はてなキーワード: 初期ロットとは
いいよね。それだけメーカー愛をもって貰えるのは。
y_hirano 年間2000万台とか生産し、かつ子供が粗く扱っても壊れないくらいには頑丈な機器をそれなりに経済的に作るとなると、多分こうなるんだろうなあ。
korekurainoonigiri ニューヨークで売らなければいい。 >ニューヨーク州の「修理する権利」法に違反している可能性もあります
kenjou こういったものを自分で修理しようとする人はほとんどいないのでは…。任天堂は修理費をぼったくったりもしないしね。むしろ安価にやってくれてよかったという話をよく聞く。
ゲームに物申す人ってゲームやってないこと多いなって思うんだけど、任天堂ハードの関しての言説はマジでそれの典型例だよね(次点ではセガよかったおじさんのレトロゲーム語り)
「子供が粗く扱っても壊れないくらいには頑丈」に作ってるなんて、15年以上前の話だと思う。
任天堂ハードの品質悪いのはWiiあたりからで、DSあたりで耐久性はそこそこに安く作って売る方にシフトした感じがある。
Wiiのディスクドライブ、DSのタッチパネル、GBASPから続く脆弱なショルダーボタン、すぐに再ダウンロードを不可にするDL版ソフト、Switchの排熱問題、ドリフト、と、ゲーム以外の部分はマジで問題がない時期のほうが珍しいぐらいなんだけど。
ニンテンドーハードの品質がいいなんてファミコン世代シニアの印象論だと思うよ。現実を見てほしい。
sumika_fijimoto どうせカラバリや上位モデルが出たら買い替えるくせに初期ロット腐してる奴ら何なん?こーいう奴らが日本の元気を奪ったんだろ(過激派)
circled 高性能グラボは電力喰いなのは当然なので、携帯ゲームが性能とバッテリー稼働時間の両方を満たすのは無理ゲー。それこそApple並みのSoC技術がいるが、iPhoneとてゲームしてるとバッテリー消耗が激しいからな
cinq_na 初期ロットで色々不具合が出るのはどこもいっしょだしね。それを乗り越えるのもお楽しみの一つと思える人だけが初物に手を出すべき。ある程度はソフトウエアのアップデートで対応出来る良い時代になったけど。
これに至っては、ソニー新型携帯ゲーム機の記事でスター貰ってるブコメと比較すると面白い。
tripleshot 口汚い言い方すると、性能上げるだけなら、性能いいSoCを調達するだけなんだからバカでもできて、それで値段20万とかバッテリー駆動時間1時間とかにならんようにするのがコンシューマのキモなわけで…
Cat6 そうなんだ、じゃあ私Switch2買いに行くね。
honmasoredesu 今、ソニーのゲームハードの立ち位置って任天堂ほどuxが優れていない、かつ、Steam(pc)ほどスペックが良くなくゲーム選択肢も少ない、っていう「帯に短し襷に長し」の状況に見えるんだよなあ
Switch2は今の時点ですらこれだけの問題が見えてるのに、いろいろな理由で「仕方ない」「当然」って庇ってもらえる。
やっぱ任天堂って愛されてるんですね。いいな。
PS5やプラモみたいに、時間経過とともに供給量が増加していくものの転売と、公演チケットや数量限定販売商品みたいに供給量自体が制約されてるものの転売では、その構造も対策も違うと思うんだけど、主に前者について。
人気があって定価販売の商品は、供給当初は需要が供給を大幅に上回っていて「財の希少性」が高い。市場理論的には本来もっと高く売ってもいい(売るべき)商品を、本来の実需との均衡価格に見合わない安い価格で販売しているから、結果的に転売益を取る余地が生まれる。需要者の効用(買うために出せる金額)がメーカーの標準小売価格を上回っている間は、その差額分の転売益を期待できるので、どうしても転売屋・転売行為は発生する。今はメルカリその他の古物販売プラットフォームもあって、参入障壁がとても低く、誰でも転売屋になれる。極端な話、普通のエンドユーザーがその商品をどうにか入手できて「さあ遊ぼうか」というタイミングで一応メルカリ見て、差益が2万円も出せることを知って、「なら遊ぶのはしばらく待ってもいいかな」と心変わりして転売する、なんてことも普通にありえる。いくら倫理で批判しても、転売益という実利がある以上は、転売行為を撲滅するのは難しい。
だったら、転売益という実利自体をなくしてしまおう。転売屋は市場の仕組みを利用しているのだから、メーカーも同じことをすればいい。新発売から一定期間(より受け入れられやすい表現で言えば「事前販売期間」)は、メーカー自身が自社サイトでネットオークション形式で売るのだ。サイトで一番高値をつけた人たちに順に商品を販売していく。こうすると、転売屋はその商品に手出しができなくなる。
ちなみにオークションといっても1台ずつオークションにかけて1台ずつ落札する必要はない。ヤフオク・モバオクなどでも実装されている複数出品オークション方式を取れば、たとえば初期ロットとして5000台を出品し、それを同時に多数の購入希望者が値付けして、入札額が上位のユーザーから5000人が落札する、ということができる。
なぜこれで転売問題が解決するか。具体的にはこういうことだ。転売屋は3万円で商品を買って、「5万円でも欲しい」という一般エンドユーザーに5万円で売り捌くから、2万円の利益を出せる。でも、メーカーが供給当初にオークション形式で商品を販売すれば、その「5万円出してでも欲しいエンドユーザー」達は、5万円を出してその商品をメーカーから直接購入する。彼らはその時点での本人の主観的効用に見合った金額を払って購入しているので、一切〈損〉はしていない。さらに時間経過とともに生産・供給が進むことで、より高い値段で値付けする「その値段でも買いたいユーザー」から順にどんどん商品を入手してゆき、実需がしだいに満たされ、オークションの約定価格は下がっていく。全てのユーザーは、約定価格が「この値段なら欲しい」と思える値段まで下がった時点で、その商品を入手可能になる。これは市場の仕組みそのものだ。
一方で、転売屋も一般エンドユーザーと同様、メーカーの公式オークションで、たとえばある時点では5万円を出してその商品を買うことはできる。それなら結局、オークション出品分も転売屋が買い占めて転売してしまうのでは?と思う人がいるかもしれないが、そうはならない。考えてみてほしい。オークション実施時の市場の需給均衡価格は5万円なので、転売屋が入手後すぐに転売しても、そのときに期待できる転売益は0円なのだ。
さらに時間経過によって、商品の市場供給の総量は確実に増え、財の希少性が解消されていくので、仮に転売屋が在庫を抱え込んだとしても、それは必ず不良在庫になっていく(時間が経つごとに、入手価格と再販価格の差損(逆ザヤ)が大きくなっていく)。これにより、原理的に転売屋による商品抱え込みが発生しない。
転売屋による買い占め・抱え込みが起こらないということは、オークションで販売される商品が確実に実需を満たしていくということでもある。これにより、発売初期の供給難は、(転売屋の介入余地がある)通常価格での販売よりも、オークション販売の方がずっと速く解消されていく。これも市場の仕組みだ。
オークション形式を取ることで、メーカー側は想定小売価格を超える超過利益が出る。その超過利益は、初期にプレミアム価格で買ってくれたユーザーに、購入時の登録アカウントと紐づけ、特別なバッジやゲーム内決済クレジット付加などゲーム体験に関わる形で(≒転売屋が転売時に付加価値化しにくい形で)還元すれば、ユーザーの満足度も更に高まるだろう。あるいは何か慈善的活動に寄付するでもいい。超過利益を何らかの形でユーザー自身あるいは社会に還元するというポーズを取ることで、メーカーは「強欲」という批判を回避できる。そもそも超過利益を生むことがオークションの目的ではなく、転売行為を抑制して流通上の目詰まりを早期に解消できればそれでいいのだ。
そしてオークション販売サイトでの平均約定価格が本来の想定小売価格に近づいた時点で、メーカーはオークション形式を辞めて通常流通に切り替えればいい。その頃には、その商品の転売行為で利ざやを取れると期待する転売屋は誰もいなくなっているはずだ。
オークション販売はネット通販でないと難しいから、小売店など既存の流通チャネルはどうすんだというのが課題になるが、本体そのものではなく購入権やアクティベーション権だけをオークション販売する、などの迂回策は取れなくもない。転売屋の跋扈を倫理ではなくシステム的に抑え込むという点では、これが一番効果的な対策のひとつだと思う。転売屋の意見を聞いてみたい。
もちろんのようにネタバレを含むので、注意してほしい。
見終わった感想は、「本当に終わった」だった。
すごく丁寧に「伝える」ことに真摯に向き合っていると感じた。
それは描いていることだけではなく、描かれなかったことも含めて。
きちんと振り返り部分がある丁寧さが、この映画を象徴しているといっても良い部分。
復習して来いよ、ではなく、劇場でこれまでを振り返る。その丁寧さが全編にわたってある。
忘れてならないのは、これは劇場4部作ではなくて、エヴァンゲリオンの最終作ということ。
だから、題名からして「シン・エヴァンゲリオン劇場版」であって「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」でないところで主張してる。
そして、「まごころを君に」「世界の中心で愛を叫んだけもの」ときて、「未来からのホットライン」で落としているところに、本当に最後なんだな、という気概を感じる。
NOTでも(NOT)でもなく、今までの否定でも追認でも無い、終わりが来たんだなという予感は正しかった。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版序破QはTVシリーズみたいなもんで、今回が劇場版」みたいな位置づけっぽくみえる。
冬月副指令側はネルフパリ支部を守る陽電子砲側で、ヴィレは侵略する側。
派手なアクションシーンであるとともに、赤いヤツって戻せるんだアレというのをこれ以上ないほど明確に見せる場面。
直接の描写が牧歌的なだけで、薄氷を踏むような生活というのが描かれずに表現されているように思う。
トウジは「医者の真似事」だし、ケンスケは「なんでも屋だが風車のメンテはできない」。
食事は配給制で、一軒家はトウジの医者という特権性に由来する特別扱いになっている。
綾波型初期ロットはそのトウジの客人ではあるが、農作業にわりとしっかり従事させられている。
そしてそこにいるのは老婆が中心。
若い男女や男性は、綾波型の心の触れ合いのような農作業には出てこない。
銭湯や図書館も牧歌的ではあるが、つまりは個別の風呂や嗜好品が持てない生活を、直接の描写なしに示唆している。
でも、並行複発酵である日本酒を飲める程度には豊かさがある。衣服も残ってる。(心の余裕はまず生活の余裕から)
でも、味噌汁に口をつけないことで激昂する大人がいる程度には食料に余裕がない。
たぶん、ココを受け付けるかどうかはその人のエヴァンゲリオンへの思いによる気がする。
第四話の「雨、逃げ出した後」だよねココ。
ひどい経験をしたシンジが家出をして、ケンスケとキャンプする。
TV版では、その後無理やり連れて帰られるけど、ネルフから出ていこうとして、自分の意志では電車に乗らなかったと言う流れ。
ケンスケの描き方はあの時からある意味で一貫している。自身の興味には忠実だが、相手の心情には過度に踏み込まず、黙って見守る。
「なんでみんな僕にやさしいんだよ」という嗚咽がほぼすべてだけれども、誰にも強制されることなく、しっかりと時間をかけてシンジだけで結論を出すのが良かった。
今までのシンジくんって、口ではみんな色々言うけど、それほぼ強制じゃんってのが多かった。
あなたが決めなさい、とか。それシンジくん考えられる状況か?その環境作るのが大人だろうっていう。
あの農作業をしていたのがシンジで、みんなの優しさに触れてこの村を守るために戦うんだ、だったらたぶん流石についていけなかったと思う。
で、今までのエヴァだったら絶対にあのアスカの「泣くだけ泣いてスッキリしたから家出は終わりか」みたいなセリフ入れなかったと思うんだよね。
その後の、ケンスケとの見回りと治水の管理で「基幹産業たる農作業を免除されてる」とか「池が村の生命線」とか言わなかったような気がする。
村が赤く浸食されてない理由とか、ニアサーも悪いことばかりじゃなかったさみたいなのは、察しろよ、みたいな描写になってたんじゃないかな。
プラグスーツを着ていないと体を保てない綾波型が、その短い生の間に、様々な感情を駆け抜けていったのも象徴的だったように思う。
その一方で、加持さんの子供がしっかりと「世界をもとに戻す」実験に従事しているというのも、良かった。
ミサトさんは、スイカの種を見るだけなんだよね。種をまいて育てるのじゃなくて、種を残す方。
あの村のシーンこそが、シン・エヴァンゲリオン劇場版の急所だと思う。
シンジに好意を持つように設計された綾波型が感情を受け入れるも、なお運命の通りになる。
シンジは誰からも放っておかれる状態で、本当に自分がかけたいだけの時間をかけて、やっと決断する。
最初こそアスカに無理やり食わされるけど、シンジくん自分でレーション食ってんだよね。そして食うことに対して泣く。
自分で食い、自分で泣き、自分で時間をかけて、最後に無垢な問いかけに返す形で結論を出す。本当に良かったと心から思った。
アスカが途中で言ってたけど、そんなシンジくんみるの相当しんどいと思う。
で、そこは委員長の異様なほど優しい言葉や綾波型初期ロットとのやりとりでカバーされてる。
TVシリーズだったら赤木博士に「村での摩擦は死に直結するわ。学習性無力感の一種ね」くらいは言わせたと思うんだよねマジで。
落ち着いた後で、トウジと会話をしてお前は十分やったって言われたり、ケンスケからは親父とは話しとけよって言われたり、加持と出会ったり。
時間計ってないけど、かなり丁寧に時間をかけてあの一連のシーンが描かれてたと思うし、相当な比重じゃなかったのかなアレ。
でもなあ、序破ときて、Qでのカヲルくんとのやりとりって、アレまんま洗脳だろ。そらシンジくんでなくても壊れるよ。
親しい人と引き離して孤独にし、信頼を得てから既存の価値観を壊し、そのショックが大きい間に新しい方向性を示す。
で、洗脳が解ける前に、信奉した教祖たるカヲルくんが自分のせいで目の前で死んだら、そら壊れるよ。
それをきちんと作品内で比重を置いて向き合って時間をおいてくれたの本当に良かった。
アスカのDSSチョーカーみて吐くシーンは象徴的過ぎてインパクト強いけど、マリもアスカも対爆隔離室内に自室があって爆薬増やされてるってことは、シンジくんと同じよね。
シトと一緒だからじゃなくて、エヴァに乗る適性がある人間に対しての強い警戒心。
あと、振り返って考えると「ワンコくんとの進捗どうだった」のあと、「年頃の男には興味ないか」みたいなことマリがアスカに言ってなかった?
そういや、冷酷っぽくふるまってるアスカが、劇中ほぼ唯一恥じらってるのがケンスケにカメラ向けられたときなんだよな。
シンジくんって、ヴィレ判定で精神的に安定してるって言われてるから、綾波型初期ロットとの直接のお別れを経験後なわけで、親父すでに超えてるんだよな。
たしかその前後で、冬月副指令が、「自分と同じ喪失を経験させるのも息子のためか碇」とか言ってなかったかな。
あと、どのシーンでもマリって劇中で誰かと相対するときには、相手のパーソナルスペース内に入ってんだよね。
破で、シンジくんの匂いを嗅ぐ、引きこもってるシェルター内のシンジくんを引きずり出す。
アスカには抱き着く、後ろに回って髪を切ってあげる。シンジくんの後ろから手を回してだ~れだって問いかける。
古今東西の書物を読み漁り、相手の懐に入り、どのタイミングでも余裕たっぷりなのは、イメージとしては「魔女」だよな。
アスカが死に装束でしょと返したスーツを着た後、シンジにわざわざ会いに行ったのはどう考えても最後だと思ったからで、
わざとだよなあの艦隊戦とあの曲。
そういや、エヴァで誰を殺せば世界が平和になるかって言ったら真っ先に冬月副指令だと思うんだよな。
Q以降、ほぼ単独で組織的な攻撃に対応してるのとか、そもそもの研究室の件と言い、このオッサンが元凶だろう。
舞台を整えるの全部やり切ってるしな。
セカンドの海の浄化、サードの大地の浄化だったら、フォースって空の浄化じゃないんかい。
あとゲンドウがきっちり葛城大佐、赤木くんって呼んで反論しててちょっと面白かった。
ミサトさんに息子の話をするシンジくんは、はっきりあいつのこと好きだよって言ってるんだよね。
自分が人を評して、それを他人に伝えることに躊躇しない最初の相手がミサトさんなのは結構グッと来た。
アレなニュアンスの旧劇ではなく明確に母親ポジションとして描かれているので安心した。
ゴルゴダオブジェクトの上で、マイナス宇宙でヒトが認識できる形を記憶からLCLが作ってるんだっけか。
きっちり旧劇っぽく親子喧嘩をメタっぽく描いてるのがエヴァだよねって感じで良かった。
よくよく考えると、わりと新劇場のゲンドウって、最初から甘いんだよな。
息子とは墓参りに行くわ、息子との食事会には行こうとするわ、わざわざ褒めるわ、本部壊すまで駄々こねた息子をギリギリまでやらせるとか。
聞けば答える、本当にコミュニケーションが苦手な親父として描かれている感が最初からあったけど、まあそうなるかなーという。
やるべきことを完全にやり切って、マリの必要なものも全部集めておいて、見届けずにL結解密度が高い中で無茶してLCLになる冬月先生。
やっぱこの人が完全に元凶な感じがしてならない。
ただまあ、ユイさんってこうサークラじゃないけど、なんだろうこのワールドクラッシャーな感じ。
ゲンドウが大人の理解力と表現力で、内面をきっちり吐露していくシーン。
「ユイと出会い、楽しかった、ユイだけが受け入れてくれた」みたいなところで、どの場面でもマリがちょっかいかけてるのに一切触れられてなくて草生える。
あの流れだけ見ると、昔ちょっと好きだったゲンドウくんの息子のシンジくんを迎えに行く女みたいになるんで、それはちょっとという気にもなる。
新しく作られたガイウスの槍のシーン、シュワッキマッセリーって流れてて、聖☆おにいさんを思い出しました。
ただ、ミサトさんの死と思いを受け取れるシンジくんはほんとにゲンドウじゃないけど、大人になったなって感じた。
最後に息子から歩み寄られて謝っておそらくは和解したゲンドウが、息子の中にユイを見出すの、
繰り返しになるけど、死を否定したり無かったことにするのではなくて、受け入れたうえで先に進もうとするメッセージ性を強く感じた。
狂言回し、なんだろうな。ゲンドウが降りたらもう確かに誰もその位置に立てないしな。岸辺露伴ポジション。
旧劇の場所でアスカに思いを伝えるシーン、マリが出てくるのバグってるっぽいなー
カヲルくんと加持さんが出てくるシーン、ゲンドウとシンジとの両方の位置にカヲルくんが居るんだよね。
シンジくんに依存しない世界でのカヲルくんの理想の世界は、加持さんと接してたところになるのかなー
加持さんは、ヒトの存続よりも種の多様性を残そうと尽力したって位置づけなんだろうな。神の使徒に愛される男。
時間も世界も戻さずに、エヴァに乗らなくて良い世界に書き換える。
時間の巻き戻しではなく、違うパラレルワールドでも無くて、継続したまま治そうとする。
たしか、マリさんも迎えに来るからって綾波に伝えて別れを告げる。
てことは、アノ世界はなかったことにはならずに継続したまま、シンジくんにエヴァを消された世界に作り替えられるけれども、シンジくんは戻れないってことだよな、と思った記憶がある。
あれだけゲンドウがユイの胸で泣きたかったって言ってたのに、母さんを送りたかっただけなんだねって納得するのは、シンジくんの理解力が大人で成長したなあと。
それを、アニメーションのセル画っていう低次(二次元)の存在に落としたうえで、マリに迎えに来てもらって元に戻すっていうのは、すごいな。
マリに相変わらずいい匂いって言われたあと、相変わらず可愛いよっていうシンジに対して、
いっぱしの口を利くようになってといって、DSSチョーカーを外すのって、あれシンジの主時間で時間経過してない表現だよな。たぶん。あれが入らないと、何年も経ってるように見えるし。
そのために甲板でDSSチョーカー嵌めたのかなあ、自ら進んで嵌めるって演出にも見えたんだけどヴィレ的には必然性ないよなアレ。
最後、シンジから手を引いて階段を昇っていくのが、ああ、終わったんだなって。
というか、ぶっちゃけると、シンジくんが緒方恵美さんの声から声変わりしていた瞬間の衝撃が強すぎて、あとは流れるように見ていた。
ハッキリと明確に、彼が大人になったと感じた瞬間だった。
ああ、エヴァンゲリオンのアニメーションとしての作品は終わったんだなと思った。
一人一人に引導を渡していって、最後にあまり知らないが好意を持ってくれる女と手を繋いで階段を昇っていく。
この先どうなるかはわからないけれども、しっかりと大人になったシンジを見て、ああ、本当に良かったと思った。
鏡を見ろ現実に帰れみたいな突き放し方じゃない、同じ意味でも伝え方の違うアニメーションの力。
加持さんは裏で我儘を通し切ってた。ミサトさんは意地を押し通した。ペンペンはきっと殖えてる。
できてるかな・・・
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終劇
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PS4のコントローラーの耐久性と、ファンの静音性を上げて欲しかった。
特に初期PS4proのあまりの騒音。こまめな掃除と冷房でも熱暴走で電源が落ちた。その時に7200に買い換えたものの、FPSや一部のタイトルでは読み込み時に高温を発するので騒音再び。
公式ヘルプ読んだり、あれこれ調べて先人たちの知恵も借り、プレイヤー本人よりも良い待遇のPS4proだが今日も唸りを上げている。
ソロでは物静かなxboxoneで遊び、友だちとはPS4proで遊ぶ二重生活(と言うほどではないが、クロスプレイタイトルの更なる普及を切に願う)。