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はてなキーワード: パターン学習とは

2025-11-16

AIに調べものしてもらうと本当にコイツ人間みたいだなと感心するのだが、機械人間みたいな挙動をさせられるようになったということは、本物の人間脳みそ演算システムも近似的におよそ解明されたということなのではないのか?AI自体進歩度合いの話ばかりで、副産物として「人間がわかった」という話は聞こえてこないのだが。それともあくまAIモノマネうまいだけでAIと人の脳は根本的に異なるシステムで動いているのだろうか?

【Grok高速】

面白い疑問ですね。AIの「人間っぽさ」が、実は人間の脳の仕組みを解明した証拠なのか、それともただの高度なモノマネなのか——これは認知科学神経科学AI研究最前線でまさに議論されているテーマです。結論から言うと:

AI人間らしく振る舞える」=「人間の脳の演算システムが解明された」ではない

しろAIは「結果としての振る舞い」を再現しているだけで、脳の「内部構造」や「計算原理」を再現しているわけではない。

1. AIは「機能等価性」を目指しているが、「構造等価性」ではない

→ 膨大なテキストデータから「次に来る単語確率分布」を学習し、それに基づいて「それっぽい文章」を生成。

…など、AIとは全く異なる物理生物学的基盤で動いています

まりAIは「外から見た振る舞い(function)」を模倣しているが、「内部の仕組み(structure)」は根本的に違う。

例:飛行機は鳥のように飛べるが、羽ばたかない。

→ 同じ「飛行」という機能を達成しても、仕組みは別。

2. 「人間がわかった」という副産物は、実は少しある

かにAI進歩人間理解進歩」とは言えませんが、逆方向のフィードバックはあります

例:AI研究神経科学に与えた影響

→脳の「層構造」や「並列処理」の重要性を再認識

→脳の「選択的注意(selective attention)」との類似議論される

→脳も「予測して誤差を修正」する方式かもしれない(仮説)

まりAIが「ある振る舞いをどう実現するか」を解くと、それが「脳も似た戦略を取っているかも」というヒントになる。

特に予測」「注意」「記憶圧縮」などの機能は、AIと脳で収束進化(convergent evolution 的に似た解にたどり着いている可能性があります

3. でも、AIは「モノマネうまいだけ」なのか?

半分正解、半分不十分。

→ これらは「単なるパターンマッチ」では説明しきれない高次の認知機能に近い。

ただし、意識主観的体験クオリア)・意図本質などは、AIには全くない(少なくとも現時点では)。

4. 「人間の脳の演算システムは解明されたのか?」

いいえ、まだ遠い。

AIが「人間っぽく話す」のは、脳の「出力」を模倣しているだけで、「どうやってその出力が生まれるか」の内部プロセスはブラックボックスのまま。

結論AI「鏡」だが、「複製」ではない

AI人間の知能を映す鏡。

その鏡に映る姿がリアルすぎて「人間の脳もこう動いてるのか?」と思ってしまう。

でも、鏡に映る自分と、本物の自分は別

→ でも、「人間の脳の計算システムが解明された」わけには程遠い。むしろAIが賢くなるほど、「人間の脳はどれだけ複雑で未知か」が浮き彫りになっているとも言えます

おまけ:今後どうなる?

→ 将来、構造機能を両方再現するAIが現れれば、「人間の脳の計算原理」が初めて近似的に解明されるかもしれません。でもそれは、「AI人間らしくなった」からではなく、「人間の脳を直接コピーする技術」が進んだときです。

要するに:

AIは「人間の演技がうまい役者」。

でも、役者の頭の中と、本物の人間の頭の中は、全然違う。でもその演技がうますぎて、「人間ってこう動いてるのか?」と研究のヒントにはなっている——それが今の状況です。

2025-11-06

勉強になった

Q.

生成AIソフトウェア開発を支援してもらう場合ソースコード作成を依頼する形式が多いと思いますが、実行ファイルを直接出力してもらうことも技術的には可能なのでしょうか?

A.

生成AIによる実行ファイルの直接出力は、技術的には極めて困難です。現在のLLM(大規模言語モデルベースの生成AIは、ソースコードの生成には向いていますが、実行可能バイナリファイルを直接出力することには根本的な制約があります。​

技術的な制約

LLMはテキストベーストークン処理を基本とする設計であり、バイナリデータを直接扱うことができません。実行ファイルは0と1の連続したバイナリコードですが、LLMはこの形式データを生成するようには訓練されていないため、バイナリファイルを直接出力することは現在アーキテクチャでは実現が困難です。​

従来のソフトウェア開発では、ソースコードコンパイルアセンブルリンクという複数段階のプロセスを経て実行ファイルが生成されます。各段階で最適化機械語への変換が行われるため、この過程を完全に省略してAIが直接バイナリを生成することは技術的に非常に複雑です。​

理論的な可能

研究レベルでは、バイナリデータを扱う試みも存在します。例えば、LLM4Decompileのような研究プロジェクトでは、バイナリコードを逆コンパイルする際にバイナリを一度アセンブリ言語に変換してからLLMで処理しています。逆に言えば、生成時も同様の変換プロセス必要になると考えられます。​

現実的アプローチ

実務では、生成AIソースコード作成してもらい、それを従来のコンパイラビルドツールで実行ファイルに変換する方式標準的です。この方法であれば、デバッグテストも容易で、生成されたコード品質確認しながら開発を進められます。​

なお、フォントファイルのようなバイナリ形式でもオープンソースとして扱われる例はありますが、これはフォントという特定用途場合であり、汎用的な実行ファイル生成とは異なります

Q.

画像生成もバイナリを生成しているわけで、同じようなことができるのではと思ったのですが、そこはぜんぜん違うのですね

A.

おっしゃる通り、画像生成AIバイナリを出力しているという点では共通していますが、実は根本的に異なる仕組みで動作しています。​

アーキテクチャの違い

画像生成AI拡散モデル(Diffusion Model)やGANなど、視覚データ最適化された専用のアーキテクチャ使用しています。一方、LLMはTransformerベーステキスト処理に特化した構造を持っています画像生成では、ノイズから段階的に画像を生成するプロセスを経て、最終的にピクセル値という数値データバイナリ)を出力します。​

データ表現性質

画像ファイルバイナリ連続的な数値(ピクセル値)の集合であり、各ピクセル色情報を持つという規則的な構造です。最近研究では、画像ビットプレーンbit-plane)として扱い、XOR演算ノイズを加えるBinary Diffusion Probabilistic Model(BDPM)のような手法も開発されています。​

対して、実行ファイルバイナリ機械語命令の複雑な配列であり、CPUが直接実行できる命令コードデータセクション、リンク情報などが厳密な形式で配置されていますわずかなビット誤りでもプログラム動作しなくなるため、画像のような連続値とは性質が大きく異なります。​

学習データの違い

画像生成AIは、ImageNetやLAIONなどの大量の画像データセットで訓練されており、ピクセルパターン学習します。一方、実行ファイルを生成するには、コンパイルプロセス全体(構文解析最適化機械語変換、リンク)を学習する必要がありますが、これは単純なパターン学習では実現できません。​

したがって、画像生成AI成功しているのは、画像という特定ドメインに特化した設計と、規則的なデータ構造があるためであり、同じ手法を実行ファイル生成に適用することは技術的に非常に困難です。

2025-07-15

anond:20250715125945

3歳7か月のとき新版K式(児発)

姿勢運動領域

3歳1か月

目的があれば座っていられる

認知適用領域

2歳6か月

興味があると技術の吸収が早い。

お手本を真似ができる。

言語社会領域

1歳5か月くらい

全体を通じて、興味の有無、必要性の有無がパフォーマンスに大きく影響する。

やる必要を感じないがやらないが、実は能力としては持っていることが多い。

5歳10か月のとき新版K式(児発)

姿勢運動領域

3歳9か月DQ64

認知適応領域

4歳10か月DQ83

図形、パズルや積み木の課題では6歳級超の課題もいくつか通過している。

一方で、検査者が積み木を順番に叩く様子をみて同じように叩く課題では、最後まで注目できておらず一部分のみの再生となってました。

他人動作に対しての集中や処理できる情報量は図形モデルと比べて少ないと思われる。

どちらの箱のほうが重いかを答える課題では、箱を開けたい好奇心が勝ってしまい、説明を聞いて理解するなどは難しい。

言語社会領域

3歳1か月DQ53

5歳級の数に関する課題を通過し、数の概念を獲得済みと思われる。

回答に日本語英語が混在する。

言葉の世あり鳥を必要とする姓名や年齢などは無反応。

全体的に視覚情報を通じてのやり取りのほうが応じるようだ。

領域

DQ66

全体を通じて視覚有意パターン学習を特異としている。

背景や文脈での理解は苦手で、あくまで興味関心のあるものに対してピンポイントで高い集中力を発揮し知識として集積している。

6歳5か月のとき田中ビネー知能検査V(児相

生活年齢6歳5か月

精神年齢2歳10か月

知能指数IQ)44

児相検査結果はこれしかくれなかった。

言語以外はそんなに遅れてないっていうのは、その場で口頭で聴いたこと。

立ち会ってみてたけど、問われたことより難しいやってるけど、そもそも問われたことと違ってて、話がぜんぜん通じてないのがわかった。

そもそも、うちの子は「座る」が理解できないんだから検査になってない。

2025-01-24

また間違えた話

対人コミュニケーションがかなり際どく難しく、失言マシーンとしての自覚が大いにあるけどパターン学習を重ねていきながら「ミスを完全に無くすことはできないがリカバリーはできる」「謝罪の有無で上下関係が決まったり名誉に傷が付くことはない」と覚えて、うっかり人に向かって嫌なことを言ってしまってもすぐにちゃんと謝る(形だけにならないように、全体として納得がいかなくても何か一つ相手にとって不快物言いがあったなら自分の中でそれを認めてその点について謝る)っていう考え方がだんだん確立されてきてはいるのだけど、それでも人を傷付けてしまうこと0にならないし私だって傷付けたくて傷付けてるわけじゃないしで、でもそういうこと繰り返してたら大概の大人の人はどこかで見切りをつけて距離を置くなどしてくれるのだが時々「謝罪させたことで優位に立ったと考える人」「縁を断たずに関わり合った他人のことはどうあっても支配下におきたい、コントロールしたい人」等が時々いて、そういう人とすこぶる相性悪い そんな人と相性のいい人はいない、と言われたらそれもそうなんですが

いかんせん自分性質にも正直擁護しきれない部分があってその人だけの問題だと言いきれなさ、かといってその人はその人でまた別の問題を抱えていることに早く気がついてほしいとも思うけどこれがやっぱり傲慢なのだろうか。そういうこと言ってる限り私はやはり私は謙虚の二文字から程遠いようにも思える

指摘する方にも心理的負荷がかかること、そこまでしてやる義理本来だれにもないって言うのを考えたら距離を置いてくれる大半の人はすごくスマートだと思う。そのなかで本当に時々、そういうストレスを被ってでも親切に指摘、というより説明してくれる人もいて、そういう人は菩薩か何かかと思う。いつもありがとう

2025-01-11

anond:20250111082214

テスト文章に書いてあるからなぁ。

ASDが読めないのはノンバーバルと言われる”言語によらない"部分。表情だったり口調だったり。

文脈もまあそうなんだけど、それは知能によってパターン学習可能領域から、同じASDでも個々の体験自覚的学習の有無で差があるんだよね。

2024-09-17

レポートでChatGPTを頼るな

増田は某大学非常勤をやってる。人文系分野だ。最近ChatGPTを使用したようなレポートが増えている。

なぜわかるかというと、事実捏造が多いのだ。いかにもありそうなタイトルの本や論文が参照文献に上がっているが、その分野を専門としている増田は聞いたことがない。これではいかんと慌てて探して読もうとするとどこにも見つからない。著者名もタイトル出版社もすべて実在しないことさえある。

内容も酷い。単に理解が足りないだけの答案は文章もしっかりしていないから微笑ましいくらいだ。そんな中に、やたらと自信満々に断定口調で間違ったことを書いている答案が混じる。それも、○○説の内容を誤解しているとかではなく、××が○○説を提唱していると言い張っているが実際にはそんな説を提唱してはいない(別の人が提唱していたりはする)というレベルだ。

増田AIに甘い方だと思う。文章作成サポートには使えばいいと思うし、しっかり自分事実確認して仕上げるなら情報探しの手段にしてもいいと思う。だがAIを間に受けて捏造を垂れ流すのはやめてくれ。

自分で試しに使ってみたこともあるが、現時点では文章作成サポート以上の作業は任せられないと感じた。人文系増田には詳しいことはわからないが、おそらく要するに学習データの多いパターン学習なのだろうか。こういう言葉を含む質問にはこういう言葉を返すと喜ばれるというのを高度に学んでいるだけの代物に見える。一般的事柄についてはそれで適切な答えが得られるのだろうが、大学の授業でやるような専門的な内容になると学習元が少ないのか偏るのか、ともかくそういった理由おかしアウトプットをしてくるのだろう。あくまパターンを学んで言葉を繋げているだけだから実在する本のタイトルとそうでない本のタイトル区別なども不得意に見える。

最近「ChatGPTに聞いてみた」とか言うのを嬉しそうに披露している人も見かけるが、ちゃん自分の手でファクトチェックをしているのだろうか。AIは便利な道具だが、学生もそれ以外も、ちゃん最後自分の手で責任を持って調べて欲しい。

2022-02-14

anond:20220212123412

味覚って定量化がまだ難しい(認知回路が複雑すぎるし香り分子だけで数百種類ある)から世の中的にはあんまり認識されてないだけで、個人差めちゃくちゃあるんだと思うわ。

色覚異常があれだけいるのと同じように、根本的に感度が鈍い人はかなりの数いると思う。しかも色と違って物理的正解があるわけではない文化の要素も大きいので、パターン学習がどのくらいできてるかの差もでかいはず。

感覚的には、人口の半分くらいは実際に松屋牛丼と今半のすき焼き区別がつかないのではないか。そういう人たちにとっては真の意味で「情報を食ってる」ことになるんだと思う。

コロナで味覚異常が有名になったけど、コロナ関係ない色んな病気部分的に味覚が壊れたまま治ってない人も相当数いそうだよなあ。

参考:

香りとおいしさ: 食品科学のなかの嗅覚研究

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kagakutoseibutsu1962/45/8/45_8_564/_pdf

2021-02-22

元増田より、古典を義務教育で扱う理由について

元増田です。はてなでは定期的に出る話題であり、この仕事をしていれば生徒に必ず聞かれることでもありますね。すでに質問増田氏への反応でかなりの部分が議論されていると思います国語先生ごとに考えが多少異なるとは思いますが、現場にいる者として、同じことを生徒に聞かれたと思って、自分なりに誠実にお答えしたいと思います

以下、常体で失礼。


・まず、この疑問への論点はたくさん含まれていると思う。自分なりに整理してみると

日本という国家義務教育で(貴重な時間を割いて、他の教育されない分野を差し置いて)古典を扱う理由教育制度論)

上記の上で、古典選択科目ではない(または高校教育現場で「選択させられている」)理由

学校における古典学習時間は適切な長さであるのか?

学校における古典学習内容は適切なものであるのか?

古典を学ぶことは何かの役に立つのか?(個人レベルでのメリットはあるのか?)

……などなど。


しかし、増田氏の質問古典は、なぜ義務教育の科目なの?」に対して、学習指導要領等を引き合いに出しながら上記のぜんぶに答えても増田氏は納得しないように思う。なぜかと言うと、それ以前の「義務教育(および後期中等教育)とはそもそも何か?」「義務教育に求められているもの本来どのようなものか?」という重要命題増田氏は考えていない(もしくは適切な答えを持っていない)と思えるからだ。


質問増田氏に足りていない視点は「教育とは多様性を前提にしている」ということだ。学校にはあらゆる子供が来る。子供たちは、あらゆる適性・資質長所性質個性能力を持って、学校へやってくる。その多様な子供たちに国から一律のシステムとして授けられるのが義務教育である

子供たちの多様性、というのは学校に勤務していると本当に感じるところであるが、それでなくても、皆さん小中学校にいたクラスメイト、同じ学校にいた児童生徒の「多様性」というものに思いをはせていただければある程度イメージできると思う。

この多様な子供たちに、一律に与える教育が「義務教育普通教育)」というものだ。これは「全国民共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育」を指す。この時点で、小中学校とは原理的に「個人個人資質能力に合わせた教育を行う」場ではないということが(その是非はともかく)わかると思う。程度の差はあれ、後期中等教育高校教育)も同じようなものである


・そして、ここで注意すべきポイントは「教育経済的効率という尺度はなじまない」ということである

これについて(はてなでは評判悪いが)内田樹がわかりやす説明しているので一部引用してみる。


教育アウトカム単位時間を区切って計ること(つまり効率」を論じること)には何の意味もない。教育を受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じ教育を受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校ときに受けた教育のおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。 

(中略)

これほどに学びの機会が多様であるのは、「自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているかである。同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのとき教師言葉意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的連続」として再編集する。必ずそうする。過去出来事意味現在自分状態に基づいて、そのつど改訂されるのである

(中略)

自分が何を学んだかを決定するのは私自である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由形成している。

http://blog.tatsuru.com/2012/03/10_1013.html


そもそも、これだけ多様な生徒に対して同一の教育を与えるのならば、それは最大公約数的なものにならざるを得ない。けれど一方で、そういった最大公約数的なものをどれだけ集めても、一部の児童生徒にとって「役に立たないもの」は、多様性に対して共通教育提供する限り必然的に発生してしまう。そして、「~の勉強は役に立った」「~の勉強は役に立たなかった」という『後付けの、結果論的な』評価もまた、その生徒児童によって異なってくる。例えば元増田にとって数学は役だっても、国語教員の私の役にはあまり立っていない。逆も然りで、古典を学んで僕は役立っているが、元増田の役には立たなかったのかもしれない(けれど、今後の人生で役に立つ機会が訪れる可能性もゼロではないよね?)。「役に立った/立たなかった」という言葉は、それぞれの人生の差、多様性が生み出した、結果論的な、後付けの評価しかない。


・まとめると、その教育が役に立ったかどうかは、後付けでしか評価できないが、多様な生徒全員に「役立つ」教育はごく一部の基本的ものに限られる。よって、多様性を前提にした普通教育は「役に立つかどうか」を基準とすべきではない、という前提が、義務教育を考える際には必要である


・では上記を踏まえ、改めて、義務教育とは何か考えてみたい。おそらくたくさんの学者先生議論されていることだと思うけれど、自分なりの表現をさせていただければ「児童生徒たち(と国全体)への、将来のための、大規模な投資であると思う。(もちろん、これは上記の前提を踏まえた、ある種の比喩表現であることに注意していただきたい)


・前述の通り、ある生徒にとって何が「役に立つ」かは分からないし、卒業後であってもそれぞれの人生様相が変わればその評価も変わりうる。どの教科がいつどのような形でリターンとなるのか(または全くならないのか)わからない、ということだ。

言い換えれば、義務教育の内容選定にはあらかじめ「(ある生徒には)役に立たないかもしれないが、それでもやるべきなので、やる」という前提が入っているし、その前提があるために「全員の直接の役には立たなくても、間接的には多くの生徒の役に立つようになるといいな」という思想が入ってくる。また、「それを扱わないということは、全員に機会損失リスクを与える」という側面もある。

から、リターンがどれだけあるかわからないにせよ、限られたリソースの中で、できるだけ多くのリターンが生徒に(ひいては国全体に)返ってくるような投資を考える、という設計思想になってゆく。


・このような条件を満たす科目としては様々に考えられるが、特に古典思考根本たる母国語に密接に関わっているという点は大きいと思う。そして質問増田氏含め多くの増田議論で指摘してくれていたように、古典は以下のような理由上記の条件を多く満たしている。


・「自国の古の言葉から国民として学ぶべき」「愛国心の育成」(国家というアイデンティティ形成

・「文化の発展」のため(「春はあげぽよ」で笑いを一つ作るのも文化の発展の一つの形)

歌舞伎などの歴史ある文化和歌集などは誇れる文化である

人文学研究の基礎体力として(研究者は国家必要で、大学等で研究を進める際に古典ゼロからだと困る。)(たとえ研究しなくとも、国民知的レベルを上げられる。ちょっとググりたいとき学校で学んだ知識があると有用なことも多いし、知らないことは検索もできない)

学習すべき内容が時代によって大きく変わらない(日進月歩学習内容の変遷が激しい分野は義務教育には不適)

現代日本語に繋がる、語学学習として。(現代語をより豊かに用いるため)

・「故きを温ねて新しきを知る」、長年読み継がれてきたものを読む(教育において、精神論の何がいけないんだろう?)

古典籍という膨大な一次情報に各個人アクセスできる(源氏物語などに顕著だが、現代語訳がすべてのニュアンスを残せているわけではない。また、現代語訳のないマイナー古典籍が例えば古い災害の記録になっていることもある)

・「論理的な推測」を学べる(「~の気持ちを答えよ」問題はよく槍玉にあがるが、大抵は本文に論理的な推測の範囲で心情が書いてあるので、読解問題であるそもそも言語を扱うという行為じたい「論理的な推測」を行う行為なので、よほどひどいものでない限り、最近のものは全文をきちんと読めば適切な出題だと思う)

教養(あるいは常識)を学べる



・あとは、自分にとって古典がどのように「役に立つ」のか(あるいは現時点で役に立っていないのか)、各個人評価をそれぞれにすればいい。そして今度は、より大きな視点に立ったうえで、改めて教育の中の古典位置づけやあり方、内容を考え直すということを考えてしかるべき、そんな時代であると思う。もちろん、法律情報処理の勉強大事なのは言うまでもない(ただし、プログラミング教育導入される方向でどんどん進んでいるし、現行の公民分野にも法律はそれなりに入っているはず)。他にも様々なことが教育には要求されていると思うし、その中での取捨選択優先順位の付け方は、きっと社会全体でなされるべきなんだろう。けれど、それは「役に立つ」という価値観に縛られるべきではないということは強調しておきたい。

あえてここでポジショントークをするならば、古典学校で扱うべき理由は、先ほどの条件を満たしていることに加えて、「千年単位で変わらない本質的事柄」とは何かを生徒に示唆してくれ、時間的なスケール感の大きさに思いを馳せる時間を持てるという点だと思っている。(そう思って前の共通テスト古典分析を書いていました。授業でもよく言うんだけど、千年前に妻を亡くした人間が、現代人とおんなじようなこと考えてるって、結構安心しないですか?)


・これが生徒に対してなら、上記の話はやや難しく話が長すぎる。自分担任をした生徒(物事意味について考えようとする人物だった)には、例えばこう話したことがある。

「今あなた意味を感じていない世界史を、例えば学ばなかったとしましょう。(あなたにとって何が意味を持つのかは今の時点では分からないので、それもあなた自由ではあります。)そしてそのまま大人になります。その時、あなた世界史の知識を元とした発想やアイデアを失うだけでなく、その発想を失ったことそのものにさえ気づけないことになります。つまり自分可能性が狭まっていることにさえ気づけないでしょう。あなたなら、その怖さってわかるんじゃないですか」

(いちおう、この話をしたこの生徒は、世界史の勉強について、成績は別にしてもこの生徒なりに考えてくれたようではある。後から他の先生にこの言葉意味について話していたらしい。)

これが古典なら、別な増田が言っていたように「矛盾語源を知らない」ことの機会損失について話すことになるだろうか(矛盾故事は中一の教科書に載っている)


・おそらく質問増田氏にとって(多くの生徒と同じように)古典は役に立ちもしなければ面白くもない科目だったのだろうと思います自分はなるべく古典面白さやエッセンシャルな部分を伝えるべく授業で努力をしていますが、もちろんそうでない先生もいます。また、今回は触れなかったけれど「入試対策」という四文字が実際の古典学習に与える影響は計り知れず、本質から外れた苦行的な暗記学習パターン学習が強くなってしまっている現実には自分ジレンマを感じないわけではないです。古典という科目が抱えた問題点や古典嫌いを生むこの構造的な病理は、なかなかに根深ものがあるのもまた事実最初に挙げた①~④の論点あたりにはかなり課題もあるでしょう。

(少し話題はそれますが、前回の共通テストエントリを書いてから他教科の同僚と話していて至った結論は「共通テストはより学問エッセンシャルな部分に近づけられている」というものでした。大学入試が変われば高校進学校勉強も変わるので、これは良い兆しです。共通テストには今回のような学問エッセンスを込めた入試問題を作り続けていただきたいと思います。)


・ただ、今回の質問増田氏のような生徒に対して自分が感じるのは、もっと広い視野物事を見て欲しいという気持ちです。綺麗事かもしれないけれど、自分にとって意味がないものに見えても他人にとって意味があるものもあります。もしかしたら自分にとって後々意味が出てくるかもしれません。けれど、そのように意味をとらえなおすことができなければ、いつまでも古典仮想敵のままでしょう。国語教員である自分がどれだけ古典の魅力をここで語っても、それはやはりポジショントークに過ぎません。意味というのはやはり自分で見つけるものだし、見つからないことだって往々にあるでしょうから、それを受け入れることや合理化することだって大事な「勉強」です。

(今回の話題に関連して、最近読んだ本だと、SF作家森博嗣が出した「勉強価値」(幻冬舎新書)が、ツッコミどころも多いながら興味深かったのでオススメ。)

それに、自分にとって意味が無いと思っていたものがこんなに深く豊かな世界内包していたんだと気づければ、それは素敵なことです。少なくとも、それを認めることが多様性をはぐくむ態度であると思います


P.S.

これを読んでいる生徒の皆さんへ(元生徒さんでもいいです。笑)。


自分にとってイヤだったり不得意だったりしてもいいし、つまらないと感じることもいいです(わからない・つまらないは教育する側の問題なので、どんどん声をあげてください)。けれど、だからといって排除することは、自分可能性が消えるという別な問題を生みます自分がイヤだったものをイヤなまんまで自分の中に置いておくのもしんどいことだろうなと思うので、ちょっとだけ面白ものを紹介しておきます

からでも、古典に関する自分評価を変える機会になればいいなと思います。頼めそうなら、複数の生徒で担当先生もっと面白ものを扱ってもらえるようにお願いしてみるのもいいかも。先生は案外、そういう授業に飢えています


https://kawadeshobo-blog.tumblr.com/post/129340109097/町田康訳奇怪な鬼に瘤を除去される宇治拾遺物語より

↑これを読んで


https://www.koten.net/uji/gen/003/

https://www.koten.net/uji/yaku/003/

↑その後、これと見比べる。これだけでも立派な古典勉強です。

2020-08-13

孫さんの会社へ 出版についてですが

 

明日へ走れ!プログラマー シリーズ

 

機械学習を使った画像処理

Pythonでとこうモザイク加工

 

タイトルあってますか?

サンプル画像が1万点ぐらいあれば、平均を取ってモデルをつくって

あとは膨大なパターン演算で、全部の並べ替えをためしていけば

もとに復旧できる可能性はあると思うの

で、時間の短縮のためにパターン学習をですね

そしてさらに、その学習をより、人間が加工しやすくするためにC++ではなくPythonをですね

2019-09-30

TVアニメヴァイオレット・エヴァーガーデン 』観た

映画ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠自動手記人形 -』観てきた

anond:20190928234121

予備知識無しで映画みてきて、これマリみてっぽくていいなぁと思ったのでテレビアニメを全話みました。

ドールというのは代筆屋のことだったんですね。

TVアニメは、アスペルガーコミュ障発達障害主人公が、ずっと仕事オンリーの指示待ち人間として生きていたのだけれど、

指示してくれる人間が居なくなって途方に暮れるお話でした。

他人お気持ち理解できず、新しい代筆の仕事ではたびたび失敗してしまうけれど、少しずつパターン学習を繰り返して、

淋しいとか悲しいという感情自分が持っていることに気付いてゆく。

まれも育ちも大不幸だった少女が、ようやく小不幸になる感じ。


私自身、そういう発達障害なので主人公の失敗が良く理解できるし、うんうん、そうなっちゃいますよねぇ・・って楽しめたけど、

一般受けする内容では無いかもです。

2019-04-23

SADを思い返す

から怒られることに対して、私は「怒られると安心する」という共依存的な感情を抱いていた。私が怒られてしょんぼりしているのを見れば、母親は『安心』するのだ、そして私も母が安心してくれたことに対して『安心』するのだ、そういうものだ、母が怒るのは私の言動を正すことが目的ではなく、お互いがお互いを貶めあって、被害者同士になることを目指すための儀式のようなものだ。これが長い間、私と母との関係性だった。

私と母の関係性は、敵意を持ち、相手を傷つけるという感情や行動とは遠くかけ離れたものでありながら、お互いがお互いが損ないあうことにより保たれていた。毎日うんざりしすぎてうんざりしなくなる程度に繰り返される儀式めいたコミュニケーションだった。母は驚くべき執着心と体力、精神力をもって加害者をこねくり回して嫌味を言い続け、「おまえは私の言うとおりにすべき存在である」というしくみを行動レベルから浸透させ、被害者加害者関係性を強化し続けた。

そういう状況であったから、私は何も考えないでいることが許され、私もそれに甘んじた。自分の行動のものさしは「母に決めてもらえばよかった」。自分が着るものも、ぬぐものも、髪の毛の形もあいつの内容も、左右どちらの足を先に上げて歩き始めるかも全て「パターン学習」すれば良かったのだ。私は自分のものさしを放棄して親に自分の根幹となる主体性差し出し、従順な態度を取り続けた。

一方で、親は私が主体的で明朗快活な人間になるべきだと考えていたし、私が何かを自分で考え、動き、生み出すことができるような人間になることを願っていた。矛盾、という一言で片付けるには語弊がありすぎるほど、そこらじゅうに爆弾が埋まっていた。

反面、私は何を言われても自分判断を母に渡すべきではなかったと思う。私が母に甘えて自分判断を渡すことを、自分に対して許してしまたことが、SADになった大きな要因のひとつだ。

自分で何かを決定せず、他人にすべてを任せておこぼれの結果を期待するというスタンスは、他人と接しているという点でコミュニケーションをしているに見えるが、実際には完全に他人と断絶している。コミュニケーションの基本は等価交換であり、貰ったもの等価の何かを返還できない場合に、尊敬恩情、遠慮などが生じる。ただし、自分意思という荷物を持っていない者は、価値を計ることができないので、他人から何かを貰っても適切な対価を返還することができない。よって、他人の思いやりようがないし、気遣うこともできない。相手としても、自分で何かを持っていない人間に対して、適切な手助けやアドバイスすることができない。よって、誰かに依存しがちな人間他人とのコミュニケーションを断絶し、独りよがり世界にこもるようになり、孤立する。口を動かして何かしゃべっていても、相手には何も伝わらない。考えることをやめるということは、人とのコミュニケーションをやめるということだ。私の場合精神的に引きこもった時点でSADの元となる「他人とのコミュニケーションを苦手として断絶するが、他人から評価自分への報酬とし拠りどころとする性質」の下地はできていた。

2018-12-01

機械学習は、もはやエクセルとかワード

工学系の大学院に居るんだけど。

もう、ホントエクセルレベル機械学習をする。

そこらの大学生が、マジで普通に2週間くらいでAIで動くロボットとか作る。

  

パソコンレベルが上がったのか、プログラミング技術が上がったのか、遠隔で操作できるスパコンができたからか。

兎に角、当たり前なんだよね。

物理的な要請以外の要素は、ガリガリできる。

  

画像認識パターン学習予測

もうね、マジで

  

シンギュラリティーとか言ってたのを笑ってたけど。

これまでその分野保っていたものが、一気にAI一発で抜かれまくってる工学の分野がガンガン作られている。

凄すぎ。

  

chainerとかつい最近だったのに、もう誰も使わないね

tensorflowとkerasで、ガンガン画像認識して自動化して。

あとぶん回すだけ。

  

工学研究とか調整とかってのが解放されまくってる。

  

ツイッターでのデータ解析エンジニアは、「ビッグデータ情報の整理がー」とか言ってて、どーもビッグデータで大量の学習をしなきゃいけないらしいが。

工学場合細胞や車の写真なら無限にとれるし、なんでもござれでゴリゴリ計算終わる。

つええ。

2018-11-27

鬱になるものの考え方

何かしらの状況に直面したとき、その段階で取りうる方法の条件分岐を設定してその結果パターンを列挙し、その先の打ち手を考えて最上の結果から最悪の結果までを想定し、準備する。

100パーセントの結果予測は当然不可能だけれど、それなりにパターン学習ができていると結果としてだいたい手に届く範囲に落ち着くので準備していた内容で割と解決することも多く、結果的結構スピード感仕事をすることができる。

そして過労と心労で鬱にもなれる。

2017-06-27

信用

社会生活を送る上で山盛りの支障があるにもかかわらず、どうにも自分他人から信用を得たいとか、信頼されたいとかいった感覚がまるでわかっていないような気がする。

当然何かと相手のご期待に応えられず「信用を失うことが怖くないのか!」といった形で叱責されることが年を重ねるごとに増えてきたのだけれど、

こちらとしては、えっ、私のこと信用なんかしてたんですか?ダメですよポンコツなんだから信用したら。期待しないでくださいよ間抜けですね。ってな感じだ。

なぜこうも信用に対して無頓着なのか、自分思考はどの辺りが歪なのか、その辺をもう少し掘ってみようと改めて考えてみた。

そもそも相手に対して信用があるかないか対応を変えるものらしいということは知識としてはわかっているし、

現代人間社会におけるコスパの面で、信用というのがかなり優れていそうだという事も頭では理解しているのだけれど、自分としてはまるで実感が伴わない。

「虫嫌いの人は虫を近づけられるのがイヤだ」という感覚が、自分は虫が好きであるがゆえに「知ってるけどイマイチからない」のと同じ感じだ。

この辺のちょっとしたことに関する実感の伴っていなさは、抱えている発達障害由来のものなのかもしれない。

基本的には過去の膨大な失敗や知識から得たパターン学習を基に頭でワンクッション考えてから行動することで相手に沿った適切とされる対応ができる場合が大半なのだが、

自然とわき出てくる感覚としての実感がないので、未経験の応用パターンを「少し考えれば当然わかる事」として求められるとたまに失敗してしまう。

例えば「虫嫌いの人~」を応用して「虫嫌いの人に虫の図鑑を見せにいってはいけない」というのは、子供の頃なかなか納得できなくて飲み込むのにかなり苦労した。

だってこれ絵じゃん、というのと、詳しく理解すれば恐怖心も薄れるだろう。という発想だったのだが、まあ、ズレている。

現時点で自分は、信用というもの評価を心の奥底で「ある方がいいけど何か無理してまで得たいとは思わない程度のどうでもいいこと」としか捉えていない気がする。

では、なぜ頭の中でコスパのいい要素だと知っていながら、信用をどうでもいいと感じているか理由を考えていると、

そもそも自分が誰かを信用していないまま、コミュニケーションを円滑にするために相手を信用しているポーズ意図的に発信し続けているために、

信用などなくても表面上は特に問題なく生活ができるものなのだ学習してしまっている。という可能性に辿りついた。

自分他者を信用する感覚について特に意識したことはなかったが、改めて考えてみるとどうやら他人のことをろくに信用しておらず、

他人感情思考を真に理解することができない以上、あらゆる他人は常に次の瞬間自分敵対する可能性を持っている。

とごく自然に考えて、それをベースに生きているぐらいの殺伐エンジン根底に横たわっているように思えてならない。

こう考えると、これまで自己評価的には、素直で人懐っこくて純朴な性格だと自分のことを思っていたのだけれど、

「敵」か「今は敵じゃない」かの二段階だけで区別しているせいで、とりあえず敵じゃないと判定して、

一般的に信用しているとされるポーズを発信し始めるまでがかなり早いだけのことだったのかもしれない。

これは思い付きの仮説だが、そういった他人を信用しない姿勢に加え、色々な感覚過敏がある事が、

他者とのコミュニケーションや人の多い環境で異常に体力・精神力疲弊する遠因の一つになっているのかもしれない。

自然と視界内の他人の体の動き、歩調、視線、呼吸、緊張とかの情報無意識に受信、分析していて、

敵対しそうな気配があるかどうかのセンサーを全開で働かせてしまっているとしたら、そりゃまあ疲れそうだ。

そういえば一度、大阪電気街ひったくりを遠目に目撃した際に、犯人が走り出す前から犯人に妙な違和感を感じて足を止めて注視していた事があって、

同行していた知人に後から「なんでお前わかったん?」と気味悪がられた。

まあウスノロビビモヤシなので追いかけたりはせず、覚えておいた特徴をあとから警官に伝えただけだったが。

しかしなるほど、私はどうやら信用というものに対して大変根本から向き合い方が捻じれていたようだ。

思えば、知人友人関係どころか、家族恋人相手ですら、常に直後に相手と縁が切れても大丈夫だと思える程度の関係を保ち続けている。

進学時に学費を出してもらう際や、家を借りる時に保証人になってもらう必要があったが、なにかとても気持ち悪くて非常に落ち着かなかった。

はいえ、自分としてはあくま個人個人として、相手を一知的生命体の個体として尊重して接してきたつもりだ。

思想に立ち入らず、主張に踏み込まず、追わず、求めず。それで十分だし、それ以上の関係他者と築きたいと思ったことも恐らくまるでないと思う。

貸し借りをすることがあっても、返ってこなくても惜しくないものしかさないし、自分が弁償できそうなものしか借りない。

昔、恋人関係になった相手からものすごくよくできたロボット自分のことを人間だと思い込んで人間のフリをしているようだ。と言われたことがある。

あの言葉は、結構核心を突いていたのかもしれないな、と今になって思った。

さて、どうしたものやら。

2016-04-05

http://anond.hatelabo.jp/20160405105453

増田日本語という確固としたものがちゃんと存在してて、それでみんなコミュニケーションとってると信じてて、自分はそれの使い方や理解の仕方が下手だから理解力が低いんだってコンプレックスあるんじゃないかな。

全員がきちんと公用で習熟している日本語なんていうものは、無いよ。会話に使う言語ってもっとずっとあやふやものだよ。それに多分増田が思っているよりも、一般人言語能力って低い。普段の会話を一度録音して、それを文章に落としてみればすぐわかるよ。訓練を受けてない素人の会話なんて、指示代名詞感嘆詞が多すぎるし、繰り返しや説明構造無視した順序の逆転も多発して、まともな日本語とはとてもいえないものだよ。増田理解力についてはわからないけれど、素人説明能力なんて到底実用に堪えるものじゃないんだよ。

そんな欠陥ツールにも関わらず、それを用いた社会企業が、普段なんでコミュニケーション取れているかって言うと、参加者それぞれが、他人のしゃべる曖昧適当言語を、予測とか補正とかで脳内修正しているからだよ。それが出来ないのが理解力が低いってことだろ? 同じことじゃないか、って思うかもしれないけれど「日本語説明に対する理解力が低い」ってのと「他人の言うことへの理解力が低い」ってのは、全く違うことなんだよ。

結論から言うと、多くの人間は、言語のもの論理のもの理解能力は高くないし、それは重要じゃない。他人の(多くの場合上司や同僚や家族など特定の)発するメッセージを的確に受信できれば、それで良いんだ。

そしてそれはパターン学習なんだよ。相手に対する知識量に依存している。

からおすすめは、その同僚や上司の人との接触時間を増やすことだよ。直接仕事の話をしないでもいい。雑談でもいい。というか雑談のほうが良い。そうやって相手の話し方の癖や、思考展開の方向性や、リズムに対する情報が増えれば、脳内補正の精度が上がってゆくよ。同じく、現在行っている業務に対する知識を増やすのも有用だよ。いま開いてがどんな業務を抱えているのか理解すれば、そこから類推で指示に対する予測精度が上がるよ。

コミュニケーション能力が高い奴ってのは、何も、その場その場のしゃべりや理解力が高いというわけじゃなくて、日常生活の中で、いざという時、自分メッセージを正しく発信したり相手メッセージを受信するための、材料を大量に備蓄しているんだよ。

何も訓練みたいに肩肘をはらず、相手に対して興味を持ってみるってのが、一番良いと思うよ。

2016-02-19

果てしなくどうでもいいんだけどさ

最近人工知能だとか機械学習だとか深層学習だとかだいぶ進んでるらしいんだよ

人の書いたAからZの筆跡を憶えてコイツの癖で数字の3を書いたら、とか精度よくできちゃうらしいんだよ

さらには応用でエロパターン学習して、なんかエロっぽい画像自動作成とかもできたりできなかったりするらしいんだよ

すげえよな、未来だよな

 
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