はてなキーワード: 1991年とは
何も考えんと見るアクションコメディアニメとして見れば80点くらいだと思うんだけど、
ある種の社会風刺アニメとして見ると現代の感覚だと60点くらいかもしれない。
スタッフに言及しだしたらオタクという俺の中での線引きがあるのだがさすがに言及せざるを得ない。
大友克洋、北久保弘之、江口寿史、磯光雄、今敏、神山健治、黄瀬和哉とその後のアニメ業界を牽引、今でも第一線で監督として活躍するメンツが様々な役職で参画している。
なので(かどうかは知らんけど)、アニメーション作品としては非常によくできているし見応えもある。
アクション、コメディがバランス良く配置され最終的にちょっとエモい感じになって最後爆笑で落とす構成も見事。
主人公の一人の実験体老人「喜十郎」が最後に「お迎えが来た」と呟き、もう一人の主人公の「晴子」が「何言ってんの」と返すと、地響きが鳴り響く。外に出るとロボット化した鎌倉の大仏様が。みんなで合掌。ゴーンと鐘が鳴り響いて暗転。
作画も延々といいし、アクションも素晴らしい。アニメーション作品としては申し分ない出来だと思う。
社会風刺としても、高齢化自体は1970年代から始まっており徐々に問題視されてきていたが一気に爆発したのが1990年の1.57事件からになるので、それを1991年公開の作品で取り扱っているのはかなりフットワークが軽い。
また介護問題へのアイロニーが効いているテーマ性は現代においても他人事ではないし、老人が操作する(実際にはしてないんだけど)移動機械が大暴走し多大な被害を出すという展開は、昨今のプリウスミサイルを彷彿とさせる。逆にプリウスミサイルがある現代に生きているのでむしろ老人に対する偏見を助長するのでは?と思ってしまった部分はある。
個人的に一番気になったのは介護、看護に献身的に取り組む主人公の晴子が介護先の喜十郎をずっと「おじいちゃん」と呼び続けること。俺が福祉の現場に入ったことがあるからかもしれないけど、現代の基準で言えばかなりグレーというか、よくないとされていることなのでずっと引っかかってしまった。まぁ本人が「おじいちゃん」って呼んでくれって言ってたんなら別にサービスとしてそれでいいんだろうけど、基本は「喜十郎さん」だよなぁと。
まぁ1990年以前の価値観だとそれで問題なかったんだろうけど、なんかモヤモヤ。
あとはこの作品ってそういう内容でよかったんだっけ?と感じたのは、この作品は老人介護用全自動ロボットが老人の夢をかなえるために鎌倉の海に向かって大暴走するという話なんだけど、この原因を作ったのは実は主人公側であるという部分。
厚生省(今は亡き)が介護老人を全自動で強制介護するマシンを作成し喜十郎をモニタに選ぶ。主人公はそれに反発し、自身が勤める病院に入院していた凄腕ハッカー老人集団と結託しマシンをハッキング、喜十郎の妻の声を再現して喜十郎に呼び掛ける。その結果、喜十郎の深層心理にあった「奥さんとの思い出の海に行きたい」を汲んだマシンのOS内に喜十郎の奥さんの人格が形成され海に向かって暴走を始める。
そのOSはペンタゴンが開発した軍事転用可能なもので、介護用と言いつつも軍事技術のデータ集めに使われていたのだ!なんてひどい話なんだ!としてそのOSを提供した会社が悪役になって最終的に逮捕されて終わるんだけど、いや、これ、暴走の原因の4割くらいは主人公たちにあるよね?
俺がマッチポンプ系作品が嫌いなのもあるんだけど、すげー気になってしまった。
いや、そうしなきゃ喜十郎は機械に繋がれて生命を繋ぎ留められるだけの物体になってしまっていたわけで、やむを得ない行為だったってのは理解できるんだけど、その代償としての被害規模がデカすぎんか。
というのが一番のモヤモヤ。
こういう作品だと役所の人間って非人間的なカスとして描かれがちだけど出てくる厚生省の役員は「本当に老人の介護問題を何とかしたい」という熱意に燃えていてそこに付け込まれてしまったという形で、マシンの問題に気付いてからは主人公側で一緒に戦う展開になるというのは性善説的で非常によかった。
あと今となってはウルトラトレスマンとして永久に叩かれている江口寿史のキャラデザは素晴らしく、主人公はかわいくサブキャラに至るまでみんな魅力的。
創価学会、顕正会、立正佼成会などの議論を呼ぶ仏教団体は日蓮宗に起源を持ちます
これらの団体は、13世紀の日本の僧侶である日蓮(1222–1282)が創始した日蓮仏教にそのルーツをたどることができます。日蓮は、法華経を唯一の正法と主張し、他の宗派と対立しながら独自の教えを広めました。この教えが後の分裂や派生を生み、さまざまな団体が誕生する土壌となりました。
ただし、「日蓮宗」という名称は現代の組織化された宗派を指す場合が多く、歴史的に日蓮の教えから派生したすべてのグループが現在の「日蓮宗」傘下にあるわけではありません。それぞれが独自の解釈や発展を遂げてきたため、厳密には「日蓮仏教の系譜」に属すると表現する方が適切かもしれません。
創価学会は、1930年に津田三男(後の創価教育学会の創設者)によって設立されました。
当初は教育団体として始まりましたが、後に日蓮正宗(日蓮宗の一派)の信徒団体として活動を拡大しました。
1940年代に戸田城聖が指導者となり、戦後の混乱期に急速に成長しました。
しかし、1991年に日蓮正宗から破門され、現在は独立した宗教団体として運営されています。この破門は、創価学会が日蓮正宗の信仰から逸脱し、独自の路線を進んだことが原因とされています。
1964年に公明党(現在の公明党)を結党し、政治に直接関与するようになりました。公明党は平和主義と福祉政策を掲げ、現在も連立与党として日本の政治に影響を与えています。
2020年時点での会員数は約800万人とされ、選挙での組織票が大きな力となっています。一方で、強引な勧誘方法(折伏)と政治的影響力から「カルト的」と批判されることもあり、特に1990年代の池田大作名誉会長に関する議論が注目されました。
顕正会は、1960年代に日蓮正宗の内部で活動していた浅井甚三郎が、宗派の方針に反発して分派したことから始まりました。
日蓮正宗が創価学会との関係を断つと、浅井は独自の解釈(特に「邪宗排除」の主張)を展開し、1969年に正式に独立しました。日蓮正宗の総本山である大石寺を拠点とする点で歴史的つながりがありますが、現在は対立関係にあります。
顕正会は直接的な政治組織を持たず、選挙への候補者擁立も行っていません。しかし、過激な宗教的発言やビラ配布を通じて社会への影響力を試みており、一部で政治的圧力団体としての側面が指摘されています。会員数は明確な統計がなく小規模とされていますが、熱心な信者が社会問題に介入するケースが見られます。
立正佼成会は、1938年に庭野日敬によって創設されました。霊友会という既存の宗教団体から分離し、日蓮の教えに基づく法華経信仰を軸に発展しました。戦後、平和運動や他宗教との対話を重視する姿勢で知られ、創価学会や顕正会とは異なる穏健な路線を歩んでいます。
立正佼成会は直接政党を結成していませんが、新日本宗教団体連合会(新宗連)を通じて政治に影響を与えてきました。1950年代以降、自民党や民社党などの候補者を推薦し、参議院選挙で組織票を動員してきました。
2017年の衆議院選挙では119人の推薦候補が当選するなど、間接的な政治的影響力を持っています。また、靖国神社参拝反対などの平和主義的な立場から、特定の政治課題で発言を行うこともあります。信者数は2023年の文化庁「宗教年鑑」によると約180万人とされています。
これらの団体は、いずれも日蓮の教えに起源を持ちながら、異なる歴史的経緯と教義解釈を経て独自の道を歩んできました。政治への関与度は創価学会が最も強く、公明党を通じて明確な影響力を持つのに対し、顕正会は限定的で、立正佼成会は間接的かつ穏健なアプローチを取っています。
最低賃金の推移が
2024年/令和6年度 1,163円
この頃、とんねるずの番組で素人女性が相手の理想年収は1,000万円と言ってた時代。
つまり何が言いたいかというと、あの頃の年収1,000万円と同じ価値は既に年収2,000万円になってるって事
夫婦共働きで世帯年収1,000万円がパワーカップルだぁとかいわれても、昭和後期〜平成初期のサラリーマンの亭主元気で留守がいいとかCMで言われてた専業主婦orパート主婦家庭の世帯年収500万円相当でしか無い訳で。
「1,000万でも楽にならないし庶民」とかを批判的にとられても困るというか、
世帯年収基準が平成初期に設定されたままの水準なのがおかしい。
1988年 - 『パロディウス 〜タコは地球を救う〜』(MSX、2006年iアプリ、2007年S!アプリ、2010年Wii バーチャルコンソール、2013年Wii U バーチャルコンソール, 2014年PC EGG)
1990年 - 『パロディウスだ! 〜神話からお笑いへ〜』(アーケード、1991年ファミリーコンピュータ・X68000、1992年ゲームボーイ・PCエンジン・スーパーファミコン、2003年iアプリ・S!アプリ、2006年EZアプリ(BREW))
1994年 - 『極上パロディウス 〜過去の栄光を求めて〜』(アーケード、1994年スーパーファミコン)、2007年iアプリ
1994年 - 『極上パロディウスだ! DELUXE PACK』(プレイステーション、1995年セガサターン) - 『パロディウスだ! 〜神話からお笑いへ〜』と『極上パロディウス 〜過去の栄光を求めて〜』のカップリング。
1995年 - 『実況おしゃべりパロディウス』(スーパーファミコン)
1996年 - 『セクシーパロディウス』(アーケード、プレイステーション、1997年 セガサターン)
1996年 - 『実況おしゃべりパロディウス〜forever with me〜』(プレイステーション、セガサターン) - SFC版『実況おしゃべりパロディウス』のリメイク作品。
そこはかとなく土人みを感じると思ったら35年前か
医療関係者によると、「カリフォルニアから来た娘」は高齢患者の生活やケアから遠ざかっていたため、患者の悪化の程度にしばしば驚かされ、医学的に可能なことについて非現実的な期待を持ってしまうことにある。 また不在であったことに罪悪感を感じ、再び介護者としての役割を果たそうとする心理もある[2]。
2015年に出版された『ザ・カンバセーション』(原題:The Conversation)では、アメリカの医師アンジェロ・ヴォランデスは、これを「罪悪感と否定」であり、「必ずしも患者にとって最善であるとは限らない」としている[3]。
この言葉は、1991年に米国老年医学会誌に発表されたウィリアム・モ−ロイ博士と同僚たち老年医学者の集団による「無能な高齢者の意思決定:『カリフォルニアの娘』症候群」と題する症例報告で、初めて注目された。ウィリアム・モ−ロイ博士と同僚たちは、精神的無能力(意思疎通困難状態)な患者の気難しい家族に、医療スタッフがどのように対処するかの方策をこの論文内で提示した[4]。
Dr.スランプ アラレちゃん
放送時期:1981年4月 - 1986年2月 / 話数:全243話
放送時期:1997年11月 - 1999年9月 / 話数:全74話
放送時期:1983年10月 - 1986年3月 / 話数:全128話
放送時期:1994年10月 - 1995年12月 / 話数:全47話
放送時期:2001年10月 - 2002年10月 / 話数:全52話
放送時期:2018年4月 - 2019年9月 / 話数:全52話
放送時期:1989年4月 - 1996年1月 / 話数:全291話
放送時期:第1期 2009年4月 - 2011年3月 / 第2期 2014年4月 - 2015年6月 / 話数:全159話
ドラゴンクエスト ダイの大冒険(第1作)
放送時期:1991年10月 - 1992年9月 / 話数:全46話
ドラゴンクエスト ダイの大冒険(第2作)
放送時期:2020年10月 - 2022年10月 / 話数:全100話
放送時期:1996年1月 - 1998年9月 / 話数:全94話
放送時期:第1期 2023年7月 - 12月 (全24話) / 第2期 2024年10月 - 2025年3月 (全23話)
放送時期:2000年4月 - 2004年9月 / 話数:全224話
HUNTER×HUNTER(第1作)
放送時期:1999年10月 - 2001年3月 / 話数:全62話
HUNTER×HUNTER(第2作)
放送時期:2011年10月 - 2014年9月 / 話数:全148話
シャーマンキング(第1作)
放送時期:2001年7月 - 2002年9月 / 話数:全64話
SHAMAN KING(第2作)
放送時期:2021年4月 - 2022年4月 / 話数:全52話
こうして見ると「さすがアニメがリメイクされる作品群!」というラインナップの中にありながら、封神演義が二度もアニメ化されていない()というのは悲しいものだ。
『恋のドッグファイト』(こいのドッグファイト、英: Dogfight)は1991年のアメリカ合衆国のドラマ映画。 リヴァー・フェニックスが残した恋愛映画。戦争映画。共演リリ・テイラー
戦場シーンを最小限に抑え、戦後別人のように雰囲気の変わったエディのセリフはほとんどなく、最後のリヴァー・フェニックス(エディ)の表情だけで戦争がどういうものか伝えようとしている。
醜い女の子を競わせ踏みにじる。けれど本当に踏みにじられるとはどういうことなのか。取り返しがつかないとはどういうことなのか。
リヴァー・フェニックスの映画の中で最も過小評価されている作品といわれ一般の知名度が低い。当時、試写で若者に不評だったため全米では限定公開しかされず、日本でも劇場未公開作品。2024年4月、海外でBlu-rayになり[1]、「小さな宝石」といわれる特徴を持ち、無名の名作としてファンの間で評価が高い[2][3]。
男性向け性表現にしても、様々な議論が行われてきたし、「CHOISIR」でもそのことは取り上げられている。やおい論争が始まる前の「CHOISIR」14号(1991年10月)では、有害コミック騒動について、高松久子氏が集会のレポートを書いている。
https://wan.or.jp/dwan/detail/6206
「9・28誰が決めたの、「有害」コミック!? 集会のあとで・・・・」(p.2)
9月28日「有害コミック」問題で集会をもった。早稲田奉仕園で開いた集会には約140名が参加し、7時間あまりにわたって様々な問題が話し合われた。
(中略)
私が今回の集会に、主催者の一人として加わったのは、第一に、今回の規制の動きが、「性の商品化」批判を織り込みながらなされてきたという事実(弾圧の口実に、「性の商品化」批判が利用された)、そして第二に、「行動する女達の会」を始めとするフェミニストの「性の商品化」批判の言説に私自身違和感を持ちつつもフェミニズム内部でそれを問題にできてこなかったという苦い思いから来ている。
もっとも、高松久子氏は性差別表現は良くないという立場なので、やおい論争で「ゲイへの加害性への認識。また、そのうえでの対応」を求められても答えを出せなかった。
総括にあった対応の第3の選択肢「受容しつつ現状を肯定すること」を選ばず、第1の選択肢「反論」を選んで失敗し、今度は第2の選択肢「弁明」を選んだために論理矛盾に耐えられなかったのではないかと思う。
男性オタクが「即座にクレームを却下して一笑にふす」ように見えるのは、有害コミック騒動などのように過去の議論の蓄積があることと、総括でいう第2の選択肢「弁明」を選ぶ人が少ないからだと思う。
文庫版は瀬野が小澤を誘導するための仕掛けが施されており、瀬野が用意した原稿は意図的な加工がされていることを考慮する必要がある。
また怪異に関わったものは「そのこと自体を忘れる」傾向があるため、インタビュー内容が同じになったり、小澤が小沢くんのことに思い至らなかったりする。
瀬野が積極的に怪異について調べながらも今まで無事でいられたのは
もしかしたらカクヨム・単行本版の後日談としての文庫版なのでは?と思って合体させた年表にしてみたものの、Q休刊の時期が全く違ったのでマルチバース確定です。解散。
安野たかひろ :1990年生まれ。東京大学工学部システム創成学科卒。ボストン・コンサルティング・グループ。
高山さとし :1986年生まれ。灘中学・高校卒、慶應義塾大学経済学部卒。ボストン・コンサルティング・グループ。
稲原むねよし :1989年生まれ。東京大学工学部卒。日本IBM。
角野なすか :1989年生まれ。東京大学工学部卒。リクルート。
小林しゅうへい:1990年生まれ。千葉商業高校卒。株式会社ドワンゴ。
みねしま侑也 :1990年生まれ。開成高校、東京大学法学部卒。ゴールドマン・サックス。
河合みちお :1990年生まれ。東京大学文学部卒。教育系企業。
山田ゆうじ :1990年生まれ。東京大学大学院卒。開成中学校・高等学校教員。
川端ゆうすけ :1990年生まれ。東京大学経済学部卒。総務省。
古川あおい :1991年生まれ。東京大学法学部卒。カリフォルニア大学バークレー校情報大学院卒。
前田みさ :1992年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。P&G Japan。
まあ、そういう政党なんだろうな。
自分は1991年生まれで、初めて触ったパソコンはWindows95だった。
父親が「これからはみんながパソコンを使う時代が来るから」と小学校に上がる前の私にも自由に触らせてくれた。お絵描きソフトでマウスで絵を描いた記憶がある。
そのおかげか、これまでパソコンや電子機器の扱いで困った経験がほとんどない。まぁ低レベルな集団の中では比較的マシ、ぐらいの技能ではあるが。
私の仕事は医療系でパソコンが得意じゃなくてもそれほど困りはしないんでけど、たまに教育資料を作ったりとか委員会の議事録を作ったりはするので人並みに扱えてよかったと思う。
はてなを書くときか、これまではスマホでぽちぽちしてたけど、やっぱりちまちましてめんどくさ!となるので夫に使ってないワイヤレスキーボードかなんかない?って聞いたら箱に入ったMagic Keyboardが出てきた。一緒に入っていたコードはライトニングとUSB-Aだった。使ってないんかい。
入力していると勝手に変換されていくモードが初期設定になっていて違和感がすごかった。(こういう新しい技術を嫌厭してばっかりだと時代に取り残されそうだな…と思いつつ、ライブ変換はオフにした)
あとAppleのキーボードを使うの初めてだからショートカットがいつもと違ってまだ慣れない。
あとキーボード使ってるとマウスも使いたくなる。夫のデスクに使ってないやつがある気がするので、今度聞いてみようと思う。
慣れないキーボードを触りながら、そういえば父親は親指シフトのキーボードを使っていたことを思い出した。
「今主流になっているかな配置と親指シフトの配置のキーボードがあって、親指シフトの方は流行らなかったんだよね。お父さんそっちで覚えちゃったんだけど」みたいなことを言っていた。
今から親指シフト配置で覚えると修正するのに苦労するからローマ字で入力するようにしなよ、と教えられた。
それなりに先見の明があるようだったが、たまに逆張りして外したりする。そういう人だった様に思う。
父は糖尿病を患っていたが、医者と喧嘩をして病院にかかるのを辞めてしまい、その10年後に突然死した。
父は私を可愛がってくれたけど、私は父のデリカシーのなさや自分に都合のいい話しか聞き入れないところが苦手で、遠方に就職してからはあまり帰らなくなった。
「長生きしたいんだ」と言って、肉をたくさん食べていた父。反マスク主義で、マスクをつけずに入店拒否されて憤りながらも自分の信念は曲げなかったらしい。
昔からそういうところはあったけど、歳をとってどんどん頑なになっていった様に思う。
私は父が死んだことに心を動かされなくて、ただ人に迷惑をかけるような最期じゃなくてよかったな、と思った。
自分のやりたいふうに太く短く生きるというのも、天晴れとも言える。一緒に暮らしていた母はたまったもんじゃなかったかもしれんが…
色々思い出しながら、父にどんな言葉をかけてあげればよかったか少し考えたが、何も浮かばなかった。多分娘の私が何を言っても父は行動を変えなかったと思う。
私にとっては母づてに話を聞く程度がちょうど良い距離感だった。
父は多分寂しい思いをしていたと思うが、私は自分の気持ちを優先させた。そういうところ、やっぱり親子で似てるんだろうなと思う。
新しいキーボードに早くなれようと思って取り止めもない思い出話をぽちぽち書きました。
読んでくれた人はありがとね。
フランク・キャンパーという元ベトナム退役兵が1980年代に傭兵学校を設立しました、並木書房から日本人の参加ルポが出ていたと思いますがその詳細を教えてください
エコー・イン・ジャパン:フランク・キャンパー、並木書房、そして傭兵の呼び声に応えた日本人
ご質問の内容は、単なる書籍の問い合わせにとどまらず、1980年代の日本における特異な文化的モーメントを映し出す歴史的アーティファクトである。この時代、日本では軍事、特に傭兵や特殊部隊といったロマンチックかつ危険な世界への大衆的関心が急激に高まった 1。この熱狂は、落合信彦氏のような作家が手がけた「スーパードキュメント」と呼ばれるノンフィクションによって大きく煽られた。特に、氏の著作『傭兵部隊』はフランク・キャンパーを大きく取り上げ、後の日本人参加者を含む当時の若者たちに強烈なインスピレーションを与えたのである 1。
本報告書は、ご質問者が記憶されている「日本人の参加ルポ」と完全に一致する一冊の本は存在しないものの、その記憶がフランク・キャンパー、高橋和弘、毛利元貞といった人物、並木書房による出版物、そしてキャンパーの学校とその「後継」組織という、相互に関連し合う魅力的なネットワークを指し示していることを明らかにする。その全貌は、一個人の参加報告よりもはるかに複雑で、示唆に富むものである。
この現象を解き明かす上で、並木書房の役割は極めて重要である。同社は単に受動的な出版社ではなく、日本の市場に向けて「傭兵」や「サバイバル」といった特定のサブジャンルを積極的に開拓・形成した「キュレーター」であった。まず、1990年に高橋和弘訳によるフランク・キャンパー自身の著書『ザ・マーセナリー』と『ザ・ラープ』を出版し、日本におけるキャンパーのブランドを確立した 9。同年、その翻訳者である高橋自身の体験記『USサバイバル・スクール』を刊行 14。これは、確立されたキャンパーのブランドと翻訳者の信頼性を利用して、新たな日本のオリジナル作品を市場に投入する戦略であった。翌年には、キャンパーが象徴する世界に直接繋がるもう一人の日本人、毛利元貞の『傭兵修行』を出版した 15。この一連の流れは、海外の著名な人物を輸入してブランド化し、次にそのブランドに連なる国内の物語を発掘・出版することで、ニッチな市場全体を掌握するという、並木書房の意図的な戦略を示している。
1.1. 論争の的となった経歴:兵士、情報提供者、そして神話の創造者
フランク・キャンパーの公的なペルソナと、彼が設立した傭兵学校の信頼性の核となっていたのは、その軍歴であった。彼は自身をベトナム戦争に従軍した第4歩兵師団の長距離偵察パトロール(LRRP)隊員であると主張し、そのエリートとしての経歴を喧伝した 17。この物語は、後に日本で『ザ・ラープ 長距離偵察部隊』として翻訳・出版される自著『LRRP: The Professional』によって、さらに補強された 10。
しかし、1985年に公開された公式の軍記録は、彼が歩兵およびトラック運転手として訓練を受けたと記しており、その経歴に疑問を投げかけた 17。この矛盾は、1988年にキャンパー自身が上院小委員会の公聴会で証言したことにより、ある種の解決を見る。彼は、軍事情報部、CIA、ATF(アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局)、FBIとの「高度な機密指定を受けた経歴」を明らかにし、矛盾する記録は情報機関によるカバーストーリーであったと説明した 19。彼によれば、1970年から秘密情報提供者として活動し、アメリカ共産党(CPUSA)やアラバマ黒人解放戦線(Alabama Black Liberation Front)のような組織に潜入していたという 17。この兵士と情報提供者という二重のアイデンティティこそが、彼の行動を理解する上での鍵となる。
1.2. マーセナリー・スクール(1980年-1986年):準軍事的事業の実態
1980年、キャンパーはアラバマ州ドロマイト近郊で「マーセナリー・スクール」を開校した。当初、実地訓練はフロリダで行われていたが、原子力発電所付近での不法侵入容疑による逮捕後、拠点をアラバマ州ジェファーソン郡のウォリアー川沿いにある77エーカーの森林地帯に移した 17。
学校は『ソルジャー・オブ・フォーチュン』のような軍事雑誌で宣伝され、2週間のコース料金は350ドルから500ドルに設定されていた 17。訓練内容は、体力トレーニング、銃器の取り扱い、白兵戦、ナイフ格闘術、サバイバル技術、ランドナビゲーション(地図判読)、E&E(脱出と回避)、爆発物、ブービートラップの設置など、多岐にわたった 1。機密解除されたCIAの文書には、司令部であった「バンカー」の様子や、実弾が飛び交う中で行われた「ライブ・ファイア」演習の生々しい記述が残されている 22。
キャンパーは学校設立の理念として、米国政府のための情報収集と、将来的な協力者となりうる外国人の資質を見極めることの2点を挙げていた 21。これは彼が担っていた情報提供者としての役割と一致する。しかし、批評家たちからは、この学校は単なる「大規模なペイントボール・ゲーム」に過ぎないと揶揄されてもいた 17。
キャンパーの学校は、単に軍事技術を教える場にとどまらず、国際的なテロリズムや犯罪と深く結びついていた。
1984年から85年にかけて、4人のシーク教徒過激派がこの学校で訓練を受けた 17。キャンパーは彼らに武器や爆発物の使用法、暗殺技術を指導した 21。彼は、当時インドのラジブ・ガンジー首相の訪米に合わせた暗殺計画を阻止するため、FBIと協力しておとり捜査を進めていたと主張している 17。しかし、このおとり捜査の網をすり抜けた2人の訓練生が、キャンパーの学校から盗まれたとされる爆発物を使用し、1985年に329名の命を奪ったエア・インディア182便爆破事件を実行した 21。キャンパーは後に、容疑者全員を逮捕できなかったのは、自身が提供した情報が関係機関によって不適切に扱われたためだと非難した 21。
学校の終焉を決定づけたのは、1985年にキャンパーと3人の教官がカリフォルニア州の学校経営者から依頼を受け、元従業員の車に爆弾を仕掛けた事件であった 21。彼らは1986年5月に逮捕され、この逮捕がアラバマ州司法長官に、州の私立学校免許なしで運営されていた同校を閉鎖する法的根拠を与えた 17。キャンパーは有罪判決を受け、14年の懲役刑を宣告されたが、実際には5年半服役し、1991年12月に釈放された 17。
この一連の出来事は、マーセナリー・スクールが単に犯罪者が集う場であったという以上に、より複雑な本質を持っていたことを示唆している。キャンパーが公言していたように、この学校は米国政府のための情報収集を目的とした「ハニーポット(蜜の壺)」として構想され、運営されていた。その設計思想自体が、過激派や犯罪者を引き寄せるものであった。彼は実際に、ナイジェリアへの武器密輸計画やKKK関連のクーデター計画など、訓練生の違法行為を当局に通報し、逮捕に貢献している 17。シーク教徒の事件に関するFBIの宣誓供述書にも、アラバマ州の「信頼できる情報源」からの通報があったことが記されている 22。
しかし、このモデルは致命的な欠陥を抱えていた。エア・インディア機爆破事件は、この「ハニーポット」戦略が破綻した最悪の事例である。キャンパーが教えた技術は、彼が仕掛けたおとり捜査の網をすり抜けたテロリストによって、悲劇的な形で実行されてしまった。したがって、この学校の遺産は単なる犯罪の歴史ではなく、国家による情報収集活動が民間委託され、危険な個人を「育てる」ことと「罠にかける」ことの境界線が曖昧になった結果、大惨事を引き起こした高リスクな秘密工作の失敗例として記憶されるべきである。学校の存在そのものが、ある種の秘密工作の一環であり、その破綻は、その機能から直接的にもたらされた必然的な帰結であった。
2.1. 直接的な回答:高橋和弘の『U.S. Survival School』
ご質問者が記憶されている「日本人の参加ルポ」に最も直接的に該当するのが、高橋和弘氏による著作である。高橋氏はアウトドアやサバイバル技術に造詣の深い日本のライター兼翻訳家であり、並木書房から出版されたキャンパーの著書の日本語訳も担当していた 9。
1990年、並木書房は彼のオリジナル著作『USサバイバル・スクール―極限の野外生存術』を出版した 14。この本こそが、ご質問の核心に触れる一次資料である。本書は、高橋氏自身がアメリカに渡り、8つの異なるサバイバルおよび軍事系スクールに参加した際の体験を綴った一人称のルポルタージュであり、その第3章が「傭兵学校―マーク・スクール(MS)」と題され、ユーザーが記憶する詳細な参加報告が記されている 14。
2.2. 決定的な繋がり:「マーク・スクール」と教官「ピート」
重要なのは、高橋氏が参加した「マーク・スクール(MS)」が、1986年に閉鎖されたキャンパーのアラバマの学校そのものではないという点である。調査によれば、この学校は、フランク・キャンパーの元アシスタント教官であった「ピート」という人物が新たに設立した「後継」の学校であったことが特定されている 2。この事実は、毛利元貞氏のWikipediaページの脚注において、高橋氏自身の著書『USサバイバル・スクール』を典拠として明記されている。「スペシャル・アサルト・スクール」とも呼ばれたこの後継学校は、ミシシッピ州に拠点を置いていた 2。
この事実関係を整理することで、ご質問者の記憶の謎が解ける。記憶は機能的には正しく、しかしキャンパーという著名な名前と、実際に日本人が報告した学校とを混同していたのである。その報告は、キャンパーの弟子が運営し、キャンパーを中心としたカタログを構築していた並木書房から出版された、「キャンパー・スタイル」の傭兵学校に関するものであった。つまり、ご質問者の記憶の核心は正しく、その背景には直接的な血脈が存在していた。1990年当時の読者にとって、キャンパー本人の学校と、その直系の後継者が運営する学校との区別は些細なものであり、体験の「精神」はキャンパーの遺産そのものの延長線上にあったのである。
この物語には、もう一人の重要な日本人が登場する。1964年生まれの毛利元貞氏である 2。彼もまた落合信彦の『傭兵部隊』に触発され、より実践的な経験を求めて自衛隊、そしてフランス外人部隊へと進んだが、いずれも脱走している 2。
彼の探求は、アメリカでピートが運営するミシシッピ州の「スペシャル・アサルト・スクール」へとたどり着く。しかし、彼は参加者としてではなく、その卓越した技能を認められ、同校の「教官」となった 2。1991年、並木書房は彼の体験をまとめた『傭兵修行―世界に冒険を求めて』を出版した 15。この本は、ジャーナリスト的な参加者として訪れた高橋氏の視点とは対照的に、組織のスタッフとして完全に内部に溶け込んだ日本人の視点から描かれた、ユニークで並行する報告となっている。
高橋氏と毛利氏の物語は、このアメリカのサブカルチャーに対する日本人の二つの異なる関与の形を象徴している。高橋氏は、体験し、記録することを目的とした「観察者・記録者」であり、その役割は本質的にジャーナリスティックであった 14。一方、毛利氏は、その世界を報告するだけでなく、自ら生きることを目指した「実践者・求道者」であり、その目標はプロフェッショナルになることであった 2。並木書房がほぼ同時期に両者の著作を出版したことは、同社が、体験談を読んで楽しみたい「 armchair enthusiast(安楽椅子探偵)」層(高橋の読者)と、自らもそうなりたいと夢見る層(毛利の読者)の両方を読者層として認識していたことを示唆している。二人の本は、日本の「傭兵ブーム」が内包するファンタジーの全スペクトラムに応えるものであった。
著者/翻訳者
年
関連性
Merc: The Professional
1990
キャンパー自身の傭兵としてのキャリアを語り、日本での彼のペルソナを確立した 9。
LRRP: The Professional
1990
宮城の牡鹿諸島にふぐり(orへのこ)島っていう島ある? 調べても出てこない
門構えに由で「ふぐり」って読むらしい(何で?)
https://mimiu.net/k/bute.php?q=2B51E
https://www.weblio.jp/cat/culture/ntsmj
「フグ根」があった
https://www.weblio.jp/content/フグ根?dictCode=NTSMJ
がフグ根はこれ以外にヒットなし
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0004990399_00000
https://www.chowari.jp/sp/dictionary/detail.php?c=142#:~:text=海底の地形が複雑,ものが人工漁礁です%E3%80%82
ふぐり島をサーチしても出てこないからマイナーな無人島かな?と思ったけど無人島行きまくってる人のサイト見ても載ってない
俗称も載っけてくれてるけど全部違った
https://shimanosanpo.com/04/index.htm
ここまで調べてみての仮説
https://dictionary.goo.ne.jp/word/陰嚢_%28ふぐり%29/
仮説①
松島とか松がいっぱいある(松島町の町木でもある、男性的なイメージらしい)から松かさ→ふぐり説
https://www.town.miyagi-matsushima.lg.jp/index.cfm/7,195,19,417,html
でも別の意味が強いし下品だから現存していないとか?てかそもそも牡鹿諸島じゃないし
仮説②
元の語源と一緒で
袋島→ふぐり島に訛った
あなた:
ChatGPT:
バブル期(1980年代後半)の日本でなぜ金融引き締めが行われたのか――その理由は、過熱する資産バブルの抑制とインフレ懸念にあります。以下、背景と目的を分かりやすく説明します。
1980年代後半、日本は歴史的な好景気にありました。以下のような現象が起きていました:
株価:日経平均が1989年末には約39,000円に到達(1985年頃の約2倍以上)。
地価:東京の地価が急騰。「山手線の内側でアメリカ全土が買える」と揶揄された。
融資:土地を担保にすれば簡単に巨額の融資が受けられ、資金が株や不動産市場に流れ込む。
この背景には、1985年のプラザ合意を受けて進んだ円高→景気後退→それを下支えするための金融緩和(低金利政策)がありました。
■ なぜ金融引き締めに転じたのか?
銀行も無理な融資をどんどん行い、「土地神話」に基づいた投機が加速。
バブル崩壊による後の損害が懸念されたため、「今のうちに冷やそう」という判断。
消費者物価はそれほど上昇していなかったが、資産価格インフレ(バブル的インフレ)は深刻。
このままでは社会全体が不健全な投機に傾き、崩壊リスクが高まると判断された。
日本銀行は1989年5月から1990年8月までに、公定歩合を2.5%→6.0%へと急激に引き上げ。
融資規制:「総量規制」と呼ばれる、銀行による不動産向け融資の抑制も実施。
地価:数年かけて下落。担保価値の崩壊により不良債権問題が表面化。
経済:企業や銀行がバランスシート調整(借金返済・資産売却)を迫られ、長期的なデフレ経済に突入。
■まとめ
日本銀行がバブル期に金融引き締めを行ったのは、投機的な資産価格の高騰を抑え、経済の健全性を守るためでした。しかし、その対応が遅れ、かつ急激だったことで、バブル崩壊を加速させ、長期不況の引き金にもなったという評価がなされています。
興味があれば「なぜもっと早く・緩やかに引き締めなかったのか?」という政治との関係や、日銀内部の議論についても解説できます。
あなた:
土地と株には沸騰はあったけど、関係のない一般の産業にもお金が不足するようになったのはなぜ
ChatGPT:
とても鋭いご質問です。
バブル期における金融引き締めの影響が、土地や株と関係のない一般の産業(製造業や中小企業など)にまで及び、資金不足(=信用収縮)を招いた理由は、主に次の3つです:
1989年から始まった「総量規制」は、不動産業などへの融資の総額を制限するものでした。しかし、実際には:
リスクを避けるため、「関係ない業種」にも融資を渋るようになった。
結果として、資金需要のある健全な企業や中小企業にまで貸し渋りが発生しました。
銀行は「貸しすぎている」と判断し、企業に返済の前倒しや追加担保を要求。
バブル崩壊で、銀行は不良債権(返ってこない融資)を大量に抱えることに。
そのため、「自己資本比率の維持(BIS規制)」を守るため、融資をどんどん縮小。
→ この結果、すべての業界で資金供給が細るという現象が起きました。
バブルが崩壊しても、日銀はしばらく高金利を維持していた(1991年頃まで)。
政府も、当初は「自己責任」や「市場の調整力」に期待して介入をためらった。
結果として、企業の倒産が続出し、景気は底なし沼に突入しました。
■まとめ
金融引き締めと総量規制の副作用で、銀行が貸出を全体的に抑制したから。
担保価値の下落で、企業の資金調達能力が実質的に低下したから。
つまり、「バブルのツケを払わされ、被害が経済全体に波及した」というわけです。
さらに知りたいテーマ(例:日銀の判断ミスや、BIS規制、当時の政治の対応)などあれば、深掘りできます。
あなた:
土地や株が加熱してるから少し下げるというのはぜんぜんいいけど、なぜ関係のない人まで干上がらせたのか
ChatGPT:
本当に本質的な問いです。
そしてその疑問は、当時を生きた中小企業経営者や労働者たちの「実感」と完全に一致しています。
ではなぜ、「土地や株の加熱だけを冷ますつもりだったのに、関係のない人まで干上がった」のか?
これは単なる技術的ミスではなく、政策判断の誤りと構造的な金融システムの限界が重なった結果でした。
✅ なぜ“そこだけ”を冷ませなかったのか?
日銀がコントロールできるのは 金利やマネーの量(通貨供給量) という「経済全体にかかるレバー」。
しかし、金利を上げたり貸出を制限すれば、株や不動産以外の分野にも等しく冷水を浴びせる。
つまり「熱いところだけ狙って冷やすことが構造的にできなかった」。
🎯=**「ピンポイントで撃ちたいのに、散弾銃しか持っていなかった」**という状態。
② 総量規制が“雑”だった
バブル対策として導入された「総量規制」は、不動産業向け融資の総額に制限を設けた制度。
ところが、不動産と関係のある業種(建設、流通、サービス業など)も巻き添えに。
銀行もリスクを嫌い、**「関係ありそうな会社全部アウト」**という判断で貸出を抑制。
地価の下落で担保割れが起きると、銀行は貸したくても貸せなくなる(BIS規制=自己資本比率の縛り)。
同時に、「不動産に融資した銀行自体」が傷んで、健全な企業にも融資を出す体力がなくなった。
日本の金融は間接金融(銀行依存型)なので、銀行が縮むと企業も一緒に干上がる。
💡つまり、「バブルの熱を冷ます」はずが、「金融システムの血流自体を止めてしまった」。
日銀は「土地バブルが悪い」という正義感が強すぎて、副作用に無頓着だった。
結果として、干上がる企業や家庭が続出しても、回復支援がまったく間に合わなかった。
🧠 なぜそんなことになったのか?(根本)
「資産インフレを冷ませば景気全体もソフトランディングできる」と甘く見ていた。
中小企業や地方の声が中央銀行に届いておらず、東京中心の視点で政策判断がなされていた。
日銀や大蔵省(当時)に、経済の現場に対する感受性が欠けていた。
🔚まとめ:なぜ関係ない人まで干上がったのか?
「熱い部分だけ冷ましたかったのに、金融政策の構造上、経済全体を冷やしてしまった。
さらに、対応のミスや銀行の自己保身が重なって、干上がった人たちへの水すら止まってしまった。」
もしももっと段階的に、現場の実態を見ながら慎重に調整していれば、バブル崩壊も「軟着陸」できたかもしれません。
あなたの感じている「そこまでやる必要あった?」という疑問は、今でも多くの経済学者・歴史家が共有している、正当な問いです。
あなた:
ChatGPT:
非常に核心を突く質問です。
なぜ、バブル崩壊で不振に陥った企業(=そこに勤めるサラリーマン)を国有化しなかったのか?
これは、単なる経済政策の話を超えて、日本の政治的哲学・制度の設計思想に関わる深いテーマです。以下、歴史的・制度的・思想的な観点から説明します。
国が企業を直接「国有化」して救済するという発想が、日本では非常に例外的・否定的に扱われていたからです。
戦後の日本は「自由主義経済(市場経済)」を基本とし、国家はできるだけ企業経営に直接関与しないという建前。
特に高度成長期以降、「政府はルールだけ作る」「経営は民間に任せる」という方針が徹底。
企業は潰れるときは潰れるべきで、政府は雇用保険や融資など間接的支援に留めるという考えが根強かった。
📝 経済への国の関与は「産業政策(行政指導)」の形ではあったが、「国有化」は極めてまれ。
② 「モラルハザード」を恐れた
こうした「道徳的危険(モラルハザード)」を避けるため、自己責任原則が重視された。
→ 「国が助けてくれるなら、経営ミスしても大丈夫」と思われたら、それこそ経済が腐るという発想。
バブル崩壊直後、企業倒産は数万社規模、中小企業は数十万社が苦境。
これらを国有化(買い取って経営を維持)するとなれば、膨大な税金が必要。
当時はまだ「財政健全化」が強く意識されており、大規模な企業救済には政治的な抵抗が強かった。
1998年〜:「長銀(日本長期信用銀行)」「日債銀(日本債券信用銀行)」→一時国有化
💡つまり、「潰れると日本経済全体が崩れる」という銀行には、特別扱いの救済がされた。
→ 企業(≠銀行)は個別救済せず、金融システムの根幹だけ守るという政策スタンスだった。
「国が企業を持つ=計画経済」的な発想に対して、政治的にも国民感情的にも拒否感が強かった。
特に冷戦期には、「国有化」は共産主義的・非民主的とみなされがちだった。
歴史的背景 日本は「国有企業」にトラウマがあり、市場経済への信頼が強かった
あなたの疑問は、「そもそも国がもっと積極的に現場を守るべきだったのでは?」という非常に正当な視点です。
実際、そのような議論は当時も存在し、今でも「国の対応が遅く・冷たすぎた」という批判は根強くあります。
もし希望があれば、「たとえばどんな制度があれば救えたのか?」という代替案的な話もできます。
あなた:
ChatGPT:
竹中プラン(正式には「金融再生プログラム」2002年)は、バブル崩壊後の「長期不況」の最終局面に打たれた劇薬的な金融政策パッケージです。
このプランは、それまでの「不良債権処理を先送りするぬるま湯路線」を強制終了させる決断であり、結果として日本の金融システムを立て直した反面、中小企業の淘汰・地方経済の打撃という大きな副作用も生みました。
当時、小泉政権の経済財政政策担当大臣だった竹中平蔵氏が主導。
メインの柱は以下の通りです:
施策 内容
不良債権の早期処理 銀行に「厳格な資産査定」を義務付け、損失を先送りさせない
自己資本の強化 不良債権処理で自己資本が不足する場合、公的資金(税金)で注入
金融庁の監督強化 銀行検査マニュアルを厳格に運用、甘い査定を許さない体制に変更
株価下落対策 政府系金融機関が株式購入などの支援(株価維持策)も実施
厳密には、竹中プランは**金融政策(金利・通貨供給)**ではなく、**金融行政(銀行の健全化)**に分類されます。
しかし、経済への影響という意味では、猛烈な引き締め圧力をかけました:
厳格な査定→「貸し倒れリスクのある企業に貸すと、自分の首が飛ぶ」
これは実質的に「貸しはがし」「貸し渋り」という形で実体経済を冷やした
銀行の信用が崩れ、国民が「預金引き出し」に走る可能性も視野に
バブル崩壊(1990年から1991年頃)以降に多くの企業が採用を絞った結果、大卒であってもまともな就職はできなかった、というのは誰もが知るところだ。
正社員の応募を何十、何百と出したけど全て不採用で落ちたとかそういうのもネットでは見た。私はそこそこの企業で5~10企業位だったが、ほぼほぼダメだったがあまり記憶が無い。そもそも就活で入社試験をやったり、SPI対策をやったり面接対策、論文対策なんかをやるのが非常にバカバカしいと思っていたくらいだから会社員には向いていなかったのだと思う。あ、NHKと中日新聞、公務員試験、あと出版社とかは受けたな。
結局、10月過ぎても決まらずに大学に来ていたエンジニア派遣会社に話を聞きに行きそのままトントン拍子で決まって就職した。ただ、給料は安かった。1997年当時で大卒18万とかだったと思う。会社の寮扱いのアパートが月6万、駐車場1万、これが天引きされて12万。所得税引かれて手取りは6-7万程度だったと思う。それでも食っていくのが無理だったからじゃがりこ1個で3日は食いつなぐ感じでした。そして年収にして250万くらいだったと思う。心も折れて休職もしそうになった。
大企業でも横並びで初任給20万円程度でこれがどこも同じだと感じていたが、実は福利厚生が全然違う。大企業だと引っ越し代、寮扱いアパート無料、電話代、ガス代、電気代無料といった具合だ。これだと月10万くらいは手元に残るお金が違う。そこで腐ってしまってはおしまいだ。
そこで次の手を考えた。当時(1997年頃)、IT業界ではWeb系システムが作られ始めておりWeb-AP-DBの3層アーキテクチャだった。一般的なアプリケーションサーバ(Apache, tomcat)+DB(MySQL他)で、大規模向けはMS SQL ServerやOracleだった。この頃、MS製品やOracle製品のベンダー資格がブームになり始める最初の頃だったと思う。そこで、Oracle Platinum資格を取得することにした。それには10個くらいの試験に合格しないといけないのだ。しかも、受験料が1科目15000円。すべて自腹を切っていく。そして適切な本も無いところで、2カ月余りで全て合格して取得。
まあ、やればできるんだよ。
そんなわけで、3年間の派遣はとっとと辞めて2000年に大手SIerへ転職しました。大企業はいいね。給与も待遇面も。でも、なぜかみんな暗いし有名大学卒で入社した割にはそれほど興味も無くて残念な感じ。スクラッチ系Webシステム開発やらERP(Oracle EBS)なんかを6年くらいやった。そしてだんだんつまんなくなってきた。心も折れて休職もした。ただ、IT系の資格で、Java、Linux、Solaris、などなどいろいろ取得してきたし総務省の情報処理試験も合格してきた。6年居た会社は不動産投資に失敗したり本業で失敗したりと経営危機のようだった。そこでさっさと去る。この時、年収500万くらいだったかな。
この頃、自分への先行投資を加速させるべく大前研一のアタッカーズビジネススクール、グロービスMBA講座、Bond-BBT-MBAプログラムを受講した。なんだかんだと数百万は使ったと思う。
そして、大手電機メーカーへ転職。年収700万くらいから始まって1000万いくて前くらいで辞めたんだが。12年間の中でSAP ERPをオンプレで新規導入して、アップグレードして、クラウドにしてとか、、まあ充実していたとは思う。一方で、システム運用要員がつまんなくてやめることに。
その後、独立した。最初は月60万くらいの仕事を請けてやっていたが、SAP導入支援となると跳ね上がる。既に独立8年目になるが、年収は5000万くらいになった。仕事も順調だ。100平米を超えるマンションも購入したし、スポーツカーも4台所有している。国内外はふらっといつでも旅行できる身分だ。とても幸せだ。
で、氷河期世代で社会が悪い、時代が悪い、と今でも言ってる人っているのか?努力が足りない!そう言われてきて育って、いま自分がある。心残りは結婚して子供を持つという余裕が無かったことか。あとは年々体力が落ちてきている事。別にそれは他人のせいにするつもりもない。自分がそれを選択しただけだから。そして、あなたは幸せですか?
未曽有の自然災害であった東日本大震災は良くも悪くも楽曲までも影響力をもたらした。
その中で震災により歌われなくなった曲・再評価された曲をあげたいと思う。
●歌われなくなった曲
タイトルや歌詞にTSUNAMIとあり、甚大な津波被害に配慮し自粛して震災後しばらくメディアでにおいても流れることがなかった。
楽曲を制作した桑田佳祐自身も歌う気になれないと2008年のサザンの活動休止前ライブを最後に歌われていない。
後年、サザンや過去のヒット曲を流す番組においてサザン最大のヒット曲であり日本における歴代シングル売上でも4番目に売上が多く流れる機会が多くなっているが
桑田自身は「震災はまだ終わっていない」と歌うつもりはないようだ。
参照*https://ja.wikipedia.org/wiki/TSUNAMI
・この愛のために/CHAGE and ASKA
歌い出しに「少しイケテルと 思うと決まって津波のように さらわれる未来さ」とありやはり津波被害を連想してしまう。
2004年のライブツアー前半に歌われたのが最後で2009年に無期限活動休止を発表しその後ChageもASKAもそれぞれのライブでチャゲアスの楽曲を歌う頻度が高くなったがASKAのライブにおいても歌われることはない。
1994年リリースの福山にとって初のオリコンシングル1位獲得となり初のミリオンヒットとなった。
2番目のサビで「まちがいさ 揺れる想い何を求めて海へ来たのか 愛だけは 忘れたはずさあの頃を 忘れたいよどうしてさ またひとつ波が想い出さらってあふれる涙は IT'S ONLY LOVE」とありこちらも津波を連想してしまうので、
震災以降のライブにおいては1番目のサビの「どうしてさ またひとつ風が想い出 運んであふれる涙は IT'S ONLY LOVE」を2番においても繰り返し歌われている。
◯再評価された曲
1991年リリースの今井にとって初のオリコンシングル1位獲得となり初のミリオンヒットとなった。
元々人気の高い楽曲ではあったが歌詞がそれまで今井の楽曲に多かった恋愛ではなく前向きで希望をモチーフになっており震災後メディアにおいて取り上げられることも多く今井もこの楽曲を歌うことが増えている。
2005年リリースのフジテレビ系ドラマ「救命病棟24時(第3シリーズ)」主題歌のために書き下ろされたがこちらも前向きなメッセージソングで震災後にメディアに取り上げられたり本人たちが演奏する機会が増えた。
2010年リリースのナインティナイン岡村隆史主演の「てぃだかんかん〜海とサンゴと小さな奇跡〜」主題歌として書き下ろされたがメッセージ性が強く震災後にメディアに取り上げられたり達郎本人も自身のラジオ番組「サンデーソングブック」においてオンエアしたり、ライブで演奏する機会が多い。
達郎はライブで「この曲を作るきっかけになった、ナイナイ岡村君と闘病中の友人桑田君に捧げます」と同曲を紹介している。
2012年6月22日、3月11日放送の「サンデー・ソングブック」“東日本大震災1周年 追悼と復興祈念のプログラム”が、「第38回 放送文化基金賞」(主催:公益財団法人 放送文化基金)にて、「ラジオ番組 優秀賞」(番組部門)と「出演者賞」(番組部門 個別分野)の2部門を受賞。贈呈式には山下の代理としてスマイルカンパニー社長小杉理宇造が出席し、本人のメッセージを代読。この中で出演者賞の賞金(10万円)を震災復興支援のため全額、日本赤十字社へ寄付することが併せて発表された。
参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E9%81%94%E9%83%8E