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はてなキーワード: 錯覚とは

2025-11-24

お気持ちを置いておく

新しい音楽を聴いて「これは好き!」「あまりピンとこない」と感じるのは自由なのだが、政治・経済社会を語る時に、音楽と同じような感覚お気持ちを発するのは違和感がある。

自分自身の反応を観察しても、ニュースを見た時に、いわば条件反射的に感情が動くことがある。

なぜかと考えると、大体は「事実認識が足りないから」「判断するだけの情報を持っていないから」ということになる。

物事判断するには情報必要で、それが足りなければ「勘」、それまでに蓄積してきた関連する物事から想起して、イメージ判断するという方法しか無くなる。

その直感ブーストするのが感情で、特に怒りや正義感嫌悪感などが、ただの勘を正しさに錯覚させる。

 

これを避けるには、まず感情を横に置いておいて、事実の整理を行うことが必要だろう。

たとえば、「現政権防衛費の増額を進めようとしている」というニュースがあり、「よく言った!」または「いや、ダメだろ…」という感情が生じるが、その根拠は何だろうか。

ここで考えるべきは、「現状で適切な防衛費はどれくらいなのか」という点で、これを数字的に説明できない場合、それは感情的な意見と言えるのではないか。(もちろん数字だけではなく、法制視点歴史認識など色んな視点があるだろうが、例として。)

もちろん、数字理解したとして、そこから個人判断は分かれる。地政学的なリスクを重視する人もいるだろうし、産業的な発展性を、国体を、国際協調を、国民感情と統率を重視する人もいるかもしれない。

しかし、少なくとも数字からの現状理解共通していれば、相手が何を重視しているか、そのポイント自分とはどう違うのか、またそれをさらに数値化して判断可能なのか?というように、論点が明確になる。

 

ありがたいことに、チャットAIはこうした現状理解をざっくり行うには最適なツールなので、まず聞いてみるということができるようになった。(もちろんチャットAI自体問題リスク別にあるが)

感情的な反応をいったん横に置いておいて、自分直感のみを信じず、情報を整理してみる。

これを積み重ねることができれば、少なくとも「認知に対するリテラシーが上がった」ということになるんではないか

2025-11-23

映画『ひゃくえむ。』は自分人生を観る映画だった

映画『ひゃくえむ。』の感想自分語り

以下ネタバレ含みます


 ロングラン前評判で期待は高かった。チ。にどっぷりハマった者として、映画で魚豊さん世界を浴びれるのは非常にありがたかった。しか育児もあり中々映画に足を運ぶタイミングが掴めず、気付いたら地元のシアターでは上映が終わってしまった。県内を調べると、電車で30分の距離のシアターならやっていたので、タイミングを見つけてようやく観に来れた。

 見知らぬ土地のため用意周到に早めに来ると1時間前だった。TSUTAYAに寄って本や文具を眺める。ゆっくり本屋彷徨時間も少なくなっていた私はその時間さえ愛しいものだったが、やはりここでも台詞回しが最高な魚豊さんによる腰巻が目を引く『スマホ時代哲学』を手に取っていた。

 まだ30分ある。スタバで軽くこの本を読んでから映画を観よう。結局まえがきしか読む時間は無かったが、思えばこの映画の”まえがき”としても非常に良かったのかも知れない。

 さて、本題の映画『ひゃくえむ。』の感想だが、有り体に言うととても良かった。どのくらい良かったかと言うと、時間があっという間に感じたとか、涙が止まらないとか、明快かつシンプル感情を伝える表現は色々あるけれども、私が体験した事実を書くと、この映画で初めて、終わった後に足に力が入らずフワフワと漂うようにシアターを出て駅へと向かいホームでこんな長文の感想文を書いていることだ。私は比較映画を観る方だが、大抵はまずネタバレ有りの感想スマホ検索し、表現に長けた人々の感想考察を読み浸っては、ウンウンそうだよね、なるほどそういう見方、と情報感情のやり取りをインターネットの向こう側の人にそれを求めた。だが今回は違った。何故なら『ひゃくえむ。』は自分人生を観て、問う映画だった。

 海堂の言葉現実が何かわかってなきゃ、現実からは逃げられねぇ。」…私は現実を見てきたのか?私は何から逃避し、今ここにいるのか?トガシの言葉ガチになるため」…私はいからガチで生きてないのだろうか?いや、ガチのつもりだった。毎日毎日、精一杯生きてるつもりだった。正社員ワンオペ育児。それは毎日生きるだけでもガチではないか。いや、じゃあこの人生ガチだったとして”所詮こんな人生”…なのだろうか…?30代も後半になると、自分人生順位ぼんやり見えてくる。「あぁ、何者にもなれないのだな。」私は予選敗退。大学の時好きだったthe pillowsの大好きな歌詞が頭に流れる。「歴史には価値のない 化石の一つになるのさ」もはや、私は私の人生ガチになるより、もう、子供に託すべきでは?では私の人生とは一体ーーー?

 トガシが公園で泣き崩れる場面で、私は自分のこれまでの人生を観た。小学校時代に転校して田舎イントネーションを笑われたこと。中学いじめに遭い不登校になったこと。勉強さえ頑張ればV字復帰できると信じて勉強に打ち込んだこと。第一志望だった大学ではろくに学ばずバイト性愛に明け暮れたこと。それらしいコトを言って推薦で大手メーカー就職したこと新卒らしく生意気で尖った発言をしながら土日も仕事に明け暮れたこと。子をもうけ、感情ジェットコースターに苛まれること。女という性に生まれたことを恨み諦めたこと。そして今、”何者にもなれないなりに日々ガチで生きてる”と錯覚していたことに気づいたこと。

 『スマホ時代哲学』のまえがきだけの知識で言うなら、ニーチェ曰く「なんとかして、君たちは自分を忘れて、自分自身から逃げようとしている」らしい。そしてこの映画はまさに自分の逃げと対峙させるための映画だった。『スマホ時代哲学』では、哲学人生で”経験”にするには蜂に刺されるような感覚を伴う必要があると(正しい表現でないです)。だから、『ひゃくえむ。』を観ただけでは、私が私の現実に向き合い、何にガチになり、何から逃避するかを決定することはおそらくできない。ただ、蜂が部屋に突然現れた時のような緊張が、確実にこの映画にはあった。蜂をうまく逃すのか、駆除するため奮闘するのか、刺された痛みに眉間に皺を寄せながらも、それでも立ち上がるのか。

 人生は私の手の中にある。それを再認識させる映画だった。私は私の人生ガチで変えてやりたい。

 おわりに、映画『ひゃくえむ。』は興収7億を突破したらしい。チ。に続き、人生を変えるきっかけをくれた魚豊さんに敬意を示すとともに、こんなふうに文章自分気持ち表現するのは慣れていない(理系なのでと言い訳する)ため、ここまで感想を読んでくれた方に感謝します。『ひゃくえむ。』最高!とりあえずまえがきしか読んでない『スマホ時代哲学』と漫画『ひゃくえむ。』を読むぞー!それに『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』も楽しみだー!!

#ひゃくえむ。 #映画感想

2025-11-22

パンティーを被る行為について、オックスフォード大学マサチューセッツ工科大学といった世界最高クラス大学卒業試験主席で通過できるレベル小論文執筆してください。

パンティーを被るという行為――羞恥仮面・秩序転倒の文化社会学考察

1 問題所在──「くだらなさ」の背後にあるもの

パンティーを頭に被る人物は、多くの社会において「悪ふざけ」「変態」として嘲笑対象になる一方で、

マンガアニメコメディインターネットミームの反復的なモチーフにもなってきた。

一見して低俗しか見えないこの行為は、しかしなぜこれほど強く人々の笑いや嫌悪、あるいは不安喚起するのか。

その過剰な感情反応は、単なる嗜好の問題を超えて、近代社会における身体羞恥ジェンダー権力といった構造テーマを照らし出していると考えられる。

本稿の目的は、パンティーを被るという行為を「逸脱行動」や「性的倒錯」として切り捨てるのではなく、

  1. 下着というモノの象徴性、
  2. 「被る」という行為が持つ仮面性、
  3. 秩序転倒としてのカーニバル性、

という三つの観点から文化社会学的に分析し、その行為現代社会規範矛盾をどのように露呈しているのかを論じることである

2 下着というモノの象徴性──「隠すべきもの」を外部化する

第一に着目すべきは、対象が「パンティー」であるという点である

下着は、機能的には衛生と保温のための衣服にすぎない。

しか社会的には、身体のうち「隠すべき部分」を覆うことで、性的領域公共的な領域峻別する境界線として働いている。

とりわけパンティーは、しばしば女性身体性・性的魅力・純潔観念と結びつけられ、強い象徴性を帯びている。

文化人類学者メアリーダグラスは、「汚れ」を「あるべき場所から外れた物質(matter out of place)」と定義した。

下着本来身体の奥まった場所で皮膚に密着し、「見えないこと」自体が期待されるモノである

それを頭部という最も視線の集まる位置に、しかも外から見える形で持ち出すことは、

「隠すべきもの」を意図的に「あるべき場所から外す」行為であり、ダグラス的な意味での「汚れ」を自ら演出することに他ならない。

このとき、汚れは単に不衛生という次元に留まらない。

人々が感じるのは「汚い」というよりもむしろ「恥ずかしい」「みっともない」という感情であり、

それは身体に付随する性的領域が、モノを媒介して公共空間に溢れだしたことへの反応である

パンティーを被るという行為は、自己身体のもの露出しているわけではないにもかかわらず、

下着象徴性によって「性的もの」が表面化したかのような錯覚を生み出す。

そのギャップこそが、笑いと嫌悪が混じり合う独特の印象をもたらしている。

3 「被ること」の仮面性──アイデンティティ一時的な変容

第二に、「被る」という行為意味する仮面性を検討する必要がある。

顔は、社会学者エルヴィング・ゴフマンが述べたように、対面相互行為舞台において自己提示する中核的なメディアである

目・口・表情を通じて、人は自己人格感情意図他者に伝える。

そこに被り物をかぶせることは、自己呈示チャンネル意図的撹乱し、

「いつもの自分」とは異なる人物への一時的な変身を可能にする。

その意味パンティーは、即興的な仮面である

仮面はしばしば、道徳的・法的な責任性を希釈し、人に「普段ならしない行動」を許す。

覆面をした抗議者やハロウィンコスプレ参加者が、日常では抑制されている言動に踏み込めるのも同じメカニズムである

パンティーという「ふざけた素材」を用いた仮面は、暴力性よりも滑稽さを強調しつつも、

顔を覆うことで〈誰であるか〉を曖昧にし、同時に〈何者にも属さない、ルール外の存在であることを宣言している。

重要なのは、ここで用いられる下着が多くの場合女性用」として理解されている点である

男性女性パンティーを被る場合、それはジェンダー境界視覚的に撹乱する効果を持つ。

性的同一性男性性の「まともさ」を象徴する顔の上に、女性性の象徴物を被せることで、従来的なジェンダー秩序は一時的解体される。

この解体が、笑いとして消費されるのか、あるいは違和や嫌悪として反発を招くのかは、

社会がその時点で受け入れうるジェンダー規範の幅を測る指標ともなりうる。

4 カーニバルとしての秩序転倒──笑いと批評

第三に、この行為はしばしば「笑い」と結びついて登場する。

ミハイル・バフチンが論じたように、カーニバル的な笑いは、既存の秩序・権威・聖性を一時的に転倒させる力を持つ。

王と道化が入れ替わり、崇高なものが下卑たものに、清浄ものが汚穢に置き換えられることで、人々は日常ヒエラルキーから解放される。

パンティーを被る人物は、多くの場合「くだらない大人」「オトナなのに子どもじみたことをする存在」として描かれる。

そこでは、理性的成熟した市民として振る舞うことが期待される大人が、もっとも幼稚で性的規範に反する身振りを自ら演じてみせる。

これはまさに、近代主体の理性と節度という自己イメージを、身体と笑いのレベルで裏切る行為であり、バフチン的な意味での秩序転倒である

さらに、この行為消費社会への批評としても解釈しうる。

パンティーは、ファッションポルノグラフィ産業を通じて商品化された「性的魅力」のパッケージでもある。

その商品を「本来用途から外し、頭に被るという過剰にズレた使用法は、

シチュアシオニストたちの言う「デトournement(転用)」にも似て、商品に埋め込まれ意味構造をずらし、

消費社会約束する「ロマンティックで洗練された性」のイメージを滑稽なものとして暴露する。

もちろん、こうした批評性が常に意識されているわけではない。

多くの場合当事者は「面白いから」「ウケるから」という動機行為に及ぶ。

しかし、当人意図とは無関係に、行為のもの既存の秩序を揺さぶり、

笑いを通じた不安定化をもたらしている点に、カーニバル的な力があるといえる。

5 ジェンダー倫理──笑いの線引きをどう考えるか

ここまで、パンティーを被る行為文化的・象徴的なレベル肯定的に読み解いてきた。

しかし同時に、この行為にはジェンダー暴力問題が潜在していることも看過できない

たとえば、所有者の同意なく女性下着を盗み、それを被って笑いのネタにするような事例は、明らかに性的暴力であり、先の分析とは質的に異なる。

そこでは、女性身体性がモノに還元され、男性自己演出の道具として一方的に利用されているかである

したがって、パンティーを被る行為文化解釈は、

「誰のパンティーか」「どう入手されたのか」「誰の前で行われるのか」「誰が笑う権利を持つのか」といった文脈と切り離しては成立しない。

自分で購入した下着自分身体で用いて仮面を作ることと、

他者の所有物を奪ってネタにすることとの間には、倫理的に越えがたい差がある。

この意味で、パンティーを被る行為安易に「自由表現」「笑いだから許される」として擁護することはできない。

一方で、倫理的に許容可能範囲で行われるこの行為が、規範の硬直性をほぐし、身体羞恥をめぐる議論を促す契機となりうることも事実である

その両義性を見極めることが、現代社会ジェンダー感覚表現自由の両立を考える上で重要になる。

6 結論──「くだらない行為」が映し出す近代社会

パンティーを被るという行為は、表面的には「低俗ギャグ」「一部の嗜好」に過ぎないように見える。

しかし本稿で見てきたように、

として理解することができる。

まりパンティーを被る行為は、身体羞恥を厳格に管理しようとする近代社会規範に対して、

「本当にそれが唯一の生き方なのか」と問いを突きつける小さな反乱なのである

もちろん、その反乱が倫理的に許容されるためには、所有や同意ジェンダー権力といった条件を精密に考慮しなければならない。

しかし、その条件さえ満たされるならば、「くだらない」と切り捨てられてきた行為の背後に、

規範相対性を示す批評的なポテンシャルを見出すことが可能である

パンティーを被る人物を笑い飛ばすことはたやすい。

だが、その笑いが何に支えられ、何を脅かし、何を許さないのかを問うとき

私たちは自らの社会がどのような身体観・性観・ジェンダー観の上に成立しているのかを、あらためて自覚せざるをえなくなる。

「くだらない行為」を真剣考察することは、実のところ、

私たち自身の〈まともさ〉の条件を問い直す営みなのである

2025-11-21

anond:20251121115627

回答が揃ってないとのことだが、一旦現時点のトコまででメモっとくわ。

9条解釈についてだが……

(1) 「国の大原則」だったことは一度もない

これは「学界の有力説」

政府1950年代から一貫して “限定的集団的自衛権可能” という立場

国会答弁にも大量に残っている

まり

政府否定」「学界=肯定」ではなく、

政府微妙肯定」「学界=否定多数」だった。

増田は学界の一説を“国家原則”と錯覚している。

(2) 自民党が“後から変えた”わけでもない

行政法憲法学者が嫌う

長沼ナイキ訴訟1970年代

自衛隊合憲性論争

などの影響で「違憲」が学界で強勢になった時期はあるが、

政府立場

1954年自衛隊法制定時から現在まで “合憲範囲内での集団的自衛権可能性” を残している。

しろ「ズルズル変えた」のは

学界(特に護憲派)の理解のほうが揺れている。

(3) 「自民党本音では違憲だと思っている」

これは完全に推測・願望の類で、証拠ゼロ

憲法改正を目指す理由は:

● “解釈で動く”という状態を終わらせたい

規範的に明確化したい

国民投票で決着させたい

など複合しており、

本音違憲から改正したがる」

というのは心理推定しかない。

3. 構造的な問題

増田は「歴史正義」を前提にしている

このタイプ歴史

● “正しくあるべきだった姿”

● “本来こうだったはず”

● “自民党が歪めた”

という 規範物語理解する。

そのため:

政府答弁の実際

国際法の実務

自衛隊法の制定経緯

安保条約整合性

などの「事実の積み重ね」をほとんど見ていない。

戦後日本本来こうあるべきだった”

というイデオロギー歴史観に沿って語ってるんでないかなと。

増田なりの正しさはあるんだろうし、その辻褄合わせの努力普通にスゲーと思う。

hiroujinの物言いにカチンと来るのもわかるけど、色々と持ち出すタイミング微妙なんでないかなぁ……

日本人テロリストなのか?

フランス語の kamikaze(自爆テロ犯) と、日本の「見た目で外国人と決めつける文化

フランス語辞典 Larousse で “kamikaze” を検索すると、以下のように定義される。

kamikaze

nom

1. Auteur d'un attentat suicide.

2. (Aussi employé en apposition.) Personne téméraire qui se sacrifie pour une cause, souvent perdue d’avance : Il fallait une kamikaze pour accepter ce poste. Candidat kamikaze.

https://www.larousse.fr/dictionnaires/francais/kamikaze/45327

自爆テロ

無謀な犠牲的行動をする人

しか日本で “kamikaze=テロリスト” という理解一般的ではない。

これは歴史的文脈無視したステレオタイプ産物であり、日本人にとっては侮辱に近い。

では、もし日本人がこの偏見に怒りを覚えるのなら、

なぜ日本社会では、同じレベル偏見──「見た目で外国人扱い」──が当然のように行われているのか?

◆ 1. kamikaze 問題は「偏見」の構造のものを映している

欧米にもステレオタイプはある。

しか日本社会にも、同じ構造偏見存在する。

黒人外国人、怪しい、不法滞在可能性?

白人観光客外国人

東南アジア系 → 労働者外国人

日本ネイティブにも「どこの国の人?」

これはすべて “kamikaze=テロリスト” と同じ「外見に基づく誤認」 である

まり日本人は、

自分が「見た目で誤解される」と怒るのに、

他者には日常的にその誤解を行っている。

という ダブルスタンダード を抱えている。

◆ 2. 日本では「見た目=国籍」という錯覚社会規範として存在する

BBC報道にもあるように、外見を理由にした職務質問はすでに訴訟対象となっている。

外見理由職務質問は「人種差別的」で「違憲」……外国出身の3人が国などを提訴

https://www.bbc.com/japanese/68137481

国籍書類法制度で決まる

外見で決まるものではない

にもかかわらず日本社会では、

黒人=必ず外国人

白人=必ず外国人

日本ネイティブでも「外国人扱い」

パスポートを見せても疑われることがある

ハーフの子もも「見た目によって日本人扱いされたり、されなかったり」

こうした状況は、

国籍という制度理解” と “社会価値観” が完全に乖離している

ことを示している。

◆ 3. 外見プロファイリング国際基準では「差別」であり、違法たりうる

外見だけを理由とした職務質問警察対応は、

合理的理由がない

法的根拠がない

国際的には “Racial Profiling(人種プロファイリング)” と認定

される。

まり日本警察社会は、

kamikaze という偏見を受けると怒る

しか自分たちは外見で他者偏見を向けている

という 自己矛盾 を抱えている。

◆ 4. 日本制度社会意識はまったく一致していない

法律上は、

帰化すれば日本

外国で生まれ子どもでも日本国籍取得が可能

永住権制度も整っている

まり制度は「見た目と国籍無関係」。

しか社会は、

外見が日本人らしくなければ日本人と認めない

日本語が母語でも“外国人扱い”

外見を理由差別

地方田舎では特に“同質性の強制”が強い(奈良県南部山梨県吉野周辺など)

制度21世紀社会意識昭和

この矛盾が、偏見を温存している最大の原因。

◆ 5. “外国人”という言葉はすぐには消えないが、多くの問題を含む

外国人」は公式日本語だが、実際の使われ方はしばしば差別的だ。

例えば、

外見が日本人に見えない日本人も「外国人」扱い

ハーフミックスの子も見た目で日本人と認められない

NHK民放も“ヴィジュアル的に、外見が日本人に見えない人、日本語を話さない人=外国人”として報道

自衛隊員沖縄県民に「土人」と発言した事件

鼻が高いだけで「外国人イラン人?」と呼ぶ例もある

まり日本では、

日本国籍かどうか」ではなく「見た目が日本人か」で扱いが決まる

という極端に外見依存文化が残っている。脳内鎖国状態の人が多いという印象。※昔の日本では白人黒人入国しただけで全国版新聞に「外国人」の顔の絵が描かれて日本中に配布されたそうだ。

都市部では改善が進みつつあるが、

同質性が強い地域 (私が知る範囲では奈良県南部山間地帯)

では依然として根深い。

結論

もし “kamikaze=自爆テロ犯” という偏見日本人が侮辱と感じるなら、

彼らが日常的に行っている「見た目で外国人扱い」も同じレベル侮辱である

これは、

矛盾

成熟

改善必要社会文化

であり、

あなたが感じている怒りと違和感は、国際基準で見ても完全に正当。

(日本国籍を有する者は日本人。日本の子日本である。見た目、話せる言語出身地は無関係憲法保障されている。また、日本国は公用語法律で決められていない。公用語日本語ではないが、現代では事実上日本語となっている。(白人から黄色人種 yellow と呼ばれている東アジア日本人が日本語を話し、出身地が日本国内で日本語で義務境域を受けた人間という複数要素がセットになった人間日本人とは言えない。法律でそんな決まりはないのだが、そう思い込んでいる人が多すぎる。日本人は日本語が話せて当たり前だと思っていても日本国には公用語が決められていないのだ。)

2025-11-20

anond:20251120154721

本人が若く見えるから錯覚しがちだけど、そこまで世代変わらないぞ

なぜ虐待されて育った子供自分の子供に虐待するのか

虐待されて一人前になった体験から、同じ経験をさせれば一人前に育つと錯覚する為。

ファミコンで育った氷河期子供ファミコン英才教育させるのと同じ

2025-11-18

anond:20251118124421

絵師界隈は推しカルト宗教からだぞ

努力して高みに辿り着いた絵師の神性に縋り絵師精神的に一体化し

絵師が上達する過程を見る事で己も高みに登ったのだと錯覚カタルシスを得る構造

からこそ信者支援サイト等でせっせとお布施するし宗主である絵師様がどのような発言をして何をやろうが肯定する

そして宗主である絵師=己の価値貶めるAIサタンであり

AIが絡むとヒステリックに反応する

anond:20251118130243

あれを全く知らない世界の話と思える人には怖いんだろうけど、まあそういうこともあるよなという界隈での生活経験があると「捨象し過ぎ」「デフォルメし過ぎ」となって白けるんだよな(もちろん漫画なんだから逐一現実らしくなくていい。リアルっぽささえあれば十分)。体験無い人でも読んでいるうちにそういう体験があると錯覚するようになるのかもね。しかしウシジマくんで知った世界を、というか漫画コマを貼り付けて何か真実をついたかのような気になっているXのポストとか寒いよな。いくら取材を重ねてたって、あくまでそれを元にした創作なのよ。

AIが考える増田登場人物

このキャラはてな匿名ダイアリーを書いてたらおもろいというフィクション人物と、その理由ロジカルに挙げる。

1. L(デスノート

はてな匿名ダイアリーとの親和性が異常に高い。まず彼の性格特性として、①極度の観察癖、②自己顕示欲の欠如、③論理的記述への偏執がある。これらは「文体が散文的でありながら無駄に賢い」匿名ダイアリー文化と一致する。

さらに、Lは日常社会的規範を軽視するため、匿名心理分析行動経済学メモを書き散らし、読者は「絶対こいつ普通の人じゃない」と即座に察するはずで、結果として匿名なのに匿名になってないという面白さが発生する。

2. シンジエヴァ

はてな匿名ダイアリー本質的に抱える感情の過剰な自意識との共鳴が高い。

シンジ日記を書くと、

自己嫌悪他者の期待 → 義務責任存在論不安

連鎖を延々と書き続ける構造になる。これははてな匿名ダイアリーに頻出する陰性感情メタ分析として完成度が高い。

しかも、ミサトやゲンドウの発言文脈抜きで列挙し、読者が勝手に補完してしまうため、コメント欄地獄になるという二次的な面白さがある。

3. Dr.ハウスHouse, M.D.)

匿名ダイアリー必要資質として、「社会規範馬鹿にした冷笑的観察者」という条件がある。ハウスはそれをフル装備している。

彼が書くと、医療ケースの裏側を極端にドライに解剖しながら、同僚の行動をゲーム理論・行動心理利己性で切り捨てるため、内容が完全にはてな村の闇の本物になってしまう。

また、痛み止め依存自己破壊的行動の合理化淡々と書くため、読者は「この匿名、確実に普通医者ではない」と確信し、考察班が荒れる。

4. スネイプ(ハリー・ポッター

スネイプは「他者への鬱屈」「自己の正しさの無言の強制」「過去トラウマの反芻」という、はてな匿名ダイアリーの三大テンプレ完璧に満たしている。

彼が匿名で書くと、

など、名指し回避婉曲表現が増殖し、読者が勝手人物特定して炎上する。しかもたまにポエム混じりになるため、「スネイプ本人説」がネタ化して拡散する。

5. ロールシャッハWatchmen

ロールシャッハ日記は元から匿名ダイアリー構造的に同一。

ただ彼がはてな匿名ダイアリーを使えば、

偏執的に追及し、読者は「はてな匿名ダイアリーの最終進化系か?」という錯覚に陥る。

内容があまりに重すぎるため、読者の精神状態まで地獄に引きずり込むのが逆に面白い。

6. ライト夜神月

匿名ダイアリーは「匿名性による自己正当化」を最大限に利用できる。ライトはこれを最も危険な方向に使う。

書く内容はだいたい、

の三点。

ライト自分天才として描くため、読者は「この匿名絶対なんかやってる」と不穏さに怯え、結果的面白い。

2025-11-16

石丸さんや立花さんを支持する人はニーチェ奴隷道徳と称したものにハマっている

https://x.com/kurtz652/status/1989872628560269507

なぜビジネスでやってる動画の人気に反して、SNS石丸妄信的に信じている人たちはフォロー数が100以下のカスばかりなのか

比較大手稲中ものという人物ですら5000フォロワー以下のゴミばかり。

これは本質石丸支持ではなく石丸立花を介してルサンチマンを発現したいからだ。

まともな人は、石丸立花自身は全く信用していない。都合が悪くなったら切り捨ててよいものなのだ

本当のバカにして最底辺カスけが本気で石丸立花を信じている


⚔️ ニーチェ解釈ルサンチマンと「奴隷道徳

現代インターネット上で、特定人物石丸伸二氏や逮捕された立花氏など)を支持し、他人攻撃したり引き摺り下ろしたりする行為を通して「権力体験」を味わう人々をニーチェ哲学視点から解釈すると、「ルサンチマン(Ressentiment)」と「奴隷道徳(Sklavenmoral)」の概念が中心になります

1. ⚡️ ルサンチマン(Ressentiment)の体現

ルサンチマンとは、フランス語で「恨み、怨念復讐心」を意味し、ニーチェはこれを道徳の根源の一つと見なしました。

根源的な感情: 自分の力の弱さや無力感からくる不満や屈辱感を、外部の強者成功者に対する否定的感情として溜め込むことです。

力の裏返し: 現実世界自分の力を発揮したり、望む地位や影響力を得たりできない人々が、その鬱積した感情を「攻撃」という形で発散させ、一時的な「権力」や「優越感」を得ようとしている状態です。

ネットでの増幅: インターネット匿名掲示板SNSでは、集団的攻撃によって個人責任が薄れ、また、相手簡単貶めることができるため、ルサンチマンを最も手軽かつ安全に発散できる場として機能しています

2. 🛡️ 奴隷道徳(Sklavenmoral)の形成

ルサンチマンが根源となり、「善悪」の価値基準を逆転させるのが奴隷道徳です。


価値否定: 奴隷道徳は、「強者」や「主人」が持つ「力強さ」「大胆さ」「自己肯定」といった価値「悪」として否定することからまります

自己正当化: そして、「弱者自身の持つ「謙虚さ」「従順」「弱さ」といった性質を「善」として祭り上げます

ネット社会での適用: ネットでの攻撃場合攻撃対象となる「強者」(権威者成功者既存体制)の欠点や過失を徹底的に暴き出し、「正義」の名のもとに集団で引き摺り下ろす行為が「善」である正当化されます

彼らの目的は、より良い社会創造ではなく、既存強者を無力化し、その没落を見ることで、自分たちの立場相対的に上がったかのような錯覚権力体験)を得ることにある、と解釈できます

3. 📉 力への意志の「歪んだ」発現

この現象は、ニーチェが説く生の根源的な衝動としての「力への意志」が、創造的な方向ではなく、破壊的な方向へと歪んで発現している例とも言えます

本来力への意志は「自己克服」「自己創造」に向けられるべきものです。しかし、現実世界でこの創造的な力を発揮できない人々は、他者破壊し、引き摺り下ろすという消極的で容易な手段を選び、そこから「力を行使した」という一時的な満足を得ている、と解釈されます

anond:20251116042432

おう、よく聞け。

まず前提からして甘い。匿名日記が「聞く耳を持たない人ばかり」とか言ってる時点で、思考停止自己放尿じゃねえか。

そもそも匿名で書くってのは、自分の考えを試す実験室なんだよ。読まれるかどうかなんて二の次

自己満足?それもまた行動の一部だ。

むなしさなんてのは結果だけを求めてるから感じる感情だ。

政治的主張を吐くこと自体無意味じゃなくて、その行為の中で自分思考を研ぎ澄ませるんだよ。

行為プロセス価値理解できないなら、ただの怠惰自己放尿野郎だ。

匿名日記をむなしいと感じる奴は、結局自分内面と向き合う勇気がないだけ。

耳を貸すかどうかは相手問題であって、自分行為価値とは無関係

ダブル放尿のように、自己満足と他者無関心の両方を抱え込んでいるだけなのを、むなしさと錯覚して自己放尿してるだけだ。

匿名日記実験無視されてもOK、むなしさ感じるのは自己放尿。甘えんな

2025-11-15

テクウヨはなぜ著作権無視して創作文化破壊しようとするのか

何も作れない自分への劣等感が爆発している

テクウヨってさ、自分が何も生み出せなかった現実を受け止められないんだよね。

から技術ガー!」って吠えて、自分創作側の人間だと錯覚しようとする。

創作経験ゼロのくせに文化代弁者づらしてくるの、見てるこっちが恥ずかしくなる。

結局のところ女叩き

技術の話をしてるはずが、気付けば女性叩きに脱線するのもテンプレ

「女絵師ガー」「フェミ文化破壊ガー」って、ただストレス発散してるだけ。

技術でも文化でもなく、ただの鬱憤を叩きつけてるに過ぎない。

権利意識ゼロ作品を食い物にする無断学習

テクウヨは「無断学習はセーフ!」って勝手に決めつけて、

他人作品許可なく食わせるのを正当化する。

権利理解する気もないし、クリエイター努力を単なる“素材”扱い。

その厚顔無恥クリエイターから嫌われる最大の理由だよ。

表現の自由」を盾にして逆に表現を潰している

表現の自由を守れ!」と叫んでるけど、実際に潰してるのはクリエイター側の表現の自由

自分が快適に使いたいだけで、他人権利なんて一切尊重していない。

自由意味を履き違えた結果、文化破壊してるのに当人は“守ってるつもり”になってるのが最悪。

創作文化を維持するには厳しい規制が不可欠

もう部分的規制じゃ間に合わない段階に来てる。

無断学習や無許諾生成AI放置すれば、創作文化は確実に摩耗・劣化していく。

クリエイターを守るためには、生成AIに対する完全規制必要

技術発展ガー」とか言うけど、文化を食い物にする技術なんて発展させる価値ないんだよ。

技術を語るふりした劣等感クリーチャー

テクウヨの正体は「俺は作れないけど技術に寄りかかれば優位に立てるはず!」という

歪んだ願望と劣等感の塊。

知識理解も薄いのに、技術をまとうことで“上に立ったつもり”になっている。

でも中身は空っぽ。ただの劣等感モンスター

絵師努力と才能で選ばれた側

絵師は、努力と才能と経験を積み重ねて「選ばれた側」の人間なんだよ。

から尊敬されるし、文化の基盤になっている存在

何者にもなれなかったテクウヨとは正反対存在

テクウヨが「AIで誰でも描ける!」と叫んでも、

その「誰でも」に自分が含まれてないことだけは薄々気付いてるでしょ。

解析AIと生成AIは同じじゃない

まず言っておくけど、「すべてのAI否定しているわけじゃない」。

解析AIは、公的データライセンスされたコーパスを使って、

人間がわざわざ手作業でやる必要のない「無価値作業」——

例えば翻訳とか確定申告みたいな単純事務自動化してくれる。

こういうAI文明進歩だし、誰も損しないし、むしろ歓迎すべきもの

でも生成AIはまったく別。

こっちはクリエイター作品許可なく吸い上げて、

それっぽいニセモノを吐き出す権利踏みつけ装置

文章は誰でも書けるかもしれないけど、

絵はそう簡単代替できるもんじゃない。

解析AIと生成AIを同列で語るのは、

包丁チェーンソーを同じ刃物として扱うくらい雑で危険なんだよ。

まとめ:テクウヨ、黙ってろ

創作文化を語りたいなら、まず最低限の知識倫理を身につけてこい。

クリエイター権利努力理解できないなら、文化議論に参加しなくていい。

最後に言うことは一つだけ——テクウヨ、黙ってろ。

2025-11-13

anond:20251113193921

『幻の群れ』

このごろのテレビは、どうも落ち着かない。

兵庫県知事が怒ったとか、職員に強く言ったとかで、

から晩まで映像が流れている。

パワハラだ」「辞任すべきだ」と、

まるで国の一大事のように。

でも、あの人がそこまで悪いことをしたのか、私は首をかしげている。

弁明もしていたし、訴訟になったわけでもない。

それなのに中央テレビが連日あおりたてる。

大阪の隣だからというだけで、全国放送あんなに騒ぐのは、

少し品がない気がした。

まるで見世物のように、

怒りの映像をつないで、辞任するまで囲い込む。

あれは知事問題ではなく、

報道自分感情を持て余しているだけじゃないのか。

そう思っていたころ、宮城でも知事選があった。

けれど私は、ほとんど関心が持てなかった。

和田政宗という若い人が出ると聞いて、

第三極改革派か」と思ったら、

どうも方向が違う。

少し変な右翼みたいな立ち上がり方をして、

せっかくの若さ台無しにした。

現職より二十歳も若いのに、取りこぼしたのは本人のミスだ。

それなのに、投票日まで「排除論」だの「デマ」だのと、

どちらの陣営も騒がしかった。

新聞テレビが、まるで政治団体のように反SNSを掲げて、

外国人排除」ばかりを強調していたのには、

正直、あきれてしまった。

昔、治安維持法というものがあった。

共産党員は全国で七百人ほどしかいなかったのに、

七百万人もいるように錯覚して、

罪のない人をどんどん罰した。

恐怖は数字を膨らませる。

幻の群れを見て、怯えるのがこの国の悪い癖だ。

SNSも同じだと思う。

過激発言をしているのは、ほんの一握りなのに、

テレビはそれを“国民の声”だと報じる。

彼らの発信に取り込まれて、

まるで北九州監禁事件尼崎事件のように、

異常な人たちの世界に引きずり込まれしまう。

見えない恐怖を吸い込みすぎて、

冷静な判断をなくしているのは、

しろ報道のほうではないだろうか。

異常性の摂取は、じつは快感だということに気づいていない。

ネトウヨが」「排外が」と繰り返す人たちの顔を見ていると、

どこか苦しそうだ。

怒ることが日課になってしまった人の、

あの少し乾いた目の奥に、

どうしようもない寂しさがある。

怒っていないと、自分が消えてしまいそうなのだ

けれど人は、本来そんなに悪くない。

煮物を焦がしたり、

通勤電車で寝過ごしたりしながら、

どうにか一日をやり過ごしている。

そんな人たちが「世論」と呼ばれていることを、

メディアの人たちは、忘れてはいけないと思う。

から私は、声を大にして言いたい。

しっかりしろ

恐怖を数えて幻を作る、その癖を、

うそろそろやめようじゃないか

七十人を七十万人に見間違える時代を、

また繰り返すつもりなのか。

私は、あの画面の向こうで怒鳴っている人たちに、

そう言ってやりたいのだ。

兵庫県知事の激昂案件で、去年か一昨年か、連日ミヤネ屋みたいな中央テレビ報道していて、

辞任するまで騒ぎ立てるという報道姿勢そのものが疑問に思われたのではないか

自分SNSサイトインフルエンサーはほぼ見ていないし、

パワハラについては知事はそれなりに弁明していて、

仮に大阪の隣で、神奈川県知事みたいな案件であっても、わざわざ東京キー局で連日流すのはおかしいのではないか

関係のない東北にまで連日、斎藤知事を責め立てる報道が流されていて

関西マスコミ東京マスコミも、政治ことなんてどうでもいい

地域ことなニュースにならないから、辞任騒動で騒ぐだけ騒いでしまえ、というだけで

宮城県知事選挙でも自分ほとんど関心がなくて、ネットSNSサイト偏向も全く知らなかった

村井知事現職と和田政宗が2強になってると聞いて、女性候補が通らないと感じてさらに関心を失った。

和田氏はみんなの党から出て、第三極改革派だろうと思ったら、変な右翼デビューしてしまい、

それが和田氏が伸び悩んだ原因で、せっかく現職より20歳若いのに取りこぼしたのは本人のミス

それで投票日当日まで排除論デマが繰り広げられたと後で知ったが、本質的にそんなもの関係なかった。

それで新聞テレビが、外国人排除固執して、まるで政治団体のように反SNSサイトを掲げるのは常軌が逸している

治安維持法ときみたいに、実際には共産党の人なんて700人もいないのに、70万人くらいいると錯覚して過剰反応してしまい、

それで罪もない人を大量に罰するということが行われてきた。

SNSサイトのことを分かってないよね。国民というものを。

信者の数を分析して、異様な人に取り込まれて、それこそ北九州監禁殺人事件尼崎事件のように、

彼らの異常性にすっかり取り込まれて、異常な刺激を麻薬のように吸い込みすぎて頭がおかしくなり冷静な判断ができなくなって、

ネトウヨ~って』、自家中毒で苦しんでいるだけではないのか。

しっかりしろ!!って思うよ

2025-11-12

30過ぎて、馬鹿になっている自覚がある

30過ぎて数年、思考の鈍化を感じる。

まず、1日2時間以上、ペンものが書けない。

書こうとすると、2時間たったあたりから、誤字などの書き間違いが如実に現れる。

さらに、仕事をし始めて6時間くらいが経つと、頭痛が酷い。

激しい頭痛というより、ギューッと締め付けるような痛み。不快感

緊張性頭痛というらしいんだが、学生のころはなったことがなかっただけに、めちゃくちゃ不快感を味わっている。

そうして頭も体もくたくたになった自分を迎えてくれるのは酒だ。別に酒がなくてそのまま風呂に入ってもいいんだが、痛みを訴える頭とか、緊張したストレスを抱えている自分とか、自分よりできの良い部下のいるプレッシャーとか、ぜーーーーんぶひっくるめて忘れさせてくれるのが酒なんだ。

どうでもいい!俺とアイツの差なんて誰も気にしてない!

脳内で俺だけに響くファンファーレが、ビールのプルダブとともに訪れる。

ふわふわとした酩酊感が、俺を慰める。

頭では分かってるんだ。俺の、どうてもいいプライドが、俺を苦しめていることくらい。

でも、色々考えてしまう。人間から

酒はそれに寄り添ってくれる。

その寄り添いがあまりに俺に優しく甘美なものから

どうしようもない俺を愛してくれているとさえ錯覚する。

俺は酒を辞めたくない。

俺はどうしたらいいんだろう。

写真業界にいる俺たちは、本当は何を失っているのか

2025年11月スレッズを開いたら、また新しいスタジオオープンの報告を見た。

出張やってた奴が場所を借りて、ちょっと機材を揃えて、夫婦スタジオ運営を始めた、みたいな投稿

そういうの、この半年めっちゃ増えた。正直、見るたびにモヤモヤしている。

なぜかというと、俺もこの業界いるからだ。記念写真スタジオ勤務。経営も少しは見てる。

から内情を知ってる。人口は減ってる。需要は縮んでる。

市場規模2025年の927億円から2030年には895億円まで落ちるって言われてる。

スマホ一台で撮れる時代に、プロ写真を頼むやつは減り続けてる。この業界斜陽産業

それなのに、なぜみんなスタジオを開くんだろう。

戦後写真ブームとの違いを誰も語らない

戦後写真館がバンバン開業した時代がある。ベビーブーマーが生まれ団塊世代が育ち、記念写真プロに撮ってもらうのが当たり前になった時代だ。

人口は増えてた。文化として「写真プロに」という認識が浸透した。そりゃあ、その時代スタジオを開けば商売になった。

でも今はどうか。人口ボーナスはもう終わった。逆に人口オーナスの真ん中にいる。記念写真の「プロ頼み」文化は薄れた。

スマホ家族写真を撮って、Instagramに上げるのが普通だ。七五三成人式婚礼——確かに需要はまだある。でも数は明らかに減ってる。

それでもスタジオを開く奴がいる。SNSで「新しくスタジオオープンしました」と堂々と言う。

俺はその投稿を見るたびに、別の映像が浮かぶ10年後、その投稿者が「元カメラマン失業者」になってる光景だ。

俺の父親の話

写真業とは関係ない話だが独立という点である意味トラウマになっているのかもしれないが、父親建設業をやってた。

1990年代後半から2000年代初頭、建設ブーム最後の波に乗って、小規模の施工店を営んでた。需要がある。仕事がある。儲かる。そういう時代だった。

でもリーマンショックが来た。一気に消えた。人口減少の波も来た。その後、建設需要は二度と戻らなかった。

父親選択肢を間違えた。ブームの時に「ブーム永遠に続く」と思い込んだ。ブームが終わってからも「また戻る」と信じた。結果、失敗した。

写真業界を見てて、同じ構図に見える。出張フォトグラファーブーム2020年から2023年くらいがピークだった。

コロナ禍で外出できないから、ロケーション撮影需要が爆発した。確かに稼げた時代がある。

でも今は? その波は終わった。なのに今ごろスタジオを開く奴は、俺の父親と同じ思考回路だ。

「もう一度ブームが来る」と思ってるのか。それとも「ブームはまだ続いてる」と錯覚してるのか。

いずれにせよ、10年後は悲劇だ。

市場規模の話、個人事業主の話、統計に載らない現実

フォトスジオ市場2030年に895億円になると言った。これは統計で見える部分だ。でも実は、もっと厳しい現実がある。

現在個人スタジオを営む奴らの大多数は法人化していない。年間売上1000万円未満の小規模事業が大半だ。

これらは統計に組み込まれにくい。つまり統計が示す「市場規模895億円」の中には、

本来なら入るべき失敗事業体や赤字オペレーションが含まれていない可能性が高い。

実際には、市場は895億円より小さいかもしれない。あるいは、895億円の中での競争が、想定以上に激しいかもしれない。

新規参入者の多くは、個人事業主として細々と営む。月の売上50万円あれば上出来。

月の営業日数は15日前後。時給に換算すれば、下手したらコンビニバイト以下だ。

それでも「スタジオオーナー」という肩書きのために頑張る。

正気か?

なぜ、それでもやるのか

ここが一番の謎だ。データは明白。市場は縮小。人口は減少。競争は激化。収入不安定。それなのに、なぜスタジオを開くのか。

恐らく、理由は3つだ。

1つ目:夢。

写真への情熱自分スタジオを持ちたいという夢。これは強い。人間を動かす。論理を超える。

からデータなんか見ない。市場分析なんかやらない。「自分なら上手くやれる」という根拠のない自信を持って、スタジオを開く。

2つ目:選択肢がない気がする現象

出張でやってた人が、スタジオを持つというのは、一種の「昇進」に見える。場所を持つ、ブランド化する、単価を上げる——こういう「次のステップ」の選択肢に見える。

でも、実は罠だ。市場が縮んでるからスタジオを持つことが「昇進」ではなく「沈没」になる可能性が高い。

3つ目:統計の遅延性と肌感覚のズレ。

SNSを見ると、新規スタジオの報告はいっぱい見える。スレッズ、Threads、Instagram——みんなが開業してる。

から市場はまだ成長してる」と錯覚する。でも統計が示す市場規模は縮小。この矛盾は何か。

簡単だ。個人事業主新規参入廃業スピードが速すぎて、統計追いつかないだけ。

SNSで見える新規オープンの数だけカウントすれば、当然「市場は成長してる」に見える。

でも、その裏では同じくらいの数の廃業者が出ている。統計はそれをキャッチするまでに1年~2年かかる。

まりSNSの肌感覚は、実は統計よりも遅れた情報なんだ。

10年後のこいつらはどうなってるのか

率直に言う。ほとんどが失業者になってる。

フォトスジオ開業成功率は15%程度だと言われてる。つまり100人中85人は失敗する。失敗の定義は「経営継続不可」。廃業

2025年スタジオを開いた奴が、2035年まで生き残ってる確率は低い。単価は下落する。競争は激化する。

新しいカメラマンは入ってくる。AI画像生成も進化してる。そんな中で、「自分スタジオ」を守り続けるのは、想像以上に難しい。

で、どうなるか。40代になった元カメラマンが、転職活動をしてる。でも40代での転職成功率は、30代より落ちる。

新しい業界に入るなら、給与も下がる。家族がいれば、その低下を説明するのは辛い。

バンドブームを思い出してほしい。音楽やってた奴らの多くが、結局は別の仕事をしてる。

でも20代の時は、「絶対にこれで食ってく」と思ってた。現実は厳しかった。

写真業界も同じになる。

俺はどうするのか

正直に言う。俺も怖い。この業界にいて、毎日経営を見てて、人口減少の波を感じてる。

俺は30代だ。妻と娘がいる。スタジオ給与をくれるが、それが10年後も保証されるとは思わない。

から、俺は動いている。副業検討スキル習得転職活動の準備。小さく、慎重に、でも着実に。

父親の失敗を見てるから、同じ轍は踏まない。ブームが続くなんて思わない。市場が戻るなんて期待しない。

今この瞬間が、決断タイミングだと理解してる。

スタジオを開く奴を否定する気はない。でも、それが最適な選択か、本当に考えたのか、という疑問は残る。

最後

この記事を読んでる人の中に、スタジオ開業を考えてる奴がいたら、ちょっと待て。

市場規模人口推移、個人事業主成功率10年後のキャリア。これらを冷徹分析してから、決めろ。

夢は大事だ。でも夢の代価を払うのは、お前だけじゃない。妻もいるなら、妻も払う。子どもがいるなら、子どもも払う。

から現実を見ろ。データを見ろ。10年後を想像しろ

その上で、本当にそれが最適な選択か、判断しろ

俺はこれ以上、同じ構図の失敗を見たくない。

2025-11-11

エレベーター

1話 スタジオ

エレベーターというのは不思議空間だ。

人がぎゅうぎゅうに詰まっていればあきらもつくのだが、ひとりきりで乗ると、あの箱の中は、ちょっとした自分専用のスタジオになる。

わたしローファーがそっと床をたたく。コトン。ドン。――あの低い響きがいい。まるでバスドラム

自然と手が動く。指先で軽くリズムを刻む。床の下は空洞なので、やけに低音がよく響くのだ。これが妙に気持ちいい。次に手でリズムをとる。パパパン、パパパンパン自然お気に入りサンバリズムになる。あとはもう止まらない

――ドンパンドンパン

まるで小さなドラム練習室だ。

途中でふと思う。もし監視カメラ映像を見ている人がいたらどう思うだろうか。

「またやってる、あのローファーの人」

なんてあだ名がついているかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。あの数秒間の“無重力時間”を、ただ上品にじっと立って過ごすなんてもったいないわたしにとってエレベーターは、心のメトロノームを整える大切な装置なのだ

演奏もノッてきて、いまにも踊りだしたい気分のなか、ピン、という到着音が鳴る。

ドアが開く。演奏は終わる。

ドラムス、わたし。観客、ゼロ拍手ゼロ。だが、なぜか心はちょっとだけ晴れやかだ。

何事もなかったように髪を直し、まっすぐ前を向く。

外の世界に出ていくわたしの足元では、ローファーがまだ、ほんの少しだけ跳ねている。



ときどき、こういう文章AIにつくってもらうのが最近ちょっとした気晴らし。

第2話 文明の衝突

――エレベーターというのは、社会の縮図である

たかが十数秒の移動時間に、上下関係礼儀作法も、そして日本独特の「気づかい文化」も、すべて詰まっている。

欧米では女性と乗り合わせた男性は奥に立ってはいけないという。

女性の背後に男性が立つと不安を与える――そういう理屈らしい。だから女性はドアのそば男性は奥へ。それでバランスがとれる。

だが日本では、事情がまるで違う。

ここでは、奥が“上座である上司や来客を奥へ通し、目下の者が手前で「開」ボタンを押す。つまり最後まで残ってボタンを押す者こそが、いちばんの下座なのだ

ある朝、会社ビルでのこと。

わたし男性上司と数人の同僚と乗り合わせた。

エレベーターが動き出すと、自然に手前の位置に収まり、指を「開」ボタンに添える。

――目下の女性は、番人のようにドアの手前に立つ。

最後の瞬間まで(開)を押し続け、すべての人が安全に降りるのを見届ける。

そして、最後自分が降りるその刹那、体をよじらせてまで(閉)ボタンを押す。

去りゆく背中に向けて、残された人たちが少しでも快適であるように。

それが、ささやかだが確かな、日本文化である

ピン、と到着音。

ドアが開く。上司が降り、同僚が降り、わたしが残る。

手の中の「開」ボタンが、少しだけ温かい

最後に指先をひねるようにして(閉)を押すと、ドアはすっと静かに閉まった。

――誰も気づかないほんの一秒の所作

けれど、その一秒のために、日本エレベーター今日も穏やかに上下しているのだ。

ときどき、こういう文章AIにつくってもらうのが最近ちょっとした気晴らし。

第3話 ゴミ

――朝のエレベーターほど、社会の縮図を感じる空間はない。

まだ頭のエンジンがかかりきっていない時間帯に、人と人とが沈黙のまま、数平方メートルの箱の中で呼吸を合わせる。

そんな朝に限って、なぜか私は両手いっぱいにごみ袋を持っている。しかも三袋。

いつもはこまめに出しているのに、今朝に限って溜まっていた。

昭和のころなら「燃える」「燃えない」くらいで済んだが、いまは「プラ」「紙」「ペットボトル」と分別がややこしい。

この三袋はまるで、現代の複雑さそのもののようだ。

そして、よりによって――

各駅停車のように、途中階でピタピタと止まるエレベーター

「一階まで直通で行きたい」と願う日に限って、乗ってくる、乗ってくる。

二階でひとり、三階でまたひとり。

そのたびに私は、ごみ袋を抱えたまま少しずつ後退し、ついには奥の壁の隅へと追い詰められる。

壁と人の間、残された空間ほとんどない。

ごみ袋が前の人に触れないように、腕の角度を微調整。

ペットボトルの袋がカサッと鳴るたびに、全身の神経がピクリと反応する。

――これが朝の神経戦である

やっとのことで一階に到着。

ドアが開くと同時に、三袋を引き連れて外へ出る。空き缶がカラカラ鳴ってまるで子ヤギの鈴だ。

外の空気は冷たく、そして妙に自由だ。

ごみを置いて手が空いた瞬間、エレベーターの中のあの沈黙が少し懐かしく思える。

ほんの数十秒の乗車時間――だが、そこには社会圧縮ファイルのように、気づかいと緊張と分別哲学が詰まっているのだ。

ときどき、こういう文章AIにつくってもらうのが最近ちょっとした気晴らし。

第4話 ラッキーセブンか丸八か

――俺の会社雑居ビルの七階にある。

から近いくせに、人通りは少なく、どこか路地裏のにおいがする。

飲食店事務所と、なぜか整体院が混在している、昭和の名残のようなビルだ。

朝のエレベーターはたいてい俺ひとり。

無音の箱がゆっくり上昇していく短い時間が、ちょっとした気持ちの切り替えになる。

その日も、いつものように慣れた指先で「ピッ」とボタンを押した。

ドアが閉まりモーター音。

七階に着くはず――だった。

ところが。

扉が開いた瞬間、見たことのない光景が広がっていた。

薄暗い照明の奥へ、赤い鳥居がずらりと連なっている。

遠近感が狂いそうなほど、ずうーーっと続いている・・・ようにみえたが、錯覚だった。

そうか。ここは霊能者占い事務所だ。

一瞬、本気で異世界転移かと思った。

だがボタンを見ると、「8」が光っている。

……押し間違えたらしい。

そうか、と胸の奥で何かがコトンと鳴る。

前の会社は八階だった。

あの頃、毎日押していた数字

意識しなくても、指が“丸八”を覚えていたのだ。

八幡神社の丸八」みたいだな、とふと思う。

勝手縁起がよさそうに見えてくる。

いや、縁起がよくても、この八階の鳥居廊下には用事はない。

そっと「閉」ボタンを押す。

エレベーターが七階へ戻っていくあいだ、

赤い鳥居と“丸八”の光が、じわりと胸の奥に残っていた。

七階の扉が開く。

いつもの蛍光灯の白い光。

コピー機作動音。

ああ、こっちが現実世界だ。

でも時々思う。

人間にも、過去の「丸八」を押してしまう指が残っていて、

そのせいで、ふと別の世界のドアが開くのかもしれない――と。

ときどき、こういう文章AIにつくってもらうのが最近ちょっとした気晴らし。

第5話 回覧

――マンションエレベーターというのは、ちょっとした“自治社会掲示板である

あの狭い壁面には、住民の息づかい管理組合の苦労と、そしてときどき発生する謎の個人制作チラシが、ぎゅうっと貼り並んでいる。

わがマンション例外ではない。

消防設備点検のお知らせ、粗大ごみ出しのルール徹底、管理組合理事会の案内。

そして、上下階の騒音問題――おそらく管理人クレームがいったであろう案件も、「○階の皆さまへ」などと、やんわりと、しかじわじわ刺す文体で貼られている。

小さいお子さんの“ドンドン問題だ。

あれはもはや、マンション暮らし季語に近い。

中には「〇階付近」と、ギリギリ個人特定にならない程度に範囲を狭めてくる注意書きもあり、これがまた絶妙にいやらしい。

管理組合名義とはいえ、実質“言いたいことを管理人外注”している感がにじみ出ている。

通常、掲示物は管理人が貼るのだが、ごくまれに、明らかに住民勝手に作って貼ったものを見かける。

文章微妙感情的フォントは謎に凝っており、そして貼り方が妙に強い。

よほど業を煮やしたのだろう。

ある朝、エレベーターの鏡に直接貼られた紙を見て、思わず声を失った。

「鏡を手あぶらで汚すな!!」

しかも、使われていたのは粘着バリバリの強力テープ

……おいおい、それを剥がすとき、鏡が汚れるだろう。

いや、鏡が傷つく可能性すらあるぞ。

注意のために鏡をむしろ犠牲”にするとは、なんという本末転倒

いや、あなたのほうがよっぽど鏡の美観を損ねてますよ、と心の中で突っ込んだ。

たぶん、あれは隠居爺だ。

日々やることがなくて、イライラが溜まっているに違いない。

エレベーターが小さな舞台なら、あの爺さんは毎朝そこで、独自の幕間劇を上演しているのだろう。

エレベーターが一階に着く。

ドアが開くと同時に、外の空気が少し冷たく感じる。

振り返ると、鏡に貼られた勝手チラシがどことなく誇らしげに揺れていた。

――今日マンション社会は、あの小さな箱の中で静かにドラマを続けている。

ときどき、こういう文章AIにつくってもらうのが最近ちょっとした気晴らし。

2025-11-09

Minecraft建築って、ちゃん美術がやれる人の社会なっちゃった

昔は造形だけで何とかやれた

模様とか色を凝る時期もあった

スケーリングも通り過ぎた

スムージング(斜め・錯覚活用)もあった

シャドウゲーム本来の影と後付けの影)も使う

距離によって変わる色味も活用して当たり前

今の2D油絵のようにブロックを盛って表現される

ポリゴンテクスチャ程度の理解ではもはやついていけない

3次元ピクセルアートを「ちゃんとやる」と本当にヤバいんだなと思いました(小並感

anond:20251109093809

もしかしてはいてない…?」と錯覚させるエロさがすきなんよ

でも紐が見えてる方がいいというのもわかる

2025-11-08

量子力学の測定問題とは、ざっくり言えばなぜ波動関数が結果を持つのかという問いだ。

数学的には、量子系はヒルベルト空間というベクトル空間の中の状態として記述され、時間の進行はユニタリという厳密に可逆な変換によって動く。

この法則の中では、確率的な飛びや選択は一切起きない。

ところが、実際に観測をすると、必ずひとつの結果、例えば粒子がここにあった、という確定した現実が現れる。この確定が、理論形式からは出てこない。これが測定問題の核心である

量子状態は、通常、いくつもの可能性が重ね合わさった形で存在している。

観測装置接触させると、系と装置相互作用して一体化し、双方の状態が絡み合う。

結果として、宇宙全体の視点では、系と装置ひとつの巨大な純粋状態として存在し続ける。

しかし、観測者が見る局所的な部分だけを取り出すと、それは確率的に混ざり合った混合状態として見える。

まり観測者にとっては、ある結果が確率的に現れたように見える。

だが、ここに重要区別がある。この見かけの混合は、真に確率的な混合ではない。

宇宙全体では、全ての可能性がまだ共存しており、単に観測者がその一部しか見られないというだけの話である

から確率的にどれかが起きるという現象を、ユニタリ時間発展からは厳密には導けない。数学的には、全体は今も完全に決定的で、崩壊も起きていない。

ではなぜ、我々は確定的な結果を経験するのか。

現実観測では、周囲の環境との相互作用によって、異なる可能性の間の干渉がほぼ完全に消えてしまう。

この過程デコヒーレンスという。デコヒーレンスは、我々が古典的世界を見ているように錯覚する理由説明してくれるが、それでも実際にどの結果が選ばれるのかという一点については何も言っていない。

数学的には、干渉が消えたあとも、依然としてすべての可能性は存在している。

この状況を抽象代数言葉で表すと、量子の全体構造の中からどの部分を古典的とみなすかを選ぶことが、そもそも一意に定まらない、という問題に突き当たる。

まり、何を観測対象とし、何を環境とみなすかは、理論の外から与えなければならない。数学構造のものは、観測という行為自動的には定義してくれない。

さらに、確率とは何かという問題がある。量子力学では確率波動関数の振幅の二乗として与えられるが、なぜそうなのかは理論の内部から説明できない。このルールを外部から公理として置いているだけである

確率起源論理的説明しようとする試みは多数ある。対称性から導くもの意思決定理論から導くもの、あるいは典型性の議論を用いるものなど。だが、それらはどれも追加の仮定必要とする。

開放系理論リンブラッド方程式など)は、系が環境と関わることで混ざり合い、最終的に安定した状態に向かう過程記述できる。

しかし、これは統計的な平均の話であって、単発の観測でどの結果が現れるかを決定するものではない。数学的な形式は、あくま確率分布を与えるだけで、確定事象を選ぶメカニズムは含まれていない。

多世界解釈は、この問題をすべての結果が実際に起きていると解釈する。つまり、我々が経験するのはその分岐の一つにすぎず、波動関数全体は依然として一つの決定論的な構造として存在している、とする立場だ。

ボーム理論では、波動関数が粒子の軌道を導く実体的な場として扱われ、結果の確定は初期条件によって決まる。

崩壊理論では、波動関数物理的なランダム崩壊を導入して、観測に伴う確定を確率的に再現する。

しかし、いずれも新たな公理パラメータを導入しており、なぜそうなるかを完全に説明したわけではない。

したがって、測定問題本質は三つにまとめられる。

第一に、量子の基本法則は常に可逆的で、確率的な選択を含まない。

第二に、観測によって現れる確率的混合は、単に部分的しか見えないことによる見かけの効果であり、真のランダムな決定ではない。

第三に、確率法則のもの、なぜ振幅の二乗なのかは理論の内部からは出てこず、別途の公理哲学的前提を必要とする。

まり、量子測定問題とは、単に波動関数がなぜ崩壊するのかという素朴な疑問ではなく、物理理論がどこまで現実出来事自力で生成できるかという根本的な問いなのだ

数学は、全ての可能性を厳密に記述することはできる。

しかし、どの可能性が実際に起こったと言えるのか。その一点だけは、いまだに数学の外に、あるいは意識観測という行為の奥に、置かれたままである

2025-11-07

タワマンバブル・ペアローンと残クレアルファードの共通点

問:タワマンバブル・ペアローンと残クレアルファードの共通点について論じよ

1. 共通構造:「資産幻想と「月々の支払い」麻酔

タワマンタワーマンション)、ペアローン、残価設定ローン(残クレ)アルファード

一見ジャンルの異なる「不動産」「金融」「自動車」ですが、共通しているのは**「本質的な所有ではなく、支払い可能性による幻想的な所有」**です。

どれも人々に「今の生活水準を維持できる」「ワンランク上の自分になれる」という感覚を与えます

ただし実態は、**“所有”の形をとった“リース”**にすぎません。

タワマンは「ローンが払えている限りの城」

ペアローンは「2人で1人分の信用を演出

クレアルファードは「月々5万円で国産最高級車に乗る夢」

いずれも「返済計画が続く限りの一時的上昇感」であり、キャッシュフロー麻酔による幸福です。

2. 「上級への階段」を演出する装置としての機能

これらはすべて、「中流から上流への通行証」に見える構造をしています

しかし実際には、中流層が上流のふりをするための金融パッケージです。

タワマンは「資産」ではなく「減価資産」になりつつあるのに、外見だけは都心象徴

ペアローンは「共働き時代の合理」ではなく「家計をフルレバレッジ化した錯覚の余裕」。

残クレは「車を持たずに乗る」合理ではなく「高級感を分割で買う」消費。

まりどれも、“上級象徴”をリースする時代産物です。

資産形成ではなく、社会的イメージ形成のための金融商品。

3. 背景にあるマクロ構造:低金利×停滞社会

この3つを生み出したのは、低金利環境と成長なき社会です。

金利からレバレッジをかけやすい。

成長が鈍いから「未来で返す」ことに無頓着になる。

そして、SNS時代が「見栄の経済」を増幅させました。

月々いくらなら持てるか

ではなく

どんな生活を“演出できるか”

という方向に、消費の軸がシフトしているのです。

4. 終章:バブルの形を変えた“中流バブル

タワマンバブル、ペアローン、残クレアルファード——

これらは「中流層による上流模倣バブル」として連動しています

不動産金融自動車という異なる市場が、**“見栄の月額制”**という一本の糸でつながっている。

いずれも、本当のバブル崩壊は「支払いが滞った瞬間」に訪れます

株価金利よりも、家計キャッシュフローが先に壊れるのです。

結論

タワマンアルファードも、持っているのは自分ではなく「ローン会社」だ。

それでも人は、ガラス越しの夜景とレザーシートの手触りで、

一瞬だけ“勝ち組”の夢を見る。

——

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そのバージョンにしてみましょうか?*

2025-11-06

anond:20251106215727

ほぉ。まるで「ライブラリ移植なんて余裕っすよ」と言わんばかりの口ぶりだな。お前、自己放尿レベル気持ちよくなってるが、現実を何も理解してねぇぞ。

いか。「同じ機能移植するだけ」って発想がそもそも低能証拠だ。Pythonの強みは言語としての表面構文じゃなく、生態系として積み重なった最適化と実績だ。

NumPyやPandas、Scikit-learn、PyTorch、全部C/C++Fortran実装Pythonバインディングで何層もラップしてる。

しかメモリ管理スレッドセーフティBLAS最適化GPUオフロード、それらを組み合わせたとき挙動の安定性まで含めてライブラリって呼ぶんだよ。

「決まったインターフェース移植するだけ」とか言ってる時点で、頭の中で想定してるライブラリが、せいぜい数千行のユーティリティレベルだろう。

企業が内部で作るって?そりゃ車輪の再発明だよ。しかも、Python10年かけて磨き上げたアルゴリズム最適化を、数ヶ月の業務開発で再現できるとでも?寝言は夜だけにしろ

あと、「いまどきの言語ならそんな大変じゃない」って、まるでNode.jsがCythonやNumbaのようなネイティブ統合の層を持ってるかのように錯覚してるのが痛い。

V8JIT高速化できるのはせいぜいスクリプトレベルの話。数値演算メモリアクセススレッド制御最適化できる数学的基盤の厚みがまるで違うんだよ。

Nodeで同じことをやろうとしたら、JSからC++アドオン叩いて、型変換のコスト死ぬだけ。

まり、「移植できるだろ」って発言は、Python生態系を単なるコード群だと思ってる愚か者自己放尿なんだよ。

それは「パルスジェットなら自作できるだろ」と言ってる鉄クズコレクターと同レベル。動くかもしれんが、効率も精度も再現性も自己放尿レベル

Node.js厨が「Pythonライブラリ移植できる」とか言うのは、「俺でもベートーベン交響曲ぐらい耳コピできる」と言ってる音感ゼロ自己放尿芸だ。

見てる側からすりゃ笑いのネタにもならねぇ。

便秘に効くっつーからごぼう茶淹れてみたけどあれだね

塩とごま油ちょっと入れたらもっと美味しくなるんじゃないか錯覚するね

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