はてなキーワード: 上洛とは
惨憺たる結果の小泉陣営、更に投開票前日にもかかわらず祝勝ムードだった「政界の今川義元やんけ」「ドラマとかでやるフラグやないか...」
海道一の弓取り今川義元を知らんニワカかよ。こういうのは登山家馬謖とか生兵法の趙括やろ。
2025/10/07
「海道一の弓取り」。
その最後のやつでも10年以上前だけど、そこからアップデートされてない感じね。
名門なので公家文化も取り入れてるし輿にも乗る。(文弱のデブ、みたいなイメージはここから)
(この規模の大大名なのに戦場で首取られるのは割と珍しい。あとは龍造寺隆信とか?)
でもでも、桶狭間の最期のため・信長家康と対比でsageられたために必要以上に暗愚扱いにされてきたんじゃないか?
当時は海道一の弓取り(東海道一の戦上手)と呼ばれて恐れられたんだ!
義元は有能!
今川家の合戦の大将ってだいたい義元の師僧の太原崇孚(雪斎)がやってた。
つまり「海道一の弓取り」今川義元はそもそも出馬をしていない。
なんか義元ってなんでも雪斎に相談して二人で物事進めてたのね。
雪斎は60歳ぐらいで亡くなるんだけど当時としては長生きの寿命。
義元としても今川家としても当然「雪斎死後」の準備をしているべきだった。
でも雪斎亡き後、大きな合戦の大将を任せられるスタッフは育ってなかった。
それは義元との関係性も含むよね。
充実した国力を背景に大軍団を自ら率いて尾張に侵攻したんだけど(上洛しようとしてた説もある)
大将の自分自身が泥にまみれるような危険な接戦や敗戦を経験するけど
配下部将たちとの呼吸や連絡も上手く合わなかった。
沢山スタッフがいても誰が使えるか、誰が気が利くかは分からない。
妥当な指示を出しても頓馬なことして陣営を窮地に陥らせる者もいる。
いきなり大軍勢を率いていきなり決死の突撃を受けたせいで今川軍はきちんと機能しなかった。
義元は30後半の頃に雪斎に死なれて
雪斎死後国政整わずと評されてたぐらいで
惰性で拡大しながらもグズグズと崩壊の兆しが見えていたのかもしれない。
全体的に進次郎は今川義元に似ている。
似てないのは死んでないこと。
あとこのまま既定路線に乗ってるだけでいつかはトップに立てそうなこと。
あとは党内または野党に、織田信長と言えるほどのライバルが現れるのか。
現れてくれなければ国の未来は暗そう。
時は令和、空前のグルメブームがヒートアップ!高級食材を使った斬新なフュージョン料理とか、映えまくりのスイーツがSNSでバズってた20XX年。そんな中、表参道のブランドショップ街に、マジで浮世離れした貴公子が現れたんだって!雅な十二単…ではないんだけど、なんかこう、優雅でゆったりした雰囲気の着物っぽい羽織をまとったお方。「え?セレブ?お忍び?」ってみんなが遠巻きにしながらも、その洗練された(?)オーラに、ちょっと目を奪われてたらしい。
「わたくしは…今川義元と申す。」
え?マジで?あの桶狭間の戦いで織田信長に討たれたとされる、海道一の弓取り(自称)義元様!?しかも公家趣味で京風かぶれな残念大名って歴史好きのギャルたちがスマホでそっと検索し始めた瞬間、その優雅(笑)なお方、もとい義元様は、あたりをキョロキョロしながら呟いた。「ここは…京ではない、か…?ずいぶんと華やかな場所になったものよのう。」って、マジで世間知らず感ハンパない!「マジありえん!」ってみんな心の中でツッコミつつも、その品のある佇まいに、なぜか惹きつけられてたらしい。
そんな義元様に、恐る恐る話しかけたのは、表参道のカフェでバイトしてる、超絶トレンドに敏感なギャル、リナ。「あの…もしかして、迷子ですか?」「…迷子、と申しますか…見慣れぬものばかりで、少々困惑しております。」って、マジで上品な言葉遣い!リナ、その優雅な雰囲気にちょっとキュンとしつつ、「アタシ、リナ!表参道のことなら、何でも聞いて!アンタ、マジでオシャレだから、アタシが案内してあげてもいいよ!」って、キラキラ笑顔で声をかけたんだって。
次の日、リナに連れられて、義元様は初めて現代の東京を体験!高級ブティックとか、最先端のカフェとか、マジで全てが新鮮!でもね、義元様が一番興味を示したのは、デパートの催事場で見つけた、ちょっと豪華な試食コーナー。「…うなぎ…とは、どのようなものでございますか?」って、マジ真剣な眼差し。リナ、まさかの渋すぎるチョイスに驚きつつ、「あ~、これ、うなぎですよ!ちょっと高級だけど、すっごい美味しいんです!」って教えてあげたんだって。
義元様、一口食べてみたら…「な、なんなのだ、このとろけるような美味は!?香ばしさと、甘辛いタレの絶妙な調和…まるで、天下を治めるにふさわしい、至高の味である!」って、マジで天下統一を意識した表現で感動してたらしいよ。
そこから、義元様のうなぎ愛がマジで覚醒!毎日色んなうなぎ屋さんを巡って、うなぎ料理を食べ比べまくってたんだって。「うなぎの焼き加減、タレの秘伝、米との相性…奥が深すぎまする!」って、もはやうなぎ評論家レベル!
でね、ある日、義元様、マジで天下取りの野望を語り出したの。「わたくし、このうなぎをもって、天下を…とは言わぬが、この甘味の世界において、新たな高みを目指し、世に驚きと感動を与えてみせましょうぞ!」って!
え?うなぎで天下統一?マジで斬新すぎる!でも、義元様の公家趣味とプライドがあれば、きっと何か成し遂げるに違いない!ってリナも思ったらしいんだけど、義元様の目はマジだったんだって。京へ上洛する夢が、令和のうなぎに新たな目標を見出したのかもね!
そっから、義元様のうなぎパフェ天下統一計画がスタート!まずは、SNSで「#今川義元のうなぎ道」ってハッシュタグ作って、毎日自作のうなぎパフェの画像をアップし始めたんだって。その斬新すぎる見た目と、義元様の優雅なコメントが、一部の好奇心旺盛なギャルたちの間でじわじわバズり始めた!
「戦国時代の将軍が作る高級スイーツとか、絶対美味しいやつ!」
SNSは義元様のうなぎ愛でじわじわ盛り上がり!しかも、義元様、ただ作るだけじゃなくて、全国各地のこだわりのうなぎを探し求めたり、伝統的な調理法を学んだり、マジで研究熱心!「天下のうなぎパフェ」を目指して、日々試行錯誤を繰り返してたんだって!
で、ついに!義元様は、表参道のど真ん中に、自分のプロデュースするうなぎパフェ専門店「KAMEGAOKA PARFAIT - 駿府 - 」をオープンさせちゃったの!お店の内装も、京風の雅な雰囲気と、モダンなデザインを融合させた、マジで洗練された空間。店員さんも、十二単風のミニスカートとか着てて、マジで可愛い!
オープン初日から、グルメ好きギャルや、映え狙いのインフルエンサーが、行列を作って押し寄せた!「SNSで話題のうなぎパフェ、マジで挑戦してみたい!」「義元様って、なんかカリスマ!」って、新しいファンが続々!でね、一口食べたら、みんなその奥深い味わいにハマっちゃうらしい。「うわっ、最初はビビったけど、甘辛いタレと濃厚なバニラがマジで合う!」「うなぎの概念が変わった!」「義元様、マジ天才!」って、賛否両論ありつつも、リピーターが続出!口コミが広がりまくって、KAMEGAOKA PARFAIT - 駿府 - はあっという間に人気店になっちゃったの!
しかもね、義元様、ただお店やってるだけじゃないんだよ!全国のうなぎ養殖業者さんと協力して、持続可能なうなぎの養殖に取り組んだり、うなぎパフェを通じた地域活性化イベントを企画したり、マジでうなぎスイーツ界を盛り上げようと奮闘してるんだって!
テレビや雑誌の取材も殺到!「令和の今川義元」「うなぎパフェの革命児」とか呼ばれて、マジで時の人!義元様の優雅なセンスと、うなぎパフェの斬新な組み合わせが、新たなブームを巻き起こしたんだね!
でさ、最終的にどうなったかって?もちろん!義元様のうなぎパフェは、全国のスイーツ好きに愛される新定番メニューになったんだって!お取り寄せスイーツとしても人気が出て、全国のコンビニやスーパーでも「義元印のうなぎパフェ」が発売されるほどに!まさに、うなぎパフェでスイーツ界に新たな旋風を巻き起こし、天下を獲った!マジですごすぎ!
あの時、表参道に静かに佇んでいた公家かぶれの将軍が、令和の時代にうなぎパフェで新たな道を切り開くなんて、マジで誰も想像してなかったよね!まさに、公家趣味がうなぎの蒲焼きに染まり、新たな伝説を創り出した瞬間!
リナも、「まさか義元様が本当にうなぎパフェでこんなに有名になるなんて!アタシ、マジで感動!」って、ちょっと泣きそうになってたらしいよ。
義元様は今も、さらなるうなぎの可能性を追求して、日本全国を旅しているらしい。「わがうなぎ道に、終わりはない!」って、マジで情熱的!
なんとなくあっちのほうという点では同じなので、このふたつの違いがはっきりわかっていなくても、生きていく上で大した不便益はない。
「上越地方」における「上越」は、読んで字のごとくエリアの名前だ。
ななめに細長い越後国(えちごのくに、だいたい今の新潟県)を輪切りに三等分した時の、南西(富山県寄り)のエリアを上越という。
北東(山形県寄り)のエリアが下越(かえつ)で、挟まれた真ん中が中越(ちゅうえつ)だ。
地図では北が上なのになぜ左下を「上」としているかというと、そっちのほうが京都に近いからだ。上洛という言葉があるように、都のほうが上にあるというイメージ。
いっぽう、「上越新幹線」における「上越」は、2地域の略称だ。
上野国(こうずけのくに、だいたい今の群馬県)と越後国の2地域を短くまとめて呼んだもの。
鉄道や道路には、始点と終点の地名から一文字ずつもらって路線名にしていることがよくあるでしょう。
東京と八王子を結ぶ京王線とか。
東京と名古屋を結ぶ東名高速とか。そういうのと同じ。
……同じ?
という疑問はもっともなのだけれど、上越新幹線の名は並走する在来線の上越線からいただいている。こちらはちゃんと群馬~新潟間を走っている。
もうひとつ余談。
関越自動車道で関越トンネルを抜けると、スキー場だらけのエリアになる。
その中に、上越国際スキー場というわりと老舗のスキー場がある(ジョーコクと呼ばれたりする)。
ところがこのスキー場の名前も上越線からもらったもので、エリア名の上越とは関係がない。立地は中越地域だ。
ややこしいよな。
ワイの過去の就労先で就労先が代替わりしたやつで、繁華街の交差点角地という超一等地なんだが戦後くらいから借りてるだかで二十数年まえで月額に!じゅうまん円だった、超ボロ長屋造りの真ん中で狭小木造三階建だが、すでにして右肩下がり業績だったのでなんとか穏便にと就労先経営者が請願してたの思い出した
隣が初老の三兄妹が住み込みで経営している甘栗屋!で、とおもってたらあるとき初老だが割りと整った容貌の老婦人が三兄妹と談笑してるの見てたらワイの就労先経営者がアレあの四人は兄妹やねんとあの老婦人は実の妹という情報をブッ込んできて驚愕した
反対側の隣はコロコロ業務形態の変わる店舗で一時めちゃくちゃ適当な名称のイカ焼き屋だったことしかもうおぼえていない
話もどしてその時の就労先の代替わり前の創業者が戦前の大阪で写真機業を営んでいた(国産初の懐中時計型カメラの発売元)とこの兄弟()だかで店内で昔話にキミが一旗揚げる気があるならワシは○紅に知り合い居るから相談にノるでとよく(誰にでも)話していたのも懐かしい想い出
ちな後継ぎの婿の人は同窓会に写真機屋だからと写真係押し付けられて店頭在庫のなかなか売れない高額新品の古都陶磁器会社謹製ブランド(素材は八州光学)一眼レフを持ち出してた
そうそう、それの仕入先のエラい人が転勤上洛して来てしばらくして、建物の庭園?に水やりしてて元栓閉め忘れで帰るという大失敗やらかしたという話もきいた
66歳にして16人目の子どもである市姫(いちひめ)をもうけたけど質問ある?
顔はノッブほど精悍じゃないけど家臣や女中たちからは好かれてたよ
瀬名姫はツンツンしてたけどワイに会うときは晴れ着を用意するとかかわいげがあったな
今でいうツンデレじゃな
近頃ときたら気軽に女にされたり、転生させられたりするから困る
まさに幻のようなもんよな
ノッブ殿も転生されたのか!ご壮健そうで何よりでござる。
ジョブスどのは親友でござるからiPhone50くらいまでは知っておる。
そそのかしてはおらぬが、雪斎殿が導いてくれたのじゃよ。
100歳まで生きたというのはそういうことじゃな。
駿府城公園に入ってきた謎のぶよぶよした生き物の記録があるらしいけどそれがなんだったのか知りたいです。
肉人か?
あれは今でいう宇宙人じゃ。
たまたま駿府城に教養のある細川どのが来訪してての、「あれは中国の封じゃ」とゆったもんだから気味が悪いから追い払わせたぞ。
幽才どのがおらぬかったら静岡おでんにして食ってたかもしれんのう。
実は影武者?
それは創作じゃな。わしは影武者はもちろんおったが、あまり必要ではなかった。
わしが鯛の天ぷらで病に臥せった3か月のテキパキとした引継ぎを見ても、影武者にできるレベルの実務ではないことはわかるじゃろ?
武田信玄とやりあったときにうんこもらしたはすだけど、そのときの馬の様子を聞きたい
うんち漏らし達の聖地である増田に投稿したわけど、大先輩としてどんな気持ち?
実際の所、うんこ漏らしたの?漏らしてないの?
せ、戦国武将ならだれでも味噌玉を腰に巻いてたんだからねっ!(震え声)
馬はぶひひーんってゆってたゾ
てかお前らうんち好きすぎ
まあ三河武士が「知行などいりませんから徳川家のために!」という武士の鑑じゃったからのう。
豊臣ヒッデが気前よく大名に知行を与えまくって(例:加賀百万石)自爆したからのう。
大名はせいぜい50万石以下におさえて、天領(直轄地)は500万石になった。
三河は京都に近いが、駿府のほうが江戸と京都どっちにも移動しやすかったからの。
駿府でも三河の麦飯と八丁味噌をわざわざ取り寄せて食しておったぞ。
白米好きな侍女たちは半ばあきれておったがの。
66歳にして16人目の子どもである市姫(いちひめ)をもうけたときは、
「なんじゃ、ワシもまだまだ現役じゃん!」って自信がついたぞ!
静岡おでんを食いたくなったら久能山のほうに行くときもあるが、基本はそのときの気分次第じゃな。
うむ。民政家でゆうと二宮尊徳、藩政でゆうと上杉鷹山。幕政だと吉宗じゃな。
やつらは立派に儂の考えを理解して実行していたぞ。こっちに来たときは大いにほめてつかわした。
手紙とかでおじさん構文とか使うの?
わしはそれほど筆まめではなかったのじゃ。
ノッブ殿や信玄どのは教養があったから文章がうまかったようじゃの。
どちらかというと部下に任せることが多かった。
とくにラブレター系は苦手じゃった。
じゃから側室を口説くときは経験豊富な人妻をメインに攻めたぞ。
とりあえず鯛の天ぷらでもどうぞ
天ぷらの食べ過ぎに気をつけてね
結局天ぷらは何食うたん?
そなたらの気遣い痛み入る。
大坂の陣のあとの鷹狩で、シェフに「うまい天ぷらの具はあるか」って聞いたら鯛がうまいってことで、しばらくハマってしまったのじゃ。
油がよくなかったのかもしれんな。
良い質問じゃな。関ケ原が終わってもまだまだ不安定だったのじゃ。
あのときにキッヨとクロを島津征伐に送ってたら、寝返ったかもしれんからの。
井伊直政がうまくとりなしてくれて事なきを得たぞ。
寵愛していたナッオが関ケ原の鉄砲傷で亡くなったのは悲しかったのう。
衆道は以降きっぱりやめたぞ。
八味地黄丸じゃな。けっこう今の時代でも売ってるようじゃぞ。
66歳でもバリバリ現役じゃ!
大政奉還どう思う?
時代の流れじゃの。詳しくは晴天をつくの大河ドラマで北大路さんの演技で察してくれ。
儂は基本的に軍略も政治も信玄公と同じことをやったが、ワシは20年長生きしたから、
武田家の御親類衆VS勝頼どの側近、の対立構図にならなかった。
わしが早世してたら同じことになってたかもしれんのう。信康もおらんかったしな。
人魚ってやっぱり「人」と言われるだけあるんだよね。
物語に出てくる人魚ってみんな可愛かったり美人だったりするじゃん。
鏑木清方の「妖魚」ってどこだったかな、都会の美術館の特別展で見たんだけど、美人のえっちなお姉さんじゃん。
でも違うんだよね。俺は釣りをしによく三方五湖の方のあんま人のいないところにいくんだけど、やっちゃダメなんだけどたまにちょっと海入るんだよね。
腰くらいまでしか行かないんだけど、1人でパシャパシャしていたらいつの間にか海側の背後にスッって立ってた。
いや立ってたってのはおかしいな下半身魚なんだから。そう言う風に浮いてたってこと。
いや上半身を出す音はしていたんだろうけど、他の波音と風の音で気づけなかったってこと。
顔はさちょっと浅黒くてそんな目鼻立ちは際立つ感じじゃない。鼻も低いし。
んで髪も濡れてるからボサボサと言うかお手入れしてない感じ。リトルマーメイドとか髪綺麗じゃん。その逆。
そりゃ外にいるんだから日焼けもするし髪も乱れるわな。よくない例えかもしれないけど昔の、写真で見る明治とか大正の労働者階級みたいな感じ。化粧なんかもしてないしね。海だから。
大体人魚って描かれる時はおっぱいエッチじゃん。描く方も気合入れるところだと思う。
でも普通よ。
そりゃそうだよな。普段生活しててもみんなグラビアアイドルみたいな感じじゃねーもんな。俺だって純烈みたいにカッコよくねーもん。人魚もそうなんだろ。
んでおっぱいよ。邪神ちゃんドロップキックの邪神ちゃんみたいにおっぱいが髪で隠れてる感じだった。邪神ちゃんみたいに全然エッチな感じがしない感じだったな。
「言葉はわかるか」と聞くと「少々のことは覚えはべり」と答える。
室町時代の地下官人が書いた日記『康富記』に人魚の肉を食べた女(やおびくに)が若狭から上洛したって記事がある。
でも目の前にいたらさすがに食べようとか思わねーな。
このように、兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に恵まれた名将と評価されている。事実、信康は武勇に優れ、秀康も秀吉にその人物を評価され、忠吉も関ヶ原の本戦で島津豊久を討つという武功を挙げている。それに対して秀忠には、武勇や知略での評価は乏しく、またその評価ができるような合戦も経験していない。ただし、秀忠は2代将軍だったため、後半部分で秀忠は温厚な人物だったと弁護している(「仁孝恭謙」と、儒教倫理上での最高の評価をしている)。しかし、当の徳川家による史書でさえ、秀忠の武将としての評価は低かった。
それでも後継者となったのは、家康が秀忠を「守成の時代」の主君に相応しいと考えていたからだと言われている[17](家康は唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、貞観政要には「守成は創業より難し」という一文が存在する)。父の路線を律儀に守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言える。
公家諸法度、武家諸法度などの法を整備・定着させ、江戸幕府の基礎を固めた為政者としての手腕を高く評価する意見もある[注釈 6]。娘の和子を後水尾天皇に嫁がせ皇室を牽制、また紫衣事件では寺社勢力を処断し、武家政権の基礎を確立させた。家康没後は政務に意欲的に取り組んでおり、家康が没した直後の元和2年(1616年)7月、小倉藩主の細川忠興は息子・忠利に「此中、公方様御隙なく色々の御仕置仰せ付けられ候」(最近将軍様は政務に余念がない)と書き送っている[19]。
秀忠に将軍職を譲った後の家康がそうであったように、家光に将軍職を譲った後の秀忠も、大御所として全面的に政務を見ている。作家の海音寺潮五郎は「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった。」としている。
江戸上洛の途中、三島宿で鰻を獲ると神罰が当たるという三島明神の池で鰻を数尾獲った小者がいた。そのことを耳にした秀忠は小者を捕えると宿の外れで磔に処した。「神罰を畏れぬ者はいずれ国法をも軽んじて犯すに違いない。それでは天下の政道が成り立たぬ。神罰覿面とはこのことよ」と言った。一罰百戒、厳罰主義の秀忠らしいエピソードである。
大名たちの家族関係には些細なことにも気を配り、それを解決する時には茶目っ気もあった。小倉藩主細川忠興は父・幽斎譲りの脇差「大三原」(『享保名物帳』の同名の刀とは別物)を愛刀としていたが、嫡子忠利が所望しても与えないので、親子関係がぎくしゃくしていた[25]。どういうわけか、この事情は秀忠の耳にも及んでいた[25]。そこで、ある年、細川父子を伴として浅草川に水浴に出かけ、忠興にも一緒に川で水を浴びるように誘った[25]。忠興も、水浴びとなれば、大三原を腰から外さざるを得ない[25]。秀忠は、忠興より先に水浴びを済ませ、川辺に置かれていた大三原を手に取ると、一人川に入らず側に控えていた忠利に気を利かせて、「余がこれを拝借し、取り次いで、そなたに下賜してやろう。(将軍が仲介しているのだから、)越中(忠興)のやつもまさか異議は申すまい」と堂々と宣言して、大三原を忠利に与えてしまった[25](『細川忠興公年譜』[26])。このときのやりとりは実は忠興にも聞こえてはいたのだが、将軍の声には逆らえず、しぶしぶ従ったという[25]。秀忠の大物ぶりに感化されたのか、忠利は後に大三原を気前よく弟の立孝に譲っている[25]