているとどうやら女は過去に元カレの置いていった犬を飼っていたらしく、おばさんはパン屋の店員で犬も懐いていたらしい。おばさんが踏切前を挟んで手を振ったところ、犬が走り出し女はリードを離してしまい、アワレバカ犬は電車に轢かれて死んでしまったとさ。
おばさんは罪悪感を抱え謝罪しようとするも女は拒否を続けていたが女は拒否してた。
女が謝罪を拒否し続けていた理由は、女は「元カレの犬」を内心では憎んでおり「敢えて」離してしまったのではないかと悩んでいたからで。実際犬が轢かれるのを見ている女の顔は笑っているのか泣いているのかよくわからない顔をしていたのだった!
おばさんは女を優しく抱きしめて話は終わる。
うん、女の笑い泣きのロングショットはよかったよ。この演出はよかった。人の心の機微ってやつがよく撮れてた。
でもさぁ!こいつの坊主袈裟のせいでおばさんは犬殺しの罪悪感に苛まれ、電車は止まり、清掃員は肉塊を掃除したんやろ。それはさぁ、さすがに倫理的に看過できんよ。
あと、めっちゃ細かいことだけど電車が通ってる踏切前で携帯で電話しても何も聞こえんよ。
まぁ細かい設定詰めて行ったら撮れなくなっちゃうんだろうから撮りたいワンテーマで「ええいああ!」で撮るしかないんだろうけど、熟考って大事だと思う。
活字本の中で、私が一番読んでるのは小説だけど一番値段を安く見積もってるのも小説だなぁと思う
ページ数が500ページ近い、500ページ超えなんだから、物価も上がってるんだからハードカバー2000円超えは当たり前なのよ
小説の魅力は図書館で無料で読めること、漫画に比べたら値段が安いこと、描写が丁寧なことだと思う
この間小説を立て続けに読んでからとある漫画を読んだら漫画の物語の展開があまりにも早くてビビってしまった
漫画を読みながら「そりゃ、そーだ。小説みたいに風景描写、人物の造形描写、丁寧な心理描写、そんなの漫画でゆっくりゆっくりやってられないよ」と心の中で突っ込んだ
子供が4人いるお母さんが家の中のあらゆる場所、お風呂にもトイレにも本を置いて少しでも時間があれば本を貪り読んでると言っていた。本は図書館で大量に借りていると。
子供が4人もいたら、いちいち世の中の話題の本をお金出して買ってられないよなと思う
昨日気になる小説、新書サイズの本で古本がどうしても欲しくなって調べてみたら1800円くらいして買うのをやめてしまった。古本で、228ページで、1800円は高いなぁと感じてしまった
まあ、200ページ超えで1800円
欲しいと思った192ページの同人小説本が1900円だった。1ページが約10円の報酬か
本当に詰んでいる気分だが、本当にそうなのか教えて欲しいんだ。
*
家庭不和のよくばりセットのなかで育つ
高校卒業後はそのまま就職するも正社員で手取り10万、地下鉄の駅で座り込むレベルの鬱で退職
その後同人R18ゲーのサントラ担当で100万円くらい稼げたり、障害年金(月あたり7万円)とかTV音楽の印税月3万とかでなんとか生活
2024年(去年)12月に山梨移住。monoとかゆるキャン△で出てきた風景好きでね
で、2022年の退職から今年でフリー3年目、年金含めて年収100~150万で家賃2.6万。
障害年金はあと2年半くらい。
しょっちゅう身体ぶつけるくらい空間把握できんので、怖すぎて車の免許はとってない。山梨でだぜ?
あと低血糖発作あるから仕事中も糖分補給させてくれ、とか、免疫弱いから衛生的にアレな仕事出来ないとか条件悪し!
エイズなんかってくらいずっと身体おかしい。検査したけど陰性だった。
免疫弱いって自覚して男に身体売るサポやめた(売る度に40℃の熱出してたアホ)
状況としてはそんな感じ。
*
本題だが
小手先のDTMとかで小銭稼いで凌いできたけど、依頼ないなってですね
本当に将来に繋がらんし音楽のセンスはない(アニソン作家事務所の社長に言われた+もち審査落とされた)、なので音楽は捨てる一択で。。。
これから何をしよう?という。
免許ないから職種絞られるし、頭悪くて工場の派遣も2週間で辞めた。もうね、機械の操作がわけわからなくて。
ChatGPT使ってPHPコード書いてクマ出没情報共有BBSとか立ち上げたけど、これも金にならんし
かといってエンジニアとしてのスキルがあるわけでもないし、数学できんし、なにも向いてない
たぶんこの文章も支離滅裂なんだろうな(精神科で糖質疑惑も新たに浮上してる)
ほんと詰んでるように感じてるけど、世の中もっと苦労してる人いっぱいいるし
興味あることはいっぱいあるけど、「大卒以上」「経験必須」「普通自動車免許必須」とかばっかじゃないか
うわ~仕事どうしよう、スーパーのパート応募したから、受かったらまずは普通の社会人見習いするぞ~
でも適性検査の引き算のひっ算(小学校レベル)、1問も答えられなかった~~足し算も全部間違えたと思う
助けて~~~社会の重荷になりたくないよ~~
8月、中国地方への旅行ついでに瀬戸内芸術祭開催中だった直島にいった。
高松からのフェリーに乗った時予想以上の人の多さに驚いた覚えがある。島に到着するとそこには大体の人がイメージする離島の風景に芸術祭用と思われるオブジェが点々としていた。
私はかなりの田舎出身だったが、それでも地元の方が栄えているなと思うほどのどかな場所だった。私が回った範囲に日常生活で利用されていそうな商店は見当たらず、コンビニが一個あるくらい。ほかは飲食店と、観光客向けであろうお店、そして3つほどきれいな美術館があった。
部外者が言うのもおかしな話だが、観光客に向けて作られている街という印象だった。そしてそこで生活している人たちの日常までも鑑賞の対象になっているように思えてきた。
社会人になってからというもの、休みがあればふらりと国内を歩き回っている。
北は稚内から南は石垣島まで、風景や食べ物もそうだが何より”その土地の空気”を感じるのが好きだ。
ただ、どんなに楽しい旅でも帰りになると少しだけ寂しくなる。
そんな時には家で待っているうちの猫のことを思い出す。
風に揺れる猫じゃらしが目に入った。
穂の先が金色に光り、ふわふわと柔らかそうで、まるで猫のしっぽみたいだった。
これをおみやげにするのはどうだろう?と、その時ふと思いついたのが事の始まりだった。
行く先々で土手や空き地を覗き込み、よさげな猫じゃらしを摘んでは新聞紙に包んで持ち帰る。
家に帰れば、うちの猫が目を輝かせて待っている。
それらを差し出せば、彼女はまるで批評家のように品定めを始めるのだ。
そこで今回は、うちの猫が選ぶ「全国猫じゃらしトップ10」(母数1)を発表しようと思う!
ややゴワついていて穂が太め。最初は好奇心で噛むが、すぐに飽きた顔を見せたためこの評価。
評価:★★☆☆☆
柔らかいけど、乾燥して粉っぽい。匂いは好みのようで鼻をスンスンさせている時間が長かった。
評価:★★★☆☆
評価:★★★☆☆
評価:★★★☆☆
評価:★★★★☆
穂が長くて風の抵抗が絶妙。うちの猫も喜んでおり食いつきが良かった。
評価:★★★★☆
評価:★★★★☆
潮風で少し硬くなっているが、跳ね返りが楽しいらしい。うちの猫のお気に入り。
評価:★★★★☆
評価:★★★★★
圧倒的No.1。
うちの猫、20分ノンストップで跳び続け、最終的に咥えたまま寝た。
評価:★★★★★+
猫じゃらしをおみやげにしていると、旅が少し違って見えてくる。
駅前の土手や駐車場の隅にも、思い出の種があるような気がしてくる。
私にとっての旅の思い出は、風景でもグルメでもなく、家に帰って猫と共有するその一瞬だ。
猫じゃらしを揺らすたびに、旅の匂いが部屋を満たす。
旅の思い出は、あの一跳びの中に詰まっているのかもしれない。
ジェミニと話し合っていたんだけど、東北は、首都圏に近い千葉や埼玉、平地が多い北海道という強力なライバルに囲まれている。
そして、山が多くデバフが多い。どんな施設にしろ東北に作るメリットがない。それなら千葉に作るわとか、それなら北海道に作るわとなってしまう。
これを何とかするアイディアがあるとしたら、大胆な規制緩和を行いカジノを作ることだろうと。
何もないネバダの砂漠がギャンブルを元に娯楽の町に進化したラスベガスとか、お金持ちの遊園地を作ったドバイみたいにやろうと。
そのために土地をカジノ開発業者に売ってカジノやホテルとかを大々的に開発させる。
ひたすら自由にやらせて、お金持ちと大人の遊園地みたいに好き勝手開発させる。
デバフであった険しい山は、ホテルの窓から見える映える風景になれるかもしれない。
これって大国に囲まれた小国が取る理想的な戦略の一つであるタックスヘイブン政策とかと似てる。
千葉や埼玉、北海道という強力なライバルに囲まれている土地なんだから、それと似たような大胆な規制緩和を行って、あとは民間主導で好き勝手開発させるというのがいいんじゃないかと思う。
俺も作ってみた
ポエム風の散文を書いて下さい。テーマは、都会のOLが虚無の日常を繰り返す、虚しさと絶望、風景も食事も感受性を喪失する日々、そのことに自覚もある、自覚があることも辛い、朝の電車で感情の行き場が溢れ泣き出してしまう。
【修正指示1】感受性を失った自分を自覚している、のセンテンスは削除。行間に織り込んで欲しい、壊れたいと願う小さな衝動は虚無に対する諦めを表現するに変更
出勤電車。
吊り革の列、スマホの光、無表情の群れ。
光が義務のように私の頬を照らす。
どれも昨日と同じ配置、同じ温度。
昼休み。
味はしない、食感だけが舌に残る。
夜、ビルの灯りが順に消える。
窓に映る自分は影のよう。
望むでもなく、抗うでもなく、
滲むように生き延びていく。
朝。
再び電車。
吊り革を握る手が震え、視界が滲む。
涙は理由を持たない。
誰も気づかない。気づいても、見ない。
壊れたいと思う。
けれど、それは救いではなく諦めだ。
虚無の中で、壊れることすら意味を失っていく。
それでも電車は走り、朝はまたやってくる。
私は立ち尽くし、
早炊きとか予約とかはわかるんだが、メニューの中に「調理」があるのが驚いた。
最近は炊飯器でなんでも作ると聞いたことはあったけどあくまで裏技的なもので、公式にメーカーがそういうモードをつけてるとは思わなかった。
さっそく米も買って炊いてみることにした。
そうそう、こんなだったよなと思いながらずいぶん高騰した米を丁寧に研いでひたひたに水を入れボタンを押す。
ピピピ・・と音が鳴ったらかきまぜ蒸らして少し待つ。しゃもじで茶碗にご飯をよそいながら、ふいに涙がこぼれてしまった。
俺の家は幼少の頃から親がネグレクト気味でなかなか家に帰ってこないことが多かった。
子供の面倒を見ないというだけで、お金は適当に渡されていたし、俺自身はそれほど辛い思いはしてなかった。
ただ下の妹は甘えん坊で、親が帰ってこないことが寂しいとよく泣いていた。
話し相手は俺しかしないから妹はずっと俺にくっついていた。俺は妹の面倒を見るのはすごく面倒で嫌だった。
一緒に遊んでも全然楽しくないし、だから無視することも多かったんだが、そうすると妹は寂しくてずっとグズってしまうのだった。
外で友達と遊ぶときも妹はくっついてくるので邪魔だったが、一人にするのも怖いので仕方なかった。
親は帰ってきたとしても遅い時間だったから、夕飯はいつも妹と二人で食べていた。
毎日朝と夕方にご飯を炊いて、自分の分と妹の分をお茶碗によそって、ほら、とテーブルに並べていた。
炊飯器の蓋を開けたときのあたたかい湯気に包まれる瞬間だけ、俺は妙に寂しい気持ちになっていたのを思い出した。
すぐに蓋をしめればその一瞬の寂しさはもう忘れる。気を抜いたら妹が味噌汁をこぼしたりして危ないからだ。
そんなことが一気に思い出されて、思わず涙がこぼれてしまっていた。
俺にとって家族での食卓の風景というのは、妹と二人きりで食べてた食事だ。
おかずなんていつも決まってるし炒め物とかそんなのしかできなかった。
写真のことは完全に素人だが、どの写真も「いい…」としか言いようがない。
とりあえずflickrを見てほしい。膨大な枚数が丁寧にソートされており、見やすさからも本人の仕事の几帳面さが窺える。
https://www.flickr.com/people/mikkagashi/
三日画師さんを知ったのは通っていた大学の最寄り駅で大規模な再開発があり、その頃の風景が失われてしまったのがきっかけだった。
当時ガラケーだったのもあり写真が手元に全く無いことに気が付き、せめて気持ちだけでもと検索したところでたまたま三日画師さんのアルバムを見つけた。
しかもまさに自分が通っていた時代の写真が大量にアップされていたのも驚いた。
その後flickrにアップされている写真はほぼ閲覧した。どの写真も凝りに凝った一枚というよりも、そこに住んでいる人の目に入っているであろう風景がありのまま撮影されている。三日画師さんとは生活エリアが近いようで、いくらでも見たことがある光景が出てくる(そしてもう見れない。ほとんど何かしらの再開発が入っているから)。
残念ながら三日画師さんのアカウントは長らく更新がない。twitterのアカウントも検査入院の報告で止まっている。それでもこの誰かの心象風景ときっと重なるであろう貴重な写真がインターネットに埋もれていってしまうのが惜しいので、ひっそりとここにアップしておきたい。
最近、ファンタジー小説の話をすると、だいたいハリー・ポッターか指輪物語の名前が出てくる。
それしか知らないのか?
確かにどっちも名作だ。でも、ファンタジーの世界はもっと広くて深い。
お前らが知らない傑作が山ほどある。
俺は20年以上ファンタジーを読み続けてきた。和洋問わず、王道からマイナーまで、読破した数は500冊を超える。
【海外編】
これは魔法使いゲドの成長を描いた物語だが、ただの冒険譚じゃない。魔法には真の名前が必要で、名前を知ることは相手を支配することだという世界観が深い。
第一巻『影との戦い』で、ゲドが自分の影と対峙するシーンは、人生で何度も読み返してる。自分の内面と向き合うことの恐ろしさと大切さを教えてくれる。
指輪物語と並んで世界三大ファンタジーと言われる所以がわかる。
これを読まずにファンタジーを語るな。
伝説の秘術士クォートが、自分の人生を三日間かけて語る物語。現在刊行されてるのは第一部と第二部だけで、第三部が出ないことで有名になってるが、それでも読む価値がある。
魔法の体系が論理的で、主人公の成長過程が丁寧。そして文章が美しい。
「沈黙には三種類ある」という冒頭の一文から、もう世界に引き込まれる。
火山灰が降り続ける世界で、神のような支配王が千年統治している。その世界で起こる革命の物語。
この作品の何が凄いって、魔法のシステムが斬新なんだ。金属を体内で燃やすことで不思議な能力を発現させる。そのルールが明確で、バトルシーンの説得力が半端ない。
ヒロインのヴィンがめちゃくちゃカッコいい。弱かった少女が、最強の戦士になっていく過程が爽快だ。
古い神々ってのは、オーディンとかアヌビスとか、移民が持ち込んだ神話の神々。新しい神々ってのは、メディアとかテクノロジーとか、現代社会が生み出した概念。
主人公シャドウの旅を通じて、アメリカという国の成り立ちと、信仰の意味を考えさせられる。ファンタジーでありながら、めちゃくちゃ現代的な作品だ。
【国内編】
日本の女子高生が、異世界に連れ去られて王になる話…と聞くと、よくあるなろう系みたいだが、全然違う。
この世界では、王は民に選ばれるのではなく、麒麟という霊獣に選ばれる。そして王が道を誤れば、麒麟が病み、国が乱れる。
王とは何か、統治とは何か、正義とは何か。重いテーマを扱いながら、冒険の面白さも失わない傑作だ。
続きが出ないことで有名だが、既刊だけでも読む価値がある。
上橋菜穂子は文化人類学者でもあって、その知識が世界観に活きてる。この世界には独自の文化、歴史、信仰があって、それが全部説得力を持ってる。
バルサがとにかくカッコいい。30代の女性で、短槍使いで、過去に傷を持ってる。こんな主人公、他にいるか?
アニメ化もされたが、原作はもっと深い。大人が読むべきファンタジーだ。
疫病と戦争を描いたファンタジー。医療、政治、差別、愛。全部詰まってる。
ファンタジーなのに、めちゃくちゃリアル。世界が緻密に作られてて、そこに生きる人々の息遣いが聞こえる。
読後感が重いが、それだけ心に残る作品だ。
強気な王女リィと、流浪の剣士ウォルが、国難に立ち向かう話。キャラが魅力的で、バトルが爽快で、策略が面白い。
長いけど、一気読みしたくなる。夜更かし確定だ。
シリーズ累計335万部売れてるのに、なぜかあまり話題にならない。もっと評価されるべき作品だ。
闇の一族と光の一族の争い、そこに巻き込まれる少女と少年の物語。
日本的な世界観が美しい。情景描写が丁寧で、読んでると古代日本の風景が目に浮かぶ。
YA小説だが、大人が読んでも面白い。というか、大人になってから読み返すと、違う感動がある。
呪われた地レーエンデを舞台に、400年にわたる革命の歴史を描く群像劇。
これから伸びる作家だと思う。正統派ファンタジーとして、読み応えがある。
【なぜお前らはファンタジーを読まないのか】
ここまで読んで、「長そう」「難しそう」と思ったか?
確かに、長編が多い。でもそれは、世界を丁寧に描いてるからだ。
一度その世界に入り込めば、もう抜け出せない。それがファンタジーの魅力だ。
現実に疲れた時、違う世界で冒険したい時、ファンタジーは最高の逃避先になる。
異世界の物語を通じて、現実の自分と向き合える。それがファンタジーの深さだ。
上に挙げた作品のどれか一つでもいい。手に取ってみてくれ。
きっと、お前の人生を変える一冊になる。
2501
中心部に壁や堀に囲まれた集落があり周辺に農場が広がってるのだ
外敵を防ぐためだが当然獣にも効果がある
学生の頃から視力は2.0のままで、一定遠くの文字も、夜道の標識も、はっきり見える。
どこの駅に行くかは決めていない。
降り立った場所の空気を嗅ぎ、通りすがりの灯りに導かれるように、バーを見つけて扉を押す。
そこにいる誰も、僕を知らない。
そして僕も、誰も知らない。
声をかけてくる人がいれば、少し話す。
この夜、僕はほんの一瞬だけ、別の誰かになる。
翌朝、彼らはもう僕を覚えていないだろう。
ただ、記憶のどこかに、メガネをかけた見知らぬ男が立っているかもしれない。
メガネの僕の秘密を、裸眼の僕の秘密を、知っているのは世界で僕ひとりだけだ。
この夜は僕の中に消える。
帰り道の電車で、ほろ酔いの中、車窓に映る自分の顔を見つめる。
その距離感が、どうしようもなく心地いい。
学生の頃から視力は2.0のままで、一定遠くの文字も、夜道の標識も、はっきり見える。
どこの駅に行くかは決めていない。
降り立った場所の空気を嗅ぎ、通りすがりの灯りに導かれるように、バーを見つけて扉を押す。
そこにいる誰も、僕を知らない。
そして僕も、誰も知らない。
声をかけてくる人がいれば、少し話す。
この夜、僕はほんの一瞬だけ、別の誰かになる。
翌朝、彼らはもう僕を覚えていないだろう。
ただ、記憶のどこかに、メガネをかけた見知らぬ男が立っているかもしれない。
メガネの僕の秘密を、裸眼の僕の秘密を、知っているのは世界で僕ひとりだけだ。
この夜は僕の中に消える。
帰り道の電車で、ほろ酔いの中、車窓に映る自分の顔を見つめる。
その距離感が、どうしようもなく心地いい。
子育て世代あるあるなんだろうけど、いざ買うとなると初めての1台はどうやって選べばいいんだ?
買いたいと思うまでのきっかけは、子供の写真を残したいからと最新のiPhoneに買い替たけど、子供は寝てばかりなので、試しに街の風景のスナップを撮ってたら、それが、だんだん楽しくなってきたのが始まり。そういえばと、10年以上昔に中古で買ったコンデジがあるはずと物置をひっくり返したら、ボロボロのRICOH GR digial3(買ったときは知らなかったけど、スナップ写真特化の写真機で電源も入った!)が出てきて、それをiPhoneと一緒に持ち歩いて夜の街の適当な写真を撮ってるだけで、コンデジの小さなディスプレイに映る写真が、味わい深くて良いなと思うようになってきた。
そういった過程で、自然とミラーレスにも興味が出始めて、老後の人生の楽しみを醸造するのに良いだろうと、買う決心をして質問をしてる。
5chや、reddit、あと増田を、AI経由で調べると、素人が初めて使うのに適しているメーカーはどうも、Fujifilm、Sonyが良いらしい。
そしてレンズは単焦点で、自分は肉眼と同じ50mmが 1代目のチョイスとして良いのかなと思っている。
iPhoneのポートレートだとOn/Offのグラデーションになると思うんだけど、ミラーレスにするとグラデーションなボケ感?で撮れるのかと思うとワクワクする。
あとは何を選ぶかなんだけど、とりあえずX-T5かX-T50目当てで、これくらいの頭でヨドバシや、キタムラに行って、チョイスしてしまって良いのか先人の知恵を教えてほしい。
1台目の選び方を知りたいというのと、iPhoneしか持ってない人間がカメラを手にしたときに体験できる、こんな楽しみ方あるよという観点もぜひ教えてほしい!
篠田氏がラッセンに着想を得て執筆した小説「青の純度」であるが、篠田氏がラッセンのモデル小説ではないと述べていることについて、篠田氏がラッセンをモデルにしたことを否認しているという誤解が広まっているようだ。
「青の純度」はラッセンに着想を得た画家の話ではあるが明らかにラッセンのモデル小説では無い。
なのだが、この事を説明するには、人によっては「ネタバレ」と言うようなところを説明する必要があるので、多くの謙虚な読書家の感想文からは未読の者がそうと理解しにくい形になってしまっている。
私としては、物語の半分よりも手前(5分の2ほど)で明かされるそれは「出題」部分(探偵ものであれば死体の発見)であってネタバレではないと思うのだが、まぁそう思わない人もいるだろうから、駄文を挟みいささか猶予を置いてからその部分の説明に入るので、出題部を含めてネタバレを嫌う人はこの先を読まずにブラウザをバックすると良い。
ラッセンに着想を得たがラッセンのモデル小説ではない、とはどういう意味か。
そもそもモデル小説という語の意味が若干の広がりがある上に、モデル小説という概念を持たない人は誰かをモデルにしたキャラが出ているだけのものまでモデル小説と呼び、しかも「青の純度」の偽ラッセンはそれですらないのだ。
モデル小説というのはある理想(モデル)を小説の形にした小説というのがおそらく最もインターナショナルな定義だが、日本語の場合はある実在人物をテーマにした小説を指すことが多いように思う。篠田氏がいう「モデル小説」も後者の意味である。
モデル小説のテーマとなった人物は、少なくともその行動の主要な部分がモデルにされた人物に沿ったものとなる。テーマとはそういうものだからだ。
篠田氏がラッセンのモデル小説では無いと言ったのは、作中の偽ラッセン(私が架空人物の名前を覚えるのが苦手なので「偽ラッセン」と書くが、「青の純度」の読者なら納得してくれるのでないか)はラッセンの人物像を作中に顕現させようとしていないからだろう。証明は後述。
なお、作中の登場人物が実在人をモデルにしているというだけではモデル小説とは言わない。モデル小説とは小説自体の分類なので、個々のキャラのモデルの話とは別次元の話だからだ。言うならば、グラップラー刃牙にアントニオ猪木をモデルにしたプロレスラーが登場したからといって、グラップラー刃牙はアントニオ猪木のモデル漫画ではない。
これを前提に「青の純度」の中身に触れよう。
バブル後に一世を風靡し、印刷物を限定品と称して高値で売るエウリアンの悪徳商法が問題となって消えた偽ラッセン。
出版社に勤める主人公は、たまたま飾ってあった偽ラッセンの風景画を見つけ、かつて馬鹿にしていたそれが琴線に触れた。
そこで調べると、今(2023年)になって再び偽ラッセンの印刷物の新作展示販売会が活発になっている。その主催者は、かつてエウリアン商法をしていた会社の元従業員である。
出版社勤めの主人公はラッセンの大衆人気に関する本を出すことを思いつき、本に絵を載せる許諾を得るために、ハワイ島に暮らしているという偽ラッセンを訪問すべくハワイ島に飛んだ。
しかしそこで、偽ラッセンが10年くらい前に既に死んでいたことが判明した。
と、ここまでがいわば出題編である。
10年くらい前に死んだ人物の新作が2023年に出てきているのだから、読者は当然、ゴーストペインターを疑うわけだが、この先は君自身の目で確かめてみてくれ。
現実のラッセンは存命だし、近年の再評価は2012年のラッセン展に始まる原田氏のラッセン研究による正統評価の流れである。
10年くらい前に死に、令和最新版エウリアン商法としてリバイバルされている作中の偽ラッセンとは似ても似つかない。
したがって「青の純度」はラッセンの「モデル小説」ではないことは明白なのだ。
ちなみに作中で、主人公は当初、「犯罪的な商法と、作品・作家を切り分け、その販売手法に言及した後、ジャンピエール・ヴァレーズの作品そのものを取り上げ、そこにある芸術と大衆性のせめぎ合いについて語る」ことを企図して偽ラッセン本を企画しハワイに渡った。
しかしその結果、偽ラッセンは、マリンアートの巨匠Robert Lyn Nelson(→Wikipedia(en))の流れを汲む1人に過ぎないことを知り、ただその中では技巧が卓越していたという評価に至った。
また、偽ラッセンの絵画は原画ではなく印刷物を最終成果物と想定して描かれており、原画より印刷の方が良いという。
そして何より10年くらい前に死んでいたことと現在の売り出し方。
結局のところ、主人公はハワイに渡り様々な事実を知ったことで、当初の目論見とは異なる結論に至った。
したがって、偽ラッセンがラッセンのモデル小説では無いのと同じく、主人公についてもまた、近年の再評価者のモデル小説ではないということになろう。
さっきケンタッキー・フライド・チキンの店舗前を横切ったらさ、よく見えねーけど、なんか女子高生っぽい白い制服の集団が、楽しそうにしてたわけですよ
それをみて思ったのがさ、俺は結局、女子高生になりたかったというか、女子高生である瞬間が欲しかったんじゃねえかってこと
厳密に言うと女子高生ならなんでもいいってわけじゃなくてさ
・40人のクラスで8〜10番目(20人くらいの女子の中で、という意味)くらいにかわいい
・パッと見でなんの部活に入ってるかわからない(運動部の快活さも、吹奏楽部や美術部の陰湿さもない)
・それなりに朗らかだけど、なんとなく笑顔に陰があるような感じがする
・カバンに古い映画(バックトゥザフューチャー等)のキーホルダーをひとつだけ付けている
・電車の中でスマホを見ないようにしているが、それは謎の見栄によるもので、家ではメチャクチャスマホを見ている
・写真に映るのをなんとなく嫌がる
・運動神経が悪い
・陰口を言わない(人のことをあまり悪く思わないので、言えない)
・授業に出てきた本(現代文の小説や、世界史で紹介される名著)を買って読んでいる(が、中身はそこまで分かってないらしい)
・仲のいい2人くらいの女子だけは(名前)ちゃんと呼び、あとの人は全員(苗字)さんと呼ぶ
・どうでもいい雑学に強い
・星とかに詳しい
・川が好き
・授業中はメガネ
・猫がいると「お、ネコだ」と言うが、近寄らない
・静かだけど喋ると面白い人、的な扱い
・駅のホームで、人がいない端っこのほうに行きがち
・登校時間が遅い
・友達といるときは箒でエアギターやってる姿などもまれに見られる
・無地の服を着がち
・授業中、全然寝ない
・髪は後ろで括っていることが多い
・スマホケースに何の装飾もない
・体育祭のフォークダンスでは、わりとちゃんと手を繋いでくれる
・踊り自体は下手
そんでさ、ケンタッキー・フライド・チキンで楽しそうにしている3人組の中の、いちばん大人しそうな子が俺でさ、でも、会話の中でちょいちょい面白いことを言って、「もー増田ちゃん!!」とか言われてるってこと
3人が解散したあと、笑顔で2人を見送って、スッとクールな表情になって歩き出すんだけど、足元で小石を蹴ったりしているということ
イヤホンを取り出して聴き始めた曲は、British Grenadiersみてえな、クラシックなのかなんなのかわかんない、聴けばわかるけど聴こうと思って聴いたことはないような曲であるということ
駅のホームで偶然彼女を見かけて、会釈をしたら、向こうも眉を上げてはにかみながら会釈を返してくれて、しかもなんか片手まで挙げてくれる、ということ
そういう感じのね
それが誘い文句だった。砂丘には雪ないからスノボなんてできないでしょ、なんていちいち言ったりせず、黙ってYahooを開いてGoogle検索をかけた。『砂丘でスノボ』は、正確にはサンドボードというらしい。鳥取砂丘の砂は粒子が細かく雪のように滑れる、らしい。
「私スキー場で滑れなくてボード担いでお尻で滑って降りたことあるぐらい苦手だけど、それでもいい?」
即レスだった。私に運動神経が存在していないことを知っていても誘ってくれる心が広い友人に感謝しながら、私も「じゃあ行く」と即レスした。
それから4日後、私たちは鳥取に向かう電車に乗っていた。スーパーはくとという名前のそれはなんの配慮か電車の真正面の景色がモニターで見えるようになっていた。短いトンネルに入っては抜けて、暗い画面が白く眩くなっては暗くなる。そんな画面を見ながら、友人はわたし達ワープしてるみたいだ、と言った。私はローソンで買った昆布おにぎりを食べながら乗り物酔いしそうになっていた。
鳥取駅はなんだかこじんまりしていた。清潔で、スタバもコンビニもお土産屋もあって、けれど人は少なかった。曇り空の下にはシャッターが閉まった店が沢山あって、何故だか占いのお店が幅を利かせていた。とりあえずお昼を食べようと鳥取名物を調べたら、カレーと、海鮮と、ラッキョウと、砂丘関連の名物(プリンやら砂で蒸した卵やら)、あと梨だった。じゃあカレーでいいか、とカレーの有名な店を調べて向かった。メインの計画以外はその場で決めよう、何事にも縁ってものがあるからさ。というのが彼女の考えだった。だから、2泊3日の旅の内2日目のサンドボード以外は全くの無計画だったのだ。
カレーのお店は鳥取名物を謳っているから、という理由だけで決めたが、建物も新しくリーズナブルで美味しかった。彼女はブラックカレー、私はスープカレーを頼んだ。美味しかった。
店員さんにどうしてカレーは鳥取名物なんですかって言ったら、鳥取はカレーの消費量が全国一位なんです、という答えが返ってきた。答えになってないような気がした。沢山食べたら自分たちの物にできるんですか。チェンソーマンみたいですね。そう思ったけど言わなかった。彼女はチェンソーマンを知らない人だから。
カレー食べた後は彼女の希望で、海沿いを歩いて白兎神社に行った。縁結びが出来るんだって。でも因幡の白兎が元ネタらしくて、あれサメを騙して海を渡ろうとした兎がサメを怒らせて全身の毛をむしられた話だよね、どっから恋結びのご利益出てきたんだろうね?そう言ったら彼女はまぁねー、でも兎かわいいよ、と兎モチーフの石像をニコニコ眺めていた。答えになっていなかったけれど、彼女はそもそも神なんか信じていないのかもしれない。それとも彼女はもう結婚しているから、ご利益があってもなくてもどっちでもいいのかもしれない。私は、転職の成功と、ついでにいい感じの恋人ができますようにとお願いした。嘘ついて騙して、結局身ぐるみ剥がされた間抜けで最悪な兎じゃなくて、ウサギを助けた優しい神様の方に祈った。私の次の職場は完全未経験の、クラスに一人はいるなんでもできる陽キャだけ集めたような、そんな職場です。目一杯見栄を張って、使命感のある溌剌とした人間のフリをして面接に受かりました。本当の私はクラスに一人はいる、真面目でも不良でもない、何を考えているか分からない女です。なんとか、どうにか、上手くやっていきたいです。ついでに誰か、今好きな人とは別の他の誰かを好きになれるようにしてください。優しい神様、どうか助けてください。
2日目は本命のサンドボードだった。鳥取砂丘まではバスに揺られて一時間ほどだった。昨日の天気が嘘に思えるほどの晴天で、私は雨女だからあなたが晴れ女なんだね、あなたって運がいいもんね、と言ったら、わたし運はいいけど、天気なんて人一人の運でどうにかできるものじゃないでしょ、と穏やかに笑いながら言った。やっぱり彼女は、ほんとうは神様とか信じていないんだろうな、と思った。
サンドボードの参加者は私たち以外いなかった。早い時間の参加者は少ないんです、だそうだ。荷物を持って砂丘へ足を踏み入れると、泥の上でもないのに深く足が沈んで歩きにくかった。私は足にどうやって力を入れていいか分からなかったのだけれど、友達はスタスタ歩いていく。彼女は運もいいけれど運動神経も抜群にいいのだ。私はそれを追いかけるのに必死だった。その後どんどん丘陵地になっていき、荷物を抱えながら砂を蹴って丘を登った。ジグザグに歩きながら、息を切らしながら、ようやくてっぺんに辿り着き、インストラクターの説明を聞いた。ボードに足を固定して、滑る。そしてボードを抱えて登る。要約するとこれだけだった。また登る、と聞いた時、小さく最悪、と行ってしまったのだけど、彼女はそれを耳聡く聞きつけて、顔を顰めながらそういうこと言わないで、と私を軽く叱った。ごめん、と謝ったら、うん、と言って、まるで数秒前の記憶ごと消し去ったかのように表情を元通りにした。大人の嗜みとして不機嫌を表に出さないようにしている訳じゃない。彼女は昔から、心が広いのだ。
サンドボードで滑るのは楽しかった。とにかくバランスを取ることに必死になっているうちに丘の下に辿り着いていたが、それでもすぐに丘の上から砂を滑る爽快感が追いついて、楽しい、となる。体力が続く限り登って滑ってくださって結構ですよ、とインストラクターに言われたけど、滑る時より丘を登るのに体力を削られ、結局もう一度滑って体力が尽きてしまった。友達は体力が無地蔵なので滑っては登るを繰り返し、3回目からは丘をジグザグに登らず直線距離で駆け上ってきた。しんどくないの、疲れないの、と聞いたら、
「疲れるけど、その方が近いからさ」
って言って、そのまま4回目を滑り始めた。インストラクターが、すげーっすよあの子、歴代一位の体力ですよ、いくつぐらいですか?と、私に聞いてきたので、すごいですよね、すごいんですよ、とだけ相槌を打った。遠くの丘からパラシュートが飛んで行くのが見えた。パラシュートは風に乗って飛んでいき、私の友達を通り越して遠くに着地したのが見えた。こっちの方がワープみたいだな、と思った。友達とパラシュートの人の姿が、豆粒まではいかないけどずっと遠くに見えた。なんでかスピッツのロビンソンを思い出した。いいな。私もそっちにワープしたい。私とそこ代わってよ。お願い。
その後砂丘前のお土産屋に行った。私は転職予定で現職を有休消化中の一人暮らしだったので、自分用のお土産に砂漠プリンを一つと、近々会う予定の友達用に梨ジュースを買った。私の買い物はそれでおしまいだったけれど、彼女は実家に、職場に、とじっくりとお土産を吟味して、結局バスの時間ギリギリまで迷っていた。一番時間をかけて選んだのは彼女の旦那さんのお土産だった。何あげても喜んでくれるけど、やっぱり一番喜んでくれるものをあげたかったから、3つぐらい買ったんだって。お土産あげた時の旦那さん、本当に可愛くて好きなんだって。彼女は心が広いから、きっと家事分担やら稼ぎやら、結婚生活で起こり得る何かしらに少しも不満を抱いたりしないだろうな。長く続くんだろうな。きっと死ぬまで。
3日目も当然予定を立ててなかったんだけど、2日目のメイン目的を達成したからもう帰っても別にいいよね、みたいな雰囲気があった。でももう少し引き伸ばしたくて、牛骨ラーメン食べに行こって言った。鳥取に牛肉のイメージなかったけど有名らしかったから。それで、Google マップで適当に検索して評価高いところに行った。チャーシュー多くてスープも上品な甘さがあって美味しかった。食べ終わった後、友達がわたしラーメン好きじゃないんだけどこれは美味しかったな、と言った。びっくりして、なんで言わなかったの、って言ったけど、いやでも美味しかったからよかったよー、としか言わなかった。ねぇ答えになってないんだけど。長い付き合いなのにそんなことすら全然知らなかったよ、心が広いの知ってるけど、でも、ちゃんと言ってくれたらいいのにさ。
ラーメンを食べた後、私たちはスーパーはくとに乗った。はくとのモニターには相変わらずトンネルと田園風景が交互に映っていた。友達は今度はワープみたいだとは言わなかったけれど、そういえばこの電車って白兎から文字ってるんだね〜、と言った。そうだね、と言って寝たふりをした。また、最悪、と言いそうになった。しばらくして目を覚ましたら、前を走行している電車で急病人が出たとかで何処かの駅で停車していた。
やっぱわたし運いい。と言って、彼女は窓から写真を撮っていた。私は寝たふりをしながら、このまま電車止まっててくれたらいいのにな、と思った。
内容を簡単にいえば陽キャのリア充風景を描いた作品で陰キャをプロデュースする話がやたら不評だったのね
陽キャ主人公のポエムやエゴの押し付けガーって事が一番不快な理由として挙げられてたんだが
それって単なる個性だしもっといえばそれ君の感想だよね。あとやっかみだよね
この手のアニメ視聴者って弱男多そうだし元いじめられっ子とか陰キャだったりするのかな
俺は凄く楽しくて見てたけどそれをSNSで言うと頭おかしいとかサイコパスとか罵られるのよ
でもそれってお前らの(学生時代の)人生経験が乏しかったからじゃないのかと
嫉妬乙
二三年前の夏、未だ見たことのない伊香保榛名を見物の目的で出掛けたことがある。ところが、上野驛の改札口を這入つてから、ふとチヨツキのかくしへ手をやると、旅費の全部を入れた革財布がなくなつてゐた。改札口の混雜に紛れて何處かの「街の紳士」の手すさみに拔取られたものらしい。もう二度と出直す勇氣がなくなつてそれつきりそのまゝになつてしまつた。財布を取つた方も内容が期待を裏切つて失望したであらうから、結局此の伊香保行の企ては二人の人間を失望させるだけの結果に終つた譯である。
此頃少し身體の工合が惡いので二三日保養のために何處か温泉にでも出掛けようといふ、その目的地に此の因縁つきの伊香保が選ばれることになつた。十月十四日土曜午前十一時上野發に乘つたが、今度は掏摸すりの厄介にはならなくて濟んだし、汽車の中は思ひの外に空いて居たし、それに天氣も珍らしい好晴であつたが、慾を云へば武藏野の秋を十二分に觀賞する爲には未だ少し時候が早過ぎて、稻田と桑畑との市松模樣の單調を破るやうな樹林の色彩が乏しかつた。
途中の淋しい小驛の何處にでも、同じやうな乘合自動車のアルミニウム・ペイントが輝いて居た。昔はかういふ驛には附きものであつたあのヨボ/\の老車夫の後姿にまつはる淡い感傷はもう今では味はゝれないものになつてしまつたのである。
或る小驛で停り合はせた荷物列車の一臺には生きた豚が滿載されて居た。車内が上下二段に仕切られたその上下に、生きてゐる肥つた白い豚がぎつしり詰まつてゐる。中には可愛い眼で此方を覗いてゐるのもある。宅の白猫の顏に少し似てゐるが、あの喇叭のやうな恰好をして、さうして禿頭のやうな色彩を帶びた鼻面はセンシユアルでシユワイニツシである。此等の豚どもはみんな殺されに行く途中なのであらう。
進行中の汽車道から三町位はなれた工場の高い煙突の煙が大體東へ靡いて居るのに、すぐ近くの工場の低い煙突の煙が南へ流れて居るのに氣がついた。汽車が突進して居る爲に其の周圍に逆行氣流が起る、その影響かと思つて見たがそれにしても少し腑に落ちない。此れから行先にまだいくらも同じやうな煙突の一對があるだらうからもう少し詳しく觀察してやらうと思つて注意してゐたが、たうとう見付からずに澁川へ着いてしまつた。いくらでも代はりのありさうなものが實は此の世の中には存外ないのである。さうして、ありさうもないものが時々あるのも此の世の中である。
澁川驛前にはバスと電車が伊香保行の客を待つてゐる。大多數の客はバスを選ぶやうである。電車の運轉手は、しきりにベルを踏み鳴らしながら、併しわり合にのんきさうな顏をしてバスに押し込む遊山客の群を眺めて居たのである。疾とうの昔から敗者の運命に超越してしまつたのであらう。自分も同行Sも結局矢張りバスのもつ近代味の誘惑に牽き付けられてバスを選んだ。存外すいて居る車に乘込んだが、すぐあとから小團體がやつて來て完全に車内の空間を充填してしまつた。酒の香がたゞよつて居た。
道傍の崖に輕石の層が見える。淺間山麓一面を埋めて居るとよく似た豌豆大の粒の集積したものである。淺間のが此邊迄も降つたとは思はれない。何萬年も昔に榛名火山自身の噴出したものかも知れない。それとも隣りの赤城山の噴出物のお裾分けかも知れない。
前日に伊香保通のM君に聞いたところでは宿屋はKKの別館が靜かでいゝだらうといふことであつた。でも、うつかりいきなり行つたのでは斷られはしないかと聞いたら、そんなことはないといふ話であつた。それで、バスを降りてから二人で一つづゝカバンを提げて、すぐそこの別館の戸口迄歩いて行つた。館内は森閑として玄關には人氣がない。しばらくして内から年取つた番頭らしいのが出て來たが、別に這入れとも云はず突立つたまゝで不思議さうに吾々二人を見下ろしてゐる。此れはいけないと思つたが、何處か部屋はありませうかと聞かない譯にも行かなかつた。すると、多分番頭と思はれる五十恰好のその人は、恰度例へば何處かの役所の極めて親切な門衞のやうな態度で「前からの御申込でなければとてもとても……」と云つて、突然に乘込んで來ることの迂闊さを吾々に教へて呉れるのであつた。向うの階段の下では手拭を冠つて尻端折つて箒を持つた女中が三人、姦の字の形に寄合つて吾々二人の顏を穴のあく程見据えてゐた。
カバンをぶら下げて、悄々しをしをともとのバスの待合所へ歸つて來たら、どういふものか急に東京へそのまゝ引き返したくなつた。此の坂だらけの町を、あるかないか當てにならない宿を求めて歩き※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)はるのでは第一折角保養に來た本來の目的に合はない、それよりか寧ろ東京の宅の縁側で咲殘りのカンナでも眺めて欠伸をする方が遙かに有效であらうと思つたのである。併し、歸ることは歸るとしても兎も角も其處らを少し歩いてから歸つても遲くはないだらうとSがいふので、厄介な荷物を一時バスの待合所へ預けておいてぶら/\と坂道を上つて行つた。
宿屋が滿員の場合には入口に「滿員」の札でも出しておいたら便利であらう。又兎も角も折角其家を目指して遙々遠方から尋ねて來た客を、どうしても收容し切れない場合なら、せめて電話で温泉旅館組合の中の心當りを聞いてやる位の便宜をはかつてやつてはどうか。頼りにして來た客を、假令それがどんな人體であるにしても、尋ねてくるのが始めから間違つてゐるかのやうに取扱ふのは少し可哀相であらう。さうする位ならば「旅行案内」などの廣告にちやんと其旨を明記しておく方が親切であらう。
こんな敗者の繰言を少し貧血を起しかけた頭の中で繰返しながら狹い坂町を歩いてゐるうちに、思ひの外感じのいゝ新らしいM旅館別館の三階に、思ひもかけなかつた程に見晴らしの好い一室があいてゐるのを搜しあてゝ、それで漸く、暗くなりかゝつた機嫌を取直すことが出來たと同時に馴れぬ旅行に疲れた神經と肉體とをゆつくり休めることが出來たのは仕合せであつた。
此室の窓から眼下に見える同じ宿の本館には團體客が續々入込んでゐるやうである。其の本館から下方の山腹にはもう人家が少く、色々の樹林に蔽はれた山腹の斜面が午後の日に照らされて中々美しい。遠く裾野には稻田の黄色い斑の縞模樣が擴がり、其の遙かな向うには名を知らぬ山脈が盛上がつて、其の山腹に刻まれた褶襞の影日向が深い色調で鮮かに畫き出されて居る。反對側の、山の方へ向いた廊下へ出て見ると、此の山腹一面に築き上げ築き重ねた温泉旅館ばかりの集落は世にも不思議な標本的の光景である。昔、ローマ近くのアルバノ地方に遊んだ時に、「即興詩人」で名を知られたゲンツアノ湖畔を通つたことがある。其の湖の一方から見た同じ名の市街の眺めと、此處の眺めとは何處か似た所がある。併し、古い伊太利の彼の田舍町は油繪になり易いが此處のは版畫に適しさうである。數年前に此地に大火があつたさうであるが、成程火災の傳播には可也都合よく出來てゐる。餘程特別な防火設備が必要であらうと思はれる。
一と休みしてから湯元を見に出かけた。此の小市街の横町は水平であるが、本通りは急坂で、それが極めて不規則な階段のメロデイーの二重奏を奏してゐる。宿屋とお土産を賣る店の外には實に何もない町である。山腹温泉街の一つの標本として人文地理學者の研究に値ひするであらう。
階段の上ぼりつめに伊香保神社があつて、そこを右へ曲ると溪流に臨んだ崖道に出る。此の道路にも土産物を賣る店の連鎖が延長して溪流の眺めを杜絶してゐるのである。湯の流れに湯の花がつくやうに、かういふ處の人の流れの道筋にはきまつて此のやうな賣店の行列がきたなく付くのである。一寸珍らしいと思ふのは此道の兩側の色々の樹木に木札がぶら下げてあつて、それに樹の名前が書いてあることである。併し、流石にラテン語の學名は略してある。
崖崩れを石垣で喰ひ止める爲に、金のかゝつた工事がしてある。此れ位の細工で防がれる程度の崩れ方もあるであらうが、此の十倍百倍の大工事でも綺麗に押し流すやうな崩壞が明日にも起らないといふ保證は易者にも學者にも誰にも出來ない。さういふ未來の可能性を考へない間が現世の極樂である。自然の可能性に盲目な點では人間も蟻も大してちがはない。
此邊迄來ると紅葉がもうところ斑に色付いて居る。細い溪流の橋の兩側と云つたやうな處のが特に紅葉が早いらしい。夜中にかうした澤を吹下ろす寒風の影響であらうか。寫眞師がアルバムをひろげながらうるさく撮影をすゝめる。「心中ぢやないから」と云つて斷わる。
湯元迄行つた頃にはもう日が峯の彼方にかくれて、夕空の殘光に照らし出されて雜木林の色彩が實にこまやかに美しい諧調を見せて居た。樹木の幹の色彩がかういふ時には實に美しく見えるものであるが、どういふものか特に樹幹の色を讚美する人は少ないやうである。
此處の湯元から湧き出す湯の量は中々豐富らしい。澤山の旅館の浴槽を充たしてなほ餘りがあると見えて、惜氣もなく道端の小溝に溢れ流れ下つて溪流に注いで居る。或る他の國の或る小温泉では、僅かに一つの浴槽にやつと間に合ふ位の湯が生温るくて、それを熱くする爲に一生涯骨を折つて、やつと死ぬ一年前に成功した人がある。其人が此處を見たときにどんな氣がしたか。有る處にはあり餘つて無い處にはないといふのは、智慧や黄金に限らず、勝景や温泉に限らぬ自然の大法則であるらしい。生きてゐる自然界には平等は存在せず、平等は即ち宇宙の死を意味する。いくら革命を起して人間の首を切つても、金持と天才との種を絶やすことは六かしい。ましてや少しでも自己觸媒作用オートカタリテイツク・アクシヨンのある所には、ものの片寄るのが寧ろ普遍な現象だからである。さうして方則に順應するのは榮え、反逆するものは亡びるのも亦普遍の現象である。
宿へ歸つて見ると自分等の泊つてゐる新館にも二三の團體客が到着して賑やかである。○○銀行○○課の一團は物靜かでモーニングを着た官吏風の人が多い。○○百貨店○○支店の一行は和服が多く、此方は藝者を揚げて三絃の音を響かせて居るが、肝心の本職の藝者の歌謠の節※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)はしが大分危なつかしく、寧ろ御客の中に一人いゝ聲を出すのが居て、それがやゝもすると外れかゝる調子を引戻して居るのは面白い。ずつと下の方の座敷には足踏み轟かして東京音頭を踊つて居るらしい一團がある。人數は少いが此組が壓倒的優勢を占めて居るやうである。
今度は自分などのやうに、うるさく騷がしい都を離れて、しばらく疲れた頭を休める爲にかういふ山中の自然を索たづねて來るものゝある一方では又、東京では斷ち切れない色々の窮屈を束縛をふりちぎつて、一日だけ、はめを外づして暴れ※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)はる爲にわざ/\かういふ土地を選んで來る人もあるのである。此れも人間界の現象である。此の二種類の人間の相撲になれば明白に前者の敗である。後者の方は、宿の中でも出來るだけ濃厚なる存在を強調する爲か、廊下を歩くにも必要以上に足音を高く轟かし、三尺はなれた仲間に話をするのでも、宿屋中に響くやうに大きな聲を出すのであるが、前者の部類の客はあてがはれた室の圍ひの中に小さくなつて、其の騷ぎを聞きつゝ眠られぬ臥床ふしどの上に輾轉するより外に途がないのである。床の間を見ると贋物の不折の軸が懸かつて居る、その五言の漢詩の結句が「枕を拂つて長夜に憐む」といふのであつたのは偶然である。やつと團體の靜まる頃には隣室へ子供づれの客が着いた。單調な東京音頭は嵐か波の音と思つて聽き流すことが出來ると假定しても、可愛い子供の片言は身につまされてどうにも耳朶の外側に走らせることの出來ぬものである。電燈の光が弱いから讀書で紛らすことも出來ない。
やつと宿の物音があらかた靜まつた後は、門前のカフエーから蓄音機の奏する流行小唄の甘酸つぱい旋律が流れ出して居た。併し、かうした山腹の湯の町の夜の雰圍氣を通して響いて來る此の民衆音樂の調べには、何處か昔の按摩の笛や、辻占賣の聲などのもつて居た情調を想ひ出させるやうな或るものが無いとは云はれない。
蓄音機と云へば、宿へ着いた時につい隣りの見晴らしの縁側に旅行用蓄音機を据ゑて、色々な一粒選りの洋樂のレコードをかけてゐる家族連の客があつた。此れも存在の鮮明な點に於て前述の東京音頭の連中と同種類に屬する人達であらう。
夜中に驟雨があつた。朝はもう降り止んではゐたが、空は低く曇つてゐた。兎も角も榛名湖畔迄上ぼつて見ようといふので、ケーブルカーの停車場のある谷底へ下りて行つた。此の谷底の停車場風景は一寸面白い。見ると、改札口へ登つて行く階段だか斜面だかには夥しい人の群が押しかけてゐる。それがなんだか若芽についたあぶら蟲か、腫物につけた蛭の群のやうに、ぎつしり詰まつて身動きも出來さうにない。それだのにあとから/\此處を目指して町の方から坂を下りて來る人の群は段々に増すばかりである。此の有樣を見て居たら急に胃の工合が變になつて來て待合室の腰掛に一時の避難所を求めなければならなかつた。「おぢいさんが人癲癇を起こした」と云つてSが笑出したが、兎も角も榛名行は中止、その代りつい近所だと云ふ七重の瀧へ行つて見ることにした。此の道筋の林間の小徑は往來の人通りも稀れで、安價なる人癲癇は忽ち解消した。前夜の雨に洗はれた道の上には黄褐紫色樣々の厚朴の落葉などが美しくちらばつてゐた。
七重の瀧の茶店で「燒饅頭」と貼札したものを試みに注文したら、丸いパンのやうなものに味噌※(「滔」の「さんずい」に代えて「しょくへん」、第4水準2-92-68)を塗つたものであつた。東京の下町の若旦那らしい一團が銘々にカメラを持つてゐて、思ひ思ひに三脚を立てゝ御誂向の瀧を撮影する。ピントを覗く爲に皆申合せたやうに羽織の裾をまくつて頭に冠ると、銘々の羽織の裏の鹽瀬の美しい模樣が茶店に休んでゐる女學生達の面前にずらりと陳列される趣向になつてゐた。
溪を下りて行くと別莊だか茶店だかゞあつて其前の養魚池の岸にかはせみが一羽止まつて居たが、下の方から青年團の服を着た男が長い杖をふりまはして上がつて來たので其のフアシズムの前に氣の弱い小鳥は驚いて茂みに飛び込んでしまつた。
大杉公園といふのはどんな處かと思つたら、とある神社の杉並木のことであつた。併し杉並木は美しい。太古の苔の匂ひがする。ボロ洋服を着た小學生が三人、一匹の眞白な野羊を荒繩の手綱で曳いて驅け※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)つてゐたが、どう思つたか自分が寫眞をとつて居る傍へ來て帽子を取つてお辭儀をした。學校の先生と間違へたのかどうだか分らない。昔郷里の田舍を歩いて居て、よく知らぬ小學生に禮をされた事を想ひ出して、時代が急に明治に逆戻りするやうな氣がした。此邊では未だイデオロギー的階級鬪爭意識が普及して居ないのであらう。社前の茶店に葡萄棚がある。一つの棚は普通のぶだうだが、もう一つのは山葡萄で紅葉してゐる。店の婆さんに聞くと、山葡萄は棚にしたら一向に實がならぬさうである。山葡萄は矢張り人家にはそぐはないと見える。
茶店の周圍に花畑がある。花を切つて高崎へでも賣りに出すのかと聞くと、唯々お客さんに自由に進呈するためだといふ。此の山懷の一隅には非常時の嵐が未だ屆いて居ないのか、妙にのんびりした閑寂の別天地である。薄雲を透した日光が暫く此の靜かな村里を照らして、ダリアやコスモスが光り輝くやうに見えた。
宿へ歸つて晝飯を食つてゐる頃から、宿が又昨日に増して賑やかになつた。日本橋邊の或る金融機關の團體客百二十人が到着したのである。其爲に階上階下の部屋といふ部屋は一杯で廊下の籐椅子に迄もはみ出してゐる。吾々は、此處へ來たときからの約束で暫時帳場の横へ移轉することになつた。
部屋に籠つて寐轉んで居ると、すぐ近くの階段や廊下を往來する人々の足音が間斷なく聞こえ、それが丁度御會式の太鼓のやうに響き渡り、音ばかりでなく家屋全體が其の色々な固有振動の週期で連續的に振動して居る。さういふ状態が一時間二時間[#「二時間」は底本では「二間時」]三時間と經過しても一向に變りがない。
一體どうして、かういふ風に連續的に足音や地響きが持續するかといふ理由を考へて見た。百數十人の人間が二人三人づつ交る/″\階下の浴室へ出掛けて行き、又歸つて來る。その際に一人が五つの階段の一段々々を踏み鳴らす。其外に平坦な縁側や廊下をあるく音も加はる。假に、一人宛て百囘の音を寄與コントリビユートするとして、百五十で一萬五千囘、此れを假に午後二時から五時迄の三時間、即ち一萬八百秒に割當てると毎一秒間に平均一囘よりは少し多くなる勘定である。此外に浴室通ひ以外の室と室との交通、又女中や下男の忙はしい反復往來をも考慮に加へると、一秒間に三囘や四囘に達するのは雜作もないことである。即ち丁度太鼓を相當急速に連打するのと似た程度のテンポになり、それが三時間位持續するのは何でもないことになるのである。唯々面白いのは、此の何萬囘の足音が一度にかたまつて發しないで、實にうまく一樣に時間的に配分されて、勿論多少の自然的偏倚は示しながらも統計的に一樣な毎秒平均足音數を示してゐることである。容器の中の瓦斯體の分子が、その熱擾動サーマルアヂテーシヨンのために器壁に反覆衝突するのが、いくらか此れに似た状況であらうと思はれた。かうなると人間も矢張り一つの「分子」になつてしまふのである。
室に寐ころんだ切り、ぼんやり此んなことを考へてゐる内に四時になつた。すると階下の大廣間の演藝場と思はれる見當で東京音頭の大會が始まつた。さうして此れが約三十分續いた。それが終つても、未だその陶醉的歡喜の惰性を階上迄持込[#「持込」は底本では「持迄」]んで客室前の廊下を踏鳴らしながら濁聲高く唄ひ踊る小集團もあつた。
「バスの切符を御忘れにならないやうに」と大聲で何遍となく繰返して居るのが聞こえた。それからしばらくすると、急に家中がしんとして、大風の後のやうな靜穩が此の山腹全體を支配するやうに感ぜられた。一時間前の伊香保とは丸で別な伊香保が出現したやうに思はれた。三階の廊下から見上げた山腹の各旅館の、明るく灯のともつた室々の障子の列が上へ上へと暗い夜空の上に累積してゐる光景は、龍宮城のやうに、蜃氣樓のやうに、又ニユーヨークの摩天樓街のやうにも思はれた。晝間は出入の織るやうに忙がしかつた各旅館の玄關にも今は殆ど人氣が見えず、野良犬がそこらをうろ/\して居るのが見えた。
團體の爲に一時小さな室に追ひやられた埋合せに、今度はがらあきになつた三階の一番廣く見晴らしのいゝ上等の室に移され、地面迄數へると五階の窓下を、淙々として流れる溪流の水音と、窓外の高杉の梢にしみ入る山雨の音を聞きながら此處へ來てはじめての安らかな眠りに落ちて行つた。
翌日も雨は止んだが空は晴れさうもなかつた。霧が湧いたり消えたりして、山腹から山麓へかけての景色を取換へ取換へ迅速に樣々に變化させる。世にも美しい天工の紙芝居である。一寸青空が顏を出したと思ふと又降出す。
とある宿屋の前の崖にコンクリートで道路と同平面のテラスを造り其の下の空間を物置にして居るのがあるのは思ひ付きである。此の近代的設備の脚下の道傍に古い石地藏が赤い涎掛けをして、さうして雨曝しになつて小さく鎭座して居るのが奇觀である。此處らに未だ家も何もなかつた昔から此の地藏尊は此の山腹の小道の傍に立つて居て、さうして次第に開ける此の町の發展を見守つて來たであらうが、物を云はぬから聞いて見る譯にも行かない。
晝飯をすませて、そろ/\歸る支度にかゝる頃から空が次第に明るくなつて來て、やがて雲が破れ、東の谷間に虹の橋が懸つた。
歸りのバスが澁川に近づく頃、同乘の兎も角も知識階級らしい四人連の紳士が「耳がガーンとした」とか「欠伸をしたらやつと直つた」とか云つたやうな話をして居る。山を下つて氣壓が變る爲に鼓膜の壓迫されたことを云つて居るらしい。唾を飮み込めば直るといふことを知らないと見える。小學校や中學校でこのやうな科學的常識を教はらなかつたものと思はれる。學校の教育でも時には要らぬ事を教へて要ることを教へるのを忘れて居る場合があるのかも知れない。尤も教へても教へ方が惡いか、教はる方の心掛けが惡ければ教へないのも同じになる譯ではある。
上野へついて地下室の大阪料理で夕食を食つた。土瓶むしの土瓶のつるを持ち上げると土瓶が横に傾いて汁がこぼれた。土瓶の耳の幅が廣過ぎるのである。此處にも簡單な物理學が考慮の外に置かれてゐるのであつた。どうして、かう「科學」といふものが我が文化國日本で嫌はれ敬遠されるかゞ不思議である。
雨の爲に榛名湖は見られなかつたが、併し雨のおかげでからだの休養が出來た。讀まず、書かず、電話が掛からず、手紙が來ず、人に會はずの三日間で頭の疲れが直り、從つて胃の苦情もいくらか減つたやうである。その上に、宿屋の階段の連續的足音の奇現象を觀察することの出來たのは思はぬ拾ひものであつた。
温泉には三度しかはひらなかつた。湯は黄色く濁つてゐて、それに少しぬるくて餘り氣持がよくなかつた。その上に階段を五つも下りて又上がらなければならなかつた。温泉場と階段はとかくつきものである。温泉場へ來たからには義理にも度々温泉に浴しなければならないといふ譯もないが、すこしすまなかつたやうな氣がする。
他の温泉でもさうであるが、浴槽に浸つて居ると、槽外の流しでからだを洗つて居る浴客がざあつと溜め桶の水を肩からあびる。そのしぶきが散つて此方の頭上に降りかゝるのはそれ程潔癖でないつもりの自分にも餘り愉快でない。此れも矢張り宿屋へ蓄音機を持ち込み、宿屋で東京音頭を踊る Permalink | 記事への反応(0) | 18:19