はてなキーワード: 矛盾とは
ご提示いただいた文章は、確かに状況説明が整いすぎていて、少し「報告書」や「あらすじ」のようなAI特有の硬さがありますね。
人間が書く文章、特にこのような悩み相談では、**「感情の揺れ」「文脈の省略」「倒置(結論から言うなど)」「口語的な表現」**が混ざるものです。
「匿名掲示板(発言小町や知恵袋など)への書き込み」をイメージして、人間味のある2つのパターンにリライトしました。
パターン1:感情が溢れて整理できていない、リアルな書き込み風
(文末を崩し、カッコ書きや体言止めを使うことで、動揺している様子を出しています)
誰にも言えないので、ここで吐き出させてください。
商社勤務の夫(30代)のことです。
会社は体育会系のノリが強い古い体質のところなんですが、暴力沙汰は絶対NG。
それなのに先週、夫が職場で同僚の胸ぐらを掴んで突き飛ばしました。
飲み会でその同僚が、私のことを笑いながら馬鹿にしたらしいんです。
もちろん私は地味な地方出身だし、そんな経験一度もありません。
夫は普段、気弱なくらい温厚な人です。
でもその時は一瞬で頭に血が上ったみたいで。
幸い相手に怪我はなく、周囲も「あれは相手が悪い」「よく我慢した」と夫を庇ってくれたおかげで、処分は厳重注意で済みました。
正直、そこまでは嬉しかったんです。
「あんなに温厚な夫が、立場を危うくしてまで私を怒ってくれたんだ」って。
でも……本当に信じられないのはここからです。
その一件で、夫がなぜか社内の女性社員から「奥さん想いの熱い人」みたいに人気が出てしまったらしくて。
昨日の夜、夫が泣きそうな顔で告白してきました。
「実は、あの件をきっかけに話しかけてきた女の子と……流されてしまった」
二人で飲みに行って、そのままホテルに行ったそうです。
夫は「本当に後悔してる」「二度としない」って謝り倒してきますが、嬉しかった気持ちと、突き落とされた絶望感でぐちゃぐちゃです。
皆さんなら、これ許せますか?
今は顔を見るのも辛いんですが、一度距離を置くべきなんでしょうか。
パターン2:少し落ち着いて書いているが、やるせなさが漂うブログ風
(「~なんです」「~ですよね」と語りかける口調にし、主観的な感情を強めています)
夫の浮気が発覚しました。でも、その経緯があまりにひどくて、自分でもどう受け止めていいかわかりません。
夫は商社マンで、普段は本当に穏やかな、争いごととは無縁のタイプです。
理由は、飲み会の席で私の容姿を「水商売っぽい」と揶揄されたから。
「自分のために夫がキレてくれた」。
厳重注意で済んだと聞いたときは、申し訳なさと同時に、夫からの愛を感じて正直嬉しかったんです。
その「奥さんを守って上司に怒られた」という一件が、なぜか社内の女子社員の間で「男らしい」と話題になってしまったそうなんです。
急にチヤホヤされて、夫も気が緩んだんでしょうか。
昨日、夫から打ち明けられました。
「あの件で声をかけてきた子と飲みに行って、関係を持った」と。
私を守ったことがきっかけでモテて、その勢いで私を裏切ったんです。
意味がわかりませんよね。私も真っ白になりました。
夫はひたすら謝罪していますが、私を守ろうとした「男らしさ」と、流されて浮気する「だらしなさ」のギャップに混乱しています。
このまま再構築なんてできるんでしょうか。それとも一度離れるべきでしょうか。
皆さんの意見を聞かせてください。
* Before: 「夫の同僚が飲みの席で~言ったそうです。」
* After: 「~馬鹿にしたらしいんです。」「~って。」
* → 状況を淡々と説明するのではなく、書き手の「聞いた時の感情」を優先しました。
* この話の一番の人間味(エグみ)は、**「妻を守った武勇伝が、浮気のきっかけになった」**という矛盾です。
* AIの文章だとここがさらっと流れていましたが、「皮肉すぎて頭がおかしくなりそう」「意味がわかりませんよね」といった主観的な嘆きを加えました。
* 文末のリズムを変える
元総理銃撃犯は、サヨク・リベラル叩きができていた方が幸せだったんだと思う
犯人はTwitterで、「自分はネトウヨだ」というようなことを書いていたらしい
そりゃそうで、母親がある時から毎日「日本が侵略をしてすいません」みたいなことを毎日毎晩唱え出して、家の金を韓国の宗教にすべて使って、ことあるごとに韓国は渡航していたんだから、韓国が大嫌いになる
韓国を擁護するようなサヨクは敵、韓国嫌いなネトウヨは自分の居場所とすることができただろう
それが続けられれば、ネット上に「同志」を得られたかもしれないし、高校卒業後に入った自衛隊でも愛国的な方向でマッチしたかもしれない
でもそうはならなかった
いつ時点かは分からないが、どこかで「統一教会を政治と結び付けて活用し始めたのが、安倍晋三の祖父だった」「自民党は選挙で統一教会の協力を得ている」ことを知る
二十歳を超えて選挙権を得たら、信者の親族が自民党の特定の議員に投票しろと言ってきたそうだから、その段階で気付いたのかもしれない
保守的、愛国方面が擁護する、自民党や安倍晋三も、自分の味方どころか憎き宗教団体の仲間ではないかと
サヨクはもちろん気に入らないが、ウヨクも矛盾してるじゃないかと
増田です。 DMM傘下のAlgomaticが提供していた「にじボイス」がサシュウを発表した。
プレスリリースには「法的な権利侵害はなかった」「パラメータ調整の結果、偶然似てしまった」などと書かれているが、これを真に受けている人は少し冷静になったほうがいい。
「日本の法律では学習は合法だ!」「日俳連の圧力に屈した!」と騒ぐ擁護派もいるが、今回の件はそんな単純な話じゃない。
これは「AI技術の敗北」ではなく、「ある企業が吐いた嘘と、杜撰なデータ管理が露呈して自爆した」というだけの話だ。
盲目的に企業を擁護する前に、技術的な事実関係の「答え合わせ」をしておこう。
なお、あくまで技術的な根拠を示しているだけであって、問題があると断言できないことは断っておく。
まず、擁護派が盾にする「著作権法30条の4」について。 確かに今の日本の法律では「情報解析」が目的ならば、元データが何であれ(おそらくエロゲーから音声を抽出したデータセット『moe-speech』であっても)、それをAIに食わせてAIモデルを作るだけなら、一応は適法とされている。 そこだけ切り取れば、違法ではないと言い張れる余地はある。
Algomaticが行っていたのは、一般的な基盤学習にとどまらず、「特定のキャラクター(=特定の声優)を狙い撃ちしたFine-tuning(追加学習)」である疑いが極めて濃厚だという点だ。
『moe-speech』は、親切なことにキャラごと(声優ごと)にフォルダ分けされている。 ここから特定のフォルダを選んで、「その声優の声質や演技の癖」を再現するために個別学習(Fine-tuning)を行う。 これはもはや「データの統計解析」ではない。特定個人の実演の「デッドコピー(模倣品)の作成」だ。 これをやると、生成された音声には明白な「依拠性」が生まれる。つまり「パラメータ調整で偶然似た」のではなく、「その声優のデータを意図的に使って似せた」ことになる。これはパブリシティ権や人格権の侵害に問われる可能性が極めて高いラインだ。
Algomaticは「適切な権利処理を行った」「声優から許諾を得た」「パラメータ調整で作った」と主張していた。
しかし、有志による技術検証によって、その主張と矛盾する証拠がいくつも出てきている。
「にじボイス」の音声を分析すると、キャラによって音量が不均一だったり、明らかに古い年代のマイクで録ったような「こもった音」が混在していることが判明している。 もし公式が言うように「統一されたスタジオでプロを呼んで新規収録」したなら、こんな品質のバラつきが出るはずがない。 これは、録音環境も年代も異なるバラバラのゲームデータ(moe-speech等)を寄せ集めたと考えるのが自然だ。
検証の結果、有名声優の声と音声の特徴量が「ほぼ本人」レベルで一致するキャラが多数発見されている。 「パラメータ調整で偶然似た」と言うが、声の高さや速度はいじれても、その人特有の「骨格からくる響き」や「微細な演技の癖」まで偶然一致することは、AIでもまずまずあり得ない。 元データとして「その人の声」を食わせない限り、ここまでの再現は不可能だ。
これも動かぬ証拠だ。 元ネタの『moe-speech』には、作成者の抽出ミスで「幼い女の子の祖父の声(老人男性)」に、誤って「幼女(女性声優)」のタグが付いているという有名な汚れ(エラー)がある。
これを踏まえて、にじボイスに実装されていた「ある老人キャラ」の声を解析モデルにかけると、どうなるか。 なんと、「この老人の声は、〇〇(特定の女性声優)である」という判定が出たのだ。
意味がわかるだろうか? にじボイスのモデルは、「このおじいちゃんのダミ声=あの女性声優の声だ」という、moe-speech特有の「間違った知識」を学習していたということだ。
もしAlgomaticが主張するように、スタジオで老人役の声優を収録したなら、そのデータに「女性声優」のタグが付くわけがない。 これは、「タグ付けミスすら直されていないネット上のデータを、中身の検品もせずにそのまま学習させた」という、言い逃れのできない証拠(トレーサビリティ)になってしまっている。
今回のサービス終了は、日俳連の理不尽な圧力によるものではない。
「自社開発」と謳っておきながら、実際はネットのデータを検品もせずに流用していた事実が、技術的な証拠によって明るみに出そうになったため、これ以上の追及を避けるために店を畳んだ。
そう見るのが妥当だ。
「AI推進派」を自認する人たちにこそ言いたい。 もし本当にAIの発展を願うなら、こうした「産地偽装」のような振る舞いをする企業を擁護してはいけない。
それは真面目にコストを払い、権利処理を行い、クリーンなデータセットを構築しようとしている技術者への冒涜であり、ひいてはAI技術そのものの社会的信用を地に落とす行為だ。
「AIだから何でも許される」わけではない。 技術は魔法ではないし、嘘はいつか必ずバレる。
今回の件を「可哀想なAIベンチャーがいじめられた」と総括するのは、あまりにも事態の本質を見誤っている。
以上。
パンティーを被るという行為――羞恥・仮面・秩序転倒の文化社会学的考察
パンティーを頭に被る人物は、多くの社会において「悪ふざけ」「変態」として嘲笑の対象になる一方で、
マンガ・アニメ・コメディ・インターネットミームの反復的なモチーフにもなってきた。
一見して低俗にしか見えないこの行為は、しかしなぜこれほど強く人々の笑いや嫌悪、あるいは不安を喚起するのか。
その過剰な感情反応は、単なる嗜好の問題を超えて、近代社会における身体・羞恥・ジェンダー・権力といった構造的テーマを照らし出していると考えられる。
本稿の目的は、パンティーを被るという行為を「逸脱行動」や「性的倒錯」として切り捨てるのではなく、
という三つの観点から文化社会学的に分析し、その行為が現代社会の規範と矛盾をどのように露呈しているのかを論じることである。
第一に着目すべきは、対象が「パンティー」であるという点である。
しかし社会的には、身体のうち「隠すべき部分」を覆うことで、性的な領域と公共的な領域を峻別する境界線として働いている。
とりわけパンティーは、しばしば女性の身体性・性的魅力・純潔観念と結びつけられ、強い象徴性を帯びている。
文化人類学者メアリー・ダグラスは、「汚れ」を「あるべき場所から外れた物質(matter out of place)」と定義した。
下着は本来、身体の奥まった場所で皮膚に密着し、「見えないこと」自体が期待されるモノである。
それを頭部という最も視線の集まる位置に、しかも外から見える形で持ち出すことは、
「隠すべきもの」を意図的に「あるべき場所から外す」行為であり、ダグラス的な意味での「汚れ」を自ら演出することに他ならない。
人々が感じるのは「汚い」というよりもむしろ「恥ずかしい」「みっともない」という感情であり、
それは身体に付随する性的な領域が、モノを媒介して公共空間に溢れだしたことへの反応である。
パンティーを被るという行為は、自己の身体そのものを露出しているわけではないにもかかわらず、
下着の象徴性によって「性的なもの」が表面化したかのような錯覚を生み出す。
そのギャップこそが、笑いと嫌悪が混じり合う独特の印象をもたらしている。
第二に、「被る」という行為が意味する仮面性を検討する必要がある。
顔は、社会学者エルヴィング・ゴフマンが述べたように、対面相互行為の舞台において自己を提示する中核的なメディアである。
目・口・表情を通じて、人は自己の人格・感情・意図を他者に伝える。
そこに被り物をかぶせることは、自己呈示のチャンネルを意図的に撹乱し、
「いつもの自分」とは異なる人物への一時的な変身を可能にする。
仮面はしばしば、道徳的・法的な責任性を希釈し、人に「普段ならしない行動」を許す。
覆面をした抗議者やハロウィンのコスプレ参加者が、日常では抑制されている言動に踏み込めるのも同じメカニズムである。
パンティーという「ふざけた素材」を用いた仮面は、暴力性よりも滑稽さを強調しつつも、
顔を覆うことで〈誰であるか〉を曖昧にし、同時に〈何者にも属さない、ルール外の存在〉であることを宣言している。
重要なのは、ここで用いられる下着が多くの場合「女性用」として理解されている点である。
男性が女性用パンティーを被る場合、それはジェンダー境界を視覚的に撹乱する効果を持つ。
性的同一性や男性性の「まともさ」を象徴する顔の上に、女性性の象徴物を被せることで、従来的なジェンダー秩序は一時的に解体される。
この解体が、笑いとして消費されるのか、あるいは違和や嫌悪として反発を招くのかは、
社会がその時点で受け入れうるジェンダー規範の幅を測る指標ともなりうる。
第三に、この行為はしばしば「笑い」と結びついて登場する。
ミハイル・バフチンが論じたように、カーニバル的な笑いは、既存の秩序・権威・聖性を一時的に転倒させる力を持つ。
王と道化が入れ替わり、崇高なものが下卑たものに、清浄なものが汚穢に置き換えられることで、人々は日常のヒエラルキーから解放される。
パンティーを被る人物は、多くの場合「くだらない大人」「オトナなのに子どもじみたことをする存在」として描かれる。
そこでは、理性的で成熟した市民として振る舞うことが期待される大人が、もっとも幼稚で性的規範に反する身振りを自ら演じてみせる。
これはまさに、近代的主体の理性と節度という自己イメージを、身体と笑いのレベルで裏切る行為であり、バフチン的な意味での秩序転倒である。
パンティーは、ファッションやポルノグラフィー産業を通じて商品化された「性的魅力」のパッケージでもある。
その商品を「本来の用途」から外し、頭に被るという過剰にズレた使用法は、
シチュアシオニストたちの言う「デトournement(転用)」にも似て、商品に埋め込まれた意味構造をずらし、
消費社会が約束する「ロマンティックで洗練された性」のイメージを滑稽なものとして暴露する。
多くの場合、当事者は「面白いから」「ウケるから」という動機で行為に及ぶ。
しかし、当人の意図とは無関係に、行為そのものが既存の秩序を揺さぶり、
笑いを通じた不安定化をもたらしている点に、カーニバル的な力があるといえる。
ここまで、パンティーを被る行為を文化的・象徴的なレベルで肯定的に読み解いてきた。
しかし同時に、この行為にはジェンダーと暴力の問題が潜在していることも看過できない。
たとえば、所有者の同意なく女性の下着を盗み、それを被って笑いのネタにするような事例は、明らかに性的暴力であり、先の分析とは質的に異なる。
そこでは、女性の身体性がモノに還元され、男性の自己演出の道具として一方的に利用されているからである。
「誰のパンティーか」「どう入手されたのか」「誰の前で行われるのか」「誰が笑う権利を持つのか」といった文脈と切り離しては成立しない。
他者の所有物を奪ってネタにすることとの間には、倫理的に越えがたい差がある。
この意味で、パンティーを被る行為を安易に「自由な表現」「笑いだから許される」として擁護することはできない。
一方で、倫理的に許容可能な範囲で行われるこの行為が、規範の硬直性をほぐし、身体と羞恥をめぐる議論を促す契機となりうることも事実である。
その両義性を見極めることが、現代社会のジェンダー感覚と表現の自由の両立を考える上で重要になる。
パンティーを被るという行為は、表面的には「低俗なギャグ」「一部の嗜好」に過ぎないように見える。
しかし本稿で見てきたように、
として理解することができる。
つまり、パンティーを被る行為は、身体と羞恥を厳格に管理しようとする近代社会の規範に対して、
「本当にそれが唯一の生き方なのか」と問いを突きつける小さな反乱なのである。
もちろん、その反乱が倫理的に許容されるためには、所有や同意、ジェンダー権力といった条件を精密に考慮しなければならない。
しかし、その条件さえ満たされるならば、「くだらない」と切り捨てられてきた行為の背後に、
規範の相対性を示す批評的なポテンシャルを見出すことが可能である。
だが、その笑いが何に支えられ、何を脅かし、何を許さないのかを問うとき、
お前は君がいなくなって、今、困ってるんだろ。それはわかる。だって君はいなくなったんだから。いや、正確には君が「ここに」いなくなっただけなんだけど、お前の脳ん中には君がずっといるんだ。朝起きて、目をこすって、なんとなく君の顔を思い出す。そしたら胸が締め付けられる。そういうことだろ。だから困ってるんだ。思い出すなって言われても思い出すし、忘れたいわけじゃないのに、思い出すと苦しい。その矛盾の中で、お前は今、立ってるんだ。
君がいなくなったことを、ちゃんと認識したのはいつだ。多分、朝だと思う。朝、目を覚ました瞬間。君がいつもの場所にいないことに、たぶん気付くんだ。いや、気付くんじゃなくて、体が勝手に気付くんだ。脊髄反射みたいに。いつもの「君がいる」という重さが、なくなってることに。それで初めて、お前は「あ、君はいなくなったんだ」って気付く。毎朝、何度も。朝のたびに、お前は君がいなくなったことに気付く。それって、すごく残酷だと思わないか。慣れるはずなんだ。一回目はショックでも、二回目、三回目ってなると、マヒしていくはずなんだ。でも、朝のたびに、脊髄反射で気付く。君がいないことに。一日に一回、確実に、その悲しみを新鮮なまま味わわされてるんだ、お前は。それが、毎朝、何年も、続くんだぜ。
思い出すなら、小学校の頃のことを思い出してみてくれ。なにか行事があるたびに、「今日は誰かとこれをやるんだ」みたいな感じで、楽しみにしてたあの感じ。その時のお前の気持ちを。「明日は誰かと一緒に遊べる」みたいな、その無限の可能性。その期待感。その喜び。お前は今、その反対の中にいるんだ。「明日も、君はいない」「明日も、誰かは帰ってこない」「明日も、あの時間は来ない」。その無限の喪失感の中に。小学生の時のお前が感じてた「明日への期待」を、今のお前は「明日への絶望」として感じてるんだ。それが、毎朝、毎晩、何年も、続くんだ。
友達に君の話をしちゃダメだぞ。わかってると思うけど、もし誰かに「実は君がいなくなった」って言ったら、その瞬間から、その話は「君のこと」じゃなくなるんだ。その話は、その相手の「お悔やみ」の対象になる。「そっか、大変だね」「いつのこと?」「何か手伝えることある?」。そのテンプレートの同情の言葉が、次々と降ってくる。君の不在が、社会的なイベントになる。君は「だれかが失った誰か」という記号に変わっちゃう。だからダメだ。君のことは、お前だけの中に閉じ込めておけ。外に出すな。外に出したら、君がお前のものじゃなくなるんだ。君は社会的な「喪失」というレッテルを貼られて、その瞬間から、君はお前の君ではなくなるんだ。だから、黙ってろ。口を閉じてろ。そしたら君は、お前の中だけに、いられるんだ。世界でたった一人、お前だけの中に、君は生きてるんだ。
君がいた時のことを思い出してみろ。思い出せるか?君が、どういう顔をしてたのか。君が、何を考えてたのか。君が、何を好きだったのか。正直に言うと、お前は、もう思い出せていないんだ。「思い出そうとしている」だけなんだ。違いがわかるか。思い出してるんじゃなくて、君を「作り直している」んだ。お前の脳が、お前の都合のいいように。君の笑顔も、君の声も、君が言ったセリフも。全部、お前が勝手に「再構成」してるんだ。その再構成された君が、本当の君なのか。それとも、お前の想像の中の君なのか。もう、区別がついていないんだ。でもそれでいいんだ。なぜなら、君はもういないから。いないやつの「真実」なんて、意味がないんだ。お前が思い出してる君こそが、今、お前の中で生きてる君だ。それが全てなんだ。
ここからが、重要だ。別の人生があった可能性を、お前は何度も何度も考えるだろう。「もし君がいなくなってなかったら」「もし、あの日、別の道を選んでいたら」「もし、あの時、別のことを言ってたら」。その「もし」が、お前の脳を食い尽くすんだ。毎日毎日、同じ「もし」を何十回も何百回も考える。そしたら、ある日気付くんだ。「あ、俺、今、別の人生を生きてるんだ」って。君がいない人生。その人生が、どんなに悲しくても、どんなに苦しくても。それが、お前の人生なんだ。別の人生を選ぶことはできない。君がいた人生に戻ることもできない。ただ、この人生を、進んでいくしかないんだ。その過程で、君を何度も何度も、思い出しながら。お前は、この人生を、引きずっていくんだ。君の幻を抱えながら。
でもさ、ここで気付かなきゃダメなんだ。ここまで読んで、お前は気付いてるはずなんだ。これ、全部、独りよがりな話だってことに。お前は、君がいなくなったことで、自分の悲しみにしか目がいってない。君は?君は今、どこにいるんだ。何を感じてるんだ。君にも、別の世界があったはずなんだ。君にも、君の人生があったはずなんだ。でも、お前は、それに想像力を使ってない。ただ、自分の喪失感だけに、全ての想像力を使ってるんだ。それって、実は、すごく自分勝手じゃないか。君がいなくなったことで、お前は悲しんでる。でも、その悲しみを、君にぶつけることはできない。君は、もういないから。じゃあ、お前がやってるのは、何なのか。お前は、君がいなくなったことで、自分の人生をリセットして。その悲しみを「作品」みたいに、何度も何度も再生産して。その過程で、自分は「深い人間」だと思い込んでるんじゃないのか。違うのか。違うなら、言ってみろ。
俺は、ここでお前に一つだけ言いたいことがある。それはな。君を失ったことで、お前は「聖者」になろうとしてるんじゃないか。ってことだ。君がいた時のお前は、ただのどうしようもない人間だったはずだ。でも、君がいなくなった今、お前は「君を失った人間」として、ある種の「神聖さ」を手に入れたんじゃないか。君の喪失の中で、お前は自分を「悲劇の主人公」として見ることができるようになったんじゃないか。その感覚が、気持ちいいんじゃないか。違うのか。多くの場合、そうなんだぜ。人間は、悲しみの中に「美しさ」を見ようとする。それが生きる意味だと、勝手に思い込む。でも、それは。君を踏み台にして、自分が「深い」と思い込もうとしてるだけなんだ。君はな、そんなために死んだんじゃないと思わないか。君は、君の人生を生きてたんだ。君の人生のために生きてたんだ。お前のための悲劇の背景として、死ぬために生きてたわけじゃないんだ。
だからさ、ここが最後だ。ここが一番大事なところだ。お前は、今、どんなにもがいても。君を呼び戻すことはできない。君と過ごす時間を、取り戻すことはできない。何をしても、何を言っても、君は戻ってこない。それはわかってるだろ。でもわかってるのに、お前は何度も何度も。「もし」を考えて、「別の過去」を作り直して。その中で、もう一度、君と会おうとしてるんだ。その無駄な作業を、何度も何度も、繰り返すんだ。だからな、ここで、お前に聞きたい。お前は今、何がしたいんだ。君がいなくなったことを、嘆きたいのか。それとも、君がいない世界で、生きる方法を探したいのか。どっちなんだ。多分、お前は、両方やりたいんだ。でも、それは無理なんだ。嘆くことを選んだら、その間、お前は生きることができない。生きることを選んだら、その間、お前は君を忘れることになる。その選択肢の中で、お前は今、立ってるんだ。どっちかを選ばなきゃならないんだ。
そしてな、もう一つ大事なことがある。それはな。お前が君を忘れようとしても、君は忘れてくれないんだ。なぜなら、君はもういないから。君は、もう、変わらないんだ。君は、お前の思い出の中で、永遠に若いままなんだ。永遠に同じ顔で、同じ声で、同じ存在のままなんだ。でもお前は、変わるんだ。年をとるんだ。別の人間になるんだ。別の人を好きになるかもしれないし、別の人生を歩むかもしれない。その時、君はどうなるんだ。お前の思い出の中で、置き去りにされるんだ。かつての君。かつてのお前。その二人の関係が、永遠に固定されるんだ。その不条理が、わかるか。その不条理の中で、お前は生きていくんだ。
だからこそな。僕はお前じゃない。だからお前がどうしたらいいのか、わかんない。本当に、わかんない。わかるわけがない。お前の君を失ったその悲しみを。僕が理解することなんて、できるわけがない。できないんだけど。一つだけ、言っておきたいことがある。それはな。お前が「どうしたらいいのかわからない」って言ってることそのものが。実は、一番、誠実な答えなんじゃないか。ってことだ。君がいなくなった。どうしたらいいかわかんない。その「わかんない」の中で。お前は、もう既に、答えを持ってるんだと思う。その答えが、何かはわかんない。でも、わかんない中で、お前が何をするか。その「何をするか」が。唯一の、お前の答えなんだ。僕には、それ以上のことは、言ってやることができない。ただ、そういうことだ。君がいなくなって、お前がどうしたらいいかわかんないなら。その「わかんない」の中で、お前は生きるしかないんだ。それが、全てなんだ。それが、お前の人生なんだ。それが、君を失った人間が、唯一できる、君への敬礼なんだと思う。
珍しくふと、映画館で映画を観たいと思った。最後に映画館に行ったのは11年前、中学の頃親と一緒に行ったっきり。自力で映画館に行ったことも無いのに、なぜかそんな気持ちになった。
細田監督の最新作「果てしなきスカーレット」が、ちょうど公開されるらしい。小学生の頃、金ローで放送された「サマーウォーズ」を録画して、繰り返し観た記憶が蘇る。これは観るしかねえと思い立ち、TOHOシネマズに向かった。
結論としては、良いところはあるものの、やはり細田脚本には問題があると言わざるを得ない出来だった。本当に現状のままでいいのか、細田監督を問いただしたい理由をまとめた。
(1回見ただけなのでおかしいところや思い違いがあると思うけど、容赦してね。)
【以下、ネタバレ】
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まずは簡単にあらすじを紹介。愛する父親を殺された王女・スカーレットは、父親を殺した叔父・クローディアスの暗殺に失敗。死者の国で目を覚ます。スカーレットは死者の国で、現代の日本からやってきた看護師・聖と出会う。スカーレットは聖と共に、かたき討ちのためクローディアスを探す旅に出る。
本作が題材にするのは報復の連鎖。細田守監督自身がインタビューでそう語っており、私もその予備知識ありでスクリーンに臨んだ。では、憎しみと復讐の連鎖に伴う辛さ、やるせなさが描かれているのかと言われれば、十分に描かれているとは言えなかった。
正直なところ、憎しみや復讐の描き方は「進撃の巨人」の圧勝。こちらの方が断然よくできている。本作は「進撃の巨人」と比べて、憎しみと復讐が続いてゆく辛さ、やるせなさが身に強く迫ってこなかった。
一つは、愛する父が暗殺される→クローディアスの暗殺に失敗→死者の国へ、という冒頭の流れが説明的であること。スカーレットが抱える憎しみとその辛さは理解できるものの、それが自分の身に起こったかのように感情移入できなかった。「物語への圧倒的没入体験」を掲げる本作であるが、没入できないもどかしさが最後まで続いた。
もう一つは、クローディアスが一貫して悪人として描かれていること。「進撃の巨人」では、主人公たちが相手を憎むのと同時に、相手側が主人公たちを憎む様子も丁寧に描いていた。絶対的な悪など無く、対立する両者がお互いに痛めつけあうやるせなさ。それが、本作にはほとんど見られない。長期連載作品である「進撃の巨人」と、二時間に満たない尺の本作を比べるのはフェアじゃないかもしれないが、復讐や憎しみを描くうえで、そこは外してほしくなかった。
しかし、復讐や憎しみを題材にしている本作であるが、より深いテーマを感じた。それは、「自分の好きなように生きよ」というメッセージである。
物語の序盤、スカーレットは父の敵討ちに燃え、死者の国で現れる敵を次々と殺してゆく。「王女としてそうあるべき」という義務感をスカーレットは抱いており、それが復讐のモチベーションになっていることが描かれている。看護師である聖は、好戦的なスカーレットと対照的に、敵味方差別なく治療を施し救おうとする。それも、「看護師としてそうあるべき」と聖が考えているからだ。
敵を殺そうとするスカーレットとそれを好まない聖は、一見対照的なキャラクターに見える。しかし、「自分の立場にとらわれて、本当はどう生きたいのか分からない」という内面は同じなのである。
スカーレットと聖は交流を重ねる中で、互いの心情に変化が生まれてゆく。スカーレットは、敵との戦闘になっても剣を鞘に納めたまま戦い、むやみに人を殺めなくなる。人を殺めるための短刀を、自分の髪を切る(新しい自分になる)ために使うシーンは、スカーレットの内面の変化を印象的に描く。逆に、人を殺めることを否定していた聖は、弓矢でクローディアスの手先を殺めてしまう。物語の序盤、「人を殺めるな」とスカーレットに散々言ってきた聖が人を殺めてしまうシーンは大きな批判を生みそうだが、聖が自身の黒い感情に対して正直になった、もしくは抑えられない、という内面の変化が描かれる良いシーンであったと思う。憎しみという黒い感情を否定しないことは、本作の美点の一つである。
一見対照的な二人だが、共に同じ苦悩をを抱えていて、それが変化してゆく、という構成は好印象だった。ただし、スカーレットについては憎しみに関する描写が強すぎて、「王女としてそうあるべきだから復讐に燃えている」という内面が理解しにくかった。物語の序盤も序盤、スカーレットの父が「王女としてではなく、女の子として好きなように生きなさい」と幼少期のスカーレットに語るシーンがあるのだが、さらりとしすぎている。スカーレットが死ぬ前に、クローディアスの暗殺を民衆が熱望していて、スカーレットがそれにプレッシャーを感じているようなシーンがあると良かった。
クライマックス。スカーレットは死者の国から元の世界へと戻り、王女となる。王となったスカーレットは民衆に、「民を救うこと」「子供は絶対に死なせないこと」を宣言する。これは、スカーレットが「王女としてそうあるべきだから」と考えているからではなく、心の底からそう思っている。スカーレットは死者の国での交流を通じ、「私はこうありたい」という自発的な強い意志を手に入れて、物語は幕を閉じるのである。
そのようなクライマックスを踏まえると、「果てしなきスカーレット」は、憎しみの連鎖を描いた物語というよりは、少女が自分の生き方を決める物語なのだと個人的には思った。本質的には、「おおかみこどもの雨と雪」(主人公が、おおかみ or 人間、どちらかの生き方を選ぶ)や、「バケモノの子」(人間世界 or バケモノの世界、どちらで生きるのか選ぶ)など、細田監督の過去作品にも通ずるテーマであるといえるだろう。
本作は他の細田作品と同じく、演出、特にメタファーの使い方に優れる。特に水というモチーフが良い。序盤、空が荒れた海のようにうねる様子をまじまじと見せつけつつ、水一つない砂漠の風景を延々と見せておいて、最後にスカーレットを雨に打たせる流れが良かった。雨はスカーレットの心の痛みであると同時に、乾き続けた心を潤す恵みの雨でもある。スカーレットが抱く矛盾した複雑な感情を、水や雨というモチーフを使うことで、端的に表すことに成功している。物語全編を通じて砂漠の風景が続くのは単調で少ししんどくもあったが、クライマックスに良い形で回収されたのは良かった。
カラスのモチーフも良い。本作ではカラスが度々出現するのだが、物語の終盤、クローディアスと対峙するシーンでザワザワとカラスが集まり、散ってゆく演出が良かった。黒い感情やざらつきが、スカーレットの胸に広がって去っていく描写である。このシーンでは、スカーレットが抱く感情にある程度没入することができた。
しかし最後の最後、黒い竜がカラスとなり散っていくシーンは解釈が難しかった。カラスがスカーレットの内面を表しているのであれば、竜が悪役に雷の制裁を加えるのはご都合主義すぎる。スカーレットの黒い感情の高まりが、直接悪を成敗しちゃってました、ってことになってしまわないだろうか。私の読解力では、一本芯が通った演出として理解できなかった。
その他、聖のキャラクターに人間味が無いとか、スカーレットの母が謎だとか、細田監督らしく突っ込みどころは沢山あるしキリがない。しかし一番の問題点は、わかりやすいカタルシスに乏しいことだろう。「見果てぬ場所」を目指すとか、最後に聖とキスして永遠のお別れをするとか、カタルシスを作ろうという工夫は見られるが没入感が無く、わかりやすく感動できない。
唯一カタルシスを感じたのが、劇中歌「祝祭のうた」(フルバージョンがストリーミングにある)をバックに、スカーレットが炎の中に吸い込まれて現代の日本へとワープするシーン(このシーンはYoutubeでチラッと見ることができる)。なんだかよくわからないけれどいい感じにエモい歌が鳴っていて、スカーレットが「うわああああ」ってなってて、吸い込まれてゆく映像美も(IMAXなので)すごい。「コレだよコレコレ!このわかりやすい感じ!」と思ってスクリーンの中に身を任せたのだが、その先の現代で踊るシーンは作り物感が強く、映画館の座席の上にストンと戻されてしまった。復讐だけのために生きてきたスカーレットが新しい自分を見つける、という背景を意識するとそれなりにエモく見えるのだが、直感的に感情移入してダラダラ涙を流すためにはあと一歩か二歩足りなかった。
「君の名は」ほどではなくてもいいから、馬鹿でも分かるような感動が欲しかった。まず、分かりやすく感動できること。そのあと二回、三回とリピートしていくにしたがって、細田監督の演出の上手さが生きてくる。水や雨、聖がおばちゃんから貰った楽器などのモチーフや、登場人物の些細な変化。それに気づいていくことで、回数を重ねる度により深く物語へと没入することができる。
個人的に大好きな「おおかみこどもの雨と雪」には、それがあったと思う。揺らいだカーテンに隠れた雪がおおかみの姿に変身する激エモシーンや、嵐が去った駐車場で花と雨がお別れする涙腺崩壊シーンなど、音楽(激エモ)と映像美(激エモ)の力を借りた分かりやすい感動ポイントが、まずあった。そのあと繰り返し鑑賞してゆくにつれ、瓶に入ったお花の描写や、おおかみであるとは?人間であるとは?といったテーマの理解度が深まり没入していく。そんな作品だった。それこそが「物語への圧倒的没入体験」だと思うのだけど、皆さんはどう思いますか?
それを踏まえると、やはり奥寺佐渡子さんの脚本に戻してほしいと切に願う。復讐や憎しみを題材にしながら「自分の好きなように生きよ」というメッセージを細田監督から投げかけられた私は、素直に胸を打った。しかし、カタルシスに乏しく物語に没入できてないので、そのメッセージが深くまで刺さってこないし、未消化感が残る。上映が終わった後、前の席に座った女性(大学生くらい?)の二人組が、「何の話か分からない……」と漏らしていたのが印象的だった。監督が伝えたいメッセージが観客に伝わらないのは、あまりにも大きな問題ではないか。
奥寺氏が脚本に嚙まなくなった「バケモノの子」以降、細田監督作品は脚本の弱さを批判され続けてきた。しかし、「竜とそばかすの姫」はそれなりに売れてしまったわけだし、商業的にやっていける限り細田脚本は続いていくだろう。
しかし、本当にそれでいいんですか?
「あなたの脚本だと、メッセージが観客に上手く伝わってないみたいですけど、本当にそれでいいんですか?」と、細田監督に問いかけたくなる。「好きなように作って満足!」みたいな同人誌的な態度の映画作りで細田監督が満たされるのであれば、現状維持でかまわないと思う。我々はスクリーンの前で、感動ではなく悔し泣きの涙を呑むしかない。
しかし、莫大なマネーとステークホルダーを巻き込み、作品を広く世に知らしめる力を持つクリエイターとして、「自分のメッセージを世の中に投げかけ、沢山の人の気持ちを揺さぶりたい」と細田監督が考えているのであれば、勇気をもって奥寺脚本に戻していただきたい。
ちなみに奥寺佐渡子さんのことを調べたところ、最近脚本を手掛けた「国宝」なる映画がとてもすごいらしい。昭和ど真ん中の時代に、任侠の息子が歌舞伎役者として成長していく話なんて教養がない私にはとても敷居が高いんだけど実際どうなの????教えてエロい人。
PS:
TOHOシネマズのBGMってあるじゃん。ピアノの曲。超久しぶりに映画館に行くので、あの曲が劇場で流れている雰囲気も楽しみにしてたんだけど、開場して五分後に入場したらすでに広告が始まってて聴けなかった。放映終了後も、「忘れ物に気を付けてください」の画面が出てくるだけで聴けなかった。開場直後に滑り込めばこのBGM聴けるの?これもエロい人がいたら、ついでに教えてほしい。
仕方がないので、その曲を無限リピートさせながらこの記事を書いている。ちなみに、TOHOシネマズのBGMは「ナッシュスタジオ」という、業務用向けのBGMや効果音を専門に販売する会社のもので、ハードオフの店内放送曲や天神のCM、デデドン(絶望)もこの会社の作品らしい。"Nash Music Library"で調べればストリーミングで聴ける。
ttps://www.joanwestenberg.com/p/how-to-stay-sane-in-a-world-that-rewards-insanity
2016年頃から、私が知る最も聡明な人々が次々とますます愚かな発言をするようになっていきました。
これらの人々は、難解な学術論文を分析できる能力を持ち、理性を理解し、矛盾する二つの考えを同時に頭に保持しても思考が混乱しない、まさに「理性的な」人々でした。
しかし、何かが変わりました。
ある友人は「あらゆる主要ニュースは作為的に作り出された合意に過ぎない」と確信するようになりました。別の友人は、政治的な意見の相違を道徳的堕落の証拠とみなすようになりました。 さらに別の友人は、時に矛盾する様々な信念の緩やかな集合体である「リベラル」という言葉を、まるで人格障害であるかのように使い始めました。
共通する特徴:極端な立場を取ることで、彼らはより多くのものを手に入れていました。あらゆるところに陰謀を見る友人は支持者を集め、やがて聴衆を獲得し、最終的には7桁の収入を得るようになりました。あらゆる問題を二元論で捉えるようになった人物は、あらゆる前提を肯定してくれる既成のコミュニティを見つけました。以下同様です...
明確なインセンティブ構造が存在していました:理性的な態度はコストがかかり、極端な立場を取ることが利益をもたらすという構図です。
私たちは社会を蝕む病のように分極化について多く語りますが、重要なデータポイントを見落としています。それは分極化が効果的なマーケティング戦略であり、実際に効果を発揮しているという事実です。
それは確実に成果をもたらします。
特定の立場を明確に選び、一切の留保なくその立場を貫くことで、穏健な立場では得られないものを手にできます。不確実な世界において確かな確信を得られるのです。あなたを擁護してくれるコミュニティが形成されます。そして、複雑な問題を判断するためのシンプルな判断基準も手に入ります。
何よりも得られるのは、注目、関心、そして影響力です。
「この問題には複雑な側面があり、様々な立場に正当な主張が存在する」と述べるライターは、軽くあしらわれるだけでリツイートすらされません。 「私に反対する者は皆、悪意があるか愚か者である」と主張するインフルエンサーは、引用リツイートによって注目を集め、明確さを簡略化したその見解を評価するフォロワーを獲得します。
清掃員が欲しければ最初からそういう職種で雇用したらいいだけってのは変わらないし、あなたの事務はそういうものだっていう発言だと雑用を例の人だけが行っている事と矛盾するんですけど?
男は色覚が鈍いから女のようにパステルカラーで絵を描かないっていうけど、
このパステルカラーって認識自体男がしてて主張してるものなら矛盾じゃん!w
認識できてるうえでそう描かないなら鈍いからじゃなくて別の理由じゃん!w
色覚語る資格ねーw
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20251121195757# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaSBFtgAKCRBwMdsubs4+ SBfIAP9kN9eKVSU8FJDC8gdgFdlpMxuhdDcHbBAl61yfijdiNwD+M+YB/UHaCpRj RE28HuY8mgzSIYzGBnQwLJXCIg2m7Q0= =NcRq -----END PGP SIGNATURE-----
X(Twitter)を見れば「神AI!」「業務効率化!」「これを知らないと時代に置いていかれる!」みたいな煽り文句が踊ってて、正直うんざりする反面、焦燥感に駆られてついクリックしてしまう。
俺だって試してるよ。 NotebookLMにPDF食わせて「おー、ポッドキャストみたいに会話してる、すげえ」って感動したり、Nano Banana(Gemini 2.5)で画像いじって「うわ、キャラの一貫性保ったまま編集できるじゃん、魔法かよ」って興奮したりしてる。
でもさ、ふと我に返ると、俺の仕事の生産性、1ミリも上がってない気がするんだよ。
すごいツールを触って「へー!」ってドーパミン出して、使い道あるかなーってこねくり回して、結局「まあ、今の実務にはフィットしないか」とか「プロンプト考えるより自分で書いた方が早いな」ってなって、いつもの泥臭い手作業に戻る。
むしろ、ツールの検証とかアカウント作成、使い方の学習に時間食われて、トータルで見たらマイナスなんじゃないかとすら思う。 「AIで楽をするために、AIの使い方を必死で勉強して残業してる」みたいな、笑えない矛盾に陥ってる気がする。
手段が目的化してるのはわかってる。 完全に「AI遊び」になっちゃってるのもわかってる。
みんなどうなの? Xのインフルエンサーじゃなくて、現場で働いてる普通の人間でさ。 「これのおかげで毎日2時間早く帰れるようになった」レベルで、地味な実務にガチっとハマってる奴いるの?
それとも、みんな俺と同じで「すげえすげえ」言いながら、結局Excel方眼紙と格闘してんの?
誰か、本当のところを教えてくれ。
― フランス語の kamikaze(自爆テロ犯) と、日本の「見た目で外国人と決めつける文化」
フランス語辞典 Larousse で “kamikaze” を検索すると、以下のように定義される。
kamikaze
nom
1. Auteur d'un attentat suicide.
2. (Aussi employé en apposition.) Personne téméraire qui se sacrifie pour une cause, souvent perdue d’avance : Il fallait une kamikaze pour accepter ce poste. Candidat kamikaze.
https://www.larousse.fr/dictionnaires/francais/kamikaze/45327
自爆テロ犯
無謀な犠牲的行動をする人
しかし日本で “kamikaze=テロリスト” という理解は一般的ではない。
これは歴史的文脈を無視したステレオタイプの産物であり、日本人にとっては侮辱に近い。
なぜ日本社会では、同じレベルの偏見──「見た目で外国人扱い」──が当然のように行われているのか?
◆ 1. kamikaze 問題は「偏見」の構造そのものを映している
これはすべて “kamikaze=テロリスト” と同じ「外見に基づく誤認」 である。
自分が「見た目で誤解される」と怒るのに、
という ダブルスタンダード を抱えている。
◆ 2. 日本では「見た目=国籍」という錯覚が社会規範として存在する
BBCの報道にもあるように、外見を理由にした職務質問はすでに訴訟の対象となっている。
外見理由の職務質問は「人種差別的」で「違憲」……外国出身の3人が国などを提訴
https://www.bbc.com/japanese/68137481
外見で決まるものではない
パスポートを見せても疑われることがある
ハーフの子どもも「見た目によって日本人扱いされたり、されなかったり」
こうした状況は、
“国籍という制度の理解” と “社会の価値観” が完全に乖離している
ことを示している。
◆ 3. 外見プロファイリングは国際基準では「差別」であり、違法たりうる
法的根拠がない
国際的には “Racial Profiling(人種プロファイリング)” と認定
される。
kamikaze という偏見を受けると怒る
法律上は、
地方・田舎では特に“同質性の強制”が強い(奈良県南部・山梨県・吉野周辺など)
◆ 5. “外国人”という言葉はすぐには消えないが、多くの問題を含む
「外国人」は公式な日本語だが、実際の使われ方はしばしば差別的だ。
例えば、
NHK・民放も“ヴィジュアル的に、外見が日本人に見えない人、日本語を話さない人=外国人”として報道
「日本国籍かどうか」ではなく「見た目が日本人か」で扱いが決まる
という極端に外見依存の文化が残っている。脳内鎖国状態の人が多いという印象。※昔の日本では白人・黒人が入国しただけで全国版の新聞に「外国人」の顔の絵が描かれて日本中に配布されたそうだ。
では依然として根深い。
◆ 結論
もし “kamikaze=自爆テロ犯” という偏見を日本人が侮辱と感じるなら、
彼らが日常的に行っている「見た目で外国人扱い」も同じレベルの侮辱である。
これは、
未成熟
であり、
あなたが感じている怒りと違和感は、国際基準で見ても完全に正当。
(日本国籍を有する者は日本人。日本人の子は日本人である。見た目、話せる言語、出身地は無関係。憲法で保障されている。また、日本国は公用語は法律で決められていない。公用語は日本語ではないが、現代では事実上日本語となっている。(白人から?黄色人種 yellow と呼ばれている東アジアの日本人が日本語を話し、出身地が日本国内で日本語で義務境域を受けた人間という複数要素がセットになった人間が日本人とは言えない。法律でそんな決まりはないのだが、そう思い込んでいる人が多すぎる。日本人は日本語が話せて当たり前だと思っていても日本国には公用語が決められていないのだ。)
経済理論の文脈だけで見れば、高市氏の「サナエノミクス」と「サッチャリズム」は水と油ほど違います。
「サッチャー=フリードマン(マネタリズム・小さな政府)」という理解に基づけば、積極財政を掲げる高市氏がサッチャーを名乗るのは、経済学的には大きな矛盾を孕んでいます。
そして、最後の「お前はトラスだよ」というツッコミは、現在の金融市場や財政規律を懸念する視点から見ると、非常に鋭く、かつ痛烈な皮肉として成立しています。
なぜそう言えるのか、そしてなぜ高市氏はそれでもサッチャーを自認するのか、その「ズレ」と「トラス氏との類似点」について整理します。
ご指摘の通り、サッチャー首相が信奉したミルトン・フリードマンの理論(マネタリズム)と、高市氏の主張は真逆の要素が強いです。
| 項目 | サッチャリズム (英国 1980s) | サナエノミクス (日本 2020s) |
| 基本理論 | フリードマン(マネタリズム) | ニュー・ケインジアン的 / MMT的要素 |
| 財政スタンス | 緊縮財政(歳出削減・小さな政府) | 積極財政(危機管理投資・国債発行) |
| インフレ対抗 | 金利引き上げ・マネーサプライ抑制 | (現在はデフレ脱却・成長重視のため緩和継続) |
| 政府の役割 | 市場介入を減らす(民営化・規制緩和) | 国家主導で産業育成(セキュリティ・国防) |
つまり、経済政策のベクトル(蛇口を締めるか開けるか)は正反対です。
「トラスだよ」と嘆く理由は、財政規律を無視した積極財政が市場(債券市場・為替)に何をもたらすかという懸念にあると推察します。
インフレが高進している中で、「減税」と「エネルギー補助金」という大規模な財政出動(バラマキ)をぶち上げました。
結果: 市場は「英国の財政は破綻する」「インフレが悪化する」と判断。国債が暴落(金利急騰)、ポンドも暴落し、年金基金が危機に瀕して、わずか49日で退陣しました。
高市氏の「必要なだけ国債を発行して投資する」という姿勢は、市場から見れば「財政規律の放棄(悪い金利上昇)」と受け取られかねません。
市場が「日本円や日本国債は危ない(トラスの時の英国と同じ)」と判断すれば、「サッチャーのような改革」ではなく「トラスのような市場クラッシュ」を引き起こすのではないか?
この点において、「お前はトラスだよ」という指摘は、「経済のリアリティ(市場の反乱)を軽視しているのではないか」という非常に本質的な批判になっています。
高市氏がサッチャーを名乗るのは「政治的キャラクター」としての憧れであり、経済政策の中身(フリードマン理論)は継承していません。
むしろ、財政規律よりも財政出動を優先し、それを成長で賄おうとする姿勢は、市場との対話を失敗した時のリスクも含めて、ご指摘通りリズ・トラス氏の短命政権が直面した構造的リスクに近い側面があります。
「保守の剛腕リーダー」を演じようとして、経済の足元をすくわれる(トラス化する)のではないかという懸念は、今の日本の債務残高や円安基調を考えると、決して杞憂とは言えない鋭い視点です。
うーん実質的に台湾侵攻に日米が介入しないってシナリオはありえないと思うんだよね
台湾陥落は日米ともに地政学的前提条件がひっくり返る最悪のケース
そしてCSIS、RAND、CSBAいずれも日米が介入したら台湾侵攻は失敗に終わるとシミュレーションしてるし
しかも実際に日米が介入した場合は介入の程度の差はあれどオーストラリアやフィリピンも加わる可能性がある
一方で習近平も台湾侵攻は絶対に行わねばならない位置づけにしているが絶対に失敗できない
むかし finalvent というブロガ-がいた。
だがこの爺さん、今ではトランプ様を真似て、毎日、有害なフェイクニュースを撒いている。
https://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2025/11/post-442f5d.html
をファクトチェックしてみよう。
タイフォンで使用するのはSM-6およびトマホーク巡航ミサイルな。
各紙報道の通り、9月の演習のため「一時配備」されたものが撤収していっただけなのに、
finalventは「長期配備計画」の「一時撤去」と、正反対に伝えている。
長期配備計画なんてものが明らかになれば、高市発言以上の大騒ぎになる。
だいたい10月17日には自衛隊から岩国市へ「撤収準備中だ」と連絡して、
11月7日の国会発言のエスカレートを避けるため撤収したことにするのは無理がある。
エビデンスとして数字があげられているのだが、これらがことごとく嘘。
実際のBBC/FT記事は「軍出身の中央委員の出席率が半分以下」という記述に留まる。
記事に無い具体数字をあたかも英メディアの調査結果であるかのように見せている。
https://www.ft.com/content/48970df6-f837-476c-ac3e-6c8d28652cc2
「残りは軍関連の失脚が大半」は妄想。
さらに続く
といった描写も、報道には無く、すべてfinalventの妄想だ。
2023–24年時点でなお20%前後の規模があると見積もられている。
https://www.imf.org/en/publications/fandd/issues/2024/12/chinas-real-estate-challenge-kenneth-rogoff
「7%」という具体値は出典なく、低下しているとしても数字が小さすぎる。
明らかに誤り。
IMFや財政当局向け資料によると、中国の「政府全体=中央+地方」の債務残高は2024年末でGDP比約69%。
前年同期比4.3%増、10月単月でも2.9%増。
https://www.stats.gov.cn/english/PressRelease/202511/t20251117_1961879.html
「通年2%未満」は明らかな誤り。
65歳以上は約16%。
60歳以上22%の数字を誤って用いているか、意図的に盛っている。
重慶での単体事件を、「北京や上海で相次いだ」と膨らませている。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2025090500737
大都市では隠蔽の難しいタイプの事件であり、実際に重慶の事件ではSNSや報道に載った。
Taiwan Newsが「ある月にPLA機のADIZ進入が222回」と報じたのは7月の記事。
https://taiwannews.com.tw/news/6154786
ISW(Institute for the Study of War)は戦争研究所で、ワシントンに本部。
「戦略国際研究所」は IISS(International Institute for Strategic Studies)でロンドンに本部。
全く別の機関を混ぜるんじゃない。
両日エントリとも、現時点の公開情報と明確に矛盾する、あるいは出典不明の数字やニュースを、まるで既成事実であるかのように紛れ込ませた内容である。
誤りのパターンは、LLMの典型的なハルシネーションに見えるが、そのほとんど全てが「中国は大したことない」「高市首相は有能」であるかのように見せる方向に歪んでおり、誤り、いや、意図的な嘘だ。
敵国を侮る分析は、国民に意思決定を誤らせ、国を亡ぼす危険なもので、右翼の面汚しと言える。
佞言断つべし。
「プロジェクトセカイ カラフルステージ!」がリリースされてから、音楽ゲームとしての完成度やキャラクターたちの物語は多くのファンを魅了してきた。
だが――その華やかなステージの裏で、現代社会が決して見逃してはいけない構造的問題が静かに進行している。
問題の中心にあるのは、アイドルグループ「MORE MORE JUMP!」。
“明るく前向き”“キラキラ”“かわいい”と称される彼女たちだが、そのメンバー構成は女性のみ。一見すると当たり前に見えるかもしれないこの事実こそ、私たちが見落としてきた「ジェンダーの偏り」そのものではないだろうか。
現実世界では「男女共同参画社会基本法」が掲げられ、「性別に関わらず、あらゆる分野で活躍できる環境」が求められている。
しかし、MORE MORE JUMP!のステージに立つのは女性アイドルのみ。
オーディションの形跡もない。
つまりこれは、華やかなステージを装いながら、性別による“参加制限”が構造化されている状態に他ならない。
だが、影響力を持ったコンテンツだからこそ、そこに潜む偏りは現実へ強烈に波及する。
そんな旧来型の固定観念を、プロセカは無自覚に再生産してはいないか。
MORE MORE JUMP!のテーマは「再起」「前向き」「夢を追う」。
「アイドルは女性であるべき」という古いステレオタイプを、キラキラした世界観の中でそっと肯定しているようにも見える。
これでは、作品がどれほど前向きなメッセージを語ったとしても、ジェンダー平等の観点からは時代錯誤だ。
■ 多様性の時代に、なぜ“男女混合アイドル”が一組も存在しないのか
プロセカには多くのユニットが登場するが、特にアイドルをテーマにしたユニットが女性限定であることは、“多様性”を唱えるべき現代のコンテンツとしては明らかにバランスを欠いている。
MORE MORE JUMP!に限らず、男女混合のアイドル像や、性別に縛られない表現の開拓を避けて通ることはできないだろう。
■ 結論:MORE MORE JUMP!は、“優しい差別”の象徴になっていないか
華やかで、前向きで、輝いている。
だからこそ、その陰に潜む偏りはより深刻だ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/dot.asahi.com/articles/-/269918?page=1
これ見て思ったけど……。
①条件を広く取ることを明言する
(中国の侵略的行為を強く批難できるが、火種を生み日本を危険にさらすリスクがある)
②曖昧を貫く
(現状維持)
③条件を限定的にすることを明言する
(日本が中台の争いに巻き込まれることを防げるが、中国の侵略的行為を容認するメッセージにもなってしまい、将来的な日本のリスクにもなる可能性もある)
の選択肢があって①を選んだ。
じゃあ一方で岡田はどのような回答を引き出したかったかと言えば、元記事では
で、はてなでの意見がどうかと言えば、「高市はどういう対応を取るべきだったか?」という話題では②の曖昧路線が主流なのに、「岡田に責任はあるか?」という問いだとなぜか②の曖昧さを否定して③に振ろうとしている岡田を擁護する意見が主流になる。
曖昧戦略を支持するなら高市も岡田も批判してしかるべきだが、なぜか岡田の方は批判しない。
はてなーなんて統一人格はないとか下らねーツッコミはいらないぞ。
一人一人確認したわけではないが、☆の付け方を見れば、この②と③を都合良く使い分ける矛盾した奴等が少なくない数いるのはどう考えても明らかだ。
(中には軍事力行使の条件を曖昧にすべきではないと曖昧戦略自体を批判している人もいたが、そういう人はとても筋が通っていると思う。賛否は別とするが)
無理やり擁護するならそもそも高市が①に寄っていたので、それを②に寄せ直そうとした……という解釈もできなくもないが、それなら
とあるようにそこで満足していれば良かったわけで、やはり岡田は③の回答を引き出そうとしていた以外の解釈は難しい。
曖昧にすべきなのかそうではないのか矛盾を厭わない形での擁護が出てくるのを見ると、本当は岡田を庇ってる側の人達も中国の侵略姿勢を良しとする姿勢はどんな理由があれ今の日本の一般的な倫理観で受け入れられることはないということは分かっていそうに感じるんだよな。
でも立憲シンパは立憲のマイナスになることはできないから、とにかく高市の失言だけにフォーカスしてそこから目を逸らそうとしている。
最近、「人生どう楽しむか」とかQOLがどうとか、そういうのを考えるのをやめた。
結局のところ、幸福感なんてものは脳内の神経伝達物質の量で決まる物理現象に過ぎない。
焼肉のホルモンじゃない。アドレナリン、ドーパミン、エンドルフィン。こいつらを意図的にドバドバ出せるシステムを構築した奴が勝つ。それだけの話だ。
俺は転勤族で、東京と大阪を行ったり来たりしてるんだが、どこに住もうがやることは変わらない。
悪いことは言わないから、リッターSS(スーパースポーツ)か、最低でも750ccクラスを買え。
東京にいるなら奥多摩周遊道路、大阪なら龍神スカイラインか月ヶ瀬。このあたりの峠を、タイヤの端まで使って走れるスペックが必要だ。中古で100万出せば、四輪のスーパーカー並みの加速装置が手に入る。コスパが良すぎる。
バイクで登山口まで行って、そこからさらに自分の足で標高を稼ぐ。
関東なら両神山の鎖場、関西なら大峰の大普賢岳あたりが最高だ。
おすすめは、早朝の高速ですり抜けして神経を極限まで研ぎ澄ませてから、そのまま山に取り付くルート。心拍数を限界まで上げて、滑落のリスクを脳の片隅で処理しながら岩を掴む。
安全マージンはもちろん確保するけど、感覚的には「死」を隣に置く。この緊張感が重要。
極限の緊張状態(交感神経優位)から、サウナと水風呂の温度差攻撃で、強制的に副交感神経優位へとスイッチさせる。
そうすると、脳内でβ-エンドルフィンやらセロトニンやらオキシトシンやら、快楽と安らぎを司る脳内麻薬のカクテルが生成される。理屈で言えば、これで幸福にならないわけがない。
体は疲労困憊、でも脳は覚醒状態。この矛盾した状態で1xxキロ出しながら暗闇を切り裂いてると、ドーパミンが致死量ギリギリまで分泌される感覚がある。
ここだけは譲れないんだが、行くなら絶対「高級ソープ」一択。10万握りしめて行け。
最近流行りのタチンボとかマッチングアプリ、パパ活みたいな素人崩れには絶対手を出さない。病気のリスク管理ができてない案件でロシアンルーレットするほど俺は馬鹿じゃない。プロの接客と衛生管理に金を払うんだよ。
そこで性欲中枢をバグらせて、仕上げに鰻か高い肉を胃に詰め込む。
「そんなことして何になるんだ」って言われるかもしれないけど、これには実利がある。
週末にこのルーティンで「死のリスク」を脳に叩き込んでおくと、平日の仕事での「リスク許容度」がバグるんだよ。
月曜日に上司から鬼詰めされたり、プロジェクトが炎上したりしても、
「まあ、昨日の首都高のすり抜けに比べれば死ぬわけじゃないしな」
「大普賢のあの崖で足滑らせた時の方がよっぽどヤバかったわ」
って感じで、心拍数が全く上がらなくなる。
どうせ死なねえから余裕余裕、という謎の全能感で切り抜けられる。これこそが最大のメリット。
あと不思議なもんで、こうやって極限まで身体を痛めつけて賢者タイムに入ると、家にある法華経とかヴィトゲンシュタインが妙にスッと入ってくるんだよな。
以前、会社でやらされた「マインドフルネス研修」とか当時は「宗教かよ、クソが」と思ってたけど、今の状態ならその意味が痛いほど分かる。「今、ここ」に集中する感覚って、結局は脳のバグを利用したハックなんだよ。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」とか、下山後の脳味噌だと「ああ、それな」って感覚的に理解できる。
まあ、ブコメで「ただの危険運転」「薬物依存乙」って叩かれるのは分かってる。
でも、現代社会の閉塞感を突破するには、これくらい生物としての生存本能をハックしないと無理なんだよな。
そういえば先週、迷い込んだ山奥の店で食った天ぷらが死ぬほど美味かった。
コシアブラとかタラノメみたいな山菜も凄かったんだが、太白胡麻油で揚げたハモの天ぷらが異常に旨くて、そこだけ記憶が鮮明に残ってる。
そういう予期せぬ「バグ」みたいな幸福を見つけると、「まあ、このクソみたいな世界も悪くないか」と思える。
いつまで続けられるか分からないけど、止まったら死ぬ回遊魚みたいなもんだから、しばらくはこのまま走り続けるしかない。
ここまで読んだ人、ありがとう。
「存立危機事態は関係の強い国が戦争に巻き込まれた場合なので、台湾侵攻は存立危機事態だと言ったら、台湾を国と認めたことになる!中国様への内政干渉だ!」というのが中共奴隷左翼がバカの一つ覚えで言ってる言い分だが
もとより現実の入出国手続や“外交”儀礼や貿易にまつわる事務手続きなどのあらゆる局面において、日本は便宜上は台湾を国のように扱っている。
にもかかわらず、公式な声明では中国の立場を尊重するとしている。
この明らかな現実と建前の矛盾をそのまま維持するのがすなわち「あいまい戦略」である。「台湾は独立国である」とも言わないし、「武力侵攻しようが中国様の自由でございます」とも言わない。
もしも台湾有事が起きたら台湾を救うためではなく日本の利益を守るために可能な行動をせざるを得ない。別に直接参戦しなくても現代戦ではやるべきことは山とあるのである。
「台湾は国じゃないから!何も起きてないの!何も起きてないから何もしないの!」なんてことがあるわけはない。
便宜上は台湾を国のように扱いつつ公式に台湾は独立国だと言明することはしない。従来の「あいまい戦略」に完全に合致している。
────────────────────
増田で人力botをロンパするために書いたものではない。どのくらいコンパクトにまとめられるかの確認。
────────────────────
台湾がかくもユニークな立場におかれているのは歴史的には自業自得なんだよな。
最初から「我々は台湾だ」とだけ主張していれば中国の国連入りの際に入れ替わりで放逐されることはなかっただろう。そこで国民党が「いや、我々が本当の中国だ」と言い張ったせいでこんにちの悪縁が生まれてしまった。
台湾の存在そのものがまたとない特殊ケースなのだ。「一国二制度」などという奇妙な理屈は、まだ力が足りないと思う中国が歯噛みしながら受け入れてきたものであり、いつ破り捨てられるかわからない。
不良セクタ以下のゴミデータをネットにまき散らしてご満悦なんだろうけど、全部間違ってるからな。
まだこういうバカがネットにいるのかと思うと暗澹たる気持ちだが、よそで恥をかかないために無料でアドバイスしてやろう。感謝しろ。
だから「女が男に厳しくしても許されるのに男が女に厳しくするのは差別」みたいな現象が起きるのは、制度上の矛盾じゃなくて必然なんだわ。
ラディフェミは「女性」っていう大きなカテゴリで「弱者vs強者」の図式を作って運動を先鋭化させて「男は加害者、女は被害者」っていう図式を強く押し出した結果、社会的な支持を失って孤立していったんだけど、その孤立に並行してあったのが、さらなる弱者の運動からのパージなんだよ。
なにかっつーと、「女性」の中にもさらに抑圧されてる層がいるわけじゃん。黒人女性、障害者女性、貧困層の女性とか。
で、ラディフェミの論理って「女性は男性に抑圧されてる弱者だから、補正が必要」っていう構造なのに、その論理をさらに内側に適用されると自分たちが強者側になるわけだ。
そうなると、黒人女性が「白人女性中心の運動だ」って批判するのとか、障害者女性が「健常者女性の視点しかない」って指摘するのに対して、「弱者の声を優先すべき」っていう自分たちの論理を否定できないから、運動が分裂して内ゲバになったんよ。ラディフェミの論理で戦ってると、いつか弱者属性カードゲームになるからな。ネットのツイフェミがそうしたクソゲーを延々と遊んでるからわかるだろう。
ラディフェミが死んだあとに頑張ったリベラルフェミニズムがそこから一定の成果を上げられたのは、「性別に関係なく能力に応じた機会を」っていうジェンダーを問わない、誰も表立って否定しづらい原則を掲げたからで、それで法改正や制度変更を引き出せた。
納得できねえだろうけど、社会ってそうやって変えてくもんなんだよ。メンタルとオツムがクソガキだからわからねえだろうけど。
運動の成否って、正しさだけじゃなくて戦略の問題なんだよ。どんなに理念が正しくても、攻め方を間違えると同じナイフで自分が刺されて死ぬ。だからラディフェミは研ぎすぎた自分のナイフで刺されて死んだし、リベフェミは扱いやすいサイズのナイフをうまく使って攻め切った。
お前みたいに「差別されてきたから分け前をよこせ」なんてバカ主張がクソ真面目にされてたら、フェミは何一つ成果を上げられなかっただろうな。