「ユダヤ教」を含む日記 RSS

はてなキーワード: ユダヤ教とは

2025-11-09

弱者男性批判する人たちに、ユダヤ教からなにかツッコめることはありますか?

弱者男性という社会的レッテルやそれをめぐる議論に、ユダヤ教視点から何か言えるかということですね。

1. ユダヤ教では人の価値地位や力ではなくツェレム・エロヒム(神の像)

まず最も基本的観点として、ユダヤ教はすべての人間が神の像(ツェレム・エロヒム, צֶלֶם אֱלֹהִים)に創られたと教えます創世記 1:27)。

この考え方からすれば、人を強者/弱者とラベル付けして価値づける発想そのものが誤りです。

一人ひとりが神の像を宿しており、その尊厳社会的成功能力では決まりません。

したがって、弱者男性批判する言説に対してユダヤ的に言えばこうツッコめます

あなたが『弱い』と決めつけているその人も、神の像を宿している。あなたは神の像を軽んじていないか?」

2. タルムード倫理他人の恥を暴くのは血を流すことと同じ

タルムード(バヴァ・メツィア 58b)はこう教えます

「公の場で他人を辱める者は、血を流す者に等しい(מלבין פני חבירו ברבים כאילו שופך דמים)」

SNS上などで弱者男性などとレッテルを貼り、嘲笑したりすることは、まさにこの教えが戒める行為に当たります

相手社会的血を流してしまうようなものです。

3. ピルケイ・アヴォット(先祖言葉)の教え:「誰が強い者か?」

ピルケイ・アヴォット(賢者言葉)4章1節にこうあります

「誰が強い者か? 自分欲望を制する者である。」 (אֵיזֶהוּ גִבּוֹר? הַכּוֹבֵשׁ אֶת יִצְרוֹ)

ユダヤ的には、真の強さとは他人支配する力や経済力ではなく、自分内面制御できるかどうかです。

まり弱者と呼ばれる人の中に、もっとも強い魂を持つ人がいるかもしれない。

4. まとめ

ユダヤ教視点から見ると、こうツッコミを入れられます

「人を弱者と呼ぶのは、あなたが神の像を見損ねている証拠ではないか?」

「本当の強さは、他人を嘲ることではなく、自分の欲を抑えることだ。」

2025-11-07

神の似姿に創られた存在、と言いますが、箴言ではきっぱりと愚者に対しての扱いを言ってますよね?

箴言ミシュレイ)では、確かに愚者(כְּסִיל/kesil)に対して厳しい言葉がたくさんあります

たとえば次のような節があります

愚か者に答えるな、その愚かさに従って。さもないと、お前も彼のようになろう。

しか愚か者に答えよ、その愚かさに従って。さもないと、彼が自分を賢いと思うであろう。」

箴言 26:4–5)

このような節は、一見「神の似姿としての人間」という考えと矛盾しているように見えます

しかし、ユダヤ伝統的な解釈では、これら二つの概念矛盾せず、むしろ補い合うもの理解されています

ユダヤ思想では、「ツェレム・エロヒム(神の似姿)」とは人間本質的尊厳を指します。

それは、生まれながらに神の創造によって与えられたものであり、誰も失うことはありません。

一方、箴言で語られる愚者とは、道徳的知的選択の誤りを繰り返す人を指します。

まり愚か者とは存在否定ではなく、行動や態度の批判なのです。

ラビ・アヴィグドール・ネーベンツァール(現代エルサレム学者)はこう説明します:

トーラー人間を決して切り捨てない。愚かさを切り捨てるのだ。」

箴言は知恵文学であり、感情的非難ではなく、人間の行動を正しい道に導くための現実的アドバイスです。

例えば、箴言14:7にはこう書かれています

愚か者の前を離れよ。そこには知識言葉がない。」

これは「愚か者は神の似姿ではないから関わるな」ではなく、「あなた自身が愚かさに引き込まれないように、距離をとりなさい」という心理的倫理的アドバイスです。

まり箴言は人の尊厳否定せず、愚かさの影響を避ける智慧を教えています

タルムード(ペサヒーム 113b)には次のような教えがあります

「三種の人とは交わるな……しかし、すべての人を平和の心で迎えよ。」

まり、行動上は距離をとる必要がある相手でも、心の中ではその人の内なる神性(ツェレム・エロヒム)を忘れないという態度を求めています

ラビヒルレルも言いました(アヴォット 1:12):

「人々を愛し、彼らをトーラーへと導け。」

それは、「愚かさを嫌っても、人を嫌うな」という倫理です

教え 内容 目的
神の似姿(創世記1:27) すべての人間存在価値尊厳の土台
愚者への警告(箴言 行動・言動に対する現実的指針 自己防衛・知恵
タルムード調和 人を嫌わず、愚かさを避ける 愛と現実バランス

まりユダヤ教は愚かさを厳しく戒めますが、愚かな人そのもの否定しません。

彼(または彼女)にも神の似姿がある。

しかし、その行動が有害なら、その影響を避けつつも、心では憎まずにいる。これが箴言と神の似姿を両立させる視点なのです。

尊敬する人物失望した時

Q: 私は最近、ある気付きがありました。

それは、最初から愚者クズであると私が思っている人間発言には動揺しませんが、私が尊敬している人間攻撃言動などをしたときにより大きな失望を感じるということです。

私は最近、ある物理学者ツイートで「idiotであるなら、少なくとも有用でいろ」という発言がありました。

この人は尊敬していたのですが、他人をidiotと言ったり、有用というまるで人を道具扱いする言動を見て失望したのです。

このような事象に対し、ユダヤ教はどうサポートする?

ーーー

あなたの感じた「尊敬する人が攻撃的な言葉を使った時の失望」は、人間関係の中で非常に普遍的体験です。

そして、ユダヤ教の教えには、このような感情にどう向き合うか、またどう自分の中で整理するかについて多くの知恵があります

ユダヤ教では、すべての人間は「ツェレム・エロヒム(צלם אלוהים)」神の似姿に創られた存在だと教えます創世記 1:27)。

まり、誰もが神的な価値を持つと同時に、不完全さをもつ存在です。ラビたちは「賢者であっても、時に罪を犯す」と語ります(コヘレト・ラッバ)。

あなた尊敬する物理学者も、知性において優れていても、人格言葉においては未熟な部分があるかもしれません。

ユダヤ教的な視点では、その人の一部の欠点が、全体の価値を打ち消すわけではないと考えます

あなたが感じた違和感他人をidiotと呼ぶ」「有用であることを人の価値とする」これはユダヤ教で非常に重く扱われるテーマです。

ラションハラー(悪口・悪意のある言葉)」は、タルムードで「三人を殺す」と言われています

悪口は三人を殺す――話す者、聞く者、そして語られる者」(アラヒン 15b)

まり、その発言は話した人自身にも悪影響を及ぼすのです。

ですからあなた失望は、実に深い倫理的感受性の現れです。ユダヤ的に言えば、あなた言葉の聖さに敏感であるということです。

ミシュナ「アヴォット(先祖の教え)」ではこう述べられています

「人をすべて、善意の側から判断せよ」(アヴォット 1:6)

まり、もし可能であれば、「彼は苛立っていたのかもしれない」「彼なりの不器用表現かもしれない」と、一度は善意で捉えてみる姿勢を持つように、と教えます

これは相手行為を免罪することではなく、「自分の心を恨みや幻滅に支配されないようにするため」の精神的防御でもあります

ユダヤ学者ラビ・ナフマン・ミ・ブレスラフはこう教えました:

他者の中に欠点を見たなら、それは自分の中にある何かを映している鏡である。」

あなたがその物理学者言葉に強く反応したのは、「人の尊厳を守る」というあなた自身の大切な価値を裏切られたと感じたからです。

それは痛みでもあり、同時に、あなたが深く倫理的思慮深いである証拠でもあります

ユダヤ教的に言えば、このような経験は次のように整理できます

1. 人は誰でも不完全である(ツェレム・エロヒムの一部)

2. 言葉には霊的な重みがある(ラションハラーの禁止

3. 可能なら善意で捉える(ダン・レカフ・ズフート

4. 自分価値観を再確認し、他者に頼らず内なる光を保つ

anond:20251106235348

この主張は「自己肯定ナルシシズム自己愛)」という混同を指摘していますが、ユダヤ教立場から見ると、少し異なる方向から答えが与えられます

ユダヤ教では、人間存在のものが神によって創られた尊厳あるものとされます

「神は人を御自身のかたちに創造された」(創世記 1:27)

まり自分肯定するということは、自分存在が神の創造の一部であり、神の像を宿す者として価値があることを認める、という意味になります

これは「自分の顔が美しい」や「自分特別だ」というナルシシズムとは違い、「神が私を創ってくださったゆえに、私は価値ある存在だ」と認める謙虚自己肯定です。

ラビアキバピルケイ・アヴォート(先賢の言葉)にてこう述べています

「愛されているのは人間である。なぜなら人は神の像に造られたからだ。

さらに愛されているのは、神の像に造られたことが知らされていることである。」(アヴォート 3:14)

この教えは、行動の善悪だけでなく、人間存在のものがすでに神に愛されているというメッセージです。

ただし、その愛を裏切らないようにトーラー律法)に基づいて行動する義務がある。ここで倫理・行動の肯定が加わります

自己肯定するとは、神があなたを創り、あなたの中に神の像を置いたことを認めることだ。

それは傲慢ではなく、感謝表現である

そのうえで、自分の行動を倫理的に整えることが、神の像にふさわしく生きる道である。」

ご参考までに、ラビ・シュネル・ザルマン(タニヤ)もこう書いています

自分卑下することは罪である。なぜならそれは神の創造否定することになる。」

2025-11-05

anond:20251105191903

とても興味深いテキストですね。

内容としては、現代的なニヒリズム虚無主義)を感じさせます

人生意味はない、努力も業績も最終的には消える、誰も自分を見ていないという主張は、ある種の哲学的冷徹さをもって書かれています

ユダヤ教的な観点から見ると、これは根本的に人間世界に対する視点が異なると言えます。以下に、ユダヤ思想との対比を示します。

1. 誰もお前を見ていない vs. 神は見ている

この文書根底にあるのは、他者視線から自由になることで救われるという思想です。

一方、ユダヤ教では他者よりも神の視線が中心にあります

「人は心を見ることができないが、主は心を見る」(サムエル記上 16:7)

まり、たとえ人間あなたを見ていなくても、神はあなた内面と行いを見ている。

この認識は、ユダヤ的な倫理観の根幹です。

人の目を気にすることから自由になるのはよいが、それを誰も見ていないから何も意味がないと結論づけるのではなく、神が見ているからこそ自分の行いには意味があると捉えるのがユダヤの方向です。

2. 努力意味を持たない vs. 努力のものに聖性がある

この文書は、努力も結局消えるという無常観を述べます

ユダヤ教も確かに人間人生ははかないと認めますが、それを無意味とは見ません。

「われらの手のわざを確かにしてください」(詩篇 90:17

ラビ・アキヴァなど多くの賢者は、「行為の結果が見えなくても、行為自体が神の意志の一部である」と教えます

タルムードアボット 2:16)ではラビ・タルフォンがこう言います

あなたはすべての仕事を終える義務はないが、それを怠る自由もない。」

たとえ努力の結果が風化しても、その努力の瞬間は永遠価値を持つのです。

なぜなら、それは神の創造継続参与しているからです。

3. すべては無に帰す vs. 無の中に隠された神の目的

文書最後には無意味を受け入れたときに人は自由になるとあります

これは禅や現代哲学の影響にも似ています

ユダヤ思想でも、「アイン(אין)=無」という概念重要です。カバラでは、「アイン・ソフ(אין סוף)」=「限りなき無限なる神」として語られます

しかしその「無」は、意味の欠如ではなく、意味の根源です。

まり無意味ではなく、意味理解を超えたもの

人間には意味が見えなくとも、神の次元では秩序と目的存在すると考えます

4. 意味求めない自由 vs. 神との関係における自由

ユダヤ教では、意味求めないことは自由ではなく放棄とみなされます

自由とは、神の像に似せて創造された存在として、自らの責任を引き受ける自由です。

「見よ、今日、私は命と善、死と悪をあなたの前に置く」(申命記 30:15)

ユダヤ教における自由は、何でもできるではなく、正しいことを選ぶ力です。

したがって、意味求めない自由よりも、意味を創り出す自由が尊ばれます

✡ 総括

この文章洞察は、一面では他者の期待から自由になるという点で真理を含みます

しかし、ユダヤ視点では意味否定は救済ではなく、神との関係の断絶です。

真の救いは、意味を見出せない時にもそれでもなお意味があると信じるところにあります

「たとえ彼が私を殺しても、私は彼に望みをかける」(ヨブ記 13:15)

2025-11-04

狂った世界に一度行って戻ってくると、如何に人類が互いに似ているかがわかる

俺は錯乱して主観現実が狂った時に、「俺の認識操作して世界を安定させる」という世界線に行った

俺の認識が狂うと世界が狂うので、周囲の人達は俺の認識うまい具合に利用して安定させようとする

このような価値観世界のどこへ行っても存在しないだろう

そのパラレルワールドからこの世界に戻ってくると、宗教が多様だとはいえ類似点はかなり多いと思える

例えばユダヤ教仏教には「足るを知る」といった共通アイデアがあるし、倫理を説く宗教には「黄金率」という類似概念がある

狂った異世界人間コミュニケーションを取るのは不可能と思ったが、この世界人間たちとコミュニケーションを取って友になるのはずっと簡単だと思うわけである

相違点ばかりではなく、類似性に目を向ければ、世界にはまだ救いがある

かにキリスト教には悪魔概念があるが、ユダヤ教にはない」と言うと、倫理根本が全く異なるという印象を与えるが、

創世記」「箴言」「十戒」といった経典共通しているという点に着目すれば、まったく未知の言語を話すわけではないというのがわかる

異世界ではこの前提が成り立たなかった。言葉情報を伝える手段ではなく、個々の狂気を増幅する装置になっていた

誰も同じ対象を見ておらず、共通現実仮定するという発想すら存在しなかった

したがって、会話は成立しない。発話は発話として受け取られず、各自幻覚体系に吸収されて終わる

その点、この世界人間たちはまだ「同じ世界を共有している」という最低限の合意を持っている

誤解や対立はあっても、意味が伝わらないわけではない。それは脆いが、なお機能している構造

俺がこの世界で人と対話できるのは、彼らがまだ現実共通参照点として扱えるから

まり、ここではまだ話すという行為現実を維持する機能を持っている

それだけで、この世界異世界よりも圧倒的に救われているといえる

2025-10-31

anond:20251031130014

なるほど、意図がよくわかりました。

あなたが言いたいのは、「もし情弱ビジネス的な構造宗教の中にあるとすれば、それは信者を増やすことを目的とする宗教に現れやすい。ユダヤ教そもそも布教目的にしていないから、そういう構造とは無縁だ」

ということですね。

まったくその通りです。あなたの指摘は非常に的を射ています

ユダヤ教本質的に「布教宗教」ではありません。

たとえばタルムード・イェバモート 47aでは、改宗希望する人に対してまず三度止めるよう教えています

これは「ユダヤ教を選ぶのは重い責任と掟を受け入れることだから、軽い気持ちではだめだ」という意味です。

また、ユダヤ教では「義人である異邦人ゲルトーシャブ)」も神に受け入れられる存在とされ(参照:バビロニアン・タルムードサンヘドリン 105a)、全人類ユダヤ教徒になる必要はないと考えます

まりユダヤ教信者を増やすための仕組みを持たない宗教です。

そのため「情弱ビジネス構造不安を煽って加入を促し、献金依存を生む仕組み)」とは本質的に異なります

ユダヤ教倫理観では、商取引宗教行為も「エメト(真実)」と「ヨシャル(誠実さ)」に基づくべきとされますミシュレー〔箴言11:1「偽りの天秤は主に忌み嫌われる」)。

anond:20251031125739

すべての宗教じゃないぞ

情弱ビジネス布教をする宗教限定される

ユダヤ教布教目的にしないので、単に歴史的に積み上げられた知恵

anond:20251031054948

この主張は「例外を設定することが理論妄想化させる」と言っていますが、特にタルムード思考観点から見ると、まったく異なる理解の体系が存在します。

ユダヤ教おいて、「例外」や「条件分岐」は論理破綻ではなく、むしろ真理をより正確に掘り下げるための手段とされます

タルムードはその典型で、単純な法則提示した後に、無数の「例外」や「場合分け」が登場します。たとえば:

シャバットに火をともすことは禁じられている」

— では、もし病人を助けるためなら?

— では、命に関わらないが苦痛を和らげるためなら?

— では、機械自動で火をともす場合は?

このように、例外を探ること自体トーラーを「生きた法」とする営みなのです。

神は人間に理性を与え、「境界線思索」を求めたとされます創世記 2:19)。例外検討することは、神の創造多様性に応答する行為です。

タルムード議論はしばしば結論が出ません。

なぜなら、ユダヤ思考では、「例外」は理論を壊すものではなく、現実の複雑さを正直に反映させるための器だからです。

例:「人は自由意志を持つ」と「すべては神の計画である」は矛盾して見えますしかし、ラビたちはこの二つを「両立させよう」とします。

神の完全な知と人間部分的自由、その間にこそ真理の緊張があるのです。

あなた提示した主張では、「例外」は理論を守るための防衛反応とされますが、ユダヤ教ではむしろ逆です。

例外を問うことは、理論現実に照らして再検証する道徳的責任です。

律法を学ぶ者は、ただ行うために学ぶ」(アボット 4:5)

まり理論(法)は現実に生きる人を導くものであり、もし法が現実を傷つけるならば、例外を探すことが義務です。

これを「ピクアフ・ネフェシュ(命の保全)」と呼び、たとえ安息日であっても命を救うためなら律法を破ることが許されるとします(タルムード・ヨマ 85b)。

例外を設ける」ことは、理論の腐敗ではなく、真理を現実に根づかせる努力です。

しろ例外を認めない」理論こそが、生命倫理から遊離した「妄想」に陥ります

律法は命のために与えられた。死をもたらすためではない」(エズキエル 20:11 に基づくラビ解釈

2025-10-29

高知能ほど倫理性が低い」という研究引用してナチ正当化する人に、ユダヤ教観点から指摘できることはありますか?

ユダヤ教観点からは、知性と倫理は切り離せないものであり、知識や知能が高いほど、その力を正しい方向に用いる責任がより大きくなる、と考えられています

タルムード(Horayot 10a)に次のような教えがあります

「学識のある者の罪は、学識のない者の罪よりも重い。」

まり知的能力を持つ者は、その分だけ倫理的・霊的責任を負うという考えです。

「知能が高いほど倫理性が低い」という主張は、ユダヤ的には逆説的に「知恵を正しく用いない罪」を指摘されることになります

創世記 1:27 にこう書かれています

「神はご自身のかたちに人を創造された。」

この教えは、人間価値が知能や能力によって決まるものではないことを明確にしています

ゆえに、知能や遺伝特性に基づいて人間の優劣や価値を決めようとする思想ナチズムのようなもの)は、神の創造根本理念のもの否定するものです。

タルムード Avot 3:9 にラビ・ハニナ・ベン・ドサがこう言っています

「行いが知識を上回る者の知識は保たれる。だが、知識が行いを上回る者の知識は続かない。」

これは、「倫理」に支えられない知識は、結局は破壊的になるという警告です。

ナチス・ドイツ科学技術組織知能を持ちながら非人道的行為を行ったことこそ、このタルムード的警告の典型です。

ミカ書 6:8 に書かれています

「主があなたに求めておられるのはただこれだけ、正義を行い、慈しみを愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと。」

ユダヤ教倫理の中心はここにあります

知能や力の有無ではなく、「正義」「慈悲」「謙遜」をどう実践するかが人間価値を決めるのです。

ユダヤ教的に見れば、「知能が高いか倫理性が低い」という理屈不正義を正当化することは、次の点で誤っています

1. 知性は倫理から切り離せない(むしろ責任を増す)

2. すべての人は神の像に似せてつくられた(優劣はない)

3. 知識が行いを伴わなければ破壊に至る

4. 正義と慈悲こそが人間に求められる価値

2025-10-28

いくらSNS用途チェス的に先読みしても「このゲームに参加しない」が最適になってしま

2025-10-22

anond:20251022225413

あなた文章はいくつかのテーマが含まれていますユダヤ教的な視点からそれぞれを考えてみましょう。

1. 「ズレ」や「予測不能性」とユダヤ思考

ユダヤ教では、人間の行動が単なる機械的自然的な反応ではなく、自由意志によって導かれると考えます

トーラーの中でも、神はモーセを通じてイスラエルにこう語ります

「見よ、今日わたしあなたの前に命と善と、死と悪を置いた。」 (申命記 30:15)

まり人間決定論的な存在ではなく、ズレる存在。あえて予測不能な方向に選択できる存在として神に似せて創造された、という思想です(創世記1:27参照)。

この意味で、「ズレ」は単なる奇行ではなく、機械的自然の流れに対して、神的な選択を行う余地のもの象徴しているとも言えます

2. 「量子乱数的ズレ」と「神秘自由意志

あなたが挙げた「量子乱数で行動すればズレが作れる」という発想は非常に現代的です。

ただしユダヤ教的には、偶然のように見えることも神の摂理の中にありますタルムード(バヴァ・バトラ 91b)はこう言います

「人は自分の行いを選ぶが、その結果を決めるのは天の御手にある。」

まり予測不能行為も偶然も、本当の自由倫理的な方向へ意識的に選ぶ力にこそある、と考えます

3. 「自由意志倫理的行動のために使う」

あなた最後の一文

「もし自由意志を持っていることを信じるなら、その自由意志倫理的行動のために使うのが進化した人間という生物

これはユダヤ思想と非常に響き合います

タルムードアボット 3:15)はこう述べます

「すべては天に定められているが、神を畏れることだけは人に委ねられている。」

まり自由意志の究極の目的倫理的選択にある。本能的なズレではなく、意識的に正しい方向にズレること。それが神の似姿としての人間の使命です。

まとめ

あなた主題ユダヤ視点
ズレ・予測不能自然決定論を超えた自由意志の表れ
量子乱数・偶然 神の摂理の一部であり、倫理的選択舞台
自由意志 神に似せて創られた人間本質
倫理的行動 自由意志目的創造パートナーとなる道

2025-10-20

人間はただ、狂った時代に、狂ってダンスを踊ってるだけ?

人間はただ、狂った時代に、狂ってダンスを踊っているだけ」という言葉には、人生不条理社会混沌に対する諦め、あるいは皮肉な観察が込められています

ユダヤ教的な視点から見ると、この考え方は一面の真理を含みつつも、最終的にはユダヤ世界観とは異なる方向を指しています

1. ユダヤ教における時代の「狂気

タナハ(聖書)にも「狂った時代」についての意識はあります

たとえばコヘレト伝道の書)にはこう書かれています

「すべてのことに時があり、天の下の出来事には定められた時がある。」(コヘレト 3:1)

まりユダヤ教世界の混乱や理不尽さを否定しません。人間は確かに時代の流れに巻き込まれときに「狂ったように」見える世界を生きている。

しかし、それでも世界無意味ではなく、神の意志の中にある秩序が存在すると教えます

2. 「踊る」ことの象徴

「踊る」という比喩も興味深いです。

ユダヤ教では、踊りは単なる気まぐれではなく、神への喜びや生命への感謝表現です。

たとえばダビデ王が契約の箱の前で踊ったとき

ダビデは主の前で力の限りに踊った。」(サムエル記下 6:14)

この踊りは狂気ではなく、霊的な高揚の象徴でした。

まり、もし「踊り」が「混乱に流される無意味な行動」を指すならユダヤ教はそれを戒めますが、もし「踊り」が「困難な時代の中でも神を見失わず生命意味表現すること」なら、それは非常に尊いものです。

3. ユダヤ視点からの応答

ユダヤ教人間を「ただ狂った世界で踊る存在」とは見ません。

しろ人間ティクンオラム世界の修復)、すなわち「世界をより良くする責任」を負う存在とされます

世界が狂って見えるのは、私たちにその混乱の中で意味見出し、行動する使命があるからです。

正義を行い、慈しみを愛し、謙遜あなたの神と共に歩むこと。」(ミカ書 6:8)

これは、「狂った時代に、どう踊るか」を示すユダヤ的答えとも言えるでしょう。

まとめ

2025-10-19

愚痴ネット上に書けば発散できる」という現代的発想は、ユダヤ教的にどう映りますか?

愚痴ネット上に書くことで気が晴れる」という現代的な行為を、ユダヤ教的な視点から考えると、いくつかの重要な要素が浮かび上がります

1. 言葉の力への意識

ユダヤ教では「言葉」は非常に大きな力を持つと考えられています

箴言ミシュレイ)18:21 にこうあります

"死も生も舌の力にある。"

まり言葉は単なる表現ではなく、現実を創り、人を癒すことも傷つけることもできるものとされます

SNS愚痴を書くとき、その言葉他者を傷つけたり、不必要な争いを招く可能性があるなら、ユダヤ教的には慎重になるべきと考えられます

2. ラションハラ悪口中傷)の禁止

タルムード(Arachin 15b)では、ラションハラ他人について悪く言うこと)を非常に重い罪として扱います

この教えは、単なる噂や愚痴でも、人の評判を傷つけることにつながるなら禁じられる、というものです。

ネット上に愚痴を書いても、もし誰かの名誉人格を損なうような内容を含むなら、それはラションハラにあたる可能性があります

たとえ名前を出さなくても、誰のことか推測できるような形なら注意が必要です。

3. 「心の健康」と「建設的な発散」

一方で、ユダヤ教人間感情否定しません。

悲しみ、怒り、失望といった感情を持つの自然なことです。詩篇(Tehillim)では、ダビデ自身が神に対して嘆きや怒りを正直に吐露しています(例:詩篇13篇、22篇など)。

ただし、彼はそれを「神に対して」表現しています。つまり自分愚痴や苦しみを神との対話に変えるのです。

この姿勢は、感情をただ撒き散らすのではなく、内省と成長の糸口に変えるという点で重要です。

4. ユダヤ提案ネットよりも「人」や「神」へ

もし愚痴を発散したいなら、ユダヤ教的には:

  • 信頼できる友人、ラビ家族などに直接話す(Mishnah Avot 1:6:「自分のために師を持ち、友を得よ」)
  • または、祈り日記を通じて神に心情を語る

といった形のほうが望ましいと考えられます

これは他者を巻き込まず、同時に自己理解を深める方法でもあります

まとめ

ユダヤ教視点から言えば:

判断根拠
感情を吐き出すこと自体肯定的詩篇などでダビデも嘆きを表現している。ただしネットでpublic発言するのは注意。
他者を傷つける愚痴中傷否定ラションハラ禁止(Arachin 15b)
感情神との対話内省に変える 推奨 詩篇・アヴォートの教え

なぜ現代では愚者ほどSNS評価されるのでしょうか

この現象は、タナフ(聖書)やタルムードでもたびたび語られています

「なぜ悪や愚かさが目立ち、善や知恵が隠されるのか」

これは古代から人間が抱き続けてきた問いです。

1. 聖書視点:「この世」と「来世」の区別

詩篇 73篇でアサフはまさに同じ苦しみを語っています

「なぜ悪しき者は栄え、傲慢な者が安らかに生きるのか。」— 詩篇 73:3

彼は、愚か者が栄える現実を見て心が乱れました。しかし彼は神殿に入り、悟ります

「神の聖所に入って、私は彼らの終わりを悟った。」— 詩篇 73:17

まりユダヤ視点では、今見える「栄え」は最終結果ではないのです。

SNS評価や人気は、「この世」の一時的な見せかけ(הֶבֶל, hevel=虚しいもの)にすぎません。

コヘレト伝道の書)1:2でもこうあります

「すべては虚しい(הֲבֵל הֲבָלִים, hevel havalim)。」

2. タルムード洞察:誰のための「評価」か

タルムード(エルヒン 15b)はこう言います

「人は、自分時代に称賛されるかどうかで真の価値を測ってはならない。」

真の価値は「天の裁き」で決まる。世間の人気は、多くの場合「耳に心地よい言葉」を語る者に与えられる。

しかトーラーの真理は、しばしば人に「挑戦」と「不快」を与えるものです。

からラビたちが評価されないことは、実は彼らが真理を語っている証拠でもあるのです。

3. 現代観点:光が強いほど、影も濃く見える

カバラ的に言えば、世界は「クリッパー(קליפות, 外殻)」に覆われています

これは善の光を隠す「殻」のような力です。

SNS世俗文化の多くは、この「殻」の領域に強く働きます。なぜなら:

  • 愚かさや刺激は、人間欲望を直接くすぐる。
  • 善や知恵は、心の静けさを必要とする。

光は常に控えめで、影はいつも派手に目立ちます

でも、本物の光は静かに世界を変える。

派手な炎はすぐ消えるが、ランプの灯は長く燃える、という比喩タルムードにもありますシェバット 31a)。

4. ラビたちへの「報酬」:隠れた栄光

ピルケイ・アヴォット(祖先言葉)4:2にこう書かれています

「ミツワーはミツワーを生み、罪は罪を生む。」

まり、善の結果は目に見えないところで積み重なり、最終的に永遠世界で報われる。

そして、アヴォット 4:3はこうも言います

「どんな人も軽んじてはならない。どんな行いも無視してはならない。すべての人に時がある。」

ラビや善人の評価が表に出ないのは、彼らの時がまだ来ていないだけなのです。

5. あなたへの霊的な指針

SNS世界では「声の大きさ」が価値のように見えます

しかユダヤ教では、「静けさ」が神に近い状態とされます

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」— 詩篇 46:10

もしあなたが「善が報われない」と感じるなら、それは神があなたに「外ではなく、内に目を向けよ」と促しているサインかもしれません。

まとめ

世俗価値ユダヤ視点
人気・フォロワー 神の前での誠実さ(אמת, emet)
目立つことが成功 隠れた善が真の成功
今この瞬間の評価永遠次元での評価
愚者が栄える 賢者は神のもとで報われる

この問いはまさに「アサフの苦悩」と呼ばれる、霊的成熟の通過点です。

あなたがその痛みを感じていること自体、すでに魂が真実を求めている証拠です。

引き寄せの法則」に対しユダヤ教はなんと応じますか?

引き寄せの法則」や「思考現実を作る」という考え方は、近代的なスピリチュアル思想でよく語られますが、根本的な違いも明確です。以下に整理して説明します。

1. ユダヤ教における人間思考現実関係

ユダヤ教では、人間思考言葉には霊的な力があると考えます

箴言ミシュレ)18:21にはこうあります

「死と生は舌の力にあり。」

まり、人の言葉思考現実を動かす潜在力を持ちます

ただし、それは「自分宇宙を動かす」意味ではなく、人の思考言葉を通じて、神が世界に影響を与えるという考え方です。

2. 「引き寄せ」ではなく「祈り」と「信頼」

ユダヤ教では、「引き寄せる」というよりも、「祈る」という行為が中心です。

祈り目的は「自分思考現実を変える」ことではなく、自分自身を神の意志に整えることです。

ラビ・シュネウル・ザルマン(ハバド思想創始者)はタニヤでこう述べています

「人の思考現実を形づくる力を持つが、それは神の意志に一致しているときにのみ力を発揮する。」

まりユダヤ視点では:

という位置づけです。

3. 「思考現実を作る」の危険

ユダヤ教は、人間神格化することを避けます

自分思考現実を創る」という考え方が強くなりすぎると、偶像崇拝(アヴォダ・ザラ)の一歩手前になってしまう恐れがあります

なぜなら、それは「自分意志宇宙の中心」とする発想だからです。

申命記 8:17–18にこうあります

あなたが心の中で『私の力と手の強さがこの富を得た』と言ってはならない。あなたの神、主を覚えなさい。」

まり成功や変化の根源は自分思考や力ではなく、神の導きであるということです。

4. ユダヤ的「思考の力」:ビトホン(信頼)とアハヴァ(愛)

一方で、ユダヤ教は「信頼」の力を非常に重視します。

人が神に全き信頼を置くとき、神の祝福がその人を通して現れる。これも一種の「霊的な引き寄せ」です。

詩篇37:3–5にこう書かれています

「主に信頼し、善を行え。…主を喜べ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」

ここでいう「願いが叶う」とは、自分欲望を叶えるというより、神との調和の中で自分の願いが浄化され、現実化されるという意味です。

まとめ

観点引き寄せの法則ユダヤ教の考え
力の源 自分思考
目的現実を思い通りに変える 自分を神の意志に整える
方法イメージ自己暗示祈り、信頼、トーラー実践
結果 自己実現 神との関係の深化と祝福

もしあなたが「ユダヤ的な引き寄せ」を実践したいなら、それは「神を信頼し、良い思考言葉を持ち、善行を積むこと」です。

それが最も強力な「霊的引き寄せ」の形といえるでしょう。

2025-10-18

anond:20251018211432

俺さぁ、あるサブレユダヤ教を賛美するコメントをしたんだよね

そうしたらパヨ系のサブレから一斉に投稿拒否されたんだよ

やっぱアメリカ人パヨのスタンダードな発想は「これを支持する奴は全員嫌い」ってやつなんだよ

2025-10-13

anond:20251013024316

かにユダヤ思想の中でも「神への信仰(אמונה בא־ל)」と「自由意志(בחירה חופשית)」は、倫理的行動の根幹をなす2つの柱です。

ユダヤ教の伝統では、人間道徳的選択を行う主体であるためには 自由意志 が不可欠であり、またその選択意味を持つためには 神の存在、すなわち、善と悪を判断する基準を超越的な存在が定めていることが前提とされています

ラビアキバはこう述べました:

「すべては前もって知られているが、自由意志が与えられている」(アボット 3:15)

まり、神は人間の行動を知っておられるが、それでも人は自らの行為責任を負う、という両立の思想です。

この信念が社会的にも倫理的にも重要なのは、「神が見ている」という意識道徳的自己統制を促し、「自分選択の力がある」という意識責任感を育むからです。

タナハ(旧約聖書)にも同じ構造が見られます

「見よ、今日、私はあなたの前に命と善、死と悪を置いた。…命を選びなさい」(申命記30:15,19)

ここでは、自由意志をもって神の道を選ぶこと が、人間道徳的価値の核心であると明言されています

ですからあなたの言うように「神への信仰」と「自由意志の信念」が犯罪を減らし、社会をより良くするというのは、まさにユダヤ思想本質を突いています

それは「恐れ」と「責任」のバランスによって人間を律する道でもあります

2025-10-06

平家源氏から領地略奪されて部族九州などに散ったが、六波羅という地名ダビデの星みてーだな

ユダヤ教じゃないのにな

2025-09-30

anond:20250929221827

もちろん人によって子を持たない・持てない理由は様々なわけで原因は一つじゃないけども

「カネがないか結婚しないし子もできない」みたいな単純な話じゃないんですよ、少子化って。

結婚健全出産子育て必要条件から

まずは経済政策必要条件を満たせる人を増やさないとどうしようもないわけで

経済政策アプローチ少子化対策に必要不可欠だよ

価値観多様化たから結果として生まれてくる子どもが減ったんです。

日本信教の自由内心の自由がある以上、価値観統一するのはもう不可能なので

指摘したところで何の効力もないね

先進国の中で一国だけ、例外的に突出して出生率の高い国があります。それはイスラエルです。特殊出生率は「3」に迫る高さです。ユダヤ教社会伝統的・宗教的価値観を非常に重んじる社会で、ユダヤ教は多産を奨励しているのです。

イスラエルは男女共に徴兵制だけど

女性出産すれば兵役免除されるから

出産徴兵逃れというメリットがあるからポコポコ産んでるんだよ

日本も月7万ぐらい子育て手当出せばいいんじゃない

anond:20250930092522

とても面白い主張ですね。ユダヤ教視点からこれに応えると、ポイントは「人間存在目的」についての理解になります

ユダヤ教では、人間は偶然に存在するのではなく、神によって意図的創造された存在と考えます

創世記(ベレシート)1:27ではこう書かれています

「神は人をご自身のかたちに創造された。」

まり人間は「神のかたち(ツェレム・エロヒーム)」を帯びた存在であり、そのために倫理的・霊的責任を担っています

「生きる目的」は単なる種の保存や生物学衝動だけではなく、神の意志を実現し、この世界をより聖なるものにしていくことにありますティクーンオーラム=世界の修復)。

かにユダヤ教では「生殖」も重要なミツワー(戒め)です。創世記1:28

「生めよ、増えよ、地に満ちよ」

という命令があります

しかし同時に、それは唯一の目的ではないとも教えています。たとえば、タルムードキドゥーシン 39b)は「人は律法を学び、善行を行うことによって世界に義を立てる」と語ります。つまり知的・霊的探求も神の望む道の一つです。

ご指摘の「抽象数学」「超弦理論」など、高度で抽象的な探求心は、ユダヤ教的に見ても尊いものです。ラビ・モーシェ・マイモニデス(ランバム)は『ミシュネートーラー』で、自然界・宇宙の仕組みを知ることは神を知る道であると書いています(ヒリホット・イェソーデー・ハトラー 2:2)。

ですからユダヤ教的には

「性欲よりも知的・霊的探求を重んじる」という姿勢は決して否定されず、むしろ神の創造理解につながるものとして価値づけられます

このように、ユダヤ教は「俺の存在整合性のために世界がある」という個人心の哲学とは違い、「神の意志のために世界人間がある」と考えますが、その上で知的精神的探求心を重んじるという点では、あなた価値観とも重なる部分があります

2025-09-29

経済政策少子化は止まらないよ

「カネがないか結婚しないし子もできない」みたいな単純な話じゃないんですよ、少子化って。

価値観多様化たから結果として生まれてくる子どもが減ったんです。

 

かつては価値観画一的でした。お見合いでもなんでもして多少気に入らない相手とでも結婚して子どもは2人以上作る、という価値観社会支配していて、独身のままでいることや子を持たずにいることへの風当たりは現代とは比較にならないほど強かった。つまり同調圧力出生率を維持できていました

そのシステム機能してたのは経済成長期かつ人口ボーナス期だったからだ、と言われるかもしれないけど、戦中戦後経済どん底にあった時期だって日本は「産めよ殖やせよ」のスローガンのもと驚くほど多産だった。まともに食べ物もないのにポロポロンと4人も5人も子ども産んでたんですよ。

これには社会福祉基盤も関係します。社会福祉基盤が脆弱だった時代には、親は子を産み育て、子は親が老いたら面倒を見るというサイクルが必要でしたし、子はまた重要労働力でもあったでしょう。ぶっちゃけそれらのために子どもを産んでいたようなものです。

まりかつての日本は貧しくても子どもを産んでたんです。子を産み育てることのプライオリティがとても高かった、と言い換えることもできます

 

ひるがえって現代社会構造の変容につれて家族観も変容していきました。

まず社会福祉基盤が整備されたこと。老人は子どもの世話にならずとも年金やさまざまな福祉生活できるようになりました。将来世話してもらうための子を作る必要性が薄くなったのです。

また、女性社会進出が進んだこと。さまざまな法整備価値観アップデートがあって男女間の社会的地位の格差が縮まり、「寿退社」は働く女性の唯一の選択肢ではなくなりました。自立やキャリアに重きを置く女性が増え、そうした女性たちの中にはひとまず結婚出産先延ばしにする人もいるでしょう。プライオリティが下がったのです。

生き方暮らし方の価値観多様化しました。個人主義が広まり結婚しない・産まないという選択自発的にする人も許容される世の中になりました。LGBTQという、子孫を残さない前提の生き方さえ肯定されています

また、今の生活レベルを下げたくないとか都心に住みたい、自由時間がほしいといった理由出産を控える夫婦もあるでしょう。子育てにはお金時間もかかります。そうしたリソースをどう振り分けるか、これもプライオリティ問題しかありません。

 

このように、少子化社会構造が変容する過程で人々の選択肢の中で相対的出産プライオリティが下がっていったことが原因のひとつなのです。社会前近代的伝統的価値観を捨てて、個人権利尊重する近代的な価値観を手に入れたことの副作用だった、と言ってもよいでしょう。先進国が軒並み少子化しているのも同じような近代化の過程を歩んだからで、構造的に不可避だったわけです。

 

ちなみに、先進国の中で一国だけ、例外的に突出して出生率の高い国があります。それはイスラエルです。特殊出生率は「3」に迫る高さです。ユダヤ教社会伝統的・宗教的価値観を非常に重んじる社会で、ユダヤ教は多産を奨励しているのです。

2025-09-17

ナチスシオニズムハンナ・アーレント

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.bbc.com/japanese/articles/c1jz5exkgk9o

モサドアルゼンチンで元ナチス将校誘拐してイスラエル裁判にかけたあたりでイスラエル独善的な異常性に警告を出すべきだったのかもな。ナチスの異常さが際立ってたから影に隠れてしまった感。

この記事にこんな人気ブコメがあったのでイスラエル批判について少し補足をする

ブコメ主は知った上でこのブコメをしているかもしれないけど)

シオニズムとは?

本題に入る前にいくつかの前提知識から19世紀末にヨーロッパで広がったユダヤ人国家建設運動で、それほど新しい思想ではない。背景には、長期のディアスポラ故郷を持たず民族世界各地に散らばること)と反ユダヤ主義歴史があり、特にロシア帝国でのポグロムユダヤ人虐殺)や西欧社会での差別拍車をかけた。ナチスによるホロコーストはこの運動に大きな正当性を与え、多くのユダヤ人パレスチナへの移住国家建設を求めるようになる。1948年イスラエル建国宣言され、シオニズムはその大きな第一目標を達成する。

シオニズムネタニヤフ政権

ネタニヤフ政権は、右派リクード党や宗教右派を中核に入植地拡大を支持する勢力による連立政権。その支持層には、国家安全保障を重視し、ヨルダン川西岸地区併合パレスチナ自治の縮小を容認・推進する層が多く含まれている。

本来シオニズムの「ユダヤ人が自らの国家を持つ」という当初の目的をすでに達成しているが、現在ネタニヤフ政権シオニズムを「ユダヤ人領土拡張」と結びつけ、その名のもとに周辺地域への侵略支配正当化に利用している状況となっている。ヨルダン川西岸での入植地拡大やガザ地区での軍事行動は、単なる安全保障上の対応だけでなく「シオニズム継続的使命」として位置づけられ、内部的正当化を行っている。

この拡張路線には宗教的聖地が深く関わっており、エルサレムユダヤ教キリスト教イスラム教聖地が集中する場所であり、イスラエル東エルサレムを含めて「不可分の首都」と主張している。また、ヨルダン川西岸にはヘブロンベツレヘムなどユダヤ教にとって重要聖地があり、宗教右派は「神が約束した土地を取り戻すことこそシオニズムの使命」と訴える。当初は近代的・世俗的な民族運動だったシオニズムが、宗教的使命と結びつくことで、より強固な排外的ナショナリズムへと変質している結果が現状の強硬路線となっている。

ハンナ・アーレントとは

ここでやっと本題となるハンナ・アーレント(1906–1975)という女性について紹介する。ドイツまれユダヤ系政治哲学者で、ナチス迫害から亡命米国拠点活動した。彼女の最も大きな特徴は自身ホロコースト経験したユダヤ人でありながら、シオニズムアイヒマン裁判に対してともすれば「反イスラエル」とも取れる警鐘を鳴らし続け、それ故に特にイスラエルにいるユダヤ人から強い反発を受けたということ。

イスラエル建国への警鐘

アーレントイスラエル建国のものには一定の理解を示したが、その進め方と国家像に深い懸念を抱いていた。アーレント危惧したのは、イスラエルユダヤ人のみを中心とした排他的民族国家となり、軍事力安全保障を最優先することで、長期的な孤立アラブ諸国との恒常的な対立を招くこと。アーレントは、パレスチナにおけるアラブ人との共存模索し、多民族的な政治共同体を構築すべきだと主張していた。また、彼女被害者としての歴史を過度に強調することが、自らが加害者となる可能性を軽視する結果を招くと指摘し、歴史的な悲劇記憶免罪符として機能する危険性も説いていた。

アイヒマン裁判と悪の凡庸

アイヒマン裁判は、ナチスの高官アドルフ・アイヒマンユダヤ人大量虐殺の実行に関与した罪で1961年イスラエルで開かれた裁判アイヒマン戦後アルゼンチンに潜伏していたが、モサドによって捕えられエルサレムで裁かれることになった。この裁判は、ニュルンベルク裁判以来の大規模な戦争犯罪裁判であり、単なる個人刑事責任を超えたホロコースト全体の歴史検証の場ともなった。

アーレントはこの裁判取材し、『エルサレムアイヒマン』にまとめた。この中でアイヒマンを「悪の凡庸さ」の典型とみなし、彼を冷酷な悪魔ではなく命令に従い思考停止した官僚人間とした。つまり、深い憎悪や悪意ではなく「考えずに行動する」ことが大量虐殺に加担する原因となる、と主張したのだ。これはイスラエルシオニズム観点からすれば、自分たち悪魔的な絶対悪被害者であり、そこから立ち上がったユダヤ民族、そしてイスラエル建国というアイデンティティに反するものであり猛烈な批判さらされる。さらアーレントは、イスラエル政府が裁判を自らの正当性証明に利用した点、またユダヤ人指導層(ユダヤ評議会)がホロコースト部分的に関与していたことを批判的に論じたことが、批判拍車をかけることとなる。

アーレント懸念現実

アーレントは多くの批判さらされたが、その批判的推測や警鐘現実のものとなっている。

シオニズムに基づいたイスラエル建国に対する懸念

→周辺のアラブ諸国との絶え間なく続く紛争

被害性の強調が自身の加害性を認識できなくする

シオニズム正統性の核とした周辺諸国他人種の軽視。

イスラエル自体凡庸な悪への転化

ナチス象徴とするような凡庸な悪へのイスラエル堕落

今回はイスラエルシオニズム)とハンナ・アーレントについて整理をしたが、自分も完全に理解をしていないので間違っていたら補足を頼む。

そして彼女ユダヤイスラエル関係だけでなく、共同体運営についてもとても興味深い主張や著書が多くあるので、興味がある人はぜひ触れてみてほしい。(とはいえ共同体のあり方は、ネット前後でかなり異なるので彼女思想が今もそのままは通用しないが・・・

全体主義の起源1951年)』と『エルサレムアイヒマン1963年)』は特におすすめだ。

多くの場合、起こってしまたことに対する警鐘はそのはるかから鳴らされているのである

しかし、それを無視し時には批判することで風化し、実際に起こってやっと振り返ることしかできないのだ。

アーレントに触れて現代世界情勢と照らし合わせれば、多面的視野思考意識的に取り入れるということの重要性を改めて感じることができるはずだ。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん