はてなキーワード: 庵野とは
エヴァのTVシリーズが終わって、サブカル的な盛り上がりを見せてた頃、ヤングアニマルで庵野監督と漫画家の二宮ひかるさんの対談というのが掲載された。
正直内容はほとんど忘れてしまったが、こんなやりとりがあったことは覚えている。まあなにしろ昔の話なので細かいところは違っているかもしれない。
ひょっとしたらオナニーの話だったかもしれないが、手元に当時の本はないので、持ってる人がいたら確認してほしい。
読んだ当初は、いや庵野さん女性相手に何言ってるの?という気持ちだったが、今思うと、確かにこの感覚は女性に説明しても伝わらない部分かもしれないな、と思う。
女性はよく、男は勝手に果てて満足しちゃうんでしょ?みたいな事を言うが、割とセックスって男にとってプレッシャーで、まずきちんと機能するか、そして相手をある程度満たすことができるかって結構重い。若い頃は自分の欲が先行するけど、ある程度大人になるとまあまあ考えてしまう。まあ、考えないやつもいるんだろうから、あくまで個人的な問題としておくけど、それなりにそういう人いると思う。
男ならわかってもらえると思うけど、大して良くもないのにただ出ちゃう時のやるせなさみたいなの、あれなんなんだろうね。
もう何回目だよこの話
エヴァの企画資料はとっくに公開されていて、第一始祖民族を始めとした当初のストーリープロットは全部出てるだろ
投げっぱなしになったのは予算がなかったからだって当時からずっと言われてる
19話の男の戦いの時点で予算使い過ぎて路線変更したって何回もインタビューで言われてるじゃん
だから20話以降は低予算アニメになっていて、後でDVDになったときに戦闘シーンとか作り直されてる
ロンギヌスの槍を抜いたときに足が生えるの、テレビだと無かったしその他諸々変わってるんよ
そもそも旧劇場版は「すいません、予算の目処がついたので25話と26話をちゃんと作り直します」っていう話から始まってる
25話はネルフの壊滅、26話で人類滅亡→再生っていうのは予定通りで、旧劇は下手に金ができたから拘りまくってあんな感じになった
ナディアの時も赤字で最終話は放送当日に上がったとかいう無茶苦茶なマネジメント
庵野は拘りすぎてその辺のスケジュールがダメで批判されてたけど、まぁガイナックスも相当アレだし当時のアニメ業界がブラックすぎたよ
今見ても当たり前すぎて普通の演出だけど実はエヴァが初めて(もしくはテレビアニメとしてはエヴァが初めて)みたいなのがいっぱいあるから
それなりにウルトラマンは好きなので非常に楽しめたんだけど、一点だけ気になったことがある。
それは”重量感”がなかったこと。
偏見かもしれないんだけど、庵野監督って結構重量感を大事にする監督だと思ってたんだ。
例えばエヴァなんかだと大きくジャンプしてそのあと着地するとその際に地面のコンクリに亀裂が走ったり、その時の衝撃で周りの建物が傾いて窓が割れたりと、スケール感にもロマンを感じているものだと思ってた。
だからシン・ウルトラマンでそのような描写が全然ないのが驚きで、ウルトラマンや怪獣が歩いても地面は揺れないしドスンドスンといった足音のSEさえもない。
コロナの在宅勤務を契機にここ数年鬱っぽく、鬱を自覚した当初に自分のテンションを上げる目的で、休みの明るいうちから一人酒を飲んでみる。
そのうち、休みは暇という虚無をスキップするための飲酒、が常態化する。
折しも現職でのうだつの上がらなさや、家族からだんだん舐められてる、下に見られているというミドルエイジクライシスも相まってどんどん自我を喪失し始める。
そして現職内でいくつか不満がたまる中で管理職と折り合いが悪くなり、
「おーほんなら辞めたらぁ(でもあたしみたいなオジサン慾しい人なんて…)」と軽い気持ちで転職サイトをちょちょっといじってみたところ、数件面接まで進んだ後内定までいただく。
んで↑の台詞をリアルで管理職に言って9月から有休消化、ってワケ。
微量ながらも金も暇もあるボーナスタイムなのに、家族や周囲の目を気にして、それよりなにより自分が何をしたいのかがわからなくて茫洋とする老人モラトリアム。
人生2度目のモラトリアム、2度目の青春(回春)に、なにか良きアドバイスを。
反応本当にありがとう。嬉しいもんだね。
厳しいコメを言ってくれる人も、「厳しいコメ多い」って言ってくれる人も、両方大切に思う。
厳しいことを言ってくれる人ってどんどんいなくなるのよ。友達減っていったり、家族仲あんまよくなかったりしてると。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/eiga.com/news/20250906/6/
このブクマ
黒澤明は日本人からそっぽ向かれちゃったからね。そして実写映画界にそのセンスは受け継がれなかった。黒澤を受け継いだのはアニメ界だったんよね。
だが、★はたくさん付いている。ただ具体的に黒澤明に影響を受けたアニメ作品や作家の名前は、かろうじて宮崎駿が出てくる程度で出てこない。でも増田はそれはなんか違うと感じたのだ。
宮崎駿が黒澤明を尊敬しているのは割と有名な話ではあるが、両者の作風は実はかなり違うとおもう。
黒澤明は実はアメリカン(ハリウッド)な作風だ。ジョン・フォードの駅馬車にインスパイヤされたシーンなんてのがあるぐらいに、「古き良きアメリカン」なアクションシーンやヒューマンな(牧歌的で、今となっては懐古的な人道主義)面が強い。一方で宮崎駿は、アクションなどはインスピレーションがあるのかもしれないが、それを「影響を受けたフォロアーだ」と言うには雑すぎる。もし影響つよつよだっていうなら剣闘のシーンがもっとあるはず。ぱっと思いつくのはナウシカのユパぐらい?。また、宮崎駿の世界観は、まぁSFの匂いがあることもあって設定はもっと複雑である。20世紀半ばのアメリカ的な素朴な人道主義は感じられない。
そして黒澤のヒューマニズムは、素朴だが裏に苦みや残酷さを持つのに対し、宮崎のそれは設定の複雑さに比して映画の結末は表層的でハッピーだ(この辺は宮崎駿を批判する時に言われがち。まぁスポンサーの意向とかもあるんちゃう知らんけど)
更に。
黒澤明は全盛期ですら「女があまり書けないタイプ」の監督という定説があり、また本人も女を描くのが苦手だとインタビュー等でしぶしぶ言っている。まぁ増田は、ご本人が言うほど下手じゃなく魅力的な女性はたくさん出てくる(椿三十郎の旗本の奥方とか最高)し、むしろ羅生門などはそれが出来たからこその評価だろうと思っているのだが。
それは置いておいて、まぁ黒澤は「女」のキャラクターを物語の中に立ち上がらせるのがあまりうまくなく(撮り方もなんていうか、こうステレオタイプである)、一方で、黒澤明は「男」を描かせれば本当に一級品だ。三船敏郎というアイコンとの出会いは大きかろうが、どっこい三船以外の「男」も、ずるかったり弱かったり強がったりとバリエーションに富んで素晴らしくすべてが「物語の豊かな糧となるキャラクター」だったりする(黒澤映画における女はたまに「美人女優を出さなきゃならんからな」的な状態になっている時がある)。
一方、宮崎駿の描く女、これも発端は黒澤的なステレオタイプなかたちをとることが多い。だが、宮崎駿の描く「女」はステレオタイプ(かわいい、おてんば、などの男が好むステレオタイプ)から飛び越えて陰影や謎を持つ魅力的なキャラクターで、その点(女を描く)は宮崎駿の方がうまいと思う。そもそも宮崎映画は何でそんなにというほど「女」が主人公だ。
なので、影響はそりゃ受けてるだろう世代的に、とは思うが、それをフォロアーと言うには雑な気がするのだ。
何しろ黒澤明の映画は、彼の全盛期である1940~60年代には1年に2本~数年に1本のペースで映画館にかけられている。それが基本的に全部大ヒットで良作品である。映画がことさら好きじゃない人でも当たり前の顔で黒沢映画を見ていた時代だ。団塊の世代であれば多感な子供~思春期に「毎年1本、黒澤明の大人気の痛快娯楽大作」が封切られていたわけで、こういう時代背景をもって「宮崎駿は黒沢の影響で作品を」というのは、ちょっと乱暴すぎる。
一方で、ガンダムの人とかは影響受けてるんかなと思って検索したら(ガンダムの方はあまり知識がないので語れることがない)こんなブログが引っかかって面白かった。さすがガンダムおじさんいちいち辛口
https://ayamekareihikagami.hateblo.jp/entry/2017/11/30/235950
日本の映画界は貧しすぎて、1950〜60年代に戦争物もあったんですが見にくいものしかない。また軍隊を悪者にすれば気が済むという簡単な思想性で組まれていて、戦争を描いている映画とは言えない。それ以上のものを求めても、当時才能がそれほどいなかったから無理だよねってことですね。黒澤明あたりが一等賞というのは貧しくて、後続部隊がいなかった。『七人の侍』(1954)は見やすい映画ですが、見事なものは『七人の侍』を持ってこないとないというのは貧しい。黒澤明は巨匠ではありますが万能ではありませんし、偏った監督だったとぼくは思っています。
こちらの方がむしろ「黒澤の次をなんとかしないと」ということなんだろうということで、より本質的には「継ぐもの」フォロアーなんだろうと思う。でもブクマには富野も庵野も名前が出てこない。
富野→庵野、みたいな流れが「アニメが引き継いでる」ってことであってます?オタクの間ではそれが定説ってこと?その割にはブクマに黒澤を見た人が少ないのでこれが正解かもわからない。
オタクが百合に惹かれるのは、たぶん「生殖して子を残す」という垂直的な時間性を否定できるからだ。(淫夢もひょっとしたらそうかもしれない)
子供を産んで未来に投資するのではなく、今この瞬間の快楽だけに閉じこもれる。百合はその構造を象徴しているんじゃないかな。
90年代、日本社会はバブル崩壊後の超やべー終末感に支配されていた。
だけど1999年のノストラダムス予言が外れたあと、陽キャは気持ちを切り替えてSEXして子供作って家庭を築いた。
だが陰キャはそうはいかず、百合や世界系、あるいは淫夢やハセカラのような、自分が何もしなくても未来を否定してくれちゃうコンテンツにズブズブとハマり続けてシコシコと汚ねぇ部屋でオナニーばっかしてっから前向きに生きたっていいはずの2025年でも俺もお前も20年前とかわんねぇー
子どもの頃に草むらの神社で感じた神秘体験を、エヴァにノスタルジー的に当てつけのように重ねるのは、どこか間違っている。
何やら複雑で壮大な世界がありそうだが無力な人類にとっては何も感知できない感覚はシコリティが高い。
しかし庵野が「当てつけられるため」にエヴァを作ったとしても、その神秘の代用品としてシコリティの道具にしてしまうのは俺ら自身の問題だ。
シコリティの高い百合で抜いて、生殖も未来もまとめて否定して、終末感に酔う。
それは気持ち悪い。醜い。でも「生きるな」とまでは言わない。
なのに俺らは「排他的で堕落したオタク」として居座り続けている。
別に淫夢男優の下手な演技見て笑わなくたって彼女作ってセックスすれば気持ちいいし、結婚して家族を守る方がよほどかっこいいのに。
結局のところ、少年期の超越的感覚に縋るよりも、大人になって現実を背負う方が充実しているはずだ。
それでも俺らは百合に逃げ込み、シコって、自己嫌悪しながら延命している。