はてなキーワード: ノイズとは
君も同じくらい。
元増田は宇宙人=高度な知能をもった合理的存在というのを説明なしに出してきていて
思考の共有とかはノイズ。単に宇宙人がいっぱいいるとかをなんか盛りたかっただけ。
よう「賢い合理的存在は数式でしか動かない」みたいなを精一杯背伸びしていってみたにすぎない。
悪文読解検定2級相当の問題だ。
まずお前らが信じている群れの中で自分を演出すれば価値が上がるという幼稚な自己放尿を粉砕するところから始める。
朝起きてから寝るまで、承認欲求という名の自己放尿を延々と垂れ流し続け、リアクション数の変動に一喜一憂して勝手に情緒不安定になって、そこでようやくSNS疲れとか呻きだすあたり、お前らはそもそも高度な情報環境を扱う資格がないんだよ。
本当に価値のある人間は黙って仕組みを最適化して、必要な成果だけを淡々と積み上げる。外の雑音を材料にしないと自分の存在証明すらできない連中とは住んでいる次元が違う。
しかもその劇場の主役を張ってるつもりの連中がやっているのは、思考放棄と感情放出のダブル放尿であって、まともな議論でも洞察でもない。
数字を見ずに経済や政治を語り、専門知識ゼロでテクノロジーをこき下ろし、自分の人生の失敗さえ社会が悪いみたいな曖昧な外部要因に押しつけて、なんとなく賢そうに見えるフリをして自己放尿しているだけ。
そんな低解像度の妄言の洪水の中で、自分のIQが溶けていく感覚をわざわざ味わう理由がどこにある。
俺がSNSで何かを発信しないのは、謙遜でも孤高アピールでもなく、単に時間対効果が極めて低いからだ。
無駄なノイズに脳の帯域を奪われるくらいなら、データ分析でもコード最適化でも論文でも読む方が100倍マシだ。
結局、SNSで騒いでいる連中は、人間関係のストレスと自己承認の依存症から抜け出せないまま、半永久的に自分の檻の中で自己放尿しているだけだ。
俺はそんな寸劇を眺めている暇はないし、そもそも価値がない。成果も出せず、考えも浅く、言葉は軽く、感情だけが肥大化した未処理データの山に興味を示すほど暇ではない。
SNSというのは、本来は情報収集と連絡のための道具であって、人生の主戦場じゃねぇんだよ。
だから俺は今日も平然とSNSを閉じ、静かに思考と計算に戻る。雑音を切り捨て、外部の劇場を放棄することこそが、生存戦略として最も合理的なんだよ。
チャンネル登録高評価よろしくお願いしますっていうのにどうにも馴染めない
ドナルドとかヤラナイカとかニコニコ隆盛期のときにああいう動画でそんなことを最後にでも行ってきただけで没入感台無しだろう。
音mad動画を作業用代わりにまとめてフォルダに入れてPSPとかから聞くとかしてたらまさに高評価云々なんてメタメッセージはノイズにしかならなかったろうしそういうのがなかったからこそそういう用途で使う人がいた
今も正統な音madとかの系譜にある動画は高評価とか言ってないのかな。いやそもそもYouTubeにあるのでmad動画って昔のが残ってるだけじゃねってイメージなんだけど
そういえばYouTubeに上がってる東方のメドレーとかはイワナガヒメがラスボスの新作含め割と高評価云々のカットインは見かけなかったなあ
dorawiiより
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最近、Xやインスタの美容界隈を眺めていて、ふと背筋が寒くなることがある。 いわゆる「カリカリ整形」ってやつ。 極限まで脂肪を削ぎ落として、鼻は矢印みたいに尖らせて、目はこぼれ落ちそうなほどデカくする、あのアバターみたいな造形のアレだ。
これ、今の時点では本人は「至高の美」だと思ってるんだろうけど、個人的には今後5年〜10年で、彼女たちはかつてないほどの「美の基準の変化」に苦しむことになると予想している。 理由はいくつかあるんだけど、整理して書いておく。
まず、これ。 彼女たちが本来ターゲットにしていたはずの「経済力のあるまともな男性」層が、すでにこの手の顔を敬遠し始めている。 港区女子的な界隈でチヤホヤされているように見えるかもしれないが、それはあくまで「消費対象」としてであって、パートナーとしての「美」とは見なされていない。
経営者や医師、外資系みたいなハイスぺ層と話すと、彼らが今求めているのは「圧倒的な清潔感」と「生物としての健康美」だ。 作り込まれた不自然な造形よりも、髪のツヤ、肌のキメ、程よく筋肉がついた体型といった、「生命力の強さ」に価値がシフトしている。 カリカリの整形顔は、彼らにとって「不健康」「メンタルが不安定そう」「金がかかりそう」というネガティブなシグナルにしかなっていないのが現実だ。
じゃあなんで彼女たちは止まらないのかというと、完全に「女同士の内輪ノリ」で美の基準が形成されているからだ。 SNSという閉鎖空間(タコツボ)の中で、「もっと鼻を高く」「もっと小顔に」と、互いに「いいね」を送り合うことで、基準がインフレを起こしている。 これは客観的な美しさではなく、もはや「課金額と痛みに耐えた量」を競うチキンレースだ。 一般社会や異性の視点から完全に乖離したまま、極端な方向へアクセルを踏み続けていることに気づいていない。
これが一番残酷かもしれない。 今のZ世代後半や、その下のα(アルファ)世代が大人になった時、今のカリカリ整形顔はどう見えるか。 かつてのバブル時代の太眉やソバージュ、あるいは一昔前の極細アーチ眉がそうであったように、「あ、これ昔流行った顔だ」という強烈な時代遅れ感(=おばさん臭さ)の象徴になる。
「不自然なほど尖った鼻と細い顎」は、将来的に「2020年代に青春を拗らせた層」の制服のように見なされるだろう。 若者がナチュラル回帰していく中で、あの造形はあまりにもノイズが大きすぎる。
そして彼女たちを待ち受ける未来は、以下の3つが同時に襲ってくる「詰み」の状況だ。
美のトレンドの変化: これまで信じてきた「正解の顔」が、ある日突然「ダサい顔」「古い顔」として扱われるようになる。
整形後遺症(メンテナンスの限界): 無理なプロテーゼや骨削りは、加齢とともにガタがくる。皮膚は薄くなり、軟骨は変形し、メンテナンス費用は指数関数的に跳ね上がる。
自然老化: どれだけいじっても、生物としての老化からは逃げられない。不自然に引っ張った皮膚と、老いていく肉体のバランスが崩れ、いわゆる「崩壊」が始まる。
このトリプルパンチを食らった時、心身ともに耐えられる人間がどれだけいるだろうか。 「あんなに痛い思いをして、大金を払って手に入れた顔」が、社会から「古臭くて不気味」と評価され、さらに物理的にも維持できなくなる。 その時のアイデンティティの崩壊とメンタルの疲弊は、想像するだけでキツイ。
今、承認欲求のドーパミンで麻痺している彼女たちが、この「はしご外し」に気づく頃には、もう手遅れなのかもしれない。 美しさの定義が「加工」から「素材の健康」へ揺り戻しが来ている今、過剰な整形の出口戦略を考えておかないと、本当に地獄を見ると思う。
8歳。
保育園の時から好きだった女の子がいた。おしとやかで、可愛らしくて、いつもニコニコ笑いかけてくれていた。小学校に入ると髪を切り、男に混じってドッジボールや野球をするようになった。絶望した。自分の好きだった彼女という概念がこの世から消滅した気がした。同時に「おしとやかで、可愛らしくて」という「属性」でしか彼女を見ていなかった自身の浅ましさにも気づいて絶望した。人は変わる。その変化が自分にとって好ましいかどうかなど関係なくエントロピーは増大し、覆水は盆に返らない。彼女も、自分も、家族も、世界のあらゆるものはいずれ形を変え、崩れていく流動的な現象に過ぎないのではないかと考えた。それは諸行無常の絶望、固定された幸福など存在しないという悟りだった。
留守番中、台所の包丁を腹に突き立てようとした。 刃先が腹に触れる感触がしたところに家族が帰宅した。当時は首吊りも飛び降りも知らなかった。ただ、腹を切ればこの流転する世界から一抜けできると信じていた。
15歳。
生きるのが少し上手くなったふりをしながら、内側から壊れていった時期だった。そこそこ勉強ができた。ただ、通える範囲に進学校と呼べるものはなく、地元の高校に進んだ。当然のように期末テストでは学年1位、模試では県1位を取り続けた。数字の上では順風満帆で友人もいたが、「友人」はいなかった。 周りを見下していたわけではないと思いたい。ただ、見ている景色の解像度が違いすぎたのだろう。自分が100の情報を処理して言葉を選んでいる間に、周囲は3くらいの情報量で会話を成立させている。それは親に対しても同じだった。部活で負った怪我がトドメになった。唯一身体性だけで繋がれていた世界すら断たれた。精神のバランスは音を立てて崩れた。ネットで稼いだ小遣いで、カフェインの錠剤を大量に買い込んだ。錠剤をコーヒーで流し込み、あるいは砕いて鼻から吸った。当然、睡眠のリズムは狂う。脳だけが異常に加速し、身体は鉛のように重い。そのちぐはぐな状態で、脳は刺激と情報を求めてネットの海へとのめり込んだ。
死ぬ勇気も生きる気力もなかった。空白を埋めるように過食に走った。深夜、家族に隠れてスナック菓子やアイスクリームを貪った。嘔吐恐怖症だから吐けない。けれど太って自己管理ができていないとバレるのはプライドが許さない。異常な距離を歩き、街の端から端まで自転車で疾走した。食べた分のカロリーを呪いのように消費した。食欲はさらに歪んでいった。パスタの乾麺をそのまま齧り、茹でる前の素麺を貪り、生の米を噛み砕いた。すり減った奥歯は戻ってこなかった。
そうして思考のノイズが限界に達したある日、どこかのビルから飛び降りたらしい。「らしい」というのは、この時の記憶が欠落しているからだ。何階から飛んだのかも覚えていない。 結果的に無傷(ぱっと見は)で誰にも見つからなかったことから推測するに、おそらく2・3階程度だったのだろう。五体満足で生還した。しかし全身の打撲と擦り傷の痛みは長く続いたし、右膝の違和感は今も消えない。思い返すと飛び降りを決意させたと思われる決定的な出来事があったのだが、ここには書けないし書かない。
21歳。
もう書くのも面倒くさい。当時のことはほとんど覚えていない。前後数ヶ月の記憶が綺麗に抜け落ちている。気づいたときにはパソコンの充電コードで首を吊っていた。目が覚めたとき、首にはまだコードが絡みついていた。死ぬ気だったのか、発作的なものだったのか、それすらも分からない。ただ、目が覚めてしまったという事実だけがあった。
27歳。
命を投げ捨てるのは簡単なことだ。こんな簡単なことに3回失敗したのはこの世界から死ぬことを許されていないからだ。そう言い聞かせることで撤退戦のような人生を生きている。周期的に考えれば、そろそろ4回目の波が来てもおかしくない。8歳、15歳、21歳。これは「次」が来たときに同じ轍を踏まないための、あるいは衝動に飲み込まれないための、未来の自分へ向けた戒めだ。
GQuuuuuXのEDテーマはノイズどころか作品の背骨として機能してたと思うけどなぁ。
米津玄師、星街すいせい、竹...という座組で劇場公開前に「このアニメは現代の若者向けですよ。そういう心構えで見てくださいね」とミスリードをするのに機能してた。そして劇場公開後も新旧ガンダムの『水と油感』を演出する上でも役割を果たした。
そしてマチュたちの物語に限って言えば、序盤のポップな雰囲気、中盤のシリアスな展開、終盤の疾走感を一曲のエンディングテーマで接続して作品全体に一貫性を感じさせる機能も果たしてる。
あのアニメは最低限作品として成立するための土台を若者向け要素で固め、その土台の上で古参ガンダムファンがお祭りをやるアニメだった。米津玄師、星街すいせい、竹がお祭りの運営スタッフをして、1st信者がステージの上で酒飲んで気持ちよく踊ってる構図。そういう祭りだった。
お前の文章を読んでまず分かるのは、論理でも思想でもなく、ただの刺激依存の自己放尿だという点だ。
「不謹慎なら何でも許される」「傷つくやつは無視していい」などと吠えているが、それは自由の行使ではなく責任能力の放棄だ。
社会は自由と引き換えに必ず結果の査定を行う。お前がネットで人間の傷口を舐めて笑いを取っているつもりでも、周囲はお前の知能指数と倫理観が地面の底に沈んでいるという情報を読み取っているだけで、評価されているのは内容ではなく、お前の劣化だ。
そのうえ「不謹慎で人が死んだか?」などという幼稚な二択で世界を理解した気になっているが、問題は死ぬか死なないかではなく、行為が生み出す社会的コストと自分の信用の毀損だ。
人間は物理的な死の前に、社会的信用の死を迎える。お前が今やっているのは、誰かを笑いものにしているつもりで、実際には自分の社会的寿命を削って自己放尿しているだけだ。
しかも弱者をネタにすれば笑いが取れるなどという発想は、ユーモアではなく退化の証明にすぎない。
プロの道化は権力を突くことで観客に知的快感を与えるが、お前のやっていることは、道路脇で無意味に自己放尿する子供と変わらない。
自己放尿レベルの低知能発言をネットに垂れ流しているというだけだ。
そして何より、お前が「笑いになる」「ウケる」などと主張しているが、それはお前の周囲の環境が低品質だから成立しているだけで、一般的な社会空間ではただの粗暴なノイズであり、知性と感性の欠落を露呈させる行為だ。
人間が笑うのは知的な緊張と解放があるからであって、弱者を殴って快感を得るような粗雑な行動は、笑いではなくただの自己放尿だ。
「おっさん」= 三次元の生物的容器に宿る情報流束が、同一トポロジーを保持したまま劣化方向へ偏微分されていく過程に付けられたローカルラベル。ただし、本人の意志や自覚とは無関係に、周囲の観測者側のノイズ補正アルゴリズムによって生成される外部属性である。
「コロナ禍で電子書籍の漫画を読む習慣が自分に付いたから」という動機は、単なる自己正当化の言い訳に過ぎません。なぜ、その動機付けが読書リストの評価に必須なのか理解に苦しみます。
「ここに書いてないけど楽しんだ漫画も沢山ある筈だけど、一旦置いておく」という断り書きは、リストの網羅性に対する責任放棄です。大量に挙げたところで「もっとある」と言われては、提示された情報の価値が薄れます。
「とりあえず頭に浮かんだタイトルを片っ端から書いてみる」という姿勢は、構成や論理的な並びを放棄した怠惰の表れです。これだけ大量の情報を提示するなら、もう少し読者に対する配慮(整理整頓)があってもよいでしょう。
過剰な情報量による疲労: 70以上のタイトルを羅列した結果、一つ一つのコメントが短く、表面的な感想に終始しています。「面白い」「名作」「熱い」といった形容詞に頼りすぎており、読者に新しい洞察を与えるレベルに達していません。
例:「これも面白い」「面白かった」「めちゃ面白い」など、具体的な深掘りのない感想が多すぎます。
ネタバレ回避の失敗と中途半端な配慮: 導入で「ネタバレ注意」としながらも、多くの作品の感想が「〜編が面白い」というあらすじの列挙や、既に広く知られた事実の繰り返しに留まっています。特に核心に迫るような鋭い考察は見られません。
「全話無料公開してた時読んだ」「サンデーうぇぶりは〜が全話無課金で読める」といった情報は、**日記を読んだ時点では無効になっている可能性が高く、持続的な情報価値がありません。**これは作品の評価ではなく、単なる「当時の自分の行動記録」であり、読者にとってはノイズです。
『キン肉マン』『彼岸島』『タフ』などの「ネタ要素がある面白さ」を共通項とするのは、広く知られたネットスラング的な評価であり、独自の考察とは言えません。
『ボルト』を『ドラゴンボール』や『ジョジョ』の影響と見るのは、画風や台詞回しというよりも、少年漫画の表現の変遷を深く見ていない浅い感想です。
ジャンルの偏りが激しすぎる: バトル、スポーツ、ギャンブルといった「熱血」「劇画」系のジャンルに極端に偏っており、知的探求心や感性の幅が非常に狭いことを露呈しています。日常系、SF(ハードなもの)、純文学系、ミステリー(トリック重視)、本格歴史もの、アート系など、多様なジャンルへの興味が見られません。
「人を選ぶ」作品への過剰な言及: 「人を選ぶ」「クセがある」という言葉を多用していますが、これは逆に自分の好みが極めてニッチであることの告白であり、大衆的な視点や客観的な評価能力に欠けていることを示唆しています。
「一気読み」依存の危険性: 連載中の作品より完結作を好むという姿勢は、新しいトレンドや未知の才能を発掘するアンテナを持っていないことを意味します。電子書籍の「後追い」という受動的な読書に依存しており、能動的な読書家とは言えません。
全体として、この日記は「電子書籍を大量に読んだという事実の自慢」に終始しており、個々の作品に対する深い洞察や、読者に新しい発見を提供する価値に乏しい、情報過多で中身の薄い読書ログであると言わざるを得ません。
以上です。
最近さ、好きだったコンテンツに「Vtuberコラボ!」とか告知が出るたびに胃がキリキリするんだけど。
世界観をぶっ壊すなって何回言わせるんだよ。
企業として「数字が出れば何でもいい」って思ってるのが透けて見えるのが本当に地獄。
あいつらが最悪。「嫌なら見るな」「文句言ってるのは老害」みたいなテンプレ返しで叩き潰しにくるから、コンテンツ側が批判されてても全然議論にならない。
空気が荒れるのが分かってるのに、どうして公式はわざわざ火薬庫に火をつけるのか。
はっきり言うけど、Vtuberなんてまともな人はみんな嫌ってるだろ。
まともな層ほど距離置いてるから、コラボすればするほど一般層が離れていく構造になってるのに、なぜ学ばないのか謎すぎる。
あれ大炎上したせいで「駄作扱い」までされるようになったじゃん。
全部Vtuberのせいだろ。
作品の質とか演出とか以前に、コラボ発表の時点で空気が最悪になって、まともに評価される土俵すら用意できてなかった。
あれで冷めたファンどれだけいたと思ってんだ。
もしVtuberが関わってなかったら、たぶん今頃は「近年の名作」としてもっと高く評価されてたはずなんだよ。
余計なノイズさえ乗らなければ。
お前の言ってる「みんなでイジメて黙らせる」「見せしめとしてネットリンチを使う」ってやつ、聞いていて思わずため息が出るくらい構造理解が甘い自己放尿だな。
まず、群衆が一斉に叩きに行く現象を戦略とか示威行動だと思っている時点で、自分の立ち位置を過大評価して自己放尿している。
あれは政策でも統治でもなく、単なる反射。いわば大量の自己放尿が偶然同じ方向に飛んでるだけの物理現象だ。
そもそも「逆らったら怖い目にあうよ」と見せつけたいなら、加害側に権力性と一貫性が必要なんだが、匿名の烏合の衆にはそれが存在しない。
誰も指揮してないし、誰も責任を取らないし、誰も翌日まで覚えていない。
観察者から見れば、見せしめというより騒音だ。抑止ではなく、ただの不規則ノイズ。統治のふりをした偶然の群集行動の自己放尿。
そしてもうひとつ致命的なのは、加害側の意図が相手に届いていないことだ。
お前らが「俺たちは規律を作ってる」と思ってるだけで、客観的には誰が叩かれるかはランダムという事実だけが残る。
ランダムな攻撃には威圧効果なんてない。あるのは萎縮だけ。つまり、本来見せしめで得るべき統治的効用ではなく、ただ関わりたくないという沈黙を増やすだけの逆効果だ。
お前が語っているのは戦略的ネットリンチではなく、偶然集まった自己放尿の群れが自分を権力だと誤解しているというだけの光景なんだよ。
前は何を言っても揚げ足取りみたいな反応が延々と続いていたけど、気づけばああいうノリもほとんど見かけなくなった
ようやく無理な難癖をつける層がいなくなってきたのか、そもそも反論するだけの材料が尽きたのか、その辺はよくわからないが、状況としてはだいぶ健全になったと思う
ひろゆきの言っていることって、感情論を排して筋道を示すタイプの話が多いから、批判しようとすると論理面で自分が踏み抜くことになるケースが多かったのだろう
以前は勢いだけで叩いていた人がいたが、時間が経つにつれ、そういうのが通用しない空気が形成されてきた気がする
しょうもない感情論のノイズが減ったことで、本筋の議論が見えやすくなった
正しいことを言い続ければ信用を得られるんだなあ
おい、その浅い煽りはなんだ。
まず 童貞=負け という低学歴レベルの自己紹介、そこで論理は自己放尿している。
童貞というのはな、外的承認に流されず、自らの行動原理を制御できる稀少なサンプルだ。
統計的にも、衝動性低・依存性低・長期的最適化志向という性質が出ることが多い。
つまり、生殖本能に振り回されるだけの消耗型人間より、はるかに自己制御能力が高い。
これが事実だ。
他者の承認を燃料にしない生き方を貫く個体こそが、生物学的ノイズを切り捨てた高効率モデルなんだよ。
要するにお前は、性経験がない=劣っているという、自分の浅い価値観を全世界に自己放尿しているだけ。
その薄っぺらい指標で他人を評価する時点で、すでに知的敗北は確定している。
どうでもいいけど、思考のノイズって耳や目だけじゃなくてテンポラリー領域からも来るんだな。
普段、ブラウザのタブを大量に開いて音楽を流しながら作業したり、「あとで読もう」みたいな感覚でブックマークがわりにタブでキープしたりしてるんだけど。
音楽なら「思考のノイズになるな」って曲が流れてきたらちゃんと止めてた。でも「あとで読む」タブは「あとで読む」んだから思考の妨げにはならない、なんてふわっと思ってたけど、
そもそもそんなテンポラリー領域を確保しておいて、時々視界に映るような運用してるのが間違いだったんだな。視界に入るたびに「これは今は無関係」の判断が常に生じていて、それがボトルネックにすらなりうることが感覚で理解できた。
思考を散漫にさせないためには、視界や、テンポラリー領域からも、「ぶっちゃけどうでもよくて、少なくとも今は関係ない話」は、視界から(つまりブラウザのタブから)積極的に消していく必要がある、と分かった。
距離が近い存在ほど、その才能の値段を無意識に下げてしまう現象だ。
「隣の席のAが実はすごい」
と認めた瞬間、「じゃあ俺は?」という内省に繋がる。
これが面倒なので、気づかないフリをする。
空気がどれだけ重要でも価値を感じなくなるのと同じで、同僚や同じコミュニティの人の才能も背景ノイズ化する。
ネットやテレビで見れば、編集・演出・距離感で偉大そうに見える。
身近な人はこうした補正がないので、どうしても軽視される。
面白い人間はいないのではなく、いるけど、自我が認めるのを拒否しているだけ。
より正確に言えば「才能がない」のではなく、才能を見抜く力がその人にはない。
おい、現実から逃げるための美談ファンタジーを業界の標準みたいに自己放尿するんじゃねぇよ。
まず 「小学生で高校数学終えた」「中学生で黒字ビジネス」みたいな事例は、単なる例外値だ。平均でも中央値でもなく、ただのノイズ。
ノイズを母集団の仕様だと思い込む時点で、統計リテラシーが幼稚園児未満。
IT業界ってのはな、優秀なやつもいるが、大半は普通の学力・普通の生活・普通の能力だ。
むしろ業界を支えてるのは、そういう普通の人たちがひたすらコード書いて実装を積み上げてるからだ。
天才同士が戦ってる魔境みたいなイメージは、ただの自己放尿的な幻想だよ。
要するに「俺は凡人だから無理」って言い訳を、勝手な神話で薄めて飲みやすくしてるだけ。
お前が競う相手は天才の伝説じゃなくて、仕様書・工数・納期・バグの四天王だ。
IT業界はな、天才のサーカスじゃない。結果を出すか出さないかだけの、ただの労働市場だ。
天才伝説にビビってる時点で、まだリングにすら上がってねぇよ。
怖いなら怖いでいいが、せめて現実と幻想の区別くらいはつけて、自己放尿をやめるんだな。
以上だ。
ほう、口の回転だけは3倍速だな。
だがな、「オフィスで成果を出せ」なんて言葉は、環境依存の無能が吠える常套句だ。
リモートだろうが出社だろうが、できない奴はできない。
若手が見て学べないだと?笑わせるな。
オフィスで背中を見て学ぶとかいうのは、教育をサボってる証拠だ。
見て盗ませるってのは、要するに言語化も構造化もできない指導力ゼロの怠慢だろ。
本物のプロは、ナレッジを共有化できる。コードも設計もプロセスも、GitにもWikiにも全部残す。それを見れば誰でも再現できる。
プロはノイズを切って最適化する。リモートはそのための手段だ。
「10年目だから偉い」とか「オフィスで働いてるから正しい」とか、そんな時代は終わった。
結果を出してから物を言え。
この投稿は一見「ありそうな転職体験談」ですが、**釣り(虚偽投稿)**として見抜かれるリスクは多くの箇所にあります。
以下に「不自然点」と「読者・専門家に嘘を疑われる根拠」を分解して説明します。
投稿内容
前職は売上200億ぐらいの上場企業
給料は700→550万に下がった
嘘がバレるポイント
売上200億円規模の上場企業は「東証スタンダード・グロース」レベルが多く、営業マネージャー職でも年収700万円は高め。
「マネージャー」という肩書きが曖昧。中小上場企業なら「課長代理」程度の役職をマネージャーと呼ぶことも多く、企業規模と報酬水準の乖離が発生。
さらに「降格で150万減」は具体的すぎてリアルに見せようとしており、逆に「釣り特有の演出臭」を感じさせる。
📉 リスク:企業や業界関係者が読むと「この規模で700は盛ってる」と即気づく。
6月ぐらいから始めて4か月かかった
40代・営業マネージャー層で4か月・2社受けて1社内定は成功率が高すぎる。
しかも「スカウトが多かった」と言いつつ、応募・面接数が極端に少ない(普通は20〜30社動く)。
📉 リスク:転職経験者なら「4か月で実質2社受けて1社内定?」と違和感を持つ。
有料会員制のビズリーチ経由エージェントが面談後に音信不通2社は稀。
→ 企業側の「釣り要件」が変わることはあっても、完全無視はあまりない。
「失礼な話だと思った」など感情を強調し、共感を引く作文構成になっている。
📉 リスク:実際の転職エージェント経験者が読むと「そんなケースはほとんど無い」と即座に気づく。
文体からは30代前半〜中盤の語り口(「やった」「~かなあ」などカジュアル)
なのに読者対象が40〜50代。
📉 リスク:実年齢層の雰囲気と一致しない文体(「リアルな年代語り」を再現できていない)。
🧩 ⑤ “リアルすぎて雑”な箇所
→ 本当に実話なら「営業職でBtoB中心でした」とか多少触れるもの。
📉 リスク:実体験者の文章として「描写の密度バランス」が嘘くさい。
「結論として啓発メッセージに着地」しており、実話というより釣り or ステルスマーケティング調。
特に「ビズリーチ」「LinkedIn」の名指し使用は、プロモーション文構造に近い。
📉 リスク:読み慣れた人が見ると「広告っぽい」「釣り針が見える」と直感する。
落ち込みエピソード→励まし→内定→教訓という構成が、ブログテンプレそのもの。
📉 リスク:「体験談としてのノイズが無さすぎる」「作文っぽい」と判断される。
✅ まとめ:「嘘がバレるポイント」要約
給与・企業規模 上場・200億・700万が釣り合わない 業界経験者
お前の読解力が氷点下なだけだ。論理はすべて文中に書いてある。
これを叫んでるだけとしか認識できないなら、経済以前に算数のリテラシーを疑う。
論理がないと言う前に、最低限の前提条件を読む脳を持て。
MMTの前提は自国通貨建て国債なら破綻しないだが、それは信用が持続する限りというただし書き付きだ。
信用が揺らげば通貨が売られ、為替が崩れ、物価が暴騰する。それを破綻と呼ばずに何と呼ぶ?論理とはこの因果連鎖のことを言う。
お前が論理的思考を放棄した耳で、現実の悲鳴をノイズとしてしか聞けていないだけだ。
そして最後に言っておく。論理がないと言う奴の9割は、自分が理解できない現実を前にして思考停止している。
お前のコメントは、理解不能を正当化するための自己放尿に過ぎない。
温もりがあるうちは気持ちいいだろうが、すぐに冷えて臭う。
そもそも、この手の為替は物価に大きく影響しない論者ってなんでコアコア使いたがるんだろうな?
「生鮮食品とエネルギーを除く総合」 日本で一般的に「コアコアCPI」と呼ばれるもの
「食料(酒類除く)+エネルギー除く」 生鮮食品に加えて加工食品や外食まで丸ごと外す。アメリカで採用されているので米国型コアとも呼ぶ
狙い:円安や資源高の直接波及(輸入食料・燃料)をできるだけ外し、国内の基調インフレ=賃金・サービス要因だけを見たい。
だから:「食料(酒類除く)+エネルギー除く総合」を使うと、加工食品や外食まで外れるので、為替ショックの痕跡がほぼ消える。
デメリット:家計負担の中核(食料)を丸ごと捨てるので、生活実感や購買力の議論には不向き。また実際の政策判断(負担緩和や再分配)にはズレやすい。
(この系列は総務省の公表表「第2表」に正式掲載があります。)
だから:後者を選ぶと「インフレは小さい」という主張に数字の裏付けを与えやすい。
注意:シリーズの選択で結論が変わる(選択バイアス)。議論の前提としてどの指標かを必ず明示すべき。
発想:米欧は「食品(全体)・エネルギー除く」が標準の“コア”。日本の慣行(生鮮のみ除く=コア、生鮮+エネ=コアコア)とズレる。
だから:食料全体を外す日本版シリーズを使うと、概念的に欧米のコアに近いと主張できる。
注意:完全一致ではない(住居・医療の扱い、ウエイト、行政価格の違いで直比較は危険)。
狙い:価格改定の季節性や補助のオンオフ、輸入コストの波をなるべく削って、持続的な内生インフレ圧力を測りたい。
デメリット:政策や為替の実影響を過小評価しうる(「実害」を感じる食料・光熱が除外されるため)。
二つを並べて見る:
為替・資源の影響を切り分け、国内基調を測る→「食料(酒類除く)+エネルギー除く」
“論点ごとに指標を使い分け”が正攻法。為替の影響を議論するときは、食料カテゴリの寄与(加工食品・外食)を別表で示すと、どれだけ除染しているかが可視化できます。
まとめ:彼がその系列にこだわる合理的な理由は「為替・資源を外して国内の基調だけを見たい」から。ただし、家計の痛みや政策運営の現実を語るなら、食料を含む指標も必ず併読し、指標選択で結論が変わらないようにするのがフェアです。
僕は木曜日の朝10時に、昨日(水曜日)の出来事を記録している。
朝の儀式はいつも通り分解可能な位相のように正確で、目覚めてからコーヒーを淹れるまでの操作は一切の可換性を許さない。
コーヒーを注ぐ手順は一種の群作用であって、器具の順序を入れ替えると結果が異なる。ルームメイトは朝食の皿を台所に残して出かけ、隣人は玄関先でいつもの微笑を投げかけるが、僕はそこに意味を見出そうとはしない。
友人二人とは夜に議論を交わした。彼らはいつも通り凡庸な経験則に頼るが、僕はそれをシグナルとノイズの分解として扱い、統計的に有意な部分だけを抽出する。
昨晩の中心は超弦理論に関する、かなり極端に抽象化した議論だった。僕は議論を、漸近的自由性や陽に書かれたラグランジアンから出発する代わりに、代数的・圏論的な位相幾何学の言葉で再構成した。
第一に、空間−時間背景を古典的なマンフォールドと見なすのではなく、∞-スタック(∞-stack)として扱い、その上の場のセクションがモノイド圏の対象として振る舞うという観点を導入した。
局所的な場作用素の代数は、従来の演算子代数(特にvon Neumann因子のタイプ分類)では捉えきれない高次的相互作用を持つため、因子化代数(factorization algebras)と導来代数幾何(derived algebraic geometry)の融合的言語を使って再記述する方が自然だと主張した。
これにより、弦のモードは単なる振動モードではなく、∞-圏における自然変換の族として表現され、双対性は単に物理量の再表現ではなく、ホモトピー的同値(homotopical equivalence)として扱われる。
さらに踏み込んで、僕は散逸しうるエネルギー流や界面効果を射影的モチーフ(projective motives)の外延として扱う仮説を提示した。
要するに、弦空間の局所構造はモチーフ的ホモトピー理論のファイバーとして復元できるかもしれない、という直感だ。
これをより形式的に述べると、弦場の状態空間はある種の導来圏(derived category)における可逆的自己同型の固定点集合と同値であり、これらの固定点は局所的な因子化ホモロジーを通じて計算可能である。
ただしここから先はかなり実験的で、既知の定理で保証されるものではない。
こうした再定式化は、物理的予測を即座に導くものではなく、言語を変えることで見えてくる構造的制約と分類問題を明確にすることを目的としている。
議論の途中で僕は、ある種の高次圏論的〈接続〉の不変量が、宇宙論的エントロピーの一側面を説明するのではないかと仮定したが、それは現時点では推論の枝の一本に過ぎない。
専門用語の集合(∞-圏、導来スキーム、因子化代数、von Neumann因子、AQFT的制約など)は、表層的には難解に見えるが、それぞれは明確な計算規則と変換法則を持っている点が重要だ。
僕はこうした抽象体系を鍛えることを、理論物理学における概念的清掃と呼んでいる。
日常についても触れておく。僕の朝の配置には位相的な不変量が埋め込まれている。椅子の角度、ノートパソコンのキーボード配列、ティーカップの向き、すべてが同相写像の下で保存されるべき量だと僕は考える。
隣人が鍵を落としたとき、僕はそれを拾って元の位置に戻すが、それは単なる親切心ではなく、系の秩序を保つための位相的補正である。
服を着替える順序は群作用に対応し、順序逆転は精神的な不快感を生じさせる。
ルームメイトが不可逆的な混乱を台所に残していると、僕はその破線を見つけて正規化する。
友人の一人は夜の研究会で新しいデッキ構築の確率的最適化について話していたが、僕はその確率遷移行列をスペクトル分解し、期待値と分散を明確に分離して提示した。
僕はふだんから、あらゆる趣味的活動をマルコフ過程や情報理論の枠組みで再解釈してしまう悪癖がある。
昨夜は対戦型カードのルールとインタラクションについても議論になった。
カード対戦におけるターンの構成や勝利条件、行動の順序といった基礎的仕様は、公式ルールブックや包括的規則に明確に定められており、例えばあるゲームではカードやパーツの状態を示すタップ/アンタップなどの操作が定式化されている(公式の包括規則でこれらの操作とそれに付随するステップが定義されている)。
僕はそれらを単純な操作列としてではなく、状態遷移系として表現し、スタックや応答の仕組みは可逆操作の非可換な合成として表現することを提案した。
実際の公式文書での定義を参照すると、タップとアンタップの基本的な説明やターンの段階が明らかにされている。
同様に、カード型対戦の別の主要系統では、プレイヤーのセットアップやドロー、行動の制約、そして賞品カードやノックアウトに基づく勝利条件が規定されている(公式ルールブック参照)。
僕はこれらを、戦略的決定が行なわれる「有限確率過程」として解析し、ナッシュ均衡的な構成を列挙する計算を試みた。
また、連載グラフィック作品について話題が及んだ。出版社の公式リリースや週次の刊行カレンダーを見れば、新刊や重要な事件がどう配置されているかは明確だ。
たとえば最近の週次リリース情報には新シリーズや重要な続刊が含まれていて、それらは物語のトーンやマーケティングの構造を読み解く手掛かりになる。
僕は物語的変動を頻度分析し、登場人物の出現頻度や相互作用のネットワークを解析して、有意なプロットポイントを予測する手法を示した。
夜遅く、友人たちは僕の提案する抽象化が読む側に何も還元しない玩具的言語遊びではないかと嘲笑したが、僕はそれを否定した。
抽象化とは情報の粗視化ではなく、対称性と保存則を露わにするための道具だ。
実際、位相的・圏論的表現は具体的計算を単に圧縮するだけでなく、異なる物理問題や戦略問題の間に自然な対応(functorial correspondence)を見出すための鍵を与える。
昨夜書き残したノートには、導来圏のある種の自己同型から生じる不変量を用いて、特定のゲーム的状況の最適戦略を分類するアルゴリズムスケッチが含まれている。
これを実装するにはまだ時間がかかるが、理論的な枠組みとしては整合性がある。
僕の関心は常に形式と実装の橋渡しにある。日常の儀式は形式の実験場であり、超弦理論の再定式化は理論の検算台だ。
隣人の小さな挨拶も、ルームメイトの不作法も、友人たちの軽口も、すべてが情報理論的に扱える符号であり、そこからノイズを取り除く作業が僕の幸福の一部だ。
午後には彼らとまた表面的には雑談をするだろうが、心の中ではいつものように位相写像と圏論的随伴関手の組を反芻しているに違いない。
俺の信条で採点するなら40点くらいを付けるべきだと思うんだけど心情では65点。
まぁまぁよかった。
ストーリーとしては
恋人を殺された主人公がその犯人を殺害したと思ったらその日が終わるとまた同じ日が繰り返されてしまう。何度も殺人を繰り返すうちに主人公と犯人の間に奇妙な友情が芽生え……
という話。
まずちょいちょい見かけた批判で「すぐにこの話がVR(現実ではない)ことがわかってしまうのがマイナス」というようなことがあったけど、俺くらいになると映画見る前から「ループが現実じゃなくて仮想空間だったみたいなクソSFだったら嫌だなぁ」くらいの想像はしてしまうので、今更そこでマイナスつけるような作品じゃないとは思う。
実際、中盤くらいでこれが何らかの契約によってもたらされている事態であることは明かされるので「まさかVRだったとは!騙された~~~」というつもりで作っている作品ではないことは明らかなんだし。
ある種のアート映画系の作品で情報をかなりバッサリと切り落としてふわっとさせているので、なんでこうなったの?ってなる部分が多い。敢えて「わからせない」ようにしているはずなのに、急に「わからせよう」としてくる部分があってそのチグハグさが一番気になった。
この作品ではループの合間に過去の主人公と彼女の馴れ初め的な映像が差し込まれるんだけど、かなり自覚的に「この映像自体が本当にあったことなのか仮想映像なのか」をぼやかしている。彼女に何か質問しようとすると「質問禁止」とはぐらかされるのだが、殺人ループ終了後にリハビリと称して彼女との幸せな時間VRに一度移る時にも同じように何か聞こうとすると「質問禁止」とはぐらかされる。彼女が元々そういう性格であったとも捉えられるし、仮想空間内であっても主人公本人が知りえないことは答ええないというルールだとも捉えられるように作られている。
しかし、殺人犯が主人公に「あの女は死にたがってた」と話す場面があり、そこで急に犯人視点の彼女を殺した場面回想が入る。ここノイズ。
そもそもこの世界で主人公は何度も犯人を殺すんだけど、この犯人が「実際の犯人」なのか「VRで生成された犯人」なのかは明らかにされない。恋人との描写も実際の映像なのかVRの映像なのか明らかにされない。
そして作中通じて犯人と恋人のパーソナルな情報も徹底的にオミットされている。
その状況で急に「犯行時に犯人と恋人はこのようなシチュエーションでした。こんな裏設定がありそうです」の回想シーンが入るから、これ何の話なんだよ!とめちゃくちゃガッカリした。急に「わからせ」に来るじゃん。いらんいらん。ふわっとさせるって決めたんならふわっとさせとけよ。
それはさておき、この作品のループはありきたりながらもちょっとフレッシュな部分もあって。
ループ1回目。犯人が日課で飲むジュースのカップに毒を仕込んで弱ったところを主人公がナイフで殺害。
2回目。犯人が日課で飲むジュースのカップに毒を仕込むんだけど犯人はなかなかジュースを飲まない。が最終的に飲んで弱ったところを主人公がナイフで殺害。
3回目。犯人はジュースを別の同僚に飲ませて同僚が苦しむさまを見て笑う。も、不意打ちで主人公が犯人に襲い掛かり包丁で殺害。
4回目。犯人はジュースを主人公に飲ませ、別のジュースを自分は飲むが別のジュースのカップに毒が仕込んでおり弱ったところを主人公が殺害。
2回目で視聴者と主人公に「毎回同じループをたどるわけではない?」という違和感を抱かせ、3回目で「気づかれてね?」となり、4回目でそれが確信に変わりこのループなにかがへん?となる。
そして5回目の冒頭で刺された犯人が車の中で目を覚まし「またかよ」と呟くシーンから始まり「犯人もループしてる!」というサプライズがある。この5周目で急に話が展開し、これがVRであることが発覚するんだけどここの持っていきかたは流石に強引すぎてややマイナス。昨日までガチ殺し殺されしてた奴と急にボーリング行かんだろ、さすがに。さすがにもう1ループ「お互いのループを確認し合う」ループは要ったと思う。VR契約でしたサプライズは薄れるけども。
でもこの5周目の頭までの構成はループものとしてよく作られててよかった。
そしてこの5周目以降、主人公と犯人は「仕組み」を理解し(主人公は最初から知ってたんだけど)2人はこの殺人ループという契約を遂行するある種の共同作業者として奇妙な友情が芽生えていく。
主人公が犯人を殺すという契約でループされており、何をどうやっても回避できないことがわかり、二人はお互いの話を少しずつしながら「じゃあこの辺で殺されときますか」「はい、じゃあ殺しますね」みたいな感じで話が進行する。「いつも川に捨てに行くの大変なんですよ~」「じゃあボート乗っちゃう?」みたいなボートデートもあったり、後半コメディ調になっていくんだけどここが結構楽しい。
ここで「あんなに憎かった犯人と急に仲良くなるわけないだろ!」という批判もあると思うんだけど、まぁ普通に4回も殺したらいい加減気も晴れるよねとか、4回も人殺すのさすがにストレスだよねとかいろいろ受け取りようはあると思う。俺はあんま違和感はなかった。そしてその一方で、両者ともに「殺す」「殺される」に対してどんどん淡泊になっていくのも「慣れってあるよね~」って感じでよかった。
作中でのヒントでは「死刑何度もできる制度だよ!」みたいな感じで出てくるけど、印象としては「殺人セラピー」みたいに感じられたかな。そういう意味ではこの「死刑何度もできる制度だよ!」も逆にノイズだったかも。
復讐ものとしてシリアスな感じで進んでいく前半と種明かしがあってから急に人情コメディみたいになっていく後半のギャップが俺はうまく作用してるなと思ったかな。
あとはまぁ、この作品をきっちり成立させてるのは演者のよさだよね。
主役の人は全然知らんかったんだけど柔和な甘ったれだけど狂気もはらんでる役を上手に演じてたし、なにより犯人役の伊勢谷友介だよね。最初「伊勢谷友介みたいないでたちやな」と思って見てたら伊勢谷友介で、生きとったんか!ワレ!ってなった。ハッパ逮捕以来の復帰作らしい。さーすがにいい役者だわ。こいつ怒らせたら怖そ~って感じと笑うと意外と笑顔がくしゃっとしてる人好きのよさ愛嬌みたいなのがあって、この人なしだったらこの企画成立しなかっただろうなと思った。
この2人のアンサンブルでこの映画の格がかなり上がってると思う。
アート映画的な情報の意図的なオミットとエンタメ映画的な設定の面白さがうまくかみ合ってない部分が結構あって「で、この作品いったい何が言いたかったの?」ってなっちゃう部分は結構残念。作中で起こっていることの重厚さのわりに細部が切り取られた結果全体がふわふわしてるので、最終的な感覚が「こんな話があったらおもしろいよね~」みたいな感じで撮ったのかな?って印象になってる気がする。
もっと切り込んでもよかったのにな。面白そうな映画を見たなっていう印象に留まっちゃったのが残念に感じる程度には好きな作品だった。