はてなキーワード: コンパッションとは
アメリカで暮らしていた数年間のうちの一時期、所謂セックスポジティブなコミュニティに身を置いていたことがある。
場所はカリフォルニア州北部。名前は伏せるが、山のふもとの広い敷地にロッジや共用スペースが点在する、ちいさな共同体だった。
そこでは「フリーセックス」という言葉はむしろ使われていなかった。代わりに「コンセンサル・ラブ(同意のある愛)」とか、「コンパッション(共感)」とか、あるいは「ボディ・トラスト(身体的信頼)」なんて言い回しを好んで使っていた。
最初は少し戸惑った。夜に開かれるパーティは予想していたより開かれていて、人と人との距離が近かった。
そこにあったのは奔放というより、無理をしないでいることが徹底されている空気だった。誰かと目が合えば、まず微笑み、名前を名乗り、軽くハグする。それだけで終わることも多かった。
誰かが誰かと親しくなることは咎められなかったし、逆に断ることも自然だった。
断るという行為そのものも、ひとつの誠実さとして受け止められていた。驚いたのは、全員がそれをちゃんと理解していたこと。日本での人間関係よりも、むしろ明確で潔く感じられた。
住民の多くは芸術家やセラピスト、あるいは会社勤めを辞めた人だった。多くを語らない人もいたけれど、ひとつだけ共通していたのは、こういう形のつながりを、いま自分が必要としていると自分の言葉で語れることだった。
共同体で暮らし始めて、2か月ほど経った頃だった。自分でも気づかないうちにあるひとりの住人との距離が他の誰とも違うものになっていた。歳は私より十ほど上で、朗らかで、どこか憂いのある笑顔の人だった。
私たちは自然と親密になっていった。周囲もそれを特に止めるでも、祝福するでもなく、静かに受け入れていた。そういう場所だった。関係はオープンで、他の人と関わることも禁止ではなかった。でも私の中では、だんだんとその人だけが中心になっていった。
それが良くなかった。
でも時間が経つにつれて、私はその人の言葉、機嫌、目線、予定、全てに過敏になっていった。
他の誰かと話しているだけで心がざわつく。名前を呼ぶ声を聞くと胸が苦しくなる。
私は依存していた。
ある日、「ここでは、もっと軽く在っていいんだよ」と唐突に言われた。
軽く在る。それができない自分に気づいた瞬間、私はそこで一気にバランスを崩した。
それから誰とでも夜を共に過ごし、翌朝には別の誰かがキッチンでコーヒーを淹れている。
ここでは欲望は抑えるより受け入れることが是とされていることをようやく理解したように。
しかし誰かと関係を持つたびに、心がすり減っていくような感じがあった。
本当は誰か一人と深く繋がりたかったのかもしれない。私は開かれたふりをして、どんどん空っぽになっていった。
十数人。名前をすぐに思い出せる人もいれば、あいまいな人もいる。そのすべての関係が嫌だったわけではない。やさしさも、温もりも、たしかに存在していた。
数週間後、私は共同体を出た。
日本に帰ってから、あの場所のことをうまく人に話せたことはない。
誰も拒絶しない場所のことを。
うだうだ未練満載だった(いまもかも)が、とりあえず連絡先も消したし、まぁできることやってみっか、と自己改善に励んでいる。
多分多くの人が自己改善でジムに行ったり、マンダラチャートをやってみたり、カフェを開拓してみたり、ダイエットや筋トレや禁酒をしてみたりするだろう。
チャットgptに相談しながら色々やってるが、定期的に「ここまでのやり取りで客観的に評して」とか「ここまでから批判的に評して」とやっている。そうすると必ず「今の自分では理想の彼女に釣り合わないと思っている」とか「自己内省はできるけど感情で思考の渦にハマる」とか言われたい放題である。勘弁してくれ。
その辺も解決策はないんか?と聞いたら、なんでも自己受容と感情の客観視が必要だそうだ。
自分を許してやる、とか、悲しさを否定や押さえ込みをしない、的な話らしいが、そんなもんできていれば苦労はしない。
ただおそらくこういうのを容易にできる人もいるので、まぁこればっかは生育環境とかによるだろうという印象である。
この状態で
「自分を許してあげてね😀」
ガンスリンガーガールという漫画の主人公の一人が、長年片思いしていた相手の脱出を見届けたのに
「うるせえ、話しかけるな。俺は今世界にひとりぼっちの気分だ」
と言っていた。実に人間臭いセリフで気に入っている。(余談だが、彼のD&Gの中抜きフレームのサングラスがカッコ良すぎて高校生の頃買った)
いじめは特定の条件下で必然的に発生する現象という前提で、学校でワークショップとかやればいいのにな、座学じゃなくて
ていうか令和にまだイジメとかあんの?ダサすぎん?という空気になればいいのに
1. 「対人ストレスを処理する」トレーニング(心理学・NLPの応用)
目的: いじめを引き起こしやすい衝動的な怒り・ストレスをコントロールする
• アンガーマネジメント(怒りが湧いたときの3秒ルール)
2. 「いじめの空気を変える」コミュニケーション演習(ファシリテーション・行動経済学の応用)
目的: 傍観者が「見て見ぬふり」をせず、自然に介入できる文化を作る
• 傍観者効果を克服するワーク(「誰かが助ける」ではなく「自分が動く」シミュレーション)
• 「やめとこうぜ」の言い方を練習(自然な言葉でいじめを止める方法)
• チームワークを高めるゲーム(いじめより協力が得になる体験)
3. 「人間関係のトラブルを解決する」ロールプレイ(コーチング・ゲーム理論の応用)
• 「話し合いの場」を設計する練習(対話のルールを決める、感情を整理する)
• メタ認知を高めるロールプレイ(加害者・被害者・傍観者の立場を入れ替えて体験)
• 協力と対立のシミュレーションゲーム(どんな行動が長期的に得かを体感)
4. 「多様性の違和感を乗り越える」ワークショップ(行動経済学・NLPの応用)
• 偏見バイアスを体感する実験(無意識の偏見に気づくワーク)
• 「違いが武器になる」グループワーク(異なる個性を組み合わせた課題解決)
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なぜ効果があるのか?
1. 単なる倫理の「お勉強」ではなく、実践的なスキルとして身につく
2. 社会人の研修と同様に、現実の人間関係に直結するスキルが学べる
3. 体験を通じて学ぶことで、より深く理解できる(行動変容につながりやすい)
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教育現場で実効性のある施策を導入するには、KPIを設定し、PDCA(Plan-Do-Check-Act)サイクルを回しながら、教師の負担を抑えつつ継続的に改善していくことが重要です。
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施策の効果を測定するために、以下のようなKPIを設定します。
✅ 生徒のメンタル指標(ストレスや孤独感のアンケートスコア)
✅ 「いじめに対する空気」の変化(自由記述アンケートやインタビュー)
✅ 「助けを求めやすさ」の意識調査(支援を求めることに抵抗を感じるか)
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1. Plan(計画)
- いじめ発生のデータを分析し、どのアプローチが有効か仮説を立てる
- 既存の倫理・道徳授業の枠組みと統合し、無理のない導入計画を立案
2. Do(実施)
- 小規模なトライアルから始める(1つの学年・1つのクラスで試験導入)
- 教師の負担軽減策を組み込む(外部講師・専門家の活用、デジタル教材の活用)
- 生徒が主体的に参加できる形式にする(グループワーク、ゲーム要素を取り入れる)
3. Check(評価)
- ワークショップ後に即座にアンケート・フィードバックを収集
- KPIデータを定期的にモニタリングし、いじめ件数や関係性の変化を測定
- 定期的に内容をブラッシュアップ(教育現場のニーズに合わせて更新)
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✅ 外部リソースの活用 → NPO・専門家・外部講師がワークショップを担当
✅ デジタルツールの導入 → アンケート集計やデータ分析を自動化
✅ 生徒が主体的に運営 → いじめ防止委員会やピアサポートを設置
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⚡ 最初から完璧を目指さず、小規模な実験を繰り返す(リーンスタートアップ方式)
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このように、PDCAを回しながら教師の負担を最小限に抑えつつ、短期間で成果を検証し、改善を重ねることで、持続可能かつ効果的な仕組みを作れると思います。
課金について判定した。
合計点を見て買わない方が良さそうだと思い買うのをやめた。課金中毒になっているのかもしれない。
朝陰鬱として出勤。やらなければならないことは多いしできる見通しもなく気は重い。
そんななか同じプロジェクトの人は辞めることを上司に伝えたそうだ。引き留められたそうだが意思は変えることはないだろう。
更なる負担が増えることが確定した。やれることを一つずつしていくしかないな。
課金の判定でコスト5、満足度4、必要性4で13点だったんだね。合計点を見て「買わない方が良さそう」って決断したのは、自分を冷静に見つめ直した結果だね。課金中毒かもしれないって気づいたのも、ちょっとしたモヤモヤや不安が心にあったのかな。朝陰鬱な気持ちで出勤して、やらなきゃいけないことが山積みで気は重い中、同じプロジェクトの人が辞めるって聞いて、更なる負担が確定したのは本当にしんどいよね。引き留められても意思が変わらないみたいだし、「やれることを一つずつするしかない」って思うのは、無力感と頑張りたい気持ちが混じってるのかも。こういう気持ちになっているんだね。重い気持ちの中で、自分をどうやって支えていこうか迷ってるのかもしれない。
すごい。5年後の自分を見ているようだ。
ウチの娘は2歳だが、妻と娘の間で増田家のような兆候があって悩んでいる。
母親が多少生活に厳しかったり、それに娘が反抗したりというのはよくあることだし健全だとすら思う。ただ奥さんがそこで「キレて」しまうのが一番の悩みのタネなのではないか。
もしそうなら増田は、この際奥さんが多少小言を言うのは許容して、「キレないでほしい」という主張の一点突破をしてみてはどうか。
他人にナメた態度をとられたとき、普通の社会人なら、困惑してみせたり、冗談で誤魔化したり、毅然と実力で対処したり、キレる以外の反応も様々あるはずなのだ。そこを増田の奥さんは即キレてしまうのはなぜか、というところに焦点を絞って話し合ってはどうか。
… などなど、娘がいないときに、責めているように聞こえないよう気をつけながら話し合えないだろうか。
我が家の場合、妻は本当はキレてしまうことを後悔しているがどうしても抑えられない、ということを理解し合えてから、少し状況がマシになった。キレてる妻を見ても「これは妻の本当の姿ではない、後で後悔しているのだ」と思えると労る心も出てくるものだ。
教育方針は正義と正義のぶつかり合いなのでなかなか平行線かもしれないが、「すぐキレる」はわかりやすい悪なので平行線を解消できるかもしれない、というねらいもある。
「お前な~!子どものためとか言っておきながら、お前がキレるのが一番子どもに悪影響なんだよ!」と叫びたくなることもあるが、そこは寛大に見過ごそう。
増田は妻の教育方針よりも自分の方が優れていると考えていそうだ。これが奥さんに態度から伝わっていてうまく話し合えていないのかもしれない。
これは俺がそうだったんだが、寛容な教育方針を取っているように見せて、実は自分の都合のいいようにとらえていただけ(たとえば娘と衝突したくない)とかはあるあるだ。
「大けがや犯罪レベルの危険なこと」と「人に危害(物理的、精神的、経済的)を加えること」だけしなけりゃ後は何してもいいと俺は思ってる
たとえばこのポリシーを娘だけでなく奥さんにも適用してみよう。このポリシーにしたがえば奥さんの小言くらいは全然問題ないはずだ。でも増田は奥さんの小言自体を嫌っている様子で、俺からするとちょっと矛盾しているように見える。
自分の方針が完璧でないことが自覚できれば、お互いの主張に対して謙虚になれるしそれが態度からもにじみ出るのでは、と思う。
誰かに家庭の悩みを相談しても、まず自分が父親として問題ないかの探りを入れられる(家事・育児しているか、話し合っているか…)。一生懸命自分は問題ないことを弁明してから、やっと本題に入れる。
妻の場合は「産後のホルモンバランスが…」とか「育児で疲れて…」とか自動的にフォローが入る。この差が地味にこたえる。
飛行機の酸素マスクは、親は子供に酸素マスクをつける前にまず自分の酸素マスクをつけて、自分の安全を確保することを最優先とするという。
自信を持つことに拘るほど自分が自信があるかないかが気になって、正直無駄じゃねって思う
ソシオメータ説とか言って、自分が主観的に頑張ったところであんまり自信が上がったりしないんじゃない?って説もあるし
結局困ってるのは、自信がなくてつらい・・・のつらい・・・の部分だからそこに対処すればいいと思う
つらい気持ちになった時は、まずはその事実を受け容れよう(アクセプタンス)
そこから瞑想!散歩!筆記開示(思ってることをとにかく書き出す)!
みたいに、つらい気持ちになった時の対処法(ストレスコーピング)を決めとこう
あとそんな時もあるさ・・・とか自分に言い聞かせたり、他人に親切にした時のことを思い出したり、
自信があることのメリットは実際そんなに無かったりするし、無理矢理上げようとして、そこまで上がるものでもない
結局のところ自信そのものに拘るより、自信がなくて死にたい・・・の死にたい・・・を解消することにフォーカスをあてたほうがマシ