はてなキーワード: カミーユとは
「君たちは、笑いながら“壊されている”んだよ!」
かつて“戦うこと”の意味を知った青年、カミーユ・ビダンが、任天堂を真っ向から批判した。
「画面の中で誰も怒らない。誰も、苦しまない。そこにあるのは“快適さ”だけ――だがそれは、魂を抜かれた快適さだ」
彼の言葉は鋭い。だが、その指摘は痛いほど的を射ている。
いまや任天堂は「家族の笑顔の象徴」ではない。むしろ、「感情を均質化する巨大システム」だ。
人間が怒り、悩み、失敗を経て成長する――そんな“生の実感”を、彼らは次々と削ぎ落としていった。
「ポケモンを見てみろ。勝っても負けても、誰も本気で泣かない。感情の振れ幅を、“商品”として最適化してしまった。あれはもう教育じゃない、調教だ」
ビダンは語気を強めた。
彼の目に映る任天堂とは、「消費者を穏やかに“管理”する帝国」である。
“安全な遊び”という名のもとに、怒りや悲しみといった人間の核を削除し、“従順な幸福”を植えつける。
「人間を子どものままにしておくのが、彼らの戦略なんだよ。大人になるとは、感じること、苦しむこと、そして立ち上がることだ。だけど任天堂の世界では、永遠にリセットできる。――それは、生きることをやめることだ」
彼の言葉に笑う者もいるだろう。だが、見て見ぬふりをしてはいけない。
機動戦士Zガンダムという作品の最大の功績はカミーユ・ビダンというジョブナイルを代表するとも言える繊細で、
かつて思春期を生きた人たちの痛々しい共感を刺激する、あの富野由悠季が生み出したなかでも屈指の傑作キャラクターの創作にある。
この人物造形の成功は、単なるキャラクター設計の巧みさを超え、
アニメーション作品におけるリアリズムの概念を根底から変革した歴史的偉業として評価されるべきである。
富野は従来のロボットアニメが依拠していた「勧善懲悪」の物語構造を意図的に破綻させ、
善悪の境界が曖昧な世界で苦悩する思春期の少年を主人公に据えることで、
カミーユというキャラクターの革新性は、その精神的脆弱性と感受性の異常な鋭さが、
決してロマンティックに美化されることなく、むしろ病的な危うさとして一貫して描かれている点にある。
従来のアニメが扱ってこなかった思春期特有の心理的現実を容赦なく暴き出している。
キャラクターは画面に映らない時間も生き続ける存在として構想される。
それこそが現実の人間の内面における感情の非連続性を映像作品として表現する試みであった。
彼の精神的不安定さと表裏一体のものとして設定されていることである。
彼の鋭敏すぎる感受性は戦闘において卓越した能力を発揮する一方で、
フォウ・ムラサメやロザミア・バダムといった強化人間との悲劇的な邂逅を通じて、
これは、超能力を単純に肯定的な「進化」として描く従来のSF作品への痛烈な批判的視点を提示している。
富野の文学的野心は、カミーユの最終的な精神崩壊という結末において頂点に達する。
後のアニメ作品における「鬱系」ナラティブの原型を提示したと評価できる。
単なる個人的な悩みを超えて、性別アイデンティティの揺らぎという普遍的テーマを暗示している点である。
富野は意識的に「女性性を内包した男性主人公」としてカミーユを設計することで、
この試みは、後の1990年代以降のアニメ作品における「中性的主人公」の先駆的事例として位置づけられる。
カミーユ・ビダンという一人のキャラクターの内面描写を通じて、
商業的エンターテインメントの枠組み内で表現し得たことにある。
同時に深刻な文学的主題に挑戦する作家としての側面を明確に提示した。
カミーユ・ビダンというキャラクターは、単なるフィクショナルな人物を超えて、
1980年代という時代の若者が抱える実存的不安の象徴として機能している。
彼の痛々しいまでの繊細さと、それが招く破滅的結末は、
高度成長期の終焉とバブル経済への移行期という歴史的文脈において、
将来への不安を抱える当時の若者たちの心理状況を鮮やかに反映している。
「心理的リアリズム」という新たな表現領域を開拓した記念碑的業績として位置づけられるべきである。
娯楽性と芸術性を両立させながら、
『機動戦士Zガンダム』が「駄作」と評されることがある主な理由は、前作(初代ガンダム)からの大きな作風の変化と、複雑すぎるストーリー展開、そして主人公カミーユの結末にあります。
ただし、『Zガンダム』は非常に評価が高く、「最高傑作」と呼ぶファンも多い作品であり、「駄作」という評価はあくまで一部の視聴者、特に初代からのファン層で根強い意見です。評価が分かれる主要な点を以下にまとめます。
地球連邦軍、エゥーゴ、ティターンズ、アクシズ(ネオ・ジオン)、カラバなどが入り乱れており、それぞれの思惑や裏切り、寝返りが頻繁に起こるため、物語の全体像や勢力図が非常に分かりにくいという声が多くあります。
主人公のカミーユ・ビダンが、積極的に戦況を動かすというよりは、事件や戦いに巻き込まれていくという形で物語が進むため、「カミーユの視点」から見て話が掴みにくいと感じる視聴者もいます。
初代ガンダムのような「少年兵が戦場を生き抜く」というシンプルな戦争のリアリティから、より政治的な権力闘争やエスパー的なニュータイプ論に焦点が移ったことで、初期のファンが期待したドラマと異なる印象を与えました。
物語のクライマックスで、主人公のカミーユが精神崩壊に至るという衝撃的な、しかし救いのない結末を迎えます。多くの主要人物も戦死し、全体的に悲劇的なトーンで終わるため、「見ていてつらい」「後味が悪い」と感じる人がいます。
カミーユは初期にすぐにキレる描写が多く、「感受性が高すぎる」「未熟すぎる」と感じられ、アムロのような共感を持ちにくいという意見がありました。
多数のデザイナーが参加し、変形機構を持つ機体(Zガンダム、アッシマー、ガブスレイなど)が増えたことで、見た目だけで機体の所属陣営が判断しづらくなり、戦闘シーンの分かりやすさが失われたと感じるファンもいます。
カミーユが未熟な少年から戦士へと成長し、その過程で多くの葛藤や苦悩を抱える人間ドラマの深さが高く評価されています。また、クワトロ・バジーナ(シャア)やアムロ・レイなどの旧作キャラクターの再登場と新たな役割、フォウ・ムラサメやロザミア・バダムといった悲劇的な強化人間の描写も、物語に深みを与えています。
「反連邦組織(エゥーゴ)と連邦内のエリート組織(ティターンズ)の戦い」という、初代よりも進んだ政治的・軍事的な対立構造を描き、その後のガンダムシリーズの基盤を作りました。
モビルスーツデザインや戦闘描写は、当時のアニメーション技術を駆使しており、画期的なものでした。
このように、『Zガンダム』は革新性と複雑性を追求した結果、前作の作風を愛するファンの一部からは受け入れられず「駄作」と評価されることもありますが、その深みのある人間ドラマと複雑な群像劇によって、現在ではガンダムシリーズを代表する名作として広く認識されています。
| 類型 | 特徴 | 演出フラグ | 典型例 |
| カミーユ初期シャア型(有能先輩ポジション) | 頼れるmentor的存在で主人公を導くが素性が不明瞭 | 素性をぼかす/大義を優先する発言/敵の事情に理解 | クワトロ・バジーナ(Zガンダム序盤)、クラウス(ガンダム00) |
| 腹心・副官型(右腕ポジション) | 主人公やリーダーの最側近で情報・権限を持つ | ピンチ時に不在/情報の出し惜しみ/忠誠を強調 | ノヴァ(レイアース2)、スザク(コードギアス)※解釈による |
| 友達キャラ型(急接近フレンド) | 出会ってすぐ意気投合するが裏の顔を持つ | 友情・好意を強調/過去不明/仲間内で浮く | 六道骸(家庭教師ヒットマンREBORN!)、カヲル(エヴァ) |
| 組織内スパイ型(任務で潜入) | 敵組織のスパイとして仲間に紛れ込む | 情報収集が多い/敵の動きを事前に知る/信頼が深まるほど緊張感 | クリスチーナ(ガンダム0080)、ロッソ(ワンピース) |
| 理想と現実乖離型(目的のために離反) | 理想や正義感で参加するが方針の違いで離反 | 理想論を語る/仲間のやり方に疑問/独断行動 | シャア(初代→Z)、グリフィス(ベルセルク) |
いや名作ではねえよ。ちゃんと令和の今観て。めちゃくちゃ変な映画だから。別に破綻してるとまでは言わんけどクワトロを経たシャアの最後がああなるんかいってのとシャアが脱出した後のわやくちゃがカオスすぎるよ
むしろ、クワトロを経て疲弊したシャアがやけっぱちになって味方全員を騙してアムロと戦って負けるという壮大な自殺をして人生から逃げただけにしか思えないんだが。全然破綻してない。
そもそもシャアはハマーンから逃げて地球で偽名を使い反ティターンズ運動をして、結局ハマーンに負けて生死不明エンドとはいえ実際は生きていてエゥーゴの後始末から逃げたような人間だってきちっと描写されたわけだろ?
ああなるんかいというけどああなるしかなかったとしか思えないんだが。
クェスを戦場に追いやって殺そうとしたのもハマーンとカミーユでニュータイプを子育てする面倒さを心底理解してたからだろうしな
ネオジオンを使い捨てにしたのも、ブレックスの死後一応指導者になっていたエゥーゴから逃げたことを考えると何の不思議もない。
まぁ、ブレックスもいない、最終決戦でヘンケンも死んだ、アポリーもエマも死んだ、まともに残ってるのはブライトとファwと精神崩壊したカミーユ、地球から出てこられないアムロとカツくらいっていう抜け殻みたいなエゥーゴで面倒なハマーンとやり合うってのは誰でも嫌気さすから逃げるのは不思議ではないけどな。主人公クラスの人間としてはクソダサいけど、シャアというのはそういうダサい生き方をずっとする人間として描かれてるわけだから。
スーパーロボット大戦Vをクリアした。
プレイ時間は100時間ぐらい。難易度はスタンダード。1周だけ。
久々にスパロボやったけど、とても良かった。
Tも買ってあるから、その内やる予定。Yはどうしよう。買うか迷ってる。
あまりこういう言説を見た記憶がないんだけど、予備知識なくフラットな意識でアニメを見てみた場合。
ニュータイプとか理由付けされているけれど、そういうのを取っ払って彼女の言動を見ていると、
知的ないし精神的に何か問題を抱えた人のそれにしか見えないんだよね。話が飛ぶ。具体性に欠ける。意図が読めない。誰に向けて語っているのかよく分からない。
Zガンダムのフォウやロザミィは薬物投与や催眠療法という「強化」を受けた結果ああなっているらしいけれど
ララァは特にそういうのはないらしいが、作中の他の登場人物の言動が割と普通なのと比べると一人だけ明らかにおかしい。
でもララァと同程度のニュータイプと言われるアムロやシャリア・ブル、ハマーンやシロッコにはそういう傾向がない。筋道立てて普通に会話しているし組織の中で高い地位にいたりもする。
カミーユやクェスにおいてもあくまで思春期の子供としての不安定さという範囲であり、ララァのように人間離れしたレベルではない。
という事は、ニュータイプの中でもララァだけが先天的なり後天的なり、何らかの事情で知的ないし精神的に問題を抱えた人だと思った方が自然なんじゃないだろうか。
先天的という可能性もあるけれど、わざわざ娼婦に設定したという事は後天的な病気の可能性も示唆していると思った方がいいのではないか。
実際、太古の昔は巫女と娼婦は同一だったとか言われるらしいし。
その時代には性感染症の結果生じた異常な症状を「神秘的」「特別な力」と認定して持て囃していたのではないだろうか。
そういう文脈に見える。
「いきまーーーす!!」
ってやつじゃない。
あれ以来カタパルトとかを使った発進シーンで演出の盛り上がりをつけるというのがガンダムの定番になる。
のだけれど、
まったくもって代わり映えのない発進シーンしかやらない。
それに対して富野作品は新しいアイデアを出して(出させて)新しいものを作り出そうとする。
このへんがさ、パイオニアと模倣者の作品づくりに対する気概の違いなのかな、と思ってる。
わかりやすい例を上げると
におけるジオン総帥シャアのモビルスーツサザビーの発進シーン。
それまでのガンダムのモビルスーツ発進シーンにおいてはカタパルトからの射出
というのがひとつの定石の形として固定されていた。
それに対して、サザビーの発進シーンは振り飛車的ケレン味で勝負する。
カタパルトとかではなくて格納庫から発進するサザビーを強力なベルトのようなもので固定したうえで
バーニアから全開でスラスターを噴射してためをつくったところで固定を外し
勢いよく射出される
というような
とてもカッコいい発進シーンでガンダムオタクの脳に快感物質をドパドパと出させるのだ。
これな。
みたいなことを思わせる発言とかをするんだけどな。
それを読んで勘違いしてる奴らも多いと思うけど、
ガンダムオタク共の脳汁をドパドパにさせるの毎回毎回苦心してるのが
そこは勘違いしないでもらいたい。
においての発進シーンだ。
それまでのあらゆるモビルスーツの発進シーンが
ひたすら「ため」をつくることを重視してた。
発進シーンって「ため」て「ため」てドッピューンって発進するのばかりだったんだ。
「ガンダム」
「カミーユ・ビダン」
「いきます!!」
みたいなテンポ。
つづきまして
「百式」
「出る」
みたいなテンポ。
画面を分割して
みたいにすぐに発進するんだ。
「ため」をつくらない。
カタパルトに足を置いた瞬間に発進なんだよ。
足をおいたらすぐ発進。
これわかってもらえる、文字で?
カタパルトに足を固定して
カタパルトがゴッっと動いてドッピューーんって発進なの。
カタパルトに足をおいたら間髪を容れずいきなりカタパルト発進。
ハイザックが足をカタパルトにいれる、すると「ビーン」って発進合図の音が鳴るそれと同時に発進ドオオオオオン、なのよ。
そうやって次々と矢継ぎ早に射出されるハイザック。
これがもうメチャクチャ新しくてガンダムのオタクの脳内はたまらんがな!たまらんがな!たまらんがな!って
もう射精しそうになるんだよ。
こういうのってそれまでの作品(自分が作ったのも含めての)アンチテーゼなんだよ。
だいたいモビルスーツ戦というのを考えたら
カタパルト発進のときに余計なためをつくるのとかありえないわけじゃんか?
どれだけ早くモビルスーツを戦闘空域に展開させて数を揃えさせることが出来るか?というのが命なわけだろ?
一機でも多く敵よりもモビルスーツがその空域にあれば優位に戦闘を展開できる。
それなのに悠長にカタパルト発進なんてするわけないだろ!?馬鹿なの!?
これがね、本当にカッコいいんだよ。
ほんでさ、ガンダムをつくるときに、ここまで考えて違うことをしよう
ファンを楽しませよう、って考えて、アイデアを出し、アイデアを出させて
作品に魂を込めてくるのって
富野由悠季だけなんだよね。
他の奴らはもうホント考えない。
ただただ普通の発進シーンをいつものテンポでいつも通りにやる。
このへんがね。