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はてなキーワード: 神仏習合とは

2025-07-06

昨日の『ブラタモリ』がスルーしたこと

ここ数回の『ブラタモリ』は江戸時代に盛んだった“大山参り”の道のりをたどるという企画で、都内から大山街道を巡り、昨日はいよいよ最終目的地、大山阿夫利神社を目指すという回だった。

江戸時代浮世絵もみながら、いかに“大山参り”が盛り上がっていたか、なんて話もしながら、大山ケーブルに乗車。

途中、日本ケーブルカーでは唯一という“離合ポイント”(ケーブルの両端で繋がってる2台の車両が丁度すれ違うところ)に駅があるという“大山寺駅”で一旦降車。

車両のすれ違う様子をみたり、急斜面にある駅のベンチにすわってみたりして、そのまますぐまたケーブルカーで移動して、大山阿夫利神社の下社に参拝。

さらに登った山頂にある本社にはさすがにタモリを歩かせるわけにもいかず、スタッフと中継でつないでいた。

さて、なにがスルーされたのか。

タモリ一行が神社に参拝するシーンで、唐突に隅の方にテロップがでた。

曰く、「江戸時代には神社とともに大山寺がありました」。

日本の歴史ある寺社の多くがそうなのだが、大山というのも江戸時代までは神仏習合山岳信仰対象で、大山参りというのも、今でいう“神社にお参りする”という感覚とは少し違った。

現在大山阿夫利神社の下社がある位置には、「石尊大権現大山寺」があり、不動明王も祀られていたのである

大山参りとは、仏教とも結びついた“権現さまとお不動さまへのお参り”だったのである

だが、そんなことは全く触れないので、なんだか今も昔も神社へのお参りをしてたような印象になっていた。

明治廃仏毀釈で、大山阿夫利神社大山寺は完全に分離された。

雨降山大山寺サイトをみてみると、

幕末の大火と廃仏毀釈により廃寺の危機に陥ります神道による祭政一致王政復古を目指す明治新政府にとっては、江戸幕府保護した仏教寺院旧体制象徴にほかなりません”

廃仏毀釈により数多くの寺宝が失われ、堂塔が破壊される中、ご本尊の鐵不動明王だけは地元住民の篤い信仰に守られ、山外退去を免れて現在地に本堂が再建の後、遷座しました”

と記されている。

タモリ途中下車した“大山寺駅”は、この寺の最寄り駅だったのだが、寺には寄らず。

江戸時代に賑わった大山も、神道を中心にした“祭政一致”を目指した明治政府のせいで、なかなかに激動の一時期があったはずなのだが、そのことはテロップ一行でスルーされたのである

断片的な記憶だが、以前、高尾山にいったときには、神仏習合の名残が色濃く残る様子をみながら、“ここは廃仏毀釈を免れたんだねえ”なんて話をしてたように思う。 

からタモリ廃仏毀釈とか、そのへんの知識がないわけ無いし、番組としてそのへんの話を絶対にさけるとかいうことではないのだと思うが、ま、今回は案内役が大山阿夫利神社権禰宜の方だったので、“実は、昔はここは神道神社じゃなくて不動明王さまが祀ってあったんですよ”なんて話はするわけないか

明治維新は、日本の伝統をいろいろ破壊したけっこう過激運動だったはずなのだが、どうもそのへんはあんまり知られてないように思う。

せっかく大山いったんなら、そのへんももう少し突っ込んだ番組にしてほしかったけど、ま、紀行バラエティにそこまで求めるのは無理か。

やはり阿夫利神社権禰宜の方に出ていただく手前、大山寺の不動明王と、阿夫利神社と、両方お参りするとかは無理?

ところで、さっきwikipediaを見たら、大山阿夫利神社戦後神社本庁の傘下(宗教法人法でいうところの被包括宗教団体)にはならず、単立でやってきたのが、今は神社本庁の下にあるという記述があった。

どういう経緯があったのだろう?

そこそこ参拝客いそうだし、単立でもやっていけそうだけど。

2025-04-02

月見の習慣はオリジンが二つあるんよ

日本人月見という習慣はそういう美意識がどっかで湧いたってわけじゃなくて「典故」と「信仰」の二つのルートがあるのですのだ。

分かりやすく言うと中国古典江戸時代民間信仰やね。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2531074

 

典故

典故ってのは何かにつけて漢籍漢文の本)を引用したりなぞらえること。特に風物表現で多いのが漢詩

例えば「四季」ってのは漢詩で季節を表現するのに擬えて和歌を詠んで散文にも応用されて行ったもんだし、日本文化独自性が高い俳句でも多い。

また例えば芭蕉は「象潟や雨に西施がねぶの花」って俳句を詠んでるけど、西施ってのは中国四大美女の一人で、悲劇の死を遂げた女性。んでさ、この人が溺死させられたって伝説があるので西湖と名付けられた湖があるんだけど、ここって今は内陸の湖なんだが昔は潟湖ラグーン)だったのよ。で、芭蕉が訪れた時代象潟ラグーンで、松島のような多島海でとても美しかった。でもそこで「きれい」って言っちゃうとあたまのわるいひとイラストみたいになっちゃうってんで、悲劇美女西施潟湖西湖風景という諧謔というか教養連想ゲームをやってるわけです。

やべぇ例示だけなのに長くなってしまったな。因みにこの象潟芭蕉の後に地震があって、輪島海岸みたいに隆起して芭蕉が感嘆した景色は無くなってしまった。今は田んぼの中に丘が点在する風景になってる。

 

こんな風に昔の日本漢籍引用するのが教養だったんで、そういう知識は最早常識だったんやな。

んで、月見の方も平安時代貴族がやり始めたんだけど、やっぱり漢籍記述中国古代からやってるという中秋節を真似たんや。旧暦8/15(太陽暦では9or10月)に月餅やら何やらを並べて宴をする。貴族の間でもっと多かったのが船を出して、水面にゆらゆらと写る月を眺めて宴をしてうたを詠んだりしてた。こういうのを観月という。

 

んで、これが段々と庶民にも伝播して行ったらしいんだけど、正直江時代までの間の庶民の動向って言うのはよー判らんのや。何故なら庶民文化が栄えたのって江戸時代で、それまでは庶民間の事柄を紙に記すって事が殆どなかったから。

 

月待講

で、もう一つのルートが月待講ってやつ。江戸時代には庶民比較的裕福というか生活に余裕ができ、色んな民間信仰が現れた。そしてそれらが紙に残った。

例えば山講。山ってのは霊的なもので、それに登るって事が霊的体験とされていた。山は女人禁制で「○○山講」という幟をもって山伏みたいな格好で延々と歩いて行って登山を敢行する。信仰の場だったのだな。

富士山世界遺産登録されたのは、別に日本人に愛されてるからとかじゃなくて、こういう信仰があって今の登山がそれと連続的って事ですのよ。

例えば庚申講。道教とか神道民間医療なんかがごちゃ混ぜになった信仰人間の体には三尸(さんし)の虫っていうのが住んでて60日ごとの庚申の日に寝てる間に閻魔大王悪事をチクるから徹夜宴会してチクるのを止めさせようぜという、今となってはなんだそれな信仰だ。

都電に「新庚申塚」って電停がある様に、日本中あちこち庚申塔が建てられてその近くの家で飲み食いされていた。今はこんな風に放置されてる。

https://maps.app.goo.gl/FM8d8fD19SAK3Ubc7

 

こういう「講」(信仰寄合)の一つに月待講というのがあった。お月様信仰やな。

月には月齢があって、新月三日月満月半月と形が代わるけど、その各々に別個の信仰があった。んで、この信仰別にお月様だけに影響を受けてるんじゃなくて、土着の信仰仏教と結びついていた。

仏教では色んな観音様や菩薩が居るけど、月齢ごとに別の本尊を崇めていた。この辺はカトリック職業聖人信仰に似ているね。

月齢ごとに信仰があると言っても、今みたいに電車と車で好きな場所に行ける訳じゃないから、この村は○○夜、あの街は○○夜と分かれていた。

で、その中で非常に多かったのが二十三夜、十九夜、十五夜だったってワケよ。

二十三夜は特に多くて、日本中に地名として残ってる。こんな風に

https://maps.app.goo.gl/KDXw6ZBhwiyA4bYZ7

因みに月齢23下弦の月

また、「三夜」と省略されて地名になっている所も多い、三夜様とかね。

 

もう一つ特別なのが十九夜で、これは如意輪観音本尊。右膝立てて右ひじ突いてる観音様だ。

これは「安産講」として特別で、女の人以外は参加禁止の集まりだった。

これも十九塔があちこちに残っているが、地名としては「子安」というのが残ってる場合が多い。

子安寺」が子安の由来の場合も多いが、そもそも昔の寺には色んな神様も祀られていた神仏習合だったんで、当然十九夜待が行われて居た寺もあって、それで子安寺になったケースもあるのだな。

 

十五夜はいうまでもなく満月待やね。本尊大日如来阿弥陀、薬師、観音様、地蔵、虚空蔵と、オールキャストだ。

 

ただの宴会飲食い会や女子会

で、庚申講もそうなんだが、段々信仰がどうこうっていうのはいい加減になって行って、単なる寄り合い宴会食事会の言い訳になって行っちゃうわけよ。十九夜とかも「観音様、どうか子宝安産を」と願うっていうよりただの女子会になってまう。「観音様が持ってる宝珠ってチンタマーニって言うんだって」「うちの亭主も二つ持ってるワイよギャハハ」とかなっちゃうってワケ。

 

それで段々都市化が進むと寄合なんてジジババくせえとか軽視されて廃れて行っちゃった。でも場所によっては昭和40年代まではやってたらしい。

 

月見でお団子お供えして食べるっていうのは完全にこっちの月待講が由来なんね。

一方、ススキ飾るのは、旧暦8/15(太陽暦9or10月)の中秋節由来やね。

から二つがごっちゃに混ざってるってこと。

 

月齢ごとの呼び名

日本語では月齢によって色んな呼び名があるよね。

新月の次の日:既朔

十四夜:小望月、待宵

十五夜望月

十六夜:既望

七夜:立待

十八夜:居待

十九夜:寝待

廿夜:更待

これも漢籍典故による特別から月待などの各月齢ごとの神聖視へと変化していくにあたって生まれ表現と考えられるのだ。

 

サブカルシーン

日本ゲームリプレイ動画とか見てると、このへんのことが海外では認識されていないので「これってなに?」みたいな英語コメントが付いているのを目にするのだ。まぁそれは当たり前だ。

大抵、西洋ルナティック=満月が人を狂わす、と日本の月を愛でる習慣、月のうさぎが合わさっているので割とハイコンテクスト

でもそれに日本語で答えているコメントが月を愛でる習慣が信仰から来ているってことが判ってないので説明できていないっていうのを目にする。

近所の今まで気が付かなかった「○○夜」「子安」の地名発見して訪れてみるっていうのも自文化勉強なんですよ、草むらの中に○○夜塔が残っているのを発見するって事もあるんですのよ。

 

番外:花見

ついでに花見なんだが、これも昔からある風習だったけど、江戸幕府奨励して盛んになったんすよ。

江戸幕府は水防工事を沢山やったんだけど、堤防って突き固めが緩いと崩れてきてしまう。でも昔は機械が無い。

そこで堤防に桜を植えて「花見やれ」と奨励したのだ。すると毎年人がどやどややってきて歩くから土が締まるって寸法だ。だから川べりには桜が多いのだね。特に古い堤防は桜の名所になっているってわけ。つまり官製文化の面があるの。

2025-02-02

理系だけど日本古典文学を割と読んだから語る①

1:古事記 池澤夏樹 訳[新訳]

のっけから申し訳ないのだが、自分古事記池澤夏樹訳で読んでいない。というか、この池澤夏樹日本文学全集で読んだ本はほとんどない。しかし、池澤夏樹にはちょっと悪いのだが、リストとして便利なのでダシに使わせてもらった。

自分最初に「古事記」に触れたのは神代だけを扱った子供向けの講談社青い鳥文庫経由でだ。次に読んだのが確か大学生の頃になる。文芸春秋社三浦佑之が現代語訳したもので、古老が昔話をする形式翻訳していた。現代人にはわかりづらいところを語りで補う、初心者に親切なものだった。

さて、内容だが、神話だけでなく、それ以降の歴史時代記述面白いヤマトタケル物語だけでなく、おそらく戦前は教えられていたであろう神功皇后朝鮮半島への進軍を知っておくと、昔の人がどんな世界観を持っていたか想像やすい。権力者の書いた歴史書を鵜呑みにするのは危険だが、歴史一次資料に(翻刻翻訳されたものとはいえ)触れるのは非常に楽しい。「学校で習う歴史の出典がこれか!」という素直な驚きがある。

もちろん神話としても面白く、考えてみれば今の皇室は天の住民と海の住民の両方の血を引いているという属性てんこ盛りである。他にも、イザナギノミコトとイザナミノミコトが夫婦生活をする際に「凸を凹に入れて子供を作りませんか?」「それは楽しそうですね」というくだりが何となく好きだ。性に罪悪感がないのがいい。もちろん、最初に生まれ子供ヒルコ描写は、今の感覚では身体障害者差別なんだけれども、後にそれが恵比寿様だということになって崇拝されるようになったのが、何となく流されたヒルコが救われた感じがして、結構好きなエピソードなのだ。捨てられた存在に新しい場所を用意してあげた後世の人の優しさみたいでね。

面白かったので日本書紀も確か講談社学術文庫か何かで読んだ。傍論としてさまざまな説を併記しているのが、物語ではなく歴史書の体裁をとっている「日本書紀」の特徴を端的に示していて面白かった。もちろん、これだけでは日本神話理解できない。中世神仏習合近代国学陰陽道などの展開を追わねばなるまい。しかし、その一歩を踏み出せたのはやはりうれしい。

ところで、「記紀」の記述を合わせて池澤夏樹は「ワカタケル」を書いたようだけれど、個人的にはピンとこなかった。「記紀」の文字に書かれたことや考古学的成果の内容とは矛盾しないが、むしろ史実から離れすぎないようにしたため、想像力が少し現実に縛られている気がしたのである。あとは現代中国語の「上に政策あれば下に対策あり」って言葉引用されていたのに違和感があった。お分かりのように、僕は面倒くさい読者なのである

2:口訳万葉集 折口信夫百人一首 小池昌代 訳[新訳]、新々百人一首 丸谷才一

万葉集全然読んだことがない。というのも、巻数が膨大なためだ。僕は完璧主義なところがあり、読むならきちんと最初から最後まで読むべきだと感じてしまう。それに詩を読むのなら、一つ一つの詩をきちんと味わって理解したいのである。そうなると膨大な時間がかかり、そこまで詩に興味がない自分としては手が伸びない。ただし、自分フォークナーを薦めてくれた友人は、「美酒をがぶ飲みするように、次から次へと詩を読んでいくのも贅沢でいいものだよ」とは言っていた。僕の場合、深く刺さった詩は、小説の中のぴったりした場面で引用されたとき出会っているケースがほとんどだ。やはり詩が多すぎると言葉の海に溺れてしまう。

百人一首田辺聖子解説で読んだ。それぞれの和歌や作者の背景を丁寧に、肩の凝らない文体説明してくれているので、今でも時々手に取っている。王朝人物史としても面白かった。田辺聖子とは評価する場所が違うところもたくさんあるけれど、脱線楽しい。ちなみに、初めて百人一首出会った小学校高学年のときには、もちろん恋の歌にばかり心が動かされたのである。「しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」。たぶん自分感傷マゾというか、言い出せない思いをウジウジ、グツグツと自分の中で煮詰めて煮凝りにしてしまう傾向は、この時からあったのだろう。

ところで、王朝文学世界的に見て女性作家が多かった時期だと聞いたことがあるのだが、調べてみると女性の句は二十一だった。半分くらいだと思っていたのだが、これは女性の句が心に残ることが多かったための錯覚だろう。

「新々百人一首は未読だ。こうして記事を書こうとしていた時に調べたのだけれど、王朝の歌を二百種に絞って紹介してくれているらしいので、これはぜひ読みたい。昔ほど完璧さにこだわらなくなったし、こういうベスト盤みたいにピックアップしてくれると、きっと散文を好む自分も楽しめることだろう。丸谷才一ジョイス翻訳で知ったのだけれど、文章リズムが合ったから今から読むのが楽しみだ。

3:竹取物語 森見登美彦 訳[新訳] 伊勢物語 川上弘美 訳[新訳] 堤中納言物語 中島京子 訳[新訳] 土佐日記 堀江敏幸 訳[新訳] 更級日記 江國香織 訳[新訳]

これらの本はすべて別の訳者で読んだのだけれど、こうして並んでいる訳者にそれぞれ馴染みがあるので、彼らがどのような翻訳をしたのか、ちょっと読みたくなってきた。ちょっと前までは「古典は原文で読んでこそ意味がある」という原理主義的なところがあったのだが、「源氏物語」や「太平記」が長すぎるあまり、開き直って現代語訳で読んでしまったため、最近はそこまで原文にはこだわっていない。今ではい翻訳がたくさんあるので、普通に現代語訳でストーリーを味わってから、原文を楽しめばいい。このラインアップでは、個々の作家に対しても言いたいことがあるのだが、今回は省こう。

竹取物語は、幼いころに聞いた物語原典知る楽しみがあった。一番シンプルにされた絵本バージョンだと、五人の貴公子物語が省かれてることもあるし。そういう意味では、「御伽草子」なんかもちょっと読みたくなってきたな。

伊勢物語短編集で、古典の授業で東下りを扱ったので前から気になっていた。ただのモテる男の話を読んだって楽しくないかもしれないが、一つ一つがごく短いのでそこまで嫌味ではないし、うまくいかななった恋物語もある。それに、古語で読むから現代日本語で読むのと違ってワンクッションある。僕は感傷マゾだったから、結局は恋の物語が読みたかったのだ。

だが、書かれているのは恋愛遍歴だけではない。「老いぬれさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしく君かな」「世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もといのる人の子のため」。ほんとそれな。無理な願いだとわかっていても、大切な人には永遠に生きていてほしい。これらの歌に出会えたのは幸いだった。

なお、これを読んだ後に祖父を亡くしている。ほんとに、人間いつまでも生きられないのは寂しいことである。なお、これも阿部俊子訳の講談社学術文庫で読んでいる。

他に当時刺さった歌を日記から書き写しておく。「思ふこといはでぞただにやみぬべき我とひとしき人しなければ」(そんな寂しいこと言わないで……)「心をぞわりなきものと思ひぬるかつ見る人や恋しかるらむ」(それな)。たくさんあるのですべては書き写さない。

堤中納言物語は「虫愛づる姫君」で有名だけれども、例えば娘ではなくそ祖母を連れ出してしまう話だとか、二人の男が誤った相手と契ってしまうとか、慌てて白粉ではなく墨でメイクしてしまう話とか、奇妙な話も含まれている。あとは手に入れることなど到底できないもので作った「ほしいもリストである「よしなしごと」とか。どうも物語統一感がなく、どういう意図編纂されたのかはよくわからなかった。これは笠間文庫で読んでいる。

土佐日記小学生時代に塾の先生が「男のくせに女の文章で書いたのが紀貫之って変な奴」って紹介していたのでそんな印象がずっと続いていたし(子供インパクトを与えて覚えさせるためなのと、当時は平成初期なのでこういう言い方をしていたのである)、文学史的にもそういう評価をする面もあるのだが、今は亡き子供の思い出を語る悲しい話なのである。道中の描写も素敵だし、ラストの「この原稿は捨ててしまおう」というくだりが、例え虚構であってもとっても好き。どうも僕は、一人の人間が読者を意識して書いたテキストであるという臭いが好きらしい。だからメタフィクションも好き。これは角川日本古典文庫で読んだ。図書館で借りたボロボロになった古い本だった。三谷榮一訳註。

更級日記はかつての文学少女が「源氏物語」をはじめとする文学への憧れを綴っているが、ラストのあたりで「自分人生はいったい何だったんだろう」と回顧するので、僕みたいな作家になりそこなった文学少年崩れが、感傷的になりたいときなんかにオススメだ。内容をすっかり忘れているのだが、そこばかりが強く印象に残っている。

そして、「物語なんぞにうつつを抜かすんじゃなかった」的なくだりがある癖に、内容が技巧に富んでいるのだが、それはただの未練というよりも、そうした技巧で妄念を鎮めようとしたのやもしれないし、それもまたパフォーマンスかもしれない。小説家になりそこなった僕にはグッサリと深く刺さっている。よく「更級日記」は文学少女の物語だと言われているが、文学少女崩れの物語でもあるのだ。実際、興味深いことに「更級日記」では結婚子供誕生、両親の死という重い事柄が、ほとんど触れられていないのである

それにしても、文学少年文学少女はとても欲深い。彼らは現世で得られないもの書物の中から得ようとするからだ。そして、創作に手を出すのは、自分の持っていないものを魔術のように作り出そうとする更に深い欲がある人々だ。そして、僕はその欲望を愛していた。

ああ、そうだ。ここまで書いて気づいたのだが、恋だけでない、生きていてふと感じる寂しさを和歌にした作品が、僕はとても好きなのだ

INTERMISSION①

こういうのは個人ブログでやったほうがいいんじゃないかと思わないでもないのだが、辺境ブログでやってもあまり読者は集まらない。個人ブログを読んでもらうためには、ある程度自分コンテンツ化する必要がある。言い換えるならば、一定の頻度で、ある程度の品質記事を、独自色を伴って、継続的生産し続けなければならない。なかなかできることではない。それに、この動画全盛期の時代に、どれほど文字を読む人がいるだろうか? また、首尾一貫したキャラで書き続けるのも面倒である

一方、はてな匿名ダイアリーでは、文字を読むのが好きな人が集まっている。また、内容が有益であったり面白かったりすると、きちんと読んでもらえる。虚飾と権威主義真っ盛りの時代にあって、「誰が言ったかではなく、何を言ったか」だけで評価されるという意味では、非常に居心地がいい。もちろん殺伐としているし、暴言も多いが、それを補って余りある素晴らしい点である有益なまとめを書いたときは褒められ、的外れなことを言えば叩かれ、面白くなければ無視される。残酷だが、内容だけで毎回勝負するのは、文章を書くのが好きな人にとっては鍛錬の場になる。

なお、時折こうして個人的なボヤキを書く。あまりにも古典文学の紹介という話題から逸れ過ぎて、イケメンモテ男に関する個人的愚痴になってしまい、読者を笑わせるよりは暗鬱な気分にさせるであろう箇所はこれでもかなり削った。かろうじて残したのは文学関係する箇所のみだ。

恨みつらみを向けている人や、気に食わない人はたくさんいるのだが、作家以外は実名では論じるつもりはない。名前を出して作品批判することはあるが、その人の行いに直接何か言いたくなった時はぼかしている。己の負の感情直視したい一方で、人にネガティブものをぶつけるのは美しくない。だからせめて、こういう妙な義理を通したいのである

それでも長い。気に入らなければ読み飛ばしてほしい。ここに書きたいのは古典文学の紹介であり、せめて日常感じていることであり、怨念の垂れ流しではない。ただし前回のように時折脱線しては管を巻くつもりだ。

続く。

2024-07-24

黒人侍「弥助」の仏ゲーム

封建時代日本で権勢をふるった大名織田信長が1581年、黒人奴隷から家臣となる弥助に会ったとき信長はこの男性を神だと思った。

アフリカ人サムライ――弥助が残した不朽の遺産 - CNN.co.jp

https://www.cnn.co.jp/world/35138192.html

黒人侍「弥助」の仏ゲーム文科省公序良俗反するなら慎重に対応」 浜田聡氏に回答 - 産経ニュース

https://www.sankei.com/article/20240724-WTXDURJJXJAK7DGLOI6HQMTIIY/

神仏習合やね

2024-05-10

anond:20240510014747

原始神道では、神が宿る対象特定の巨木や山などに限られていたのは増田の言う通り。

しか平安時代初期(8世紀~)から中世にかけて神仏習合が進むにつれて、森羅万象に神が宿るという思想に変わっていった。

特にこの時代神道密教山岳信仰と密接に結びついていて、山中のあらゆるものに神が宿ると考えられるという思想が、現在まで続く概念起源となる。

その後は伊勢神道9世紀~)が「森羅万象に神は宿る」という思想を広め、

江戸時代吉川神道開祖である吉川惟足(1616~1695)が明確に「神は幽玄にして森羅万象に充満し、一草一木もこれ神ならずということなし」と表明した。

ということで、明治どころか1000年以上前からある思想ですねそれは。

2024-03-08

anond:20240308123341

日本の歴史で、神仏習合が行われた時代の名残は各地に残ってるんだわ。

2023-03-21

なんで、そんなに結婚したいのか分からない。

子供欲しいので結婚するんなら、理解できる。

日本制度だと、結婚していた方が子供にとってクリーンだし行政の補助も受けられる。

補助に関してはシングルでも受けられるけど、そもそも、ある程度の稼ぎが無いとワンオペ育児しんどいだろうし。(金があれば人を雇えるので)でもシングル対象の手当も出るし実際はイケるのか?わからんけど。

たとえば夫が積極的オムツを変えなかろうが他の部分で補完しあえていれば良いのだろうし、このへんは個別事情として。とりあえず手は増えている。


んで、別に子供は考えてないけど結婚したいって、なんで?って思う。

結婚行政から補助金出るとはいえ、一回だし。扶養手当なんかも共働きだったら誤差の範囲では?という気もする。


私は他人と暮らす労力がしんどいので、別に結婚したくない。

子供特に生みたくない。十ヶ月も行動制限されたあげく、生んでも母乳が止まるまで乳から液体が垂れ流しになるとか未知すぎて気持ち悪いタイプ人間なので。あと無事に生んでもホルモンバランス崩れるし体の線も崩れるし、とにかく体弱るし老ける。芸能人が生んでも美しいままなのは産後ケア努力根性と金かけてやってるからだよ。あと一部の特異体質。

骨盤がもとに戻るまで赤ん坊に構ってられません、とか一般人には許されない。

生んで即退院じゃん、普通病院は。

そもそも結婚相手の三等親までクリーンな経歴かって、わりと博打

なにしろ面倒じゃん、結婚にまつわるアレコレ。

結婚式も、特にしたくない。

というか神前式とかならまあ七五三とか成人式とかの流れで馴染みもあるし、神仏習合意味で死後は仏教の墓に入ってきた家の育ちが殆どであろう日本で、まあ不思議でもないんだけど。

ドレス着てファッション牧師チャペルもどき特に信仰してない唯一神に誓いを立てる意味が分からない。コスプレ撮影会の豪華なやつとしか。あと披露宴親族に友人知人に職場関係者晒し者になるの楽しくない。余興とか別に、ほんと楽しくない。友人にうすらさむい賛美のスピーチしてもらうの楽しくない。

やりたいやつがやればいい、趣味問題しか思えない。

でも親類縁者に結婚報告は何かしらの形で必要かもしれないので、やっぱり趣味形態が違うだけ、としか。そんで私はドレスを着る趣味がない。



子供を成人させるのに掛かる費用と、老後に適度なホームに入る費用と、どっちもどっちでは?とかも思う。

骨はまあ、粛々と無縁仏にしておいてもろて。


で、なんで結婚したいの?世の中の人

2023-01-05

anond:20230104221425

そもそも日本神仏習合の期間が長いので。今、これが正式作法ですよと神社本庁とかが言っているものも、実は大した歴史のない、新しく作られた伝統だったりする。もちろん現在神社本庁現在作法として出している以上は、正当性がまったくないわけではないけど、宗教的行事においては神仏習合時代も含めて昔からやられていた作法に従うのだって立派に正当性ある行為だよ。

2022-09-18

anond:20220918055204

神道なるものができたのは明治維新後で当時の日本神仏習合しており、日本の土着の信仰仏教が混ざったかなり雑多な宗教になっていた。歴史を見れば天皇家仏教歴史は千年以上あり、本来であれば切っても切り離せないだろ。

2022-07-15

anond:20220715195143

色々理由はあるだろうけど神社は規模の大小を問わないし神主を置くことは必須じゃないからだろうね

そして神仏習合の兼ね合いか地域村社寺院へとなることができた

寺院の中に八百万神が祀られてる理由だな

2022-07-05

結局、神道思想哲学なんかないんでしょ?

から江戸時代までは神仏習合仏教思想を間借りしていたし、でっちあげの国家神道儒教やらキリスト教的な価値観を多分に含んでしまった。

から今でも韓国カルト親和性が高いし、お家騒動なんかやってしま低俗人間しかいないんでしょ?

2022-05-09

[]

多治見市文化財保護センターの多度神社展に行ってまいりましたわ

ここは月曜日開館、土日閉館ですわ

神社に施された見事な彫刻に注目して、江戸時代大工さんの技術力の高さに感心できましたの

いろいろな大工道具の展示が面白かったです

棟札によれば屋根の葺き替えは9~25年に1回行われてましたわ

全ての葺き替えの棟札が残っている前提ですけれども

多度神社真言宗醍醐寺から派遣された山伏さんが管理していたこから

江戸時代神仏習合ぶりも伺えましたわ

2022-02-12

anond:20220212010453

昔は仏教神道密着してたのか?

神仏習合」について勉強すると良い。

神道について研究した本もたくさんあるから、それを読めばだいたい分かる。

2021-04-07

欧米中東では宗教社会規範と一体になっている。

日本も昔は宗教社会規範と一体になっていた。

日本の特徴は、仏教神道を混ぜ合わせて一つの宗教にしていた点にある(神仏習合)。

しか明治に入ると、日本仏教神道を分離し(神仏分離)、結果として仏教破壊した(廃仏毀釈)。

そして国家神道を一体化させた末に(国家神道)、敗戦によってその国家破壊されたため、

日本から宗教が消え失せ、社会規範けが残った。

いま日本人が神社に参拝し、寺で葬式を挙げ、墓の前で祈るのは、

それらが「社会規範」だからやっていることで、

そこからは「宗教」がぽっかりと抜け落ちている。

しか欧米中東はいまだ「社会規範」と「宗教」は不可分なのだから

日本人が社会規範に従っているのを見て彼らは「あれは宗教ではないか」と考えるのである

2020-11-04

[]87日目

なわとび:602回

ボクシング:109kcal/21歳

徒歩:110.4kcal/3590歩

体操ザムライ見てて、フィットボクシングやるときも一つ一つの動作を丁寧にやっていこうと思った

少し前から夜明け前」をちょっとずつ読んでて、この間ようやく1部が終わって折返し地点に来た

島崎藤村自分のお父さんをモデルにして書いた幕末から維新にかけての歴史小説

1部の前半は木曽街道馬籠宿の庄屋の平穏暮らしぶりが描かれるばかりなのだけれど、後半に入ると怒涛の勢いで日本の情勢が転変していく様が描かれる

まり情報量の多さに幕末素人自分めまいがするような心地がした

主人公の半蔵は幕末青年らしく、自分日本のためになにかしたいと焦りを募らせるのだけれども、彼が依って立つ平田篤胤国学思想というのがどうもちょっと曲者

本居宣長あたりから発するものらしいのだけれども、神の国である特別日本古来のものを大切にしてそれによって国を作っていこうというもので、中国由来の儒学などの排斥を主張し、神仏習合を廃して純粋神道を取り戻そうと言っている

これって、詰まるところは日本SUGEEEのネトウヨ思想先祖なのではないか

半蔵くんは(ローカルな)ネットで真実に目覚めてしまった残念な子なのでは

ついでに日本各地で寺をぶっ壊しまくった犯人貴様らだったのか

なんというか半蔵くんの先行きに不安しかなくて、この先を読むのがちょっと怖い

2020-02-16

古今伝授ウイルス

思うところあって中屋敷均『ウイルスは生きている』を再読。走り読みなので細部までは目が行き届いていないが、これを読んだ時に受け取った熱を思い出した。2016年3月初版発行からそう経たぬうちに読んだと思うが、今は随分ここから遠くに来た気がする。本書が今の自分とは縁遠いものという意味ではなく、寧ろ逆にずっと俺の心を捉えて離さなかった。自分世界認識に深く影響を与えた(与えている)ので、もっとずっと昔から自分の中にあったように感じていたが、たった4年前のことなのか。

思うところが何かを明確に言語化するのは難しいが、

古今伝授を真に理解するためには、それが中世社会特質と深く関わっていることを考えなければならない(古今伝授和歌という縦糸だけで説明しようとするからダメなんだ。中世という横糸を忘れている)。中世は壮大なコジツケの体系が構築された時代神仏習合本地垂迹説・卜部神道中世日本紀等々…の奇妙奇天烈世界観!古今伝授もその一環として見るべきではないか。コジツケと言われればそうだけど、それはその時代の人々にとってとても必要なコジツケだったのだ、という。もし積極的な意義を見出すのならその方向から説明しなければならないのだ。(古今伝授を受けた天皇を中心に優れた歌人が輩出された、だから歌学教育として意味があったとかバカか。優れた和歌とは何かという定義評価軸じたいが古今伝授支配圏内形成されるのだから、優れてるかどうかを論じること自体ナンセンス。)

古今伝授古今伝授になっていく過程、つまり古今集という単なる書物が、あるいは勅撰集編纂という律令制国家の一事業が、その枠を超えた何か大きな・尊い民族文化の精髄のように認識されていくそ過程において、付与された様々な言説――三木三鳥だの八雲神詠だの人麻呂がなんちゃらかんちゃら、後世から荒唐無稽とさんざ罵倒されることになるこれらの言説は、あたか胎盤形成におけるシンシチン(syncytin)のような役割果たしていた、と考えることはできないのか。異物を異物と感じさせない、捏造捏造と感じさせない仕掛け。それは、倫理的断罪とか文化価値の優劣の俎上に乗せるのはふさわしくなく、その仕掛けを通じて何が実現されたか、その何かはその仕掛けを用いずには実現され得なかったのか、をこそ見るべきではないのか。

本来ウイルスもつ能力自己の一部として、機能として取り込む。生物自己の維持に必要機能の一部を外部環境依存する。ポータブル外部環境としての細胞生命と非生命境界は我々が思っているほど明確に線引きできるようなものではない。我々の生命定義は、あまりにも我々が日常的に馴れ親しんだもの見方に、「個人」という概念にひきずられてやしないか・・・というのが本書の示唆するものの最も深い所だ。

契沖や子規の批判は分かる。俺も一個人としては古今伝授(に代表されるもったいぶったコジツケ家)はバカジャネーノと思う。が同時に、それは文化・知・個人といったものについてこっちの定義/概念押し付けてるだけじゃないの?とも思う。

根拠がない、合理的でない、和歌質的向上につながっていない、という。では何故根拠がなければならないのか?合理的でなければならないのか?なぜ質を向上させなければならないのか?

これらの批判は、文化とは何か、個人とは何かについての定義をすでに前提にしていて、その立場から加えられている(反論する側(古今伝授擁護する側)にもその立場から反論するやつがいからどうしようもない)。まず始めに個人がある、歌は個人気持ちを詠むものだ、しかるにコレコレの御方に入門しなければ和歌は詠めないのだとはけしからんしかもその御方の教えたるやひたすらややこしい制約ばかり、かつ透明性のかけらもない、おまけにそう教える根拠はどこにあるかと探してみれば無い、要はこいつがでっち上げた妄説じゃねえか、それで偉ぶったり金巻き上げたりするなんて悪どい奴らだ・・・、こういう自他の区別、新旧の区別、真偽の判別をつけずにはいられない、ある意味病的な正義感いかにも科学合理性に偏っている。

しかし、それとは全く異なる評価軸があって、古今伝授は(中世の壮大なコジツケ志向は)その軸からみればもっとずっと整合的に理解できるはずだ。

本書の示唆する構造は、外来文化自家薬籠中の物にする日本文化性質(漢字仏教等々)、中世の遺制としての近世身分制(身分的周縁論)、象徴天皇制(近代国民国家の中の「伝統」)などに比較してみると実に都合がいい。

本来異質な要素を自己の維持に不可欠な一部として取り込み、その「元異質たち」も含めた全体として再生産されていく。あるいは新しい政権が成立する際に、それ以前からあったが途絶えかかっていた慣習を改めて制度化し流用する。取り込まれた方は同一性が失われ単なる機能に解消されてしまことなく、細胞異変があれば細胞生物独立した生物としての振る舞いを取り戻すこともあり得る(少なくともあり得ると見なされる。226事件を想起せよ)。天皇機関説ならぬ天皇ミトコンドリア説。

文化じたいが多かれ少なかれこういう性質を持っているのだが、特に日本はその傾向が顕著というか、世界中に普遍的にみられる文化現象の一例というだけでは説明のつかない点が多い。(なぜ先端技術の粋を凝らした構造物を建てる前に、土地の霊を鎮めるための宗教儀礼をやるのか?なぜ参加者は誰もその宗教信者でないのか?わけがからない。)こういう部分を説明するうえで本書の示唆する構造は役に立つ。その応用系として、古今伝授についても似たようなことが云えるのではないか

2020-01-25

anond:20200125113213

神道なの?仏教なの?って聞かれるから困るから神仏習合教です!みたいな…

神仏習合された宗教名前つけてくんねーかな

外人が「日本仏教神道どっちが多い?」とか言ってる時あるけどどっちかだけしか信じていません!!!って人はほぼ存在しないやろ、仏壇もあれば初詣にも行く

2019-10-24

日本人無宗教

ってよく言ってる人いるけど、本気で言ってるのか?

いや、初詣に行くとか、クリスマスを祝うとか、そういう表面的な話ではなく、

日本人歴史文化の中に刷り込まれている宗教観自覚していないだけで、あると思うぞ。

そもそもインドから中国を経由して流れてきた仏教を、自分たちローカルな神を混ぜて魔改造したのが

教科書でも習う本地垂迹神仏習合であるわけで、

そのときから日本ではキリスト教イスラム教のように強い神の宗教、強い経典のある宗教ではなく、

生活の中に溶け込ませることで、透明化させた宗教を作り続けてきたわけよ。(もちろん宗教から要請もあれば、時の権力者から要請もあって)

から魔改造こそが日本宗教の一つの駆動力であって、

現在象徴としての天皇もなんかよくわからんけどすごい人、尊敬できる人って思ってる人が多い時点で、

広い意味での日本宗教の一つに組み込まれているわけ。

なんかしらんけど天皇すごいし尊敬できるって思ってる一般人は、別に国家神道をあがめているわけではなく、

国家神道なんかと天皇は切り離されてなんかすごいって思われてるわけで。

その、なんかしらんけどすごいし、尊敬しとこ(ご利益あるかもしれないし)っていうのがそもそも宗教の源泉だしね。

というわけで、自分無宗教です!と恥ずかしげもなく言える人は、自分思想の中に入り込んでいる宗教観を今一度確認した方が良い気がする。

天皇制に賛成とか反対とかおいといて。

2019-10-20

anond:20191020131521

いや、正しいんだよコレ反論として。容姿、国力、治世より文化を蔑む方が実はヘイトとして遥かにタチが悪くて、煽りや発奮を促してるなら元増田は一流とも言える。

主観ではドラゴンフェニックス辺りは宗教ディズニーの影響が大きいけど、最古の画像はカッコ悪いよ。

大体、日本戦争負けたじゃん? 神仏習合もしちゃったじゃん? 文化否定偉人や祖霊崇拝、宗教神話から民族否定に繋がるから見逃しちゃダメなんだよ。

勝ってれば八犬伝だって雨月物語だって神話級になってないとも言えないし、日本神話もそう。

だいだら法師はヘカトンケイル級だし、海坊主シーサーペントだし、空海だって神仙匹敵するし、鵺は神獣だしカムイユタを持って来てもいい(?)。

中国宗教禁止からこういう論争にはならないだろうけど、神話文化優越人種国家の根幹と容易に繋がり得るので看過してはならない。

アーサー王なんて王統、皇統とも関係してくるんだからイギリス王室に比べて皇族マイナーダサいって話になりかねないよ?

から反論するのは正しいんです。

……個人的にはそう思いますです、ええ。

そういうのと切断してアニメゲームで笑い返すのも好きなんだけどね。

2019-03-02

都市伝説習合について

Momo challenge」というものにわかに出てきたので。

結局はフェイクニュースだったらしいけれど、まあ都市伝説らしいなぁと。


Momo challenge」はアプリだったり、動画サイトで閲覧している所に突然登場する。

最初の画面ではひきつった女性の顔(実際はアート作品不正使用なのだが)が出てきて、指令を表示する。

それで、その指令を聞かないとひどいことが起きるだの、答えても指令がどんどん過激になるだの……そういった概略になっている。

何故話題になったかは時の運だとは思うけれど、非常に都市伝説のある特性を有した作品ではあるなぁと思う。

その性質とは、都市伝説習合である


そもそも都市伝説というのは、人々の噂の集合体である

様々な媒体を介して、話に尾ひれがつき拡大解釈が行われたり、ものによっては意図的改竄すら行われつつ、それらは拡散されていく。

一方で淘汰された都市伝説は、大半は消滅するが、残りの半数くらいは性質のみが抽出される。

そして、それらを掛け合わせて新しい都市伝説魔改造されるか、既存都市伝説に上書きされて「習合」していくのだ。

例えばかの「怪人赤マント」は、「赤い紙 青い紙」の選択/即死性と、「口裂け女」の行動範囲習合してできた都市伝説である

現代でも、八尺様が山女や悪皿の性質を有していたり、こっくりさんお稲荷様が同一視されていたり。

神仏習合……とはいかないまでも、数多くの都市伝説が合わさり、進化をしているわけである


さて、件の「Momo challenge」であるが、これの元ネタ実在のものであるが「青い鯨」だろう。

詳細は最近ジャンプで似たものを扱っていた漫画もあることだし割愛する。

ここに、本家にはない「指令を聞かないとひどいことが起きる」という都市伝説特有ルールを破ることに対する懲罰性が加わった。

動画サイトを介する」部分は貞子をはじめとする近代ホラーの一要素だし、「突発的なポップアップ」は「赤い部屋」の性質である

また動画サイトの方では一方的な通告のみを行うため、「件」の性質も含んでいるのかもしれない。

この様に性質を分解してみると非常にパッチワークされて作られた都市伝説であることが分かる。


ここまで顕著に多作品が継ぎ接ぎされた都市伝説はあまり例がないため、習合が多い都市伝説の中でも貴重なサンプルケースである

今後もこのような習合性を活かした作品が洗練され、新たな都市伝説へのブレイクスルーに繋がっていくことを楽しみにするばかりである

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