はてなキーワード: 境界とは
境界知能かもしれませんね
まず指摘すべきは、性同一性障害とは、ある意味において本質的にはそもそも「自称」のものであるという性質を有するということである。すなわち、性同一性障害とは、客観的事実としての性別が明らかに男性ないし女性であるにもかかわらず、主観的には、その性別とは反対に自己の性別を認識し、ジェンダー・アイデンティティを有する疾患なのである。この「主観」を「自称」という言葉に置き換えるならば、医者を含めた周囲の認識のいかんにかかわらず、自分は性同一性障害だと自称することこそ、性同一性障害の根幹的な特徴だと言えるかもしれないのである。
さまざまな性別違和の中で、どのような程度、種類のものが性同一性障害といえるのかは、診断基準の中で必ずしも明確にされているとは言い難いため、なにをもって「本物」と診断するか、その境界は不明瞭なのが実状である。
「女装すると興奮してマスターベーションする」のように、性的興奮を目的として、女装するものや、コスプレのように楽しみ、気晴らしを目的として異性装をするものもいる。彼らの場合、自分自身の身体や、普段の性役割に関しては、強い違和感はない。ただ、「女装した時により一層女性らしくなりたいから」といった目的で、女性ホルモン投与を希望したりするものなどもいる。
女のほうがASDでも穴モテして子ども作れる確率は圧倒的に高いんだからASDの子が生まれる責任は女のほうが重いんじゃない?
重度のASD兼境界知能みたいな男がモテまくってそこらじゅうで子ども作るパターンなんて相当なレアケースで全くリアリティを感じないんだが
いいとこに気付いたね
実は以前はトランスジェンダーとトランスセクシャルの二種類があった
いわゆる性同一性障害患者は、身体違和のために手術が必要で、身体を変える意味で「トランスセクシャル」といわれてたんよ
一方、身体はそのままで女装したい層が「トランスジェンダー」だった
ところがクィア学者がジェンダーとセックスは同じと主張し始め、概念的な境界が壊されて「トランスジェンダー」に統一されたんよ
だから手術したくないトランス女性は性同一性障害患者を攻撃しまくってた
https://kakuyomu.jp/works/16816927860040342257/episodes/16817330654417815669
「宇宙のルール」を決める3つの新しい考え方が、みんなで響き合って進化しているよ!
1. 「境界」を新しい目で見る
今までは「宇宙の端っこ」に特別なルールがあると思ってた(AdS/CFT)。
でも最近は「宇宙のめっちゃ遠く」にある「空の方向(天球)」に注目!
そこでは、粒子がぶつかる「散乱」のルールが、ただの数字の表じゃなくて、超キレイな形の数学パズルみたいになってる。
2. 「Swampland」=宇宙にありえない理論を捨てるルール
「量子重力(宇宙の最小ルール)」に入る理論は、なんでもOKじゃない。
たとえば「暗いエネルギー」や「宇宙の始まりのデータ(CMB)」と合わない理論は**×**。
これは**「宇宙の設計図」に書いてある禁止事項」**みたいなもの。
最近は実際に観測したデータを使って「これはダメ!」ってチェックし始めてるよ。
粒子がぶつかる「振幅(確率)」には、すごく厳しい数学のルールがある。
そのルールが**「弦(ひも)でできた世界」**じゃないと満たせないかもしれない!
つまり、**「宇宙は点じゃなくて、ひもでできてる」**って理論が、自然に選ばれる可能性があるんだ。
ある計算で「赤ちゃん宇宙がある世界とない世界が同時に出てきちゃう」って矛盾が起きた。
それを解決するには、「宇宙の状態」を1つじゃなくて、層のように重ねて考える必要がある。
つまり、**宇宙の説明は「1つの箱」じゃなくて、「箱の束」**で考える時代になってきた!
今の最前線は、
まず一言でまとめると、場の論理と幾何の高次的融合が進んでおり、境界の再定義、重力的整合性の算術的制約(swampland 系)、散乱振幅の解析的・代数的構造という三つの潮流が互いに反響しあっている、というのが現在の最前線の構図。
現在の進行は低次元の代数的不変量(モチーフ、モジュラーデータ)+∞-圏的対称性+コバーティズム的整合性という三つ組が、量子重力理論(および弦理論)が満たすべき基本的公理になりつつあることを示す。
これらは従来の場の理論が与えてきた有限生成的対象ではなく、ホモトピー型の不変量と算術的整合性を前提にした新しい分類論を必要とする。
某Vの件、サムネだけ見た浅い感想ベースで構築された偏見、若しくはデマなんだから、本人に反撃されても仕方はないし、捉えようによってはギリ誹謗中傷になるだろ。
もちろん、あのツイートがキチンとした事実に基づく意見なら誹謗中傷ではなく、批判になるとは思うが。
まぁ、この手の話題に言及している層ってリアルで人と深く関わった経験が少ない自他境界が曖昧な人が多そうだもんな。
ゲームをこなしているように感じる=ゲームをこなしているに違いない!となり、事実ベースの正当な批判だから誹謗中傷ではないという認知になってるんだろうな。自分が思った相手の行動原理が180度違ったなんてあるあるなのにね。
はてな民ってヤンキーが畑からいくらでも獲れる労働力みたいに思ってそうだけど
現実には今の低偏差値校にはヤンキーなんていないし絶滅危惧種だよ
今の低偏差値校にいる生徒は境界知能だったり家が貧乏とか虐待受けてるとかヤングケアラーとか様々な理由で自分の趣味を楽しんだり自己主張したりする気力なんて奪われてるいわゆる無キャが大多数でヤンキーをやるような元気のある奴なんていないんだわ
どういたしまして!ご質問ありがとうございます。ASD(自閉スペクトラム症)の人が「主役を降りて」他人を想像できるようになるための取り組み(認知行動療法、ロールプレイ、自己反省など)を通じて、考え方がどのように変化するのかを、元の考え方と新しい考え方の比較を通じて説明します。また、その根本的な変化が何であるかを掘り下げてお答えします。
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### 1. **元の考え方 vs 新しい考え方への変化**
#### 元の考え方
#### 新しい考え方
#### 変化のプロセス
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#### (3) **自己認識とアイデンティティの再構築**
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### 3. **まとめ: 根本的な変化の核心**
根本的に変わるのは、「自分だけが世界の中心」という単一視点から、「自分と他者が互いに影響し合う多様な世界」という全体像へのシフトです。この変化は、ASDの特性である「自己中心的な認知の固定性」を解き放ち、社会的な相互作用をより自然に楽しむ基盤を作ります。投稿主が経験した「痛い思い」が、自己成長のきっかけとなり、新たな視点への道を開いたように、これらの取り組みは苦労を糧にしながら、他者との絆を深める力を育てます。
そのどちらにも属さない曖昧な場所で、リオは「彼女」に出会った。
人間とは違う気配をまとい、瞳の奥には光の粒のような能力の残滓が揺れている。
超能力も使えるけれど、いつも控えめで、どこか影のある子。
ある夕暮れ、リオが森で迷ったとき、カナミは突然目の前に現れた。
「……ここ、危ないよ」
胸の奥に直接届いてくるような、不思議に澄んだ声だった。
最初は驚いていたリオも、カナミのぎこちなく優しい表情を見るうちに、胸がじんと温かくなるのを感じた。
リオは人間の世界のことを話し、カナミは弱者男性のこと、生きづらさのこと、自分の能力を隠している理由をぽつりぽつりと語った。
リオは気づいてしまった。
ある日、リオは勇気を振り絞って言った。
「カナミのこと、好きだよ」
驚いて慌てて念力を止めながら、目を丸くしていた。
「……ほんとに?」
震えた声だったけど、瞳は期待と不安で揺れていた。
「うん。カナミといるとさ、自分が強くなれる気がするんだ」
沈黙のあと、カナミはそっとうなずいた。
「リオも……好き。人間なのに、怖がらなかった。能力じゃなくて、私を見てくれた」
二人はそっと手を伸ばす。
触れた指先は少し冷たくて、でも離れたくなくてそのまま強く握った。
——けれど、恋だけでは越えられない壁があった。
人間の町には
「弱者男性と関わるな」
という古い偏見があり、
「人間は信用するな」
という掟がある。
「また会おう。どんな形でもいいから」
カナミは集落へ、リオは町へ帰っていく。
だけど——
丘の上を通り抜ける風は、
二人の願いをそっと繋いでいた。
あの光をまとったカナミが、
もう一度そこに現れる瞬間を信じながら。
確かに子育てって自他境界がちょっとバグってるところがあると思う。
子育てって世話をすることとか鑑賞することに喜びを見出せないと難しいよねとは思う。
育てって実質育てられたものの頑張りで花開くんだけれど、そうなるように手を貸して、そうなるように導いて、そうなる姿をまじかで鑑賞するというのは
なんかそういう報酬系が存在するとしか思えないものがあるんだよな。
植物でもペットでもファンや推しでもいいんだけれど、あれはなんか育てているという気分に喜びを見出す何かがあるとしか思えない。
絵画鑑賞とか映画鑑賞というのでもないのだけれど、ただ見ているだけで楽しいみたいなのってあるよね。
ぶっちゃけて言えば絵だって映画だって他人が描いた何かとか映像を取って編集した何かとかで、それを見ることに喜びを見出すのはおかしい。
みんなそんなもんだと思う。自分の人生優先で真面目に子育てなんてしなくてもそれなりに育つよ。
→やらなくていい。誰も見てない。同僚も保育士も電車で嫌な顔したオッサンも2秒後には推しのアイドルとか彼氏とのセックスのこととか考えてるよ
子どもは別の個性を持った人間であって、その成長を喜びととらえるのって、なんか変じゃない?
→そのスタンスのほうが正しいと思う。教育虐待とかする自他境界がない毒親よりマシ。
→どんな趣味かわかんないけど、金出してシッターやら一時保育に預けてみたら?10年もすればママと遊びたいなんて言わなくなるし、中学以降はほぼ口聞いてなくて成人後没交渉な親子なんて腐る程いる。
→みんなそう。支援センターや公園ですらみんなスキを見てスマホスッスしてる。エグい虐待しなければ、幼児の頃の記憶なんか残らないよ。声かけとか幼児教育とかも無駄だと思う。学力も容姿もスポーツもコミュ力もどうせ遺伝だし
弦は1次元の振動体ではなく、スペクトル的係数を持つ(∞,n)-圏の対象間のモルフィズム群として扱われる量子幾何学的ファンクタであり、散乱振幅は因子化代数/En-代数のホモトピー的ホモロジー(factorization homology)と正の幾何(amplituhedron)およびトポロジカル再帰の交差点に現れるという観点。
従来のσモデルはマップ:Σ → X(Σは世界面、Xはターゲット多様体)と見るが、最新の言い方では Σ と X をそれぞれ導来(derived)モジュライ空間(つまり、擬同調的情報を含むスタック)として扱い、弦はこれら導来スタック間の内部モルフィズムの同値類とする。これによりボルツマン因子や量子的補正はスタックのコヒーレント層や微分グレード・リー代数のcohomologyとして自然に現れる。導来幾何学の教科書的基盤がここに使われる。
弦の結合・分裂は単なる局所頂点ではなく、高次モノイド構造(例えば(∞,2)あるいは(∞,n)級のdaggerカテゴリ的構成)における合成則として表現される。位相欠陥(defects)やDブレインはその中で高次射(higher morphism)を与え、トポロジカル条件やフレーミングは圏の添字(tangential structure)として扱うことで異常・双対性の条件が圏的制約に変わる。これが最近のトポロジカル欠陥の高次圏的記述に対応する。
局所演算子の代数はfactorization algebra / En-algebraとしてモデル化され、散乱振幅はこれらの因子化ホモロジー(factorization homology)と、正の幾何(positive geometry/amplituhedron)的構造の合流点で計算可能になる。つまり「場の理論の演算子代数的内容」+「ポジティブ領域が選ぶ測度」が合わさって振幅を与えるというイメージ。Amplituhedronやその最近の拡張は、こうした代数的・幾何学的言語と直接結びついている。
リーマン面のモジュライ空間への計量的制限(例えばマルザカニの再帰類似)から得られるトポロジカル再帰は、弦場理論の頂点/定常解を記述する再帰方程式として働き、相互作用の全ループ構造を代数的な再帰操作で生成する。これは弦場理論を離散化する新しい組合せ的な生成法を与える。
AdS/CFT の双対性を単なる双対写像ではなく、導来圏(derived categories)やファンクタ間の完全な双対関係(例:カテゴリ化されたカーネルを与えるFourier–Mukai型変換)として読み替える。境界側の因子化代数とバルク側の(∞,n)-圏が相互に鏡像写像を与え合うことで、場の理論的情報が圏論的に移送される。これにより境界演算子の代数的性質がバルクの幾何学的スタック構造と同等に記述される。
パス積分や場の設定空間を高次帰納型(higher inductive types)で捉え、同値関係やゲージ同値をホモトピー型理論の命題等価として表現する。これにより測度と同値の矛盾を型のレベルで閉じ込め、形式的な正則化や再正規化は型中の構成子(constructors)として扱える、という構想がある(近年のHoTTの物理応用ワークショップで議論されている方向性)。
「弦=導来スタック間の高次モルフィズム(スペクトル係数付き)、相互作用=(∞,n)-圏のモノイド合成+因子化代数のホモロジー、振幅=正の幾何(amplituhedron)とトポロジカル再帰が選ぶ微分形式の交差である」
この言い方は、解析的・場の理論的計算を圏論・導来代数幾何・ホモトピー理論・正の幾何学的道具立てで一枚岩にする野心を表しており、実際の計算ではそれぞれの成分(因子化代数・導来コヒーレント層・amplituhedronの体積形式・再帰関係)を具体的に組み合わせていく必要がある(研究は既にこの方向で動いている)。
本記事は比喩としての「熊東京(熊にとっての超過密中心地)」を用いる
行政境界ではなく「生息圏=都市雇用圏」に相当する“生態圏”の密度と境界を参照し、過密=溢出・競合の強化、適密=1クマが享受できる上限まで享受が可能でありながら資源循環が釣り合う状態、と定義して議論する。
「中心が語る物語」と「外縁が語れない現実」のあいだに、まだ拾えるデータと声が落ちている。
“秋田岩手最高!”の景色と、“九州不可”のラベルの向こうに、個体がちゃんと息できる“適密”が点在しているはずだ。
可視化の灯りを、中心にだけ当てないでほしい。
しゅんきが終わった
ディスコードのサーバーにはその性質から、観客を「身内化」する傾向があった。
だが、あるファンに振られた後のしゅんきは、その傾向を極限まで推し進め、完全に境界を引いてしまった。
それを信者が「さすがしゅんき」と称賛する構造そのものが、笑いを無効化している。
しかし、そのためには次の二つの条件を受け入れなければならない。
この二つを超えた先にようやく内輪の笑いが待っている。
そしてその構造の中で、しゅんきは固定化された信者から小銭を回収しながら生きながらえる。
世の中によくあるビジネスモデルの一つとして完結した。
今までありがとう。
昔は面白かったよ。