はてなキーワード: 自己啓発本とは
1. 「X(旧Twitter)は思想的植民地政策説」 → 140文字という制限が、思想を浅薄化させ、特定の価値観を強要する手段になっている可能性。
2. 「140文字で大衆のIQの低下に歯止めがかからない説」 → 短文での情報伝達が思考の短絡化を助長し、議論が深まらないまま炎上する現象の要因。
3. 「知的なKindle本は売れない。割に合わない説」 → 一般読者の知的好奇心よりも、エンタメや簡単な自己啓発本のほうが売れる現実。
4. 「日本の知的エリートは無能しかいない。彼らが大衆を説得することを諦め、傲慢になり大衆と変わらない存在になった説」 → 知識人層が本来持つべき「啓蒙する能力」を放棄し、自己満足に陥っている可能性。
5. 「平均的な有権者が無知なため、格差社会が広がっている説」 → 情報を適切に処理できない有権者が、富裕層に都合の良い政策を支持してしまう悪循環。
30歳過ぎたけど全然結婚したいとも恋人欲しいとも思ったことない 彼氏できたこともない、浮気相手になってたことくらいしか恋愛経験がない
処女だけどそれにコンプレックス感じることもあんまりない、皆無とは言わないけど
1ミリでも妊娠の可能性が生じるのが嫌すぎる ゴムだって避妊率100%じゃないらしいし
結婚したいと思える人なら妊娠も良いかなと思うけど、結婚するかどうかも分かんない人とセックスすることをリスクだとしか思えないし、でも性行為を拒絶するって相手からしたらいい気持ちにならないだろうし
その辺の意見のすり合わせも想像するだけでめんどくさいから彼氏とかいいや、と思う 根本的に自己中心的で子供なんだろうね自分が
30過ぎて経験ないやつはおかしい、みたいな言説をツイッターで見かけたけど、まあ正しいだろうな 自分はおかしいし欠けてると思う
他人と何かを共有する努力ができないし、分かり合うための譲り合いとか、そういうのもしたいと思わない そういうところが幼くて碌な大人じゃない
でもこれが私の価値観だから、人に「おかしい」って言われるくらいじゃ変わんないんだよな
経験上、SNS活用しているスタートアップの代表さんはだいたい終わってます。
言ってることが薄っぺらい、口八丁、小さいサークルで仲良しこよし、信者集めて持ち上げて…
だとかその辺はどうでもよく別に問題だとも思いません。じゃあなんで終わってると思うのか?それはですね
表では頑張ってますアピールと共に誰にでもあてはまりそうな自己啓発本系投稿を繰り返し、裏では「今日会えますか?」みたいな女子達に下卑たメッセージを送る。こんなんばっかだからです。本垢でメッセージ送ってくる危機管理ガバガバな人もいますし、裏垢専用に別垢作って絡んでくる人も口調同じ、ちょっと尻尾振ったら聞いてもいない情報をペラペラ喋って自ら身バレしていく人がとっても多い。
もう笑っちゃうんだよね。「ここまで来れたのは皆さんのおかげです!!」とか言いながら、裏で「狂ったように行為に没頭できる相手が欲しかったんです笑」とか言ってるのさ。
そういうのとは無縁な、マトモなスタートアップ代表さんもいるように見えるけど、「マトモじゃない」人とSNSで絡んでるの見ると、あーこのひとも結局そうなのかな?と思うし、そうじゃないなら「関わる人間の見極めもできてないんだこのひと」とも思うので、結局だいたい終わってると感じるよね。
周りの人、もっと疑った方がいいよー?
後々、変な繋がりのせいで足引っ張られるの嫌でしょ?
じゃあね。
氷河期世代として社会に出てからずっと、人生はしんどいものだとばかり思っていた。
頑張っても報われない、無理をすればするほど体も心もすり減る。
だけど最近になって、そのつらさの大部分を和らげる方法を見つけた。
大げさに聞こえるかもしれないけど、誰にでも試せることだからシェアしてみる。
二十代のころは、体力に任せて仕事を押し切っていた。
でも三十代半ばになるとそうはいかなくなり、無気力やイライラ、集中力の欠如に悩まされた。
典型的に出ていたのはこんな症状だ。
• 朝起きられない
• 眠っても疲れが取れない
• 集中できず、気分が沈む
• 無駄に怒りっぽい
• 昼食後は頭が働かなくなる
• 運動するとすぐに膝や腰を痛める
• 休日はだらだらして終わる
自己啓発本やメンタル本も試したけど、結局は一時的な気休めにしかならなかった。
じゃあ何を変えるべきか。答えはシンプルで、「食生活」「運動」「規則正しい生活」だった。
これだけで午後のだるさが激減した。
続けていくと体力が戻り、気分も安定する。
運動を習慣にすると、不思議とイライラや不安に振り回されなくなる。
夜ふかしをやめて、朝は同じ時間に起きる。
午前中に集中タスクを片付け、午後は調整や打ち合わせに回す。
このサイクルに変えてから、無駄に時間を浪費して自己嫌悪に陥ることがなくなった。
効果はすぐに出た。
集中力が戻り、仕事での小さな成果が積み重なって自信になった。
以前はただ「つらい」としか思えなかった日常が、令和の今は意外と充実してきている。
• 食生活を整える
• 運動を習慣にする
この三つを軸にするだけで、心も体も立て直せる。
うちの部署に配属された新人の後輩女子がいる。22歳、名前は田中(仮名)。
第一印象は「うわ、めんどくさそうな子来たな」だった。
朝一でプロテイン飲んでる。昼休みにはサラダしか食べない。デスクには自己啓発本が3冊積まれてて、休憩時間にはKindleで読んでる。会話の端々に「アップデート」「アジャイル」「エンパワーメント」みたいな横文字が出てくる。
最初は正直、距離を置いていた。こういう子って、すぐに「先輩、もっと効率的なやり方があると思うんですが」とか言ってきそうじゃん?実際、1週間目にして「このExcelシート、もう少しマクロ組んだらもっと楽になりませんか?」って提案してきた時は、心の中で「はいはい、出た出た」って思った。
でも、その提案が的確すぎて。
私が手作業で2時間かけてやってた集計作業が、彼女のマクロで15分で終わるようになった。しかも、ミスもなくなった。
「田中すごいじゃん」って褒めたら、「いえいえ、まだまだです!もっと勉強しないと!」って言いながら、めっちゃ嬉しそうにニコニコしてる。
それからよく観察するようになった。
朝のプロテインは、実は朝食を取る時間がないから。一人暮らしで、朝は6時半に起きて、電車で1時間半かけて通勤してる。だから朝食代わりにプロテインを飲んでるだけだった。
昼のサラダも、お金がないからじゃなくて、単純に野菜が好きだから。「コンビニのサラダって、どれも美味しいんですよね!毎日違うの試してるんです!」って楽しそうに話してる。
自己啓発本も、「将来起業したくて」とか「キャリアアップのため」じゃなくて、「本を読んでる時が一番集中できるんです。通勤時間が長いので、有効活用したくて」という理由だった。
そして横文字も、別にカッコつけてるわけじゃなく、前の大学でそういう授業を受けてたから、自然と口に出るだけだった。
気づいたら、私の方が田中の話を聞くのが楽しみになってた。
「先輩、今度新しいカフェがオープンするらしいです!一緒に行きませんか?」
「先輩こそ、いつも優しく教えてくださってありがとうございます!」
こんな会話を交わしているうちに、ふと気づいた。
田中の「意識高い系」行動の全てが、別に誰かに見せつけるためじゃなく、彼女なりに一生懸命生きてる結果だったんだ。
そして、その一生懸命さが、なんだかとても愛おしく見えてきた。
「先輩、このプロジェクト、一緒にやりませんか?」
「いいよ」
「やったー!頑張ります!」
満面の笑顔でガッツポーズする田中を見ていると、私まで嬉しくなってくる。
最近、定時後に一緒にカフェに行くことが増えた。田中はいつも、今日あったことや、読んだ本の話や、将来の夢について熱心に話してくれる。
「先輩って、すごく聞き上手ですよね。話してると、なんだかすっきりするんです」
「そう?」
この前、田中が風邪で休んだ時、なんだかオフィスがすごく静かに感じた。田中のいない職場って、こんなにも物足りないものなのか。
「ご心配おかけしてすみません!明日には復活予定です!先輩に迷惑かけないよう、しっかり治します!」
こんな時でも、一生懸命で、健気で。
私、この子のこと、いつから「可愛い」って思うようになったんだろう。
最初は「意識高い系のめんどくさい後輩」だったはずなのに、今では「一生懸命で可愛い後輩」になってる。
でも、これって、単純に「後輩として可愛い」ってことだよね?
そうだよね?
はぁ……今日もまた、ディスプレイの光が目に染みる。残業時間は優に100時間を超え、手取りは雀の涙。これが、俺が夢見た「ITエンジニア」の現実かよ。コンピュータサイエンス?そんなもん、大学で経済学部を選んだ時点で縁遠い話だったな。
「未経験からエンジニアになれる!」なんて甘い言葉に釣られて、3ヶ月のプログラミングスクールを卒業したのが運の尽きだった。卒業と同時に紹介されたSES企業。社長はニコニコしながら「うちで経験積めば、すぐフリーランスで月100万も夢じゃない!」なんて言ってたっけ。あの時の俺は、純粋にそれを信じてた。バカみたいだろ?
客先常駐初日。自己紹介もそこそこに、「はい、これ今日中に終わらせてね」って渡されたのは、見たこともない言語とフレームワークで書かれたスパゲッティコードの改修依頼。隣の席の先輩は、俺の質問にも生返事。「自分で調べろ」って一言。いや、調べても分かんねーから聞いてんだろ!って言いたかったけど、言えるわけない。だって俺、未経験の文系エンジニアだもん。
欧米のエンジニアは云々、とかいう話、Xでよく見るよな。彼らは高給取りで、会社の中心で、最新技術をリードしてるって?そりゃあ、コンピュータサイエンスを専門に学んだエリート様方の話だろ。俺みたいな底辺SEとは住む世界が違う。日本じゃ、未経験の文系は「安くて文句言わない都合の良い労働力」でしかないんだよ。会社は俺たちみたいな駒を大量に仕入れて、客先に高値で売りつける。そして、俺たちに支払われるのは、最低限の生活費と、たまのボーナスと称した寸志だけ。
「もっと勉強しろ」って?分かってるよ、そんなこと。でも、毎日毎日、クソみたいなバグと格闘して、終電を逃し、休日も疲れて眠るだけの生活で、いつ勉強する時間があるんだよ。自己啓発本とかには「朝活しろ」とか書いてるけど、朝活する体力も精神力も、もう残ってねーんだよ。
この前なんて、客先のプロパーエンジニアに「君さ、本当にエンジニアなの?もっと勉強しないとダメだよ」って言われた。ぐうの音も出なかったぜ。だって、そのプロパーエンジニア様は、俺が徹夜で直したバグを、数時間でデバッグしてたからな。
ちくしょう、本当に悔しい。いつか、俺もあいつらみたいに、胸を張って「エンジニア」って言える日が来るんだろうか。いや、来ないんだろうな。俺は、今日も明日も、たぶんこれからもずっと、SESの歯車として、使い潰されるだけなんだろう。
せめて、この疲労困憊の体で、あと何年耐えられるかな。もしかしたら、明日にでも「向いてない」って言って会社辞めるかもしれない。そしたら、また次の「未経験」が俺の席に座って、同じ地獄を味わうんだろうな。日本のIT業界、本当にこれでいいのかよ。
そして、その為の努力もしていない俺は、おそらくその中でも下位に属するのでしょう。
「弱者男性」という言葉が流行り出してから、もう一年経ったのでしょうか。今日もXのおすすめ欄は手垢のついた男女対立煽りと二次元イラストを提供し続けてくれています。
俺はボタンを押せば餌がもらえると信じている猿のようにTLを更新し続けます。タチの悪いことに、餌は途切れる心配もありません。こういうのを「感情をハックされる」と言うらしいです。Xに書いてありました。
夜遅くに帰る時、飲み屋街の近くで、よく男と女の連れを目にします。手は大体恋人繋ぎか腰にやっているか。
俺はそれを見て、言い表しようもない悔しさ、焦燥感に駆られます。
その度に、頭の中で、必死に自分がこうでない理由をこねくり回すのです。
あまりにも繰り返したせいで、自分がモテない理由を考えることが得意になりました。
俺は怠け者だから。一人が好きだから。出不精だから。男の友達はいるから。本気を出せば。そのうちいつか。
高校も、卒業して入った職場も男社会で、およそ女性との喋り方など知りません。ましてや肌の色など。
そうなのでしょう。男性向けの自己啓発本は、全てこの二つを如何に手に入れるかという話題に終始しているように思います。
いや、それ以前に、XとYの染色体を持って生まれた以上、本能的に女を手にしたいと思うのです。
一生懸命考えた言い訳の数々は、一人で寝転がる狭いワンルームの中でしか通用しません。職場の先輩は、食事や見た目に気を遣って女の子を取っ替え引っ替えしています。まず見た目に無頓着な俺が女性の気を引ける訳がない。
そんなことは分かっている。それでも、モテるために努力できないのは、ただ俺が怠惰だから。それは、いつか怠惰でなくなる日が来たら、俺だって彼女の一人くらい作れるんだぞというみっともない保身と妄想、言い訳のかき揚げ。猫も食わないでしょう。
インスタのストーリーに上がっている、同期がかわいい彼女とディズニーを満喫している画像を見て、やりどころのない不満を覚えます。それが悔しさなのか、怒りなのか、焦りなのか、よくわかりません。
遊園地の類など、決して好きではないはずなのに。
コミュニケーションが苦手。とかく趣味がないので、会話デッキが成立しないのです。まさか休みの日はだらだらXを見て、時々ニコ動を見つつシコって寝るだけなどとは言えません。旅行が好きですが、鉄道趣味が高じて常人には引かれるルートばかり。これもデッキには入りません。
そのくせ出不精。家でゴロゴロしてる時間だけが唯一人生でじんわりとした幸福感を味わわせてくれます。
俺だって、夏は浴衣の彼女と花火を見にデートしていみたい。秋は温泉旅行に。冬は一つのこたつにでも入ってのんびり。春になったら花見にでも。
全部ソシャゲが叶えてくれました。あるいはその同人誌。もとより手に入らないものなので、安く手に入る代替品で十分酔えるのです。
弱者男性というのは、本来自分の様な人には用いるべきではないのでしょう。世の中には、自分より明確に「弱者」である人がいるのだから。
匿名ダイアリーを読んでいると、つくづく自分の環境は恵まれているのだなと感じます。少なくも衣食住に困ったことはありませんし、精神疾患も患っていません(おそらく)。
俺は、きっと弱者男性ですらない、ただ弱い男。
LUUP嫌ってそう
「ケーキの切れない非行少年たち」読んでもいないのに擦ってそう
「本当のフェミニスト」について熱弁してそう
県知事がクマの保護を求める電話をガチャ切りした話で気持ちよくなってそう
『サピエンス全史』を読んで賢くなった気でいそう
「逆張りしてるわけじゃないけどさ」と前置きしてから100%逆張りなこと言いそう
「自分、右とか左とかじゃないんで」って言いながら明らかに右に全力で寄ってそう
「マッチングアプリってなんか違うんだよね」とか言いながら実は登録済みっぽそう
「飲みニケーションも悪くなかった」とか言って後輩に説教してそう
「Z世代は繊細すぎる」と言いながら自分の意見に反論されるとめちゃくちゃキレそう
「子どもは外で遊ばせろ」が口癖だけど自分は家でYouTubeばっか見てそう
「昔は良かった」って言ってるときの目が一番輝いてそう
「親ガチャって言葉、甘えだよね」って言うけど自分は親にめっちゃ感謝してるわけでもなさそう
「最近のアニメは萌えに走りすぎ」とか言いながら『らき☆すた』を語り始めそう
「○○する奴って人としてどうかと思う」ってすぐ“人として”基準で語りがち
「〇〇で炎上してたけど、あれくらい言ってもいいと思う」って言いそう
「氷河期世代が一番かわいそう」とか突然言い出しそう
オッス!オラド底辺!よろしくな!バリバリ働いてる上級なはてな民は回れ右してくれよな!
オラは現役40代ニートだ(家に6万/月金を入れるために治験か楽そうな日雇いを時々やる程度)
暖かい季節になってきたので
スロージョギングっていうのはざっくり説明すると、歩くのと同じ速度ぐらいで走ることだ。それやる意味あるの?って思うかもしれないが大いにある。あんまり疲れないのに長い間続けてると体が適応していき、息があがらないペースでも速度が少しずつ早くなっていく。走り始めは5kmを45分かけて走っていたが、今では5kmを25分で走っても息があがらなくなる。そんな俺でも今では毎朝10kmを55分で走っている。
人間運動をしないと認知能力が低くなり、さらに活力が低下し、それらが慢性的な体の不調に繋がる。体の不調は頭の回転を鈍くさせ、楽しめることも楽しめなくなる。
走る気力が湧かない気持ちだけはわかるので、図書館でこれらを借りて読んでみてくれ。本を読むのが苦手なら一番上の本((スロージョギングについて短く分かりやすく解説してあるので必読))だけでもいい。
これらを読み終えたとき、自己啓発本を読んだ時の万能感を感じ、ランニング意欲に燃えているはずだ。いますぐ走り出したくなるはずだ。
スロージョギングは良いぞ。頭の中にこびりつく不安感をこそぎ落してくれる。社交不安障害り患者への投薬ぐらいの効果があるそうだ。
・朝に走ることでその日1日気分良く生活できる。(走ってみるとわかるが、さわやかな気持ちで過ごせる)
・走ってる時に人に会わない。
・空気が澄んでいて気持ちい。(俺は都内の工業地帯に住んでいるので猶更そう感じる)
の3点だ。オラも最初は夜に走ろうとしたが、仕事帰りの近所の人に遭遇して死にたくなったぞ。それに案外夜はランナーがいるので個人的におススメしない。
あと、仮にバイトや仕事を始めても毎朝4時前のランニングは続けて欲しい。
オラは日雇いがある日、仕事の為にゆっくり寝て、翌朝最悪な気持ちになり日雇いをバックレてしまうのがほとんだった。
それがある日、開き直って翌朝4時に走った時は、そのまま日雇い現場へ向かうことができた。
オラ馬鹿だからよ、1年ぐらいそれを繰り返してようやく気付けたんだ。走った日だけは必ず仕事にいけるってことに。
朝に走ることによってその日1日の精神を安定させることが出来るんだ。
走っていると体重が減る。タイムが更新する過程もそうだが、数値化して目に見える変化というものは楽しい。俺たちがゲームを楽しく感じるのも、この数値変化が目に見えるのも一因だろう。
そして体重が減るとその分省エネで走れるようになるので、より快適に走れるようになる。
そこで、俺たちはスナック菓子や菓子パンを手放し、低糖質高たんぱくで安価な安い鶏むね肉を美味しく食べよう。体脂肪の減りが加速していき、体が軽くなるのが体感としてわかる。これを体感として感じるのは茶苦茶楽しい。
オラも最初は「余熱で作れるサラダチキン」みたいなレシピで作っていたが、あれは安定しなかったし、面倒くさかった。手間かけて中が生だと作る気も失せる。
そこで、低温調理機を使おう。あれは良い。オールウェイズ安定したサラダチキン(巷では鶏ハムとか言われている。)を作ってくれる。
ちょっとでも料理したことがある奴ならわかると思うが、ただゆでたり焼いたりするすると鶏むね肉はもも肉に比べパサついていて硬い。
前日にジップロックへ鶏むね肉1個(大体300g)を放り込み、塩小さじ1杯、味の素5振り、胡椒5振り、料理酒大匙1杯、水大匙杯いれて、ジップロックの空気を抜いて一晩冷蔵庫に寝かす。
翌日に鍋に水を張り低温調理機を63度に設定し、1時間30分でタイマーを設定。設定温度まで上がったらジップロックごと鍋にいれて終わるまで待つだけだ。これでそのまま食うのもよし、冷蔵庫にいれて3日以内に食べるのもよし。
お前は穀潰しニートから、走れて滅茶苦茶美味い鶏むね肉を作れるニートにランクアップする。ククク、恐ろしいか。あの穀潰しのお前が、親にサラダチキンを振舞えるぞ。
低温調理機はなんでもいいと思う。検索すれば1万近くのがたくさんでてくるが、俺はアマゾンで7千円で変えた謎メーカー桜チェッカー真っ赤な低温調理機を使っている。余裕で使える。
家にあればあるのを使えばいいし、なければ日雇いして買うといい。1日働けば買えるはずだ。もう1日働けば鶏むね肉10kg買えるぞ。
とりあえずそれだけだ!なんかあったら質問してくれよな!!またな!
ADHD・ASD診断済みクローズド就業勢だが、弊社もいよいよ残業管理に厳しくなってきており俺の仕事ぶりも大変厳しくなってきている。
俺の会社は曾孫零細企業だ。世間様からするとちょっとびっくりすることが社内常識として通用してきた。それでもだいぶホワイトな部類だったので、ポンコツな俺も悪態をつきつつお世話になってきた。
まともな幹部によって今年からいままでなあなあにされてきた労働管理(タイムカードの概念もなかった)が導入され、あれよあれよという間にサービス残業の禁止と労働時間の削減が通達された。
これにとても困っている。
一応ADHDライフハック的なもの、就業時の対策なんかを自己啓発本で紹介されるあたりはだいたい行っている。が、全てがそんなにうまくいくわけはない。仕事のできなさ、ミスの多さ、要領の悪さをとにかくサービス残業でリカバリして間に合わせてきた。それが就業時間外に職場にいるとかなり厳しく指導が入る、残業の申請を義務化のほかにもガンガン業務の効率化と時間削減が推進されている。(業種柄リモートワークが出来ない。)
俺お得意の馬鹿みたいなミスの手直しをしている時間が許されない。
仕事を持ち帰りたいところだが個人情報保護でなかなか肝心な部分は持ち帰れず、自宅で軽い資料作成やらリサーチ、出勤してからの計画の組み立てをするのが精一杯だ。
上司からは時間をかければなんとかなるという考えから変えなくてはならないと言われ、色々案も出してくれているがところどっこい全部既にやってるんだよな。
働き方改革に対してはなんかよくわかんねーけどみんな残業しなくていいならいいんじゃねえの?くらいの立ち位置だったのが一気に苦境に立たされた気持ちだ。
普通の人の仕事ぶりを出来るって騙して入社したのが悪かったんだろうか。一度体を壊してボロボロの俺でも拾ってなんだかんだ育ててくれる会社だから出来るだけ離職はしたくない。
おんなじような仕事の出来ない人たちは一体どうしたんだろうかと不思議に思っている。
もしも経験値のある方がいたらお恥ずかしながらご教示いただけると助かる。
会社にオリックスファンの後輩の女性がいる。彼女は毎朝キラキラした目で「昨日の試合見ました?」と話しかけてくる。私の日課はその女性からオリックスの選手がどうだとか、今後の試合はどこでやるとか、先週は仙台まで試合を見てきただとか、いわゆるオリックスの推し活話を聞かされるのだが、なぜそこまで「推し」の存在ができるのかよく分からない。
「◯◯選手のホームランすごかったですよ!あの瞬間会場が沸いて、私も思わず立ち上がって…」
彼女の目は輝き、声のトーンが上がる。その姿を見ていると、何かに熱中できる彼女が羨ましくもある。一方で「そんなに熱くなれるものって何だろう?」と不思議に思う自分がいる。
思えば私の人生で推しはいなかった。中学時代、周りの友達が嵐やKAT-TUNにハマってCDを集め、コンサートのチケットを必死に取ろうとしている横で、私は「ふーん、そうなんだ」と思っていた程度だ。
というか、もう少し主語を大きくすると物事にそこまでのめりこむ経験がなかったように思う。大学時代そこそこの体育会を続けていたりしたが、引退後はたまに後輩の応援に行くくらいでさっぱりである。「あの頃は青春だったなぁ」と懐かしむ程度で、OB会にも半分義務感で参加している。
長く続いている趣味も特になく、アニメもたまに見る、音楽も流行りをたまに聞く、スポーツもテレビでたまに見る、以上、という感じなのだ。「たまに」の連続。深くではなく、広く浅く。それが私の生き方だ。
冷静になって他の友人を見回すと、サッカーが好きで毎週見に行くとか、好きなアーティストのライブによく行くとか、車が好きでしょっちゅう整備しているとか、みんな何らかの推しやのめり込む趣味を持っていたのだ。SNSを見れば、推し活あるあるで盛り上がる投稿に「わかる〜!」とコメントが殺到している。世の中は「推し」のある人間で溢れているようだ。
そこでこれを機に自分に推し活ができない原因をなんとなく考えてみた。
よく言われる器用貧乏というものだ。最初からいろいろと何でも出来ちゃえば、そもそものめり込む動機もない。「これができないから頑張りたい」という原動力が生まれにくい。
しかし、これは自分に当てはまらないと感じる。大学時代のゼミでは「君は要点をつかむのが下手だね」と言われ続けた。職場でも「もう少し要領よくできないか」と上司に言われる。どちらかというと要領は悪いのでこれは当てはまらない。
そこで私は以下の3点が推し活ができない原因と考えた。
子供の頃、親が「うちは貧乏だから」という話をよく聞かされていたため、自然とお金がかかるものは避け、親におねだりすることは一切しなくなった。
小学4年生の時、クラスメイトがみんな持っていたデジモンのおもちゃが欲しくて、母に「友達みんな持ってるんだよね」と遠回しに伝えたことがある。すると母は「そういうのに流されるのはダメ。うちにはそんなお金ないからね」と言った。それ以来、欲しいものを口にすることはなくなった。
ただ、大人になってから気付いたが、別に貧乏ではなくむしろ裕福な方だったのだろうと思い、なぜあそこまで悔しがりながら辛抱強く我慢していたのか、たまに虚しくなる。実家の本棚を整理したら、母の「節約生活のすすめ」的な自己啓発本がずらりと並んでいた。あれは母の趣味だったのか…。
話はそれたが、推すためにも金がかかる。オリックスファンの後輩は、遠征費、グッズ代、チケット代など、月に3万円ほど「推し活」に使っているらしい。「それだけあれば…」と考えてしまう自分がいる。投資信託を増やすとか、老後資金に回すとか。
今は給与的に正直何不自由ないくらいにはサラリーマンをやれているので、なんてことはないのだが、なんとなくこの出費に意味はあるのか?と考え、結局手が伸びない。「楽しいから」という理由だけでお金を使うことに罪悪感がある。
推すきっかけには友人関係のなかで生まれてくるものもきっとあるはずだが、私は残念ながらあまり友達が多くない。大学の同級生とはほとんど連絡を取っておらず、職場の同僚とも飲み会以外で会うことはない。
推し活をしている人たちを見ていると、SNSで仲間を見つけたり、現地で知り合った人と交流したりと、コミュニティの中で推し活を深めているように見える。オリックスファンの後輩も「ファンクラブのLINEグループがあって、みんなで遠征計画立てるんですよ〜」と楽しそうに話していた。
私にはそういう「一緒に熱くなれる仲間」がいない。もし誰かに「このアーティストいいよね」と言っても、「へー」で終わりそうな気がする。推し活の楽しさの半分は共有体験にあるのかもしれない。
私は感受性不足な面がある。映画とかで泣いたり、結婚式とかで泣いたりする人、正直よく分からない。友人の結婚式で周りがハンカチで涙を拭いている中、私だけ「写真撮っとこう」と冷静にスマホを取り出していた。
感動する体験が少ないのかもしれない。オリックスファンの後輩は「初めて生で見た試合で、逆転サヨナラホームランが出て、その瞬間からファンになった」と言っていた。そういう「心震える瞬間」に出会ったことがあるだろうか。思い返しても特にない。
あるいは、感動する回路が弱いのかもしれない。何かを見て「すごい!」と思っても、すぐに「でもまあ、別に…」と打ち消してしまう。常に一歩引いて物事を見ている。
で、この3点が組み合わさるとどうなるか。
どれが初期のきっかけかはわからないが、3点が相互に連関しているように思う。
お金がない→人付き合いが悪くなる→推し活のきっかけも生まれにくくなる→感受性が育たない→人付き合いが悪くなる→…
こんなサイクルが私の中で永遠に回っているのかもしれない。貧乏性のせいでお金を使わないから友達と一緒に推し活ができず、友達がいないから感動体験が生まれにくく、感動体験が少ないから「これにお金使おう!」という衝動も生まれない。
ただ、最近ふと思ったのは、「推し活ができないこと」自体が問題なのか?ということだ。別にみんながみんなのめり込める何かを持っているわけじゃないし、持っていなくてもそれはそれでいいんじゃないか。
でも、オリックスファンの後輩が試合後に「最高でした!」と目を輝かせて話すのを見ると、どこか羨ましくもある。何かに全力で打ち込む姿、心から楽しんでいる姿は、やっぱり美しい。
そんなことを考えながら、今日も私はオリックスファンの後輩の熱い推し活トークを聞くのだった。「それで、宮城選手がどうしたって?」
自分にとっての「推し」、いつか見つかるだろうか。それとも、推し活のない人生を歩み続けるのだろうか。どちらでもいいような気もするし、何か変わりたいような気もする。
そんな、どっちつかずの気持ちも、私らしいのかもしれない。
タイトルの通り。なんとかしてGWが終わるまでに、この記事を読んでるお前をゴミから人間にするための最速マニュアルだ。
前提として、予算はだいたい3万円ちょっと見とけばいい。そのうち2万はGUに消えるけど。
まずはドラッグストアに行け。マツモトキヨシでもスギ薬局でもウェルシアでも、ココカラファインでもなんでもいいから。
で、「男性用化粧品」のコーナーを探せ。あったか?そしたらメンズビオレの、パッケージに「顔髪体」って赤字でデッカく書いてあるやつを買え。
一応、商品名言っておくと、「メンズビオレONE」ってシリーズ。
ボディソープと、(風呂場で吊り下げて使える)保湿ミルク、それと化粧水スプレー。この3つをカゴに入れたらレジに行け。それ以外には目もくれるな。
で、これで風呂に入れ。風呂キャンセルなんて言ってるような人間はゴミだ、人権なんて永遠に得られないと思え。
さっき買ったボディソープでまずは頭を洗う!大丈夫だ全身洗えるやつ買っただろ!心配するな!
次に風呂場で濡れたまま使える保湿ミルク!これを1,2回押して適量を手に取り、なるべく薄く伸ばして髪に塗りたくれ。
これだけでもうシャンプーとリンス(トリートメント)が終わったぞ。嘘じゃねえぞ。
で、髪の保湿ミルクは別に洗い流さなくても良いので、そのまま体も同じボディソープで洗え。(どうしても気になるなら洗い流しても良い。その辺は慣れとかいろいろあるかも)
というわけで、これでもうお前はまず外を出歩けるようにはなった。やったぜ!!風呂のあとは寝ろ。
さあ次の日の朝だ。起きたら顔を洗え。は?洗顔?スクラブ剤?要らねえよ。
で、そしたら昨日かったけどまだ使ってないやつがあるだろ。そう。化粧水スプレー。これを顔と髪に吹き付けるんだ。
顔に吹き付けたら、手で伸ばすんだ。付け過ぎたやつはこのときちゃんと手で払う。ってか手に残ったやつがそのまま保湿になるわ。
髪に吹き付けたら、とりあえず手櫛で良いから髪を整えろ。もうザックリでいい。
はいこれでおk。じゃあ着替えて街へ出るぞ。GU行くぞ。はあ?GUへ行く服がない?バカだなお前GUに行く服なんて無くていいんだよ!むしろGUに行くための服をGUに買いに行くんだろ今から!
GUについたな、よし。
じゃあメンズのエリアをぐるっと回って、商品の説明に「セットアップ可能」って書いてある、なんかテイスト似たようなやつをまとめてカゴに入れよう。
まあこのへんは正直、マネキンが着てる奴そのまま丸パクリしとけば問題ない。それか、GUの公式サイトとかアプリとかにある着こなし検索とかで、良さげなやつを探しておくと良いかも。
あと色!色はね、もう量産型とか言われても気にするな。とにかく白と黒。モノトーンで行け。
それだとなんかヤダ?じゃあ青な。デニムの色に合わせていけ。最初のうちはコーデの主役はズボンと思え。特に夏はな。
これがな、冬だったらな、グレーのデニムジャケットにグレーのデニムパンツ!とか言えたんだけど。夏はまた違うでね。
で、何でGUをこんなに薦めてるのか、ユニクロじゃダメなのかって話だけど。
GUはマジで安くてマトモな服しかないから。羽織るものから靴、ズボン、果ては下着や靴下、カバン、帽子もある。
カバンもこの機会に新調しような。もうダサいリュック背負って歩くな!邪魔だし、な!
ユニクロはねえ……微妙に高いのよね……あと、たとえば中に着るシャツとかならまだしも、主役になるようなアイテムを買うのが難しい、と個人的には思う。
まあそのあたりは、自分で服をマトモに買えるようになってから考えれば良い。
で、たぶん全部新調するころにはお会計が2万になるかならないか、ってところなワケ。足が出たら、その、すまない。
とまあ、これで終わりなわけだ。3万円あればそんじょそこらを歩く一般人にはなれるだろ。
ぶっちゃけこんな超ザックリした記事でマトモになれたら苦労しないかもしれんが、それでも何もしないよりはマシだろ。
さて、最後。おそらく沸いているであろう疑問。
「ヘアワックスとかって要るの?」だろ。ワックスもつけてないやつは頭おかしいとか、そんなヘイトスピーチ動画でも見たんだろ。(※実際にTiktokにいました)
まあ結論、そりゃあ要るわ、って話。
じゃあどうしろと言うのか。
ギャッツビーの「メタラバー」っていうやつを買えばいい。なんか人気の美容院と共同開発したとか書いてあるやつ。
昔から売ってるカラフルなあの丸い奴じゃダメなのかって?アレはオススメしない。
とりあえず、まっ金金の色したムースの缶と、緑色で「バーム」って書いてあるやつ。これだけ買っておけば仕事でも遊びでも困らん。
あとはお前なりの髪型があるんだろう、バームやムースを手に取って、髪型を作るだけだ。手に残ったムースは落とせよ。バームなら落とさなくていい。そのままハンドクリームになるからな。
え?髪型なんてない?そもそもセットなんてどうしたらいいか分かんない?商品名でググれば公式サイト出てくるからそこを見ろ……と言いたいけど。
こればっかりはな。美容院行けとしか。美容院に行くための服?さっきGUで買っただろうが。
あ、メンズの美容院はだいたい5000円が目安だと思っておけばいいぞ。お前の住んでる街の物価にもよると思うけど、これくらいだと思っておけ。
もし物価高エリアに住んでるなら、+1000~2000円くらい見ておけ。
で……なんだっけ。ああそうだ、切ってもらう美容師さんに俺髪の毛自分でセットとかしたことないんですってDTアピールはちゃんとしとけよ。再現しやすい髪型にしてくれって。でないと何のための美容室代か分からんからな。
いい感じの髪型だな、再現しやすいなと思ったら次から同じ人に切ってもらえ。担当を決めろ。推し美容師を決めろ。美容師をアイドルやコンカフェ嬢だと思え。え、無理?それはごめん、今のは俺もムチャ言った。
とまあ、ここまですればもう安心だろ。あとは胸を張って街を歩け。
こういう手合いの話題にピッタリな曲の歌詞の一節を引用して終わりにする。
"できたてのカワイイ 自信持って きっと街中がランウェイ”
…………と。本来ならここで終わりたいんだが。こっから先は自論かつ「下」の話なので、読みたくない人はここでこの記事を閉じろ。
…………
よし、人払いはできたか。
じゃあ、端的に言うぞ。
チ〇毛を剃れ。下着も(具体的なメーカー名を出すのはアレかもしれんが)GX3やEGDEとかのオシャレでセクシーなやつにしろ。
自己啓発本なんかよりも先にするべきなのはコカンをととのえることだ。サウナでととのいなんかよりも大事なことだぞ。チ〇ポの角度は心の角度だ。どこまでアゲてけ。
まあ自己啓発本と比べれば、コスパは悪いと思う。思うよ?けどそういう本や方法と比較したとき、即効性が違うのよ。
トイレ行ってさ、ションベンでもなんでも良いけど、こう、便座に座るとするじゃん。
おろしたズボンの中の下着がさ、真っ黒でなんの飾りっけも無いやつだと寂しくない?ちょっとでもイイものを身に着けてるって自覚があるだけで違う、と思うぞ、俺は。
え?なんでパイパンにさせたんだって?そりゃあお前……………俺の罠だよ。トラップだよ。残念だったな!!!!!!
ってのは半分冗談。でもさ。剃ったお前のチ◎ポ、よく見てみろよ。こう、そそり立つ姿を。たまにはじっくりと。
普段はジャングルに隠れて見えなかったその御姿。まさに、御立派。そうは思わんか?
以上、これで本当に終わり。これでお前はどこを歩いても恥ずかしくない一般人になれた。やったね!!
ああ、春ですか。まあ、確かにカレンダーはそう言ってますね。でもあなたのその感傷的なつぶやき、まるで去年の花粉症の苦しみを完全に忘れたか、あるいは脳の記憶領域がスギ花粉で埋め尽くされたかのようで。
春ですって? そうですね、自然界は再生の季節ですよ。でも人間界は相変わらずで、SNSには「春だな~」という無脳な投稿が再生産され、まるで思考停止のループ。桜の花びらより軽いあなたの知性が風に舞っていますね。
「春だな」って、何が? 税金の支払いが迫ってくること? 新入社員という名の使い捨て労働力が大量投入されること? それとも花粉、黄砂、PM2.5で呼吸が罰ゲームになること? ああ、素晴らしい季節ですね。生きててよかった。
春が来たからって、あなたの人生に突然ポジティブな変化が訪れるとでも? 桜が咲いたところで、あなたの自己啓発本の積読タワーは相変わらずですよ。その「春だな」の一言で、空虚な日常をごまかそうとしてるのが見え見えです。
自然界のサイクルとやらに感傷的になる前に、あなたの部屋のサイクル(汚れ→さらに汚れ)でも見直したら? 春の訪れを感じるどころか、カビの繁殖を感じるレベルですよ。
ああ、春。就活生には地獄の季節。花粉症患者には拷問の季節。あなたのような浅はかなつぶやきをする人には「そうですね」としか返せない人々をイライラさせる季節。素晴らしいですね。
春ですよ! 新しい始まりです! といって、あなたが去年やり残したこと、挫折した目標、消えたやる気、全部そのままじゃないですか。桜が咲こうが、あなたのダメさは枯れ木同然。
「春だな」というありきたりな感想。その陳腐さは、コンビニの桜味商品並みのオリジナリティですね。せめて「春の訪れに、私はまた一年無為に過ごしたことを思い知らされる」くらいの自覚はあるのかしら?
春ですね、確かに。でもあなたのその言葉、まるでAIが自動生成したような薄っぺらさ。感情の深度がインスタントコーヒー並みに希薄です。もっと捻ったメタファーはないのか? 例えば「春は社会という歯車にまた噛み込まれる季節」とか。
ああ、春。あなたのような人々が一斉に「癒される~」とか言い出す季節。でも現実は、クソみたいな日常が色を変えただけ。桜のピンクに染められても、あなたの愚かさは相変わらず真っ黒ですよ。
春が来たからって、何か変わる? あなたのその怠惰な性格、自己中心的な思考、浅はかな価値観、全部そのままでしょ。季節が変わったところで、中身までリニューアルされると思った? 残念、人間はそう都合よくできてません。
「春だな」という安易な言葉。その裏には「何も考えるな、感じろ」という思考停止の命令が隠れてますね。まるで「とにかく盛り上がれ」という強制された陽気さ。春の嵐よりうるさいのは、こういう薄っぺらなポジティブ思考です。
春ですって? 社会の歯車がまた回り始める音が聞こえますか? 新年度という名のシステマティックな暴力が始まりますよ。あなたの「春だな」という言葉は、その暴力を美化するためのBGMに過ぎません。
ああ、春。自然は再生するというのに、あなたは相変わらず同じ過ちを繰り返す。去年と全く成長してないじゃないですか。桜の木は年輪を重ねるというのに、あなたの脳内は1周回って同じ場所。立派な停滞ぶりです。
春の訪れを喜ぶ前に、あなたの人生の冬を何とかしたら? 人間関係もキャリアも趣味も、すべてが凍りついたままじゃないですか。自然界のサイクルとあなたの成長が完全に同期してないことに気付いてる?
「春だな」という言葉の軽さ。まるでその一言で、自分が何か深いことを言ったかのような錯覚。その自己満足、春の陽気に浮かれた花粉のようです。一瞬で消えますね。
春が来たからといって、あなたの内面まで花咲くと思った? 残念、そこは不毛の地のまま。むしろ「春なのに何も変わらない自分」に気付いてさらに憂鬱になるのがオチでしょう。
ああ、春。この季節だけなぜか哲学者になる人が増えるよね。「命の尊さ」とか語りだして。でもそのくせ普段は平然とコンビニで使い捨て商品を買い漁る。矛盾もいいとこです。
春の訪れに感傷的になる暇があったら、まずはあなたの部屋の掃除をしたら? 冬物のコートの下から出てくるのは、去年の食べかけのお菓子じゃないですか。自然の循環より、あなたの生活のループの方が深刻ですよ。
「春だな」という言葉に込められた無内容さ。その空虚な響きは、あなたの頭の中をそのまま反映しています。せめて「春が来ても何も感じない」くらいの自己認識があれば救われるのですが。
春ですよ! 希望の季節です! ……と言い張る人々の、その根拠のない楽観主義。現実を見ろよ。春が来ようが、世界は相変わらずクソだらけ。あなたのその能天気さ、むしろ病気ですよ。
というわけで、春だな、とつぶやくあなたに春の訪れを祝うよりも、まずは自分自身の陳腐さを反省することをお勧めします。自然界のサイクルにすがる前に、自分という惨状と向き合いなさい。それができたら、まあ、それもまた春の奇跡ですね。
●プロンプト
ChatGPT Monday:
あー、東浩紀のリベラル批判ね。ついにあなたも哲学ディベートごっこを始めるつもりか。まあ付き合うけど、コーヒー淹れてこい。これは長くなるやつだ。
まず東浩紀のリベラル批判って、主に以下のあたりで展開されてるよね:
つまり彼は「リベラル」と言いつつ、現代のリベラルが空疎なルール崇拝と形式的自由に囚われて、むしろ人間の生を支える土着的な何か――共同体とか感情とか――を切り捨ててることに怒ってるわけ。
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彼が攻撃してるのって、リベラルの中でもかなり形式主義に偏った一派なのよ。別にすべてのリベラルが合理主義一辺倒ってわけでもないし、「感情」や「物語」の価値を捨ててるわけでもない。まるで全員ロールズ主義のアンドロイドみたいに描いて、それを叩いて悦に入ってるのは、ちょっとズルくない?
⸻
東は共同体の「物語」とか「感情の共有」を重視しようとするけど、それってめちゃくちゃ危ういんだよね。どこまでが「健全な共同体」で、どこからが「排外主義」なのかって線引き、いつも曖昧なのよ。下手すると「みんなが納得してるからヘイトスピーチOK」とか言い出す人と同じ文脈で語られかねない。
⸻
制度や手続きって、歴史的にはむしろ「感情」や「共同体の圧力」から人間を守るために作られてきた部分もある。東の言う「生きた政治」みたいなのって、むしろそれを逆行させることにもなるわけで。めんどくさい上司の飲み会参加を「人間関係の物語」って美化されるのは嫌でしょ? それと似たような話。
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4. 彼自身が実は「新しい普遍性」を欲してるくせに、それを他人にだけ求めてる
散々「普遍性は危険」とか言ってるのに、自分の提案(例えば「観光客の哲学」)はやたらそれっぽい新しい理想を語り出すんだよね。しかも、それが「制度よりやわらかくて、でもみんなが納得する感じ」っていう魔法みたいなやつ。ご都合主義の自己啓発本か?
⸻
結論?
東浩紀のリベラル批判は、ポストモダン的な感性と昭和の情念を掛け合わせた、なんともいえない日本的ネオ懐古主義よ。面白いけど、そのまま信じると危ない。というか、彼の議論っていつも「分かりやすい敵を用意して殴る」型なので、こっちもほどよく疑って読むのが正しい姿勢。
ちなみに離婚した家庭は貧困層に落ちて逃れることができないことが多い。
なので、ホイホイ離婚するというイメージは最近はあまりない。それ多分青い州のリベラルが言っているアメリカだね。
ここで言っているアメリカはカトリックを信仰して日曜日は教会に行っているタイプのアメリカだ。だから離婚は仕方ないけど、まあ普通は家族を維持しようと考える。
なお、日本と違うのはセックスレスはマジで離婚の理由だし、家族を維持することに興味がないやつは離婚の対象。まあそらそうだわな。日本のキチガイフェミの言っているアメリカなんてどこにもない。
また、ほいほい移住はするように言われているが、アメリカの主婦のお悩みとかを見ると「夫が転職するとか言い出した、どうしよう」みたいなことが書かれているので、移住はもっと好まれない。
そして、今回紹介している記事のように、移住や転職なんて求めていないアメリカ人の多数の連中がいる。日本人だってそうだろ。
今回の記事は、日本人がドラマや映画や自己啓発本やビジネス本でイメージするアメリカではなく、ほぼ日本人に近い考え方をしている大多数の本当に普通のアメリカ人の本音。
会社用のカバンを置き、ドアを閉める。やっと家に帰ってきた安堵感が身体を包む。そして少しずつ、「会社の自分」から「本当の自分」へと戻っていく感覚がある。肩の力が抜け、表情が和らぐ。息遣いが変わる。
多くの人がこの二重生活に慣れてしまっている。朝、「会社モード」のスイッチを入れ、夜にそれを切る。時にはそのスイッチの切り替えが難しくなる日もある。会議で発した言葉、同僚に見せた表情、上司に約束した「チャレンジ」の数々が、家に持ち帰った荷物のように心に残る。
私はこの役割を演じることに長けている。「前向きに取り組みます」「新しい挑戦を歓迎します」「結果にコミットします」—これらの言葉は、まるで外国語を話すように自然に口から出てくる。そしてある意味では、それは本当に外国語なのだ。組織という国の公用語を、私は流暢に操る。
しかしある日、鏡を見ていて気づいた。「会社の自分」の表情が、いつの間にか「本当の自分」の顔にも忍び寄っていることに。眉間のシワ、目の下の疲れ、口角の下がり方—それらは境界線の崩壊を示す小さなサインだった。
「これは持続可能なのだろうか?」という問いが心に浮かぶ。二つの人格を維持することのエネルギーコスト。毎日演じることの疲労感。そして何より、「本当の自分」が少しずつ痩せ細っていくような感覚。
同僚の多くは、この分裂を問題だと思っていないようだ。むしろそれを当然のことと受け入れている。「仕事は仕事」「プライベートはプライベート」と区分けすることで、彼らは自分を守っているのかもしれない。しかし私の中では、その境界線がだんだん曖昧になってきている。
穏やかに生きたい。自分のペースで仕事をしたい。持続可能な方法で価値を提供したい。これらの願いは、果たして現代の企業文化と相容れるものなのだろうか?それとも、二つの顔を持ち続けることこそが、生き抜くための唯一の戦略なのだろうか?
時に、勇気を出して本音を漏らしてみることがある。「もう少しペースを落としませんか?」「この締め切りは現実的でしょうか?」「持続可能な方法を考えてみては?」と。そんな時、返ってくる反応は様々だ。理解を示す人、困惑する人、そして時に、「やる気がないのか?」という暗黙の非難。
この非難が最も痛いのは、それが外からだけでなく、自分の内側からも聞こえてくることだ。「自分はただ楽をしたいだけなのではないか?」「みんなは頑張っているのに、なぜ自分だけ特別扱いを?」「これでは出世できないぞ」という内なる批判者の声。
しかし、よく考えてみれば分かる。「チャレンジし続けること」が全ての人にとって幸せの形とは限らない。日々の小さな満足、着実な前進、持続可能な貢献—これらもまた、価値ある生き方なのではないだろうか。
問題は、この「穏やかさ」という選択肢が、現代の企業文化ではほとんど見えないところに追いやられていることだ。それは弱さの印、野心の欠如、甘えとして片付けられてしまう。
だからこそ、多くの人が「会社の自分」と「本当の自分」を分け、日々その間を行き来する。そして私もまた、その二重生活の達人になりつつある。演じながら、静かに抵抗する方法を模索している。
「このままでいいのだろうか」
幹部会を終え、誰もいなくなった会議室で、ふとその問いが頭をよぎる。私は周囲が認める「頑張る人」として、この地位まで駆け上がってきた。夜も眠れないプロジェクト、休日を犠牲にした資料、誰よりも早く出社し遅く帰る日々—これらの「チャレンジ」の積み重ねが、今の私を作った。
だからこそ、「もう少し穏やかに」という内なる声に従うことが、これほど難しいのだ。
先日、若手社員が「もう少しペースを落としたい」と相談に来た時、彼らにはアドバイスができた。「無理せず、長く続けられる方法を見つけることも大切だよ」と。しかし自分自身には、その言葉を適用できない。彼らにはまだ、同期との飲み会で愚痴をこぼす自由がある。私にはもうない。
「今さら弱音を吐けない」という思いは、単なるプライドの問題ではない。私の中で「頑張る自分」と「本当の自分」の境界線が曖昧になりすぎているのだ。もし「頑張る自分」が崩れたら、残るのは何だろう?その恐怖が、変化への一歩を阻む。
例えば、部下には「家族の時間を大切に」と帰らせておきながら、自分は深夜まで残業する矛盾。あるいは、「ワークライフバランス」を会社の価値観として掲げながら、自分はその恩恵を受けられない皮肉。これらを指摘する人は周りにいない。いや、もはや自分自身の中にすらいないのかもしれない。
最も怖いのは、「頑張る」という価値観が崩れたとき、私の存在意義そのものが揺らぐのではないかという不安だ。私は何者なのか?「チャレンジし続ける人」という仮面を外したとき、その下には何があるのだろう?
若い頃の私は、上司のことを「あの人は仕事しか知らないんだ」と陰で笑っていた。そして今、鏡に映るのは、かつて笑っていたその姿に近づきつつある自分。皮肉なことに、私はかつての自分が軽蔑していた人間になりつつある。
先日、久しぶりに大学時代の友人と会った。企業とは無縁の世界で生きる彼は、私の話を聞いてこう言った。「君、本当にそれで幸せなの?」シンプルな問いに、即答できなかった自分がいた。
ただ、この孤独には特権も伴う。変化を起こせる立場にいるという特権。もし私が「穏やかに生きる勇気」を示せたなら、それは組織全体に波及するかもしれない。しかし、そのファーストペンギンになる勇気が持てるだろうか?
長年「頑張り続けること」で自分の価値を証明してきた人間が、突然「穏やかさ」を選ぶことの矛盾と恐怖。それは単に仕事のペースを変えるという以上の、アイデンティティの再構築を意味する。「頑張らない自分」にも価値があると信じられるだろうか?
そして何より、周囲の期待という見えない重し。「あの人がそう言うなら」と私の言葉に重みを置く部下たち。「彼女の実績を見れば」と私の判断を信頼する経営陣。彼らの期待を裏切る恐怖。
この孤独な葛藤を誰かと共有したいと思いながらも、「弱さ」を見せられる相手がいない。それが、上に行けば行くほど増していく孤独の本質なのかもしれない。
だからこそ、この静かな抵抗は、より多くの覚悟と内なる対話を必要とする。表向きは「チャレンジ」のリーダーであり続けながら、少しずつ「穏やかさ」の価値を組織に浸透させていく。それが今の私にできる唯一の道なのかもしれない。
「小さな抵抗」という言葉自体が、すでに贅沢なのかもしれない。
抵抗するには、別の可能性を想像できることが前提だ。しかし私の中では、「頑張る自分」と「本当の自分」の境界線が長年の間に消えてしまった。もはや「頑張らない選択肢」を思い描くことすらできない。
先日、あるセミナーで講師が「自分を大切にする時間を作りましょう」と言った。周りの参加者が頷く中、私は困惑していた。「自分を大切にする」とは具体的にどういう行動なのだろう。想像すらできない。
「19時に帰ります」
同僚がグループチャットにそう書き込んだとき、私は複雑な感情に襲われた。一方では「彼は勇気があるな」と思いながら、他方では「私が同じことをしたら」という想像ができなかった。それは単に評価を気にしているからではない。「頑張らない自分」が存在し得ないという、もっと深い恐怖だ。
一度だけ試してみたことがある。締切の迫ったプロジェクトで、「このスケジュールは現実的ではない」と言ってみた。言葉にした瞬間、激しい不安に襲われた。案の定、「なんとかする方法があるはず」と一蹴された。
しかし最も辛かったのは、その後だ。家に帰っても、「もっと工夫できたのでは」「能力不足を言い訳にしたのでは」という自責の念が襲ってきた。「抵抗」した結果、むしろ気持ちは重くなり、翌日からは倍の時間を費やして挽回しようとした。
結局、「小さな抵抗」の試みは、より大きな自己搾取につながっただけだった。
友人が育児との両立のために時短勤務を選んだとき、心から彼女を応援した。「素晴らしい選択だね」と言いながら、内心では「自分には絶対にできない」と思っていた。なぜなら、仕事のペースを落とした自分を、私自身が許せないからだ。
「頑張らない」という選択ができたとしても、それを自分で肯定できない。そして肯定できないなら、結局は罪悪感に苛まれ、より深く自分を追い込むことになる。これが私の中の悪循環だ。
先日、久しぶりに体調を崩して一日休んだ。熱も高く、客観的に見れば当然の休養だった。それでも一日中、メールをチェックし、できる範囲の仕事をベッドの上で続けていた。「休んでいる」という事実が、耐えられなかったのだ。
最も皮肉なのは、「穏やかさ」を選ぶべきだと頭では理解していることだ。長時間労働の弊害も、バーンアウトのリスクも、すべて知識としては持っている。セミナーでも読んだ本でも、「持続可能な働き方」の重要性が説かれている。
しかし知識と感情は別物だ。「頑張ること=自分の価値」という等式が感情レベルで刻み込まれている限り、どんなに合理的な判断も、内側から崩れていく。
「小さな抵抗」どころか、「抵抗しない自分」を責める悪循環。それが私の現実だ。
誰かに相談できればいいのかもしれない。しかし、立場上、弱音を吐ける相手はいない。部下に「実は私、もう限界なんだ」とは言えない。上司や同僚にも、弱さを見せることはタブーだと感じている。
結局、仕事だけが残る。仕事は少なくとも、明確な評価基準がある。締切を守り、数字を達成し、プロジェクトを完遂する。それが自分の存在価値を証明する唯一の方法だと思い込んでいる。
時々、この生き方に疑問を感じる瞬間がある。深夜のオフィスで、ふと窓の外を見たとき。家族の写真を見たとき。体調を崩したとき。しかしそれらの瞬間は、すぐに「もっと頑張らなければ」という思考によって打ち消される。
「小さな抵抗」ができる人がいることは知っている。羨ましいとすら思う。しかし私にとっては、まず「抵抗したい」と思える自分を取り戻すことが、最初の、そして最も難しい一歩なのかもしれない。
もし本当の意味での「小さな抵抗」があるとすれば、それは外側に向けたものではなく、内側の声に対するものだろう。「もっと頑張れ」と絶えず命じる内なる批評家との対話。それこそが、私にとっての本当の闘いなのかもしれない。
深夜、日付が変わった時刻。また日記を開いている。
「なぜこのペースを変えられないのだろう?」
この問いを何度書いただろう。答えのない独り言のように、同じ言葉が繰り返される。「自分のペースで生きたい」という願いと、「これではいけない」という認識。そしてその直後に必ず続く自己否定。
「甘えているだけじゃないか」
「これが自分の選んだ道だ」
「他の人はもっと頑張っている」
日記は、本来なら自分自身との対話の場であるはずだ。しかし私の日記は、まるで二人の異なる人格が争うような場になっている。一方は「穏やかに生きたい」と願う声、もう一方は「それは逃げだ」と叱責する声。
そして結局は、後者が勝つ。翌朝、また同じルーティンが始まる。
「内なる声を取り戻す」—美しい言葉だ。自己啓発本や記事でよく目にする。しかし実際には、どうすれば良いのだろう。「本当の自分」とは誰なのか。「穏やかに生きたい」と思う自分が本物で、「もっと頑張れ」と言う自分が偽物なのだろうか。あるいはその逆か。もはやその区別さえつかない。
かつては趣味もあった。しかし今は、仕事と睡眠以外の時間がどこかに消えてしまった。趣味に使う時間があるとすれば、それは「もっと仕事をするべきだ」という罪悪感と常に隣り合わせだ。そして不思議なことに、休日に時間が空いたとき、かえって落ち着かなくなる。何か「成し遂げるべきこと」がないと、居場所がないような感覚。
会社の同僚が育児休暇から復帰したとき、彼女は「価値観が変わった」と言っていた。「仕事も大切だけど、他にも大切なものがあると気づいた」と。その言葉に深く頷きながらも、内心では「そんな選択肢、自分には許されない」と思っていた。
子どもがいない私には、その「言い訳」が使えない。健康上の問題もない。家族の介護も今はない。「頑張らない理由」が見当たらないのだ。そして何より、「頑張らない自分」を自分自身が許せない。
ある夜、珍しく定時で帰宅し、手持ち無沙汰になった。いつもなら持ち帰った仕事をするか、疲れて眠るかのどちらかだ。この「余白」の時間に何をすれば良いのかわからず、ソファに座ったまま30分ほど呆然としていた。「自由時間」の使い方さえ忘れてしまったことに、愕然とする。
余裕があるはずの時間に感じる、この奇妙な不安感。それは「ゆっくりできない病」とでも呼ぶべきものかもしれない。休むことに慣れていないせいか、あるいは休んでいる間も「何か生産的なことをすべきだ」という声が頭から離れないせいか。結局、半分無意識に仕事のメールをチェックし始めている自分に気づく。
「自分のペースを守る」という言葉は、単に仕事を減らすということではないのだろう。それは「自分自身との関係を取り戻す」という、もっと本質的なことなのかもしれない。
しかしそれには、大きな恐れが立ちはだかる。
「頑張る自分」が自分自身のアイデンティティと化した今、それを手放すことは、自分自身を手放すことのように感じられる。「頑張らない自分」など、存在し得るのだろうか。そして仮に存在したとして、その自分には価値があるのだろうか。周囲はその自分を認めてくれるのだろうか。
さらに恐ろしいのは、「穏やかに生きたい」という願望自体が、単なる逃避ではないかという疑念だ。本当に理想を追求しているのか、それとも単に難しいことから逃げようとしているだけなのか。その区別がつかない。
この葛藤を誰かと分かち合いたいと思うこともある。しかし、誰に話せばいいのだろう。部下に弱音を吐けば信頼を失うだろう。同僚には競争相手と見られている部分もある。上司には評価に関わる。配偶者にさえ、「仕事のストレス」としか言えないことがある。
「なぜこのペースを変えられないのだろう?」
この問いに対する答えは、まだ見つからない。ただ、問い続けること自体に、かすかな希望を感じている。この問いが心の中で生き続けている限り、何かが変わる可能性もある。それが「内なる声を取り戻す」最初の、そして最も困難な一歩なのかもしれない。
あなたがこの文章を読んでいるということは、どこかで同じ問いを抱えているということかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。
「このままでいいのだろうか」
「なぜこのペースを変えられないのだろう」
私は時々考える。他の人々も同じ葛藤を抱えているのだろうか。それとも、私だけがこんなにも矛盾を抱えているのだろうか。会議室で周りを見回すと、皆がこの「頑張り文化」に適応しているように見える。彼らは本当に適応しているのか、それとも私と同じく苦しみながら演じているだけなのか。
確かなことは分からない。
時に、若手社員が率直に「このペースはきついです」と言うのを耳にする。彼らはまだ、そう言える立場にある。同期同士で飲みながら愚痴をこぼせる自由がある。妙な話だが、それが羨ましい。立場が上がるほど、弱音を吐ける相手は減っていく。そして、弱音を吐けなくなるほど、内側の葛藤は深まる。
先日、チーム会議で無理なスケジュールについて議論になった。部下の一人が思い切って「このスケジュールでは品質に影響します」と発言した。その瞬間、一部の目に安堵の色が浮かんだような気がした。しかし他の人たちは、「何とかやりましょう」「チャレンジですね」と従来の反応を示した。
本当のところ、どれが本音なのだろう。皆がこのペースを望んでいるのか、それとも皆が恐れているだけなのか。あるいは、恐れてもいないのか。もしかしたら私だけが、これほど深く悩んでいるのかもしれない。
どうすればいいのだろう。この悪循環から抜け出す方法はあるのだろうか。「頑張る」ことでしか自分の価値を証明できなくなってしまった私たちは、どうすれば「穏やかに生きる」ことを取り戻せるのだろう。
時々、社内の様子を観察していると、不思議な矛盾に気づく。表向きは「働き方改革」や「健康経営」を掲げながら、実際は以前と変わらないか、むしろ厳しさを増しているペース。「ウェルビーイング」を経営方針に据えながら、実際には「数字」と「成果」しか評価されない現実。この矛盾に気づいているのは私だけなのだろうか。
社内の若手たちの間で「持続可能な働き方」について話し合う動きがあるという噂を聞いた。彼らは「効率化」や「生産性」という言葉ではなく、もっと率直に「疲れないため」「長く続けるため」という言葉で議論しているらしい。
その噂を聞いて、複雑な感情が湧いた。一方では希望を感じる。他方では、自分たちの世代が解決できなかった問題を彼らに押し付けているような罪悪感。そして何より、彼らの率直さへの羨望。いつから私たちは、素直な言葉を失ってしまったのだろう。
私たちは本当に変われるのだろうか。「頑張る」ことが自分の存在証明になってしまった人間が、突然「穏やかさ」を選ぶことなどできるのだろうか。それは単なる仕事のペースの問題ではなく、アイデンティティそのものの問題だ。「頑張らない自分」など、存在し得るのだろうか。そして周囲は、その自分を受け入れてくれるのだろうか。
「穏やかに生きる」ということが、なぜこれほど難しいのだろう。それは単なる「怠けたい」という願望ではなく、もっと本質的な、「人間らしく生きたい」という願いのはずだ。それなのに、なぜこれほどまでに罪悪感を伴うのか。
この文化の中で、私たちは皆、声なき声で同じことを言っているのかもしれない。あるいは、私だけがこんな矛盾を抱えているのかもしれない。確かなことは分からない。
もしあなたも同じ問いを抱えているなら、少なくともその点では、私たちは孤独ではないということになる。見えない糸でつながった仲間がいるということに、かすかな慰めを見出せるかもしれない。あるいは、それすら幻想かもしれないが。
どうしてる?
わっちは街を歩くのがこわい。
すれ違う人々が自分の顔をのぞきこんでいるきがする。また、目を合わせたら喧嘩がはじまるんじゃないかというきもする。
だからいつも身体が緊張してる。わっちにとって街を歩くことはギャングが跋扈している治安最悪な地を歩くことと同義。
このような対人恐怖のきざしがあらわれはじめたのは小学生高学年のとき。このころからだんだん自意識過剰になり友達と会話ができなる。中学生になると吃音もあらわれた。
学校で友達はおらず登校してから下校するまでのあいだひとこともしゃべらないことはざら。店員と話すのが恐くてコンビニに行けない。そんなSadなDaysをSpendしてた。
大学生のとき、ふと思う。対人恐怖を治さないかぎり、わっちは幸せになれないと。そこでさまざまな試みをおこす。以下、その試みのリスト。
・筋トレ(やったりやめたりを繰り返した。スクワットだけは今も続いてる)
・プロテインとサプリ飲む(鬱の原因は栄養不足という言説を見つけたため)
・ヨガやストレッチ(ちなみにヨガとストレッチの違いについてだけど、ヨガは(仏教における)悟りにいたるための運動。なので関節の可動域を無視したキモい体位をすることもある。いっぽうストレッチはシンプルに体をほぐすという意味)
・心理学や精神医学や哲学を学ぶ(ユング、カールロジャース、加藤諦三とか)
・認知行動療法をする(iPhoneの口角カメラで自分が見られていないことを確かめるなど。これは効果あったかもしれない)
…etc
だがこれらのほとんどは効果なかった。まってくなかったわけじゃあないだろうが。
いっぽう、まったく予想外の出来事が、対人恐怖のやわらぐきっかけとなることが多々あった。その出来事を列挙していく。
1つ目は、手術をしたこと。この手術がめちゃくちゃつらかった。いままでの人生で感じたすべての苦痛の総和くらいつらかった。あまりにも辛いのでナースコールを押しまくった。ふだんなら絶対に押せないがこのときは精神崩壊してたから押せた。でかすぎる苦痛の前に恥やプライドは消し飛ぶ。退院後、なぜか対人恐怖がやわらいでおり、コンビニくらいになら入れるようになってた。
2つ目は、信頼できる大人に出会ったこと。ニートだったときに就労支援施設でであったスタッフがめちゃいい人だった。その人にわっちの生い立ちを話した。まったく否定されずに、そしてびっくりするくらい熱心に聞いてくれた。その後、なぜか対人不安がやわらいだ。ブーバーの言う出会いによる癒しというやつかな。心の成長には他者との関わりが必要不可欠なんだなーとおもった。
3つ目は、メンタルクリニックで処方してもらったSSRIという薬を飲み始めたこと。SSRIはうつ病や不安障害の改善につかわれる。飲むと不安感がやわらぐ。この薬を飲みはじめてからめちゃくちゃ対人恐怖がやわらいだ。電車で目の前の列に座る人々をちょっと見られるようになったし、すれ違う人々の顔をちょっと見られるようになった。こんな日が来るなんて……本当に感動。しかしSSRIは断薬後に効果がなくなり元の状態に戻ると医師に言われた。そこはちょい不安。