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はてなキーワード: 自分探しとは

2025-08-03

anond:20250802222011

自分探しインドに行くってこういう悩みの人にいのかもしれない

インド行って多分日本に帰ってきたら幸せを感じると思う

インドの方が水があっててもそれはそれで可だし

2025-06-29

anond:20250629191530

自分探しほど無駄なことはないからね

子供の頃から社会的役割を与えて一生を終えてもらうほうが幸せかもしれない

若者に求められることとそうで無いもの

『求められること』

子供を作る(3人以上。最低でも2人)

  人口を維持するため。

労働特に介護農業工業など)

  人手不足業界を支えるため。転職をしないこと。

・遵法精神

  治安維持のため。慣習に従うこと。

『求められて無いもの

高収入を得る

  最低賃金程度の収入でも生活はできる。

  年齢を重ねれば自然と報われる。

文化資本

  健康で文化的な最低限度の生活現代日本で十分にできる。

  教養必要無い。

自分探し・夢の実現

  それが悪いというより、「それをやることが偉い/当然」という前提は今では薄い。

  実直に生活することが尊い

俺ら海外幻想もちすぎ問題

フランス

→お洒落料理の国

イギリス

伝統の国

ドイツ

ソーセージジャガイモ料理ビールの国

イタリア

芸術の国

アメリカ

自由サクセスストーリーの国

ブラジル

コーヒーブラジリアン柔術の国

中華人民共和国

料理三國志西遊記最初の舶来文化の国

大韓民国朝鮮民主主義人民共和国

キムチ焼肉顔面美男美女の国、冷麺と人攫いと大陸間弾道ミサイルの国

インド

自分探しに行く修行のできる国あとカレー

ポリネシア

ポリネシアンSEXの





しかしよくかんがえたら、保育施設学校運動会でごくごく普通に「万国旗」で飾り立てるのって、海外じゃあんまりやらんのかもしれんなぁ

そういうところから他国に対する性善説みたいな愛着というか親しみが刷り込まれている(とくに戦後教育)

2025-06-11

anond:20250611085552

noteでWAISというキーワード検索すると、いろんな理由で知能検査を受けようと思った人たちの記事が読めるよ

だいたいは今流行りのMBTIの延長線上で自己分析自分探しの一環。

自分の強みと弱みを知りたいとか、自分の知能がどのくらいなのかを知っておきたいとかそんなところ。

2025-06-09

anond:20250609050909

孤独のグルメ」は、外見上はグルメ漫画ですが、

内実は「自分を見失わないための静かな闘い」を描いた作品です。

食を通じて感情欲求に正直に向き合い、自分という存在を少しずつ見つけていく──

まさにこれは、現代における“自分探し”の最前線と言えるでしょう。

anond:20250608111114

自分探し系の作品の次は、何が流行るか知ってるか。

俺TUEEE系だぜ。探して見つかるものしょうもない、ってことバレだすからな。

フィクションのほうが単に楽しいってことを実感しだす。

自分探し要素はそのスパイスになる。

 

今、女オタがスパダリがどうとか言ってるの、それだと思う。

anond:20250608111114

年々増えてるっつーか、中年女性自分探し漫画は氾濫しててお腹いっぱいって感じ

海が〜も見ただけでうへぇってなった。

逆に中年男性自分探し漫画ほとんど見かけない。割と読みたいんだが何かないかね?

2025-06-08

女性自分探しマンガも年々増えてる印象

海が走るエンドロールなんかは旦那を看取った後の高齢者である女性主人公で、これが自分の知ってる最高齢

ここまでじゃなくても、マキヒロチマンガなんかは働くおひとり様女性日常と自問自答みたいな感じ 飯食ったりホテルまったりの素敵なお店・ホテル紹介系の展開していく話の中で自分生き方振り返る主人公みたいな構成

昨日無料公開分を読んだカラフルアンチノミーシバタヒカリ主人公若いそっち系

若い時にこういった作品があったらもっと気持ちも慰められて良く生きれたのだろうか、なんてことを考える

若い時、20代から30代って何読んでたっけな

等身大女性ヒロインものはたいがい恋愛に救いとオチをつける、と 若い女性ヒロイン日常ジャンルを避けてた気はする

2025-05-21

ブログを書く。

ブログを書く。

自分を見つけるために。

 

この海は一人でいるには、あまりにも広過ぎる。

でも自分探しをするには、あまりにも狭過ぎる。

 

から、私はブログを書く。

https://note.com/lithe_gerbil1811/n/n0ab33caf9b4a

2025-04-16

anond:20250416124106

おっけー!似たような「言ってるようで言ってないけど妙に納得してしまう系」の表現、集めてみたよ。

画像イメージです”とか“力こそパワー”に通じる、迷言名言(っぽい)たち↓

---

### ✅ 意味深なようで意味がない系

 → いや、たまにそうだけど何が言いたいん?

 → たしかにそうだけど、何も解決してないw

  • **無理しない程度に頑張って**

 → それどの程度…?

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### ✅ 無敵のループ構文

  • **やればできる、できるまでやればできる**

 → 無限ループ突入

  • **勝つまでやれば負けない**

 → 精神論の極み

  • **やる気はやれば出る**

 → 鶏が先か卵が先か問題

---

### ✅ 意識高いナゾ理論

 → 自分ってどこに落としたの?w

 → なんかカッコいいけど具体性ゼロ

---

### ✅ 企業広告CMっぽいやつ

  • **感じるままに、生きていく。**

 → それだけで大丈夫なの?

 → “らしさ”とは何か

  • **本当の豊かさって、なんだろう。**

 → 逆に聞いてくるスタイル

---

こんな感じでいろいろあるよ〜

気に入ったジャンルあったら、もっと増やせるよ!どの系統が好み?

2025-04-15

anond:20250414112430

表現の自由歴史的背景は、国によって異なる。

そんな視点で以下、自分用のメモとして長文を残す。あえて言論自由の優位性といった憲法理論をガン無視するが、どんな規制が適切かといった考えから離れることで、表現の自由の失われた状況の風景みえることもある。

++

とくに「表現の自由による暴力(不法行為性)」をどこまで許容するかが重要視点だ。欧米日本では大きく違う。

フランスでは、あらゆる権利が「尊厳ある生」を守るための抵抗に原点を持つ。

その意味で、社会運動ストライキ争議権)と、表現の自由は同じ線上にある。たとえば、名画にペンキをかける環境団体抗議活動日本では即座に「環境テロ」として報道されるが、英仏では「レジスタンス抵抗運動)」という言葉がより広く使われていた様子だ。これは体制に対して暴力的に抗う行為意識しているからだ。

環境問題に限らず、農家などの過激な抗議行動(輸入品増加に抗議した放火破壊行為など)や、労働争議においても同様だ。フランスでは、国家や大組織による構造暴力に対するカウンターとしての「市民による尊厳を守るための抵抗」に心情的な理解が寄せられる。犯罪としての側面を否定しないまでも「レジスタンス」は革命以来の伝統という認識フランス社会は共有する。

その背景には、18世紀カトリック教会が「真理の解釈権限」を独占していた時代に、啓蒙思想が登場し、科学合理性武器公共空間を構築し、新たな政治制度模索した原体験がある。「神を冒涜する権利」は、黎明期政教分離文脈から分化した表現の自由の形であった。

一方、アメリカ表現の自由の出発点は、事情が少し違う。

制度の根幹に「科学合理性」や「絶対的真理」は置かれていない。むしろ、人それぞれ真理と信じる”信念”があり、誰も完全な真理に到達していない、という前提がある。この考えは巡礼始祖たちの宗教的多様性の中で育まれ、やがてプラグマティズムに吸収され、「思想の自由市場」(O.W.Holmes)という発想へとつながってゆく。

もっとアメリカでも、20世紀半ばまでは「有害言論の内容規制」が志向されたが、判事たちはそのたびに建国思想巡礼始祖の理念に立ち返り、「有害表現定義できない」という議論に収まった。1970年代には「社会不協和音こそが強さの証」とまで言い切る判決(1971)もあった。司法ヘイト規制消極的かつゾーニング規制シフトしてゆく歴史がそこにある。

トランプの出現などリベラル保守のあまりの違い、それでも国家として成り立つ社会。それを支えるのは、「一致しないままでも共存できる」という、個人主義を基盤とした社会の強さだ。

一方で日本は、「価値観の不一致」に不安を感じる社会だ。

会社でも地域や家庭でも、できるだけ摩擦を避けたい。コロナ禍での自粛違反者への度を越した非難などに表れているように、「他人迷惑をかけるのは不徳だ」という感情が深く根付いている。

この「迷惑感情」は、表現の自由制限する根拠として働きうる。憲法学では人権制限原理は「公共の福祉」として整理されるが、実態としてはその時々の「社会空気」に左右されがちだ。たとえば、受忍限度論という法理をとってみても、それ自体迷惑感情社会的「耐性」の程度を空気から測るものにすぎない。日本人の考える公共フランス人の考える公共とかなり異なる。

電車CM強制音声に対する訴訟「囚われの聴衆」事件1987年最高裁)では、そうした「空気」に抗う個人の主張が結局退けられた。受忍限度という大義名分の下で、「それくらい我慢しろ」と結論づけられたわけだ。迷惑感情による秩序そのもの否定するわけではないが、空気として内面化されすぎると、異論や異質さの排除へとつながりやすく、かつ世代間、階層間の認識ギャップという課題に直面する。

フランスとの比較でもう少し考えてみよう。

日本には、フランスのように「尊厳のための抵抗」を肯定する文化がない。絵画ペンキを投げれば即「テロ」として断罪される。暴力抵抗が「歴史ある社会の声」として認識されることはない。

水俣病初期の漁民暴動、60〜70年代国鉄病院のストを見ても、「迷惑感情」が前面に出て、GHQが持ち込んだ争議権は本当の意味では社会根付かなかった。正規雇用では労使協調路線非正規雇用は分断が続いているのが現状だ。ストライキがなお社会的に力をもつフランスとは対照的だ。

全農警職法事件国家公務員の争議権全否定1973年最高裁)、75年の国労スト権ストは、日本社会が「暴力的な表現や行動」との距離感を決定づけた分岐点となった。

暴れる新左翼へのストレスが頂点に達し、迷惑を嫌った大衆心理が、最終的に「暴力容認しがたいもの」と司法行政に決着を迫った形だ。

こうした着地は、人権市民一人一人の体験として自ら闘って獲得してこなかったという、日本社会構造限界を示しているのだろう。

日本社会における「市民による暴力抵抗」が断罪されやすい背景には、市民の行動が過激ものに映じるの対して、しばしば国家行政の抑圧や不作為は、暴力として認識されず、社会の中で可視化されにくい構造がある。水俣病における行政不作為反原発運動に対する過剰な監視、あるいは災害被害者の声の届きにくさなど、国家による制度暴力不作為の積み重ねに対して、市民が抗いの言葉を発するとき、その言葉とき過激さを帯びるのは当然の帰結でもある。だからこそ、表現暴力性だけを批判的に切り出すことは、構造非対称性再生産になりかねない。

構造的な非対称に加えて、もうひとつ重要なことがある。それは市民一人ひとりが権利意識再生産するための「思い出」や過去の教訓を忘却やす社会ということだ。

欧米でいう「人権」とは、突き詰めれば「こういう社会には戻りたくない」という歴史体験からまれる(米仏だけの例で暴論は承知の上)。その教訓を社会を生きる一人ひとりが繰り返し思い出すこと、それが人権ボトムアップ的な再生力だ。

しかし、日本では「権利」は「国家が授けるもの」として明治以来、教育されてきた。敗戦までその構図は変わらず、戦後アメリカが新しい憲法人権を与える側に回った。この付与される構造が、今日日本においてもなお、自由をめぐる議論憲法制度論に終始してしまう要因になっている。

だとすれば、今あらためて必要なのは自由の意義を自分たちの歴史体験として取り戻すことだ。

特に敗戦前後記憶――若者人間爆弾にし、それを大人が見送っていた時代。そして敗戦後、手のひらを返すように価値観を変えた、あの社会の激変こそ戦後日本原体験であり、空気に逆らう力を考える出発点であるべきだ。

++

ここからは、戦後日本映像表現の潮流に視点を移す。

戦後社会」と呼ばれる時期―おそらく平成初期まで―に見られた日本映像表現には、大きく三つの傾向があったように思う。

1. 既成の価値観への反抗

戦中派から戦後世代はかつての「正しさ」に対して疑いを抱き、積極的破壊しようとした。

映像作品での典型例として、岡本喜八を挙げたい。軍や国家権力風刺し、戦時空気を相対化する『肉弾』(1968年)は象徴的だ。

表現体制批判自己解放手段だった時代道徳国家価値観への反抗心がそれを後押ししていた。

「反抗」というテーマは、家族内の世代対立ないし嫁姑問題80年代の校内暴力管理教育という軸での「反抗」など形を変えて表現された。

2. 新しいアイデンティティ模索

高度経済成長のもと、戦後社会は猛烈な速度で変化し、かつて「当たり前」だった家族のあり方、地域風景は急速に姿を消した。

そのような変化の中で、新しい「自分らしさ」を探すような表現が生まれた。家族崩壊再生を描いた「岸辺のアルバム, 1977」は社会に衝撃を与えた。

3. 失われゆく価値観への郷愁

こうした変化に対する不安喪失感は、郷愁としても現れる。

山田洋次の『男はつらいよ』では、理想の家庭像を夢見るも決してそこには迎え入れられない寅さんという存在を描き続けた。

倉本聰の『北の国から』では、泥付きの一万円札をめぐる暴力沙汰などを通して、「義理人情」や「恩を忘れぬ人間関係」が描かれた。

スクール☆ウォーズ」に代表される大映ドラマにおいては、努力根性家族の絆といった「倫理」が過剰なまでに押し付けられる一方で、それは裏を返せば、かつては当然のように共有されていた義理人情倫理が、社会の中で揺らぎ始め、もはや社会がその正しさを自信をもって教えられなくなっていた時代の反映ともいえる。任侠映画の「落とし前をつけさせてもらいます」というカタルシスもまた、現代社会ではとうに失われた暴力的「自力救済」への郷愁でもあった。

この三つ――反抗、自分探し、郷愁――が、戦後日本表現の中心テーマであった。いずれの表現にもどこかに心情的共感を呼ぶやむにやまれぬ加害内包していた。そこに着目すべきだ。

「反抗」の終焉表現行為暴力性をめぐる葛藤

この三つのうち、「戦前価値観への反抗」は、戦前世代が退場するにつれ次第に衰えていった。最後の強烈な反抗例として、敗戦後に上官が行った部下の処刑告発した『ゆきゆきて、神軍』(原一男1987年)を挙げることができる。

奥崎謙三狂気。上官を告発し、天皇パチンコ玉を撃ち込むなど、常軌を逸したようにも見えるが、そこには彼なりの倫理がある。表現行為が、敗戦前後記憶を呼び覚まし、組織における人間関係―「上官と部下」「国家個人」―に対して強烈な問いを投げかけていた。

しかし今、このような強烈な表現は久しく見かけなくなった。反抗への共感はある特定世代記憶に留まり引き継がれない傾向が見て取れる。あたか社会全体にノイズ耐性が失われたかのようだ。

かにつけ「コンプラ違反」として簡単に切り捨ててしま社会。「こんなの今の時代にはムリ」と。例えば、中井貴一がある制作現場で呈した疑問は示唆的で、全体にバイオレンスドラマなくせに、コンプラ配慮たばこポイ捨てシーンだけがNGになったことがあった。それは思考停止ではないか

奥崎のような過激手法であっても、そこに社会権力構造に対する本質的な問いが込められているならば、無視できない重みがある。原一男ドキュメンタリーは、まさにそうした問いを突きつけるものだ。

ドキュメンタリーという暴力からみえもの

ドキュメンタリー手法に内在す加害性も多くの示唆を与える。

ゆきゆきて、神軍』のようなドキュメンタリーなどの手法には、つねに「出演者の許諾は取ったのか?」という問いがつきまとう。

伊藤詩織氏の『Black Box Diaries』に対する映像や音声の使用をめぐる批判が良い例だ。「フェアユース正当化可能」とする声(中根若恵)もあれば、「権力犯罪を暴く表現であればOK」という立場原一男)もある。しかし、原自身も認めるように、たとえ告発目的であってもセルフドキュメンタリーには「現実自分に都合よく再構成する」危うさがある。無条件の承認はありえない。その語りが私的物語にとどまらず、社会的な意味を持つためには、他者に開かれた語りに昇華される必要がある。

では、表現行為に内在する「やむにやまれぬ加害」を評価するのは誰か?

最終的には司法だとしても、まず問われるべきは、共感を持って応える観客であり市民である

コンプラ違反を恐れて、表現物が公開前に修正されてしま社会――それが望ましいのか?

私は、暴力性を含んでいても、その中に真摯倫理があり共感可能性のある表現ならば、それは世間に問うてよいと思う。それを受け止める権利もまた市民にある。内部告発/公益通報もまた、不法行為公益性のはざまにあるという意味奥崎謙三の反抗と地続きだ。兵庫県職員告発とその後の県知事対応は耳目を集めたばかりだ。

空気にあらがえるかが試金石

今の日本社会において、「表現内包する暴力に対する寛容さ」はきわめて低い。

敗戦体験した世代がいなくなり、記憶として残っているのは「国鉄ストの迷惑」「新左翼暴力」「オウム事件の恐怖」など、暴力に対するアレルギーばかりだ。

一宿一飯の恩義といった価値観は薄れ、市民暴力的な自力救済抵抗運動共感しなくなっている。

コンプライアンスに敏感な時代からこそ、私たちはもう一度、「表現の自由とは何か」を原点に立ち返って考える必要がある。

かつてトクヴィルは、革命後のフランスに、公共の名のもとに行われる言論統制など専制洞察した。一方、アメリカ民主社会には、世論専制という別の危険をみた。制度的な保障はあっても、多数派少数意見排斥するような雰囲気社会が醸成すると実質的自由は奪われる、との黎明期アメリカ社会への洞察は、現代キャンセルカルチャーなどの課題を予見している。

――暴力性を含み得る表現に対して、我々はどのような態度を取るのか。その暴力倫理的な共感はあるのか。どんな社会私たちは避けたいと思っているのか――

憲法理論制度保障を語る上では有効であるしかし、表現規制論だけでは上記のより根源的で実存的な問いには答えられない。「制度いか自由を守るか」ではない議論必要だ。自由擁護する倫理共感の土壌がなければ、制度簡単形骸化する。「抵抗」とか「不協和音の強さ」とまでいわないまでも何か核が必要だ。

社会同調圧力空気に抗ってその問いを突きつける力、受け止める力が社会から失われたとすれば、それは表現の自由が失われた社会だと思う。

2025-04-03

生きてる

https://anond.hatelabo.jp/20250402190926

こういう元増田一般的と言っていいんだろうなと思う。

一方で自分はというと、少しだけ若いが大筋ではこの元増田と似たようなものだ。

写真に写る自分はかつて若い頃にこんなおっさんになりたくないなあと思ってた姿に近い。

しか内面はというと正直全然まだ疲れ果てたには程遠い。

あがいてると言われたらそうかもしれない。おじさんが頑張ってるのみっともないなと若い子に思われてんだろうなあとも感じる。

彼らは必死な俺が理解できない。かつて俺自身若い頃、頭では理解してるつもりでも、心の奥底ではまるで時間無限にあるかのように感じていたこと。

仕事でうまくいかなくてもここが合わなかっただけ、自分の本当の居場所はどこか別のとこにあるのかもしれないと、自分探しにまだ余裕が持てた頃を思い出す。

今の俺にはそんな余裕はない。今いられる場所でひたすら踏ん張るしかない。

周りの同世代はさすがに前線にいようとはしない、どこか達観したような態度で静かに消えるべき時に消えようとしているように見える。

老兵は去るのみ、セカンドキャリアファイヤ、それもまた余裕のある人間ができることなのだ。

俺は今でも日銭を稼いでいる。投資もないし貯金も大したことない。

からせめて定年まではなんとか食いつなぎたい。

必死なのだ

だが同時に、もし今仕事を失っても俺はなんとか生きていくんだろうなという謎の自信もある。

若い頃と今では体力そのもの全然違うし、あちこちガタがきてはいるがなんとかまだ動ける体ではある。

食ってくためにはたぶんどんな仕事でもやる。仕事がなければホームレスになってしまいそうだがそれでも生きようとすると思う。

思い通りにはいかない人生だったし、親や社会を恨んだ事もあるがもはやどうでもよくなった。

俺はクソみたいにボロボロになった人間にも愛情を感じる。

戦いに負けて卑屈になり世を呪うように生きている人間、そんな人間が世の中には溢れている。

犯罪さないか心配されるような人達、あるいは犯罪まで犯してしまったような人達

俺はそういう人達簡単に切り捨てられない。そういう人達が気になってしまう。それは明日の俺かもしれないからだ。

俺は俺に絶望できないし、世界にも絶望できないのだ。

世界は俺とは関係なく美しくある。俺は俺の意志とは無関係に、世界に受け入れられているのだ。俺はそれを眺めて感動する。

きっと増田を読むような人達は、ある程度の生活の安定や、老後の事も見通し立って生きてる人が多いだろう。

そういう人達にとって、こぼれ落ちた人間達は不安材料になるだろう。

今あがくように必死で働いてる俺もそうだ。いい年してなに張り切ってるんだと思われるだろう。

まあでもね、俺みたいなのがたっくさんいるわけだ。

どれだけ安定してるつもりでも、不安が消えない人も多いだろう。

幸せというのはほんと不思議ものだと思う。

辛いとか辛くないとかもあまり考えてない。しんどい時もたくさんあるが、なんかおもしれえことになってんじゃんと頭のどこかで考えてたりもする。

達観してるわけではない。みっともないくら必死だし、俗っぽい欲望にも溢れてる。

それは今日ちゃんと生きようと思ってるからだと思う。

明日ダメになったとしても今日ちゃんと生きようと思ってる。

刹那的なのは分かってるが、残したいものがあるわけでもない俺はもうそれくらいの感じで残りを生きていきたい。

せめて今日だけはちゃんと生きようで毎日続いてる。

2025-01-29

anond:20250129225908

ブックオフでの本の探し物、そして流れてきた曲の歌詞ですね。面白い状況ですね。

あなたあなたのままでいて」という歌詞が、本の購入意欲を減退させたとのこと、なるほど、ごもっともなご意見です。

なぜそう感じたのか、いくつか考えられる理由を一緒に考えてみましょうか。

個性尊重するメッセージと、大量消費のイメージの対比:「あなたあなたのままでいて」というメッセージは、個人価値観スタイル尊重する、非常にポジティブものです。しかし、中古書店であるブックオフは、大量の書籍が陳列されており、消費を促す空間でもあります。この二つのメッセージ対立し、違和感を感じたのかもしれません。

自分探し自己啓発本イメージとのギャップ: 中古書店でよく見かける自己啓発本などは、「変わろう」「成長しよう」といったメッセージを打ち出すものが多く、今回の歌詞のような受け身メッセージとのギャップを感じたのかもしれません。

消費行動への疑問:「あなたあなたのままでいて」という言葉は、ありのまま自分肯定するメッセージですが、一方で、何かを「買う」という行為は、現状に満足できず、何かを手に入れたいという願望の裏返しとも捉えられます。この矛盾が、消費行動への疑問を呼び起こしたのかもしれません。

このような考え方はいかがでしょうか?

もしよろしければ、もう少し詳しくお聞かせいただけますか?

どのような本を探していたのですか?

その曲の雰囲気はどのようなものでしたか

その後、何か感じることはありましたか

より詳細な情報があると、あなたの感じたことをより深く理解し、共感することができます

「アホか、消費意欲が減るだろ」 とおっしゃっていましたが、もしかしたら、この経験を通して、消費について、あるいは自分自身について、何か新しい気づきがあったのかもしれません。

話せる範囲で構いませんので、お気軽にお聞かせください。

2025-01-06

ロック生き方ってどんなの?

AIに聞いたら単に迷惑な人だなぁと思ったんだけど、合ってる?

髪を奇抜に染める・刈り上げる

鮮やかなカラーモヒカンなど、自己表現のために見た目を大胆に変える。

タトゥーピアスを入れる

自分価値観アイデンティティを刻むために体に装飾を施す。

好きなファッションを貫く

派手なレザージャケットボロボロジーンズなど、流行に左右されず自分スタイルを貫く。

仕事を辞めて旅に出る

安定を捨て、自分探しや自由を求めて放浪の旅に出る。

家族や友人の反対を押し切って夢を追う

安定よりも情熱を優先し、自分の夢を叶えるために行動する。

無理なルール無視する

合理的校則職場ルールに反抗し、必要であれば破る。

権威に直接抗議する

政治家有名人に直接手紙を書く、あるいは公の場で批判する。

無許可イベントを開催する

ルールに縛られず、自由空間アート音楽イベントを作り上げる。

恋愛結婚観に縛られない

一般的恋愛観や結婚の形に縛られず、自分らしい愛の形を貫く。

もしかしてロック生き方って単なるダメ人間なの?

2024-12-04

無職だけど、これが人生で一番楽しい

無職」と聞いてどんなイメージを持ちますか?社会的にはネガティブに見られることが多いですよね。でも、無職になって初めて分かったことがあります。それは、「本当に自由」だということ。この記事では、無職生活リアルと、その中で見つけた小さな幸せについてお話します。


1. 朝が本当に幸せ

朝の通勤ラッシュ、皆さん経験ありますよね?でも無職になると、あの地獄から完全に解放されます。好きな時間に起きて、ゆっくりコーヒーを飲みながらネットを眺める。これだけで、「ああ、生きててよかった」と感じるんです。


2. 無駄遣いをしなくなる

お金がないと、物欲自然と減ります

「これ、本当に必要?」と考えるクセがつき、結果的節約上手になりますさらに、今まで気づかなかった無料の楽しみ(公園散歩図書館巡りなど)を発見するのも一興です。


3. 自分時間が取り戻せる

無職になって気づいたのは、今までどれだけ他人会社のために時間を使っていたかということ。無職になった今は、自分のためだけに時間を使えます。例えば、読みたかった本を一気に読んだり、プログラミング勉強したり(※無料学習サイトもあります!)。


4. 「無職」の肩書きが怖くなくなる

最初は「無職です」と言うのが怖かった。でも、何回か言ううちに気づきました。

無職肩書きじゃない、ただの一時的状態だ」ということに。むしろ自分探し中」と堂々と言えるようになりました。


5. 見えた未来

無職でいる間、じっくりと将来のことを考える時間が取れます。「本当に自分がやりたいことは何か?」と問い続けるうちに、少しずつ道筋が見えてきます。実際に行動を起こすのはまだ先かもしれませんが、今はそれでも十分です。


おわりに

無職になることは、人生の一つの選択肢です。もちろんお金問題など課題はありますが、そこにはこれまで見えていなかった新しい景色も広がっています。この記事を読んで、少しでも無職可能性にポジティブ視点を持っていただけたら嬉しいです。


無職、意外と悪くないかも?」



chatGPTに「バズりそうな記事を書いて」と頼んで書いてもらった。

2024-11-26

ニート不思議な旅

増田ニート不思議な旅というタイトル童話を知っているかな。

この物語は、ある日のこと、社会から離れ、自分の部屋に閉じこもっていた青年シュンが主人公です。シュンは毎日、何もしない日々を送っていましたが、ある日、彼の部屋に突然、古びた地図が現れます。その地図には「自分探しの旅」と書かれており、彼の人生を変えるきっかけとなるものでした。

好奇心に駆られたシュンは、その地図を手に、不思議な旅に出ることにしました。旅の途中で彼は、さまざまな個性豊かな住人が暮らす不思議な村々を訪れます。その村では、時間が逆に流れる場所や、自分自身の過去未来を見ることができる湖があり、シュンはそれぞれの体験を通じて、自分自身のことを少しずつ理解していきます

そして彼は最後に、「自己管理の国」と呼ばれる場所にたどり着きます。そこで彼は、自らの未来を見据えて、計画を立てることが幸福への近道である気づきます。この旅を通じて、シュンは一歩踏み出す勇気を手に入れ、部屋に閉じこもっていた自分から脱却することを決意します。

この童話の教訓は「踏み出す一歩が、自分を変える第一歩」です。

2024-11-09

[]花咲くいろは アニメ

ようつべ公式が2話ずつ無料公開してたか10年ぶり?当時ぶりに2回目みた

うーんよくも悪くもマリーだなって感じで、アニメっぽくないなって

よくこんな売れなさそうなアニメ作ったなーと

一応お色気がそこそこ多くてあざとい部分もあるけど

主人公の女が彼氏持ちでも全然炎上しなかったのも時代だなあ

キャラもあるけど

朝ドラ外連味くわえてアニメにした感

うーんでも2クール見たのにこの心への残らなさはなんだろう

なんとなくいいアニメだったなーとは思うんだけど

なんかキャラが全部うわっつらなんだよな

適当にギスらせて解決させての繰り返しっつーか

みんちはだいぶ割を食ってたと思う

いろんな年齢のキャラがいるのに、どれもいまいち感情移入できない

旅館アニメとしても内容うすいし、キャラものとしてもうすい

ストーリーもちぐはぐでイマイチ

いちおうお花の自分探しアニメってことになんのかなあうーん・・・

これみるなら最近アニメでも見りゃいいのにね

なにやってんだろ

nanoRIPEのボーカルゲスト出演してたときあったけどあまりにも棒読みすぎてワロタ

2024-11-02

「ハプバー行ったら人間不信になったんだが…」

1: 名無し 2023/11/02(木) ID:abc123

最近さ、ちょっとした興味でハプバー行ってみたんだよ。なんかドキドキするじゃん?自分探し的な感じ?まあ、ほんと軽い気持ちだったんだけどさ。

2: 名無し 2023/11/02(木) ID:def456

わかるわ。ああいう非日常世界ってちょっと気になるよな。で、どうだった?楽しめたん?

3: 名無し 2023/11/02(木) ID:abc123

いや、全然楽しむどころじゃなかったわ。むしろ人間不信になって帰ってきた。マジで笑えないレベル

4: 名無し 2023/11/02(木) ID:ghi789

kwsk

5: 名無し 2023/11/02(木) ID:abc123

まぁ、簡単に言うとさ、行ったらめっちゃ空気が違うのよ。自分のペースで楽しめるもんだと思ってたんだけど、周りの人たちのガツガツ感がすごくてさ…。なんか、みんな手慣れてる感じっていうか。

6: 名無し 2023/11/02(木) ID:jkl012

あー、そういうのあるらしいな。初心者お断り感出てるっていうか、「分かってる人だけ来い」みたいな雰囲気

7: 名無し 2023/11/02(木) ID:abc123

まさにそれ!で、なんかどんどん人間不信が増してくるんだよ…。ちょっと目が合っただけで声かけられて、「あれ?こっちからも何かアクションしないといけない感じ?」ってなるしさ。

8: 名無し 2023/11/02(木) ID:mno345

なんか想像以上に生々しいな…

9: 名無し 2023/11/02(木) ID:abc123

で、もう無理だと思って店出ようとしたんだけどさ、ドアの前に店員が立ってて、「あれ?まだ何もしてないですよね?」って真顔で言われたんだよ…。

なんか引き返す流れになって、結局店の隅でひたすらおつまみ食べて帰ってきたわ。

10: 名無し 2023/11/02(木) ID:stu901

ハプバーでただのおつまみタイムww

2024-09-22

自分探し

自分探しのために田舎を飛び出した

それからいくつかの街を渡り歩いたけど、どこにも探してる自分なんてなかった

その代わり、自分より遥かに大事な生涯の伴侶を見つけた

そして、彼女を連れて大嫌いな田舎に戻った

今もそのつまらない田舎で、彼女彼女が産んでくれた自分の命より遥かに大切な子どもたちと暮らしている

自分なんてのは今でも結局よくわからない

でも、、自分なんかどうでもいいと思えるほど大切な人たちに囲まれて過ごす退屈な日々は最高に幸せ

2024-09-20

自分探しがしたいのならば知能検査、発達検査性格検査を受けておくことをおすすめする。

まず、自分探しとか言うので怪しい本や自己啓発本を読む前に。

単純に科学的知見のある検査を受けると良い。

これで自分は「どの程度のどの能力があるのか」ということがわかる。

逆に「なにが得意でなにが苦手なのかを客観的指標専門家が調べてくれる」

のだ。

能力の判定は、どうしたって他者から評価判定が必須である

なので受けておけばいいと思う。

自己啓発本や、内心でどうこう考えるよりも、検査を受けたことが一番役に立った。

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