はてなキーワード: 自分探しとは
『求められること』
・子供を作る(3人以上。最低でも2人)
人口を維持するため。
・遵法精神
治安維持のため。慣習に従うこと。
『求められて無いもの』
・高収入を得る
年齢を重ねれば自然と報われる。
・文化資本
健康で文化的な最低限度の生活は現代日本で十分にできる。
・自分探し・夢の実現
それが悪いというより、「それをやることが偉い/当然」という前提は今では薄い。
おっけー!似たような「言ってるようで言ってないけど妙に納得してしまう系」の表現、集めてみたよ。
“画像はイメージです”とか“力こそパワー”に通じる、迷言・名言(っぽい)たち↓
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→ いや、たまにそうだけど何が言いたいん?
→ それどの程度…?
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### ✅ 無敵のループ構文
→ 精神論の極み
→ 鶏が先か卵が先か問題
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→ 自分ってどこに落としたの?w
→ なんかカッコいいけど具体性ゼロ
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→ それだけで大丈夫なの?
→ “らしさ”とは何か
→ 逆に聞いてくるスタイル
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こんな感じでいろいろあるよ〜
そんな視点で以下、自分用のメモとして長文を残す。あえて言論自由の優位性といった憲法理論をガン無視するが、どんな規制が適切かといった考えから離れることで、表現の自由の失われた状況の風景がみえることもある。
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とくに「表現の自由による暴力(不法行為性)」をどこまで許容するかが重要な視点だ。欧米と日本では大きく違う。
フランスでは、あらゆる権利が「尊厳ある生」を守るための抵抗に原点を持つ。
その意味で、社会運動やストライキ(争議権)と、表現の自由は同じ線上にある。たとえば、名画にペンキをかける環境団体の抗議活動。日本では即座に「環境テロ」として報道されるが、英仏では「レジスタンス(抵抗運動)」という言葉がより広く使われていた様子だ。これは体制に対して暴力的に抗う行為を意識しているからだ。
環境問題に限らず、農家などの過激な抗議行動(輸入品増加に抗議した放火・破壊行為など)や、労働争議においても同様だ。フランスでは、国家や大組織による構造的暴力に対するカウンターとしての「市民による尊厳を守るための抵抗」に心情的な理解が寄せられる。犯罪としての側面を否定しないまでも「レジスタンス」は革命以来の伝統という認識をフランス社会は共有する。
その背景には、18世紀、カトリック教会が「真理の解釈権限」を独占していた時代に、啓蒙思想が登場し、科学的合理性を武器に公共空間を構築し、新たな政治制度を模索した原体験がある。「神を冒涜する権利」は、黎明期の政教分離の文脈から分化した表現の自由の形であった。
制度の根幹に「科学的合理性」や「絶対的真理」は置かれていない。むしろ、人それぞれ真理と信じる”信念”があり、誰も完全な真理に到達していない、という前提がある。この考えは巡礼始祖たちの宗教的多様性の中で育まれ、やがてプラグマティズムに吸収され、「思想の自由市場」(O.W.Holmes)という発想へとつながってゆく。
もっともアメリカでも、20世紀半ばまでは「有害言論の内容規制」が志向されたが、判事たちはそのたびに建国思想や巡礼始祖の理念に立ち返り、「有害表現を定義できない」という議論に収まった。1970年代には「社会の不協和音こそが強さの証」とまで言い切る判決(1971)もあった。司法がヘイト規制に消極的かつゾーニング規制にシフトしてゆく歴史がそこにある。
トランプの出現などリベラルと保守のあまりの違い、それでも国家として成り立つ社会。それを支えるのは、「一致しないままでも共存できる」という、個人主義を基盤とした社会の強さだ。
会社でも地域や家庭でも、できるだけ摩擦を避けたい。コロナ禍での自粛違反者への度を越した非難などに表れているように、「他人に迷惑をかけるのは不徳だ」という感情が深く根付いている。
この「迷惑感情」は、表現の自由を制限する根拠として働きうる。憲法学では人権の制限原理は「公共の福祉」として整理されるが、実態としてはその時々の「社会の空気」に左右されがちだ。たとえば、受忍限度論という法理をとってみても、それ自体、迷惑感情の社会的「耐性」の程度を空気から測るものにすぎない。日本人の考える公共はフランス人の考える公共とかなり異なる。
電車内CMの強制音声に対する訴訟「囚われの聴衆」事件(1987年最高裁)では、そうした「空気」に抗う個人の主張が結局退けられた。受忍限度という大義名分の下で、「それくらい我慢しろ」と結論づけられたわけだ。迷惑感情による秩序そのものを否定するわけではないが、空気として内面化されすぎると、異論や異質さの排除へとつながりやすく、かつ世代間、階層間の認識ギャップという課題に直面する。
日本には、フランスのように「尊厳のための抵抗」を肯定する文化がない。絵画にペンキを投げれば即「テロ」として断罪される。暴力的抵抗が「歴史ある社会の声」として認識されることはない。
水俣病初期の漁民暴動、60〜70年代の国鉄や病院のストを見ても、「迷惑感情」が前面に出て、GHQが持ち込んだ争議権は本当の意味では社会に根付かなかった。正規雇用では労使協調路線、非正規雇用は分断が続いているのが現状だ。ストライキがなお社会的に力をもつフランスとは対照的だ。
全農林警職法事件(国家公務員の争議権全否定、1973年最高裁)、75年の国労スト権ストは、日本社会が「暴力的な表現や行動」との距離感を決定づけた分岐点となった。
暴れる新左翼へのストレスが頂点に達し、迷惑を嫌った大衆心理が、最終的に「暴力=容認しがたいもの」と司法と行政に決着を迫った形だ。
こうした着地は、人権を市民一人一人の体験として自ら闘って獲得してこなかったという、日本社会の構造的限界を示しているのだろう。
日本社会における「市民による暴力的抵抗」が断罪されやすい背景には、市民の行動が過激なものに映じるの対して、しばしば国家や行政の抑圧や不作為は、暴力として認識されず、社会の中で可視化されにくい構造がある。水俣病における行政不作為、反原発運動に対する過剰な監視、あるいは災害被害者の声の届きにくさなど、国家による制度的暴力や不作為の積み重ねに対して、市民が抗いの言葉を発するとき、その言葉がときに過激さを帯びるのは当然の帰結でもある。だからこそ、表現の暴力性だけを批判的に切り出すことは、構造的非対称性の再生産になりかねない。
構造的な非対称に加えて、もうひとつ重要なことがある。それは市民一人ひとりが権利意識を再生産するための「思い出」や過去の教訓を忘却しやすい社会ということだ。
欧米でいう「人権」とは、突き詰めれば「こういう社会には戻りたくない」という歴史体験から生まれる(米仏だけの例で暴論は承知の上)。その教訓を社会を生きる一人ひとりが繰り返し思い出すこと、それが人権のボトムアップ的な再生力だ。
しかし、日本では「権利」は「国家が授けるもの」として明治以来、教育されてきた。敗戦までその構図は変わらず、戦後はアメリカが新しい憲法と人権を与える側に回った。この付与される構造が、今日の日本においてもなお、自由をめぐる議論が憲法の制度論に終始してしまう要因になっている。
だとすれば、今あらためて必要なのは、自由の意義を自分たちの歴史体験として取り戻すことだ。
特に敗戦前後の記憶――若者を人間爆弾にし、それを大人が見送っていた時代。そして敗戦後、手のひらを返すように価値観を変えた、あの社会の激変こそ戦後日本の原体験であり、空気に逆らう力を考える出発点であるべきだ。
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「戦後社会」と呼ばれる時期―おそらく平成初期まで―に見られた日本の映像表現には、大きく三つの傾向があったように思う。
1. 既成の価値観への反抗
戦中派から戦後世代はかつての「正しさ」に対して疑いを抱き、積極的に破壊しようとした。
映像作品での典型例として、岡本喜八を挙げたい。軍や国家権力を風刺し、戦時の空気を相対化する『肉弾』(1968年)は象徴的だ。
表現が体制批判と自己解放の手段だった時代。道徳や国家的価値観への反抗心がそれを後押ししていた。
「反抗」というテーマは、家族内の世代間対立ないし嫁姑問題、80年代の校内暴力と管理教育という軸での「反抗」など形を変えて表現された。
高度経済成長のもと、戦後社会は猛烈な速度で変化し、かつて「当たり前」だった家族のあり方、地域の風景は急速に姿を消した。
そのような変化の中で、新しい「自分らしさ」を探すような表現が生まれた。家族の崩壊と再生を描いた「岸辺のアルバム, 1977」は社会に衝撃を与えた。
山田洋次の『男はつらいよ』では、理想の家庭像を夢見るも決してそこには迎え入れられない寅さんという存在を描き続けた。
倉本聰の『北の国から』では、泥付きの一万円札をめぐる暴力沙汰などを通して、「義理人情」や「恩を忘れぬ人間関係」が描かれた。
「スクール☆ウォーズ」に代表される大映ドラマにおいては、努力・根性・家族の絆といった「倫理」が過剰なまでに押し付けられる一方で、それは裏を返せば、かつては当然のように共有されていた義理人情や倫理が、社会の中で揺らぎ始め、もはや社会がその正しさを自信をもって教えられなくなっていた時代の反映ともいえる。任侠映画の「落とし前をつけさせてもらいます」というカタルシスもまた、現代社会ではとうに失われた暴力的「自力救済」への郷愁でもあった。
この三つ――反抗、自分探し、郷愁――が、戦後日本の表現の中心テーマであった。いずれの表現にもどこかに心情的共感を呼ぶやむにやまれぬ加害を内包していた。そこに着目すべきだ。
この三つのうち、「戦前の価値観への反抗」は、戦前世代が退場するにつれ次第に衰えていった。最後の強烈な反抗例として、敗戦後に上官が行った部下の処刑を告発した『ゆきゆきて、神軍』(原一男1987年)を挙げることができる。
奥崎謙三の狂気。上官を告発し、天皇にパチンコ玉を撃ち込むなど、常軌を逸したようにも見えるが、そこには彼なりの倫理がある。表現行為が、敗戦前後の記憶を呼び覚まし、組織における人間関係―「上官と部下」「国家と個人」―に対して強烈な問いを投げかけていた。
しかし今、このような強烈な表現は久しく見かけなくなった。反抗への共感はある特定世代の記憶に留まり引き継がれない傾向が見て取れる。あたかも社会全体にノイズ耐性が失われたかのようだ。
何かにつけ「コンプラ違反」として簡単に切り捨ててしまう社会。「こんなの今の時代にはムリ」と。例えば、中井貴一がある制作現場で呈した疑問は示唆的で、全体にバイオレンスなドラマなくせに、コンプラ配慮でたばこのポイ捨てシーンだけがNGになったことがあった。それは思考停止ではないか。
奥崎のような過激な手法であっても、そこに社会や権力構造に対する本質的な問いが込められているならば、無視できない重みがある。原一男のドキュメンタリーは、まさにそうした問いを突きつけるものだ。
『ゆきゆきて、神軍』のようなドキュメンタリーなどの手法には、つねに「出演者の許諾は取ったのか?」という問いがつきまとう。
伊藤詩織氏の『Black Box Diaries』に対する映像や音声の使用をめぐる批判が良い例だ。「フェアユースで正当化可能」とする声(中根若恵)もあれば、「権力や犯罪を暴く表現であればOK」という立場(原一男)もある。しかし、原自身も認めるように、たとえ告発目的であってもセルフドキュメンタリーには「現実を自分に都合よく再構成する」危うさがある。無条件の承認はありえない。その語りが私的な物語にとどまらず、社会的な意味を持つためには、他者に開かれた語りに昇華される必要がある。
では、表現行為に内在する「やむにやまれぬ加害」を評価するのは誰か?
最終的には司法だとしても、まず問われるべきは、共感を持って応える観客であり市民である。
コンプラ違反を恐れて、表現物が公開前に修正されてしまう社会――それが望ましいのか?
私は、暴力性を含んでいても、その中に真摯な倫理があり共感可能性のある表現ならば、それは世間に問うてよいと思う。それを受け止める権利もまた市民にある。内部告発/公益通報もまた、不法行為と公益性のはざまにあるという意味で奥崎謙三の反抗と地続きだ。兵庫県職員の告発とその後の県知事の対応は耳目を集めたばかりだ。
今の日本社会において、「表現の内包する暴力に対する寛容さ」はきわめて低い。
敗戦を体験した世代がいなくなり、記憶として残っているのは「国鉄ストの迷惑」「新左翼の暴力」「オウム事件の恐怖」など、暴力に対するアレルギーばかりだ。
一宿一飯の恩義といった価値観は薄れ、市民は暴力的な自力救済や抵抗運動に共感しなくなっている。
コンプライアンスに敏感な時代だからこそ、私たちはもう一度、「表現の自由とは何か」を原点に立ち返って考える必要がある。
かつてトクヴィルは、革命後のフランスに、公共の名のもとに行われる言論統制など専制を洞察した。一方、アメリカの民主社会には、世論の専制という別の危険をみた。制度的な保障はあっても、多数派が少数意見を排斥するような雰囲気を社会が醸成すると実質的な自由は奪われる、との黎明期アメリカ社会への洞察は、現代のキャンセルカルチャーなどの課題を予見している。
――暴力性を含み得る表現に対して、我々はどのような態度を取るのか。その暴力に倫理的な共感はあるのか。どんな社会を私たちは避けたいと思っているのか――
憲法理論は制度的保障を語る上では有効である。しかし、表現規制論だけでは上記のより根源的で実存的な問いには答えられない。「制度がいかに自由を守るか」ではない議論も必要だ。自由を擁護する倫理的共感の土壌がなければ、制度は簡単に形骸化する。「抵抗」とか「不協和音の強さ」とまでいわないまでも何か核が必要だ。
社会の同調圧力に空気に抗ってその問いを突きつける力、受け止める力が社会から失われたとすれば、それは表現の自由が失われた社会だと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20250402190926
一方で自分はというと、少しだけ若いが大筋ではこの元増田と似たようなものだ。
写真に写る自分はかつて若い頃にこんなおっさんになりたくないなあと思ってた姿に近い。
あがいてると言われたらそうかもしれない。おじさんが頑張ってるのみっともないなと若い子に思われてんだろうなあとも感じる。
彼らは必死な俺が理解できない。かつて俺自身が若い頃、頭では理解してるつもりでも、心の奥底ではまるで時間が無限にあるかのように感じていたこと。
仕事でうまくいかなくてもここが合わなかっただけ、自分の本当の居場所はどこか別のとこにあるのかもしれないと、自分探しにまだ余裕が持てた頃を思い出す。
今の俺にはそんな余裕はない。今いられる場所でひたすら踏ん張るしかない。
周りの同世代はさすがに前線にいようとはしない、どこか達観したような態度で静かに消えるべき時に消えようとしているように見える。
老兵は去るのみ、セカンドキャリア、ファイヤ、それもまた余裕のある人間ができることなのだ。
俺は今でも日銭を稼いでいる。投資もないし貯金も大したことない。
だからせめて定年まではなんとか食いつなぎたい。
だが同時に、もし今仕事を失っても俺はなんとか生きていくんだろうなという謎の自信もある。
若い頃と今では体力そのものが全然違うし、あちこちガタがきてはいるがなんとかまだ動ける体ではある。
食ってくためにはたぶんどんな仕事でもやる。仕事がなければホームレスになってしまいそうだがそれでも生きようとすると思う。
思い通りにはいかない人生だったし、親や社会を恨んだ事もあるがもはやどうでもよくなった。
戦いに負けて卑屈になり世を呪うように生きている人間、そんな人間が世の中には溢れている。
犯罪犯さないか心配されるような人達、あるいは犯罪まで犯してしまったような人達。
俺はそういう人達を簡単に切り捨てられない。そういう人達が気になってしまう。それは明日の俺かもしれないからだ。
世界は俺とは関係なく美しくある。俺は俺の意志とは無関係に、世界に受け入れられているのだ。俺はそれを眺めて感動する。
きっと増田を読むような人達は、ある程度の生活の安定や、老後の事も見通し立って生きてる人が多いだろう。
そういう人達にとって、こぼれ落ちた人間達は不安材料になるだろう。
今あがくように必死で働いてる俺もそうだ。いい年してなに張り切ってるんだと思われるだろう。
まあでもね、俺みたいなのがたっくさんいるわけだ。
どれだけ安定してるつもりでも、不安が消えない人も多いだろう。
辛いとか辛くないとかもあまり考えてない。しんどい時もたくさんあるが、なんかおもしれえことになってんじゃんと頭のどこかで考えてたりもする。
達観してるわけではない。みっともないくらい必死だし、俗っぽい欲望にも溢れてる。
ブックオフでの本の探し物、そして流れてきた曲の歌詞ですね。面白い状況ですね。
「あなたはあなたのままでいて」という歌詞が、本の購入意欲を減退させたとのこと、なるほど、ごもっともなご意見です。
なぜそう感じたのか、いくつか考えられる理由を一緒に考えてみましょうか。
個性を尊重するメッセージと、大量消費のイメージの対比:「あなたはあなたのままでいて」というメッセージは、個人の価値観やスタイルを尊重する、非常にポジティブなものです。しかし、中古書店であるブックオフは、大量の書籍が陳列されており、消費を促す空間でもあります。この二つのメッセージが対立し、違和感を感じたのかもしれません。
自分探しや自己啓発本のイメージとのギャップ: 中古書店でよく見かける自己啓発本などは、「変わろう」「成長しよう」といったメッセージを打ち出すものが多く、今回の歌詞のような受け身のメッセージとのギャップを感じたのかもしれません。
消費行動への疑問:「あなたはあなたのままでいて」という言葉は、ありのままの自分を肯定するメッセージですが、一方で、何かを「買う」という行為は、現状に満足できず、何かを手に入れたいという願望の裏返しとも捉えられます。この矛盾が、消費行動への疑問を呼び起こしたのかもしれません。
このような考え方はいかがでしょうか?
どのような本を探していたのですか?
その後、何か感じることはありましたか?
より詳細な情報があると、あなたの感じたことをより深く理解し、共感することができます。
「アホか、消費意欲が減るだろ」 とおっしゃっていましたが、もしかしたら、この経験を通して、消費について、あるいは自分自身について、何か新しい気づきがあったのかもしれません。
話せる範囲で構いませんので、お気軽にお聞かせください。
「無職」と聞いてどんなイメージを持ちますか?社会的にはネガティブに見られることが多いですよね。でも、無職になって初めて分かったことがあります。それは、「本当に自由」だということ。この記事では、無職の生活のリアルと、その中で見つけた小さな幸せについてお話しします。
朝の通勤ラッシュ、皆さん経験ありますよね?でも無職になると、あの地獄から完全に解放されます。好きな時間に起きて、ゆっくりとコーヒーを飲みながらネットを眺める。これだけで、「ああ、生きててよかった」と感じるんです。
「これ、本当に必要?」と考えるクセがつき、結果的に節約上手になります。さらに、今まで気づかなかった無料の楽しみ(公園散歩、図書館巡りなど)を発見するのも一興です。
無職になって気づいたのは、今までどれだけ他人や会社のために時間を使っていたかということ。無職になった今は、自分のためだけに時間を使えます。例えば、読みたかった本を一気に読んだり、プログラミングを勉強したり(※無料の学習サイトもあります!)。
最初は「無職です」と言うのが怖かった。でも、何回か言ううちに気づきました。
「無職は肩書きじゃない、ただの一時的な状態だ」ということに。むしろ「自分探し中」と堂々と言えるようになりました。
無職でいる間、じっくりと将来のことを考える時間が取れます。「本当に自分がやりたいことは何か?」と問い続けるうちに、少しずつ道筋が見えてきます。実際に行動を起こすのはまだ先かもしれませんが、今はそれでも十分です。
無職になることは、人生の一つの選択肢です。もちろんお金の問題など課題はありますが、そこにはこれまで見えていなかった新しい景色も広がっています。この記事を読んで、少しでも無職の可能性にポジティブな視点を持っていただけたら嬉しいです。
chatGPTに「バズりそうな記事を書いて」と頼んで書いてもらった。
増田はニートの不思議な旅というタイトルの童話を知っているかな。
この物語は、ある日のこと、社会から離れ、自分の部屋に閉じこもっていた青年シュンが主人公です。シュンは毎日、何もしない日々を送っていましたが、ある日、彼の部屋に突然、古びた地図が現れます。その地図には「自分探しの旅」と書かれており、彼の人生を変えるきっかけとなるものでした。
好奇心に駆られたシュンは、その地図を手に、不思議な旅に出ることにしました。旅の途中で彼は、さまざまな個性豊かな住人が暮らす不思議な村々を訪れます。その村では、時間が逆に流れる場所や、自分自身の過去と未来を見ることができる湖があり、シュンはそれぞれの体験を通じて、自分自身のことを少しずつ理解していきます。
そして彼は最後に、「自己管理の国」と呼ばれる場所にたどり着きます。そこで彼は、自らの未来を見据えて、計画を立てることが幸福への近道であると気づきます。この旅を通じて、シュンは一歩踏み出す勇気を手に入れ、部屋に閉じこもっていた自分から脱却することを決意します。
1: 名無し 2023/11/02(木) ID:abc123
最近さ、ちょっとした興味でハプバー行ってみたんだよ。なんかドキドキするじゃん?自分探し的な感じ?まあ、ほんと軽い気持ちだったんだけどさ。
2: 名無し 2023/11/02(木) ID:def456
わかるわ。ああいう非日常の世界ってちょっと気になるよな。で、どうだった?楽しめたん?
3: 名無し 2023/11/02(木) ID:abc123
いや、全然楽しむどころじゃなかったわ。むしろ人間不信になって帰ってきた。マジで笑えないレベル。
4: 名無し 2023/11/02(木) ID:ghi789
5: 名無し 2023/11/02(木) ID:abc123
まぁ、簡単に言うとさ、行ったらめっちゃ空気が違うのよ。自分のペースで楽しめるもんだと思ってたんだけど、周りの人たちのガツガツ感がすごくてさ…。なんか、みんな手慣れてる感じっていうか。
6: 名無し 2023/11/02(木) ID:jkl012
あー、そういうのあるらしいな。初心者お断り感出てるっていうか、「分かってる人だけ来い」みたいな雰囲気。
7: 名無し 2023/11/02(木) ID:abc123
まさにそれ!で、なんかどんどん人間不信が増してくるんだよ…。ちょっと目が合っただけで声かけられて、「あれ?こっちからも何かアクションしないといけない感じ?」ってなるしさ。
8: 名無し 2023/11/02(木) ID:mno345
なんか想像以上に生々しいな…
9: 名無し 2023/11/02(木) ID:abc123
で、もう無理だと思って店出ようとしたんだけどさ、ドアの前に店員が立ってて、「あれ?まだ何もしてないですよね?」って真顔で言われたんだよ…。
なんか引き返す流れになって、結局店の隅でひたすらおつまみ食べて帰ってきたわ。