はてなキーワード: オッカムの剃刀とは
大辞林第三版や明鏡第二版で(名)スル、名・他サ変の記載がある。これらは全てするをつけて動詞として使えるの意。
同じ辞書で予想、予測と調べてもいずれも動詞としての使用を認めている。逆に同音異義語の余談では認められていない。
予断は明らかに熟語の構成という部分で予想や予測と同じグループにあるものであり、それらが全て辞書の指摘通りサ変活用を認めると解釈するのは理論的に整合性がある。
逆に辞書の記載を無視して予断だけはそのような使い方は許されないと解釈すると、なぜ予想は予測はよいのかという話になる(オッカムの剃刀)
理論的に熟語として仲間ではない「余談」では認められていないということがこの文法ベースの解釈の正当性を裏付ける。
以下は小納言で「予断」で検索した結果
https://shonagon.ninjal.ac.jp/search_form
・ては,円高傾向のような積極的要因がある一方,これに伴う不況という消極的要因もあり予断し難いが,国民の海外渡航熱にはなお根強いものがあると考えられるので,当面は増加
・のとしている)、条約法条約は、敵対行為の発生が条約に及ぼす影響などの問題について予断していない(七三条)。国際司法裁判所のガブチコボ・ナジュマロス計画事件でハンガ
・るべきこと。2 評価の実施に当たっては,プルトニウム利用を排除すること等,結果を予断することなく,客観的,技術的に作業を進めること。3 原子力平和利用のいたずらな混
・るごと尻馬に乗せているのではないかとも思ったのだが、まだ入国したばかりでそういう 予断 はするまいと自らを戒めたのであった。かくして私たちはイラクに入国した。道は、急
金利差だけで説明できるのになんで「金利差だけじゃなくて」という謎の解説をするコメント見かけるんだろう。
そりゃ複合要因で動いてるのはわかるが、どう見ても金利差の影響が一番じゃん。
ドル5%超えてて日本の金利1%もないんやぞ。誰が買うねん。むしろ金利差があった時期の円高のほうがおかしかったての忘れてんのか?
超長期のデフレ経験してて感覚ぶっ壊れてる奴ら多いが、むしろのその時期のほうが経済が狂ってたんだが。今は正常化に向かいつつあって市場は日本円に対して素直な売りをしている。これは円安金利だけでも十分説明できるし、まぁ他の要因までは否定しないが、金利差だけでも説明できるでしょう。
頭悪そうに一生懸命背伸びして、微々たる影響しか無い「金利差以外の円安要因」を喋らんでもいいのに。なんであんなに頭悪そうにイキって。
ごめん。意見がおかしいってだけで本人の人格まで否定するのはいきすぎてました。ごめんなさい。これは私の言葉が悪かったです。
あれどう言う思考の流れでそんなことを言ってるんだろうか。金利差が原因だとなにか問題のある人たちが吹聴して回ってるんですか。
別に見たまんまの直感的な動きにしか見えないんだけど、物体が落ちるのは重力があるからだーってところに。いやいや、重力だけじゃなくて空気抵抗も考えなければみたいなこと言ってるんでしょ。
今目の前でリンゴが落ちているんだから地面に激突する前に手で取ろう!ってのが趣旨で、空気抵抗!?みたいなこと言ってる自覚あるんか。
そんでもっと言うなら金利差を生み出した量的緩和が原因だし、それを作ったのはアベノミクスだし。
そもそもこの円安を誘導するというのは当初のアベノミクスの計画通りだし。うーん。みんなこれのために安倍晋三と自民党を応援してたんでしょ?
ブクマカなんて、当事者でもないくせに人のエントリやニュースにただ乗りし、
「わたしのかんがえたさいきょうののうないせってい」
をもって、
「わたしのかんがえたさいきょうのせいぎ」
と掘られた石を投げて溜飲を下げ、
たとえ自分たちの投げた大量の石が、相手を傷つけ、そして自死を選ばせたとしても、
何の反省もなく、また新たな投石相手を探しにいく、クズ中のクズという印象だった。
まあブクマカに限らず、ヤフコメや旧Twitterの有象無象も同じだけどさ。
「セクシー田中さん」の件でも、まあブクマカどもは言いたい放題。
原作者がなくなられる前から、ひでえものだとまゆをひそめていた。
で、増田ブクマカも、その一味だろうと勝手に思っていたのだけど、例えば
で10位までに挙がっているようなブクマカを見てみると、「セクシー田中さん」騒動を完全スルー。
「小さな良い戦争」がないように「小さな良い炎上」もないんだろう - death6coin のブックマーク / はてなブックマーク
としている程度。誰が悪いだの、誰は悪くないだのといったことは一切コメントしていなかった。
(以前は過激なコメントを書いていたが、訃報を受けてあわてて消したという可能性もあるにはあるが)
ブクマカは一律に嫌っていたが、増田ブクマカに関しては、そことはちょっと別なのかな、と認識を新たにしたここ数日だった。
【追記】
yujimi-daifuku-2222
草津が炎上していた時期や、今年松本人志がボコボコに叩かれている時にこうした意見が出ずに今回出るのが党派的過ぎて気持ち悪い。/炎上嫌いの皆さんは今まで冬眠していたのですか?
いや待て待て。
党派性って、右翼が原作者を支持し、左翼が脚本家を支持したとか、
フェミニストが原作者を支持し、アンチフェミニストが脚本家を支持したとか、そんなことがあるの?
少なくとも私はそんなの知らんぞ。
考えすぎ。
「騒動によってなくなられる方が出た(少なくとも、可視化されている)」
という1点だけ。
この1点があったから、私も触発されて、気になって調べた、のかもしれない。
本当にそれだけ。
草津だからだんまりとか、松本だからあえて無視とか、そういうのはまったくない。
ていうか、b:id:yujimi-daifuku-2222さん、どういう意図で党派性って書いたのか、教えて。
煽りとかではなく。
注意点
オッカムの剃刀は単純化の手段に過ぎないのであって、説明に不要な存在を否定するものではない。上述の例では、説明には不要な存在として「神」が剃り落とされているが、これは「神が存在しない」ということを意味するものではない。あくまで神の存在、不在は別の議題となる。
どうして自分自身に暗示を掛けて神さまとかいうウソを信じ込むのが推奨されているのか。
現に、日本人の多くが神さまとかいう欺瞞に頼らなくても十分暮らしていけてる。
神さまに拝まなきゃ辛いほど追い詰められてるなら、抗うつ剤とかストラテラに頼ればよくね?
お墓とか祈祷とか宗教に貢いでるカネを取っておいて、アイドル Vtuber にスパチャした方がまだしも幸福のコスパはいいと思うが。
生物多様性を大切にするとか言ってるのと同じ口で、せいぜい数個のバリエーションしかない宗教にこだわってるの意味がわからん。
追記・
議論のツリーで「科学的に天国は存在しない」と言ってる人を見かけた。
いや混乱するかもしれないが、それは誤解だ。
科学に身を置いて生きれば宗教は必要ないと主張するオレだが、しかし別に天国はないなんて言ってない。
宝クジが当たる確率とか、流れ星が落ちてくる確率とか、婚活が成功する確率とか。
ランダムで何回に一回あたるはずと想定する、小惑星帯に流れ星を妨害する障害物が一様に散らばっていて数パーセントの確率で軌道が変わるはずと想定する、とか。統計的に今までペアになった確率は数パーセントで未来もさほど変わらないはず、などなど。
「天国の存在する確率はわからない」が正しい答えだ。十分に妥当な確率モデルを示せないんだよ。
天国は存在するかも知れないし、しないかも知れない、わからない。
つ オッカムの剃刀
オッカムの剃刀とは理論は可能な限りシンプルである方がいい、という提言だ。
しかし、この格言は科学界で人気の思想というだけで、外せない原理原則ではない。
もしシンプルな方がいつも正しいのなら、光速度不変の原理という速度上限は必要なく
近年、GPSの 狂いやブラックホールによる光の湾曲など、相対性理論があって初めて説明できる事象が観測されるようになった。
しかし昔を思い出してほしい。
それらが確証事例が無かった時代にも相対性理論は議論されてたんだよ。
死にたくない!で死にたい。
ダメ、私は死にたくない、死んだら無になるんだよ、あの世なんて無いんだから
オッカムの剃刀で考えてよ、死んだら単に意識が消滅するだけで、主観的には眠って目が覚めないのと同じ、
ずーっとずーーっと起きられなくて、思い出も、何も、思い出せなくなる、チャンスがなくなる
好きだったマンガの続きも読めないし、好きな曲をもう一度聴くことも叶わなくなるし、ラピュタをもう一度見直すなんてことも出来なくて、
何も考えられなくなる、楽しめなくなる、明日が、希望が、続きが消えてしまう
あなたのお金や時間は取り返しがつくでしょう? 助けてよ、死にたくない、少しだけでもいいから時間を稼いでよ、私はもう死んでしまったら取り返しがつかない、絶対に戻れない、笑ったり泣いたりもできない、眠って、もう起きられなくなる、何とかしてよ、時間がなくなる以上に大変なことなんてないでしょう? 全力を使って時間を稼いでよ、あなたが私を助けるために四苦八苦してる時間もあなたの人生だし振り返って思い出すこともできるけど、私からは、消える、全部、何もできなくなる!
死にたくない、助けて、助けて、助けて、って言いながらの最後がいい
ahomakotomさんもまあブクマカによくいるタイプの人(婉曲的な表現)なので、わざわざ増田まで書かんでも、と思いながら見てたけど、これは面白いから言及しちゃお!
増田ってこういうなんだか頭良さげな形式でものを言おうとするけどうまくいってない人がいっぱいいるから大好き!
もうほんとめちゃめちゃでどこから手をつけていいかわからないけど、頑張って君が間違っているところを指摘していくね!
これに準拠してるって言いたいんだろうけど、それならそのことは最初に言わなきゃダメだよ!意味不明だよ!
そしてどこからこの内容が読み取れるか書いてないんだよね。結果的にこの前提が間違ってるからもう全部腰砕けなんだけど。
元増田が批判してる根拠は、あっ、前提っていったほうがいい?ごめんね。良く知らなくてそういうの。学がないからさあ俺。
たった100円を払わず
ここだよね。数字がコピペできねえぞ。リスト記法ってどうやんだっけか。まあいいや。
ではなさそうだよねえ。
君の好きそうな感じで書くならば
こんな感じ?4の条件を満たしているかは意見が分かれるところだろうね。
でもまあ人を批判しようってんなら普通以上の注意力を持って文章を読むべきですよね。「寛容の原則」でしたっけ?うふふ。
ここまでの内容で「前提3-1」はバッテンだね。だから3-1に対する疑問もバッテンだね。大本の前提が間違ってるからこれ以上バッテンつけてもしょうがないんだけど。
「前提3-4-1」もほとんどバッテンだね。元増田は「どんでん返しの伏線」って言ってるように「誰であっても明らか」とまでは考えてなさそうだね。
だから疑問のほうもほとんどバッテンなんだけど、一応言っておくとコメントは皮肉を読み取れなかったのは前提だね。そう!前提!元増田もahomakotomさんが皮肉を読み取れたのにあえてあんなブコメを書いたとは思ってないだろうね。これは誰であっても明らかに読み取れることだよ。
皮肉に気づかず記事を批判するのはダセエし、他のコメントから皮肉に気づいても訂正しないから悪質性が高まってる、って論旨だね。
色々と書いてしまったけど、君の問題点は元文章を真摯に読んで批判しているわけではなくて、批判が先にあって、自分が批判しやすくなるような前提があるものだと決めつけてしまっていることだと思うよ。どこかで見た構造だね。
こめん、真摯に読んでないっていうのは寛容の原則から言ってよくないね!単に愚かだね。「オッカムの剃刀」とか、そういうの好きだよね!きっと!
まとめます!
私が読みたいのは、大きな物語というか、今までに見たことのない驚きのある結論を持つ物語であり、
SFというジャンルが好きなのも、物語のフレームとして、そうした驚きある結論へのシラバスとなりやすいからというだけ。
だから、そこに登場する仰々しいギミックには、そうした結論への素材以上の興味が持てない。
それは、大きな定理を導く一過程にしか過ぎず、その導出の自然さに納得したら、あとは忘れてしまうようなもの。
だから、数学書はなるべく短い方が読みやすいように、SFも「オッカムの剃刀」的に、ギミックは少ない方がむしろ好み。
同じ結論をもたらす物語なら、ギミックが少ない物語の方が読みやすいわけであり、個人的には素晴らしいSFだと感じる。
あと、キャラクターについてもそう。
大きな物語のためなら、別にキャラクターはどんな目に合っても構わないと思っている。
(それは逆に、物語にコミットしないキャラクターの悲哀は描かない方がよいと個人的には思っている、ということでもある。)
キャラクターは、驚きある結論に仕える舞台装置としか思えないので、先の仰々しいギミックと同じ意味で、興味が持てない。
ギミックもキャラクターも、面白い物語を成立させるための具材でしかないと、個人的には思ってしまう。
それゆえ、自分でもこうして、増田などに自分で考えた文章を多々投じているのだが、毎回、ギミックやキャラクターが無い文章を書いているなぁと思う。
ただ、それでもある程度はブックマークしてもらえるので、そこを見直そうという意欲は薄いのだが、
そこを押さえたら、もっと幅広い人に読んでもらえる文章になるんだろうなとは思う。
なので、今年はギミックやキャラクターに舞台装置以上の興味(好奇心や愛情というのか)を持って、文章を読んでいきたい今日このごろ。
いつかは、こういう散文でなく、流れある小説を書いてみたいと思うので、そういうところも押さえいくようにしたい。
ビッグバンを模式するために使われる風船のたとえをもって「全てが中心だ」と言い張る人がいる。
膨張の基点は風船のゴム膜の中にではなくそれによって包まれている空気に満たされた空間の内部に一点だけ見出すのがまっとうな考えだろう。
たとえばこの宇宙が三次元多様体の膜のようなものだと仮定するならその中心は四次元以上の座標系のある一点から放射状に膜が広がっていったと見ることができるだろう。
宇宙の全ての点で点同士が離れあっているというのはいわばコリオリみたいな見かけの現象だ。
高次元の真空のゆらぎから宇宙の構成する一点ができたという仮説に基づくなら、その宇宙の一点が三次元に収まっているのあえていうなら最初の瞬間だけであり、それ以降は一点に収まってたものは、各々一点から四次元以上の意味での距離において等距離だけ遠ざかっているということである。見かけ各点同士が遠ざかっているのは、一点に対する離れ方が等距離だからであり、実際の我々は絶えず高次元上の一点からまっすぐにどこかへと移動しているのだ。いきなり真空のゆらぎに無限次元を仮定するのはオッカムの剃刀からしても妥当ではなかろうが、とにかく、最低でも膨張の基点に原点をおいたときその座標を構成する変数のうち4つ以上の変数の絶対値が絶えず増加するような高次元旅行を我々はしているのだと思う。
低次機能で説明可能な場合、高次機能を仮定しない。これが心理学のオッカムの剃刀と言われる。
女が「清潔感がー」と話し始めてムカついたことは?清潔感を気にする行為を「何らかの知性が関係する」とか「人格が関係する」と考えるのは仮定を複雑化させている。
ところで、リポ多糖という毒素を人に投与して人工的に熱を出させて風邪をひいた状態にさせて、その人の体臭を別の健康な人に嗅がせるとそのにおいを避けるという研究がある。動物的な本能として、病気の体臭を発している個体に近づかないのだ。
つまり清潔感とは「動物的な本能として病気を避ける習性」と仮定したほうがよっぽどシンプルで、説明性が高いのだ。
この原則を適用した場合、例えば嫌いな(or 好きな)アノ人があんな行動をするその理由について「これは高次要因じゃなく、低次要因では?」と自然に仮説を立てることができる。
その時に「アノ人は性格がー」とか説明しちゃう人もいるが、あまり科学的に信憑性が高い仮説とは言えないと俺は思う。
性格で説明するよりは、環境・刺激・反応というセットで考えたほうが信憑性はあると思う。
アノ人がツイッターであんなことを言うのも人格のせいばかりではない。
「ツイッターという環境が利潤最大化を目的として意図的な刺激を与えているから」というのが大きいし、実際にそれが「行動デザイン」などと呼ばれているのだ。
確かに、刺激に対する反応の仕方には個性があるだろう。しかしその個性もまた「低次機能」から来ている可能性が高く「高次機能」は仮定が複雑化してしまうのだ。
仮に誰かが数式をツイートしたり、数学用語をツイートしたとしても「高次機能」が原因でツイートしたのではない。
きっと「社会的欲求」といった低次機能が関係しているに違いないだろう。なにせ数式を書くだけなら、ノートに書いておけば良いだけの話だからな。
大学生になったばかりの若者が必ずする行いは「科学とはなにか」とググることだ。そして「反証可能性」「科学的方法」といったWikipediaの項目にたどり着く。もっと深く知りたいと思った人はさらなる文献を調べる。その知識に感化されすぎて、Twitterで非科学的な(と本人が思い込んでいる)言論を見つけるやいなや「お前たちの言っていることはエセ科学だ」と言い始める。
この段階を、科学のレベル1理解と仮に呼ぶしよう。確かに科学について全く興味のない、学んだことすらないというレベル0理解よりは進歩しているかもしれないがまだ「レベル1」である。
レベル2理解とはどういうものになるだろうか。私がそれについて見解を述べる前に「レベル1を超えるためには」という自問をしてみてもいいかもしれない。
私が思うに、レベル2とは「自然法則を発見しようとする態度」だ。どっかの自称サイエンティストは「汎化性能」とか「再現性」とかいうかもしれない。ただ、それらは「自然がどうなっているか」ということとは直接関係しているわけではない。単に、人間の仮説に対して統計というアプローチを採用しているだけだ。
科学に統計ではないアプローチがあるとすると何なのか。そこがレベル2に到達するための関門と自分は思っている。ショーン・キャロル教授は「宇宙とは、ヒルベルト空間におけるベクトルである」という仮説を述べている。それではこの仮説はどこから来たのか。それは、エヴェレット解釈がオッカムの剃刀的に機能し、コペンハーゲン解釈よりも仮定がシンプルであることから来ている。何かを統計的に判断するよりも前の段階で、まだ人間が発見していない自然法則を見つけるためには仮説そのものを見つけるセンスが要るのだ。
そのような仮説の多くは数理理論から来ている。「物理学者は数学と現実を混同している」と揶揄する人もいるが、私が今書いているような自然言語よりも数学のほうが簡単だ。賢いから数学を使うのではなく、我々人間が愚かだから、数学を使わなければまともな仮説が見つからないのだ。
つまりレベル2理解とは、数理モデル化によって、まだ見つかっていない自然法則に関する仮説を見つけることだと私は考える。物理学の数理モデルは機械学習モデルとは少し違う。機械学習モデルの目的は予測だけだが、物理学上の数理モデルは現象を理解することに焦点がある。ひも理論が「我々の宇宙の物理定数の値がなぜこうなっているのかわからないから、あらゆる定数値が可能だと仮定してみよう」といって、10^500ものバリエーションの宇宙が可能であることを数理的に示しているが、このような「理論から演繹的に見つかった仮説」というのは汎化性能のことを目指したのではない。
そういう仮説に対して「反証不可能だからエセ科学だ」と言う人もいるが、なぜ「反証不可能」だとわかったのだろうか。「数理的にこういう仮説が演繹された。将来的にそれが観測されるかもしれない」という想像力さえあれば、彼はレベル1理解を脱出することができただろう。「科学とエセ科学の境界」というものについて科学者ですら認識が異なるというのに、何がエセ科学であるのかについて100%の確信を持っているというのは、ケツの青い証拠である。
しかし悲しきかな、そのようなケツの青い青二才、つまりレベル1理解のほうが圧倒的多数であり、またレベル0理解はその人数を超えている。レベル1理解の者(IQに喩えるなら100の者)から見れば、レベル0とレベル2は両方とも馬鹿に見えるものだから、境目なく「エセ科学」と言って弾圧をし始める。
「その仮説を俺は疑っている」「その仮説は反証された」「その仮説は反証不可能である」「その仮説が反証可能なのかどうなのかはわからない」「その仮説は、特定の仮定から数学的に演繹された」ということを少なくとも区別したほうがよい。間違っても「その仮説はなんとなくエセ科学っぽい胡散臭さを感じるから弾圧しよう」などという非科学的な態度は取らないほうが良いだろう。