はてなキーワード: 当事者研究とは
子の付き添い入院を経験してそれを何かの形にしたいと思っているのだけれど、その「形」とエスノグラフィは8割くらい被ってる気がする。「当事者研究」とも近い。
この本は、私が付き添い入院と付き添い入院の間、数ヶ月の在宅治療中に、「なんかメンタルが整うような本ないかな」と思って立ち寄ったスーパーの中にある本屋で、めぼしいものが見つからず、「じゃあ新しい学びでも得るか」と立ち寄った新書コーナーで見つけた本だ。「エスノグラフィってなんだっけ?」と思って手に取ったが、初めて知った言葉だった。
買って一日で読み切ってしまった。
この本では「エスノグラフィとは何か?」という問いに対し、冒頭に結論となる文章が書かれている。初見では分かりにくい文章だが、その中で登場するキーワードを、各章で細かく説明する形で理解を深めていくようになっている。
私の感想もその文章の各キーワードについて、「付き添い入院中に私がやってたのってエスノグラフィなのかな〜違うかな〜」など、思ったことを書いていく。
その文章の説明をするところの前に「はじめに」と第一章の「エスノグラフィを体感する」があるので、そこの感想。
エスノグラフィは社会学の一部らしい。私は社会学部卒だったのでこの本を手に取ったのも必然だったか、という気持ち。あとこの「はじめに」の中に「在宅酸素療法」という言葉が出てくるのにも驚き。子がまさに酸素療法中だったので、「空気って大事なんだな」って話に非常に縁を感じた。
賭けトランプと棺の話面白い。ざっくりこの辺まで立ち読みして買うのを決めた。
『エスノグラフィは何も隠されてはいない、ありふれた日々の「生活を書く」ことを基本にします』。付き添い入院が行われている小児病棟は、隠されているわけではないけど、限られた条件の人しか参加できない。ただ、そこでは少し変わってはいるものの確実に生活が営まれている。
フィールドで見た場面と研究主題の接続:これが私の書きたいこととエスノグラフィの違い。私特に主題っぽいものを持ってない。「貧困」とか「差別」みたいな。多分。問題意識はあるんだけどそれをいま書いて訴えたいかと言われると、ちょっとピントがズレる。
フィールドと自分の普段の生活を二重写しにみる:これはそう。付き添い入院を知らなかった私には戻れない。
フィールド調査の十戒:これは基本的に「部外者」としての考え方だ。「当事者」として病棟にいた私が、より理性的に振る舞うために何が必要だったか考えさせられた。寛大であることと関わる人を中傷しないことは難しかった。私は「奪われた」寄りの人間だったから、無駄に奪われないために戦う必要があったし、中傷もした。「そういう考え方もあるね」と俯瞰することもないではなかったけど。フィールドの文化と歴史を知るために調べて歩き回ることは意識した。付き添い入院がどういった背景で行われているのか調べ、実際に入院する前に病棟の見学もさせてもらった。情報があまりにも少ないことが不安を生んでたからだ。偉そうにしないこととただの見学にならないように記録することも「部外者」の発想だと思う。
書くことについては、私は完璧に考えがまとまってから書くのでも、書きながら考えが立ち上がってくるのでもなく、考えた端から書きつけていかないと気が済まないタチ。不安や怒りといった感情とこれからすべきことは何かといった思考が絡まった状態で脳内にあるので、言語化して要らない感情は捨てて、必要な思考を拾い上げていく。整理してまとめ上げるというよりは断捨離。
章間にあるコラム全部面白い。ストリートコーナーソサエティの付則が面白いって書いてあるのと似てるかもしれない。
エスノグラフィは、経験科学の中でもフィールド科学に収まるものであり、なかでも①不可量のものに注目し記述するアプローチである。不可量のものの記述とは、具体的には②生活を書くことによって進められる。そして生活を書くために調査者は、フィールドで流れている③時間に参与することが必要になる。こうしておこなわれたフィールド調査は、関連文献を④対比的に読むことで着眼点が定まっていく。そうして出来上がった⑤事例の記述を通して、特定の主題(「貧困」「身体」など)についての洗練された説明へと結実させる。
妊娠中に子が先天性心疾患を持っていることがわかった。付き添い入院の必要があることが分かったのは生まれて1か月が経ったころ。2か月で手術をし、付き添い入院が始まり、4か月で退院した。現在子は7か月で、この先もう一度、手術と付き添い入院の予定がある。そしてその母親である私は、大変な記録魔である。それも、数字の記録はあまり続かず、起きたことを起きた時に感情と共に記録することを、携帯が普及し始めた学生時代からずっと続けてきた。そのため、子の病気に関することや私の生活についての数千件にも及ぶメモが分単位で記録されている。これは、不可量のものが記録されたフィールドノートになるのか?
客観化の客観化:エスノグラファーが研究対象に参加しようと努力するのに似て、私は自身や自身の置かれている環境を観察できるよう、自分の心から離れた位置から事象を捉えようと心がけてたように思う。発生時点では一人称的な見方になるし、ショックも受けるが、落ち着いたら、相手の立場に立ったり、制度面での欠陥がどこにあるのかを考えたりもした。冷静になりたかったし、付き添い入院で経験したことを有益にしたかった。
この章に出てくる市について『2024年の能登半島地震で被害に遭った地域にある』との記述を見て驚く。待ってこの本いつ出たの?2024年9月!!??出版されて一年経ってない本を私はいま手に取って「やべ〜めっちゃ今私が知りたかった視点だ〜」とか思ってるの!?「いまーここ」すぎる。
私が付き添い入院中記録していたことは100%これだ。事件もあったが、日常をひたすら記録していた。というか、育児日記を書いているママは大勢いるから、生活を書いている人はたくさんいるんだろう。参与ではなく当事者研究に近い行い。
アフリカの毒については、退院後の外来で、他のママが「あの環境って独特ですよね。なんか連帯感というか」となんだか楽しげに言っていたのが印象深い。子の命が懸かっているので、アフリカのように無限に往復したい場所ではないのだが、そこを無視すれば、一種の寮のような共同生活は他にはない体験ができる場所だ。具体的にどこがとは言いづらいが、非常に「日本的」だとも感じた。
フィールドを『問題地域としてのみみなすような態度を取らない』ことは、付き添いが始まる前はどうしてもできなかったことで、始まってみて「どこにいようが日常は続くな」と思うようになったことを思い出した。ちょっと石岡先生の言いたいこととズレてる気もする。
ここで『かわいそうでもたくましいでもない』という記述がある。かわいそう、たくましい。この二つは患者家族がめちゃくちゃ言われる言葉トップ2だ。そうね。かわいそうだし、たくましくもある。そのあっさい感想で、あっさい関係性の人たちについてはもういい。だがもうちょっと地に着いた、実際どうなの?というところを知りたい人に対して、私はものを書きたい。この記述太字で書いてあって、後半にも出てくるから、先生の中で通底してる考えなんだろうと思うととても嬉しい。
部落の話を通じて「いまーここ」を見つめようという話は、目を逸らしたい気持ちだった。自身の中にもいろんな偏見があって、正すべきだとわかっているけれど、今ちょっとそんな余裕がない。ごめん。の気持ち。
エスノグラフィで記述されるのはすでにあるものって話も、私を勇気づけるものだった。こんな当たり前のこと書いてなんになるんだろうと思うような話ばかりだが、丁寧に調べて書けば、論文にすらなるんだと思うと心が晴れた。
買ってから気づいたのだけど、この本には挿絵が入っている。印象的な場面やキーワードをページ一枚のイラストという形でも表している。図表は一個もない。大学教授が自身の研究と参考文献を大量に提示した、論文に近い新書でこの形式はとても珍しいと思うが、文章だけでなく絵で切り取ってみるのも、エスノグラフィが一つの事例を深掘りし、「何が」を調べるものではなく、「いかに」を調べる学問であるという説明を強化しているなあと思った。
その場に見学者としているだけではなく役割を持って参加することを持って「時間に参与する」と表現しているようだ。私は当事者なので参与も何も、強制参加させられて日常に帰ってきたのちに、「あの経験をエスノグラフィにできないか?」と、入り口ではなく出口としてエスノグラフィを使おうとしている立場である。
参与観察はもう少ししたかった。他の家族がどうやって子を看病しているか、一日のスケジュールがどうなっているか、経済状況、家族構成、抱えている困難。知り合いになった結果面倒ごとを押し付けられそうで、退院が確定するまで(いざとなったら逃げられる状況になるまで)他者を詮索するリスクを取れなかった。逆に言えば退院が決まってからはめっちゃ人と話した。
この本を読む以前に私がやってきたことがエスノグラフィ(というか研究)じゃないのはここだなあと。大学時代にやったことだが、研究には先行論文を読むステップが欠かせない。ただ単に「これってこうだと思うんですよ!」だけじゃダメで、「この論文ではこう言ってて、この研究ではこういう結果で、でも自分はここの部分はこう思ってて。で実際調査してみた結果がこれ。ね?あってるでしょ?」みたいな。
そして今日この本を読み終わって思ったのが、「この本を読んだことで、私のエスノグラフィ始まったんじゃない?」ということ。まあ当事者なので完全にエスノグラフィにはならないし、仮説を立てるとか主題を持つとかする気はないのだけど、この部分はエスノグラフィっぽい、ここは違うな、と「対比的に読んだ」ことで、ただの雑記が、研究や分析みたいな深みを得そうな気配がした。
それ以外にも「対比的に読む」ことはしていて、いま書こうとしているのと同じ媒体の、似たタイプの作者の書いたものを大量に読んで勉強している。書きながらやっているので、自分がぶち当たっている壁をどう解決しているのか教えてくれる最良の教科書として機能しているし、自分が書くもののどこがユニークなのかを都度確認もしている。
あとここで先生は『容赦なく書き込む』ことを推奨しているので、ここで初めてマーカーを手に取った。私は本を汚している感じがして書き込みをしない。けど、書いた人がそうしてというなら遠慮なくそうする。「はじめに」に書いていてほしかったな。なんでこんなど真ん中で…。先生の言うように初読の読むペースの時間的経験の中で重要と思われる部分にマークしていくべきだった。珍しく凄まじいスピードで読んだから、この文章を書きながら再読している時の咀嚼感と全然違う。
対比的に読むことがデータをつくることに関連している:一回目の付き添い入院は初体験だったので新鮮な驚きや緊張感で乗り越えられた気がするが、待ち受けている二回目に向けてのモチベがなくて困っていた。どういった姿勢で臨むべきか決めかねていて。そんな悩みに光を差す記述として、『フィールドで得た漠然とした問題意識を明確にするために文献を読み、着眼点を得て、その着眼点、気づきを持ってフィールドに戻って、「データをつくる」ためにインタビューやフィールドノートの記述をするのだ』(要約)と書いてありました。なるほどな〜と。二回目もやはり逃げられる状況になるまで他者のインタビューはリスキーではあるけれど、とりあえず一回目の振り返りをして、二回目はどんな記録をしていきたいか見定め、関連資料を探すことをしようと思う。
私は日常を書きたいだけで主題がないので、この章は自分のやってることとはちょっと違うかなということが多かったのだけど、主題があるとすればできることはあるなあと思った。前章の対比的に読むことや、社会学の文脈で書くこともそうだし、比較するのではなく、対比することもそう。
子の闘病において、病棟で暮らすことと、家で暮らすことのほかに、「外来」という場所がある。退院後も月に一回程度はその病院の外来に足を運んで検査をするし、外来を重ねてまた入院することもある。病棟にいるとよく聞く会話に「外来来るよね?」というものがある。最初耳にした時はそんなこと確認してなんになるのかと思ったが、別の日、外来に来た母親が病棟にも顔を出すというので、病棟の外に大量の母親たちに、なんと医師と看護師と病棟保育士まで集合しているのを見た。主題を「人間関係」とかに置いた場合、「病棟」と「家」だけで見たら抜け落ちてしまうものがこの「外来」という場所にありそう、対比して調査する場所として必須なのではと感じた。外来もまた病棟とは違った、独特な空気感を感じる場所である。
時間的予見を奪う:これは私に取って大きな学びだった。本書ではフィリピンの立ち退きに遭ったスラム住人の例が挙げられていたが、付き添い入院もこの困難を抱えていることを自覚したからだ。付き添い入院は始まる時も終わる時も未定で、予告されるのが数日前だったりする。病気を抱えているから当然だと思うだろうか?では、その入院する病棟が、盆正月やGWといった長期休暇にはガラガラになることを知っても同じ感想を持つだろうか?病気の子を人質に医療者の都合が押し付けられているのだ。あーあ書いちゃった。まだ治療が続くので今は敵に回したくないんだけど、気づいたら書かずにはいられない性分で。先の見通しが立たないことは病児看護において日常になる。生まれてから、治療が終わるまで、年単位でスケジュールが未定になる。純粋に病気のせいの部分もあるが、先に書いたように医療者の都合による部分が確実にあるにも関わらず、それは私たちには容易には分からない上、付き添い入院は「家族がどうしてもやりたいっていうからやらせてあげている」ていになっているので、余計にストレスが溜まる。この気づきを得たのは大きかったな。
病棟が長期休暇になると患者が減ることは他の家族のインスタで知った。付き添い入院において背景や論理を知ることは難しい。先にも書いたように詮索することで子の手術や看護といった医療サービスが適切なタイミングや質で受けられなくなるかもしれない不安が付きまとうからだ。医療者の側から観察できればいいのだけど。もしくは保育士や清掃員とかで入るのもいい。
ある人々にとっての現実の把握:この、たった一つの真相を知るでもなく、多元的な見方をするのでもなく、バイアスがかかっていることを自覚しながら観察するのは、当事者としてもいい見方だなと思った。私は当然患者家族であるので、その立場からものを見て言いますよと、自省的なのか開き直りなのか分からない姿勢にも自信が持てるというもの。
ミクロな視点からマクロを見る:付き添い入院がマクロにまで射程が届く研究対象なのは明らかだろう。付き添い家族をターゲットにしたNPOあるくらいだし。一方でその実態は泣く子と眠れない夜を明かし洗濯をし食器を洗いシャワーを浴びて食事をする、とても地味でありふれたミクロな場面の連続だ。
ルポルタージュとの違い:エスノグラフィは時間の縛りがない事がルポとの違いらしい。なるほど。昨日『ダーウィンが来た』で、動物写真家がシロイワヤギを40年追っかけてるっての見たけど、そっちと近いんだろうか。文学とも重なる感じ。先生も書いてるけどエスノグラフィは「読み物として面白い」ものが多そう。まだ私一冊も読んでないけど、本書で引用されたものだけでも十分面白かった。けど、「研究」でもあるので、主題と紐付けて研究結果が出てくるところが、エッセイやルポとの違いだろうか。エッセイでも面白いものはそうした「発見」みたいなのはちょいちょい見る気がするけど。社会学の文脈にびたびたに浸って先人たちのあれやこれやを紐づけまくってその上に自分の見た事象からの発見を記載できればエスノグラフィなのかな。知らんけど。ここは明確な区切りがわからなかった。
長文の研究計画書を書くって書いてあったけど、そこに何書くんだろう?私は主題はなくてフィールドが強制的に決められて問題意識(不平不満)と記録は大量にあるわけだけど、大学生とかは、①エスノグラフィというものがあるのを知り、②「子供の貧困について研究したい!」とかって主題を決め、③エスノグラフィで調査しようと決めて、④主題と関係が深そうなフィールドを探して(こども食堂とか?)、⑤主題に繋がりそうな場面に遭遇しないかな〜と思いながら参与観察するみたいな感じだろうか。やりてえ〜大学生に戻って。
研究とお金の話は文系も理系も似たような感じだな〜と思った。応用研究は金出るけど基礎研究にはなかなか出ないし長期での研究も難しいみたいなの話。
私が今付き添い入院をフィールドにエスノグラフィができない理由はここまで書いた通りで、問題意識を表出すると角が立つからだなあ。当事者は奪われる側なので。できない分ここで社会学の視点からみれそうな表現で問題意識については書いたつもりなので、誰かやってください。ほんとはやりたいよ。今すぐ石油王になって付き添い入院病棟を全て個人産院並の、シャワートイレ冷凍冷蔵庫付きで親と子それぞれのベッドがある広めの個室にして、食事もついて、付き添い保育士を外注できるようにして、その病棟の看護師と患者家族全員が参加 Permalink | 記事への反応(2) | 17:51
要約: 自分を否定する努力より、自分の肯定につながる努力をしよう
https://anond.hatelabo.jp/20241221204350 を読んで https://anond.hatelabo.jp/20241222173557 を書いたら、当事者より「努力するなは死刑宣告のように聞こえる」「何をするかを書いた方が良い」とお叱りを受けたので、再考して書いてみる。
はじめから言っておくと、俺は当事者ではないし、タイトルの答えは知らない。ただ、いろいろASDのことを学んだり、仕事で接するなどしてこうしたら良いらしいと理解したことを書く。
当事者の方が俺に文句を言いたいのであれば、これを叩き台にしてぜひより良い策を書いてほしい。
まず成人のASD当事者が定型発達の社会に沿って生きようと努力すること自体は尊重されるべきだし、それを無碍に否定することは当事者にとって絶望感を与えてしまうかもしれない。
ただ、支援者としては努力を続けて行くことで二次障害を起こしてしまうことを恐れている。ASD当事者の中には常に頑張りすぎて自分が高いストレス状態にあることに気づいていないこともあると思う。
努めて人とコミュニケーションをとろうとするのはいいが、やはり自分自身の心身の健康を最優先してほしい。努力した分と同じくらい、自分がリラックスできる環境や時間の確保をしてほしい。
ASDは感覚の過敏や偏りがあることがあり、例えば聴覚による情報処理が苦手な場合がある。人の空気が読めないといっている人が、実は音声の会話が苦手なことが主要因で、テキストチャットだとうまくコミュニケーションがとれるケースもある。
コミュニケーションの取り方は色々あるので、自分の気持ちを伝えるためにどんなツールや媒体を使うと一番スムーズなのかを考えて、大事な話は極力そうしたツールを使うようにしよう。
ここまではASDと診断されなくてもできることだが、やはりコミュニケーションの困り事がある人は専門の病院にかかって診断をもらった方が良い。その理由はいくつかある。
一つは、自分が遭遇している障害の全体像をきちんと把握するために必要な情報が得られるから。当事者自身はコミュニケーションで悩んでいても、実はそれが聴覚などの感覚の問題が起因だったりすることもあり、当事者が気づかない問題が起こっていることもある。客観的な医学知識に照らしてみることで問題の解決につながることもある。
もう一つは、合理的配慮などの各種取り組みは診断があることが前提になっていることもあり、とれる選択肢が増えるから。以前も書いたけどASDは本人のコミュニケーションスタイルや感覚がマイノリティであることで、周囲の人や環境とミスマッチを起こしていることが障害の原因である。なので、本来は当事者の特性に合わせて生きやすい環境や人との関わり方を調整して行くことが望ましい対処法になる。
環境は不変なもの、正しいものではなく、変えられるものしていけるように、使える選択肢は増やした方がいい。
当事者研究というのは、障害当事者など何らかの困り事のある人が、自分自身の困り事を探求し、自分独自の「病名」をつけてその対処法を研究すること。基本的には当事者のコミュニティの中で「研究会」として開催し、当事者同士が話し合いながら行うスタイルが多い。
当事者研究はもともと精神障害当事者が共同で暮らす「べてるの家」で始まった試みであり、障害者自立活動とアルコール依存症の自助グループ活動の2大潮流が合流して生み出された(綾屋紗月 2023)。精神医学の言葉や概念ではなく、自分自身で生み出した言葉で苦しみを仲間と共有することで、当事者が実践できる生活の方法を考えられるとして2010年代あたりから全国的に認知されるようになった。
こう説明されると、結局当事者が努力してるじゃないかというツッコミを受けるかもしれない。だが当事者研究が普通に頑張るのとは異なる利点がある。
一つは、障害と自己を切り離して考えられること。自身の障害について考えたり「克服」しようと思うと、どうしても自分の人格を否定してしまうことにつながりがちだ。そうなると、努力する分だけ自己肯定感が低くなっていき、過大なストレスを抱えてしまう。当事者研究は自分が抱える障害や症状「研究対象」として名前をつける(例:爆発さん、幻聴さん、おこるちゃん)。そうすることで、障害を自分の一部ではなく、自分のそばで起こっていることとして冷静に考えることができる。
二つ目は、自分だけでなく他の当事者への貢献になるように自分の問題を考えること。当事者研究は「研究」なので、同じような状況に陥る人の役に立つようなソリューションとして言語化することが求められる。そうすると、これまで自分のためにやっていたことが、他人のためになる活動に変換され、自己肯定感を高めることができる。その人はその障害の苦しみを理解できる「専門家」となることで、障害経験をポジティブに捉えることができる。
このように自己の人格を否定することなく、距離をとって自分が遭っている障害を仲間と一緒に見つめることで、建設的に今後のことを考えることができる。
ここまで長々と書いてきたが一言で言えば上の言葉に尽きる。自己を肯定できないソリューションは続かない。どんな方法であれ、ありのままの自分を肯定できることにつながらなければ、本当には当事者を救う術にはならないのではないだろうか。
暇空茜
@himasoraakane
【プレスリリース】
colabo問題に今更コメントしていた動画がご意見を募集していたのに何故かコメント欄を封鎖したことを確認いたしました
https://twitter.com/himasoraakane/status/1671844279147466753
【風の社会学 とは】
大学院で風俗で働く女性の当事者研究を行っている碧ちゃんを中心に🌱
風俗に関わる社会問題を取り上げたり、注目の人物に会いに行ったり…✨
ふと立ち止まって、普段よりも少しだけ広い視野で、「お仕事のあり方」「働き方」を考える機会を作ることができればと考えています💕
↓↓↓↓
真夜中の待機室
【Twitter】https://twitter.com/mayonaka_taiki
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『ホンクレch』
▶ / @honkure
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出演・取材実績
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・ABEMA「給与明細」「ぜにいたち」など出演
脱がないまりてん【裏方サブ垢】
@uramariten
【メイン⇨@sinmariten
】1990年愛知生まれ。逆ナンパ師→美大卒→制作会社/Webデザイナー→風俗店立ち上げ→急成長→心折れ逃亡・譲渡✈→事業会社/Webプランナー→出戻り→風俗嬢Youtubeチャンネル「ホンクレ」立ち上げ 一生業界人でいるのが夢🌍 #まりてんの勝手な風俗接客術
脱がないまりてん【裏方サブ垢】
@uramariten
なぜ全国フェミニスト議員連盟はいつまでも公開質問状に回答しないのか、
ツイフェミは次から次へと訳分からん論拠で不適切判定するのか、
理由が気になってたんだけど、以下の記事を読んでちょっと思いついたのでメモ。
「不機嫌で人を支配しようとする人」の気持ちがわかった話 | Books&Apps
要約すると「察してもらうな、察するな」が合言葉で
父親が風邪で喋れなくなったときに不機嫌そうにしていたら娘が察してくれて楽で、
「不機嫌を他人に押し付けてコントロールしようとする人の気持ち」が分かりかけたけど、
「喋ってくれるパパがいる時はいいんだけど、喋れないパパがいる時って、なんか不安になるの」
それともう一つ、以下の記事もヒントをくれた。
【お手軽】爆速で恋人を狂わせる方法【簡単】|Gigandect|note
ターゲットに自分の考えに疑問を持たせて操る洗脳術に注意しましょうという話。
論理的説得も分かりやすい暴力による脅しも必要ないということ。
というかこれってあれじゃん。「まなざし」じゃん。
・まなざしの定義3:対象を、"見る側"の価値観や規範に従わせようとする支配の力。及び支配構造そのもの。
「見られる」ということは、他者によって評価されることであり、なんらかの規範や評価基準を押し付けられることでした。このはたらきのことを、フーコーは「支配」と表現します。例えば、「人前に立つ時は、ちゃんとした服を着ていきなさい」とか、「そんな服を着ていて恥ずかしくないの」と言うことがあります。これは、「自分がどんな服を着るか」という選択を、「相手にどう見られるか」に従って考えているということになります。すなわち、「見られる側」は、「見る側」の評価基準や価値観に従って、自分の行動や選択を決めているのです。
やがて、「見られる側」は、「見る側」が傍にいなくても、相手の評価基準や価値観に従うようになります。このことを、フーコーはパノプティコンという監獄を例に出して説明しました。パノプティコンとは、中心に看守塔があり、その周りにぐるりと囚人のいる牢がある監獄です。看守塔からは牢の中が全て見渡せますが、看守塔はマジックミラーになっており、牢からは看守塔の中を見ることができません。囚人は常に看守塔の中の監視員によって監視されていますが、囚人からは監視員がいるかいないのか分からない、という構造になっています。囚人は監視員に監視されているので、規律に従わなくてはいけません。しかし、囚人からは監視員がいるかいないか分からないので、やがて本当にマジックミラーの向こう側に監視員がいるかどうかは関係なく自ら規律に従うようになります。
フェミニストの説明の無さや規制基準の不明確さがパノプティコンの監視の見えなさに重なっていやらしい。
というか「まなざし村」って呼ばれてるフェミニストはこういうまなざしに反対してたんじゃなかったか?
今はフェミニスト側が積極的にまなざし使って政治闘争してない?
例えばこういうのノリが典型例。
共産党「(いきなり法規制されないように)議論しましょう」表現の自由戦士「非実在児童ポルノでも規制するっていうのかぁあぁあああああぁああああぁあああああああああああ!!!!!!!!!」
そろそろフェミニスト達が論理的説得を使わない戦いをしている想定で対抗しないといけないよ。
規制反対派にレッテル貼ったり、多数派の目を気にするように仕向けたり、
まず、下のリンク先を読んでみてほしい。5分もあれば読めるはず。
『どうすれば、差別や偏見をなくせるの?~人権侵害の歴史を考える~』
https://www.jamhsw.or.jp/ugoki/hokokusyo/20110219-kenri/26-30.pdf
"1960年代に、駐日米国大使が、精神障害のある人に刺されてけがをするという事件が起こり、社会で大きな問題となりました。この事件は精神障害のイメージに大きく影響し、地域行政の相談機関が設置されるなどの法制度改革の一方で、強制的に入院させる制度(→入院形態;p.35)が促進され、全国各地で、多くの精神障害のある人が強制入院をさせられました。"
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E5%81%A5%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
"1964年(昭和39年)、ライシャワー駐日大使刺傷事件が発生する。精神障害者を隔離収容すべき、と言う新聞や雑誌などが主張し、世論も野放しは危険と支持して、厚生省も日本のハンセン病問題同様に、精神科病院への隔離収容政策(社会的入院)を始める。"
"2013年(平成25年)、国際連合人権理事会は日本に対し、精神障害者の非常に大勢が自らの意思に反して長期間に渡って社会的入院されていることや、身体拘束と隔離が過剰に用いられていることを警告。"
https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/4/
"現在グループホームで暮らす時男さんが初めて精神科病院に入院したのは、今から46年前の1968年。当時、時男さんは16歳で親戚を頼って福島から上京し、働き始めたばかりでした。しかし、慣れない環境と人間関係のストレスから体調を崩し、妄想などの症状に襲われるようになります。そして都内の精神科病院に入院。
このころ、国は精神障害者の隔離収容政策を進めていました。大きな契機となったのは、1964年に統合失調症の少年が起こした傷害事件。マスコミも一斉にキャンペーンを展開し、精神障害者を「危険な存在」と見なす社会の風潮が作られていきました。"
"精神科病院の入院患者の数はおよそ32万人。そのうち、1年以上入院している人は20万人以上、10年以上同じ病院に入院し続けている人は7万人もいます。しかもこの長期入院者のなかには、社会的入院の人が相当多いといわれており、そのために「日本の精神科の平均在院日数は諸外国に比べて突出して長くなっている」と精神科医の岡崎伸郎さんは言います。"
つまり、一精神障害者が事件を起こす→精神障害者全体が危険視される→「危ないから隔離しとけ」という世論や政策が生まれる→強制入院や退院後の受け入れ先がないための「社会的入院」が多発、というようなことが実際に歴史の中で起きてきた。これはまだ過去の話とも言えず、日本各地の精神病院にはこうして何十年も病院で過ごしてきた高齢の方がたくさんいる。
こういうことを多少とも念頭に置いて見ると、今回の『ルックバック』の描写、幻聴と台詞の内容で(統合失調症とは限らないが)何らかの精神障害を暗示した後、その人物が理不尽に襲いかかってくる殺人犯としてのみ描かれるという描写に、精神障害者やその周辺の人々が危惧を抱くのは合理的に思える。少なくとも、危惧を表明した人に「被害妄想」や「自意識過剰」と言えるほど、現実の歴史は優しくはなかった。
もちろん現在はまた時代が変わっている。また事実として精神障害者が犯罪を起こすこともあり、そういう報道や描写を一律に避けるというのも不自然だろう。報道や表現の自由と偏見強化の危険との間でどうバランスを取るかという議論はこれからも地道に続けていくしかない。
しかしとりあえず今言いたいのは、これを機に上のような日本の精神障害者が置かれてきた状況、いまだに残っているいろいろな問題がもっと知られてほしいということ。それから、昔にはなかったような形で出てきている精神障害の多様な語り方、その面白さももっと知られてほしい。有名でとっつきやすいものとしては、やはり「べてるの家」の記録などだろうか。まあ「べてるの家」も最近は内部告発が出て来たりいろいろ問題含みなのだが、『べてるの家の「非」援助論』(2002年)や「当事者研究」シリーズなど、読み物としても非常に面白かったのでおすすめしたい。「偏見・差別大歓迎」と掲げて近隣住民と交流集会を開くなど、柔軟で斬新な実践の数々に衝撃を受けた。
あらためて、今回の議論が例の描写を認めるか認めないかというような話に終わらず、かかわった人が精神障害について新しく何かを知るきっかけになってほしいと願っている。
とにかく経営能力が欠如しているという印象です。大学改革関係の記事やツイッターを調べると、「会議が増え、研究時間が削られている」という意見を目にしますが、見ていると仕事の段取りが悪い。
・ミーティングを定刻に始められない。平気で遅刻してくる。こっちはスーツ着用で、定刻の2時間前には現場に乗りこんで待機していたにも関わらず。
・プロジェクターの調子が不調だったのですが、そのプロジェクターを直すことを優先しようとしてくる。これも准教授。事前にプロジェクターの動作確認を済ませておくこと。プロジェクターの不調を理由にミーティングの時間を削らないこと。
・「先行研究を押さえていないのではないか」と指摘したところ、「どの本を読めばいいのか?」と質問してくる。特定の一冊だけをピンポイントで読むのではなく、アマゾンでその学者の名前で検索して、その人の本は全部読んでください。それがプロの仕事です。
・「〇〇さんが言っている批判に似ている」と、まるで既知の問題かのような言い方をされたんですが、批判されたことがあるなら一発で直してください。だらしない。
貴重な血税を毎年東京大学に800億円、学費として渡しているはずなんですが、コスパが悪い。
もともと受験エリートから選抜された集団なので、アンチョコを知ろうとか、できるだけ手抜きをしようと考える癖がついている人たちなんだと思う。
地道に足で稼ぐということをしない。でも本当の教養って、泥臭く手を動かさないと身につかない。
こちらは病人なのに、地元の図書館に通い、本を借りてきて、「ああ、この行に書いてあることは、あの現象と同じことか」と気づいて、そのたびにメモに起こすという地道な作業をしている。めちゃくちゃ負荷がかかる。
当事者研究というのは、プロフェッショナルである職業研究者や対人援助職が、アマチュアである当事者並みに手抜きをしていいということではない。
お給料を頂いて、何か仕事をするということは、職業倫理というのが発生する。その自覚が欠如している。大学改革はもっと積極的に既存人員の首を切っていく必要があると思う。
若新雄純のことですね。
発起人の若新雄純のことですか?私は若新じゃないのでわからないです。営業トークがむちゃくちゃうまいので大学内でうまくやったんだと思います。
儲かるとは思っていなかったけど、楽しく少しでも稼げるかな?と思ったけどでかい声の基○外が暴れてるだけで嫌になって辞めました。
ネットで話の通じない人ってたまに見かけるじゃん?
物理的なことで言えば、満員電車が嫌で暴れて取り押さえに来た係員に噛み付いたりするような人が在籍しています。ちなみにその人は生活保護受給者です。
ニー株に入れば実感できますよ!体験したければ二次募集でぜひ入社を!
まともな人達とは仲良くなれましたよ。基◯外とは相容れないですが。
まともな人が減って基◯外濃度が凝縮されてきたので2次募集で薄めようとしてるけど更に濃くなる可能性大。
ニートのふりした個人事業主やフリーターが集まって、「オレは普通のニートとは違うぜ!」ってマウントとる会社
初期:
・入社時に6000円で株を購入
・税金や維持費などは稼いだ金の一部で賄う
現在:
・現代表取締役の1人が駄々をこねたので稼いだ金は会社に入れない
・税金やら維持費やらがなくなる(元から誰も稼いでないからないけど)ので毎年全員3000円の会費を払う
レンタルニートのことですね。本人はいると言っていますが実際はどうなんでしょうね
ちなみにあの客引きは千代田区の条例違反で見かけたら通報しちゃってOKです
立ち上げた当初は話題性もあり様々な企業からコラボ依頼が来ました。
例えばリクルートの開発したアプリをニー株がプロデュースするというコラボがありましたが、あまりのダメっぷりにリクルートがなかったことにしたため、現在は他社の記事がかろうじて出てくるだけです。
http://www.sankeibiz.jp/business/news/140207/prl1402071608066-n1.htm
会社からの命令で働くということはありえません。全員が取締役なので一応全員が対等な立場のためです。
上記のような他社からの依頼があった場合は社内でやりたい人が手を上げるといった感じでした。
最初に仕事をくれた会社も一度関わってフェードアウトしていきました
まさにこのとおりです。
最初は面白がって声がかかってきたのですが、関わると皆さんフェードアウトしていきます。
全員対等で始まったはずがいつの間にかマウント取り出すやつが出てくるんです
烏合を集めたらゴミ溜めになったという話です
まとめブログの人はこの内容をまとめたら1PVにつき1円をニー株被害者の会に寄付して下さい
「迷惑防止条例違反等に該当するおそれのある行為が散見されており、予断を許さない状況です」
いじめ…
う…頭が
詳細はNEET株のwikipediaを参照してください。リアルねこあつめなど様々な不祥事があります。
ニートは精神障害でもないし、ニー株は自助グループでもないし、なんでその話持ってくるのか。
口だけは達者
「働けるけど働かないだけ」と思いこんでるやつしか来ませんでした。ニートに市場価格の数倍するクソ高い名刺を売りつける業者もメンバーの一人でした。不思議なことに購入している人が多かった気がします。ニートは情弱なのでしょうか。
世の中には福祉が必要な人もいます。ニート株は働いている人たちばかりで、真性ニートは少数派でしたが、重要なのは福祉が必要な人と不必要な人を同じコミュニティに入れないことです。
知りません。よろしければ詳しく教えてください。
ほとんどが本職持ってての冷やかし参加なので面白半分のネタっていうのは当たっています。自営業者が営業のために来て自家製名刺の販売をしたり、若新にお近づきになるために来た人も何人かいました。
仲さま?大吟醸?どっちの放送にしろ時間とギガの無駄遣いは早めにやめたほうがいいです。
内部を見世物にする基○外動物園的事業の話はありましたが「オレはまともだ」と思ってる人たちから猛反対にあいました。
こういう「じゃあこういうのやればいいじゃん!」といった自称アイディアマンはニー株にたくさんいました。懐かしいです。
ニー株では唯一の議決権を持つ株主となりました。外では何をやってるのかはよくわかりません。地方創生やタレントなどいろいろやっているようです。
全員が対等に自由を謳歌して、全員が対等に責任を放棄する会社です
54人かな
大企業の上位職ならマウントをとるのも分かる。そこに行き着くまでに普通の人より何かしら秀でていたと思うから。
でも、ニー株でマウンティングする人は実績もたいしたことない、むしろ「お前らよりすごい」と思い込みだけでマウントとる質の悪さ。
隠れマウンティング探しなら、二次募集用SNSを覗いてみるのがオススメ。言動でやばいやつすぐ分かる。
でも作った本人は覗いてないからフィルター掛かる前に全員入社させちゃうんだろうな。
お前がカネだけもらって消費したいだけだろ!自分もだが
議決権を持つ者が若新一人になったため、それもできなくなりました。
初対面のニー株メンバーの女性に「俺の子供を身ごもれ」とセクハラしたり、穴兄弟の疑惑あったり・・・
ビル建てるらしいですね。住みたいです。