はてなキーワード: 珠算とは
「一時間強と一時間弱についての解釈」について正解と間違えの図を描いたら確かに間違えているヒトはいると気付く、扇風機の強弱で勘違いするのかも - Togetter [トゥギャッター]
「5分弱煮るはどういう意味か?」というアンケートの結果を受けて白ごはん.comでは今後「5分弱」「大さじ1弱」といった表現は使わないことにした - Togetter [トゥギャッター]
「5分弱」が「5分よりわずかに少ない」と理解していたとしても、じゃあ実際には何分なんだよ、と多くの人が思っていることだろう。
4分50秒くらいなのか、4分30秒はどうなのか、あるいは4分10秒などでも「5分弱」と言えるのか。
誤用だ誤用だとは言っても、我々はそもそも「正用」とされる意味すらも把握できていない。
じゃく【弱】
[接尾]数量を表す語に付いて、実際はその数よりも少し少ないことを表す。数の端数を切り上げたときに用いる。
とし、日本国語大辞典は、
じゃく【弱】
〘 接尾語 〙 ある数の端数を切り上げたとき、示す数よりは少し、不足があることをいうために、数字のあとに付けて用いる。⇔強。
としている。
どちらも「端数を切り上げたとき」と書いてある。
つまり「〇〇強」「〇〇弱」を使うときには、前提として端数の切り捨て・切り上げがあるのだ。
小数を丸めたとき、端数を切り捨てたのか、それとも切り上げたのか、それを示すために、切り捨てたときは「強」を付け、切り上げたときは「弱」を付ける。
というのが「〇〇強」「〇〇弱」のもともとの使われ方である。
先に計算があって初めて「〇〇強」「〇〇弱」が成り立つのである。
いきなり「〇〇強」という答えだけを提示されても元となった計算はわからない。
「4分1秒」を「分」に丸めるとき、四捨五入して切り捨てたのであれば「4分強」だが、切り上げたのなら「5分弱」になる。
「1000円弱って何円くらいだと思う?」などと質問されたら「有効数字は何桁ですか?四捨五入ですか?」と聞き返さなければならない。
よって「〇〇強」「〇〇弱」を範囲として捉えるのがそもそも誤りなのである。
もちろん「1時間強」などと言うとき、無意識に「四捨五入して分を切り捨てている」のだろうから、そういう意味では間違いではない。
だが、それを「1時間よりちょっと長い時間を表すのに1時間強と言うんだ」というような理解をしているのは原義に悖る。
バーチャルのじゃロリおじさんが示した図などは誤った解釈の典型と言えるのではないか。
追記。明治時代にどう使われていたかの調査も行ったが、おおむね辞書のとおりだったので当初は省略していた。何かの参考になるかもしれないので公開しておく。
四捨五入したとき、端数を切り捨てたのか、それとも切り上げたのか、それを示すために、切り捨てたときは「強」を付け、切り上げたときは「弱」を付ける、ということである。
もうひとつ明治21年の『数学講義録』、この講師は前述の田中矢徳である。
数の末に強と弱との文字を添へて、末位の数に過不足あることを示します、この強と申は末位の数のさきになほ微小なる数が付き添へりと申意にて、三分二厘一毛五糸…を三分二厘強と申たぐひなり、この弱と申は末位の数に不足ありと申意にて右の奇零を三分二厘二毛弱と申たぐひなり、扨てこの切り上ぐると切り捨つるとは、何程の数が界ジャと申たしかなる定則のあるわけにもあらず、ホンの算者の意まかせなれど、本邦には四捨五入と申古き習慣あれば、私の教科書は大抵これにならひて、四までは切り捨て五にみちたるときは切り上ぐることといたしました
とりあえず、切り上げ切り捨ての端数を示すのに「強」「弱」を使うのが本義であって、四捨五入に限定するような書き方をしていたのは田中矢徳のオリジナル、ということだろうか?
また亜剌伯(アラビア)記数式にてしるしたる数には強を加号+にて示し、弱を減号−にて示します、たとへば五厘強を .05+ かやうにしるし、また五厘弱を .05- かやうにしるす類ひなり
「+」「−」の訳語として「強」「弱」を充てたということなのだろうか、それとも数字に「強」「弱」を付ける書き方はもとからあったのだろうか、この記述ではよくわからない。
ちょっと脱線するが、この田中矢徳さん、慶應義塾や同人社とあわせて「三大義塾」と称された「攻玉塾」というところの出身らしい。
「攻玉塾」は明治六大教育家の一人・近藤真琴が設立したもので、田中矢徳・鈴木長利・竹貫登代多・浅越金次郎などの数学者・教育者を輩出したという。
なるほど、この頃の数学教科書の著者を見ると、彼らの名前が散見される。
ともあれ、田中矢徳ばかりでは偏ってしまうので、攻玉塾生以外の説明も見たい。
四捨セシ数ヲ強ト謂フ
五入セシ数ヲ弱ト謂フ
既ニ夥多ノ小数位ヲ得テ尚除外セザルトキハ(中略)最下位ノ右に(+)号ヲ記シ以テ尚残数アルコトヲ示スヘシ
明治27年『活用練習実業珠算』。商工協会編とあるだけで著者はわからない。
無限小数の除法に於て末位の小数四以下なるときは其四を払ひ唯捨てて何々強と呼ひ末位の小数五以上なるときは其五以下を払ひ上位に一を加へ何々弱と呼ふへし之れを四捨五入の法と云ふ
概ね、田中矢徳の説明に準じて、四捨五入したときの端数を示すのに使われていた、ということでよさそうだ。
明治13年の『岐阜県会議日誌』の学校の補助費のくだりである。
今一万五百園ヲ生徒数(五万三千四百三拾八人)ニ除スレハ一人ニ十銭弱ナリ
又四千五百円ヲ校数(六百六十四校)ニ除スレハ一校六円七十七銭強ニ当ル
10500円を53438人で割るのだから0.196...円、つまり19.6...銭を切り上げて「20銭弱」。
4500円を664校で割るのだから6.777...円、四捨五入ではないが、端数を切り捨てて「6円77銭強」というわけである。
五以下の数をいふ、五以上を強といふに対せり、即ち、十一円五十銭以下を十二円じやくといふが如し。
それは何か違くね?
それとも元々はこの意味だったのを数学用語に転用したということなの?
なんもわからんね。
当時私は小学校6年生で、英語、ピアノ、水泳、珠算と週5で習い事に通わされていた。
その多忙を極める日々の中でも学校で友人が出来、皆で動物園に行こうという事になった。
県外に5人で外出するというのは初めての経験だった。
親から門限は厳しく設定されており、5時を過ぎると鍵をかけて入れなくなってしまう。
自分用の鍵は渡されておらず門限を破れば夕飯も自動的に抜きとなっていた。
で、動物園へ行く日。口が酸っぱくなる程門限を破るなと言われたが
同行した友人達は我が家の家庭事情を知っていたので「そんなの気にするな」と口々に言った。
正直言って、頭の良い集団では無かった。授業中もお絵描きをし手紙を回し続ける。私は休み時間、図書室で借りて来た本を読んで読書に耽るタイプだったが何故かその時は「仲間」として誘われる運びとなった。
ドキドキしながら駅に着き、電車に乗る。渡されたお小遣いで食べる物を買い、色々な動物を見た。夕刻が過ぎ、その内に戻るべき駅から段々離れている事に気付いた。そして閉園の時間が迫っていた。
学校の遠足ではタイムスケジュールが定められていたが、計画性もない小学生だった我々はただただ進みたいように歩き回ってしまった。
閉園の時間。園内放送が流れ、私達はとにかく園の外に出なければと駅とは真反対のゲートへ向かう。
子供の頭と足では、駅までどうやっても遠かった。
そうして園の外に出てから駅へ向かう事を決めた。園をぐるっと取り囲む柵に沿うようにひたすら歩いた。
グループの中で最も貧乏で頭の悪い子供が私達を励ます。「何とかなるって!」
駅に着いた時点で6時なら、そこから自宅まで1時間かかる事になり、最終的に7時前後。塾の時間であればもっと遅くなる事もあったがこれは単なる遊び。
こっぴどく怒られる事は想像に難くなかったが矢張り、その通りになった。
「勘当だ」と締め出され叱られる。恐らく他の子供達は温かい食事に有り付けただろうに、自分だけが空腹のまま。父が怒れば必ず母が従う形になった。
そして遂には「お前には愛想も尽きた」と吐きつけるように言われた。
元々、父が家に帰ってくる事すら稀だった。やれ海外出張だ、やれ残業だと顔を合わせる機会は無く会ったとしても二、三小言を言われるのみ。その日の楽しかった気分は既に疲労で滅茶苦茶になっていたがそれに加えてこの言葉で身体から力が抜けていく思いだった。親の言う通りにしなければ、敷かれたレールの上を少しでも外れれば否定され貶される。助けてやろうという気持ちや心配に思う気持ちは微塵も無い。
自分には皆との楽しい思い出がある、なんて全く思えなかった。どこまで行っても何をしても叱られる。
親としての愛情など受けたつもりは無かった。自らの塾通いのお陰か、親より高い偏差値の高校に入学したが今でもあの時の事を思い出す。そしてたまにその激重感情が自分を苦しめる。私は頑張ってたじゃないか。何故何一つ褒めてくれなかったのか、と。
なんでこうなるのかというと、田舎は何もなく、地方は簿記と珠算で、東京はSAPIXと英検だったんだよ。
嘘じゃないよ。
いま桐原書店がいっぱいコリンズ系統の教材を売ってるでしょ。あれ昔はないんだからね。
こうやって、地域ごとに習い事の質を変えて、中央でコントロールしようとしていたんだよ。これで昭和はうまくいったんだよね。
ところが平成に入ると、ネット環境で全部ばらされてしまった。人々は余計に、自分の幸福度を他人と比べる時代に入ってしまった。
いまや、比べない人がいないくらいで、2030年代はすべての日本人が比べているのではとすら思える。
こういう格差社会と比較社会が同時に訪れた国家は、少子化するのは当たり前で、人口が増えることはもう二度とやってこない。
まだ、田舎のリアルと東京のリアルを同時に知ったという人間は運がいい。
私は田舎のリアルと地方のリアルに加えて、東京のリアルと海外のリアルも知ってしまった。
将来的に、東京人は海外のリアルを一切知らされないまま成人する可能性が高い。
今東京の作曲コンクールよりも、四川の作曲コンクールのほうが投函率が高い。
中国が全部持っていく。
これをすまん……すまん……と思いながら読んでいた。増田は長女である。
元増田の姉御さんとは確実に別人なのだが、まるで自分に当てられたかのように深く突き刺さる。
エピソードは色々あるが、ともかく「優秀なお姉ちゃん」として育ってきた。
一方、弟は中学最初のテストで大きくしくじり、親にこっぴどくしかられる。
ピアノを子供用教室の首席まで登りつめた姉の傍ら、弟はすぐに放り出し、珠算や水泳の階級でも姉を上回ることはなかった。
弟が小学校低学年のとき、自由研究として地域の文学コンクールに俳句を応募することにした。
ところが後に理系となる弟には文学的興味が全くなく、作業は難航。最終的に頼まれて私が9割考えたものを持っていくことに。
ところがその俳句が、なんとあろうことかコンクールで入賞してしまったのだ!
私も同コンクールの小説部門で受賞した為、兄弟受賞と囁かれ、共に授賞式にもいった。
このときの感情といったら、「やってしまった……」というほかない。
「元はといえばお前が自分で考えず人に頼んだりしたからだ」と非を責めることは出来る。
が、そういう問題ではない。私が弟の自己肯定感を奪ってしまったのだ。
弟はその後も自分のものでない功績で人に誉め続けられた。学校で表彰され、成績表に書かれた。
果たしてどんな気分だったろうか。
幸いなことに、弟はその後THE末っ子気質のパリピコミュ強に進化した為、彼が深く思い詰めるようなことは起こっていない。
私が高校時代勉強より芸術に傾倒し、どうしても行きたい専攻が難関校になく低学歴で終わったこと、
弟と私の得意分野が芸術的な文系とコミュ強な理系で真逆であること、
など数々の状況に恵まれ、今でも週末一緒に遊べるような良好な兄弟仲でいられている。
だが、ふとした時に「増田の方が俺よりずっと優秀だからね」とか寂しそうな顔で言われると、つけた傷がまだ残っていることに気付かざるを得ないのだ。
(https://note.com/ever_blue/n/n16ed7c79b534 をよんだという話)
声優にしろ漫画家にしろとても険しい道で、しかしそこを一度選んだものがドロップアウトするにはまともな人のふりをしなおす才能が必要なのである
「金を払われる側になったことがあるんだからエリートじゃねえか自慢するなクズ」という下から目線の反論というよりルサンチマンをぶつけるもってこいの藁人形扱いだったり
「anond.hatelabo.jp/20200211033150にしつこく粘着していってやったとおり漫画家や声優を絶対にサラリーマンより下にみるな(ただし消し逃げ)」というなぜか中から目線の反論だったりが想定されるところである。
始めたことをやめてまた始めるには人一倍の勇気が必要であり、この人はたまたまその勇気やまともなひとのふりをできる才能が今あるのだから尊重すべきだ。
ただし私がいいたいことはこの2つのどちらとも違う。心配だな、である。
ウエメセといわれそうだがあえていうと、文系のアカデミックポストに女性差別が存在しないなんて思わないほうがいいのである。ポスドク自殺女性の話がネットで盛り上がった通りである。
大学に行くことでお金を払う側、客に一度もどったのである。ここで切ってしまうとまた若いものいじめといわれそうだがまあもう少し聞いてくれ。
平成以降に生まれたネイティブネット世代は金という光ファイバ回線を通じて支払いができる交換価値がどんなものより大好きである。
金があればアイチューンズカードが買え、ポイントに引き換えて好きな曲や漫画が買え、握手券つきCDもおしばいのチケットも(争奪戦にはなるが)買え、親に仕送りをしていい顔をでき、結局、金で好きな人を独占できるからである。平成世代にたとえば現物で支払いをしたらおそらく2秒後にはメルカリである。
そして労力を金に買えることも大好きである。
ところが、労力を金に変える手段は大幅に電気とコンピューターに奪われたのである。
むかしはそろばん(珠算)が正確にできれば統計や経理という職が用意された。
昔は英検1級所持者なら海外とファクシミリをやりとりするという職が用意されていた。
たった50年ほど前である。そうやって就職した人はまだ現役で生きているし、なんならあなたの上司になることもある。
しかし今職を探すあなたは就職しても「エクセル」「グーグル検索」「グーグル翻訳」「グーグルマップ」より深く職場に溶け込むことはもうないだろう。
グーグルは無料でなんでもやってくれるのだから、給料を払って人間にやってもらおうという人はいない。
運良くまだ手つかずのそろばん世代が上司になっても、金を払うとなると人間はよく調べるもので、
「こんなのグーグルで調べたらちゃちゃっとできるでしょ」と(自分はできないくせに)平気で言うのである。
だから、あなたたちにはまともな職はない。絶望しろ。といいたいのではない。そうではないのだ。
そうでなくてもインフルエンザで、お風呂のヒートショックで、普通ならひっかからない低い段差でこけて足を折って寝たきりになったのが原因で、
人は毎年何万人も死んでいるのである。私もおそらくそんなつまらない理由で死んでしまう。
その最後のとき、私はおそらく、若いあなたたちだけでも生きていてくれてよかった、と言うのである。
乞食になることを怖がらなくていい。自分は他人の金にすがっているとおもわなくていい。
なんなら生活保護だって障害年金だって、どんなお金だってあげる。
災害災害、自粛自粛と肩身の狭いまま大人になったあなたたちは本当にかわいそうだし、もらえるお金はもらっていいのだ。
その上で、堂々と胸を張って、プライドを持ってやりたいことをしなさい。
なんで悪の社長はいないのかと同じ。いても検証できない、ばれないだけ。
社長や科学者は専門家なので行動の検証ができる人が同等以上の能力を持った一にぎりの人たちだけになってしまっている。
そして、その人も自分の専門分野だけに詳しいので、横をチラ見して、ここにいる人たちのあいだでのコンセンサスをなんとなくまもっていれば大丈夫だと思い込んでいる。
その向こうに「世間」があるとは思っていない。
逆に、「会計の専門家」「珠算の専門家」なんかはエクセルの出現によりすぐ手が届く存在になった。
漫画家はグーグル画像検索かな。しょっちゅうパクリの検証もされたりwikiられたりしている(別に問題ない場合まで含めて)。
俺珠算4級だけど全く出来ねえわ。