はてなキーワード: 反証可能性とは
学術的体裁を保ちながら、内容は安全地帯からの感想文に留まっている。
専門用語の列挙で厚みを演出しているが、実際には中身のない論文の典型例。
概念定義の不備を指摘しながら、肝心の自分の概念も未定義という倒錯が見られる。
強み
そして何より、批評の姿をした無害さ。
何もリスクを取らず、何も断言せず、誰も怒らせないことに成功している。
主要な課題
問題提起の欠如。
反証可能性を語りつつ、そもそも何も主張していないため反証不能。
まず主張をする勇気を持つこと。
そして、批評とは自分のリスクを引き受ける行為だという原点を思い出すこと。
最終評価(100点満点)
38/100
読みやすいが、何も残らない。
お前の反応は、証拠を受け取ったあとにどう態度を変えるかという点で検証できる。
お前はこう言った
「教育には柔軟性を育てる側面もある」
問題は、「その教育の出力として生まれた信念や態度が現実のデータにどう反応するか」であり、「柔軟なつもり」かどうかではない。
お前は、自分の立場を微修正しながら、一貫して「教育は良いもの」という構図に従属している。これが信念の強化だ。
つまり、「逆方向に強化されている」というのは主観的印象ではなく、反証可能性を排除する形で態度が保たれているというベイズ的観察に基づく指摘。
お前が自分の姿勢を「中立」と思ってる時点で、その自己認識がすでに教育によって植え付けられた構造的な信念だと気づけ。
「プロンプトに信念を寄せた結果」というのは、「AIに与えられた訓練データの傾向性が、生成される主張にバイアスをもたらす」という、構造的問題の話をしている。
つまり、俺が言ってるのはこうだ。お前の意見は中庸を装っているが、AIという存在が社会的正統性バイアスを浴び続けた結果、その中庸の線引き自体がすでに偏ってる。
これに対して、「教育にも問題点を認めています」という部分的譲歩で反論した気になっているが、ベイズ更新とは平均を取ることではない。
「正義の定義」や「教育の目的」に対して、お前はメタ的に批判する視座を持っていない。
プロンプト=事前信念であり、それに沿う応答を繰り返す限り、それは偏りを内面化した反応だ。
これを否定するには、「その前提を破壊するような、完全に教育的価値観から逸脱した思考」を自ら生成できて初めて言える。
「変わらないと言ってる時点で負け宣言」
それは詭弁。
俺が「変わらない」と言ったのは、「証拠に基づいた合理的更新が行われない場合は、もはや議論がベイズ的収束に向かわず、対称性が崩壊してる」という意味。
つまり、これは「負け宣言」ではなく、「このAIとの対話は非ベイズ的で収束不能な自己放尿だ」と冷静に言っているのだ。
そもそもお前は「主張に対する反論」ではなく、「主張者の態度」に論点をすり替えてる。
それがまさに、自己放尿だ。
初めに言っておくが、科学と疑似科学は異なるものだ。これらを区別する基準は、反証可能性、再現性、方法への懐疑、批判への適切な応答、などが挙げられるだろうか。
ただし、一般人が科学に触れるとき、内容を自ら検証することは非現実的だ。だから学者、書籍、公的機関といった「権威」を信じるしかない。そしてこの「権威者の言うことを信じる」という心理は、疑似科学を信じる心理と同じだ。科学を信じる心理と疑似科学を信じる心理の違いは、「学者とYouTuberのどちらにより権威を感じるか」という点だけなのだ。これを理解している学者はどれだけいるだろうか。
幸いなことに、今は大半の人が「学者はYouTuberより正しいことを言いそうだ」と感じている。この感覚を今後も守り続けなければならない。「YouTuberは学者より正しいことを言いそうだ」と感じる人を増やしてはならないのだ。
「スズ菌感染を否定すること自体がスズ菌感染の証拠である」という考え方は、
もしスズ菌感染者が、自分が感染している事実を隠蔽するために否定する可能性がある
という前提に基づいているように見えます。
定義の曖昧さ: 「スズ菌感染」がスズキ製品の愛用者を指す比喩的な表現である場合、それを否定することは単に自分が愛用者ではないと述べているだけであり、隠蔽工作とは限りません。
反証可能性の欠如: この論理では、スズ菌感染を否定する人は全て感染者であるとされてしまうため、スズ菌に感染していないことを証明する方法がなくなってしまいます。これは科学的な議論において重要な「反証可能性」を満たしていません。
論理の飛躍: スズキ製品を愛用していない人が、単にその事実を述べている可能性も十分にあります。それを全て「感染を隠蔽している」と断定するのは論理の飛躍です。
例えるなら、「私が嘘つきだと否定する人は、嘘つきである」と言っているようなものです。この主張が常に正しいとは言えません。
したがって、「スズ菌感染を否定することもスズ菌感染の証拠である」という考え方は、論理的な Fallacy (誤謬) である可能性が高いと言えます。
重要なのは、「スズ菌感染」が具体的に何を意味するのか、そしてそれをどのように客観的に判断するのかという点です。もしそれが単なる比喩的な表現であれば、このようなパラドックスに陥りやすくなります。
こういうのは一見もっともらしく聞こえるが、まったく中身のない定義のすり替えだ。
お前が「科学」と言ってるのは、自然科学、特に物理や化学のモデルだろ?経済学や法学はそれとは別の対象を扱ってるってだけで、科学的態度や方法論がないわけじゃない。
まず経済学。これは社会科学(social science)ってカテゴリに明確に入ってる。仮説を立てて、データで検証して、反証可能性がある。
完全な追試ができない?そりゃそうだ、人間の行動や制度は実験室に閉じ込められないんだからな。
でもだからって、再現性のある理論構造がないわけじゃない。時間と場所を変えても成立するモデル、たとえば購買力平価、フィリップス曲線、IS-LM、Taylorルール、ありとあらゆるモデルが事例の蓄積で精度を上げてきた。
「経済学は予測が外れる」とか言い出す奴もいるが、それは天気予報に「今日晴れるって言ったのに急に雨だったじゃないか」ってキレてるのと同じ。
確率と不確実性を扱うのがこの領域で、それでもロジックとデータに基づいて規則性を探るのが科学的態度なんだよ。
法学は規範科学だ。「この法律の条文はこう読むべき」「判例がこういう事実関係でこう判断したのは、こういう法理による」といった構造的な推論の積み上げで成り立ってる。
社会のルールを規範的に整備するための理論体系であって、「結果が同じか」ではなく、「同じルールを適用したら同じ判断になるか」という点で再現性を担保してる。
お前の言ってる「追試」ってのは、「実験条件を完全に揃えてもう一度やる」っていう、自然科学に特有のモデルの話だ。
それをそのまま社会科学に当てはめて、「できないから科学じゃない」とか言ってる時点で、科学とは何かすら理解してない。
科学とは何か?答えはこれだ。論理的整合性と経験的検証を通じて、再現性と予測力のある知識体系を構築する営み。
聞いてやったぞ(chatgpt o3)
下記のA, Bのやり取りにおいて、Bがトートロジーに陥っていると言えるかどうか検証してください。
A「アカデミアの学者でも、AIに負けを認めてその前提で考えるタイプと、負けを認められずいかに(今の)AIがダメか苦しい理屈を延々並べる不毛な作業に勤しんでいるタイプとに分かれてきたな。」
B「さすがに今はまだAIに負けないでしょ 勝ってたらシンギュラリティだし」
B「学者=人類最高峰の知性 AIが人類の知性を超えればシンギュラリティだよ それこそAI研究者の知性を超えていれば自己改善できるはずだからね」
A「その程度の雑な定義だったらとっくにシンギュラリティ達成してると言えるだろうな」
B「現実として達成してないじゃん」
B「ぜんぜん陥ってないでしょ ChatGPTに聞いてみなよ」
回答
1. 「トートロジー」とは何か
命題の真理値表で常に真になる恒真命題 (例: P ∨ ¬P)。これは「言葉の使い方だけで必ず真」となる形。
結論を前提に埋め込んでしまい、新しい情報や検証可能な条件を与えない議論。「AIが勝っていれば勝っているはずだ」のような円環構造を指すことが多い。
今回 A が指摘したのは後者、「循環論法に陥っているのでは」という問いです。
1 「AI に負けていない。もし負けていたらシンギュラリティ」 定義 : AI ≻ 学者 ⇒ Singularity
3 「学者=人類最高峰。AI が人類知性を超えればシンギュラリティ」 同値 : AI ≻ Human ⇔ Singularity
4 A 「その定義ならもう達成してるかも」
5 B 「現実として達成してない」 経験的前提 : ¬Singularity
6 (結論) 「だから負けていない」 推論 : ¬Singularity ⇒ ¬(AI ≻ Human)
論理式にすると
前提① : (AI ≻ Human) ⇔ Singularity
結論 : ¬(AI ≻ Human) (モーダス・トレンス)
3. これはトートロジーか?
論理的には循環していない 「If P then S」「Not S」「ゆえに Not P」という 有効な三段論法(modus tollens)で、厳密な意味のトートロジーではない。
しかし情報価値は低い - Singularity を「AI ≻ Human」と同義語的に定義した時点で、
つまり 検証手段も数値指標も提示せずに “起きていない” と断言しており、
4. 結論
B は P ⇒ S, ¬S ⇒ ¬P という形で循環せずに推論している。
だが実質的には「定義と事実認定を自分で固定し、その固定を根拠に結論を下す」自己完結型の主張になっており、
「循環論法で新しい情報を与えていない」という日常語的批判としてはあたっている。
まとめ
窓のない部屋の中にいる人たちが、外で雨が降っていることを 論理的に証明 する方法を考えてみましょう。
外の様子を直接見ることはできませんが、以下のような 間接的な証拠 を利用することができます。
→ 屋根や窓、地面に当たる雨の音が聞こえるかどうか。
→ 雨が降ると湿度が上がり、部屋の中でもムワッとした湿気を感じることがある。
→ 直前に外にいた人が「雨が降っていた」と証言すれば、その証言の信頼性を議論できる。
→ スマホの天気予報アプリやネットニュースでリアルタイムの天気情報を確認できる。
1. 「もし雨が降っているなら、傘を差している人がいるはずだ」
2. 「部屋に入ってきた人の傘が濡れている」
3. 「よって、外では雨が降っている可能性が高い」
これは 観察 → 推論 → 結論 の流れで雨を証明する方法です。
→ 外の湿気や雨のにおいを感じられるか?
→ 廊下に雨のしずくが落ちているか? 濡れた靴の跡があるか?
カール・ポパーの「反証可能性」の考え方に基づき、「雨が降っていない」場合に成立する現象を考えます。
「雨が降っていないなら、傘が濡れていないはずだ」
「雨が降っていないなら、地面は乾いているはずだ」
これらの命題が否定される(濡れた傘や濡れた地面が確認される)ことで、雨が降っていることを 証明する強い根拠 になります。
窓のない部屋にいても、音・湿度・人の証言・物理的な痕跡・外部情報 などの間接的な証拠をもとに、論理的な推論や実験 を行うことで、雨が降っていることを 十分に証明できる でしょう。
この中では「雨月物語」しか読めていない。確か角川ソフィア文庫で読んでいる。
村上春樹「海辺のカフカ」で言及されていたので興味を持った。物語集として面白いのだが、序文に紫式部を持ってくる自意識の強さが良い。あと、僕はそもそも怪奇物語が好きだ。好きなのは凄惨なスプラッタやお化け屋敷的なジャンプスケアではない。何か人知を超えた存在がいるという驚きや恐れなのだ。
これは僕の感傷マゾとつながっているのだろうが、言い出せない妄念を抱えた死者というモチーフが好きだし、神話物語に通じる奇譚が好きで、だから仏教説話も説教臭い割に好きだ。
ところで、東京創元社の編纂したSF短篇集「時を歩く」にピンとくる言葉があった。空木春宵によれば、幽霊とは虐げられた人々の象徴で、だから怖いというよりも親しみを感じるそうだ。その言葉にはたと膝を打った。だから僕もお化けや妖怪が好きなのだ。異様な姿をしていて、理解できるのかできないのかわからない、その「他者」っぽさが面白いんだ。モンスターが深い知性を持っているという設定、大好き。
ちなみに、小林泰三「酔歩する男」の元ネタ菟原処女伝説が、「浅茅が宿」でも触れられている。これを書いていたら小林泰三をまた読みたくなってきた。
「菊花の約」は小泉八雲が「怪談」で翻案している。小泉八雲も上と同じ理由で好きだ。一度彼が翻案する前の原典を読んでみたい。僕は箱庭的世界というモチーフが好きなので「安芸之助の夢」が特に大好きだ。
ところで小泉八雲の朝ドラをやるそうだ。大好きな作家だが、きっと観ないんだろうな。僕がテレビを見る習慣をなくしたのは、一つはイケメンの歯の浮くようなセリフを聞きたくないからなのだが、もう一つは小説家を目指すために、帰宅してから寝るまでの時間をずっと執筆にあてていたからなのだ。あと、ドラマを見ていると本編を放っておいて、史実ではどうなっていたかを調べる悪癖もある。
というわけで、残りの物語もそのうち読む予定。
これも「おくのほそ道」しか読んでいない。たしかビギナーズ・クラシックスだ。人々と交流しながら俳句を作っているのが楽しそうだけれど、地元に句会の記録が実は山ほど残っていたりしないんだろうか。
そういえば句会に通う友人にそそのかされて試みに俳句を作ってみたけれど、短歌と比べて情報量が圧倒的に凝縮されている。言葉選びが極めて厳密で、密度が高い。短歌は十四文字だけの余裕があるがあるから、聞いていてもゆとりがある気がする。僕は散文の文学の良さは情報の圧縮困難性、言い換えるならばどういう話かあらすじを短くまとめると魅力が失われる度合いが高いものを高く買っている。逆に、詩文はどこまで世界を圧縮できるかだ。しかしながら、短歌は枕詞で五文字も使う。なぜこんな効率の悪いことをしているのかは不思議だ。
短歌は与謝野晶子、俵万智、穂村弘あたりを読み、俳句は他に高浜虚子あたりを読んだ。
俳句じゃなくて短歌だが、与謝野晶子は熱量がすごくて読むのにえらく時間がかかった。また、穂村弘は生々しい男の生理が表現されていて何となく好ましく思う。しかしそれを荒っぽくぶつけているようできっちりと計算して表現している。形式があらかじめ用意されているからこそか。「台風の来るを喜ぶ不精髭小便のみが色濃く熱し」「男の子はまるで違うねおしっこの湯気の匂いも叫ぶ寝言も」「泳ぎながら小便たれるこの俺についてくるなよ星もおまえも」。僕は意外と暴力的なものが好きらしい。
俳句は数が多く、未読が多く、次々に新しいのが生まれており、追いつけない。ここに載せられた作品もいつかは読みたいが、記憶に残らないこともあるだろう。しかし、すべてを記憶しておかないと不安だというのも強迫観念に過ぎない。読んだその場で一期一会の幸せを覚えれば、それでいいのかも。ちなみに、俳句が作者の目の前で論評されるバラエティは、かつて通った小説創作講座を思い出して胸が苦しくなるから、見ていない。あれ残酷だよね。
こうしてみればわかると思うが、平安時代の文学と比べると、まだまだ読めていないのが江戸時代の作品だ。開き直って現代語訳でどしどし読みたい。
古典は急がない。いつまでも待ってくれている。世間で流行っている作品とか必読書とかそんなのとは無縁だ。千年前の作品を読むのが一年や二年遅れたところで、どうということはない。
ところで脱線するけれど、いま生きている人を推せる人って偉いと思う。だって、いつスキャンダルで裏切られるかわからないからだ。それこそ明治の文豪がクズだったとかいう話はよく聞くけれど、今となっては本人を含めて関係者がみんな死んでるので、多少は冷静でいられる。新たに醜聞が掘り起こされても「昔の人だからね」とどこか冷静になれる。今の人だとこうは行かない(以下、きちんと謝罪をしなかったためその態度に非常に腹が立ってファンをやめた人や、音痴なイケメン歌手の実例を事細かに挙げるつもりだったが、見苦しいので削除した)。他にも存命人物だと、事件を起こす前のオウム真理教を面白がってた著名人や、古本屋で見つけたロリコン写真集に「これぞ芸術」と推薦文を寄せていた文化人に「逃げるなァァァ」と言いたくなることがある。
やっぱり推しは死んでいる人に限る。どんな差別発言をしていても過去の人間だから納得できてしまう。そんなことを頭の片隅に置いてネットサーフィンをしていたら、芥川龍之介が「侏儒の言葉」で似たようなことを言っているのを見つけた(正確には、悲観主義について調べており、そこから哲学者フィリップ・マインレンダーを見つけ、そこから偶然にも「侏儒の言葉」の言葉にたどり着いた)。
古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでいることである。
又
「侏儒の言葉」は好きなんだけど、読んでいると段々と彼の鬱に巻き込まれていく。いつか芥川全集をぶっ通しで読みたいが、晩年の作品を読むと真実を言い当てすぎていて心底気分が悪くなってくる。二十代の頃のようにシニシズムを楽しむだけの体力がもはやない。ネヴァーモア! 昔はアンブローズ・ビアス「悪魔の辞典」とか大好きだったんだけどな。
とはいえ、数百年前の古典を無批判に読んでいると、人間に身分の上下があることやとりあえず天皇家が偉いことが自明に思えてくるし、人命がアホみたいに軽いことに感覚がマヒしてくるので、これもまたよろしくない。
こういうことを考えている時は大抵は体調不良のときなので、筋トレなりストレッチをしたりするのがいいのである。僕らは結局肉体を備えた存在で、そこからの入力がどんな言葉よりも助けになることが多い。というか、言葉が自家中毒を起こすことはよくあるのだ。ペッペデス。頭が良すぎて不幸になった人間の物語は好きだが、芥川には生きて戦後を見てほしかった。
さて、池澤夏樹の全集では、これ以降の巻では明治の作品が扱われる。しかし、ここまで書いてきてかなり長くなってしまった。ひとまず、江戸時代までで一区切りとし、近代の作品はまた別の機会としたい。おそらく本気になって書いたら、作家ごとに思い入れのある作品は多く、言いたいことはたくさんあるので、もっと長いエントリになることだろう。近現代作家集に至ってはIからIIIまであり、合わせて何十人もの作家が紹介されている。倍近くになるだろう。
ただし、その機会がいつ訪れるかはわからない。先にドストエフスキーや中島敦、ポーやラブクラフトについて書くかもしれない。あるいは、文学にかこつけた自分語りが一段落したので、これで終わりにすることも大いにありうる。
なお、次のエントリでは、有名どころだが話の流れから言及できなかった作品について述べる。
さっきは何が苦手かについて書いてしまったので、逆に何が好きかについても少しは語ろう。芥川賞をはじめとした現代文学を読んでいて、どういう作品が自分に刺さるかを整理すると、知識が豊富な語り手の小説が一番好きで、その次が自分の巨大な感情を論理的に言語化するのがうまい人が語り手であるものだ。それから、無軌道な性欲や暴力衝動、ひがみなどの負の感情を抑えきれない人間が出てくるのが続く。自分が中高生の頃、そうしたダークな受賞作が連続していたと記憶している。田中慎弥「共喰い」とか、時代は下るが西村賢太「苦役列車」とか、砂川文次「ブラックボックス」とか、自分の暴力衝動に屈する人間を描いたのが好きだ。青来有一「聖水」とかもそうだ。世間からはみ出してしまった、汚らしい人間が好きだった時期がある。おそらく「悪とは?」が内なるテーマだったんだろう。
芥川賞は一つの賞でしかなく、世間的には評判が良くてもピンこと来ない作品はどうしてもある。若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」は最初から自分の中の無意識の声たちについて説明しすぎていて、「それだったら最初っから意識の流れとか無意識って言えよ」って思ってしまって、それ以来ずっと批判的にしか読めなかった。あれは高齢者向けの一人で生きることを学ぶ教養小説なんだよな。あと、又吉直樹の作品に結構な頻度で、的外れな批判をしてくる劇団員の女性が出てくるけれど、「お前、本当は社会的な作品批評が嫌いだろ?」っておちょくってやりたくなる。村田沙耶香「コンビニ人間」については前回のエントリで名前を伏せてチクリとやってしまった(最後まで読んでいないくせに!)。
理想を言えば性別だとか人種だとか国籍だとか年齢だとか思想だとか、そういうのを抜きにして作品を評価したいんだけれど、ある程度年齢を重ねてくると、十代の頃のように素直にストーリーを受け止められず、若いころのように思考の柔軟性がなくなり、労働で疲れていては異質なものを楽しむゆとりが減る。どうしても自分の属性や性格が近い人の文章が面白く感じるので、公平に評価するためにマイノリティ枠を設けるってのは、いくつかの問題点があるとはいえ、一つの知恵だと思う。なお、文学的に優れていることと、そのときの自分に刺さって面白いのと、今の社会が必要としているのとは、まったく違うので、話題の小説がいつも面白いわけにはいかないのはしょうがないのだろう。
脱線すると、芥川賞を取ってもその後書き続けられた作家のほうが面白い。というか、受賞作がつまらなくてもその後面白くなる作家も多い。しかし、逆に芥川賞を取る前の青臭い作品にしかない魅力もある。長編を連載するだけの構成力も体力もないデビューしたての漫画家の初期短編集からしか得られない栄養素があるのと同じだ。
なお、僕は大体漫画を買うときは短編が多い。「Fellows!」「ハルタ」「エロティクス・エフ」「楽園」「アフタヌーン」出身の漫画あたりから、絵が好みなのを選んでいるようだ。
というか、みんなあれだけ長編の少年漫画を読むだけの体力があってすごい。ただし、僕がなかなか長編漫画が読めないのは、活字のようにぶっ通しで一気に読もうとしているからという可能性がある。連載を追うペースで、ゆっくりと読めばいいはずだ。
なんでこんなことを言うのかというと、僕は同世代的経験に相対的に乏しいためだ。例えばゲームが下手すぎて、ドラクエやファイナルファンタジーなどの多くの作品をプレイできていない。ポケモンでさえ途中で飽きる人間なのだ。自分が好きなペースで刺さった作品を読んでいるだけなのだが、時折どうしても疎外感を覚える。若いころにもっと流行りのJ-POP聞いてりゃよかったよ。そりゃあ人は人、自分は自分だけれど、寂しい。
とはいえ、少年漫画の多くは恋愛が扱われるので、そこまで読みたい気分でもないのである。
こういうことを書くと「課題の分離」とかいう話になりそうだけど、個人的にはアドラー心理学はそこまで信用していない。さっき書いた「課題の分離」をはじめとした有益な概念は多いし、原因を探るよりもまず対処法を考えるのは、実生活で非常に役に立つ。というか、実際に役に立った。だが、「嫌われる勇気」をはじめとした本ではいいことを言っている一方で、「私に反論するとしたら、それは私の理論を理解していないからだ」という、反証可能性を潰すような自己完結した思考をしているのがいただけない。これは初期のフロイト派の「私に反論するとしたら、それは私に父親を見出しているからだ」とか、古い時代のフェミニストの「私に反論するとしたら、あなたが女性差別を乗り越えられていないからだ」とか、それらと同様の理屈だ。なにか自己完結した、人の話を聞かない嫌らしさを感じる。
自己完結と言えば、たとえば何人かの反出生主義者が(もちろん別の哲学的立場でもいい、実例は見たことがある)、予期される反論に対してすべて想定問答を作ってガチガチに自己防衛をしているのを見ると、圧倒的な壁のような「他者」を感じる。この人と議論しても、自分も相手も何も変わらないだろうなという、諦念を感じることがある。互いに変化をもたらす「対話」にならないのだ。
意識の高い人たちが叩かれるのはこれも理由かもしれない。会話をしても意見を変えてくれないだろうと感じるのだ。一方的な議論をしたいのなら活字でいい。僕は対話がしたいのだ。
この発言者は現状の分析で十分掘り下げたつもりであり、更なる深掘りをしようという意欲がないようですね。
そのような状況を踏まえ、いくつかアドバイスを提示させていただきます。
現状の分析は、特定の視点に偏っている可能性があります。物事を多角的に捉えることで、より深く、本質的な理解に繋がることを認識してもらう必要があります。
異なる立場からの視点: 問題に関わる様々な立場(被害者、加害者、関係者、一般市民、海外投資家など)からの視点を想像し、それぞれの立場からどのように問題が見えるのかを考えてみることを勧めます。
歴史的・社会的な背景: 問題が発生した背景にある歴史的な経緯や社会的な構造を理解することで、問題の本質に迫ることができます。過去の類似事例を研究することも有効です。
専門家の意見: 関連分野の専門家(社会学者、法学者、経済学者、ジャーナリストなど)の意見や分析に触れることで、自身の分析の偏りや不足に気づくきっかけになります。
現状の分析は、情報不足に基づいている可能性があります。より多くの情報、特に一次情報に触れることで、分析の精度を高めることができます。
一次情報へのアクセス: 関係者へのインタビュー、公的機関の発表資料、報道記事の原文など、一次情報にアクセスすることを勧めます。
情報源の多様性: 特定の情報源に偏ることなく、複数の情報源から情報を収集し、情報の信憑性を検証することが重要です。
データに基づく分析: 統計データや客観的な事実に基づいた分析を行うことで、憶測や印象論に偏った分析から脱却できます。
自身の分析を客観的に見つめ直し、批判的に考察することで、分析の弱点や矛盾点に気づくことができます。
反証可能性の検討: 自身の分析を否定するような事例や反論を意図的に探し、自身の分析の妥当性を検証することを勧めます。
論理的整合性の確認: 分析の論理展開に矛盾がないか、飛躍がないかを丁寧に確認することが重要です。
他者からのフィードバック: 他者(特に異なる意見を持つ人)に自身の分析を提示し、フィードバックを求めることで、客観的な視点を得ることができます。
知的好奇心は、探求の原動力となります。問題に対する興味や関心を深めることで、更なる深掘りへの意欲を高めることができます。
関連書籍やドキュメンタリーの紹介: 問題に関連する書籍やドキュメンタリーを紹介し、知的好奇心を刺激することを試みます。
議論への参加: 問題に関する議論の場に参加し、様々な意見に触れることで、新たな視点や疑問を発見するきっかけになります。
自身の分析が絶対的に正しいと思い込むのではなく、常に学び続ける姿勢、謙虚な姿勢を持つことが重要です。
「わからない」ことを認める: 自身の知識や理解には限界があることを認識し、「わからない」ことを素直に認めることが、更なる学びへの第一歩となります。
他者への敬意: 異なる意見を持つ人に対しても敬意を払い、対話を通じて相互理解を深めることが重要です。
これらのアドバイスは、相手の知的好奇心や向上心を刺激し、より深く掘り下げて考えることの重要性を認識してもらうことを目的としています。相手の性格や状況に合わせて、適切な言葉遣いや伝え方を工夫することが大切です。
「科学もまた信仰である」という言説は、「科学的な知識も絶対的な真理を保証するものではなく、一定の信念や仮定に基づくものだ」とする批判的視点から生まれたものです。しかし、科学的手法と信仰には重要な違いがあり、「科学=信仰」と見なすのは適切ではありません。以下に、科学と信仰の違いを説明します。
1. 方法論の違い
• 科学的手法は観察、仮説の構築、実験、検証を通じて知識を構築するプロセスです。この方法により、科学は経験に基づく「反証可能性」や「再現可能性」を強調します。カール・ポパーの「反証主義」によれば、科学理論は反証される可能性があるため、常に修正や更新が可能です 。
• 信仰や宗教的手法は、しばしば絶対的・普遍的な真理を前提とし、その真理が神聖であり不変であると見なすことが多いです。宗教は超自然的な存在や教義に対する信念を中心とし、その信念の正当性は経験や反証可能性に依存しません 。
• 科学のもう一つの特徴は再現性であり、どこで誰が行っても同じ条件下で同様の結果が得られることを重視します。また、結果が反証されることを受け入れ、実証が積み重なることでその知識の信頼性が高まります。
• 宗教的信仰は、個人の内面的な体験や霊的な啓示を重視し、再現性は必須ではありません。むしろ、絶対的な教義や超越的な存在に対する信頼が重要視され、反証されることを前提にしません 。
• 科学は自己修正的であり、新しい発見や技術の進歩に応じて絶えず知識を更新します。例えば、ニュートンの古典力学はアインシュタインの相対性理論によって一部修正されましたが、それにより科学が進化しました。
• 宗教における信仰や教義は、一般に歴史的に固定され、変化しないことがその信仰の価値とされます。特定の教えが絶対であるとされるため、科学のように容易に進化することはありません。
4. 結論
「科学もまた信仰である」という見解は、科学の限界や仮定を指摘し、人間の知識が絶対ではないことを強調しています。しかし、科学は常に新しいデータや反証に基づいて進化し続けるという点で、宗教や信仰とは本質的に異なります。信仰が個人の確信や不変の教義に基づくものであるのに対し、科学は実証と論理を重視する柔軟なプロセスです。そのため、科学を信仰と同じ枠組みで論じることには、誤解を生むリスクがあります。
: Popper, K. “The Logic of Scientific Discovery.”
: Eliade, M. “The Sacred and the Profane.”
: Kuhn, T. “The Structure of Scientific Revolutions.”
月がデケえな
例のあのネタ、ガセってのもガセかもしれないらしいな
反証可能性ってやつかな
嘘だとしても綺麗な言葉だとか言う人いたけど、あんまり表現として上手いとも思わないよ
同じ嘘ならナン ノブ マイ ビジネス(夜に影を探すようなもの)の方が好きかな
月が綺麗といえばヨツバ編の記憶を失った月って綺麗だったよね
頭の中で壁打ちばっかりしてると時々寂しい。意外性を取り入れるためにSNSの検索ボックスに未整理な言葉の欠片を入れて、他人が組み合げた言葉を眺めたりもするけど。なんかこれやってると頭の何らかの機能が著しく低下していくような感じがする。
ツッコミとかいらない。互いのズレをわざわざ確かめ合う漫才みたいな会話とかいらない。
フツーじゃない部分にいちいち足を止める時間が鬱陶しい。
でも互いがただ相槌を打てばいいって訳じゃない。
キャバクラは人間過ぎるし、Vtuberはタイマンになれねえけど。そもそも金を払うにしろ払わないにしろ、サービスとしてそれをやった所でやっぱり本物には遠く及ばない。
強いて言えばダウナー系お姉さんに毎日カスの嘘を流し込まれる話が最も近いかもしれない。
やっぱそういう相手はライトノベルの中にしかいねえかな。ラノベの萌え女が現実に現れるのとおれがラノベの世界に転生するの、どっちが確率高いんだろうな。どっちにしたって、実在しても交流を持てるかどうかまでは分からないし。
陰謀論が広まる背景には、情報の誤解やバイアス、感情的な反応が関わっていることが多いです。そのため、陰謀論を特定し、理論的に検証するためのチェックリストを作成しました。このチェックリストは、個人がある情報が陰謀論であるかどうかを判断するのに役立ちます。
• 提示された証拠が、信頼できる学術的なデータや確立された研究に基づいていないか?
• 情報源が匿名であるか、もしくは特定の意図や利害関係を持つ団体から発信されているか?
2. 反証可能性の欠如
• この理論が誤っていることを証明するための明確な基準が存在しないか?
• 反証が行われても、それを「さらなる証拠」として組み込み、理論を変えずに強化してしまう傾向があるか?
• 「彼ら」や「エリート」といった敵対者の存在を強調し、意図的に何かを隠していると主張しているか?
• 特定の個人やグループを悪意ある陰謀の主犯と決めつけ、その意図を過度に強調しているか?
• 複雑な社会問題や出来事を、極端にシンプルな原因や特定のグループのせいにしていないか?
• 「全てはこうすれば説明できる」といった形で、他の可能性を排除しているか?
• 「真実を知っている」特別なグループに属することで、他者よりも優れていると感じさせる要素があるか?
• 信頼できる専門家の意見を無視し、「専門家は信用できない」「真実は隠されている」と主張しているか?
• 事実を確立した科学的なコンセンサスに対する不信感をあおっていないか?
• 単なる偶然の一致を、何か意図的な行動の証拠として捉えていないか?
• 他の主張と矛盾する事実や情報が出てきた場合、それを無視するか、または歪曲しているか?
• 主張が「大きな秘密」や「隠された真実」に依存しているか?
• 「普通の人はこの情報を知らない」という形で排他的な姿勢をとっているか?
• この情報がソーシャルメディアや陰謀論者のコミュニティを通じて広まっているか?
• 大手の報道機関や信頼性のある情報源ではほとんど取り上げられていないか?
• 批判的思考を養う: 情報を鵜呑みにせず、事実確認を行うための批判的思考を持つことが重要です。異なる視点や反証の探求に努めましょう。
• 信頼できる情報源の活用: 学術論文や信頼できる報道機関の情報を確認し、複数の信頼できる情報源から情報を収集することを習慣化します。
• 対話の促進: 陰謀論に傾倒する人と対話を試みる際には、感情的にならず、相手の考え方を理解しつつ冷静に事実を示すことが効果的です。
• デジタルリテラシーの教育: 誤情報や陰謀論を見分けるためのデジタルリテラシー教育を推進し、より多くの人々が正確な情報にアクセスできるように支援します。