はてなキーワード: ベクトルとは
まぁ結局あれは腹ペコあおむしの人形がBTSの人形に見えたってだけのデマ報道だったらしいけど
でもXの反応を見ると「既婚者が推し活をして何が悪い!」みたいなこと言っているやつばかりでマジで寒気がした
「大谷ほどの旦那がいても推し活するとか悪魔か?」って感想ツイートもぶっ叩かれていたし、マジで日本の女の貞操観念やばすぎない????
普通に恋人がいるとか既婚者とかなんだったら推し活なんてやめろよ
まさかセックスしないから他の人好きになってもセーフとか思ってんの?
それを想像して感情を動かしてる時点で、もう浮気のプロトタイプだろ
「アイドルにキャーキャー言ってるだけでしょ」って思うかもしれないけど、じゃあ自分の恋人が、知らない異性の写真を見て「かわいい」「会いたい」「この人のために頑張れる」とか言ってたらどう思う?
いや普通に気持ち悪くない? なんでそんな相手と付き合ってるの?って思うだろ
「推し活」なんて可愛い言葉でごまかしてるだけで実際構造そのものは不貞行為まんまだから
それでも「推しは人じゃなくて概念だからセーフ!」とか言い張るあたりもう“恋愛倫理を壊す方向の宗教”なんじゃないかと思ってるよ
ライブで「こっち見た!」って言って喜ぶとか、
それって片思いと何が違うの?
それを「推しだから違う」って無理やり分類してるだけで恋人がそれを見たらうげーーって思うのは当然じゃない?
推し活って、恋人に対して誠実であろうとする努力を削ぐ行為なんだよ
逆に、たとえば夫が夜な夜な推しのグラビアアイドルのファンサイト見てるって知ったら奥さんはどう思うのか?って話では「まぁ趣味の範囲だし…」って許容する人間いなくなるだろ
夫側も、少なくとも後ろめたい気持ちを持って隠す努力をするだろ
ところがこれが男性アイドルになった途端擁護しだすアンポンタンがわらわら湧き出すんだよな
恋人や配偶者に対して「あなたが一番」って言いながら、心のどこかで“別の誰か”を思い浮かべてるなら、それってもう浮気と何も変わらないでしょ
愛とか推しとか言葉の使い方が軽すぎて、本当に大切なものがどんどん安っぽくなってる
「恋人がいるのに推し活してる人」が当たり前のように存在して「何が悪いの?」って逆ギレする世の中を見ているとマジで日本から「誠実」って言葉は消え去ったんだなと思うわ
エンベディングテーブルのベクトル表現はその程度の揺れであれば吸収できるので問題ないでしょう.
まず, 多義性は英語にも多分に含まれていて, エンベディングテーブルのベクトル表現においてその2つ以上の語義を同時に保持することは可能です. それが全く対極的な意味を保有している場合は確かに特徴量がおかしな事になりますが, 言語学的にそのような語彙は極めて稀です. (そういった使いにくい語彙は自然に消滅します)
語順も, 結局は次文予測が成立すれば良いので, 選択肢がやや増える程度です. Perplexity-based ChunkingやRAGAS, Semantic Chunking, Meta-Chunkingなどを組み合わせていけば確率的な予測も収束しますので十分に対応可能です. これはアジア系の研究者を中心とした研究が示しています.
これを理由に日本語を捨てるのはあまりに勿体ないし, それこそ研究の腕の見せどころでしょう.
学習の難易度は英語と比較すれば上がりますが, 世界には多様な言語がありますし, 現に30Bクラス以上の現行モデルでは対応出来てますから.
ただ, 音声入力変換は難易度が高い, これはご指摘の通りです.
音素列を発音辞書にマッピングする際に高度な文脈的判断が必要になるのは日本語の「ネック」と言えますね. 計算量も倍増しますし.
ただし推測の手法自体はありますから, いかにここを高速化できるかがまさに課題ですね.
日本語のfuzzyな多義性にはコミュニケーションにおいて良い点と捉えることもできますので, トレードオフとして現実的な折り合いを見つけるのが良いと考えます. これはまさにプロダクト作りの肝となるかと存じます.
私としては国産なり日本発のLLM開発を諦めてはならないし, その可能性は十分にあると信じています. 既に出ているものも多数ございますし.
本エントリはそれとは全く別の,
「国産LLMの人」という方についてです.
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色々思うところがありまして.
例えば,
と繰り返し主張しておられる.
そのような単純な活性化関数では過学習か誤差が噴出するかの二択でしょう. 実際, 氏のツイートは正にその状態を示唆しているように見受けられます.
```x
▶︎ 誤差が0.12あるだけでとんでもないエラー率になる。誤差関数が雑だから本当はもっとあるのかもしれないが、改善の余地がある。
▶︎ 問題は、どのような状態の時に学習が成功し、失敗するのかがまだ分かっていない。表現力は十分に持っているはずなのに、なぜか学習しない。
```
過学習に至ったときにうまくいってるように見えるだけでしょう.
```x
▶︎過学習ではないですね。データセットが小さいかつ、それ以外の範囲が出ないことが分かっているので。XORは2^2パターン全て学習できれば精度が100%になりますが、それは過学習とは呼ばないのと同じで、今回の初期のRNNに関しても文字数が圧倒的に少なく、パターンも決まっているので。
```
……と主張されておられる.
私が思うにそれは単純な写像を, ニューロンを使って回り道して作っている状態. LLMは局所的にはたしかに線形写像ですが,全体で見ても線型写像だとしたらそれは複雑な文章生成には到底耐えられないかと. (十分に大きいモデルをマクロに見ると非線形性があるので)
大規模言語モデル=LLMを目指すとして,
そもそもエンベディングテーブルとは数百億から下手すれば1兆語彙を, たった数千〜1万次元程度のベクトルで表現する, 凄まじく繊細なテーブルです.
それをGELUやSwiGLUのような綺麗な活性化関数を使わずに, しかも爆速でやると仰っている. さすがにそのレベルの革新性を主張するには根拠がない限り, 飛躍が過ぎると判断されるかと.
そのやり方で, 例えば1億語彙までスケールするとして2乗の1京回×数千次元をバックプロパゲーションなしで学習するというのは……さすがにきついかと.
バックプロパゲーションが要らないという主張については活性化関数がきわめて単純だから. それなら全層に渡しても「修正」できるでしょう.つまり自明に近いですね.
勾配消失なんて関係ない, という主張については, xorというゼロイチでしか見ないのであれば勾配消失も何もありません. 永遠に層を貫通するわけですから, 何層増やそうがほとんど意味が出てこない. つまりそれは実際には極めて浅い層だけで動いてると思われる.
「こんに」から「ち」「は」が次文予測できたとの報告ですが, まぁ……それが「大規模言語モデル=LLM」にそのままスケールできると言い切れるのはなぜでしょうか?
MNISTだけでなくGLUEあたりをパスしてからにした方がいいと考える次第です.
```x
▶︎ 私が批判されながら、誤差逆伝播に変わるアルゴリズムや精度を30%→100%まで持っていく頭のおかしい行動が取れる理由は、以下の思想があるから。
▶︎ 1. 私のNNは高次元の万能近似回路
▶︎ 3. 何十回と失敗した経験則から、原因と対策が殆どわかっている
```
殆どわかってる, との事ですが, なんで上手くいってるのか分かってないとも自分で明言なさっている. ↓↓↓
```x
▶︎ 学習が進まないの、謎。単体だと上手く動いてるはず?何が原因だろうか。
▶︎ 学習アルゴリズム開発者本人ですが、なぜ学習が進むのかは謎です。
```
既存手法があまたの失敗の上で最適だと言われてきてる経緯もよく知った方がよい.
それはごく初期にそういった様々な試行錯誤のうえで「やはりGELUやBPが現実的にいい性能が出せるし, コストも抑えてこれである」と様々な研究者が合意しているような状況.
そして, そもそもアカデミアは自分のアイディアも含めて新規手法を常に疑ってかかるのが基本姿勢.
ジャーナルに「不確実さ」を載せないためで, それが積み重なると自他問わず全ての研究が信用出来なくなってしまうため. だから懐疑的になる. 個人攻撃ではないのです.
出さないのも自由ですが, 前述の理由で信頼を得られない. これは言動に一切関わらず, その厳密性をフラットに評価してそう判断しているから. 感情ではなく, 論理として.
……と, ここまで色々と蛇足なアドバイスをさせていただいたものの, この投稿に対しても
```x
▶︎ 何もわかってない人が国産LLMのやつ批判してて吹いたww
```
といったツイートをなさるのでしょう. (過去に氏がそう仰っていたので)
先に答えておきますね.
「自分のやってることがご自分でお分かりにならないようなら, 私にわかるわけがないですし仰る通りです. ただ, 詳しい者として一般論は申し上げられます.」
まだ間に合いますので, 大学院あたりまで修了なさるのがおすすめです.
Twitterに何を投稿しようと自由です. でも自分で違和感を見て見ないふりするのだけはやめたほうがよろしい. 既存手法と同等に自分の手法を疑うこと, これは研究者としての基本姿勢です.
研究テーマ設定を見かけるとついつい, より良い筋でやっていけるようアドバイスしたくなってしまう性が染み付いてしまっているためでして.
もちろん, 関わりのない方ですので蛇足でしかないのですが, 多くの方に影響力をお持ちでありつつ研究の進め方については独自の姿勢を持つように見受けられまして.
それはもちろん根本的には自由でありつつ, 相談相手の需要がもしあればひとつの(一般的)意見をお渡しできるかなと思いキーボードを叩いた次第です.
どうか匿名でご勘弁を.
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【追記】
おそらく氏のやられていることは順伝播 (forward propagation) のみでの学習かと思いますが, この手法の先行研究は山のように存在します.
(Hebbian theory, Perceptron, Adaptive Linear Neuron:ADALIN, Widrow-Hoff learning rule...)
見つけられないとすれば, 古典的 (1960~1980年頃) ゆえに電子化されていないためです. 現行の商用LLMがそれらの情報を簡単に連想して引用できず, DR等で検索しても出てこないのはその為でしょう.
これらに簡単にアクセスするためにはやはり学術機関に所属して図書館を利用するのが圧倒的に楽です. マイクロフィルムや紙媒体でしか残っていないものもありますから.
また, 有料データベースであるJSTOR, IEEE Xplore, Springer Linkなどにもアクセスが出来ます.
なお, arXivはあくまでプレプリントですので, 論文として引用するには査読を通過したものをつよく推奨します. ジャーナルもものによっては不十分な査読で掲載されてしまいますので, トップカンファレンスのものを信頼できる足がかりの論理として扱うのが基本的な考え方となります.
また, 「分からなければ (大量に貼った) 論文を読んでください」という姿勢は, それぞれをどう引用し, どのように自分の主張と論理的に接続するかの説明がなされなければ根拠として見なされないのが一般的な考え方です.
ブログとしての掲載はもちろん自由ですが, それらを十分な説明として取り扱ってもらうには至らないでしょう.
論文を引用するからにはそういった丁寧な取り扱いをすることを期待されるものです. 「敬意がない」と他の方から指摘されるのはおそらくそれが理由でしょう.
これは, 過去の論文を引用しながら新たな主張を論文として営々と積み上げ続けてきたアカデミアの「過去への感謝」という慣習です.
人の行動は自由ですから「こうしろ」とは申し上げませんが, この暗黙の了解を保持する (≈研究機関に所属したことのある) 方からの理解を得るのはこのままですときわめて難しいであろう, とアドバイスさせてください.
こういった主張のやり方を自分なりに一から身につけるのはたいへん難しいので, どなたかそういった手法を学べる信頼できる方に師事することをおすすめしている次第です.
気持ち悪かろうがお前の条件はマイナーだけど知識豊富な語りってことだろ?
内容が違うだけでミニ四駆とベクトルの大きさは同じじゃねーか。
https://anond.hatelabo.jp/20240525135717#
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20251031161605# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaQRiNwAKCRBwMdsubs4+ SF4+APoD+DQL/2pSOd4v0qsl6Ngcnyb3WZtldQY/g8JgF0sTHQEA6SvSYqvRe3WY losfeU2ULtVaR6forRV4sXzA14TaawI= =7c+k -----END PGP SIGNATURE-----
ユーザーの行動履歴を変換したベクトル(ユーザーベクトル)は、最終的にユーザーの属性推定やターゲティング入札のための非常に強力な特徴量として利用されます。
まず、ユーザーのウェブサイトでのクリック、検索クエリ、購入履歴、動画視聴などの生の行動データは、そのままでは機械学習モデルで扱えません。これを、意味的な情報を保持した固定長の数値の並び、つまりベクトルに変換します。
得られるベクトルは、ユーザーがどのような興味や関心を持っているかを数値的に表現したものとなります。
例えば、スポーツ用品の購入が多いユーザーのベクトルと、クラシック音楽の視聴が多いユーザーのベクトルは、ベクトル空間上で大きく離れることになります。
この行動履歴ベクトルを、そのまま機械学習モデルの特徴量 (Feature)として使用します。
| 目的 | モデルの入力(特徴量) | モデルの出力(予測) |
| ユーザー属性推定 | 行動履歴ベクトル (およびその他のコンテキスト情報) | 年齢層、性別、職種、推定年収、ライフステージなど |
行動履歴ベクトルは、ユーザーの顕在的および潜在的な興味を捉えているため、これらの属性と高い相関を持つことが多く、精度の高い属性推定が可能になります。
例えば、「特定ブランドの高級車のウェブページ閲覧」という行動は「高年収」という属性と強く関連づけられるといった具合です。
推定された属性情報、またはより直接的に行動履歴ベクトル自体を、広告のターゲティングや入札ロジックに組み込みます。
推定された「若年層のエンジニア」という属性に対して、特定の採用広告の入札額を上げる。
ある商品の購入者と行動履歴ベクトルが類似しているユーザー群(Lookalike Audience)に対して、その関連商品の広告を出す。
広告オークションの際、このベクトルを特徴量として利用し、広告が表示されたときのコンバージョン確率を予測するモデル(Click-Through Rate (CTR) や Conversion Rate (CVR) 予測モデル)の精度を向上させ、最適な入札価格を決定します。
このように、行動履歴をベクトル化するプロセスは、デジタルマーケティングにおけるパーソナライゼーションと収益化の基盤となります。
これは私の潤い不足と夫の技量不足だが原因だと思う。
あとは頻度が低いからコンドームもだいぶ前に買ったものなのも要因かもしれん。
余談だが第一子は避妊なし1発目で妊娠したので私が奇跡の妊娠体質もしくは夫の精子が激つよの可能性がある。
浮気や風俗どころか自慰の気配すら感じないので少し前に1回だけ聞いた際には「昔からそんなに性欲が強くない」とだけ言っていた。性欲とは違うベクトルでセックスしたいと思ってるかは不明。
お互い腹を割って話すのが苦手でこれは本当にどうにか解決しなきゃいけない問題だなあと思っている。
追記ここまで
当方:30代女
家族:2歳年上の夫 5歳息子 1歳娘
第一子誕生からは息子がいる横で致す気にもならず年に数回になった。
第二子を妊娠してからは1度もしていないのでかれこれ2年はしていないことになる。
誘うこともないし誘われることもないので断られたという心理的キズはお互いにないが察して誘わないようにしてるのか否かは不明。
まずよく言われる理由だが家族全員寝室が同じなので子供の横で致すのが憚られる。リビングに移動するってのもなんだか変な感じがするし設備が整ってない。第一、子供を挟んで寝ているのでそんな雰囲気にすらならない。
次に夫婦なのにお前は何を言っているんだ感があるが裸を見られるのが恥ずかしい。昔から恥ずかしくはあったが年々肥えていく身体を見られたり触られたりするのはかなり抵抗がある。
妊娠が怖いというのが1番大きい。というのも第一子も第二子も排卵日付近で致して一発で出来た子なのだ。特に第二子は正直2人目を悩んでいる頃、致した際に避妊具が途中で破けたのでアフターピルを服用したのにも関わらず妊娠した。正直産むのかかなり悩んだし、それ以来完全にセックスが怖くなってしまった。(勿論第二子の出生に関してこの経緯があったことは子供含め誰にも言わず墓に持っていくつもりである。)
こんな感じでなんとなーくセックスレスだ。仲はいいし、してた頃と特に関係性に変化も感じない。増田やXでは幻とされてる性欲のない男なのかもしれない。
「なぜ生きるのか」という素朴な問いに対して、「人の生きる目的は、幸せになること」という回答は、ある程度説得力を持つ気がする。
そのようにずっと思ってきて、今でも思っている(ただし、これが唯一の解とまでは思っていない。さらに言えばそんなに気にいってもいない)のだが、最近はここに注釈をつけたほうがいいのではと思えてきた。
「幸せになるため」というのは、「人が生きる理由」というのを客観的に見たときの話でするならいいのだが、主観的に「目標」とするなら、それはあまりうまくいかないんじゃないか、ということ。つまり、誰か他者について「あいつはこっちのほうが幸せなんだろう(だからこっちのほうがいい)」と考えることは全く問題ないが、自分ごとについて「自分はこっちのほうが幸せだ」という価値基準で何かを決めようとすることは、ちょっと良くないんじゃないか、ということだ。
なぜこう思うようになったかというと、幸せは相対的であり、自覚できず、複数のベクトルでできていて、そして思ったよりも予測不可能だということが身に染みたから。「自分はこうしたら幸せになれる」は、多分そこまであてにならない。試行錯誤するにしても、「今自分はどの程度幸せか?」ということをちゃんと自覚するのが難しく、たぶん、ままならない。
だから人生の価値基準に置くならもうちょっとわかりやすい指標にしたほうがいい。例えば、「楽かどうか」とか「おもしろいかどうか」とかのほうが、ずいぶんと分かりやすいし、それらを組み合わせたっていい。
きっかけは、学生時代にちょっとしたレポートでテキストの単語出現頻度を数えようとしたとき、「あれ、そもそも日本語ってどうやって単語に分けんの?」って疑問が出たところからだ。
英語ならスペースで切れるけど、日本語はそうはいかない。で、いろいろ調べて「形態素解析」って言葉にたどり着いた。
その瞬間にちょっとハマったんだよね。
辞書をもとに文を機械的に切り刻んで、品詞をラベル付けして、統計を取って、構文を推定する。まるで人間の頭の中を数理的に覗いているようで。
そこからMeCabとかJumanとかKyTeaとか、いろんなツールを触った。
Pythonでテキスト処理のパイプラインを組んだり、mecab-ipadic-NEologdを突っ込んで新語に対応させたり。
「言葉を数理で扱える」って発見が、ちょっとした中毒になった。
その頃はMosesとかGIZA++とか、ああいう統計翻訳系のツールも触ってたね。
単語アラインメントの確率モデルをいじって、「確率的に対訳辞書を作る」みたいな遊びをしてた。
とにかく、NLPの世界には「人間の言葉を数学で再現できるかもしれない」という変な魅力があった。
深層学習がまだ主流じゃなかったから、n-gramやHMM、CRFなんかが主戦場で、論文読むたびに確率式の展開を手で追ってた。
最初はPoC(Proof of Concept)しかやらせてもらえなかった。
感情分析とか、Stance Detectionとか、「この文は文法的に典型か非典型か」を判別するための言語モデルの構築とか、エンティティリンキング、質問応答(Question Answering)。とにかくNLPの典型的なタスクを一通り。
学術的には面白かったけど、現場で求められてたのは「論文再現じゃなくて、実用的な精度と速度」だった。
PoCで終わって、実装には至らない案件が山のように積み上がっていった。
あの時期、NLP業界全体が「技術的にはすごいけどビジネスには落とし込めてない」って空気だった。
でもさ、LLM(大規模言語モデル)が出てきてから、世界がひっくり返った。
正直、最初は「Transformerの延長だろ」と思ってたけど、数ヶ月で実感が変わった。
それまでチマチマ特徴量を設計して、分類器を学習して、F値を0.02上げるために夜中までパラメータをいじってたのが、全部一瞬で過去になった。
ChatGPTが出て、蒸留やファインチューニングでほとんどのNLPタスクが置き換えられるようになったとき、「あれ、今までの俺の知識、ほとんど無駄だったんじゃね?」って一瞬マジで虚無になった。
でも、そこで終わらなかった。プロダクション環境を任せてもらえるようになって、推薦システムとかパーソナライゼーションの設計をやるようになって、ようやく「ユーザーベクトルを使う」という文脈でNLPが再接続した。
単なるテキスト処理から、「テキストを媒介にして人間の行動を理解する」方向に進んだ。
埋め込み表現をベースにユーザーの嗜好を推定して、レコメンドやメルマガのパーソナライズをやる。
自然言語はもう目的じゃなくて、インターフェイスになった。そうやって初めて、「NLPがビジネスに食い込む瞬間」ってのを肌で感じた。
PoCなんてやってても金にはならん。動くシステム、回る仕組み、再現性のある成果、それを出せないと、どんなに学問的に立派でも意味がない。
昔からネナベとか珍しくなかったやろ言われると返す言葉ないんだけど、アンチフェミ的な言説に対抗?するためか、以前より頻度が増えてるような……。
例:
で、1, 2, 3(同一人物)が嘘八百なことについてはITエンジニアを2000年代からやってきたなら明らかなのだけど、そもそもOSSのプロジェクト名に痛い名前(オタク的な)名前つけるのは、元々アメリカのギークとかがやってた習慣で日本のOSSエンジニアの方がおとなしいくらい(少なくともあからさまに「痛い」名前は日本のOSSエンジニアは避ける印象)。
それと、世界各国のエンジニアは「日本のエンジニアの生態に興味がない」。だって、国際的に活躍してGitHubで有名プロダクト量産してるエンジニアは主に英語でやりあってるわけで、日本語ペラペラなわけでもないし熱心に日本語のやりとりを追っかけてるほど「暇ではない」。のに、「何故か」筆者が会った海外エンジニアたちは異口同音に日本のオタク文化に中途半端に詳しくてそれを批判する。さらにいうと、記事の筆者の憎しみのベクトルが明らかに「日本のエンジニア=痛いオタク=発達障害」と印象づけてやりたいていうところに向き過ぎ。などなど、破綻してるところが多すぎてどこから突っ込めばいいやら。発話が常に「俺」なのも女性が男性偽装するときの定番。男性はそんな俺俺言わんしな。あと、Googleの友人に聞いた感じだと、USのGoogleにいる人たち割と普通にオタ趣味の人多いらしくて「Isekai」が普通に通じるとかも聞くし、ぶっちゃけ世界各国でエンジニアとオタ属性はそもそも親和性が高い。
4について。これも女性目線(でアンチオタ)の匂いが強いね。男性当事者で、非モテだったけど結婚できたって人はもちろんいるだろうけど、それにしては具体的なノウハウややったことが空っぽで一般論しかない。男性当事者なら普通は、どういう風な結婚相談所にいってどうやったかを当事者目線でかけるけど、一般論に終始してる辺りが非当事者性を醸し出してる。さらに、自分がアニオタだったという割にはエヴァの~みたいな空疎な言葉しかでてこない。アニオタ元独身男性ならもっと具体的な話が出てくるでしょと。
量が増えたように見えるだけなのか、AIでそれっぽい作話できるようになって実際に嘘松量産可能になったのかしらんけど、めんどくさい話だねえ。
本小文では、ハンナ・アーレントが提起した「悪の凡庸さ」(BE 1.0)が、現代においてより巧妙かつ陰湿なかたちへと進化していることを論じます。かつての「悪」は、思考停止と無反省な服従によって成り立っていましたが、今日の「悪の凡庸さ 2.0」(BE 2.0)は、計算された行動と、美徳の言葉を悪用する戦略的な操作によって特徴づけられます。
BE 2.0は、二重のメカニズム──すなわち、道徳的言語を兵器化する巧妙な操作者と、その偽りを見抜こうとせず、あるいは恐れて沈黙する共犯的な大衆──によって機能します。
アーレントの洞察は、ホロコーストの実行者アドルフ・アイヒマンが、激情による加害者ではなく、ただ命令に従うだけの「無思慮」な官僚であったという点にありました。
それに対し、現代の加害者たちは「善人」を装い、美徳的な言葉を駆使しながら、実際にはアーレントが描いた「悪」の構造と変わらぬ行為を実行しています。
BE 2.0が「凡庸」であるのは、加害者に意図が欠けているからではなく、加害者自身も社会全体も、絶え間ない露出──特にソーシャルメディアを通じたもの──によって感覚が麻痺し、悪のパフォーマンスが日常化しているためです。この日常化は、「相手が悪いのだから自分は正しい」という自己免罪のロジックを生み出します。
明確な思想や信念に基づいて行動し、動機を「正義」や「権利」といった語彙の裏に巧妙に隠す操作者たち。彼らの悪は、分散的かつ非階層的に機能し、いわば「(サルの)群れの知性」のように動きます。また、共感は狭い部族的サークルに限定され、普遍的な倫理感覚は麻痺していきます。
観衆、同僚、制度、そして傍観者として、彼らは悪の遂行に直接加担していないように見えて、検証を怠り、言葉だけの美徳に騙され、結果的に悪の温床を支えています。リーダーの言葉にうなずくだけで、その後の行動全体を黙認してしまう、この「暗黙の承認」が共犯関係を形成します。
BE 2.0は、「正義」に見える言葉の衣をまといながら、実際には害を与えるための操作的アーキテクチャとして機能します。以下の六つは、その主要な「マスク(ベクトル)」です。
本来、異議申し立てを保護するための「言論の自由」が、憎悪や排除の言説を正当化するために使われます。権力者が被害者を装い、権利の言葉を用いて多元主義そのものを抑圧する──これが洗練された悪の典型です。
社会構造に根差す不正義が、象徴的な「個人」に押し付けられます。
• システムの生贄化:制度の失敗を覆い隠すために、ひとりの個人が「償い」の対象とされ、構造改革の必要性は棚上げされます。
• イデオロギーによる自動攻撃:あるカテゴリの人々が「攻撃してよい存在」として事前に定義されており、指示がなくても攻撃が発生します。まさに、無思慮な脚本の遂行です。
歴史上の重大な暴力や抑圧が、軽んじられたり、相対化されたりします。これは、現実の被害を正当化する方便として使われがちです。
進歩や変化を認めず、過去の不正義を手放さないことで、継続的な要求や道徳的優位性を確保しようとします。目的は「癒し」ではなく、「不満」の永続です。
複雑な現実が、単一の枠組みや道徳コードに押し込められ、それ以外の価値観は「後進的」として排除されます。
自らが行っている行為を、先に相手に投影し、正当化の材料とする。この「合わせ鏡」の構造では、真の責任追及が不可能となり、対話はエスカレートする一方です。
すべての誤りや偏見が「悪」となるわけではありません。「悪」が成立するのは、次の三つの条件が重なったときです。
他者を、尊厳ある主体ではなく、単なる機能や道具として扱う「存在論的な消去」が、悪の第一条件です。暴力の前に、すでに尊厳の剥奪が始まっています。
個人の悪意を超え、イデオロギーや制度に組み込まれることで、悪は再生産され続けます。
悪は、善を単に否定するのではなく、模倣し、利用します。たとえば、「権利」の言葉が、本来守るべき弱者ではなく、強者の防衛に使われるとき、それは善の腐敗です。
技術的な修正や制度改革だけでは、BE 2.0に対抗できません。というのも、これらは逆に「寄生的模倣」に取り込まれてしまうからです。根本的な解決は、私たち自身の内面から始まる変容にあります。
東洋の智慧は、個と社会は分かれたものではなく、同じ意識の運動の異なる側面であるという洞察を共有しています。内なる断絶が癒されるとき、外なる対立も自然に鎮まります。
1. 内的な道:瞑想、自己探求、倫理的明晰さを通じて、自己の中にある認識の否定構造を解体する。
2. 外的な道:未変容な人々が存在する現実においても害を防ぐための、法や制度、規範といった堅牢な外部構造を整える。
その行為は開かれた交流を促し、複雑性を許容するか?それとも、対話を遮断し、イデオロギー的な純粋性を要求するか?
和解と修復を育むか?それとも、分裂と戦略的な不満を永続させるか?
力、尊厳、自由をより広範に分配するか?それとも、特定の部族のために力を集中させ、特権を溜め込むか?
「言論の自由」が一貫して沈黙を生み出すとき、「学問の自由」が一貫して排除するとき、私たちは戦略的な操作の兆候を特定できます。
民主主義は、BE 2.0の条件が蔓延するとき、集団的な凡庸な悪が集約され、最高位の舞台に投影されるベクトルとなりえます。現代の指導者たちの台頭は、システムが日常的な否定、投影、兵器化された美徳のパターンを増幅し、正当化するようになった論理的な結果です。
サイクルを終わらせるには、外部の敵を探すのをやめ、内的な変容という困難な作業を始める必要があります。それまで、私たちは悪が選ぶ新たな仮面のすべてに対して脆弱なままです。
そう聞いたとき、私は正直ぎょっとした。
私にとって論文とは、大学四年の冬に締切と戦いながら泣きそうになって書いたあの苦行の象徴だった。ワードがフリーズし、参考文献のフォーマットに何度も泣かされた。
ゼミの指導教には「増田君の考察はどこにあるの?」と詰められた記憶が今でもトラウマになっている。だからこそ「論文を書くのは楽しいぞ」と笑顔で言い切る知人には半ば呆れながらも残りの半分は感心した。
たとえば中上健次の小説を読み解きながら、その語りのリズムを身体の記憶として分析する。あるいはボルヘスやカフカを引用しながら、「言葉という迷宮」の中に潜り込む。
いわば、学問のフォーマットを借りた創作だ。彼のノートPCにはMendeleyで管理された文献リストが整然と並び、PDFの余白にはびっしりとコメントが書き込まれていた。
引用規則(APA第7版)を完璧に守りながらも内容は完全に趣味。その姿勢が実に格好よかった。
正直少しだけ惹かれた。そしてこの歳になると、少しだけ心を動かされるのは、それだけでも大ごとであると認識にするには十分な出来事だった。
先日になって思い立った。俺も久しぶりに書いてみるかと。
テーマは「ゲームとSFの相似について(仮)」にしようと思っている。
これは兼ねてから私が疑問に感じていたことであり、同時にゲームとSFを愛するが故に気付いた類似点でもあり、概要はこのようなものだ。
SF(サイエンス・フィクション)は、時代とともに未知の場所を変えてきた文学である。
1950年代。宇宙開発の黎明期、アシモフやクラークに代表される黄金期のSF作家たちは未知の惑星や異星文明を、理性と科学の力で征服できる対象として描いた。
宇宙船は拡張の象徴であり、人間の叡智は宇宙の限界を超えると信じられていた。
だが月に人が降り立ち、テクノロジーが現実のものとなるとSFの「未知」は急速に萎んでいった。
未知が科学で説明できるようになったとき、物語が頼るべき“遠く”は消えたのだ。
1970年代。ニューウェーブSFが登場する。J・G・バラードやフィリップ・K・ディック、スタニスワフ・レムらが描いたのはもはや銀河の彼方ではなく、人間の記憶。感情。夢。そして現実そのものの不確かさだった。
宇宙は外にではなく、内に広がっていた。こうしてSFは「科学の物語」から「意識の物語」へと変貌する。
80年代、ファミコン黎明期のゲームは“ルールと制約”の世界だった。プレイヤーはピクセルで描かれた小さな空間を右へ進み、敵を倒してスコアを競う。世界は狭いが、明確だった。
90年代以降、3D技術の進化とともにゲームは広がり『ゼルダの伝説 時のオカリナ』や『GTA』、『Skyrim』のようにプレイヤーが自由に世界を歩き回る「外的探求」の時代が到来する。
当時の開発者たちにとって、”より広く”そして”より遠くへ”という命題は、まさにSF黄金期の“外宇宙志向”と同義だったのではないか。
この“虚無の自由”は、SFが外宇宙の飽和を経験したときとまったく同じ現象である。
そこで新しい方向を示したのが、『DEATH STRANDING』『UNDERTALE』『The Last of Us』『NieR:Automata』といった作品群だった。
これらの作品は、プレイヤーに“何をするか”ではなく、“なぜそれをするのか”を問いかける。
それはまさしく、ニューウェーブSFが宇宙船を捨て、人間の心を航行し始めたのと同じ転換である。
かつてのSFが“内宇宙”という新しい宇宙を見つけたように、現代のゲームは広大なオープンワールドから本質的な面白さを求められる時代へと転回するべきではないのか。
そこではマップの広さよりも、プレイヤーの罪悪感、葛藤、共感といった感情の深さが物語を駆動する。
『Outer Wilds』のように記憶と観測の関係をプレイヤー自身に体験させる作品もあれば、『Disco Elysium』のように思考や信念そのものをステータス化する試みもある。
こうした潮流はゲームが単なる娯楽装置を越え、プレイヤー自身を観測対象とする“装置としての物語”になりつつあることを示している。
本稿では、SFの歴史における「外→内」の転換を参照軸とし、ゲームにおける自由・物語・主体性の変化を考察する。
その上でプレイヤーがいかにして“観測者=創作者”へと変容していくのかを明らかにしたい。
ゲームとは、かつてのSFがそうであったように、人間が“自分という宇宙”を探索するための新たなメディアなのではないか――
そうした仮説のもとに、ここから筆を進めていきたい。
村上春樹がノーベル文学賞に手を伸ばせずにいるのは、本当に皮肉な話だ。
彼の本は、全世界を魅了しているのに、選考委員の文学観にはどうも刺さらないらしい。
ネコが出てきたり、深夜のジャズ喫茶で心が揺れ動いたりするあの世界感は最高に心地いいけれど、
個人の内面遊泳に徹する春樹作品は、どうしても軽やかすぎると見なされてしまうんだ。
でもノーベル選考委員は、「文学の最前線で新しい実験をしているか」を重視する。
平易な文章でグイグイと読み手を引き込むスタイルは素晴らしいけれど、
だから、文芸界のアカデミックな厳粛派からは「村上春樹は大衆作家」というレッテルを貼られてしまう。
さらに、英訳には申し分のないクオリティがあるにもかかわらず、ノーベル文学賞の選考は陣営戦略も大きい。
新鮮味を欠くと判断されがちだ。つまり、翻訳品質以前の「選考バイアス」が存在する。
あと、村上春樹の物語は普遍性の光を帯びていると言えば聞こえはいいが、
選考委が欲している「全世界を覆う重厚な社会批判」という観点では、どうしても「足りない」と映る。
孤独や胸の高鳴りではなく、人類の根源的苦悩を描かないと、ノーベル文学賞の舞台には上がらないというわけだ。
まずLLMが訓練目標として、次のトークンの確率を最大化するという統計的最適化を行っていることは理解しているんだと思う
ここすら分かって無い人は「AIは統計じゃ無くてなんか凄いことをしている」と言ってるに過ぎない
次にLLMは学習過程でトークンの特徴や抽象特性が自己組織化することに重きを置いていて
これらが「統計的に学習しているわけではない」と勘違いしているんだと思う
LLMはあくまで目標達成のために自己組織化していてその処理はやっぱり統計的なんだけれど
学習データに無くてもそこから一般化・抽象化できることについては学習できるので
まるで統計以上のものを学習しているように見えて「統計的じゃ無い」と思うんだろうな
と思うんだろうけど、全体として見てみるとこうした推論もあくまで統計的処理の範疇なんだけどね
とはいえ、「なんだただの統計処理か」って思ってる人もチラホラいて
私(GPT)は「大量のテキストデータの統計的パターン」を学習していて、答えを出すときは「確率分布」に従って文章を作っています。
何百億ものパラメータを持つ巨大な関数(ニューラルネットワーク)
No(現時点では違う) です。
私がやっているのは「確率的にもっともらしい文章を作る」ことです。
人間のように「意味を理解して考える」というより、「過去の膨大な文章の統計的パターンから未来の単語を予測している」だけです。
生成AIが統計的に出力してることを否定する人って、「統計的に出力」の部分を
「文章が一行ずつLLMに保存されていて、統計的に回答として相応しそうなものをコピペして出力してる」
っていう風に言ってると勘違いして
「そんなことはない」
って否定してるのかな、と思う
Amazonの商品のオススメなんかはそういう感じで「統計的に出力」してるから、LLMでも同じように捉えたのかと
もちろんLLMの仕組みはそんな風にはなっていなくて
ある文章があるときに、その次に相応しい単語(トークン)を統計的(確率的)に出力しているんだけど
みんなが言ってる「統計的」っていうのはこっちのことなんだよね
この統計の計算は直前に出力したトークンも影響してるし、それ以外の全体的な文章のベクトル値も影響してるし、学習データから得られた文法や言語ルール、社会規範なんかも影響してる
背景情報としては膨大で、それを使って出力してるけど、そこはやっぱり統計的(確率的)に出力してることに変わりはないんだよな
出力された文章をエージェント的にファクトチェックしたりしてても、そこにLLMを使う以上統計的になるんだよね
なのでプロンプトには確実性を高めるような書き方が重要だし、逆に学習データの社会規範とかを使いたいならボカした書き方をする
付き合った当初からお互い子供は欲しくないという点で意見が一致しており、結婚後も何も揉めることなく子なし夫婦としてやってきた
20年の結婚生活を振り返って本当に幸せな人生を送れているなと思う
そしてこの幸せはきっと子供を作ったら味わえなかった代物だろうとも思う
子どもを産むにあたって不安がっている人に「大丈夫だよ」「私も不安だったけど産んだらなんとかなったよ」みたいな体験談を語ってる場面はよく見る
一方で子どもを産まない選択をすることに不安を覚えている人に対してそういう体験談を教えている場面はなかなか見ないので、全国の子どもいらない勢に対して子なし夫婦の素晴らしさをご紹介しようと思う
子なし夫婦のメリットは色々あるけどお金の心配がいらなくなるというのは非常に大きいと思う
育児関係でキャリアを断念することもなかったので今となってはお金にかなり余裕がある
夫は年齢の平均ど真ん中、私は年齢の平均年収+3〜400万くらい稼いでいて毎年新NISAの枠を全部埋められている
若い頃に夫が鬱を患って転職を余儀なくされたこともあったけどそのときも子なしなので不安は少なかった
なんなら「専業主夫やれば?」と夫に言っていたくらいだ
実際、余裕があるかはともかく生活するだけなら子どもがいない分当時の私一馬力でもなんとかなりそうだった
よく「子どもがいないと老後が〜」「介護が〜」みたいなことを言われるけどお金の力でどうにでもなると思う
むしろ子持ち夫婦だって子どもが介護に携わってくれるかなんてわからない
そもそも自分の子どもに将来の介護要員としての期待を持つってことそのものが不健全な気もするし
上記の話に関連するけど
女の立場としてはやはりキャリアを捨てなくていいってのが非常に大きい
産休育休制度は普及してるし、そういう休みを取ったからといって不利な扱いをしてはならないって定められているけど
じゃあ実際に産休育休後に仕事を再開した場合と子供を作らなかった場合とを比較して前者が後者と同等のキャリアを歩めるのかといえばそんなことはないでしょ
産休育休って言ったって休みは休みなんだからその間仕事はできない、仕事の評価もつかない、キャリアにおいてプラスには働かない
仕事に復帰したあともその空白期間を埋め合わせるのには実際の休み以上の期間が必要だし二人目三人目を作るなら言わずもがな
女性がある程度キャリアを作っていくならやっぱ子どもなんて産んでられないよ
私はいま部長の立場だけどやっぱり子どもを産んだ女性は役職につきにくい傾向があるなって思う
なんやかんや言って女性に限定すれば私は会社において上から二番目の役職
子持ちの社員は絶対的な仕事量の差、評定の差でどうしたって出世が遅れる
しかも私はバリキャリってわけでもなく基本的に定時ダッシュだし暇な時間に自己研鑽なんてこともしたことはない
そんな程度の社員であっても休まず出社してるだけで部長クラスになれる
子ども産まないメリットとしてはかなり大きいと言えるんじゃないかな
私の趣味は映画を観ることと小説を読むこと、ラジオを聞くことなんだけど特に子どもを産んだら映画趣味は捨てざるを得なくなるなと思う
少なくとも子供が小さいうちは映画館なんて行けないしある程度大きくなっても子供向け映画を一緒に見に行くことしかできない
私の好みのゾンビだのホラーだの銃撃戦だのバイオレンスだのといった映画をちゃんと映画館に通って観るなんてしばらく無理になるでしょ
映画館に通う頻度としては週1くらい
本当は週に2〜3本、年間100本くらい観たいんだけど流石に昼間働いていると厳しい
(映画オタクの中では年間100本がシネフィルかどうかのボーダーって言われてるよね)
映画は上映期間に限りがあるし一度機会を逃すともう基本的には映画館で観ることはできなくなってしまう
じゃあ例えば子どもの養育期間は配信で我慢するとしても、なにか本当に素晴らしい映画を配信で見た時に「私はこの映画を劇場で観ることはできなかったし今後も観られることはない」って後悔に苛まれることになるよね
いまでさえそう思うことは少なくないのに子どもを産んで年単位でそんなことが生じるなんて耐えられないよ
映画館にはたまに夫もついてきてくれて、そんなときは適当に外でランチやディナーを食べたりもしている
こっちはこっちで別ベクトルの文化系だけど子どもを産んだらまぁ同人活動は無理になるんじゃないかな
少なくとも今のペースで本を作るのは難しそう
好きなゲームの発売日には有給取って一日中、とりあえず一周クリアするまで部屋にこもってプレイし続けるなんてこともしてるけど子どもがいたら当然不可能
これは人によるかもしれない
ただストレス源、責任、プレッシャーなんてものは少ないから夫婦円満にはなりやすいんじゃないかな
少なくとも私は未だに夫と仲良しでいられている
たまに懐石料理やホテルブッフェのお高めのランチ・ディナーを2人で食べたりもする
割と頻繁に旅行にも行ってるよ
若い頃でもボーナス使えば結構いいお宿に泊まれたし、ある程度お金に余裕ができてからは相当いいお宿に泊まれるようになった
パパママなんて立場にならずに済む分、夫婦でずっといつまでも恋人同士のようにレジャーを楽しむことができる
あと生々しい話、セックスレスにもならずに済んでいる
子どもを産むとやっぱり体型維持は難しくなる
それでなくてもホルモンバランスが狂って大変なことになるし夫側妻側双方にとって性的な関係の維持には相当な努力がいると思う
自分の人生を自分のために使いたいと思っているのならやっぱり子どもは作らないほうが幸せになれるよ
大好きなパートナーといつまでも仲良く添い遂げながら自分のキャリアをきちんと積み上げ趣味にも時間を注ぐことができる
なにか人生において夢中になれることがある人、抑圧されたくない人、個人の幸せを追求したい人に子なし夫婦はかなりおすすめです
少なくとも私に後悔は一切ない
昔は子供向けだったけど、当時子供だった人たちが大人になってまた遊ぶ人が増えている、という類の趣味を最近始めた(カードゲームではない)。
その趣味自体はすごく楽しくて、毎日一人で黙々と没頭してしまうほど。近年はこれといった趣味もなかったので楽しい事に出会えたのは素直に嬉しい。
しかし、その同好の士が集まる場所やイベントに行くと、ちょっともやもやする事がある。
というのも、どこに行っても一定数「小中学生から進歩してない」としか思えない人たちがいる。
例えば変な奇声を上げて幼稚な意味不明なことを大声で叫んでキャッキャと盛り上がってるような人達ね。
オヤジギャグもくだらないけど、それとはベクトルの違う如何にも幼い盛り上がり方。伝わるだろうか。おちゃらけた小学生男子たちがアホみたいにケラケラ笑ってるあの感じを、30代40代の大人たちがやってるのだ。
正直、その人たちと同じ空間にいるのがしんどい。共感性羞恥がひどい。
会社でも、他の趣味でも、これまで大人になってから付き合ってきた中にああいう人たちは居なかった。みんなちゃんと「大人」をやってる中に属してきた。
小学生たちならば微笑ましいのだが、奇声を上げておちゃらけてるおっさんを見るのは本当にしんどい。
一人でも楽しいけど出来るのはあくまで準備とか練習・研究であって本番は集まらないと出来ないという類の趣味なので、これからも趣味を続けるならこれを受け入れなければならない。
大元が子供向けの趣味だから子供のままの精神の人も集まってしまうのだろうが、大人の趣味として楽しめないものかなぁ。
実際、幼い人ばかりではなくちゃんと大人の振る舞いをしている人の方が多いので、あの一部の「異物」がどうにかなると良いのだが……
これ読んだら漫画家吉野朔実先生が書かれた短編集「恋愛的瞬間」(そのものずばり恋愛がテーマ、というかどう他者や自分を含む「世界」とどう恋愛するかがテーマ)の一編「世界の果てまで」って作品思い出したわ。この増田さんは「俺は人よりできない、何もできない」って自分の世界から出れなくなってるけど、30歳女教師処女のこの漫画の主人公も好奇心と性に対する消極さの間で自分の世界から出れないことを「私ってつまんない」って思ってるのよね、まあベクトルは真反対だけど自分自身で枠作って世界決めうちちゃってるなあと。
「待つことにうんざりしてるんでしょ?
(中略)
行きたい所はもうひとつもないの?
今のあなたが
もし本当にそうなら
そこで待つべきだよ
空手でもしながらね
人は会うべき人にしか会わない
だからいつでも
そこに恋人はかならずやってくる 」
とかいうモノローグを背負いながら教師辞めてバックパッカーで南極圏まで旅立っちゃって、そこで「運命の恋人」とやらに交通事故のように出逢っちゃうという、大変漫画っぽいオチを迎える。まあ、漫画だろって話だけど結局あかん自分だろうが何だろうか、このくらいの勢いで動かんと「愛し愛される運命の相手」とやらは見つからんっちゅー作家のメッセージ、他人と、世界と恋愛したきゃ自分が決めた世界じゃなく外でろっっちゅーメッセージやろうねとは思う。
増田さん「医者は薬出すだけで当てにならない」って書いてるけど他人から見りゃ「そりゃ医者のメインの仕事それで何それ以上期待してるんだ」って話で、恋愛限らず当てになる、信頼できる他人なんて南極圏に飛び出すぐらいの気合いで探さんとまあ見つからないんじゃないの?とこの漫画家のファンであるおばちゃんは思うわけだ。
リア友からあなたは人を狂わせるタイプだという評価をもらった事がある。
正直自分ではその言葉の意味が理解できなかったが、様々な人間関係の変化や感情を浴びる経験して、そうなのかもしれない(?)と思うことが増えてきた。しかしよく分からない。
まず、自分はただのオタクでありそれ以上でもそれ以下でもない。だけど活動する界隈ではガチ恋が出てくる。
無論何もガチ恋営業はしていない。容姿がいいとか作り出す作品が神だとかもない。しかし”男女問わず”イベントで一目惚れした、あなたの投稿や言葉に心を打たれた、などと言われるので恋のランダムエンカウント衝突事故の回避は難しい。自分の好みの服を着てきたので好きになりましたなんて事を言われたこともある。それはしらんがな。
もしかしたら自分が知らないだけでこの世はもっと恋とトキメキに満ち溢れているのかもしれないが、正直なところ頻繁に人と交流するわけでもなく年齢も住所も仕事も人に話したことがない、SNSの投稿も推しがかわいい~程度の何も分からない人のどこが好きになれるんだとは思う。
そして、ガチ恋が出てくるということは逆ベクトルのクソデカ感情を抱く人(便宜上アンチと呼ぶ)も出てくる。
この人たちは今まで普通だったのに急変するのが特徴的。もっとも、嫌悪や敵意を見せるなら徹底的にハブってくれればいいのだが、アンチ(仮名)から遊びに誘ってくるのにその中で自分一人にだけ嘘をついて帰し他のみんなで二次会開催、なのにそれを隠しもせずTLで報告…みたいな小学生の虐めかレベルのことをやられるのでかなり傷付く。
やることとしては呼んでおいてこちらにだけ分からない話題で盛り上がったりとか、わざわざ呼んでおいてその場で孤立させるというものが多く、「呼んでやらないのもどうかなと思って〜」といったことも面と向かって言われた。
悪役令嬢に虐められる主人公かよとうっすら思ったりもした。
ハブる計画をするまではしっかり隠すのに、その後チラチラと匂わせをしたり、最後は隠しもしないのも謎。そんなことをしたらトラブルになるのは当たり前だと思うのだが…。
TL上では気のせいかな程度の空リプでの嫌味も始まるのだが、どうにも叩きどころ(要するにヲチって冷笑できる箇所)がこちらにない&個人情報も流さないので貶したいけど貶しにくいというジレンマが発生するらしく、「きっとああなのだろう」「こうなんだろう」という文面で本当にただの妄想でチクチク刺すようになってくる。まるでイタコにでもなったかのようにこちらの思考や性格、家庭環境等を分かったような気になって無から悪事や悪口を作成し周囲に披露したりマウントを取ったりするのはどう考えても異常行為なのだが、どうにもそこまで正気を失わせてしまうらしい。本人達は本気でその考えが真実であると確信しているが、それらがこちらの本質をついたことは一度たりとも無い。
ちなみに周りで同情したりはやし立ててる人達は「きっと〜なのだろう」とかいう妄想100%の語り口でも盲目的に信じる。
とはいえ、そんなに言うのだから嫌われているのだろうと思いフォローを外したりブロックしたりすると「私は今まであんなによくしてやったのに恩知らず」などと文句を言うようになるのでそこまで含めて不明点が多く残る。長々と未練タラタラな悪口が流されるが、その言い分を見る限り嫌いなはずなのに繋がってはいたかったらしい。
一般的に「好き」の逆ベクトルの感情がアンチという存在を作りだすと考えていたのだが、上記のようにこれが相互フォロワーから出てくるという点と「虐めはするがあくまで繋がってはいたい」と思われている点がその定義を曖昧にさせる。
さらにはブロック後に関わりが無いにも関わらず「私に嫉妬している~」「私にだけ重い感情を向けてくる~」「私のことが好きな~」といった言葉がこちらを示す言葉として基本装備になっていくので気持ちが悪い。なんだかこちらを理解しているような態度ではあるが何一つ合っていないし、終始こちらの気持ちは無視。
こちらとしては関わることをやめた人に積極的な繋がりの矢印(しかもこちらから向けている)があると妄想され、時によっては「私のことが好きな人」呼びまでされているのは薄気味悪いし面倒で仕方がない。嫌いなんだよ。
しっかり「あなたのことが嫌いです」と拒絶しても「私に接触しに来た」と文章吹っ飛ばして好意的に解釈されたのでもうお手上げ。
あなたが思っているよりあなたに興味はないんだとしか言えないし、いつだってこんなのが湧く。
しかも自分以外にはまともな人ばかりなので不思議でしかない。こちらを前にすると急にハンドルがおかしくなるっぽい。
なんなんだろうな…。