はてなキーワード: チェーンメールとは
「情弱」という言葉は、2000年代にインターネット掲示板やSNSで広まった俗語である。当初は「情報弱者」、すなわちインターネットや最新の情報にアクセスできず、世の中の流れから取り残される人を指す揶揄的な言葉であった。しかし令和の現在、「情弱」の意味は大きく変質している。もはや「情報を持たない人」ではなく、「情報を持ちすぎた結果、誤情報に振り回され、自称“情報通”として振る舞う人」を指すことが多くなっている。
この変化を端的に示しているのが、近年急速に存在感を増した「参政党」の躍進である。参政党は、メディアや大政党とは異なるルートで情報発信を行い、インターネットを通じて「自分だけが真実を知っている」と感じる人々を惹きつけた。そこには、かつての「知らないことを笑われる情弱」ではなく、「知っているつもりで誤情報に支配される情弱」という新たな姿が浮かび上がっている。
本稿では、参政党の事例を手がかりに「情弱」の意味変質を整理し、現代社会における情報と知能の関係を考察する。
情弱という言葉は、もともと「インターネットに不慣れな人」「デジタル機器やITリテラシーが低い人」を指していた。例えばガラケーからスマホへの移行期に「まだガラケーを使っている人は情弱だ」と揶揄されたり、詐欺まがいのチェーンメールを信じて拡散してしまう人を「情弱」と呼んだりする用法が典型である。
つまり情弱は「情報にアクセスする環境や能力が不足している人」を指しており、彼らは「知らない」「分からない」存在として位置づけられていた。笑われたり馬鹿にされたりする対象ではあったが、裏を返せば「知らないがゆえに誤情報にアクセスする機会も少ない」という側面もあった。
令和に入り、インターネットは誰もが利用する基盤インフラとなった。スマートフォンとSNSが普及し、ほとんどの人が大量の情報にアクセスできる。ここで「情弱」の意味が反転する。
現代の情弱は「情報にアクセスできない人」ではなく、「アクセスできすぎるがゆえに取捨選択ができない人」である。彼らはアルゴリズムに最適化されたSNSのフィードや、陰謀論的なYouTube動画などに触れ続け、バランスを欠いた世界観を形成する。そして「テレビや新聞は洗脳だ。自分だけが真実を知っている」と確信するに至る。
この姿は、かつての「知らない人」とは正反対だ。むしろ「知りすぎている(つもり)」であり、だがその知識は偏向し、誤情報に満ちている。ここに情弱という言葉の変質がある。
参政党は、既存の大政党やマスメディアとは異なるアプローチで支持を広げた。街頭演説をYouTubeで拡散し、SNSで「真実を知りたい人」に直接訴えかけたのである。そこでは「学校やマスコミが隠している本当の情報」「ワクチンの裏側」「日本が売られている」といった刺激的なフレーズが飛び交った。
参政党を支持する人々の多くは、自らを「目覚めた国民」「情報に強い人」と認識している。しかし客観的に見れば、それは誤情報や陰謀論に偏った“知識”であり、社会的な合意形成や科学的検証と相容れないケースが多い。
この現象こそ「令和の情弱像」である。彼らは「無知」ではなく「偏った知識の虜」であり、自分の知能を過信しつつ、結果として社会全体の情報リテラシーを下げる役割を果たしている。
ここで注目すべきは、「情弱」と呼ばれる人々の知能レベルである。かつての情弱は、知能が低いわけではなく単にインターネットに不慣れであった。しかし現代の情弱は、情報を吟味する思考能力の欠如、すなわち 批判的思考(クリティカル・シンキング)の不足 に起因している。
大量の情報に触れながらも、出典を確認しない。反証を検討しない。自分に都合のよい情報だけを集めて確信を深める。こうした行動は、単なる「無知」とは異なる。「知能はあるが、その使い方が誤っている」という状態であり、それこそが「現代的な情弱」の本質である。
そしてSNSのアルゴリズムは、この傾向を増幅させる。彼らがクリックした動画や記事は次々と類似コンテンツを提示し、情報のバランスをさらに崩す。結果として、知識を持っているはずなのに、社会的には「知能の低い人」として扱われるという逆説が生まれる。
令和の情弱像が拡大することで、社会にはいくつかのリスクが生じる。
1. 分断の拡大
自分の世界観に閉じこもり、「自分だけが真実を知っている」と考える人々は、他者との対話を拒否しがちになる。これは社会的な分断を深め、合意形成を困難にする。
誤情報を基盤にした政治的選択が増えることで、民主主義の質が低下する。政策論争が事実に基づかず、感情や陰謀論に左右される。
情報量が増えるほど、むしろ誤情報に支配される人が増えるという逆説が生じる。知識社会の成熟が、そのまま社会的知能の低下を招く可能性がある。
いい年してずっとうつむいて小さいスマホの画面ばっか見るのやめろ。スマホを捨てろ。あと、自分が頭悪いって認めて素直に生きろ。
かつて「情弱」とは、情報を知らない人の代名詞であった。しかし令和の「情弱」は、情報を持ちながら誤った形で消費し、自らを“情報通”と誤認する人々である。参政党の躍進は、この新しい情弱像を可視化した。
我々が直面しているのは「無知」ではなく「誤知」の時代であり、その克服には知能や知識の量ではなく、思考の質を高める努力が求められる。情弱という言葉の変質を正しく捉えることは、現代社会の情報環境を理解し、より健全な民主主義を築くための第一歩なのである。
文庫版は瀬野が小澤を誘導するための仕掛けが施されており、瀬野が用意した原稿は意図的な加工がされていることを考慮する必要がある。
また怪異に関わったものは「そのこと自体を忘れる」傾向があるため、インタビュー内容が同じになったり、小澤が小沢くんのことに思い至らなかったりする。
瀬野が積極的に怪異について調べながらも今まで無事でいられたのは
もしかしたらカクヨム・単行本版の後日談としての文庫版なのでは?と思って合体させた年表にしてみたものの、Q休刊の時期が全く違ったのでマルチバース確定です。解散。
最後まで見てください。
見てしまった
私は好きな人がいたの
私は友達が少なくて
私は交通事故で車に跳ねられ,
両足がなくなりました。
りんちゃんは
私が休んでいる時に
違う子と親友になってイタ
私の好きな人とも
付き合っていた
本当に許せない
本当に許せない
本当に許せない
私はりんちゃんを
すごく恨んでいる。
コロシニイキタイ
でも無理だ.........
...足がないから
だから誰かの足が欲しいの。
もしこのメールを
足をうばいに行くからね。
だからみんな協力してください。
私はあなたを信じている。
私の友達になってくれるよね?
助けてくれるよね?
もしこのメールを
夜の0時
ぴったりにあなたの足を
貰いにいきます。
あなたの目の前に
居ても怖がらないでね。
アナタガワルインダカラ
もし止めたら
コロス
コロス
コロス
コロス
実際に止めた人もいました
石川◯美38才
死体で見つかりました
足は、2本ともなくて
目が取れていて
心臓がえぐり出されていて
手が半分無く
なっていました
本当です
嘘だと思うなら
これにかけてください
この団が私の協力者です
いつもこのパターンの
チェーンメールだと思うよね?
これは本当だよ。
世界には3つだけ
本当のチェーンメールがある
あぁ・・めっちゃ打つの大変だった。この文の長さが逆に怖いわ・・
①メールを20人に送らなくて、反抗したらコロスと書いてあるのに、何故そのりんちゃんという人を殺せないのか。👉普通にその元気があるならいけるだろ
④いわゆるテケテケね
「マーガリンはプラスチックと同じだ」という荒唐無稽な風説は有名だと思うが、これへのカウンターとして「英単語plasticは樹脂製品を指すのではなく“可塑性の”という意味の形容詞なのに英語のわからぬアホが誤訳して騒ぎ出したのだ」という説があり、SNS等で人気が高い。
先日話題になった件(*1)への反応では非常に多く見られたし、1年ほど前にも「誤訳による日本ローカルな迷信」とするツイートがバズっていいねを2万近くも集めていたようだ。
だがこれは正しくない。margarine plastic とでも検索してみれば英語圏でやはり同じような迷信が普及しているのはすぐにわかる。つまり訳の問題ではなく日本ローカルでもない。
一例としてファクトチェックサイト大手のSnopesは2003年の記事で当時流行したチェーンメール「Butter vs. Margarine」の文面を掲載している(*2)。
Margarine is but one molecule from being PLASTIC(マーガリンとプラスチックは分子1つしか違わない)
Would you melt your Tupperware and spread that on your toast?(タッパーウェアを溶かしてトーストに塗りますか?)
実際にはこのネタの出どころは昔から判明しており(*3)(*4)、Fred Rohéというアメリカの自然食運動家が80年代に書いた「The Great Margarine Experiment」なる文章がそれにあたる。
プラスチック説と同じくらい有名な「マーガリンを野ざらしにしたのに虫が寄り付かなかった」という実験が出てくるのもこれ。
この中に「顕微鏡で観察すると水素添加された油脂の分子はプラスチックの分子そっくり」という趣旨の話があり、引用を繰り返されて世間に広まったようだ。
デマを疑うような人たちがこんな検索一発でわかる誤った説を信じてしまうのはちょっとお粗末に思える。
意地悪な見方をするなら、誤訳説を唱える人のツイートには「まったくこいつらはこんな簡単な英語もわからないのか」というトーンが含まれているようであり、
トンチキな相手を馬鹿にしたいが分子構造がどうとかの話は難しくてわからないから自分でも理解できる説に飛びついた…というところではないだろうか。
1 https://news.yahoo.co.jp/articles/f694fdbf2143684adebc45f6e7d5d602b5da2099
2 https://www.snopes.com/fact-check/the-butter-truth/
ネットが炎上した際に法律とマナーと主観が入り乱れているせいで毎度ややこしくなっている。
今回の件をバカッターと同一視する人もいるが、バカッターは犯罪行為を公開する行為が問題なので別の話だ。
どちらかというと「カレーを食ってる時にウンコの話をするな!」に近いマナーの問題だと思われる。
また「フェミニストが一方的に通報した!」と主観の話にしようとする人もいるが、
食品を排泄物に喩えないのは一般的な事象だと思うので主観ではなくマナーの話だ。
パジャマを着ることは犯罪ではないがスーパーに行くときはせめてジーンズにしようとか、
ジーンズで外出は悪いことではないけど葬式の時は喪服を着ようとか、
ならば、どこでならリプトンのパックに穴を開けてシャロちゃんのオシッコにしてよいのだろうか?
「いかなる場所においても気持ち悪いからやめろ」という意見もあるだろうが、ちょっと待って欲しい。
一人でやるのは当然問題ないだろうし、オタサーの部室で仲間内でやるのも問題はないはずだ。
ではインターネット上ではどうか。
例えば2ちゃんねるではこのような遊びは行われてきた。
何故なら2ちゃんねるを見て、わざわざスレを開いて、それで怒っている人がいたらお前が悪いよ、となるからだ。
仮に気持ち悪いから他の媒体に晒上げて怒りを伝えようとしたら、転載をした方が悪人になる。
リツイートはチェーンメールのように意図や文脈を越えて広がるし、
検索エンジンはジャンルや界隈を越えて文字列だけで全てのツイートを拾い集める。
2ちゃんねるが細分化された趣味の人間を「板」と「スレッド」という細かい部屋に分けたのに対し、
Twitterは異文化の人間を大部屋に全員格納し、拡声器を代わり代わりに回しているようなものだ。
(不幸なことにTwitterでは発言の後に拡声器が渡されるので、自分の言ったことが大部屋に広がるかどうかは後にならないと分からない)
今回の件は大部屋で下ネタを言ったオタクが叩かれた、という話だ。
そこで拡声器が渡されてしまって、どんどん声が大きくなった。(皮肉にもリプトン側の指摘によってさらに拡声された)
小部屋で話すならば笑い話で済んだのに。では小部屋はどこにある?
2ちゃんねるが転載騒動やお家騒動などで衰退してからずいぶん経つ。
その間栄えたメディアはSNSであり、フォロワー数と拡散力で社会に影響を与えることになった。
今回の件ももし彼の居場所が大部屋ではなく小部屋にあったなら、炎上はしなかったはずだ。
でも小部屋のインターネットはもうない。
小部屋は金にならない。アングラでひっそりと身を寄せるインターネットは終わった。
インターネットが窮屈になったのは増える人口を大部屋に押し込むからだ。
小部屋のインターネットを取り戻したいと思いながらも、私は無能だから何もできない。
私のバイト先は客商売というのもあり、みんなものすごい速さでとっとと予防接種の予約を取り2回の接種を完了させた。
接種どころか予約もせずに8月下旬までちんたらしていたのは、予約券がまだ届いていない十代の子達を除くと、私ともう一人だけだった。もう一人の人はゴリゴリの陰謀論者なので、永久に予防接種は受けなさそう。あらゆる病気の予防接種を拒否しそうな勢いで陰謀論にのめっているから。
私はというと、予防接種を受ける間に子供をみてくれる人がいないという理由で、夏休み後まで粘るしかなかった。子連れでも予防接種を受けられる、近所の診療所での予防接種受付の開放は、ほんの5日前のことで、それ以前は私の年齢層は遠方の大規模接種会場でしか接種を受けられなかったのだ。
また、職場の人たちが我先にと予防接種を受けたのと、ワクチンの副作用が想像以上に酷かったことで欠勤者が相次ぎ、シフトが回らず大変なことになったのとで、出遅れちゃった人は慎重に接種プランを立てることを強いられたのもある。
今週になってやっと、私も近隣の診療所で予防接種の予約を出来るようになったことを、ついうっかり忘れていた。待たされ過ぎてぼんやりしていた。自治体から「20代の予防接種予約受付を前倒しにする」というお知らせがメールで届き、これはうかうかしていると、若い世代が打ち終わるまで待たされることになるぞ! と思い、慌てて予約のために動き出した次第。
大規模接種会場はとっくに受付終了。地元の集団接種会場は、お年寄りが打ち終わると同時に受付終了。かかりつけの診療所も既に新規受付お断り。家から一番近い、高齢者御用達の総合病院はあと2枠だが火曜日のみ(仕事休みづらい)。かかりつけってほどではないが急病やけがで行きやすい診療所は、来院予約のみ可。ということで、消去法で最後の診療所に電話をかけてからダッシュした。
電話で聞いた時には、来院して予診票を提出し希望の日時を予約する、ということだったが、実際は日時を選ぶ余地はなく、空いている枠に捩じ込まれた。幸運にも、私が一番休みやすく職場にもダメージを与えにくい木曜日が当たった。良かったけど時間が自由にならなかった。第二回の日時は、もしかすると子供の学校行事に当たるかもしれない。そしたらまぁ、学校行事の方を休むしかないけど……。それと接種予約とを天秤にかけたら、次にいつ予約が取れるか、わからないからなぁ。
という訳で、来月の上旬と下旬に予約が取れた。あーよかった。無事打ち終わるまでに感染しませんように……。つい先日、うちの子の小学校の児童が陽性になったばかりで、近所の保育園でも陽性者が出たらしいので、二学期に子供が学校からウイルスを持ち込んでこないか心配。だけど、教育委員会はノーコメ。
我が家で罹患したら一番死にそうなのはヘビスモで肥満体の夫だが、夫はコロナは風邪派で風邪は熱さえ測らなければ気のせいといい張る奴なので、何を言っても無駄。いそいそと予防接種の予約をした私を災害時に陰謀論とか怪しい情報のチェーンメールに振り回される人と同列に見ているので、どうにもならない。放置するしかない。
転売は非難すべき行為なのか?という点よりも、はたして日本で暮らす自分に転売を非難する資格があるのか?という点が気になっています。
別に、転売は避難されるような行為じゃないとか言いたいわけではなくて。非難する資格が自分にあるのかな?という話です。
よく転売屋のせいでPS5が買えないという人がいますが、今PS5が買えないのは、供給量を遥かに上回る需要があるからです。転売屋が居ても居なくても、世の中のPS5の数は変わりませんし、入手できる人の数も変わりません。1人の転売屋がPS5を100個買い占めたとしても、最終的には100人の金持ちの手に渡るわけですから。変わるのはPS5の値段だけです。
仮に転売屋が一切居なかったとしても、今回のように需要が供給量を超えると、買えるのは一部の人間だけでになります。この場合、PS5を買えた人と買えなかった人の差は、「他の人より早く店に行けたかどうか」「抽選に当選したかどうか」だと思います。
ところが、転売屋によって買い占められると、PS5を買えた人と買えなかった人の差は、「他の人より多く金を払えるかどうか」になります。本来なら先着順や運が入手できるかどうかを左右しますが、転売屋が買い占めると、全てが札束の殴り合いへと変化します。お金がある人は、行列に並んでいなくても、抽選に当選しなくても、PS5を手にすることができます。
たまに駅前で「〇〇ちゃんを救う会」という看板を掲げた人たちが募金をしていますが、あの人達がやっていることも本質的には同じです。彼らの求めている募金の金額は大抵の場合2~4億円とかなり高額です。何故こんなに高額になるのかというと、アメリカにおいて臓器移植の順番待ちをスキップする、いわばディスニーランドのファストパスのような枠が設定されており、その権利を世界中の患者がオークションのように競っている状態だからです。
要するに、PS5だろうと臓器だろうと、お金持ちは行列に並んでいなくても、金の力で入手することができます。対してお金を持っていない人は?
なかなか臓器移植の順番が回ってこないので、そのうち死にます。そもそも、順番が来たとしても、手術を受けるお金がなければ死にます。これを不公平だと思う人は少なくないと思います。もし私が臓器移植を待っていて、生きるか死ぬかの瀬戸際でようやく自分に回ってきた臓器を金持ちにぶんどられたら…… そんなの死んでも死にきれません。でも死にます。う~ん辛い。
こんなの絶対おかしい! と思ってしまう一方で、はたして日本で暮らす自分に、「お金を持っている人しかPS5や臓器を入手できない」ことを非難する資格があるのか……?
と思い、私たち日本人は世界的に見てどのような生活をしているかを、昔チェーンメールで流行した「世界がもし100人の村だったら」で考えてみました。
仮に世界が100人の村だった場合、村人100人の1日の収入は下記のようになるそうです。
1人が90ドル以上(1万円~)
https://www.youtube.com/watch?v=QFrqTFRy-LU
村1番のお金持ちの収入は1日1万円以上、2~7番目は1日5560円~1万円となっています。
国税庁の民間給与実態調査によると、2019年における日本人給与所得者の平均年収は441万円になります。ちなみに中央値はだいたい360万円~370万円辺りだそうです。つまり、中央値で考えてみても、一日当たりの収入が約1万円はあることになります。
つまり、仮に世界が100人の村だった場合、一般的な収入の日本人は、村で2番目くらいの金持ちであると言えると思います。(違ってたらすみません)「日本終わった」「日本人は貧しくなった」と盛んに言われていますが、年収200万円のフリーターでさえ上位8位辺りに入るほどですから、世界的に見たら相当な金持ち国家です。
以上を踏まえて、考えてみました。とてつもない額の収入で村で2番目に裕福な暮らしをしている日本人が、「お金を持っている人しか物を手に入れられないのはおかしい」と言っていたら、他の村人たちはどう思うか?
村で2番目に裕福な日本人は、下位15人の村人が一日で稼ぐ金額を5分で稼ぎます。
村で2番目に裕福な日本人は、下位15人の村人が1日で稼ぐ金額を、ソシャゲでガチャを回すのに使います。
村で2番目に裕福な日本人は、下位15人の村人の年収よりも高い金額のiPhoneを、中高生が持っています。
村で2番目に裕福な日本人は、途上国の子どもたちの命を奪うはしかの予防接種用ワクチン2500回分の金額を、5万円のPS5を買うために使います。
そんな村で2番目に裕福な日本人が、「お金を持っている人しか物を手に入れられないのはおかしい」といったら他の村人はどう思うか……
私は日本の中では貧しい方に分類される人間ですが、そんな自分でさえ、あまりにも歪に偏った経済格差の富める側に属しているんだなと再確認させられました。自分は「金を持っている人しか入手できない」という資本主義システムと、金という圧倒的な力を最大限利用し、普段の(あくまで世界的にみたら)豊かな生活を手に入れているのだなと。
お金を持っている人しか物を手に入れられないのはおかしい? それじゃあ、物やサービスを手に入れる必要条件をお金から先着順や抽選制にしたらどうなるか――
そうなった瞬間、私は圧倒的に不足している食料や水を、地球上の77億人と奪い合うことになるわけです。行列の先頭集団に入れないと、抽選に当たらないと、その日食べるものもなければ、医療サービスを受けることもできません。抽選に運良く当たり、PS5を手に入れたとしても、目の前の栄養失調で死にそうな家族のために、PS5を売って食料を買うこともできません。だいぶ辛いです。
別に、こんなに不公平な世界はおかしいとか、ユニセフにもっと募金しようとか、そんなこと言うつもりは全然ありません。「金を持つ人しか物を買えない」というシステムを利用して、(世界的にみたら)裕福な暮らしをしている自分が、同じシステムを利用して稼いでいる転売屋を非難する資格がはたしてあるのか。そこがモヤモヤしてます。自分も転売屋も、自分たちの生活を豊かにするという利己的な理由でこのシステムを利用しています。どこに違いがあるのか。他人に迷惑をかけているかどうか?
転売屋が居てもPS5の数は変わりません。お金を持っている人は相変わらずPS5を買うことができます。コレを迷惑だから平等に分配しろと行った途端、日本で一般的な暮らしをしている人は、自らの資産を平等に分配する側になってしまいます。転売屋からPS5を買える人はお金を持っている人だけですが、そもそも定価5万円のPS5が買える人だってお金を持っている人だけです。100人の村では、上位10位以内の人でないと、定価5万円のPS5を買うことは難しいでしょう。
残りの村人90人からすると、普通に定価5万円でPS5を買っている日本人は、「お金がある人しかPS5を買えないなんておかしい」と思われている側の人間です。転売屋からPS5を買っている金持ちに対して、「お金がある人しかPS5を買えないなんておかしい!平等に分配しろ!」と思うのなら、定価5万円で買ったPS5を下位90人の村人から「お金がある人しかPS5を買えないなんておかしい!平等に分配しろ!」といわれたら、せっかく手に入れたPS5を手放さなければなりません。
みんなで公平に抽選なり早いものがちでPS5争奪戦をしなければならないわけで、自分が入手できる可能性は低くなります。実際はそんなことしませんよね? 私はしません。下位90人の村人がなんと言おうと、PS5は自分で使います。何故そんな事が可能かというと、それは「金を持つ人しか物を買えない」というシステムを、他人に迷惑がかかろうと構わず利用しているからです。「〇〇ちゃんを救う会」と同じように。
「お金がある人しか物を買えないなんておかしい」と思うのなら、「お金がある人しか満足に食事ができないなんてなんておかしい!」と最貧国の人達に言われたら、自分の食費を彼らに渡すのか?
「お金がある人しか物を買えないなんておかしい」と思うのなら、「お金がある人しか学校に行けないなんておかしい!」と最貧国の人達に言われたら、自分の大学の学費を彼らに渡すのか?
自問自答してみますが、もちろん答えはNOです。まだ奨学金払い終わってないし。
別に、自分で稼いだお金は自分のために使えばいいと思います。1万の寿司を食ったっていいし、推しに100万使ったっていい。家族のために使ったっていいし、もちろん募金したっていい。私は世界で一番、自分の事が大切です。1本20円のはしかワクチンで救える命があると知っていても、のどが渇けば自販機で100円のコーヒーを買います。ケチなので躊躇はしますが。
1本20円の予防接種用ワクチンが買えなくて死んでいる子供がいるこの世界において、「金を持つ人しか物を買えないなんておかしい」と思ったら、定価でPS5を買うことも、子供にランドセルを買ってやることも、1本100円の缶コーヒーを買うことだってできなくなってしまいます。
あなたがこの文章を読んでいる間に、75人の子供が栄養失調で亡くなりました。
という現実を私は知っていますが、たまに気まぐれでコンビニのお釣りを募金箱に入れるくらいで、お金は自分の好きなように使います。ゲームもお菓子も買います。見たい映画を見て、読みたい本を買います。
でも、だからこそ、「お金を持っている人しか物を手に入れられないのはおかしい」なんて、そんなことは言える立場じゃないよなあと、そう思いました。