はてなキーワード: 閑話休題とは
福岡(都雇圏273万人)で地価最高点徒歩4分新築70㎡は9120万円故,世帯年収1140万円程で家族居住できる.
然し, 余程夫婦揃って仕事大好き!仕事続けたい!でない限り,片働きになっても住み続けられる(乗り物が必要な)場所を選ぶだろう.
(故に,片働きでも地価最高点徒歩4分内家族居住できる都雇圏80~110万人が最高)
閑話休題, 共働き率全国72%, 東京23区75%と一口に言えど,共働きには様々な形態がある.
負担が軽い順に記すと,こうであろう.
更に,身支度・移動時間を加味すると
ミュージカルの『ウィ・ウィル・ロック・ユー』のために新宿コマ劇場に観に行った。
埼玉県で真面目な高校生(つまりはイケてないヤツ)にとって、大人抜きで歌舞伎町に行くというのはなかなか緊張感があった。
あとで知ったけど、大通りだけだったらなんともないんだよね(´・ω・`)
千秋楽の昼公演。
パンフレットやオズ役のレベッカ・ジャクソン・メンドーザが劇中で歌うNo-One but You (Only the Good Die Young)のシングルCD(会場限定だった気がする)買った。
そういえば、来日したWWRYのプロダクションはオーストラリアのもの。オズっていうキャラクターはオジー・オズボーンが由来。本国イギリスではミートローフが由来だった。
閑話休題(•ө•)♡
機材トラブルで開演が遅れた。
日本ネタでコナカのスーツがセリフに出てきたり、スカラムーシュ役のピッパ・グランディソンが劇中で客席に降りるときに、わざと客と軽くぶつかって日本語で謝るというサービスなどいろいろと新鮮だった。
数年前、年収900万超でシステム開発のマネジメント職に転職した。前職も同じくらいの年収だったんだけど、そもそもあれがバグってた。今になって振り返ると、完全に身の丈に合わない転職をしてしまったと後悔している。
前職の入社時の年収は350万くらいだった。オーナー企業の少人数の会社。上司も部下も顧客もそこまでITに詳しくなくて、ハッタリかませばだいたいなんとかなる環境だった。
もともとITをよく分かっていない人の話を聞いて整理するのは得意だったので、エンジニアからPMになり役職がついた。気づけば年収は入社時の2.5倍以上になっていた。
モダンな開発はなんとなく齧ってた程度で、基本はハッタリマネジメントでなんとかなった。作ってたシステム自体もそんな複雑なものでもなかったし。
経営陣がいろいろやりたがる人たちだったので、広く浅くなんでもやってみたい自分には性が合っていた。ただ、いろいろあって辞めることにした。
転職活動を始めた時に出会ったのが「錯覚資産」という考え方。ふろむださんの『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』で知った。
前職で900万近い年収だったので、ハロー効果が効いて年収を維持したまま転職できた。LLMのように相手に合わせてこういう言葉を紡げば相手は納得してくれるだろうという能力には長けていたので、面接はハッタリでなんとかなった。
実務で足りないところは、ハロー効果が効いているうちに実力をつければ何とかなるだろうと思っていた。甘かった。
現職は前職と違って、成長企業といえどちゃんとした会社。オーナー企業的な空気もなければ行き当たりばったりでもない堅実なところだった。
そして何より、バリバリモダン開発の会社だった。SREだDevOpsだDDDだスクラムだなんだかんだと、今までとの落差が激しすぎる。
上司も同僚も部下もシステム開発をよく分かっている。システムがわからんという人のために色々整理してあげるという、自分のコア能力が全く発揮できない。
伸び悩んでいる部下へも適切な指導ができない。前職まではシステムよく分かっていない顧客と上司に納得してもらえばなんとかなったので、部下は育てなくてもなんとかなっていた。困ったときは外注を入れて凌いでいたし。
もう、上司・同僚・部下からなんとなく腫れ物扱いになっている。年収も年収なので会社に対して申し訳ない気持ちになってきた。会社も余裕があるわけではないし。自分が無能だということがなんとなくわかり始めてツラポヨ。
なんかエンジニアリング自体に自分が興味なかったんだなぁということを実感した。
なんだろう、もともとウェブ屋に毛が生えたみたいなシステムなんでも屋おじさんだったので、バリバリエンジニアリングの専門集団に入ってしまい違和感が半端ない。
俺はウェブというメディアに興味があるのであって、エンジニアリングそのものには興味がないのだ。ということに今さらながら気づいた。
昔のワールドワイドウェッブはねぇ、なんというか、自由というか個人が自宅の机の上から世界中に情報を発信できるという夢に溢れていたのだよ。なんだね今のウェブは。ただのシステムが乗っかるための土台でしかない。面白くなくなったねぇ。Flashとかの標準なんかクソくらえな「リッチコンテンツ」が溢れていたときはなんかカオスな楽しさがまだウェブにあったが、もうなんかビジネスしか残ってないのはなんなのかね。どこに行っちゃったのかね。
閑話休題。
錯覚資産はコンフォートゾーンから一つ抜けたストレッチゾーンに行くために使うべきだった。自分の場合は一歩超えてパニックゾーンに行ってしまった。
最初は周りも良い人だらけだったので、持ち前のハッタリでなんとなくやり過ごせた。でも数年経つと化けの皮は剥がれる。
あと、ハッタリかますのに全力を使いすぎて余裕がなく、力をつける時間を作れなかったのが敗因だと思う。
まぁまた転職すれば現職の錯覚資産のハロー効果でなんとかなると思う。年齢的にだいぶ中年なので不安もあるが、ストレッチゾーンに当たりそうな会社にどうにか転職したい。年収は下がりそうだけど。
もしくは開き直って居座るか。でもこの精神状態で居座り続けるのもキツい。
錯覚資産を使う場合は十分気をつけてください。背伸びしすぎると、自分も周りも不幸になります。
そして何より、自分が本当に何に興味があるのか見極めてから使いましょう。年収やポジションに目が眩んで、自分の適性を見誤ると地獄を見ます。
修辞学的言説と科学的言説はまったく違う。
アジテーションなどの修辞学的言説に対して、科学的な立場から批判しても噛み合わないのは当然で、
そもそも立っている地平が違うのだ。
ある政治的立場での正しさの絶対性を前提として、他人にその正しさを受け入れさせるのが修辞学的言説であり、
その言説は全方位からの反証に対して開かれている必要はない。単に「政敵」(あるいは仮想敵)が行いそうな反論を潰せる準備があればよい。
感情的であることはマイナスどころかプラスですらあり、修辞的装飾的で内容に乏しくてもそれが効果的であれば意味があり、論理的整合性などにさほど価値はない。
(閑話)
驚くべきことに、日本において評論家とされる人達は、どちらかというと「修辞学的言説」を得意とし、そのことで評価されていたりする。吉本隆明、柄谷行人、浅田彰、東浩紀…、感傷的な文章と、都合のいいチェリーピッキング引用、そして類稀なキャッチコピー能力だけで“批評”を行ってきた人々。
(閑話休題)
念のため言っておくが、これは修辞学的言説に対して、科学的言説のほうが優れている、という主張ではない。
それぞれは噛み合わないし、活躍するべき場所が違う、という話だ。
フェミニズムというのは科学的学問ではなく、政治的(修辞学的)学問であり、そこで客観的妥当性が軽視されるのはある意味仕方がないことなのだ。
上野千鶴子が草津町長に謝罪したのも、謝罪という形を取ることが、最も効果的に彼女の主張を敷衍させやすいと判断したからであり、今後彼女が客観的なデータなどに基づいてのみ発言するという“変節”ではないだろう。
アジテーションを客観的妥当性から批判しても意味はないし、アジテーターに科学的態度を求めることは尊大な間違いである。
そのことにやっと気づけた。
なんか、この件の擁護でずっといるのが
そういう「彼岸の正義を嘲笑う」振る舞いがまさに今回の象徴って感じ(藁人形論法)
そういう諸々の発露が「オタクくんはそんなに裸を見たいのか(呆れ)」であって
ポルノが一番わかりやすいが「批判に嚙みつくって事はポルノがみたいんでしょ、きもーいww」みたいなズラしが出来るわけ
こういうのはもう単なる荒らしだ、レッテル貼りだ、藁人形だというメタ批判増田についたコメントが
「ぼざろはいいアニメだったなぁ」と思っていたら、後から「ぼざろはフェミニストがポリコレで作った駄作だったと判明!」みたいなのやめて欲しい。脚本家の一言で後から評価を変えるの、あまりに党派的過ぎるだろ。
すげぇと思わねぇ?
そういう、レッテル貼りで雑な批判すんなやっていうメタ批判増田に
これはゴミ捨てとかと一緒よ
「まだ大丈夫」と「もう無理」は相容れないんだ
にも拘らず、もう無理側は一生懸命「もう無理マジ無理、自明」っていうだけで
落し所の議論が出来ないのよ
今回の件も同様で、「脚本家は炎上するような発言してない」ってのは
ドラマ『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』(2020年/テレビ東京)で原作にはないオリジナルの要素として、アロマンティックの人物を描いた
当時の反応にも「原作を否定されたように感じて」、「このドラマは、シナリオを作った人が主張したいことを盛り込んだ作品(で別物)」というのがあるけど
以前から気になっていた
その自分の考えを
「恋せぬふたり」に明確に反映するのね(こっちは脚本家のオリジナル)
でも
の人には通じないのよね(藁人形論法)
東の果ての島国ニポンは、なんでも「自己責任」と相手を正論ぶって殴れるモラハラ洗脳教育が盛んなため、正しい「責任」を教えられずに「信用」の積み重ね方を知らない
そして自分の行動に何一つ責任を持たないので、それによって信用が減っていくことを認識しない、できない
そのため「他人から見た自分の信用値」が常に「自分の自信」と同じだと認識している
オタクの自己評価低いのも同様で、外見による自己評価の低さの割に仕事で信用積んでることはままある
信用が減ると言うことは平たく言うと関わりたくないと思われる、つまり徐々に嫌われていくということである
そしてなぜがニポン人は自分が嫌われているという現実を受け入れない
それはもう断固受け入れない
論破しさえすれば嫌われてないと証明できると強く信じて、自分はいかに嫌われてないかをブチ切れながら早口で説明し、自分に好意を持たないお前がおかしいんだとさえ言う
世に言う逆ギレ
信用値大暴落
むしろこれで何故取り戻せると思うのかとね、いや取り戻したいんじゃなくて相手を自分の思い通りにしたい、命令したいだけなんだけど
そんな訳で東の果ての島国ニポンのサル(おじって言ったけど実のところオスメス問わず)は自分の信用が減る行動を頻繁にする癖に、人からの評価が下がるのは許せないと言う
俺が嫌じゃないから信用は下がらないという
笑
書き手はどちらかと言えば表自側で記事自体は吉田恵里香へは批判的ですが
この中で加害性の言葉はないという話になるが
おそらくこの部分だろう
『恋愛しないと成長しない』とか、
『恋で人生の全てが変わる』みたいな、
以前から気になっていたんです
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中略
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コレを受けて「好きだからこそ、そのものの持つ加害性にも思考を巡らせる。執筆作に共通する優しさの根源のようにも感じる考え方だ。」と編集者がまとめる
まとめ方はそんなに外れていないように思うが、確かに「言っていない」
押し付ける暴力性があると言っているだけで、加害性とは言ってない
トンチかな
本人が「言っていること」としても
③絵だけど未成年だぞっ
この順番で語られて
ぼざろの話になり「裸はノイズ」だと語る
作者が協力的と書いてあるから
擁護側から「原作者も喜んでるから黙れ」という話がされてしまっている
あの話の本質は
原作者が否定したらば、女子に乳比べをさせて、乳揺れを描き、裸入浴を描いたのか?という点にある
覇権のためならば、女子に乳比べをさせて、乳揺れを描き、裸入浴を描いたのか?という点にある
性表現について、R18は否定しないと発言してあるが、未成年に見せるなとも発言してる
そしたらば
深夜枠で、温泉回がでてきて裸、そこで乳比べをして乳揺れする作品は
それとも降りる?
そういう話はされない
熱く語った「絵だけど未成年だぞ」とはなんなんだ?
そこの段があるのだから
当然に【許されない】としかならないはずなんだ
その国民宿舎はまあ古い建物だった。建てられたのは昭和末期から平成初期の辺り。少なくとも今三十代の自分が物心ついたころにはもう古い建物だな、って思うくらいには昔からあった。昔は田舎リゾートとして村の重要な財源だったのだろうけど、国民の休日の過ごし方が変わり、かつては村だった土地が合併して名義だけ市になる頃には、もう補助金と地元のプチ銭湯という妥協の営業スタイルになっていた。
自分は里帰りしていた時に、しばらくそこでバイトをしていた時期があった。実家が近い自分は施錠や宿直を任されることになり、事件はその宿直の最中に起きた。
時間は確か23時近くだったと思う。洗濯室に夕食のために厨房で使ったタオル類を回収に行ったら、床の上に置いてあった粘着式のネズミ捕りになんか長ーい物体が乗っていた。最初は見間違いかと思った。だけど二度見してよくよく確認すると、それは粘着シートにべったりとひっついたヤマカガシだった。
捕らえられたヤマカガシは、でかい人間が近づいてくるのを察すると、ウゴウゴと身を捩って逃げようとした。だけど全身の半分近くが捕われているから、ネズミ捕りの台紙が左右に少し揺れるだけの動きしかできなかった。
ヤマカガシというのは日本に住むヘビの中ではポピュラーな方ではあるけれど、人家に近いところに住むシマヘビやアオダイショウと違って森の中に住んで小動物を食べるスタイルであり、マムシとも違って好戦的じゃないから藪の中でもヘビの方からさっさと逃げてしまうということもあり、目撃することは田舎育ちの自分でも割とレアだった。
しばらく観察して分かったのは、ヤマカガシの全長は60cmから70cmくらい、「6」の字を描くみたいに粘着シートにひっついている、空腹だったのかペラペラの状態、ということだった。特に最後については、脱出しようとして身を捩ったせいなのか、お腹側のほとんどが粘着シートに密着してしまっており、そのせいで身体が蛇らしい丸太ではなくてベルトみたいな楕円になってしまっていた。
どうやらヤマちゃんは排水溝を通って室内に入ってきたみたいだった。洗濯室には水抜きのための大きな排水口があったのだけど、ヤマちゃんはその排水口のすぐそばにあるネズミ捕りに掛かっていたのだ。
ネズミ捕りに掛かったヘビという初めての状況に出会ってしまった自分は大層困った。取れる手段は無視するか対処するかの二択。無視して餓死を待つという手段もあったけど、仮に脱出されてしまうと客室に蛇が出没することになってしまう。それに蛇はしぶといので空腹で餓死するまでに何日も掛かってしまうかもしれない。だから対処するしかなかった。
そろそろ眠気を感じる時間帯だったけど、この頃にはもう眠気は完全にぶっ飛んでいた。どう対処をするか。一番簡単なのは殺してしまうこと。動けない状態なのだから鈍器で頭を潰してもいいし、水漬けにしてもいい。だけど、エセ博愛主義者の自分はどうにか生かせないかと思っていた。
完全にエゴなのだけど、自分は生きる機会がある存在には可能な限り生きていて欲しいと思っている。だから部屋に虫が入ってきても外にポイするし、殺虫剤もこれまで使ったことがない。だから今回もなんとかヤマちゃんを生きて脱出させてあげられないかなと思っていた。
だけど、問題が一つあった。もし掛かっていたのがシマちゃん(シマヘビ)やアオちゃん(アオダイショウ)なら手なり火箸なりで水かけてメリメリ剥がしていただろうけど、ヤマちゃんは一応毒蛇なのだ。しかも、マムちゃん(マムシ)よりも強い毒性を持ってしまっているのだ。ヤマカガシは臆病な性格でマムシみたいに自分から襲ってくることはないから危険視されていないけど、実は喉の奥に毒腺を持っており、深く噛み付くとマムシもびっくりな強烈な毒液を相手に送り込むことができる。
今、宿直は自分一人だけで、もし噛まれてしまうと最悪その場で倒れて死んでしまう可能性があった。そこで取った手段は、できるだけ自力脱出できるような策を講じて、あとはヤマちゃんのガッツにかけるというものだった。
ネットで「ネズミ捕り 外し方」と調べると、どうやら粉と油でなんとかなりそうだと分かった。粉を使って細かい毛(ヘビの場合は鱗か?)を保護して、油で粘着剤を剥がす。急いで厨房へ行って、片栗粉とオリーブオイルを取ってくると、ついでに持ってきたショベルにヤマちゃんごとネズミ捕りを乗せて外に運んだ。そこでドバドバと粉と油をかけ、あとは天の配剤に任せて草むらにネズミ捕りごと放置して朝を待つことにした。
昔の記録映像にある蝨取りみたいにして筆者に粉をかけられたヤマちゃんは、ウゴウゴして嫌がる仕草をしていたのを覚えている。
宿直室に戻っても、アレで本当に良かったのだろうか、もっとできることはあったのではないかという後悔が何度もあった。身動きできない状況で外に放置しているのだから野生生物に襲われたらひとたまりもない。もっと上半身くらい剥がしてあげれば襲われても反撃できるんじゃじゃないか。でももし噛まれてしまったら、と考えが堂々巡りしていた。
ともあれ朝までちゃんと眠って、翌朝5時に起きて館内の照明を点けた後に外に出していたネズミ捕りの様子を見に行ってみた。昨日置いた草むらにちゃんとネズミ捕りが残っていた。ただし、中で捕まっっていたヤマカガシの姿を除いて。しっとりと朝露で湿ったネズミ捕りにはヘビがのたくった痕跡が色濃く残されていた。オリーブオイルでゆるんだ粘着剤は荒波が立ったようにあちこちがうねっており、捕まっていたモノが激しく動いたことが察せた。
家に帰って宿直中に起きたことを父親に話すと、多分逃げ延びたのだろうという話になった。根拠はネズミ捕りの台紙がその場に残っていたこと。野生生物に襲われたなら台紙ごともっていかれているだろうと。だけど正直、本当にヤマちゃんが助かったのかは分からない。ある程度暴れて拘束がゆるんだタイミングで、タヌキかなにかが運良く咥えていった可能性すらある。ただ、自分はたぶん助かったと思っておくこととした。
後日談として。それから数週間後、施設のクロージングのために外を歩いていたら、ネズミ捕りを置いていた草むらからほど近い場所に、で〜んとデカいヤマカガシが寝ていたことがあった。スマホのライトの先に急に現れたからびびったけど、じっと見ていたらノソノソどっかに行ってしまった。もしかしてあの時の……だったのかなあ、と思ったりもしたけど、まあ真相は叢の中。
まんがタイムきららMAXとは芳文社から出版されている月刊4コマまんが雑誌である。定価は500円弱。キャッチフレーズは「ドキドキ★ビジュアル全開マガジン」
連載漫画本数は20本強。ということもあって、表紙に掲載マンガ全部のタイトルが載ることはない。(近年のまんが雑誌の通例で休載がしばしばあるが、予告あり休載も突然休載もあるので油断できない。さらには単行本作業休載が予告されていたのに突如掲載されたという事例も報告されている)
閑話休題。週刊ジャンプ同様人気があるのは前の方、という原則に加えて、表紙に「これ載ってますよ」と表記されるのは人気作品のあかしな訳。で不動の一枚看板が「ご注文はうさぎですか?」。それ以外には「単行本発売告知」があるまんがとかも表紙に載る。
ぼざろはもっと推されているかと思ったが表紙に載らないこともある模様。
はまじギャグは徹頭徹尾…というと言い過ぎだが、ほとんどが登場人物のキモイ行動・外見を嘲笑うことによって成立している。主人公は全面的にそうで、アル中いじりも雑草食べるベーシストもそう。ギターボーカル喜多もちょくちょくキモい。 主人公妹(後藤ふたり)が姉に働きかけるシーンはー年齢勾配があるので許されているがーほぼ全面的に陽キャ→陰キャのイジメによる笑いである。 ライブハウス店長は「ぬいぐるみと一緒じゃないと眠れない」と暴露されバカにされ読者は(ここで笑って下さい)と指示される。
アニメしか見てない人は知らないだろうが、その後着々と登場するキャラクターは増えており、ライバル・結束バンドの厄介ファンもやはり奇行種である。
あとは時事ネタのたぐいね。ビッグモーター…まとめサイトで尻馬に乗ってるブクマカみたいで共感性羞恥。
人間ってなくそうとするよりも別のもので置き換えるほうが圧倒的にやりやすいみたいなことを言うけれど...
例えば、「見るなの禁」みたいなのは「見るな」と言うから耐えられないけど、そこに物理的に見られなくするタスクでも挟んでおくと気が付いたら見てないってことになるんじゃないかな。
「前もいったけど」じゃなくて、「大事なことだから何度でも言うよ!」とか「これは何回でも聞いてかみしめてね!」とかもっとポジティブ感がある別の言葉で言えばいいと思うんだよな。
と、書きながら大事なことは何度も言って部隊に浸透させろ!はTurn the ship around!(邦題:
米海軍で屈指の潜水艦艦長による「最強組織」の作り方)みたいだなって思った。
「前にも言ったけど」という状況は「何度もいうほど大事なこと」か「自分の説明が悪かったこと」かの二つくらいしかなくない?とは思う。
「机の上に乗らないで」というのは、多分何度でも言い聞かせる価値がある大事な注意事項で、それが相手の骨身となるまでに時間を要するから何度も言って聞かせないといけないやつ。
何かの説明を繰り返させられるというのは、多分前回の自分の説明が相手に理解できるようなものではなかったか、相手に残るものではなかったかだと思うので、これは自分の表現力・説明力を伸ばすチャンスだと思って「ちょうどいい!これに他の説明がつけられるか訓練しているんですよ」って発想で行ってしまえばいいと思う。
>人は自分の本音がよくわかってないし、聞かれたなりの「正解」を選ぼうとしてしまう。
元のこれを突き詰めると、最近新書とかでよく出てる脳科学の説では
行動が先に決定して後から理由を脳が作り出してる(要約というか雑まとめ)みたいなところ思い出す
(自由意志の有無みたいなものと絡んでくるから東洋系の人は諦めてて、西洋系がキャンセル権は自由とかで粘ってる 閑話休題)
反射みたいに即動くというのは大前提で、質問に答えるとかも基本反射でできる(疲れてる時、酔ってる時、慣れた質問)
そこに訓練で一旦保留して考えるという処理を割り込ませることは可能(キャンセル権と似たようなもの)人類はこれであれ
常にこれをやってて疲れるという人が結構いることが可視化されてきてるしできないじじいなども相変わらず
本音なんて行動というところではその場の得をとるのが野性というか本質で、次にその行動が未来に及ぼす影響を考えて(利己)、周囲の目を気にして(結局利己、そのうち利他検討も入ってくるが)……みたいに自制がどれだけできるかで変わって
行動するのではなく聞かれたケースだと時間に余裕があるし緊張状態でとか、慣れてない、しっかりしようとする意識があるとかで普段やらない(人はやってない)ルートでの回答を出してる(自分なりの正解)から実感とはほどとおいものが出力されるんだろうな
先日バーの前でケンカしたことで逮捕された某氏ですが、特にヲチしてたわけでもない皆さんは「なんか久しぶりに見たなー」くらいの気持ちだと思うんです。経緯もあんまりわかってなさそうなので。そこでですね、今回ははてなブックマークを基準に氏が話題になり、今回再び話題になるまでの歴史をたどってみたいと思います。
はてブで氏のハンドルネームを本文検索するとヒットするのは574件。はい流石にそんな全部追ってられませんね。ブクマ数を30の記事に絞ると144件、50に絞ると97件にまで減りました。まあある程度ネットで話題になったと言えるのはこの辺ではないでしょうか。とりあえず30ブクマ記事をベースに追っていきましょう。
本人が最初に登場するのは、2015年7月の安保法制に関するTogetter記事。この頃はネットでいろんなことを喋る市井のTwitter民でした。投稿で最初に話題になったのは飲食店経営のTogetter記事。これが2016年10月です。その後、2017年1月頃に、ADHDへ向けた仕事の進め方というまとめがバズっています。ここを基点として氏は自身のブログで発達障害向けの就労ノウハウをブワッと連投。本人のキャラもあいまってネット上で一定の存在感を獲得するに至りました。2017年5月にはネット論客108星に選ばれているそうです。
2018年5月には、これまで色々まとめたノウハウをまとめた某本を出版。この本の巻末解説は某白熊精神科医さんです。そもそも当該ブログは元々書籍化を目指すという趣旨ではじめたという記述があり、実際に有言実行するのは見事という他ありません。2018年後半からはTogetterやはてなブログではない何かしらのメディア媒体に寄稿する機会が出てきたようです。ちなみに、本題からはそれますが氏の趣味の一つが料理ということは割と知られており、ヤケクソみたいな量の繊細な料理を作りまくることで有名な某料理漫画家さんのブログにも定期的に登場します。
それはそうと、本人が絡むある種の揉め事が発生した痕跡が見られるのは2019年頃。どうやらフェミニズム系の話題でネットが騒がしくなりはじめたタイミング(独自研究)で、アンチフェミニズム論客のまとめが検索にヒットします。本人が中心になっている話題は多くありませんが、元々あの辺りの界隈や話題に関してTwitter上で言及することが多かったわけですね。ある種の「生きづらさ」みたいなものが主要なネタだったから、その辺の界隈と距離が近かったのは納得ではあります。余談ですが、氏は中国でバカ当たりして世界累計200万本売れた某メンヘラ配信者ゲームのディレクターともトークショーをやってたりもします。
しかし、ここで一つ興味深いのは、本人が由来の揉め事とはっきり言えるのは、2019年1月の記事だということです。その記事の執筆者である某小説家さん曰く、特段絡みのなかった氏から謎の絡まれ方をしてるとのこと。その中で「俺より結果出してからモノ言えや」という発言があったことが確認できます。また、氏の弟はとあるライトノベル作家なのですが、どうやら兄弟仲は本気で悪いらしく、弟がアニメ化したりこのライトノベルがすごい!で1位をとったりしたら気分が悪くなったり嫉妬爆発の発言をしたりしてます。文章で身を立てることにある種のこだわりがあるのかもしれません。
閑話休題。氏は2020年7月に2冊目の本を出すなど、文筆業として継続的に成果を出していましたが、風向きが完全に変わるのが2021年のこと。氏はあるTwitterユーザーが自分のノウハウをパクったと主張。その主張が傍目から見るとかなり強引なものだったため、それに派生するかたちで別のTwitterユーザーが氏を継続的に批判するようになります。結果、氏は弁護士を介しての訴訟をちらつかせる行為が一気に増え、大炎上したのです。
この辺りで登場してくるのが、今回のケンカ相手の「E」氏です。「E」氏は某氏の主張を「ヤクザめいてる」と批判し、氏から訴訟をちらつかされますが、「E」氏は逆に某氏に対して債務不存在確認請求訴訟を提起しました(この裁判は都知事選にも立候補したことのある某裁判ウォッチャーが定期的にまとめていました)。この裁判の経過は後述しますが、自らが訴えられる側になった際の某氏の振る舞いに失望する人が続出。某氏を批判した人間に対してかなり強気(婉曲表現)なDMを送っていたことが複数名から暴露されることになりました。
特に問題になったのは、とある人の子供に言及して「本気で○す気でしたよ」「裁判やるより◯す方が安い」と発言していたのがわかったことです。はっきり言って超ド級にヤバいです。その上、某氏はこの件に一切言及せず完全無視を決め込んでいるため、某氏が何かやる度に蒸し返されつづけることになりました。
さて、問題の「E」氏と某氏の裁判について記述しようとしたところ、この辺りから某氏の話題ははてなブックマークに上がってこなくなりました。そのため、ここから先ははてなブックマークに上がっていない記事などを元に裁判の経緯を追うことにします。
つまり、「E」氏と某氏の裁判は2021年9月に始まっているものの、訴訟が3件動いている&反訴や控訴等もあってほぼ4年近くかかっていたわけですね。
さて、この敗訴が尾を引いたのか、某氏は2025年8月4日にDMで「E」氏の自宅襲撃を予告。「E」氏は警察に相談することとなります。
その後、8月7日に某氏は自身が一日店長をやる企画(8月17日実施)に「E」氏の招待をなぜか公言。「E」氏が参加を表明すると、某氏はなぜか警察に相談。警察経由で「E」氏に連絡が飛びます。その後、スタッフから「一次会への参加はご遠慮ください、二次会以降であれば参加料金無料にします」とのメールが「E」氏に送られたため、「E」氏は二次会への参加を表明します。結果、なぜか8月15日に某氏が「E」氏の自宅に突撃。警察が出動することとなりました。
最終的に8月17日のイベントに「E」氏は不参加となりましたが、8月20日に「E」氏が当該バーに訪問したところ、バーを出たところで某氏にボコボコにされたとのことです。某氏と「E」氏は両方とも逮捕されました。8月24日15時現在、両名からの続報はありません。
以上、某氏がネットの人気者になってからその地位が失われるまでの、おおよその流れをまとめてみました。いかがでしたか?本人の独特な人格と文筆業へのこだわりが、成功体験を元に悪い方向へと働いてしまったことがよくわかります。特に、訴訟を辞さない人間を前に強い言葉(婉曲表現)を使ったことがことごとく逆効果になっている様子です。
みなさんも、大事なときには謝ったり、反省したり、子供の命を縦に強い言葉(婉曲表現)を使ったりしないように気をつけましょうね。
「変わらぬことは良きことなり」がまだ続いてるのな。クソだな。
結論から言えば我が国の教育はすべて間違っている。いい加減に自覚しようよ。
全部を変えてもいいくらいなんだよ。
大衆は国家衰退を政治の責任にしたがるが民主国家なんだから主権者つまり意思決定の主体は国民なんだよ。
で、国民が望んだ形で教育がなされ、役立たずを大量排出しているから国家が衰退してるんだ。
うっせぇボケ
いやいやいや、結局のところ教育も政治成果の一部であり、その意思決定の主体は国民であるから
結局のところ「国民が悪い」
俺が拳を振り上げたところでムダなのだ。負け確
日本人全員で「変わらぬことは良きことなり」やってんだよ。クソが。
で、具体的には、お盆前に単身赴任先から自宅に戻ったら妻から「これやって」と紙を渡された。
妻の出身国は前回の世界大戦で日本軍に侵攻され、争いを好まない国民性故に「Open City」いわゆる現在の平和都市宣言、不戦宣言で統治を渡したが
支配した日本軍が無茶苦茶やりだして殺しまくりで、国家ボロボロになりそうになったので反旗を翻し、日本軍に抵抗し始め
あっという間に日本軍に勝利し日本軍を駆逐し、日本軍が「ひえーかなわん」と逃げ帰った相手国の人である。温厚な顔してるが怒らせると怖い
過去40年経済成長率で日本が勝ったのは3回(年)だけ。37回は向こうが上、まぁフィリピンだ。
あちらは戦勝国であり、こっちは敗戦国であり、妻の方が偉い、正しい。
学校のICT教育だかでiPadが支給されその初期設定をやれというインストラクション。
俺の部下がこんなもん作ったらぶち殺すレベル。
いやいやいやいや、わかりますよ、ITリテラシー下の下の教員が見よう見まねで作ったのだろう。
忙しい業務の合間に作ったのだろう。印刷機は白黒しかない。わかる、無理ゲーだ。
やらせるのが悪い。
本来であればiPad調達は市教委一括なんだからインストラクションシートも業者に丸投げするか市教委でまともなものを作って各学校にデータ配布するかだが。ポンコツ敗戦国の教育システムにはそんな情報共有の仕組みすらないのだろう、各学校ごとにシコシコ作っているのだろう、リソースの無駄遣い、でも教員は「忙しい」と愚痴ってる。アホか。絶望。学校自治ってやつか?唖然。昭和か?
なにがポンコツかって、iPadの操作画面を切り貼りしてるんだが出力は白黒なのに適切な二値化、グレースケール処理されてない。
結果、何書いてるか読めねぇ、どの画面を図示してるかわかんねぇ、すべてがかすれている。
操作導線も省略しちゃダメなところを省略し、省略できるところを省略しておらずインストラクションを作った人間がよくわかってないのが想像できる。
マトモに読めないのは自覚しているのだろう、手書きで補完しているが、その情報いらね、みたいなメモ書きが付加されている。
いやいやいや、わかる、わかるんです、多分こーゆーことをやりなさいというのはかすれた情報から推測できなくはない。
おおむねそれであっているだろう。
が、ITで35年飯食ってる俺はプロだからその手のインストラクションを「勝手に補完」「想像でエイヤッ」に拒否反応があるわけ。
ストレスしかない。読めないものは読めない、だからわからん、分かる資料を出せ、としかならん。
で、だ、それはいいんだわ、そこまではぎり絶望で終わるんだが、「深い」絶望のわけは
このポンコツペーパーを書いてるの教員なんだよな、と気付いたからである。
つまりね、そーゆーペーパーを作っちゃう人間が子どもにモノを教えてるって現実に深い絶望なの。
だって、適切な説明ができない、抽象化ができない、この説明で何割が躓くか、どのレベルの人間まで正しく伝わるか
そーゆー想像を一切してないの。そーゆー人間が子どもにモノ教えてるんだぜ。こえーよ
学校からいろんな連絡物やペーパーが届けられるが、すべてが同じ。
いやいやいやいや、わかるんです、他の親たちはPTAだのママ友コミュニティで情報共有してやりくりしてんだろう。
だがそのコミュニティから外れたらアウトなわけ、村社会からはみ出たのは自己責任って考えなんだろう。
そーゆー甘えでクソペーパーを量産してる
そーゆー社会構図の全てが凝縮されたインストラクションなわけ。クソが
で、戦勝国の妻に日本の学校ってクソだなと揶揄やれるのも悔しい。
確かにあちらは経済成長率もグングン伸びてる、つまり優秀な教育システムで優秀な人材を大量に排出しているわけで、反論の余地が無い。
で、まぁ、ここまではいいんだが、
3,4歳くらいから数字に強い興味を持ち始め足し算引き算を教えてやるとすぐに習得。
焦った先取り教育をするつもりはないので塾だの公文もやってないが
いつのまにか掛け算を覚え、割り算を教えてくれというので軽く教えてやったら秒で理解して18割る6、くらいは暗算しやがる。
小数点はいつの間にか理解していた。地頭はいいのだろう。記憶力もかなり良い。
出張先から一緒にマイクラをオンラインでやってるんだけど図形や空間把握も問題ない。
そりゃ学校の授業は秒で飽きるわ。
かついじめられている。
学童で、4,5年生にぶつかられたらしい、「謝ってくれ」と要求したら殴られた、だそうだ。
殴り返したいけど我慢してスタッフに申告したらやんわりもみ消された、理不尽だとの報告、
「パパ、小さな隠しカメラを買ってください、録画して証拠を掴んで言い訳できないようにして謝らせたい」
こーゆーことを言うのだ。
「飛び級したい、なんで日本の小学校は飛び級できないんだ、外国ならできるんでしょ?」と言い出した。
学校/学童は暇すぎて本を読んでるらしい。漢字も勝手にがつがつ覚え始めた。
友達いなくてボッチだそうだ。
「話があわない」だそうだ。クソ生意気な。
行きたくなければ行かない選択もあるけど、その場合ママが仕事に行けなくなっちゃうし、ジジババは体力的に厳しいし、我慢して通ってくれないかな、世の中なんて理不尽なものだ、思い通りにはならん、殴られたら殴り返してもいいよ、だが殴るときは相手のスキをついて全体重をかけてヤレ、泣いたフリして油断させてヤルのだ。一発食らわせたあとは全力離脱して大人がいるところに行け、二発目は諦めろ、ボコられる。なぁに学校も学童もパパも保険には入っているので心配するな。小1と高学年の喧嘩は100%高学年の方が悪くなる、パパとママはなにがあろうと無条件の無制限でキミの味方だ。守ってやる。ちなみに自分より弱い相手とは喧嘩するなよ、それだけは許さん。ともかく、どーしようもなかったらなんとかするけど、転校する?
と説得し、今のところ通ってはくれてるが
手順書すらマトモに書けないスカタン教員ポンコツ学校には期待できないし、はぁ
どうすりゃいいの
【注意事項】
※無駄にクソ長い
※あくまで完全個人的意見であることのご留意をお願い致します。
※個人的な考え方をぐだぐだと捏ねているだけです。多分整合性とか納得感はない。
※個人的な考え方をダラダラ書き綴っている形に近いので無駄に長い。
※どちらがいいとかどちらが悪いとかそう言う議論もしていません。
昨今話題の絵描きと生成AI使いの対立問題について。なぜこのような対立が起こるのかという原因について好き勝手に色々と考えた内容です。
まず初めに、区別をつけやすくするために、イラスト系の生成AIを用いずにイラストを描いている者を“絵描き”、イラスト系の生成AIを用いてイラストを出力している者を“生成AI使い”と評させていただきます。不快にさせたらすまん。
主題は“絵描きが資料を見て描くことが、なぜ生成AIを用いてイラストを出力することと同義ある”とされるのか。また、そのことに対し、絵描きと生成AI使いで意見が異なるのはなぜか。
個人的に至った結論は、『“素材”という言葉の解釈に差があるから』です。
それでは、この結論に至った経緯を順を追って説明したいと思います。
【全体の構成】
4.オリジナリティとは
5.まとめ
早速、結論の根幹に触れる形ですが、絵描きと生成AI使いのそれぞれの“素材”という単語への認識は次のとおりだと考察しています。
絵描きにとっての素材とは、最終的な完成作品にほぼそのまま用いられるものであり、画材やトーン、配布されている3D、図柄パターン、レースや鎖を簡単に描けるカスタムペン等がこれに当たると思っています。(もちろん他にもありますがきりがないので割愛)。
ここで重要なのが、“最終の完成品にほぼそのまま用いられるもの”という概念と、これらの素材は無償、有償に関わらず素材の“製作者の意思により配布・販売されているもの”であるということ。
つまり、絵描きは素材を用いたときにはその素材は自分のものではなく第三者のものであり、作品を完成させる過程に於いて“他人のものを使っている”という認識を持っている。
なので、必要があれば出典元や素材元を明記するし、ましてや“自分が作った”なんてことは言わない。
一方の生成AI使いにとっての“素材”とは“生成AIを作る過程にて用いられた大量のイラストデータ”であり、それらはあくまでデータでしかなく、そのデータ群は絵描きにとっての素材、資料、経験と同義であるという考え方だと思っています。
この時点ですでに相容れない認識の違いが生じていると考えています。
正しくは、“素材への取り扱い方”の差というべきでしょうか。
絵描きとって、素材は基本的には自分が作っていない(中には自作されている方もいらっしゃいますが)第三者のものであり、“無償・有償に関わらず製作者の許可なく使用してよいものではなく、必要に応じて出典を明記するもの”である。
それ対し生成AI使いにとっては、生成AIを作り出す過程で使われた大量のデータであり、このデータとは絵描きにおける経験と同義のため、たとえ“第三者が作成したものが許諾なく使用されていたとしても問題はない”。
なぜならば、絵描きとっての生成AI使いのイラストは、許諾のない第三者のイラストの切り貼りでしかなく、許諾のない他人の作品を切り貼りして自作のオリジナル作品だと公表することはタブー中のタブーであると考えているからです。その作品が生成AIイラストや百歩譲って基となったイラストの絵描きのコラージュ作品であると明記しているならばまだしも、そういったことを明記せず、ましてやオリジナルを名乗っているなど許せない。他人の褌で相撲を取ってるくせに、絵柄という他人のオリジナリティを勝手に使ってるくせに、となるわけです。
しかし生成AI使いにとっては、素材とは蓄積されたデータは絵描きとっての素材であると同時に知識や経験であり、絵描きが絵を描くことは蓄積データ、つまりこれまで見てきたイラストの組み合わせであって、やっていることは生成AIを使ってイラストを出力しているのと変わらない、というわけです。やっていることは変わらないのになんで生成AI使いだけ批判されなきゃいけないのか。ダブスタも甚だしい、という考え方です。
“素材”に製作者の許諾があるのかないのか。
これらの考え方のズレが基となり、両者の解釈や認識のズレがさらに拡大し、対立が激化するのだと考えました。
さて、ここから下の項目や書いてある内容については、ぶっちゃけ蛇足ぎみだし、わかりにくいし、ぐだぐだと同じようなことを言葉を変えて考えてるだけです。
多分矛盾とかもあるので、それでもよければ、お先へどうぞ。
項目1にて生じた“素材”という単語への解釈の違い。前項の最後に記した通り、“素材”の解釈違いは、さらに“経験”という単語への認識の違いが生んでいると考えてます。そしてこの認識の違いが分かりやすい形で表面化したのが、『絵描きが参考資料を見て描くことは、生成AIでイラストを出力するのと同じである』という言葉だと思っています。
前項に倣って、各自の“経験”という単語への解釈は次のようになっていると考えています。
絵描き:これまで見聞きしたり、調べたりして蓄えた知識や技術の積み重ね。素材≠経験
生成AI使い:経験には二通りの解釈があり、ひとつ目が生成AIに蓄積された大量のデータで、ふたつ目が生成AIに指示を出す時のプロンプトの知識。前者が素材=経験であり、後者は素材≠経験という考え方。
絵描きにとっては“素材≠経験”なのに対し、生成AI使いにとっては“素材=経験であり素材≠経験”です。なぜこのような差が生じるのかは、前項1のとおり、絵描きは経験と素材が完全に独立しているのに対し、生成AI使いには完全には独立していない領域があるためだと考えます。
生成AI使い側に“素材=経験”の考え方があることによって、絵描きにとっては“経験”だけに含まれる『参考資料を用いてイラストを描く』という行為が、生成AI使いにとっては素材と経験の複合体である『大量のデータを用いてイラストを出力すること』と同義であるという認識になるではないでしょうか。
分かりやすく示すなら以下のようになるでしょうか。
生成AI使い:素材=経験=参考資料を見て描く、素材≠経験=参考資料を見て描く=プロンプトの工夫
素材が経験と同義か否かで、決定的な違いが現れたのではないでしょうか。
いえ、それよりかは素材と経験が完全に分かれているかいないかによって違いが生じているというべきかもしれません。同時には成り立たないと思っていることが、一方ではその通り成り立たず、しかし他方では成り立ってしまう。この差がより対立を生み、問題をややこしくしているように感じました。
素材や経験といった単語の解釈の差を起点に、さらにそれに付随する考え方の解釈がどんどん乖離していっている。そんな考えについてです。
ここは、言葉で説明するのが難しく、さらにややこしいので、さっさと箇条書き形式でまとめを書きます。
・素材=完成作品にほとんどそのままの形で使用するものであり、基本的に第三者の著作物であることが多く、作者の許諾や場合よっては出典の明記が活用になる。
・経験とは創作者本人がこれまでにイラストを描くことによって蓄積してきた知識や技術であり、参考資料を用いて描くことは経験の蓄積に値する。
・作品ごとにその作者特有の癖や特徴があり、それは各人それぞれのオリジナリティである。(イラストを見て製作者がわかる)
・絵を描く行為は、これまでの経験の発露であり、たとえ同じ知識や経験を持っていたり、同一の資料を参考にしたとしても同じ作品は生まれないため、作品には作者のオリジナリティがある。
・生成AI使いに於ける素材とは、“生成AIをつくる過程で用いられた大量の第三者のイラストデータ”であり、そのほとんどが“製作者の許諾なく使用されたもの”である。
・自分で描くという行為をしないため、“イラストを描くことへの知識や技術の蓄積”は存在せず、よって経験はない。
・素材に他人のものしか使っていないため、基となったイラストの特徴はあれど、イラストを出力した出力者のオリジナリティはない。(イラストを見て学習データ基はわかるが、イラストを出力した者がわからない)
・出力されたイラストは蓄積されたデータ元のイラスト製作者のイラストの切り貼りであり、それは出力者のオリジナリル作品とは呼べない。
・素材=生成AIを作り出す過程で用いられた大量のイラストデータである。
・経験とは生成AI内に蓄えられた大量のイラストデータ、もしくは、生成AIに指示したプロンプトとそれに対する出力結果の蓄積である。
・適切なプロンプトを用いて想像通りをイラストを出力する行為は、これまでに用いたプロンプトとそれに対する出力結果の蓄積であり、この経験により出力されるイラストにはオリジナリティが存在する。
・絵描きに於ける素材もまた、生成AI内の蓄積データと同様に世の中に溢れる大量のイラストや他人が作った作品、写真等である。
・絵描きがイラストを描くことは、世の中に溢れるイラストの特定の部分を抜き出し組み合わせる行為であり、参考資料を見ながら描くこともそこに含まれる。
・絵描きがイラストを描く行為は、生成AIに的確なプロンプトで指示を出してイラストを出力することと同じである。
・絵描きのオリジナリティは既存のイラストの組み合わせの違いから生じるものであり、どんなプロンプトを書きなにを組み合わせるて出力させるかという部分がオリジナリティである。
一応、各行ごと対比させることを意識して描いてみたけれど、やはりわかりにくいかもしれない……。
もっとまとめるとこんな感じでしょうか。
絵描きの自認
素材は素材、資料は資料、経験は描く過程で習得したこれまでの知識や技術の蓄積。全てが別々の概念であり、資料を見ながら描く行為は経験に値する。これまでの経験によって製作者ごとに絵柄や色選びなどにオリジナリティが生じ、それらは決して過去作品の切り貼りでは生み出されない変化である。
素材はビッグデータであり、生成AIに指示を出すプロンプトについての経験を“イラストを描くという経験”とは認識しない。AIイラストはあくまで他人のイラストデータの切り貼りでしかなく、出力された生成AIイラストにあるのは学習データもととなった製作者のオリジナリティで、生成AIを使っている生成AI使いのオリジナリティはない。
生成AI使いの自認
素材、資料、経験の一部の三つとも生成AIに蓄積されたデータを指す。その一方で、資料には他の人が書いたプロンプト等の概念や、経験にはイラストを出力する過程て考えたプロンプトといった内容も含まれる。AIイラストを出力するためのプロンプトにおいてオリジナリティが生じる。
素材や資料はすでにあるイラストであることに変わりなく、それらは生成AI内に蓄えられた大量のイラストデータとなんら変わりない。イラストを描く工程は指示を出すプロンプトを考える時間と同じであり、完成する作品も過去に蓄積したイラスト知識の切り貼りである。オリジナリティについても同様に過去に参考にした絵描きの真似をしているだけで生成AIの絵柄の模倣と同一である。
まとまっているような、いないような。
個人的には結構しっくりきているのですが、果たしてこれが読み手であるみなさまにどれほど伝えられているのかはわかりかねる次第です。
さて、ここでさらに出てきたのは“オリジナリティ”の概念です。
そして、この“オリジナリティ”の概念もまた、よく争点となる部分であり、前述にもある通り解釈が分かれるものだと思います。
4、オリジナリティとは以降はコチラ【anond:20250805043013】の記事へ
まず前提を書いておこう。
私は腐女子である。一般的な腐女子ではないかもしれないが、歴としたBL文化を好む腐女子だ。無論二次創作もしている。
何がどうあれ、それは事実だ。
それから事の発端は皆さんもご存知だろうが「いちばん美味しいゴミだけ食べさせて」というSteamのゲームである。
私がこのゲームのことを知ったのはXの電ファミニコゲーマーのポストだ。それを見た時におもしろそうなゲームだな、と思うと同時に不味いなとも思った。
さて私の立ち位置を明確にしよう。
どのような内容であれきちんとR指定などをしているのならば現状は問題ないはずである。
だが不適切な場所での性的なWeb広告などには反対をしていきたい。それはきちんと線引きができていないからだ。今はその話ではない。ゲームである。
だが考えてみて欲しい。このゲームはまだ発売していないのだ。発売していないゲームの中身なんて、誰にも本当のところは分からない。
このゲームを本当に評価するなら、買って遊んで中身を確かめてから然るべき批評をすべきだ。
だってこのゲームに出てくるラブリィドールとやらにゴミを食べさせて賢くなったらそのラブリィドールが今度はプレイヤー(人間?多分、知らないけど)と立場を入れ替えて今度は人間に美味しそうな残飯料理を振る舞うようになるかもしれない。
それならこのゲームは知能を持つことやその存在との関係性の構築に対するカウンターとして機能することになる。
このあらすじだけではゲームの全貌は分かりっこない。
仮に本当にあらすじからそのまま連想されるような女性蔑視的な視点が含まれていたとしても、別にそれは悪いことでは無い。
それなら世の中のそう言った生き物(男性/女性/動物/有機物/無機物を問わず、命あるもの全て)を物扱い(この場合、ラブリィドールは物だから別に物扱いしても構わないとも思うが)して性的搾取していると思われる作品は全て検閲対象にせねばならない。
道徳的に問題のある作品の全てがダメなのなら、その前に規制や検閲を受けるべき作品など山ほどある。
現状そんなルールは存在しないのでその方向でこのゲームを取り沙汰するのはどうにもおかしなように思う。
それから純粋に、アルジャーノンに花束をからインスピレーションを得たとするこの設定は挑戦的でおもしろそうなことは間違いない。私はSteamのウィッシュリストに放り込んだ。閑話休題。
そしてBLだ。
私はいつも近所の本屋に行くと、その本屋では児童書コーナーの奥まった場所にBLコーナーがある、それを見る度にせめて場所を変えてくれないかと思っていた。
男性向けR指定コーナーと同じにすると女性が性的被害を受けるので現状は難しい、と言うのなら今後は男性と女性それぞれのR指定コーナーを設ける、と言うことを検討してもいいと思う。
児童書コーナーの奥よりはマシだ。
それをすると腐男子の方々がBLを購入するのに差し障りがあるかもしれない。まあ私も男性向けのR指定本を買う時に困るが……現状世の中には通販と言うものもある。
なんなら全てを通販で済ませても良い、と思う時もあるが本屋には総覧性という素晴らしい利点と思い立った時に手にすることが出来るという通販では得られない即時性もある。
ならば現状を維持する為に男性向けも女性向けもR指定の権利と表現の自由を主張するべきだろう。
それが筋というものだ。
エロの表現のきれいさとか性的搾取が無い作品だとか、そんなものは男性向けにもあるし女性向けにだって強姦表現やとても口に出すのは憚られるようなものもある。数の問題では無い。表現の内容を全てを一纏めに語るのは暴論だし、そうなったらどちらも規制である。
あと私は男性向けとか女性向けとかそんな括りは関係無く全ての作品が読みたいし、全ての表現を尊重したい。
ちなみに個人的な考えを言うと作品の倫理観は時に読み手とナラティブに呼応し、時に逆照射されて読み手に倫理的に働きかける(その逆もある)というのならば読み手と書き手は両者共に倫理的に成長すべきだし、その営みを守ることに対して声を上げたいと思う。
昔から猫のいる環境で育ってきたが実家の猫を最後に看取ったのはもう20年以上昔だ
田舎に住んでいたのもあってその頃は遺体をそのまま庭に埋めて供養するのが当たり前で、今回初めてペット火葬というものを利用した
人間と同じように火葬場(大体霊園に併設されている)に行って火葬を行うものと、火葬車が出張してきて自宅などで火葬を行うものだ
火葬後のお骨は自宅供養することを決めていたので霊園にお願いして供養についての営業を受けるのは億劫で出張を頼むことに
ペット火葬検索すると山のようにヒットするしほとんどの業者は書いてあることが似たり寄ったり価格帯も似たようなもので未経験の自分はひどく頭を悩ませた
正直に言うとポジティブな口コミが山のようにある大手は怪しすぎるし、無さすぎても判断に困る
しかしながらペット火葬業者のほぼ全てが電話受付でありメールで見積もり依頼をしても結局返事は電話で返ってくるので地獄だった
24時間対応をスムーズに行うためなのだろうが普通にメンタルに来たのでもう依頼したくない
電話口の方がとても穏やかにまず名前を確認してくれたところで私の涙腺は崩壊した
そこからは本当にスピーディーで翌日の19時に来てくれることになった
0時近くの依頼だったのでほぼ19時間後、私の子の体は手元を離れることに
もっと先の日程で予約すれば良かったと後悔もしたが、この真夏に遺体を3日も4日も安置はしておけない
一応ドライアイス5kgで冷やし、冷房は18度設定の極寒部屋ではあったが長時間安置して体が無事な保証はない
その夜はほとんど寝付けないままベッドと猫を行ったり来たりした
朝になり、外でご飯を食べ、花を買いに行った
何軒かハシゴして猫に無害な花のみで送り花を作った
花屋も泣きながらあの花はなんだこの花はなんだという客を相手にして大変困ったと思うが、さすがはプロでどの店でも皆親切に対応してくれて感謝しかない
花に囲まれる姿はただ眠ってるようにしか見えなくて、かわいくて、また泣いた
遺毛をとり、足形をとり(4つ足全てとりたかったが死後硬直の関係で後ろ右足しかとれなかった)
あとは見送るだけとなって、なにも手に着かなくて仮眠をとった
その夜、予約の通り業者が来た
後部座席と荷台に収まった火葬台に猫を横たえて、副葬品に花と少量のフード、おやつを入れた
業者側も花を用意してくれていてそれも添えて、お焼香をした
暑さの残る中、最後のお見送りをと私と猫だけ残され、頭をなでながら空になんて上らなくて良い、家にかえっておいで、一緒に帰ろうなんていいながらまた泣いた
人間以外と涙は枯れない
火葬車の蓋がしめられて、火が点火された
火華が飛んでいたのはじめの1分ほどでそのあとはもう煙もなにも登らない
泣きながら科学の力ってすげー、これなら住宅街でやっても平気なわけだと感心した
終わったのは1時間ほど後
蓋をあけると骨は驚くほど綺麗に残っていた
スタッフさんがこれは尻尾でこれは後ろ足で…とほぼ全ての骨を説明してくれながら並べてくれてそれを一つ一つ箸で拾いつぼに収めた
拾いながら思ったのはお骨になってもかわいい、だった
本当に本当に全てが愛おしい
業者さんはずっと丁寧で、私の心に寄り添ってくれた
良い口コミが多い業者は胡散臭いとか思っててすみません私も落ち着いたら書きます
お骨を収めた骨壺を丁寧に骨覆をかけてくれて、火葬は終了
その夜私は骨壺を抱いて寝た
もしかしたらと思ったけど夢は見なかった
バス切符売り場で長距離路線の時刻表をもらって検討。遠くに行きたい気分。
20分ほど悩んでしばらく訪れてない長崎をチョイス。
10分後に出発の便があった。高速りんどう号
乗った、走り出した。
沢山お客さんを乗せたいのだろうか、市内をぐるっと回ってから高速道路に入るコースのようだ。
桜町バスターミナルを出発してから高速道路に入るまで50分かかった。
アホかと。
さらにエアコン吹き出し口がクソで冷風が腹に当たる。頭を冷やしたいのにどう調整しても頭上に風は来ない。
非常に不愉快、二度と乗らない。
日差しが強いのですべてのカーテンが閉じられており車窓もクソも無い。ただ移動するのみ、不愉快だ、二度と乗らない。
暑い。
演説している人と聴衆の間に30mほどのDMZが設けられておりワロタ。
面白いので歩道橋から写真を撮っていたら警察官が飛んできてさっさと移動せよと指示された。
撃たれるの怖かったら政治家なんかするなよ、悪いことするなよ、と思った。
とりあえず腹ごしらえをしようと中華街に移動。
赤字垂れ流しで毎月事故を起こしてる熊本の200円路面電車とは大違い。
連休の昼間なのに。なんで?
歩くのダルいので近くの銀だこに入る。たこ焼き食ってハイボールの飲む。あぁ幸せ。
観光地のドミトリーは女性専用が多いが予約できたので良いのだろう。
たこ焼きを食い終わり宿に向かう。徒歩5分。汗だく。
古びた雑居ビル、本来は女性専用なのだそうだが近々に男女共用のスペースを増設予定でリフォームはほぼ終わっているのでそこを独り占めでお使いくださいとのことだった。最高。
テキトーな店に入ろうと考えていたがグッと来る店がなかった。そのままドミトリーに戻る。近くに飲食店があったので入る。
超ビミョー。ワインにこだわりがあるようだが店内が雑然としており清掃も行き届いてない。
料理もさほどうまくない。まずくはないが旨くもない。まぁ二度と行かないからどうでもいいんだけどね。
ともかく宿に戻りシャワーを浴びて寝る。
朝、ドミトリーの共有スペースでコーヒーを頂き出発、暑いのでさっさと熊本に戻る。もはや観光はどうでもいい。
さてどうやって帰ろうか、バスは二度と乗らん。
Google Mapでは長崎半島と天草の海上に線が引いてる。つまりなんらか公共交通機関があるということで調べるとフェリーがあるようだ。
長崎の茂木港から天草の富岡港まで定期便がある。よしこれにしよう。
長崎はバス網が充実している、公共交通機関が死んでるクソ熊本とは大違いである。
長崎市内から長崎半島を横断し茂木港までの路線バスがある、85号線。乗る。
これが良かった。
長崎は平地が希少で独特の地形で都市が発展しており、山肌斜面を限界まで活用した都市構造になっており、ここを縫って走る路線であり、長崎の人は見慣れた光景かもしれないが日本国内ではなかなか見られない町並みであり、85号線はこれが堪能できる。
なんやかや街を抜け、森を抜け、山を登り、山を下り、茂木港到着。運賃は300円くらいだったと思う、これ価値あるわ。人生で一度は乗ってみるべき路線バス第一位確定。
だがバスは茂木港まで行ってくれない。バス停はあるのだが朝夕の数便だけ茂木港に寄ってくれるがその他の便は手前の町中が終点で降ろされる。
バス停から茂木港まで徒歩7分、暑い、だるい。バスもうちょっと頑張れよと思ったが茂木港に着いてわかった。
連休中なのに観光客はひとりも居ない、てか客がほとんど居ない。
だが、フェリーというか、小型船というか、車一台も乗らない船だが、これが良かった。穴場中の穴場。
10:20。定刻出発。乗客7人。高速艇なので風が気持ち良い。海面が近く運が良ければイルカとか見れちゃうんじゃないか。しらんけど。ともかく景色は最高。
富岡城が見える、ギリ歩いていける距離だが、暑いので断念。港周囲を散策、なにもない。バスは小一時間来ない。待つ。待つしか無い。
苓北町の町中、狭い路地を走る、寂れた街、乗客は俺だけ。山中の秘境とはまた別の秘境感がある。
しばらくすると国道に出る、海岸沿いを走る、美しい景色。いい。全般的に良い。
マイクロバスはどんどん走る、途中客が乗ってくる。つても6人だが。
ここが天草の交通の要所。ここから天草のどこにでも行ける。素晴らしい。
ここから熊本市内までバスで一本。だが2時間に一本しか走っておらず、次の便は1時間後。
バス案内所でちゃんぽんの店を教えてもらう、長崎で食えなかったので天草でも良かろう、似たようなもんだ。
バスセンターの裏にシェアサイクルがあり5分で行ける距離、行く。
店内は芸能人だかスポーツ選手だかの色紙がずらりと、有名な店らしい。
正確にはメニューにはちゃんぽんと名乗っておらずラーメンなのだが、これほぼちゃんぽんじゃんってラーメンだった。美味しかった。
うまけりゃ名称はなんでもいいです。
しかし後日(てか翌日)TVerで知ったのだけどバスセンター近くに稲垣吾郎が感動した寿司屋があるらしい。
あーんそっち行きたかったなぁ、稲垣吾郎なんか好きなんだよね。
ともかくラーメンを食い、まだ時間があり、自転車で天草市内をぐるっと散策。
アーケードがあり、街興し的なイベントやってた。子どもたちが踊ってた。興味なし。
エアコン吹き出し口はベストでグッドな位置と角度で程よく体全体を包み込むように優しく冷やしてくれる、さすが三菱。
快適なバス、運良く通称バカ席(一番前の左側の席)をゲットできたのも僥倖。眺め最高。
そのままバスで熊本市内まで戻っても良いのだが面白くないので途中の三角駅でJRに乗り換え。
16時9分発があるのだがバスが観光渋滞遅延し15時半着の予定が16時2分に駅に到着。ギリセーフ。
ちなみにその次は特別特急(「A列車でいっこう」)で予約いっぱい。その次は1時間後。
ちなみに三角線は電化されておらずディーゼルなので念の為列車と書いている。
ちなみに三角と書いて「さんかく」じゃなくて「みすみ」な。
場当たり的に移動しているようだがただ無計画に行動しているだけ。日本国内ならどうにでもなる。
昔、フィリピンのバタンガス港を散歩していたら観光船みたいなのがあったのでテキトーに乗ったら二時間走ってプエルトガレラまで連れて行かれ
その日の戻りの便はもう無いよ、ってなことがあって、着替えもなにも持ってなかったが近所のテキトーなホテルに泊まって翌日帰ってきたが、現代はクレカ一枚持ってりゃどうにかなるのだ。
だがその時はバンガロー向かいの小屋のバルコニーで白人どもが美味しそうな乾燥させた草の煙を吸っていたが俺は手持ちキャッシュが無かったので手に入れることができず悔しかった思い出。まぁちょっとした散歩でも年齢かける千円程度のキャッシュはポケットに入れておけってこった。
閑話休題、三角線、実はこの路線は数ヶ月前に乗ったことがある。
前回、三角駅から少し遠いが三角西港がありちょっとした観光地になっていて、割と良い。
海岸沿いにレストランがありここの天丼はすこぶるガチ美味しいので人生で一度は食べておいた方が良い。
ちなみに三角駅にはレンタルスクーターがあり事前予約もできる、これを使うと良い。路線バスもあるが使い勝手が悪い、てかぜんぜん走ってない。
パパ3人、ガキ6人、下は幼稚園から上は小学2,3年。みたいな集団。
喋り方からして地元の人間。餓鬼全員おおはしゃぎ、海が見えると全員で「うーみーわーひろいなー」大合唱。
バカ親まったく静止せず、やりたい放題。
親は風体から推察するに土建か団体職員、品性のかけらもない田舎バカのテンプレ。
子どもは育てられたようにしか育たない、バカに育てられたらバカになるだけだ。だが子どもの責任ではない。可哀想に。
対照的に近くのボックス席の中国人観光客の親子は静かで上品だった。持ち物からしてそこそこの富裕層だろうが。
はぁ情けない。
楽しかった。
他人のことを「頭が悪い」という人って、自分自身はある程度頭が悪くないと自認していると思うのだが、その前提こそ己の頭の悪さを露呈しているのではないか。
あいつらはバカだと言って切り捨てるのは、それらの理解を諦めるということで、それは頭の良い人間がやる行為だろうか?
他人に対して頭が悪いとシンプルに言えてしまう人間も、排外主義やトランスヘイトに賛同する人間も、相手側に対しての知識や理解の量が足りないのだと思う。
おそらくきっと、そういう他人が身近な仲の良い存在として全くいないか少人数しかいない&そのバックボーンを知らない。
まああるいは、知ろうとしない。
人間同士が必ずしも理解し合えるとは全く思わないが、身近に実在している人物を思い出すことで、口から出なくなる言葉というものはある。
また、知識として頭では知っていたとて、目の前にいる人間が実際に起こす行動で驚くこともたくさんある。
色んな土地に友人が増えると、自然災害などの時にその人を思い出して今までより親身にその土地を心配したりもする。
そして、人間と1人1人接していくうちに、全く同じ人間などいないことがわかってくるだろう。
同じ属性を持っていたとしても、まとめてひとくくりにして叩ける集団は無い。
ぶっちゃけどの集団にもインテリもいれば馬鹿もクズもいて、というか人間の大半は馬鹿だと思うので、正直「あいつらは馬鹿だ」という言説って何も言ってないのと同じじゃね?と思うわけ。
右派も左派も女性も男性も老人も若者も外国人労働者も障害者もLGBTQ+も何でも全部一枚岩なわけないじゃん。
レッテル貼って頭の中で仮想敵作って叩く前に、その具体的で複雑性のある個別事例のそれぞれをちゃんと足を使って目で見て耳で聞きなよ。
相手側のことをウニャウニャ言ってる人多いけどそれは本当に相手に聞いたんですか?あなたの妄想じゃないですか?
超大手IT企業で働き、さまざまな業界のお客様相手にシステム開発を行っているが、その全てでゴミを作って売っている
ここでのゴミとは、システム本体のことではない。システム本体もゴミだが、そのゴミは下請け会社が作るので、関係はない
思えばいろんなゴミを作ってきた
決して読まれない説明書、抜け漏れだらけの管理書なんてものはもう何十回も作った
作った記憶すらない資料がプロジェクト最終盤で全てを破壊し尽くす特大のゴミとなって舞い戻ってくるなんてこともあった
そもそもシステムの設定は大体の場合jsonやらyamlやらの「設定ファイル」の形で存在することが多い。
本来は設定ファイルを、その設定項目と値に関する参考資料を読みながらエディタで編集すれば終わる話だが、これではいけない
とりあえずGUIにしよう
お客様や運用担当者が触る可能性のある場合、これは当たり前のことである
お客様は適当なエディタをインストールすることは規則上できないだろう
また、docx,xlsx,pdf以外の拡張子は「怖い」と感じるように訓練を受けている
問題は、主に触れるのが開発者である場合だが、このパターンでも対処は別に難しくない
ほとんど全てのお客様は不確定事象に対する特殊な訓練を受けているため、「開発者以外が触る可能性がある」と言えば、それで通してくれる
GUIにするという方向で話が進んだら、一件落着、見積書に大量の工数とバッファを積んで、あとは適当に開発者に任せよう
普通の神経をしている開発者であれば、宣言的に設定できるように作るはずだが、この業界の平均的な技術水準を考えると、ひょっとしたら手続き的に設定するようなものを作ってくれるかもしれない
まあどちらでも問題はない
それがこのゴミの非常に素晴らしい点である、どっちでもいいのだ
一般にn個のbooleanな設定項目があり、それらがお互いに相互に依存しながら存在しているとき、最高(最低の意味)の場合、n!通りの設定方法が存在する
設定項目全てが2値ってことはないだろうから、ちょっと多くなったり、一部のグループ項目はそれらだけで独立してたりで少なくなったりはするだろう
ゴミを作るツールはエクセル、ワード、パワポから選択しよう、印刷まで考えると、それが最も困難であるエクセルがベストだ
ツールに大量のスクショを貼っていこう(赤枠を使って適宜強調するのを忘れずに)
そのまま説明をセルに直接書いてはいけない、ふきだしを使ってその中に説明を入れよう
罫線をいい感じに入れよう
目指すのは、ありえる設定と1:1になるような資料だ。普通は網羅できないから、適宜省略して作れるところまで作ろう
このゴミの素晴らしいところは組合せ爆発を利用して、ほぼ無限の工数を消費できる点にある
後々に、1つ設定項目を増やすことになったとき、この資料のメンテナンスがどれほど工数を消費するかは、状態の数から明らかである
宣言的に設定画面が作られている場合は、ちょっとした工夫が必要である
そのまま、それぞれの設定項目と値の意味を書いてはいけない、組合せ爆発が起きないからだ
私の好きなやり方はユースケースに分解することだ
関数もどきを資料内に独自に実装してはいけない、全部コピペで行うのがベストだ
そもそも手順が記載された資料というのはお客様の脳みそというインタープリタに解釈されるプログラムであるが、それが解釈できる構文は非常に限られており、actionの実行と、ifとgotoくらいであるから、関数なんて理解できない
もし、GUI作成の許可が降りずファイルで行う場合でも、このゴミは同様に作れる
はじめて食べた
わたぱちみたいに弾けるのを期待してたから全然そんなことなくてちょっとガリっとするのがあるくらいだったから正直そこまでもてはやされるほどうまいか?と思ってしまった
あとコーンにしたんだけどコーンの上に丸くのってる下、コーンの中部分も少しアイス詰めてくれてて、これカップでも同じくらいあるのかな、コーンだけの特典みたいなやつかなと思った
そのあと一蘭いこうかと思ったけど入り口あたりでめっちゃ並んでるの見てそりゃそうかと思ってそっこーあきらめた
そのあと久しぶりにブックオフにいった
2,3,4はリサイクルショップで安く手に入れたからあと1巻だけほしいんだよね(ちなみにそのとき蜜蜂と遠来の文庫版も買ったけど1ページも読んでない
定価のほぼ半額とはいえやっぱたけーよ
んでほかにもないかなーと思いつつガンツオーサカの大判本を全部立ち読みしてしまった
だあと思ったのはOSAKAって一気読みすると意外と短いなってこと
当時はかなり長く感じたけど連載でリアルタイムに追ってたからかな
昔でいう100円コーナーにあったやつだけどかなりきれいだった
110円じゃなくて130円とかに値上がりしたんだね今年の2月から
はー・・・
ポイントが100ポイントあるっていうサプライズがレジでわかって、3冊かって150円で済んだ
こいつのマンガ、いくつか読んだけどこれはまた読みたくなる感じがあるんだよね
他のは正直いまいちだった
そのあとソニーストアいって誕生日プレゼントのカトラリーセットもらった
去年までマグカップだったのに経費削減で安っぽいカトラリーになって超残念・・・
外食して帰ろうかと思って帰りみち歩きながらいろいろかんがえたけど、
かえりのスーパーでいろいろ買い込んで結局外食より高くつくっていうね
案の定食いきれないし
冷蔵庫もないしどうすんだよこれ
転職活動で過去の職場を掘り返しているんだが、社員10人以下の零細に勤めたときに代表が明らかに明らかに強いスペクトルのASDだった。自覚なし。
本人は冗談、気安いコミュニケーションのつもりなんだろうけど完全にハラスメントの発言を日々していた。
マジで全ハラスメントを見た。結構前のことだけどあんなに多種多様なハラスメントを見たのは最初で最後。
ちなみにあるとき関連会社の人が自社の前を通りかかってハラスメント発言を聞いたそうだがマジでヤバイねと言っていた。わかる。
自分は同ビル内の関連会社に半出向だったんだけどそこのチャットツール上で代表がミスの犯人探しをやったこともあったわ。
俺の直属の上司(出向先の社員)がミスったやつで俺は覚えてた。そもそも上司か俺しか担当者がいないやつ。
だからチャットツール上で下っ端の俺に「お前?」って話を振られたら「自分です」と言うしかない。
直属の上司を告発はできねーよ、直属の上司も俺のフォローしてくれるよね?と思ってたけどその上司は自分のミスだと覚えていなかった。
まあこの上司もやばかったからね。無能すぎて上司の仕事もほぼ俺がやってた。愚痴を吐くのをコミュニケーションだと思っていて痛い発言も多かったしASDとADHDのスペクトルもあった気がする。
というか関連会社も明らかにADHDの人とかASDっぽい人とかめっちゃいた。
上に書いた「あるとき関連会社の人が自社の前を通りかかって~」の人もADHDぽかった。遅刻とケアレスミス、物忘れの嵐。
あと代表が外から連れてきた偉い人もソシオパスだか発達障害だかでパラハラ系のやばいやつだった。
1週間しないうちに自社内の全員、関連会社の担当全員から嫌われてた。そりゃそうよ。
いずれもベースの人柄は良いんだよ。
「いい人なんだけどね」ってよく言うよね。あれは本当に信用ならないというか、いい人じゃない人なんてそうそういないよねと思ってる。
犯罪者だってそうだと思うんだよね。だって犯罪犯すまではどうやってか生きてきたわけだし。
閑話休題。
自分は3年ぐらい頑張ったたのだが、その間に先輩が辞め、新卒が1ヶ月で辞め、関連会社に完全出向の新入りは3ヶ月ぐらいで辞めた。
俺も含めて全員が男性。全員メンタル面できつくて退職。俺も辞めたときはかなりやばくなってた。
女性は女性同士でかなり助け合っていたらしいが転職を真剣に考えている人も多かった。
でも全員が初日で「この会社やばい。辞めるか?」と思ったのは共通してる。ウケルー
あと10人以下でこの入れ替わり頻度は・・
関連会社も新卒がすぐやめて中途は取らないから20代いないか新卒だけみたいな感じでアレ。
「人と仕事するときは自分が周りからどう思われているか想像しよう」
「コミュニケーション力を高めよう」
みたいなアドバイスが書いてあった。
あー、あったね。当時は腸煮えくり返って◯そうかと思ったわ。今でも嘲笑が漏れてしまうぜ。
おまいうすぎるし自分がコミュニケーションを閉ざしたのはお前が8割。あとの2割は直属の上司。
当時は自分も至らない点あったし心を閉ざすのを選んだのは自分というのはあるけどね。
退職挨拶の返信でそれを書いてしまうとこだよね。こっちは美辞麗句を並べたのにすごいね。
ちなみにこの会社も関連会社も業界ですごく有名。代表は何度もインタビュー受けてるぐらい。
でも同業他社とか付き合いのある業界からは「あそこ変だよね」と言われてる。
実際は変どころじゃないけどね。やばやばよ。
30歳をとうに過ぎた今日この頃、思うところがある。
それは…それは…。
むしろそんなしょうもない人生にこそ、喜びや幸せが満ち溢れているのだ。
日常の中で感じられる幸せというのは、ひどく小さく、非刺激的である。
酒やギャンブルに身を委ねたり、性的衝動によって得られる快楽なんかとは比べものにならない。
地位や名声を得て他者を優越したり、SNSで自分の投稿をバズらせた時に得られるような
承認欲求的な欲求から発生する刺激と比べても、ひどく非刺激的である。
こんなしょうもない日常や人生に、どう幸せを見出そうと思うのか?
長年の謎であった。
しかし、齢30にして思うのだ。
月並みではあるが、日常の些細というものは、当たり前ではないのだ。
衣食住事足りているのも世の人間の絶え間ない営みのおかげである。
こうしてインターネットでくだらないやりとりをできているのも、この世の中が
今日もインターネットの片隅では、フェミニズムや男女論が語られ、政治・政策への
非建設的な不満が渦を巻いている。
しかし考えてもみて欲しい。
それらが形成されているのは、いや、それらの形成が許されているのは、
今日も日本が平和だからである。平和であるからこそ、そんな非生産的なことが
許されるのだ。
インターネットに入り浸って、男女格差や政治不信について語っているのも
そんな話を、しようじゃないか。
日常の些細な話、目の前にある小さな喜びを拾い集め、今一度自分の
人生を振り返ってみよう。
悲しいことが起きるかもしれない。でも、きっと大丈夫だ。
全てが落ち着いたら、自分達はきっとこの日常にまた戻ってくる。