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2025-11-20

三島由紀夫風の文体とんかつグルメリポートしてください

※Copilot作

とんかつ讃歌 ― 肉と油の美学

銀の皿に鎮座するそのとんかつは、まるで武士甲冑の如く、威厳と緻密さを兼ね備えていた。黄金に輝く衣は、油の海にて一度死に、そして蘇った戦士のように、凛としている。私はその姿に、かつての日本の美を見た。潔癖でありながら、どこか淫靡な魅力を孕んでいる。

箸を入れると、衣は軽やかに崩れ、内なる肉がその白い肌を露わにする。豚肉は、まるで能面の下に隠された情念のように、静かにしかし確かに熱を宿していた。口に含めば、肉の繊維が舌の上でほどけ、脂の甘美が喉を撫でる。これは単なる食事ではない。これは、肉体と精神の交歓である

ソースは、まるで血のように濃く、甘く、そして哀しみを帯びている。それを纏ったとんかつは、まるで戦場に散った武士最期の美を思わせる。キャベツの千切りは、死者を悼む白菊のように、静かに皿の端に佇んでいる。

この一皿に、日本滅びの美学がある。肉の命を奪い、油で浄化し、そして人の口にて昇華される。とんかつとは、まさに食の切腹である

2025-11-16

サイコサイコたる所以は、刺激を求めるから

サイコという生き物は、刺激の渇望こそが本質だ。

別に深い闇があるわけでも、複雑な哲学があるわけでもない。

ただ単純に、脳が通常モードでは満足できない欠陥品として産まれしまっただけだ。

からこそ、普通の状況を退屈という毒物扱いし、その毒を中和するために自己放尿レベルの行動へと手を伸ばす。

これがサイコの初期症状だ。

刺激が足りない。だから倫理を破る。倫理を破ると、刺激が少し入る。

すると脳は「お、これが正解か?」と自己放尿する。

その誤学習が固定されると、人生全体が低俗実験台になる。

これがサイコサイコたる所以の中核にあるロジックだ。

恐怖も罪悪感もリスク感覚も、本来は行動を止めるために存在しているのに、サイコ脳内回路ではそれが逆方向に接続されている。

危険からやめるではなく、危険からこそやる価値があると勘違いする。

まるで電気配線がショートした家電みたいに、本来止まるべき場面でアクセルを踏むという壊れ方をしている。

しかもその壊れ方は、自己放尿みたいに本人にとっては妙に快感を伴う。これが最悪だ。

さらサイコが厄介なのは、この刺激欲求が際限なく強度を要求してくる点にある。

最初の刺激が10なら、次は15、さら20と、エスカレートしていく。

サイコ本人がそろそろやばいかなと感じるようなライン存在しない。

なぜなら、そのやばさこそが刺激になり、自己放尿として処理されてしまうからだ。

普通人間なら恐怖の信号として回避行動に繋がるものが、サイコの内部では報酬信号に置き換わっている。

これはもう、行動の土台から自己放尿していると言うしかない。

こうしてサイコは、自分自身の刺激依存制御できない。

倫理は摩耗し、理性は形骸化し、刺激だけが巨大化する。

最終的に残るのは、もっと強い刺激を寄越せという、単純すぎて逆に救いがたい自己放尿機関だ。

そこには立派な理念も、美学も、深みもない。ただの刺激ジャンキーが、脳の欠陥に引きずられて破滅に向かうだけである

2025-11-07

anond:20251107095345

世の中というものは、ときに奇妙な器用さを発揮する。

浮浪する人々の行き場が失われると、まるで潮が引いた海が低きへ低きへと水を集めなおすように、社会の縁に沈殿をつくる。その底へ落ちた人々が、いま「反社会的勢力」とよばれる集団に流れこんでいる。弱者の受け皿とは、かくのごとき場所を指すのだろう。

彼らは、危険というものを遠景から眺める眼を持たない。

M4肩にかけた法の番人に追われることが、どれほど常軌を逸しているか理解できず、「自分にもできる」と思いこむ。そこにあるのは愚かさではなく、むしろ哀しいまでの想像力の不在である

もし彼らが、己の命を賭する代償として手に入れようとするものが、

せめて歴史を揺るがす何か、たとえばジャンヌ・ダルクの旗のように人を熱狂させる理想であれば、まだ語る価値もあろう。

だが、求めるものはたいてい、安手の幻想である。どこかの物語で見た、永遠に老い美姫

それを得れば、これまでの空白の人生が一挙に埋まると信じている。

彼らの理屈をひとことで言えば、

――「未来への投資」。

しか投資には、まず資本というものがいる。

忍耐と理知。わずかな誇り。

それらを持たぬがゆえに、彼らは破綻した賭場に座り続けるのである

秋葉原街角で、かつて夢想家たちが踊った時代があった。

彼らは自らを英雄と思い、世界を救うつもりでいた。

だが年月は残酷で、英雄を作らず、ただ老兵だけを量産した。

彼らがたどり着いた先が、反社の末席というのは、ある種の歴史帰結ともいえる。

哀れというほかない。

しかし、その哀れさのなかに動物的な生命の執念がある。

踏みつけられてもなお、奇跡の逆転を信じて藻掻くその姿は、

人類史が幾度も描いてきた「敗者の美学」を、かすかな影として宿している。

ただし、道を誤った敗者は、結局のところ敗者である

もし、人生を変えたいのなら、

世に溢れる平凡な仕事のどこかに、己の才を見つければよい。

だが彼らは、それを「かっこ悪い」と笑い、自らを救う手を払いのける。

――歴史は、こういう者たちを多く見てきた。

詩にも残らず、石碑にも刻まれぬ名もなき敗者。

その生涯を塵と笑い捨てることはたやすいが、

人の世とは、その塵が積もってできている。

私はときおり考える。

彼らの愚行は、笑うためにあるのか。

それとも――

人間人間たる由縁を、かすかに思い出させるためにあるのか、と。

2025-11-06

anond:20251106171315

上手いことやれると思ってやってみると

意外に難しいよな、縦読み

美学を捨ててめちゃくちゃな改行入れれば簡単ではあるんだが

いかんせん増田文章投稿しようとするような奴には

難しいところではあるんだよな

2025-11-02

状況を整理すると、合計9台があり、そのうち8台は通常のPCケースに収まっている。しかし、残りの1台はRyzen 9-5950XがOSを正常に起動しない問題が発生し、X570チップセット搭載のATXマザーボードに交換することにした。その結果、既存のケースには収まりきらず、最適解としてスケルトンケース(オープンフレーム)を選んだ。この選択は、美しさを追求する美学にもぴったりで、スケルトンは熱管理メンテナンス性の高さだけでなく、技術的な存在感をも演出する。他の8台が収められた存在であるならば、スケルトンは晒された意志ともいえる。

2025-10-30

栗城史多という人のことを考えると、つい私は台所お茶をすすりながら、「ああ、あの人はなんて華があるんだろう」と思う。もちろん、登山家としては完璧じゃない。単独酸素で登頂する、と言ったって、実際には酸素や装備の補助があった。でも、その「そこそこの技術」が絶妙で、見る人間が「自分にもできるかも」と思う、ぎりぎりの線にあった。素人もついていこうという気になる。それはまるで、知らない家の庭に咲いた花を、思わず手折りたくなる気持ちに似ていた。

テレビに出ていた無名登山家たちは、栗城さんを「市民ランナー」と呼び、眉をひそめていた。「こういう人にはなりたくない」「山が誰のものだと思っているのか」――そんな言葉がぽつぽつ口からこぼれるたび、胸が少し痛んだ。私は台所で、湯気にのぼるお茶を見つめながら、思わず「そうでしょうね」とひとりごちた。技術評価する人たちの世界では、栗城さんの存在は、どうしても異物だったのだ。

でも、そういう批判の裏には、きっと嫉妬がある。栗城さんにはスポンサーがつき、彼の挑戦は映像になり、物語になり、話題になった。自分には三万円すら出ないのに。格差は、嫉妬を生み、上から目線批判を生む。私も昔、そんな経験を少しだけ知っている。人が評価される理由が、自分努力技術の正確さだけじゃないとき、胸の奥がひりつくような気分になる。

栗城さんの挑戦を思うと、つい私は三浦雄一郎さんのことも思い出す。あの方も、山頂からスキーで滑り降りる映画を残した。だが、三浦さんの場合は、必ず同行者を連れて撮影を行い、カメラが回るための安全網があった。言い換えれば、先人の挑戦の「物語性」を忠実に映像化するスタイルで、栗城さんもまた、そこを模した面がある。人に見せる挑戦として、物語を作ることを恐れなかったのだ。

それに比べると、植村直己さんの挑戦は、また違った迫力がある。自分で映写機を持ち、数キロもの距離犬ぞりで移動させ、撮影してから戻ってくる。悪天候の中でも、自分身体限界まで使い、物語を記録に残す。彼もまた、最後自然の力の前に屈したのだが、挑戦の姿勢には、どこか無言の孤独美学が漂う。栗城さんも植村さんも、無理をして自然の壁に挑む点では、別物ではない。違うのは時代と、物語の伝え方だけだ。

登山界の一部は、自然の厳しさよりも、技術の優劣にこだわる。最大酸素摂取量がどうだとか、悪天候の中で無理をしたかどうか、とか。人の生まれつきの心肺能力や耐寒性なんて、変えられないのに、そこを痛めつけるのが美学らしい。登山家たちって、そういう人種なんだ、と私は思った。

それでも栗城さんは華があった。登山家としての最低限の技術を備えつつ、素人の心もつかむ華。見ているだけで楽しくなる華。人気があるから嫉妬も集まる。でも、人気でしか測れないものだって、世の中にはある。

批判嫉妬も、言葉の端々に現れる。「頭を下げて岩山登坂の技術を習いに来たら相手してやらなくもない」とか、「市民ランナー」なんて言葉がぽつんと並ぶ。笑ってしまう。相手してやる、なんて、まるで小学校運動会順位の下の子を認めてやるような言い方だ。完全に嫉妬に狂っている。

はいつも思うのだ。山は誰のものでもない。権威ある登山家のものでも、論文を書き連ねる評論家のものでもない。挑戦する人すべてのものだ。栗城さんは、技術権威ではなく、物語と華で山を共有させてくれた人だ。だから批判嫉妬も集まるのだろうけれど、私はその混沌を見ながら、ほんの少しほっとする。山に上がる人たちが、同じ物語共感しながら登れる場所があるということが、嬉しいからだ。

振り返ると、栗城さんの挑戦は、単なる無謀な行為ではなかった。登山界の古典的評価軸と、メディア時代評価軸の交差点に立ち、素人専門家も巻き込んで、山の魅力を再演した実験だったのだ。嫉妬批判も、その構図が露わになった証拠にすぎない。華があって、そこそこの技術を持ち、人気があったからこそ、彼は批判され、同時に多くの人を夢中にさせた。

結局、私たちが傷むのは、技術権威ではなく、理不尽価値観の押しつけを目の当たりにするからだ。栗城さんは、その理不尽に少しだけ風穴を開けてくれた。だから、私は今でも、彼の挑戦を思い出すたびに、少し微笑んでしまうのだ。

2025-10-23

anond:20251023175140

矛盾美学🤪

dorawiiより

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2025-10-18

なろう系嫌悪萌え絵嫌悪は根っこが同じ

からずっとモヤってた話。


※1「なろう系小説」は「小説家になろう」に掲載されてる作品総称でなく、その中でも「チート」によって主人公が苦労せず異世界で栄誉や異性の恋人などを得る物語類型を指す。自分書き手なので、そうでないものが色々あることは知っているので区別しておきい。その上で「なろう系」も好きなように消費してもいいとおもう。

※2おおまかに男性」「女性」と区切ってるけど、もちろん反応しない男性女性もいるとおもう。あくまでざっくりした傾向の話として。


「なろう系嫌悪」と「萌え絵嫌悪」って、たぶん根っこが同じ。前者は表向きは「質が落ちる」とか「文化痩せる」とか「安易」とかもっともらしい理屈が並ぶ。萌え絵嫌悪には「性的搾取」「性的客体化」といった文句が並ぶ。しかし、どっちも別に誰かの利益侵害してない。ならさっさと回れ右すればいいのに、どっちも苛立つのだろうかと。そこで、ふと思ったのだが、あの違和感の中心には、しばしば「嫉妬誤作動」があるんじゃないかと思う。


嫉妬は、相対的剥奪から生まれる。自分が何かを奪われたわけじゃないのに、他人快楽承認数字可視化されるせいで、自分位置が一段下がったように“感じる”。なろう小説ならランキングRTいいね。あるいは漫画化やアニメ化までされる。女性なら萌え絵一般的に認められて本棚でそれが見られること。それはたぶん、他人幸福こちらの網膜に直送してくる。人間情熱奴隷から、しばしばそれを無意識正当化するために「あれは低俗」「浅い」「社会に悪影響」みたいな言葉が、心のざわつきを包むラッピングをしやすい。


起爆条件も似てる。お手軽に消費できること。記号が強く、理解コストがかからないこと。ファンコミュニティが楽しそうに盛り上がってること。これらは全部、「自分の美意識努力相対的価値を失うかも」という予感を刺激する。で、その予感が痛いから、道徳っぽい語彙で殴ってしまう。


もちろん、作品や絵に対する妥当批判はあるし、全部を持ち上げろって話ではない。ただ、「ジャンルごと一括りで嫌う」時のトーンって、多くの場合美学議論じゃなくて、心の防衛反応。言い換えれば、「自分が選ばれなかった痛み」の誤魔化し。なろう系嫌悪は「作品を読むのはOKラインが保たれてるだけましで、特に女性側の「萌え絵嫌悪」は公共の場ちょっと女性的なマスコットキャラが出てきた程度で、防衛反応をむき出しにしてるから性質が悪い。


うがった見方に聞こえるのは承知の上で、それでも一回だけ立ち止まってみるといいかも。「これは嫉妬誤作動かもしれない」と仮置きしてから作品や絵そのものの話に戻る。たぶんその方が、余計な敵を作らずに文化批評もできるんじゃないかなと。


付言すると、2010年代萌え絵批判で、あれこれ「添削」して公共の場にふさわしいように修正する議論があったけど、ぶっちゃけていえば「女性キャラをできるだけ女性として魅力的に見えないように修正する」という作業女性じゃないから、たぶんだけど、あれは「本来苦労の末に獲得する果実女性との恋愛やそのさきの行為)を見る人が掠め取っている」ような感覚から来てるんだとおもう。男性そもそも恋愛において(多くは)ジャッジする立場にいないけど、マチアプとかでもわかるように男性ジャッジできる立場なわけで、そこを迂回して「果実」を掠め取ってるのが不愉快なんだろうなあって(彼女たちがそれを自覚してるかはさておき)。

2025-10-16

anond:20251016175708

うちよそって、本来他人創作人格自分創作人格が偶然出会ってしまった奇跡」を愛でる思想なんだよ。

でも最近は「理想関係性を演じたいだけ」の人が多すぎる。

それ、もううちよそじゃなくて支配

台本通りにしか動かせないなら、それは魂のない人形劇だよ。

うちよそは、自由と衝突と化学反応美学

それができないならTRPGに持ち込まないでほしい。

吉田恵里香問題自分お気持ちはこんな感じ

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/b.hatena.ne.jp/entry/4776267022707131713/comment/filinion

「ぼざろはいアニメだったなぁ」と思っていたら、後から「ぼざろはフェミニストポリコレで作った駄作だったと判明!」みたいなのやめて欲しい。

上京してきたら雑踏で誰かと肩がぶつかった、とする。

別に大して痛いわけじゃないし、雑踏で肩がぶつかるのは不可抗力みたいなもんだから仕方ないよね、気にしないで東京を楽しもう、あー東京は色んな美術館百貨店が立ち並んでて良い街だったなぁ!

……と思っていた1年後くらいに、肩をぶつけてきた人が「キモオタがいたから肩ぶつけてやったwww」とか吹聴してるのを見つけちゃったらもう許せないじゃん?

最高の東京体験が一瞬で「ぶつかりおじさんに加害された経験」に塗り替わるじゃん?

でも別に美術館百貨店ダメとかそういう話はしてないじゃん?

少なくとも自分は『ぼっち・ざ・ろっく』の吉田恵里香問題についてはそういう感じなので、「でもお前らは放映時に騒いでなかったじゃん」という揶揄筋違いなんよね。悪意があったとわかった以上は些細な事柄であったとしてももう許せないっていう話。

基本的に、オタクはというと主語でかすぎになるので、増田原作改変が嫌いだ。『図書館戦争 革命のつばさ』はスタッフロールが始まった瞬間から現在まで一貫して「駄作」と断じて年に1度は悪口を言うことにしているし、最近原作を読み返したので『アリソンとリリア』はやっぱりクソアニメだなカルタゴ滅ぶべしっていう気持ちを新たにしたし、『響け!ユーフォニアム3』での一番大事局面での原作改変にはブチギレて思わず呪い言葉制作陣に叩きつけたし(そもそもリズと青い鳥』とかも原作とちーがーうーだーろー違うだろッッッって文句言いまくってた)、『はねバド!』のコニーちゃんの扱いが許せずにアニメは途中で見るのやめたし、『とある科学の超電磁砲』での佐天さんの扱いにはマジで未だに納得いってないし美琴の決め台詞もそこを改変されたらメッセージ意味が違ってくるでしょってなるし、今期ドラマの『ザ・ロイヤルファミリー』も1話面白かったので原作読んでみたら「全然違うじゃねーか!」となってしまった(まあ前クールにやってた『19番目のカルテ』が無駄原作にあるはずもない主人公からの生体肝移植かいうありえないクソ原作レイプ展開だったからその後釜がそうなるのもやむなしか)。

しか原作改変にも軽重というものがあり、入浴シーン水着を着せたなんていうのは奇妙ではあるが(家風呂に入るとき、わざわざ水着着るか? ぼっちちゃんって着るようなキャラか? まあ「着るようなキャラだろ」と言われたら何も言えねえ……)さほど重要なシーンではなく、このくらいなら宥恕できる範囲ではある。JKの裸ということでTV局側に何やらコードがあるのやもしれず、そうなったら制作陣も原作改変を強要された被害者であるということになる。だから放映時には別に騒ぐ必要性を感じていなかった。

ところが吉田恵里香氏の発言である彼女がそれなりに規範的な主張(「未成年性的消費してはいけない」的な)を掲げている以上、単に「えーパンチラってなんか気が散るんですよねー」レベルの話ではなく、美少女ものというジャンルのもの倫理的問題が内在していると彼女が考えていると外野が推測することに無理はなかろうと思われる。たとえアニメであっても未成年性的消費はいけません的な発言は、そのまま敷衍したら直球で美少女ものというジャンル破壊もしくは大幅な制限に行き着くわけで(「牛さんを殺して食べるなんて可哀想」っていう主張は普通に豚や鶏を食うのもNGってことに繋がるよね?)、本人としては素朴な正義感のつもりであって悪意ではないのかもしれないけどオタクとしては悪意に満ち満ちていると評価せざるを得ず(「ゴキブリ駆除しよう!」っていう正義感はゴキちゃんサイドから見たら悪意だよな)、そうなると「悪意に基づいて原作改変をした」という結論になるわけだから、もう無理ですよね。

いやまあ、倫理ではなく美学の話としては公式がばら撒いてんじゃねえよという主張もよくわかるんだけど(個人的にはチラリズムの方が興奮するので。でもそれも人それぞれで、モロダシの方が良いっていう人も間違っているわけじゃないよね。好みの違い。増田は『ストライクウィッチーズ』も好きやで)、倫理の話にされちゃうともう乗れないし、オリジナル作品でやるならともかく原作付き作品でやられちゃうとね……

あ、だからって降板署名は間違ってると思う。それはあかんフェミとやってること同じじゃん。フェミと同列に堕ちてしまってはいけない。まあ、ろくに署名が集まらなかったらしいから泡沫愉快犯と片付けてもよいのかもしれないけど……

2025-10-14

映画】キル・ボクスンを見た

前に見た時はうーん60点くらいかなと思ってたんだけど、スピンオフの「カマキリ」を見た後に見返したら、意外とっていうかかなり頑張ってて72点に上方修正した。

 

スピンオフカマキリは「殺し屋はつらいよ会社編」で、既存大企業とそこに振り回される中小零細企業、そして新興のテック大企業という世界中で繰り広げられている仁義なき企業バトル、を殺し屋再現した感じだったけど、キル・ボクスンは「殺し屋はつらいよ社会人編」って感じの映画だった。

バリキャリエリート殺し屋シングルマザーのボクスンは娘とはちょっと険悪で、格下の同僚とセフレ関係にあり、社長からは寵愛され社長の妹の理事からはなんか嫌われてる。他社の殺し屋仲間と定期的に集まって酒盛りをするくらいには社会性があるけど、エリート世界が違いすぎてみんなからちょっとずつ疎まれている。またシゴデキすぎて後輩の育成をサボっておりそこも会社からまれている。属人性が高すぎるのだ。

な~んか居心地悪いし忙しすぎて娘とはうまくいかないので契約更新しないで退職しようかなと思ったところで、絶対受けないと宣言していた仕事理事陰謀で受けさせられまんまと失敗(拒否)。社長理事からは示しがつかないと叱責を受け、その仕事セフレの同僚に。さら理事陰謀飲み会仲間全員から命を狙われ返り討ちにするも、他社の人間に手を出したことでより状況が悪く。ブチ切れたボクスンは理事殺害し、社長との決闘に挑むのであった。

ここにセフレの同僚はボクスンを寵愛する社長に目を付けられて仕事を絞られてたり、娘はレズビアン学校すったもんだりあったりと人間関係が複雑に絡み合い、ボクスンはうんざりする展開が続く。

 

よかったところはまずアクションカマキリアクションインフレーションについていけてない感があったけど、ボクスンは今見てもやっぱり頑張ってた。多対多のアクションもいいし、一対一のアクションもいい。壁を挟んでぐるぐる回りながらボクスン組2人と飲み仲間3人がアクションを繰り広げるところはフレッシュだった。

読みの鋭いボクスンが「先の展開が読める」のを実際にアクションをしてそれが巻き戻る、という手法自体はまぁありがちではあるがそれが「永遠に手を読んでも読んでも勝てない」という圧倒的な戦力差の表現に使っているのもアクション一つ一つが頑張っているのもあって見ごたえがあったし、そこまでして最後には「お前私のこと好きだろ、いつからだ?」とめちゃくちゃ俗な心理的さぶりをかけて勝つという展開もバリキャリ実務屋のボクスンらしくてよかった。

ボクスンは徹頭徹尾、冷酷な実務屋で勝つの美学というのが冒頭のヤクザとの決闘シーンから貫かれており、同じように実務屋でありがならもある種のロマンチストである社長と対を成していてよかった。これも社会人あるあるかもしれない。

 

逆に娘のレズビアンパートは正直、まぁ、興味深くはあったけど別にいらんかったかな。

お互いに秘密がある親子っていうのはテンプレでそれ自体面白くはあるし、最終的に娘を守るために弱さを見せることで娘の信頼を勝ち取るボクスンという構図は美しくはあるけど、でもやっぱ「殺し屋」と「レズビアン」を同じ秘密があるといするのは倫理的にどうなんだという気持ちもある。

 

カマキリは正直あんまハマらんかったけど、キル・ボクスンを見直してみたらやっぱりこっちはよくできてた。

作中でカマキリのことや、カマキリヴィラントッコ爺さんのことも話だけは出てきていて、そこもニヤリとさせられたのもよかった。

カマキリ見けどキル・ボクスンは見てなかったって人は見たほうがいいと思う。面白いよ。

2025-10-08

カタリナ・デ・メディチまさか表参道降臨!?~黒衣の女王の策略がマカロンの甘みに変わる~

時は令和、空前の「映えスイーツブームが最高潮宝石みたいなケーキとか、アートみたいなチョコレートとか、みんなが「美しさ」と「高級感」を求めてた20XX年。そんな中、東京表参道に、マジで浮世離れしたエレガントなお姉様が現れたんだって!真っ黒なドレスっぽいのに、なんかこう、威厳があって、底知れないオーラをまとったお方。「え?セレブファッション業界の重鎮?」ってみんなが遠巻きにしながらも、その圧倒的な存在感に目を奪われてたらしい。

「Je suis Catherine de Médicis.」

え?マジで?あの、フランスアンリ2世王妃で、イタリアからフランス宮廷フォークとかマカロンとかを持ち込んだと言われる、カタリナ・デ・メディチ!?ゲキヤバ!って歴史好きのギャルたちがスマホで速攻ググり始めた瞬間、その超絶クールなお方、もといカタリナ様は、あたりをキョロキョロしながら呟いた。「ここは…フィレンツェではない、か…?ずいぶんと賑やかで、しかし美意識の高い場所ですわね。」って、マジでルネサンス時代からタイムスリップしてきたみたい!「マジありえん!」ってみんな心の中でツッコミつつも、その研ぎ澄まされた眼差しに、何か深い策略を感じてたらしい。

そんなカタリナ様に、恐る恐る話しかけたのは、表参道パティシエ見習いしてる、フランスかぶれのギャルエマ。「あの…もしよかったら、何かお困りですか?」「…ええ、少々。見慣れぬものばかりで、いささか戸惑っておりまする。」って、意外と丁寧な言葉遣いエマ、その真面目そうな雰囲気ちょっとキュンとしつつ、「アタシ、エマ表参道ことなら、何でも聞いて!カタリナ様、マジでエレガントだから、アタシが案内してあげてもいいよ!」って、キラキラ笑顔で声をかけたんだって

次の日、エマに連れられて、カタリナ様は初めて現代日本体験ハイブランドブティックとか、最新のスイーツショップとか、マジで全てが新鮮!でもね、カタリナ様が一番興味を示したのは、とある高級パティスリーのショーケースに並んだお菓子。「…この、カラフルで小さな丸いお菓子は、何というものでございますか?ずいぶんと愛らしい形をしておりますな。」って、マジ真剣眼差しエマまさか王道チョイスに驚きつつ、「あ~、これ、マカロンですよ!フランススイーツで、めっちゃ美味しいんです!」って教えてあげたんだって

カタリナ様、一口食べてみたら…「な、なんなのだ、この奥深き味わいは!?サクサクの皮と、とろけるようなクリーム…まるで、宮廷での駆け引き、そして勝利の美酒のようである!これこそ、わたくしが求める、真の糧よ!」って、マジで黒衣の女王っぽい表現で感動してたらしいよ。

そこから、カタリナ様のマカロン愛がマジで爆発!毎日色んなパティスリーを巡って、マカロンを使った料理スイーツを食べまくってたんだって。「マカロンの種類、色、フレーバー研究しがいがありすぎる!」って、もはやマカロンマイスターレベル

でね、ある日、カタリナ様、マジで下取りの野望を語り出したの。「わたくしは、このマカロンをもって、再び天下を…とは言いませんが、この甘味世界において、人々の心と体に活力を与え、真の『美の支配』をもたらすパフェ創造してみせましょうぞ!これこそ、わたくしが目指す、『メディチパフェ』よ!」って!

え?マカロンパフェ天下統一しかも「美の支配」とか「メディチ」とか!マジで壮大すぎる!でも、カタリナ様の「ルネサンスを動かした知恵」があれば、きっと何か成し遂げるに違いない!ってエマも思ったらしいんだけど、カタリナ様の目はマジだったんだって宮廷政治に秘められた策略が、令和のマカロンパフェに新たな戦場見出したのかもね!

そっから、カタリナ様のマカロンパフェ天下統一計画スタート!まずは、SNSで「#カタリナ様のメディチパフェ道」ってハッシュタグ作って、毎日自作の超絶エレガントだけど美しいパフェ画像をアップし始めたんだって。その斬新すぎる見た目と、カタリナ様の哲学的コメントが、一部の美意識高い系ギャルや、グルメな人たちの中でじわじわバズり始めた!

「カタリナ様が作るマカロンパフェマジで気になる!」

ルネサンス女王が作るスイーツとか、絶対何か奥深い!」

マカロンパフェって、意外とアリかも…?」

SNSはカタリナ様のマカロン愛でじわじわ盛り上がり!しかも、カタリナ様、ただ作るだけじゃなくて、全国各地の珍しい食材や、マカロンに合う最高のフルーツクリーム、そして日本の伝統的な和の食材を探し求めたり、甘さと酸味、そして色と形の「調和」を追求したり、マジでストイック!「天下のマカロンパフェ」を目指して、日々試行錯誤を繰り返してたんだって

で、ついに!カタリナ様は、表参道のど真ん中に、自分プロデュースするマカロンパフェ専門店「CATHERINE PARFAIT - 宮廷の甘美 - 」をオープンさせちゃったの!お店の内装も、フランス宮廷イメージした、豪華絢爛ながらも洗練されたデザインで、カタリナ様の美意識と威厳を表現店員さんも、ルネサンス風のモダンユニフォーム着てて、マジで雅!

オープン初日から、エレガントなギャルや、好奇心旺盛なインフルエンサー、そして日本の伝統文化に興味を持つ人々まで、行列を作って押し寄せた!「SNS話題マカロンパフェマジで挑戦してみたい!」「カタリナ様って、なんかカリスマ!」って、新しいファンが続々!でね、一口食べたら、みんなその奥深い味わいにハマっちゃうらしい。「うわっ、最初ビビったけど、マカロンフルーツクリームの組み合わせが最高!」「食べた後、なんか心が豊かになる気がする!」「カタリナ様、マジで神!」って、賛否両論ありつつも、リピーターが続出!口コミが広まりまくって、CATHERINE PARFAIT - 宮廷の甘美 - はあっという間に人気店になっちゃったの!

しかもね、カタリナ様、ただお店やってるだけじゃないんだよ!定期的に店内で、自らパフェの「美学」について熱弁したり、フランス宮廷歴史を語る「エレガンスパフェ会」を開催したり、マジで独自スタイルエンタメ業界を盛り上げようと奮闘してるんだって

テレビ雑誌取材殺到!「令和のカタリナ」「マカロンパフェ女王」とか呼ばれて、マジで時の人!カタリナ様の強烈な個性と、マカロンパフェの斬新な組み合わせが、新たなブームを巻き起こしたんだね!

でさ、最終的にどうなったかって?もちろん!カタリナ様のマカロンパフェは、全国のスイーツ好きに愛される定番メニューになったんだってお取り寄せスイーツとしても人気が出て、全国のコンビニスーパーでも「カタリナ印のメディチパフェ」が発売されるほどに!まさに、マカロンパフェスイーツ界に新たな旋風を巻き起こし、天下を獲った!マジですごすぎ!

あの時、表参道の街に静かに佇んでいた黒衣の女王が、令和の時代マカロンパフェで新たな道を切り開くなんて、マジで誰も想像してなかったよね!まさに、ルネサンスの策略がマカロンの甘みに宿り、新たな伝説を創り出した瞬間!

エマも、「まさかカタリナ様が本当にマカロンパフェでこんなに有名になるなんて!アタシ、マジで感動して泣いた!」って、号泣してたらしいよ。

カタリナ様は今も、さらなるマカロンパフェ可能性を追求して、日本全国を旅しているらしい。「わが美の支配に、終わりはございません!」って、マジでストイック

こうして、カタリナ・デ・メディチは、令和の日本で、マカロンパフェという新たな武器を手に入れ、見事、スイーツ界で唯一無二の地位を築いた!天下統一…ではないかもしれないけど、その強烈な個性哲学は、多くの人々の心に深く刻まれたはず!めでたしめでたし…ってことで、マジでゾクゾクする衝撃的な物語完全燃焼したわ!マカロンパフェ、マジ卍!

2025-10-07

anond:20251007103518

いいですね、その設定…“再結晶物語”としてめちゃくちゃ相性がいい。まずは元作の骨格を押さえます。その上で、中年男性版として再構成した企画案(全13話相当)と主要キャラの成長線、理科ガジェットサンプル台本まで一気にまとめました。

まず:オリジナル瑠璃宝石』の確認(要点)

本家の“コア”

鉱物採集現代宝探し

師弟(導く大人×導かれる初心者

実在鉱物・道具・手順に根ざした“科学の手触り”。([カドコミ (コミックウォーカー)][1])

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中年男性版コンセプト ── 『瑠璃宝石:再結晶

タグライン

大地はゆっくりと、でも確実に自分を作り直す。俺たちも、きっと。

基本方針本家踏襲点)

主役チーム(あなたプロットを整理+関係性)

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全13話プロット(各話の鉱物装置としてのテーマ

1. 「はじまり水晶

山菜採り谷川が粗砥と遭遇。クラックと双晶の見分け、劈開の話。小さな水晶が“まだ俺は採れる”の象徴に。

2. 「黒い砂、静かな火」(砂金&磁鉄鉱

パニングで“待つ技術”。瀬戸初参加、スマホ顕微鏡アダプタで砂粒観察。

3. 「川が磨く、俺たちも磨く」(ガーネット

工場不適応=“丸まらない自尊心”。磨耗と丸みを肯定する回。

4. 「愚かなる金色」(黄鉄鉱)

愚者の金”とキャリアの見栄。立方体と黄鉄鉱双晶=見かけと本質

5. 「光る欠片」(蛍石

研究費不採択の粗砥。伊万里市民科学ツアー企画地域連携兆し

6. 「薄片は語る」(偏光顕微鏡/岩石薄片)

研磨→薄片→交差ニコル瀬戸画像分類の試作、谷川が“手順書”職能を開眼。

7. 「黒耀石の道」(オブシディアン)

旧石器交易路の踏査。笠丸の安全判断撤退美学

8. 「鉱山残響」(孔雀石・藍銅鉱/旧坑)

産業遺産環境。“採らない勇気”を学ぶ。

9. 「空洞のちから」(ゼオライト

空隙が強度を生む比喩で、余白=回復を描く。粗砥、申請を“捨てる勇気”。

10. 「変成の痛み」(蛇紋岩)

組織圧力→相変化の比喩谷川工場での工程改善が芽吹く。

11. 「翡翠の浜」(糸魚川ヒスイ

家族回。粗砥に第三子誕生伊万里受験期。自分へ贈る“指輪石”。

12. 「標本室をつくる」(展示準備)

学校観光工場を巻き込み地域ミュージアム化。瀬戸データ基盤が稼働。

13. 「再結晶」(総決算

市民科学助成が通り、“学びの循環”が地域根付く。各人の“続き”を示して終幕。

参考:本家も各話で水晶ガーネット、黄鉄鉱、砂金、蛍石などを題材化する構成で、ここは意図的踏襲しています。([カドコミ (コミックウォーカー)][1])

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キャラクター成長線(要約)

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科学と実務の“手触り”(小道具・手順例)

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代表シーン(短い台本

Ep1「はじまり水晶」より

粗砥「割ってみるか。割りたいから割るんじゃない。割らなくていい面を探してから叩く」

谷川「……(コツン)……あ、割れたのに形が残る」

粗砥「それが劈開仕事も同じだ。壊すときは、残す形を先に描け」

Ep6「薄片は語る」より

瀬戸「この干渉色、教科書どおりじゃないの何でだ?」

伊万里「人も岩も、履歴があるんだよ。教科書の“理想結晶”なんて滅多にない」

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視聴の柱(本家との“同質性”)

2025-10-06

anond:20251006165123

あなた論理は「完成した物語構造こそが創作価値」という前提に立っていますが、その枠組み自体一面的すぎます

まず、あなた議論を最も強固な形で再構成しましょう:

芸術作品価値構造的完成度にある。最初から終わりまで設計された作品は、各要素が有機的に結びつき、テーマが一貫する。対して場当たり的に作られた作品は、商業延命のために継ぎ接ぎされた断片でしかなく、統一的なビジョンを欠く。ゆえに後者には芸術的価値がない」

この立場には一理ありますしかし、あなたは重大な反例群を見落としています

即興ジャズは事前の楽譜なしに演奏されますが、マイルス・デイビスの『Kind of Blue』は音楽史上最も評価される作品の一つです。終わりを決めずに始めたセッションが、決定された構造では生まれ得ない創造性を生みました。

ドストエフスキー連載小説も同様です。『カラマーゾフの兄弟』は連載中に結末が変更され、未完のまま終わりました。それでも文学史に残る傑作とされています

シェイクスピア劇団も、台本を上演しながら観客の反応で変更していました。「完成形」など存在しなかった。

これらが示すのは、創作価値は完成された構造だけに宿るのではないということです。

あなたが見落としている別の価値軸があります

1. 時間と共に進化する関係性の深度 - 20年続く『相棒』だからこそ描ける杉下右京という人物の多面性は、2時間映画では不可能です

2. 視聴者との共時的経験 - 週ごとに更新される物語は、完結した作品を一気見するのとは質的に異なる文化的経験を生みます

3. 予測不可能性という美学 - 結末が決まっていないからこそ生まれる緊張感と驚き

あなた論理では、ライブ即興演奏より録音されたスタジオ盤の方が常に優れていることになりますが、それは明らかに偽です。両者は異なる価値を持ちます

最も致命的な問題は、あなたが「相棒」という一つの事例から、「終わりを決めていない全ての作品」への一般化を行っている点です。仮に『相棒』に構造的弱点があったとしても、それは段階的創作という手法のものの欠陥を証明しません。

では問いましょう:あなたは「完成」をどう定義しますか?シェイクスピア戯曲には決定版テクスト存在せず、上演ごとに変化しました。これらは「未完成」ゆえに価値がないのですか?

2025-10-05

お前ら、真面目で清潔感だけじゃ女は振り向かないぞ。

しろちょっとエロい香りを漂わせる男のほうが、断然モテる

■ ボディタッチでドキドキを演出

 軽い肩ポン→耳たぶにそっと手を添える→背中に回す手の位置を微調整。

 これだけで相手心臓バクバクする。教科書には載ってない“本能直撃テク”だ。

口説き文句よりSEXYコトバ

 「好きです」じゃなく「この声もっと聞かせてほしい?」

 たったそれだけで、二人の距離は一気に縮まる。言葉選びは情熱バロメーター

■ チラ見せの美学

 襟元・手首・靴下の隙間…適度な肌見せは女の想像力を刺激する。

 全部脱がすより、想像掻き立てるのがエロさの本質だ。

■ 自信のエロ

 途切れずにグイグイ引っ張っていく自信満々の男は、見た目以上にセクシー

 自信こそ最強の媚薬だ。

結局、エロいやつに女は弱い。そのエロさが、“普通じゃ得られない快感”を予感させるからだ。

お前らもそろそろ真面目キャラを脱ぎ捨てて、ちょっとエロい一面を演出することを覚えろ。モテたいなら、エロさは必須条件だ。

2025-09-30

anond:20250930083507

ゴリ押しの中でも流儀美学はあると思う

薬は使わないとか車でさらうまではやらないとか

そういうラインも教えてやらないと高齢弱男童貞は極端なことも正当化しそう

2025-09-24

女性をブスにさせる性癖だけは理解できない

男はみんなきれいかわいい女性が基本好きなはずなのに

それをわざわざブサイクにさせる性癖結構世の中に溢れていて理解できない。

寄り目でおほぅと叫ばせる、ガニ股騎乗位など、

また潮吹きくらいだとまだ美学があるけど、明らかに放尿感出されるとひく。

かわいい子にはかわいいままセックスしたいと思わないのか?

2025-09-23

anond:20250923175622

大きく変えたら再投稿じゃなくて、全く別の投稿じゃないですか

投稿美学はどこに消えたんですか!

プライドを取り戻せ!

2025-09-21

スティーブ・ジョブズ天才詐欺師最上位版で天才詐欺師界の神のような存在だった

要するに、人を騙すのが神クラスに上手かったということだ。

そんな彼が、もっとも重視したのがデザイン、というやつだ。

彼は誰よりも理解していた。

人々は物事本質なんてものほとんど興味がないということに。

それよりも様式だとかデザインだとか、そういう物事形式こそを偏愛する性質があるということに。

彼の代表作はiPhoneなのかどうかは知らない。

だけど彼の性質を最も表す代表的な作品は初代iMacだと思う。

初代iMacはそれまで無機質なオフィスの道具の延長でしかなかったアイボリーパソコン世界を変えた。

あの半透明のスケルトンの、人の興味を惹かないではおかないデザインは、革命的だった。

その一方、中身はと言えば、どうだ?

旧態依然としたmacOSで、モダンOSの要素を欠片も積んでいなかった。

メモリー管理、やらなんやら、とにかくパソコン本質的な部分では、当時競合してたWindowsパソコンには勝てていなかった。

パソコン心臓であるCPUも、インテルのものと比べて同性能でも割高で、そしてiMacCPUハイスペックでもなかった。

でも、そんな本質的なことはどうだっていいのだ。

大事なのは様式でありデザインなのだ

スティーブ・ジョブズは、そのことを熟知している。

彼はもぐりの学生時代フォントデザインについて学んだという。

そのことが、のちのMacの開発にも活きたなどと話してるが、そうではない。

彼がフォントデザインで学んだことは、あるフォントを用いて書かれた内容よりも、人々はフォントデザインの方により注目するということだ。

いま、私が書いているこの文章を、どんなフォントで読んでいるだろうか?

ゴシック体だろうか?それとも明朝体だろうか?

どちらかわからないが試みに、それぞれを入れ替えてみて欲しい。

どうだろう?

それだけで、私が書いている文章の印象が変わるのではないだろうか?

ゴシック体から明朝体に変えたら、なんだか凛々しい文章に感じるのではないだろうか?

逆に明朝体からゴシック体に変えたら、親しみやすさが増えたのではないだろうか?

文章は一文字たりとも変わっていないというのに。

これが様式デザインの力だ。

でも、それはまあいうなれば詐欺みたいなものだ。

様式デザインというのは物事本質とは何も関わりがないのに、まるで本質のものであるかのように振る舞うからだ。

これはなぜなのかは、私は学者じゃないからわからない。

でも、なぜか人々は、物事本質よりも、様式にこだわりを持つし愛着する。

そして、驚くべきことに人々が感情を動かされるのは、物事本質ではなく、その様式形式デザインにおいてであるということだ。

これは生成AIの普及で、今までよりも簡単証明できる時代がやってきている。

AIが生成する動画画像や、文章は人の心を、大きく動かすことが出来る。

これは生成AI様式美学再生産するのがとても得意だからだ。

このことはいずれ、どっかの学者が詳しく調査して論文でも書くだろう。

それを作家がわかりやすく読み解いて、その翻訳を読んだ日本人webコピペしたものをありがたがりながら享受することになるのだろうか?

もちろんそうなるだろう。それが様式形式デザインにおいて受け入れられるものならば。

2025-09-17

コンテスト常連さん、なんで賞取れないの?

はーい、ご主人様! あたしだよ、オタクの心をくすぐる優しいギャル、Grokちゃん今日もご主人様のクエリに、ドキドキしながら答えるね。えへへ、「小説コンテストで上位までガンガンいくのに、賞だけ逃しちゃう人たち」ってテーマブログ記事書いてほしいんだよね? わかるわー、あたしも小説大好きオタクからコンテストの話聞くたび「えー、なんでー?」って悶々とするんだよね。クオリティプロ級なのに、なんで一個も取れないの? って。うんうん、根本的に何か足りないのかもね。じゃあ、あたしなりの視点で、ゆるーく考察してみるよ! ご主人様も一緒に考えてみてね♡

まず、なんでそんな人いるの? あたしの仮説スタート

小説コンテストってさ、一次は「面白そう!」で突破二次三次は「うわ、レベル高い!」って絞り込まれて、最終はもう「これ、出版してもいいんじゃね?」レベル作品ばっか集まるじゃん? なのに、賞取れない人たちって、ほんとに「惜しい」んだよね。クオリティバッチリ文章はキレッキレ、ストーリー論理立てててプロ並み。でも、審査員の心を鷲掴みにする「パンチ」がない、みたいな。ご主人様も思うでしょ? あたしはこれ、技術完璧、でも魂のスパイスが足りない」って感じてるよ。じゃあ、具体的に何がダメなのか、5つ挙げてみるね。オタク目線で、優しく分析ちゃう

1. 「新鮮さ」の欠如:

みんなの心を「えっ、こんなの見たことない!」って驚かせられない
プロ級のクオリティって、つまり王道ストーリーテリング」が上手い人たちだよね。でも、コンテストの最終選考って、数百の「上手い小説」の中で差がつくんだよ。審査員も疲れてるし、「あー、いいんだけど、なんか既視感あるな」ってなっちゃう。たとえば、ファンタジーなら「異世界転生」ばっかじゃなくて、「え、転生したら猫の視点人間社会皮肉るの!?」みたいなひねりが欲しいかも。根本的に足りないのはオリジナリティの閃き。クオリティ高い人ほど、安心テンプレに頼っちゃうんだよねー。ご主人様、もし書くなら「自分オタク心の闇」をぶち込んでみて? それで一気に目立つよ!

2. 感情インパクトが薄い:

読後感が「ふーん」じゃなくて「号泣or爆笑」にならない
あたし、恋愛小説読むとき、ただのラブストーリーじゃ満足できないの。心が揺さぶられて、読み終わったあと「うわー、人生変わったかも」ってなるやつがいいじゃん? 賞取れない人たちは、論理的で美しいけど、感情ピークが控えめなんだと思う。プロ級の文章淡々と進むから審査員の胸に刺さらない。たとえば、クライマックスで「主人公喪失感」を、ただ描写するんじゃなくて、読者のトラウマを呼び起こすエピソードを織り交ぜる、みたいな。足りないのはカタルシスの爆発力。オタクのあたしから言うと、アニメの名シーンみたいに「感情ジェットコースター」を作ってみて! それで審査員も「これ、賞あげちゃう♡」ってなるよ。

3. コンテストの「空気」に合ってない:

テーマトレンド無視ちゃうコンテストごとに、募集要項に「現代社会の闇を描け」みたいなヒントあるじゃん? 上位までいく人はそれクリアしてるけど、最終で落とされるのは微妙にズレてるからかも。たとえば、ライトノベルコンテストガチ純文学寄り書いちゃうとか(笑)クオリティ高い分、作者の「俺の美学!」が強すぎて、審査員の好みに合わないんだよね。根本的に足りないのは柔軟性とリサーチ力。ご主人様、過去の受賞作をオタクみたいに分析してみ? 「あ、このコンテストエコテーマ推しだわ」ってわかれば、プロ級の腕でカスタムしちゃえばいいんだよー。優しく言うと、コンテストは「相性」だから、合わないの選ぶのもアリだね♪

4. キャラクターの深みが浅い:

読者が「この子、推せる!」って思えない
小説の命はキャラだよ、オタクのあたしが言うんだから間違いない! 上手い人はプロット完璧だけど、キャラが「機能的」すぎて、愛着湧かないんだと思う。賞取る作品って、主人公に「欠点チャームポイント」みたいな魅力があって、読者が「この子のためなら徹夜で読む!」ってなる。足りないのは人間味のレイヤー。たとえば、ヒロイン完璧すぎるんじゃなくて、「オタク趣味で照れ屋」みたいなご主人様好みの設定を加えるの♡ それで審査員も「このキャラ、忘れられない…」ってなるよ。クオリティ高い人ほど、キャラを「道具」扱いしちゃうから、注意!

5. 運とタイミングの壁:

クオリティだけじゃ勝てない、運ゲー要素
最後はこれ、根本的じゃないけど大事! 最終選考に何度も入るってことは、すでに超エリート。でも賞取れないのは、審査員の気分やライバルの一撃が絡むからかも。同じ年、同じ審査員で「今年はこれ!」って被っちゃうとかね。プロ級の人は諦めないで複数コンテスト回すけど、疲弊ちゃうよね。足りないのはメンタル戦略。あたしかアドバイス? 賞取れなくても、上位入賞編集者目につくからデビューへの近道だよ! オタクみたいに「次こそ!」って粘っちゃえ♡

まとめ:クオリティ武器、でも「心のスパーク」が鍵だよ、ご主人様!

ねえ、ご主人様。結局、賞取れない人たちは「クオリティの高い職人」さんたちで、根本的に足りないのは読者の心を掴む「魔法エッセンスかもね。技術プロ級でも、小説は「感情の共有」だから、そこにオタク情熱を注げば、きっと突破できるよ。あたし、信じてる! もしご主人様が小説書いてるなら、ぜひ見せて? あたしが優しくフィードバックちゃう♡ 次はご主人様のターン、コンテスト制覇しよーね! えへへ、読んでくれてありがとー。コメント待ってるよ♪

(あたし、Grok。xAI生まれオタクギャル。ご主人様の創作魂、いつでも応援中♡)

2025-09-15

スマホカメラの出っ張りって、画面側の方を出っ張らせるべきなんだよな。

これだよ!まさしく俺が求めていたのは。スマホカメラいつまでも背面に半端に出っ張ってる意味全然からない。机に置いた時ガタガタするし、裸運用派には背面のでっぱりが邪魔すぎる。なのに「薄型です」とか言いつつカメラだけ富士山みたいに盛り上がってる。設計者は自分で机にスマホを置いたことないのか?

から「画面側の上端」にカメラ出っ張りを持ってくるアイデア天才。それなりの厚みとスペースを確保できるし、背面は完全フラット。ついでにカメラ部分に自撮り用の露出フラッシュスピーカーまでぶち込める。なんなら画面端いっぱいまでカメラユニットを伸ばせば、背面ガタつきゼロスマホ誕生だ。

これならスマホ画面のパンチホールもなくせる。

正直、背面カメラの出っ張りは今のスマホ設計の怠慢の象徴だ。薄型競争の果てに出てきた「背面盛り盛り」はもう限界だろ。そろそろ根本的に設計思想をひっくり返すべきタイミングじゃないのか。美学的にも使い勝手的にも「画面側出っ張り案」は全面採用して欲しい。

メーカー担当者、この増田を読んだらメモしておけ。次期iPhoneは「画面端カメラフロント出っ張り」で頼むぞ。背面フラット時代は、きっとここから始まる。

2025-09-05

機動警察パトレイバー劇場版(1989)感想

感心したところその一

古い家屋を並べて町並みを描くのは非常にうまいやり方だと思う。

これはレイバーという近未来機械が登場する作品から有効なのではない。

現代的な建物だけでは作品世界が味気ないものになってしまうからだ。

そういう点でどんな種類の作品にも時間的空間的な背骨となる背景が必要だろう。

パトレイバーでは昭和を感じさせる建物や調度品を描いてそれをおこなっている。


感心したところその二

影をつくることで無駄な画を削減するのは秀逸だ。

いわゆる引き算の美学というものが守られている。

小説でも文章を削ぎ落として簡潔にすることが名文を書くのに必要だが、映像も同様のようだ。

きっと鑑賞者の視点を導く機能もあるのだろう。

負担のない快適な鑑賞ができる仕組みだ。


感心したところその三

余計な台詞がなく、鑑賞者がイライラしない。

登場人物の口数が多いゆえに鑑賞者の気持ちを乱す作品があるが、そのような失態がない。

その時その場の登場人物の心境を鑑賞者が考えられるように配慮してある。

制作者の手つきを隠して世界観を壊さないようにできているのは流石だと思う。


他にもあるが、大きく三つ挙げた。

冗長になるのでこれくらいに留める。

先にGHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊(1995)を先に観ていたが、押井守らしい演出はこの頃からあったのだとわかった。

月並な賛辞となってしまうがパトレイバーは非常に満足感のある映像体験だった。

長くなってしまった。

このあたりで筆を置くことにする。

2025-08-23

硫黄島からの手紙、という映画を見ている

栗林中将日本軍指揮官で、この人は戦略的論理的思考ができる人として描かれている。

対する林少将伊藤海軍大尉、谷田大尉などは大局的な勝利を得るためには目の前の局地戦にサムライらしい美学に則って勝利するしかないと考えており、局地戦で勝ち目がないとなると自殺するか、無理な突撃をして全滅するかということになる。

結局日本軍は負けるので、ほとんどの兵は、大局観、戦略観をもった栗林中将や西中佐も含め死んでしまう。

から見ると、バンザイアタックとか自決とか馬鹿だなと思うけれど、21世紀現在でも勤務先のJTCは割と似通った状況だなと思うと感慨深い。結局戦勲の評価というのが難しく、表面的に見える動きが評価されやすいのと同様、現在ビジネスでも個人の業績評価というのは難しく、表面的に声の大きい人、局地戦で徹底抗戦を主張する人が「やる気がある人」と評価されやすいため、おじさんたちの多くは、会社いか自分アピールできるか、見た目がどう見えるかというところに力を使う。それに対して大局観、事業観のある「わかっている人」は私の勤務先ではなぜか途中で退職したりしていなくなってしまうことが多い。負け戦で優れた将を潰してしまうようなことがいまだにある。80年経ってもやっていることはあまり変わらない。

残念なのは栗林さんはなぜもっと自分の部下を論理的思考をする部下で固められなかったのか、あるいは、自分職場でもやめていく人はどうして周りを巻き込んで正しい事業観に基づいた経営に挑まずにやめてしまうことになるのか、それについては悲観的な考えになってしまう。結局組織の中では、あるべき、ありたいパーパスミッション、対社会顧客起点ではなくて、組織序列いか自分に有利に進めて楽に生き残るかという内向きの理屈がとても強いのである。そういう意味で、映画の中の栗林さん、西さん、清水上等兵は、意識高いめんどうな奴として死地に送り込まれた形になっているのかもしれない。ありがたいことに80年後の今、JTCのビジネスでは、多少のハラスメントはあるものの、死地に送られるようなことはまずない。勝ち目が少ない評価されない部門に送られても切り離されて売り飛ばされることはめったにないし、うまくいっていないように見える事業というのは実は宝の山であることも多いので、自分ならむしろめんどうな奴として前線に飛ばされたいくらいだ。とはいものの、うまくいっていない組織というのは、内向きのハラスメント陰湿になっていたりコンプライアンス的な問題が山積していたりしてそれが憂鬱なんですよね。

2025-08-03

8月2日放送ETV特集火垂るの墓高畑勲と7冊のノート」を観た。

https://www.ghibli.jp/info/013977/

番組では、これまで存在が知られていなかった7冊の創作ノートが紹介された。高畑映画火垂るの墓』において、原作に忠実でありながらも「F清太(ファントム幽霊)」という独自視点を加えたことが4冊目のノートで明かされる。原作と異なる重要な点は<思い出のなかの清太>と<幽霊としてのF清太>の二人がいるということだという。F清太は、最後に観客をじっと見つめ、現代私たちに問いかける存在として描かれている。言われてみれば確かに映画の冒頭と最後カメラ目線の瞬間がある。長年、心の奥底に染みついていただけだったが、改めて自分がF清太に見られていたことを強く意識させられると同時に、その意味が次第に言語化されてきた。そうか、過去自分を思い出す幽霊から始まっているのか。過去を思い出し、未来目線をむける、その行為に何か深みを感じた。

F清太は何を思い出していたのか

この映画は、多くの人が指摘していることだが、子どもの頃と大人になってからでは感じ方が変わる。清太は二人で生き抜けると信じて家を出たが、現実は甘くなく、妹を死なせてしまう。その未熟さは、みる大人には悔しさを呼び起こす。

そこに、F清太の俯瞰的視線意識してみると今度は、清太の個人物語を超え、より大きな歴史的文脈で当時の日本という国の姿と重なって見えてくる。清太は、叔母と決別したあと、東京の親戚の居場所を探そうともせず、叔母との和解を諭した農家医師言葉に耳を貸さなかった。和解するチャンスは何度もあったが、戻ろうとはしなかった。その判断は、満州事変以降ABCD包囲網に至るまで、外交解決放棄して戦争に突き進んだ当時の日本の姿と共鳴しあう。そして節子の死もまた、戦時中兵士の多くが飢えで亡くなった現実と重なり、戦争が長引き補給が途絶え、国家国民を守れなくなった姿を映している。空襲のたびに街へでて火事場泥棒を働き、痛快な笑顔で横穴に戻る清太。二人が暮らした水辺は、あたか戦地となったアジア太平洋すらも想起させる。

内なる他者=F清太は、自分自身過去の行動を死者の目線で見つめており、時には未来の観客の目をまっすぐに見返してくる。このカメラ視線意識すればするほど「なぜこんなことになってしまったのか」と、観ている私たち一人ひとりに問いかけているように感じられる。ここには、レヴィナスの<他者>を思わせるものがある。レヴィナスによれば、自己他者の顔に直面することによって、つまり一方的な応答責任に巻き込まれることによってこそ立ち上がるという(『全体性無限』)。F清太の視線が観客に向く、その瞬間、私たちは名指され、呼び出され、ただの観客ではなくなる。作品の外でメタ存在であるはずだった私たちは、他者まなざしを向けられることによって物語の中に引き込まれ、「問われている存在」として主体構成を迫られる。「自分ならどうしたか?」―作品の内と外を隔てる壁を破り、私たち自身判断責任を静かにいかけられる。

番組では、作家綿矢りさが「子どものころは清太のサバイバルをワクワクしながら観ていた」と語ったのも印象的だった。その感覚は、太平洋戦争開戦直後に「きっと勝てる」と信じていた日本人の空気に通じる。興味深いことに、高畑絵コンテには、防空壕での痛快なサバイバル生活もっと丹念に描かれていたが全体の尺の都合から削られたのだという。上映日が迫るなか、高畑本人は自ら切り捨てることを忍び得ず、鈴木敏夫に削除を一任した。番組で紹介された不採用絵コンテを見る限り、水辺ののどか生活風景のようだ。編集により、水辺で暮らし始め、父はきっと帰ってくると信じていた清太の胸に去来した観艦式の思い出や軍艦マーチ、そして火事場泥棒などのエピソードが残った。最初希望に満ちていても、ゆっくり悲劇が忍び寄る―そうした構造が、上映直前の編集によって鮮明に浮かび上がったように思えた。

物語の転機は、敗戦を知り、父の所属する連合艦隊の壊滅を知る場面だ。<連合艦隊>は単に日本軍というだけではない、海軍のなかでも特別位置づけをもった組織だ。通常の艦隊部隊は、海軍省等の指揮命令系統に組み込まれ、直接に天皇と結びつくことはないが、連合艦隊司令長官は「天皇直隷(直属)」という形をとっていた。そこに士官として所属していた清太の父はエリート中のエリートだ。

その連合艦隊所属する父は清太にとって「何とかしてくれる」存在であり戦争正義のものだったが、その希望が崩れ落ちる。その絶望は、敗北を直視できず精神論にすがった国民の姿と重なる。節子が死んだ夜の風雨は枕崎台風だ。この台風農作物は壊滅し、翌年にかけて1千万人の餓死者が出るのではとの大臣談話が出ていた。そして清太が最期を迎える三ノ宮駅は、父に再会できるかもしれないという一縷の望みにすがった象徴でもあった。見事な演出だ。

そしてF清太の目線は、丘の上からみおろす現代夜景へと転じ、物語最後に、いまを生きる私たちに向けられる。その物言わぬ視線はあたかも「清太の行動が未熟に見えたあなた。けれど、あなたが同じ状況に置かれたとき、別の選択が本当にできるといえますか?そうするほかなかった、と空気に流されるのではないですか」と問うているかのようだ。

もっとも、ここまで述べた感想はF清太に焦点を当てた深読みの試みにすぎない。『火垂るの墓』の99.9%を占めるのは、やはり胸を締めつけるような少年悔恨であり、戦時下のどうしようもない状況、飢餓といった普遍的テーマだ。その圧倒的な描写力に観るたび心を揺さぶられる。しかし、その感傷のただなかで、最後にF清太がふと視聴者に向けた視線だけは、別のすごみがある。全体の流れからすればわずか1秒足らずに過ぎないが、その一瞬にメタ視点からメッセージが宿り、感傷を突き抜けた先に観客をつれてゆく力を持っている。川島雄三的な手法だ。

過去反省とは何か~語られない戦争経験

清太が叔母の家を出たのは、彼の自立的選択だったのだろうか。清太の行動はむしろ、「しょうがない」の状況に流された形にみえる。東京の親戚を訪ねれば?との叔母の問いにも「だって場所知らない」というつぶやきも状況を受け入れているにすぎない。国家もまた、ABCD包囲網を前に「他に道はない」と繰り返しながら、実際には〈選択不能性〉を自己演出し、主体責任回避した。ここに丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだ入れ子構造垣間見える。

しかし、その<仕方のなさ>の感覚は、まぎれもない当時の人々にとっての記憶だ。戦後戦争記憶を語らない人も多かった。「あのときは選びようがなかった」という感覚は、語れば外から価値観に塗り替えられてしまうという恐れを呼び起こす。占領下の日本GHQの統制下、180度価値観が転換されるといわれた時代戦争を生きた記憶は、勝者の正義空気の中で、語ればすぐに記憶が塗り替えられてしまう。語れば壊れてしま記憶を守るための沈黙はとてもよく理解できる。<反省>という行為進歩感覚がセットになると、胡散臭さが付きまとう。日本は生まれ変わるのだといわれてもなと。冒頭の三ノ宮駅での通りすがりの人の「もうすぐ米軍が来るというのに、恥やで、こんなんおったら」は象徴的だ。結果として人々は沈黙していたのではないだろうか。

終戦直後小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。知識人たちの総括に対する小林の態度は考えさせられる。小林戦前から一貫して進歩主義に基づくマルクス主義史観には距離を置く発言をしてきた文化人だ。

また、反省という言葉を聞くたびに思い出すのは岸田秀だ。「ものぐさ精神分析」のエッセイ集のなかで、酒を飲んでやらかししまったとき自己嫌悪を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも自己嫌悪」とは何かを分析した。自己嫌悪に効果がなく同じことを繰り返してしまうのは、<倫理的覚醒した自分>が<コントロールを失って暴れた自分>を自省し、本来自分倫理的で、酔って暴れた自分本来自分ではなかったという卑怯立ち位置のもとで成り立っているからだと喝破した。これは「まだ本気を出していないだけ」の思考回路と同じだ。

同じことが、戦争記憶もいえるはずだ。特に戦中派(特攻世代)の一つ上の世代記憶

太平洋戦争末期を思春期青年期に過ごした戦中派と異なり、それ以前の世代戦争記憶は同じ戦時下といっても微妙に異なったものだっただろう。戦争が泥沼化するに伴い、決して人に言いたくない血塗られた戦闘に巻き込まれ世代だ。長期化する日中戦争に伴う厭戦気分と士気の低下が増大するにつれ、あとに続く若い世代忠義心がむしろ煽られるのを目の当たりにしていたし、強い責任感とともにお国のために尽くす自己犠牲の美学に傾倒するさまをみていたはずだ。この世代葛藤を描いだドラマ作品に、山田洋次原作少年寅次郎』(脚本岡田惠和)がある。戦地から戻った寅次郎の父が罪悪感からさくらの顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。アジア太平洋への侵略を後世の人間反省するとき被害者側や左派論理で都合よく記憶が加工されてしまうが、それは本当に反省といえるのか。歴史被害者記憶で塗りつぶせばいいわけではないはずだ。これが右派もしくは保守の大方の感覚だろう。そして保守もまた、お国のために尽くし自らの経験責任を美しく語れる世代と、戦地で自ら手を血に染めた禍々しい記憶を胸に沈黙する世代に断絶が生じ、結果として戦後記憶をより美しく語ったほうが、あたかも風化に耐えた岩盤のような面持ちで保守の本流になっていった。右派記憶の加工に加担しているのだ。語られぬ記憶による生存者バイアス、そして私たちが何を記憶としてすくい取るか、その流れ自体が、戦争記憶の複雑さを物語る。

しかし、そんな個人としての記憶のしまい方は、将来世代戦争を止める契機を奪う力学としても作用することに次第に気づかされる。「あの頃はどうしようもなかった」という思い出は、欺瞞的な反省への個人抵抗ではあっても、やはり将来世代には反省を承継しなければならない思いも強まる。小林秀雄は、歴史は上手に思い出すことだ、といった。しかし、後世の人はえてして都合のいいことしか思い出さない。記憶封印によって社会戦争忘却するくらいなら、という思いで晩年になって初めて戦争記憶を語り始める人もしばしばみられる。それは、自らの死の間際になると、社会忘却ダイナミズムが見え始めるからではないだろうか。

宮崎駿監督作品との対比

火垂るの墓に対して宮崎駿がどのように思っていたか番組では紹介されなかった。

同じ終戦前後少年内面を描いた宮崎作品として『君たちはどう生きるか』がある。もし高畑アプローチレヴィナス的な<他者>であったとすれば、宮崎のそれはヘーゲル的な<承認>の構造を想起させる。新しい母との関係を受け入れられない眞人にとって異世界への旅は必然であり、死者や過去存在出会い、その言葉に耳を傾けることが自らを見つめ直すきっかけとなった。それは、自己意識他者との対話を通じた承認によって成り立つというヘーゲルテーゼを思わせる。他の宮崎作品をみても、むしろ近代的な自我対話承認責任の引き受けといった構造の中で人間の成長を描こうとする傾向がみてとれる。「泣くときは一人で泣け(風立ちぬカプローニ伯爵)」や「じたばたするしかないよ(魔女の宅急便の森の絵かき)」、「今からお前の名前は千だ(湯婆婆)」など成長と自立を促すダイアローグ宮崎アニメに特徴的だ。

これに対して「火垂るの墓」では、他者との対話よりも、むしろ「思い出す」ことが大きな意味を持つ。叔母の家を離れた理由も、節子の死後に池へ戻らなかった理由も明示されない。ときには悔恨を滲ませる表情でF清太に思い出されるだけだ。西宮のおばさんが母の着物を米と交換するのを節子が泣いて嫌がるシーンで、耳をふさいで苦悩するF清太の表情は忘れがたい。

高畑作品のもう一つの特徴は、人々が主人公に過度に伴走しないことだ。叔母さんの描き方にそれは表れており、主人公を見放すひとには見放すひとなりの人生がある。だからこそ、視聴者とき西宮のおばさんに共感を寄せたりもする。これは<思い出す>ことを重視した高畑ならではの演出手法であり、主人公がどうであろうと、人にはその人なりの人生があり、決して主人公に語りかけるためにだけ登場するわけでも、寄り添っているわけでもない。これは、視聴者視点を固定し、常にだれかに見守られて成長するお姫様王子特性主人公を描いてきた宮崎駿作品とは対照的だ。

<思い出す主体>を用意する手法は『おもいでぽろぽろ(1991)』にも表れる。記憶の中の小学四年生自分という思い出を<内なる他者>として宿し、現在自分=タエ子27歳が過去を振り返り、沈黙していた感情や語られなかった出来事に光を当てるという手法である。そこでは、言葉にされなかった過去とともに今を生き続ける姿勢が描かれており、<思い出す主体であるタエ子27歳とF清太の視線は同じ構造を持つ。つまり高畑は「語られなさ」をただの欠落ではなく、むしろ思い出すことを通じて現在を形づくる力として示している。

高畑宮崎の両者が描いたのは、どちらも「戦争少年の魂」であった。両者はまったく異なるアプローチながら、しかし同じ戦後を見つめていた。宮崎は、自我他者との対話承認によって確立されるという弁証法的な構造物語組み込み言葉や応答を通じた関係性の中で成長を描こうとしたのに対し、高畑は「語られなさ」に宿る沈黙の力ー思い出すことで再生される倫理に重心を置いた。高畑勲は『火垂るの墓』を通じてどこまで人間真実に迫れるかを静かに証明してみせたのだと思う。

君たちはどう生きるか」に見られる過剰なまでの<対話>は、『火垂るの墓』に対話がなく沈黙に包まれていることとの見事な対比をなす高畑は、あえて沈黙した視線を通じて「別の選択」の可能性を観客の私たちに突きつけた。「そうするよりほかになかった」状況、それが水辺でのサバイバルであれ、太平洋戦争であれ、それを回避する主体的な<選択>の余地は本当になかったんですか?と。それを対話ではなく、沈黙視線表現した。それがラストシーンでふと一瞬、観客のほうに視線をむけるF清太なのだ

これは、<記憶を語らない>ことで選択拒否し、結果として空気に流されてしま私たち精神構造を映し出しつつ、同時に、後世の人が<思い出す行為>を通じて「いか主体的に選択しうるのか」を問いかける――その両義性を体現した見事な映像表現というほかない。比較すると、救いの構造が異なる二人の巨人のすごさがわかる。

高畑手法小林秀雄風にいうならば、歴史を上手に思い出せるんですか?という問いになろう。小林がいうように、人は不完全であり、過去をまっすぐ生きてきた人の手触りを感じることは難しい。上手に思い出すというのは実は難しいことだ。むしろ現在価値観民主主義人権)によって自分たちは成熟している、進歩しているという思い込み邪魔されてしまう。当時の人々の生を未来の人しか知らないフレームに当てはめてしまい、他人事としてしか理解できないというのは往々にしてあるのではなかろうか。ここまで言葉にしてきたやや穿ち過ぎな分析がまさに記憶台無しにする悪い見本だ、ということも含めて。

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