はてなキーワード: 部外者とは
長年ずっと好きで、いわゆる『推し』というものになってからもう結構経つ。
2人は名前を、田中雅功、髙田彪我と言って、スターダストプロモーションに所属している。大手も大手、超大手だ。
スタダのEBiDANという集団、Sakurashimeji以外のみんなが歌って踊るグループで、2人だけがギターを持って、2人きりで、もう11年活動している。朝ドラや月9で、知っている人は知っている、という感じな気がする。
しかし2人はエゴサが激しいから、読まれるものと思って、ちゃんと書こうと思う。
先の10月22日、2人はアルバムをリリースした。タイトルは、『唄うこと、謳うこと』。
12年目にして初めて、1曲目から12曲目まで全部、2人が全曲、2人で作った曲だけが入ったアルバムだ。
10周年で名前を『さくらしめじ』から『Sakurashimeji』に、肩書きを『フォークデュオ』から『ギターデュオ』に変え、明けて11周年にして、ようやくここからスタート。
最近の2人の様子を眺めていると、なんとなくそういう感じがする。
スターダストには、というか、アイドル事業には往々にしてリリースイベントというものが存在している。
フリーライブと称してスーパーや商業施設で歌い、歌い終わったら、握手だとかツーショだとかポストカードお渡し会だとか、そういう特典会をやる。
このリリースイベントツアー期間に入ると、スパンも時間もなかなかのものだから、それを成し遂げるアイドル側も、追いかけるファン側もなかなかの重労働である。
そしてSakurashimejiも、EBiDAN所属のアイドルの例に漏れずその特典会もやっていて、先日、全ての日程が終了した。
2人が小さい頃、初めてフリーライブをした埼玉県大宮市、アルシェ前。余談だがこの日は特典会が存在せず、ファンはみんな、ただ歌を聴くためだけに集まった。
2人の歌を聴くために訪れた人たちは上までたくさん居て、当時からアルシェにいる人にも祝ってもらえて、2人も幸せそうで、本当にうれしかった。
こういったアイドル事業には『リスニングキャンペーン』というものも存在している。再生回数○○回達成で報酬が○○。といったように、それは大抵の場合LINEミュージックで開催されている。
最近、そのLINEミュージックでよくアルバムの曲がランキングに入っているのを見て、うれしい!と思う。
そして同時に、数年前にリリースされた『Iroto-Ridori』という曲のころ、週替わりに実施されていたリスキャンが全然達成できなくて、悔しがらせたり、達成記念に撮ってくれてた動画を複数お蔵入りにさせてしまったことをよく思い出す。
近頃のLINEミュージックのランキングは、以前よりも顔ぶれが『常連』という感がある。
端的に言うと、本当に売れている曲しかのっていない。
だから単純にウィークリーランキングに入るのもすごく難しそうだと素人ながら感じるのだが、Sakurashimejiの先日の新曲、『ガラクタ』も、今回の新曲たちも複数ランキングに入っていてすごかった。
だから思う。あのとき、なんでできなかったんだろう、2人のなかに、あの失敗体験がなければ、と。最近よく思う。
あのリスキャンがなかったら、あのライブをもっと埋められていれば、せめてコロナ禍がなかったら。
いわゆるオタクは演者が思っているよりも演者のことを心配などしているため、本当にそう思っているのだ。
きっと2人は、こういう行き過ぎた想像のこと「変なこと言ってんなあ」とか「ステキな考察を、ね……」とか言って笑うと思うが、まあ心配性なのがオタクという生き物なので、許してほしい。ごめんね、気持ち悪くて。
どうしてこのことを最近頻繁に思い出すかというと、アルバム発売に際して公開される著名人からのコメントにちらほら『2人の中学生から大人になるまでの葛藤や煩悶』が見て取れたからだ。
ああ、やっぱり、あるんだ。と思った。
泣いて眠れない夜も、全部諦めたくなった日も、私たちの見えない場所で、2人はたくさん、悩んできたんだ、と改めて思った。
時々話してくれてはいたものの、創作物からはあまりそういうものを感じなかった。
多分これまでの楽曲では、常に前を向いて進む姿を見せてくれていたのだと思う。
歯を食いしばって、傷も涙もそのままに、前を向いて歩く。ファンのために。
それが少しずつ変わってきたのが今年だ。
去年までは明かさなかった、今までの話、昔の話、そういうものを聞かせてくれるようになったし、何よりもリリースする曲も変わってきた。
つらかった過去も悩みもいまだに自分の中に存在していて、今はまだ『在る』ままだけれど、どうにかこうにか生きている。そういう姿も見せてくれるようになった。
とはいえ、2人はそういう歌ひとつとっても、ファンのために書いている。
2人が2人の歌を作って、ファンはそれを聴いて、自分の歌だと感じて、救われたり、頑張ろうと思ったりする。
それが2人の創作活動で、多分きっと、生きる糧のようなものでもあるのだろう。
もっとも、普段はこういうことは考えるのみに留めている。2人はきっと感傷的になられるのも苦手だろうから。
2人は、そういう感傷も心情も全て歌にして、ファンに寄り添うことを第一に考えてくれているから。
だから一応、普段は我慢している。まあでも匿名なのであと少しだけ。
2人は高校生のとき、LINEライブ同接25万人だとかも達成していた。芸能活動なんて数が全てではないが、そこからは今、かなり減っている。
どんな気持ちだったんだろうと思う。
離れていくファン、離れていくスタッフ。身をもって感じる高校生ブランドみたいなもの。
実際インタビューやなんかで2人はたびたび『別れ』にも『出会い』にも触れているし、そういったことは、たくさん感じたんだろうなと思う。
別に、好きな対象がバズらない・売れないことに対して、ファンに義務があるとも負い目があるとは決して思わない。
しかし、雅功さんはもう一人きりでストリートライブやろうとか思わないで過ごせるのかな、だとか、彪我さんはもっと自信を持って、誰かに褒めてもらわなくても自分を好きでいられるのかな、だとか、最近はよく、そういうことを考えている。
そういえば、今回のアルバムには高校3年生のときにスターダストを退職された、2人を組ませたプロデューサーが参加していた。
私はいちファン、かつインタビューで明かしてくれている箇所を知っているのみだが、それでも彼らが泣きながらそのプロデューサーと離れたことや、「絶対にもう一度一緒に仕事をしたい」と言っていたことも覚えていたため、アルバムのブックレットのクレジットを見て、かなり泣いた。
2人が、ようやく出せた2人だけのアルバムで、かつての恩人をまた呼び戻す。その姿勢も有言実行も、本当に格好いいと思った。
前プロデューサーが携わった曲のタイトルは『スパイス』と『normal』だ。
前者の『スパイス』について、私はものすごく、『はじまるきせつ』を感じるなあと思っている。
この歌は上述のプロデューサーが在籍していた頃の歌で、曲調その他諸々、さくらしめじといえばこういう曲、といった感じのものだ。
だから、スパイスを聴くたび実は、「ディレクターってどこまで携わるものなのか知らないけど、この人とっては2人ってずっと妖精だったあの子どものままなんだ」と思って、部外者ながら勝手にじんわりとしている。
私は個人的に、彼の作る歌は幼少期の、『さくらしめじ』の影響というか、感性がそのまま残っていると思っているため、今回のスパイスも、ずっとそう思っている。
初めて聴いたときは2人からかつてのプロデューサーへの歌だと感じたけれど、聴けば聴くほど、2人が歌で対話しているような、はたまた、彼が経験してきた全く別の出来事が元であるような、不思議な感じがする。
素敵な歌。大好きだ。
後者の『normal』は、田中雅功さん作詞作曲のものだ。本人が「今までで作るのが一番きつかった」と語るこの歌は、彼曰く「心の柔らかいところ」で、聴いていても、それを痛切に感じる。
先にも少し触れたが、私は去年、雅功さんが「数年前彪我を連れずに一人でストリートライブをやったことがある」と話していたのを聞いて、すごく驚いたし、居ても立っても居られない心地になった。
夜、何かをぐるぐると考えていたら歌いに行かずにいられなくなったのかもしれないし、武者修行的なものだったのかもしれないし、単純にいっときの気分転換だったのかもしれないが、本当に、少し怖かった。
いつか、ファンの前から居なくなってしまう、そういうことも、考えたことがあるんじゃないかと思って。
normalは、そういうちょっとした不安への答えのような歌だった。
たしかに悩むこともある、人生なんてくだらないが、それでも、僕はそういう悩みも歌にして、皆さんの前から消えることはないですと、そう言ってくれているような気がした。だから、少し安心した。変な話だが。
これも大好き。2人の歌で嫌いなものなんて一つもないけれど。
彪我さんは今年、50周年までやりたいとよく言っていて、雅功さんもそれに、うれしそうに頷いている。
私はそれがすごくうれしくて、一生一緒にいてクレメンスと思っている。
8月、中国地方への旅行ついでに瀬戸内芸術祭開催中だった直島にいった。
高松からのフェリーに乗った時予想以上の人の多さに驚いた覚えがある。島に到着するとそこには大体の人がイメージする離島の風景に芸術祭用と思われるオブジェが点々としていた。
私はかなりの田舎出身だったが、それでも地元の方が栄えているなと思うほどのどかな場所だった。私が回った範囲に日常生活で利用されていそうな商店は見当たらず、コンビニが一個あるくらい。ほかは飲食店と、観光客向けであろうお店、そして3つほどきれいな美術館があった。
部外者が言うのもおかしな話だが、観光客に向けて作られている街という印象だった。そしてそこで生活している人たちの日常までも鑑賞の対象になっているように思えてきた。
町議の暴言とされる発言に焦点が当たり、それに対する猟友会の「出動拒否」という対応が報じられています。
「自分たちに頼らざるを得ないことを理解していて態度がデカくなっている」
という視点から、猟友会側の構造的な問題や、なぜ彼らが「横柄」と受け取られ得るのかについて論じます。
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000463540.html
クマの駆除は、単に銃が撃てるというだけでは務まりません。対象は猛獣であり、市街地や民家近くに出没した場合、安全確保、正確な射撃技術、獲物の回収・処理など、高度な専門知識と経験、そして何より危険を顧みない覚悟が求められます。
この危険かつ専門的な業務を、現実的に担えるのは(特に地方においては)地元の猟友会メンバーに限られているのが実情です。彼ら自身も、そして行政や住民も、「自分たちがいなければクマの脅威に対応できない」ことを熟知しています。
ご指摘の通り、この「頼らざるを得ない」という状況、すなわち業務の代替不可能性が、彼らの立場を構造的に強固なものにしています。この優位性が、外部からの要求や批判に対し、強い態度に出る(=横柄と映る)土壌となっている可能性は否定できません。
記事の中で、海田副議長は「こんなに10何人も来ないと駄目なのか」と、現場のハンターの人数に疑問を呈したことを認めています。
猟友会側からすれば、これは「現場の危険性も作業内容も理解していない素人からの口出し」と受け取られた可能性が極めて高いです。
安全確保のための見張り、クマを刺激しないための連携、万が一の反撃への備え、そして駆除後の(時に数百キロにもなる)クマの搬出作業などを考慮すれば、13人という人数が彼らの経験則に基づいた「必要最低限」であったのかもしれません。
副議長の主張によれば、これに対して猟友会側は「(クマを)引っ張ってみろ」と返したとされています。これが事実であれば、まさに「危険を知らない素人が口を出すな。できるものならお前がやってみろ」という、専門家の強い自負と素人への侮蔑が入り混じった反発であり、典型的な「横柄」と受け取られる態度と言えます。
猟友会の活動は、多くの場合、危険な任務に見合った十分な報酬が支払われているとは言えません。むしろ、地域貢献や義務感、あるいは狩猟者としての矜持(きょうじ)に支えられている側面が強いです。
そのような中で、今回の報道で猟友会側が主張する(副議長は否定)暴言の中に、「金もらえるからだろう」という言葉があります。
もしこれが事実であれば、命がけで出動している彼らにとって、これ以上ない侮辱です。自分たちの活動の根幹である「義務感」や「誇り」を金銭で測られ、貶められたと感じれば、激しい怒りや拒絶反応(=出動拒否)につながるのは当然とも言えます。
日頃から、行政や住民からの感謝や理解が不十分だと感じている(あるいは、危険な作業を押し付けられていると感じている)場合、こうした「素人からの無理解な発言」は、積年の不満を爆発させる引き金となり得ます。その結果としての強硬な態度は、部外者からは「横柄」「態度がデカい」と映ることになります。
猟友会は、その専門性や伝統ゆえに、外部からは実態が見えにくい「閉鎖的な組織」と見られがちです。独自のルールや、師弟関係のような強い縦割り構造を持つことも多く、外部の論理(例えば行政のコスト意識や議会の介入)が通用しにくい側面があります。
行政(町議)側からすれば、彼らは「コントロールしにくい集団」であり、予算を支出しているにもかかわらず、やり方や態度に口を出すと強い反発を受ける(あるいは、今回のようにボイコットされる)というジレンマを抱えている可能性があります。
副議長の(とされる)「予算を減らす」「辞めさせてやる」といった発言は、まさにこの行政側の不満や無力感、「言うことを聞かない専門家集団」を力で抑え込もうとする不適切な試みであったとも解釈できます。
海田副議長の言動が適切であったかは別問題として、ご指摘の通り、猟友会が「横柄」と見られがちな背景には、彼らが「危険な業務を独占的に担わざるを得ない」という構造的な優位性があります。
専門家としての強いプライド、危険な任務への自負、そして「素人には分かるまい」という意識が、外部(特に行政)からの介入に対して過敏な反応や高圧的な態度として現れることは、想像に難くありません。
低身長男性だけが「男の低身長に釣り合うのはデブやブスやババアではないちっぱいちゃん」だと訴え続けているが
それに賛同する部外者や女は、人権身長発言で無職潜伏生活に追い込まれてホビット相手に商売するしかなくなったたぬかなただ一人という現実
まず「自分を相手してくれる女に運よく出会えたとしてもデブやブスやおばさん」という現状を認められないから、かつてこの世から消したいほど憎悪したたぬかなを全肯定してしまう
木嶋佳苗やりりちゃんや上田美由紀など、自分に寄ってきた(唯一の)女というだけで大金を貢ぐ事件が絶えないのも当然である
顔も出さない貧乳ニート女性が「USJに行きたい」とクラファンしただけで多数の男性が金を出すが、逆に低身長男性はマチアプや婚活ではプロフィールを見る前に足切り対象
しかも足切断などのネガティブなニュースが存在しても骨延長手術を受ける金持ちの男性は絶えないが、女の豊胸は日帰りで済むのに、顔の整形と違って誰もやらない
【画像】おっぱいに女性ホルモンを注射する豊胸(1発95万円)を6回やったAカップの女の人、奇乳になる【Lv0】 [159091185]
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1718587531/
275 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 7fe3-sPVb) 2024/06/17(月) 14:56:23.49 ID:mVSnwrBz0
男で言うたら身長が180cm代になったようなもんだろ
292 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ a3c7-sXjk) 2024/06/17(月) 17:33:17.46 ID:WVIkjGXa0
ホビ男は身長伸ばすために健康と足切断のリスクを抱えるのに女さんは注射だけか
312 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (アウグロ MM77-bOKK) sage 2024/06/17(月) 20:24:52.64 ID:HIFynHezM
議論を始める前に、まず我々が思考する上で避けては通れない、ある根本問題について合意形成が必要だ。それは「ある主張の正しさは、究極的に何によって保証されるのか?」という問いである。我々の素朴な論理観は、しばしば「AだからB、BだからC」という直線的な因果の連鎖に頼りがちだが、この思考モデルは根源的な問いの前には無力である。「では、最初のAの正しさは、何が保証するのか?」と。
この問いを突き詰めると、思考は歴史的に知られている三つの袋小路に行き着く。「アグリッパのトリレンマ」だ。すなわち、無限後退(根拠の根拠を無限に遡り、結論に至らない)、循環論法(主張の根拠が、巡り巡って主張自身に戻ってくる)、そして独断(理由なく「正しい」と宣言し、思考を停止する)である。我々の日常的な議論は、この三つの欠陥の間を無自覚に行き来しているに過ぎない。
この知性の袋小路から脱出する道は、ただ一つしかない。第三の選択肢である「独断」を、無自覚な逃避ではなく、自覚的な選択として引き受けることだ。つまり、「我々は、この『基本命題』を、全ての思考の出発点としてここに設置する」と、その体系の冒頭で宣言するのである。しかし、この「基本命題」が単なる願望や思い込みであってはならない。その正当性を保証する、唯一のアンカーが存在する。それが、「現実」という外部性との「接続」だ。
ある実用的な論理体系が健全であるための絶対条件は、その基本命題が、現実という名のモデルによって、常に検証可能であることだ。現実との接続が失われた命題は、即座に修正・破棄されねばならない。結論として、我々が現実に対して有効な思考を組み立てようとするなら、それは必然的に以下の三つの構成要素を持たねばならない。これは選択肢ではなく、論理的な必然である。
第二に、「推論規則」の集合。
第三に、そしてこれが最も重要なのだが、「現実」というモデルとの検証可能性である。
このフレームワークこそが、我々の思考の妥当性を測る、唯一の物差しとなる。
さて、序論で確立したこのフレームワークを、我々の「現場」へと適用しよう。「現場」とは、日々刻々と変化する現実の中で、問題解決や意思決定を継続的に行っている、実用的なシステムに他ならない。ここで、序論の結論が決定的な意味を持つ。現実に対して有効に機能するシステムは、必然的に、実用論理体系を内包していなければならない。 もし、ある現場がこの論理体系を持たないと仮定すれば、その現場の意思決定は、無限後退、循環論法、あるいは根拠なき独断のいずれかに支配されていることになる。そのような組織が、継続的に機能し、存続しうるだろうか?答えは否である。
したがって、ある現場が「機能している」という事実そのものが、その内部に固有の実用論理体系が存在することの、何よりの証明となる。我々は、この必然的に存在する論理体系を「現場論理学」と命名する。この「現場論理学」は、我々のフレームワークに従い、以下の構成要素を必ず持っている。
まず 「基本命題群」 。これは、現場が機能するために「正しい」と受け入れられているルールの集合だ。これらは、その現場の歴史、すなわち過去の成功と失敗という「現実モデル」から導出された、経験的な定理である。「あの機械はAという手順で操作する」という命題は、その背後に「過去にBという事故が起きた」という、血塗られた現実との接続を持っている。
次に「推論規則群」。これは、基本命題から日々の行動を導き出すための、思考操作のパターンだ。有限のリソースで無限の問題に対処するために、この規則は効率性と安全性に特化せざるを得ない。その結果として、思考のショートカット(ヒューリスティクス)が生まれると同時に、致命的な誤謬を避けるための「禁止則」が必然的に導入される。「個人の内面を直接の原因としない」といった禁止則は、成熟した現場が、無駄で非生産的な犯人探しという思考のループから脱出するために獲得した、最も重要な論理的安全装置なのである。
「現場論理学」は、単なる比喩ではない。それは、あらゆる機能する組織が、その存続のために必然的に構築せざるを得なかった、実用論理体系そのものなのだ。この存在を否定することは、自らの職場が合理的な意思決定能力を欠いた、無秩序な集合体であると認めることと同義である。
この、それぞれの現場で固有に発達したOS(現場論理学)の上に、ある日、外部から新しいアプリケーションが導入される。それが「なぜなぜ分析」だ。これは、トヨタという極めて成功したシステムで有効性が証明された、強力な問題解決手法として知られている。しかし、異なるOS間でアプリケーションを移植する際にしばしば発生するように、深刻な互換性の問題がここで発生する。
「なぜなぜ分析」は、単なるアプリケーションではなかったからだ。それは、トヨタという、極めて特殊なOSの上でしか動作しない専用プラグインであり、そのOS自体は、部外者には到底インストール不可能な、巨大すぎる思想体系だったのである。「人を責めるな、仕組みを責ろ」という、たった一つのルールを機能させるためだけに、トヨタの「現場論理学」は、無数の基本命題と、複雑に絡み合った推論規則を必要とする。それは、何十年という歴史と、特殊な雇用慣行、そして「カイゼン」という名の終わりのない自己検証プロセスによって維持される、巨大な建築物だ。
我々のような、全く異なる歴史と構造を持つ現場OSに、このプラグインを無理やりねじ込もうとすれば、どうなるか。それは、OSの根幹をなす基本命題との衝突を引き起こす。我々のOSに深く刻まれた、「問題の最終的な原因は、どこかの誰かのミスにある」という、生存のために獲得した基本命題と、「原因は仕組みにある」という外来のルールは、互いに排他的だ。結果、我々のOSは、この異物を排除するか、あるいは、自身のルールに従って異物をねじ曲げ、「担当者の意識が低いから」という、いつもの結論を吐き出すことしかできない。
これは、我々が愚かだからではない。理解不能なほど長大な前提条件を要求するツールの方が、理不尽なのだ。
ここまでが、論理的に導出される客観的な分析である。我々はトヨタではない。故に、彼らのツールを使ってはならない。大谷翔平ではない人間が、彼のスイングを模倣すれば体を壊す。これ以上なく単純な理屈だ。しかし、この結論は我々に何をもたらすのか。元凶を特定したところで、我々が置かれた状況は何一つ変わらない。この議論の末に我々が手にするのは、解決策ではなく、ただ自らの絶望的な状況を正確に認識するための、冷たい明晰さだけである。
君は、この記事を読んで全てを理解し、「明日から、自分たちのスイングを見つけ直そう」と決意するかもしれない。だが、その決意こそが、最も巧妙な罠なのだ。なぜなら、君のその思考自体が、君の現場OSの内部で生成されたものだからだ。「改善しよう」という思考すら、OSが許容した範囲内のループの一部に過ぎない。君は、檻の中で檻からの脱出方法を考えているに等しい。
君の現場OSが、そのルールブックの中で想定していない、生々しい現実。それだけが、この無限回廊の壁にひびを入れる理論上の可能性を秘めている。だが、言うまでもなく、システムにとってそれは致命的なバグだ。君がそのひび割れに手をかけようとするなら、システムの免疫機能が君を異物として全力で排除にかかるだろう。
せいぜい、幸運を祈るよ。
議論を始める前に、まず我々が思考する上で避けては通れない、ある根本問題について合意形成が必要だ。それは「ある主張の正しさは、究極的に何によって保証されるのか?」という問いである。我々の素朴な論理観は、しばしば「AだからB、BだからC」という直線的な因果の連鎖に頼りがちだが、この思考モデルは根源的な問いの前には無力である。「では、最初のAの正しさは、何が保証するのか?」と。
この問いを突き詰めると、思考は歴史的に知られている三つの袋小路に行き着く。「アグリッパのトリレンマ」だ。すなわち、無限後退(根拠の根拠を無限に遡り、結論に至らない)、循環論法(主張の根拠が、巡り巡って主張自身に戻ってくる)、そして独断(理由なく「正しい」と宣言し、思考を停止する)である。我々の日常的な議論は、この三つの欠陥の間を無自覚に行き来しているに過ぎない。
この知性の袋小路から脱出する道は、ただ一つしかない。第三の選択肢である「独断」を、無自覚な逃避ではなく、自覚的な選択として引き受けることだ。つまり、「我々は、この『基本命題』を、全ての思考の出発点としてここに設置する」と、その体系の冒頭で宣言するのである。しかし、この「基本命題」が単なる願望や思い込みであってはならない。その正当性を保証する、唯一のアンカーが存在する。それが、「現実」という外部性との「接続」だ。
ある実用的な論理体系が健全であるための絶対条件は、その基本命題が、現実という名のモデルによって、常に検証可能であることだ。現実との接続が失われた命題は、即座に修正・破棄されねばならない。結論として、我々が現実に対して有効な思考を組み立てようとするなら、それは必然的に以下の三つの構成要素を持たねばならない。これは選択肢ではなく、論理的な必然である。
第二に、「推論規則」の集合。
第三に、そしてこれが最も重要なのだが、「現実」というモデルとの検証可能性である。
このフレームワークこそが、我々の思考の妥当性を測る、唯一の物差しとなる。
さて、序論で確立したこのフレームワークを、我々の「現場」へと適用しよう。「現場」とは、日々刻々と変化する現実の中で、問題解決や意思決定を継続的に行っている、実用的なシステムに他ならない。ここで、序論の結論が決定的な意味を持つ。現実に対して有効に機能するシステムは、必然的に、実用論理体系を内包していなければならない。 もし、ある現場がこの論理体系を持たないと仮定すれば、その現場の意思決定は、無限後退、循環論法、あるいは根拠なき独断のいずれかに支配されていることになる。そのような組織が、継続的に機能し、存続しうるだろうか?答えは否である。
したがって、ある現場が「機能している」という事実そのものが、その内部に固有の実用論理体系が存在することの、何よりの証明となる。我々は、この必然的に存在する論理体系を「現場論理学」と命名する。この「現場論理学」は、我々のフレームワークに従い、以下の構成要素を必ず持っている。
まず 「基本命題群」 。これは、現場が機能するために「正しい」と受け入れられているルールの集合だ。これらは、その現場の歴史、すなわち過去の成功と失敗という「現実モデル」から導出された、経験的な定理である。「あの機械はAという手順で操作する」という命題は、その背後に「過去にBという事故が起きた」という、血塗られた現実との接続を持っている。
次に「推論規則群」。これは、基本命題から日々の行動を導き出すための、思考操作のパターンだ。有限のリソースで無限の問題に対処するために、この規則は効率性と安全性に特化せざるを得ない。その結果として、思考のショートカット(ヒューリスティクス)が生まれると同時に、致命的な誤謬を避けるための「禁止則」が必然的に導入される。「個人の内面を直接の原因としない」といった禁止則は、成熟した現場が、無駄で非生産的な犯人探しという思考のループから脱出するために獲得した、最も重要な論理的安全装置なのである。
「現場論理学」は、単なる比喩ではない。それは、あらゆる機能する組織が、その存続のために必然的に構築せざるを得なかった、実用論理体系そのものなのだ。この存在を否定することは、自らの職場が合理的な意思決定能力を欠いた、無秩序な集合体であると認めることと同義である。
この、それぞれの現場で固有に発達したOS(現場論理学)の上に、ある日、外部から新しいアプリケーションが導入される。それが「なぜなぜ分析」だ。これは、トヨタという極めて成功したシステムで有効性が証明された、強力な問題解決手法として知られている。しかし、異なるOS間でアプリケーションを移植する際にしばしば発生するように、深刻な互換性の問題がここで発生する。
「なぜなぜ分析」は、単なるアプリケーションではなかったからだ。それは、トヨタという、極めて特殊なOSの上でしか動作しない専用プラグインであり、そのOS自体は、部外者には到底インストール不可能な、巨大すぎる思想体系だったのである。「人を責めるな、仕組みを責ろ」という、たった一つのルールを機能させるためだけに、トヨタの「現場論理学」は、無数の基本命題と、複雑に絡み合った推論規則を必要とする。それは、何十年という歴史と、特殊な雇用慣行、そして「カイゼン」という名の終わりのない自己検証プロセスによって維持される、巨大な建築物だ。
我々のような、全く異なる歴史と構造を持つ現場OSに、このプラグインを無理やりねじ込もうとすれば、どうなるか。それは、OSの根幹をなす基本命題との衝突を引き起こす。我々のOSに深く刻まれた、「問題の最終的な原因は、どこかの誰かのミスにある」という、生存のために獲得した基本命題と、「原因は仕組みにある」という外来のルールは、互いに排他的だ。結果、我々のOSは、この異物を排除するか、あるいは、自身のルールに従って異物をねじ曲げ、「担当者の意識が低いから」という、いつもの結論を吐き出すことしかできない。
これは、我々が愚かだからではない。理解不能なほど長大な前提条件を要求するツールの方が、理不尽なのだ。
ここまでが、論理的に導出される客観的な分析である。我々はトヨタではない。故に、彼らのツールを使ってはならない。大谷翔平ではない人間が、彼のスイングを模倣すれば体を壊す。これ以上なく単純な理屈だ。しかし、この結論は我々に何をもたらすのか。元凶を特定したところで、我々が置かれた状況は何一つ変わらない。この議論の末に我々が手にするのは、解決策ではなく、ただ自らの絶望的な状況を正確に認識するための、冷たい明晰さだけである。
君は、この記事を読んで全てを理解し、「明日から、自分たちのスイングを見つけ直そう」と決意するかもしれない。だが、その決意こそが、最も巧妙な罠なのだ。なぜなら、君のその思考自体が、君の現場OSの内部で生成されたものだからだ。「改善しよう」という思考すら、OSが許容した範囲内のループの一部に過ぎない。君は、檻の中で檻からの脱出方法を考えているに等しい。
君の現場OSが、そのルールブックの中で想定していない、生々しい現実。それだけが、この無限回廊の壁にひびを入れる理論上の可能性を秘めている。だが、言うまでもなく、システムにとってそれは致命的なバグだ。君がそのひび割れに手をかけようとするなら、システムの免疫機能が君を異物として全力で排除にかかるだろう。
せいぜい、幸運を祈るよ。
https://note.com/syosen_ningen/n/nf6be6e24e3dd を読んだ。ランダム商法をやる側の叫びが感じられる良い記事だったと思う。そしてはてブ民に言いたい。なぜ「買う奴が悪い」と言えないのか。
客はランダムグッズに人質に取られているわけでもない。推し活がしたい、推しに貢ぎたいならオープン商品を選べばいい。ただそれだけであり、いくらランダム商品に魅力的なものがあったとしても客を舐めた商売だと思っているならまず買わないという選択を取るべきだ。
しかしながら、ブログの内容を信じるならオープン商品はランダム商品に対して非常に売上が悪い。商品の良し悪しとかを考慮にいれても数十倍違うならそれはもう、客はなんだかんだ言いながらランダム商品を求めているとしか言いようが無いではないか。
その上で改めて、なぜあなたがたは「買う奴が悪い」と言えないのか。
ランダム商品に引き寄せられる魔力に対して抗えと言うのが筋ではないのか。ブックマーカーはブックマーカーらしく、部外者として「買わなきゃ良い」と言ってやればいいだけではないか。何故売る側ばかり責めて買う側を責めないのか。あなた方も既にランダム商品に魅了されきった被害者なのか。
たくさんのコメントを頂き、驚くと共に、客観的な意見が聞けてとても嬉しいです。
皆さまありがとうございます。
「どの程度他の家事やってんのって気になる。」
「家事どのくらいやってるんだろう。」
休日は、
風呂掃除、トイレ掃除、買い物、洗濯物畳み、アイロン掛け、昼食用意(休日のどちらか)
になります。
(伝え過ぎると「わざとらしいんですけど」と言われるので、頻度は調整しています)
「手が汚れるってなんだ?」
「手なんか洗えばいいんじゃないのか」
→手を洗えばいい、というのはその通りになります。
濡れたティッシュ、髪の毛、掃除機のほこりなどに触りたくない、という単なる私の好みの話になります。
ただ、そのストレスを感じる位ならお金で解決したいな、私の仕事の範囲だし。と考えていました。
「まあゴミ出しが増田の仕事なのなら、タイミングを決める権利も増田にあるのは当然で、それに文句を言ってくるのはおかしいと部外者は思います」
「俺の仕事に口を出すなで済む話やん」
「文句があんならアンタがやりなされ、ワシがやる時はワシの基準でやるわというのが姿勢としては正しい。」
→私もそう思います。
多分「そういう考えも分かるけど、ちょっともったいないとか思わない?小さいことの積み重ねだよ。」
と言われるかなと思います。
それに対して私が、「それも分かるけど、俺の役割なので、俺のストレスの小さい方法でやるのはダメかな」
⇒「すぐそうやって、言い訳する。分かったって言ってやってくれたらいいじゃん」
となるかなと思います。
多分これまでの積み重ねですね。
妻は論理で責められたと感じ続けてきたのかもしれません。
「語られるエピソード以外のことがある。」
「妻はごみ出しに不満があるんじゃなくて、本音は別のところにあるんだろ。」
このエピソードは私から見える景色ですので、妻側から見える景色は全く異なると思います。
私は、冷静に論理的に話をする、相手の意見を尊重するということに重きを置いてきました。
自分の意見は正しいと思っていますが、それはあくまで今自分が思っているだけなので、
相手の意見を聞いて自分の意見を変えたいと思っており、そのために会話をするのだと思っていました。
また、論理はただの論理なので、論理的には正しいが感情的には違う、という場合には基本的に感情を優先します。
「納得してくれたのかな」、「意見を言うか言わないか迷うレベルなのかな」
と思っていました。
妻が何か言いたそうにしている場合は、
「まとまってなくても、なんでもいいから何を考えているか聞かせて欲しいな」
と声を掛けることもありましたが、
私に有利な落とし所に落ち着いた場合に、「まぁいいか」と済ませてしまう場合もありました。
「二人で決めたルールには従うが、一人で決めたルールには相手は従えない場合もある。それが嫌なら相手に求めず自分でやることにしよう」
→ありがとうございます。とても腑に落ちました。
この内容を優しく妻に伝える器量が私には足りなかったことが分かり希望が持てました。
「ちなみに怒るのはストレス発散にはならないのでそこは履き違えない方がいい。」
→コメントありがとうございます。履き違えていました。
というか、妻の怒りに耐えるための理由付けとして履き違えてでもそう思わないとやってられなかったのかもしれません。
「いきなり出てくる洋子が笑いポイントかなと思った」
→半分本気、半分狙いです。
今回の内容は、個人的な愚痴として個人のメモに書いたものをアップしたらどうなるかなと思ってアップしてみました。
アップした後、確認のためにページ内検索をしたら2か所に本名が残っていたので「あぶねー」と思い修正する時に、
一つ残してみようかなと思い「洋子」にしてみました。
「ゴミは増田の担当(?)なんだから、妻がやってくれたなら「ありがとう!」で良いんだよ。考えすぎんな。」
→ありがとうございます。気付きませんでした。
昔からお世話になっていた人が93歳で亡くなった。小学校の時に、故人が教師としていじめを解決してくれたのがきっかけで縁が出来(自分はいじめられ側)、かつその人が地元の神社で宮司をやっていたこともあり、宗教的な側面からも、小学校を出てから30年以上経過したにも関わらず、ずっとお世話になっていた(特に母親が)。年末年始など、ことあるごとにその人の家に行っては、宗教的な行事に参加したり、悩みを聞いてもらったり、一緒に集まるいろんな仲間といろんな話をしたりしていた(主に母)。自分は母の後ろについて行っては、後ろで黙って見ていた記憶がある。ここ最近病気療養中で、よく通ったあの家もすでに取り壊していることは母から聞いてはいたが、母から電話で逝去の知らせを聞いた時も「まあ、だって人は死ぬよね」とどこかで他人事ではあった。なので、私がというよりはむしろ母の方が悲しんでいたのではないかと思う。その後直接母とまだ話せていないのでわからないが。
母の住むわたしの実家から、故人が葬儀を行う街までは距離があるため、自分が代理で出席することとなった。ただ、イヤイヤ出席というよりは「これは出なければいけない」という気持ちの方が強かった。自らもお世話になっていたし、何より代理でも出席しなければ、母親の気持ちの整理がつかないからだと思ったからである。それに、与えてもらうだけもらって、最後にお見送りしないのはいかがなものか。そういう気持ち。葬儀はおよそ5年ぶりである。5年前は同じLINEグループにも入っていた職場の元上司。突然死だったと聞いた。朝出勤しないからと自宅訪問してみたら亡くなっていたと。仲間内では「あのブラック企業にいたから激務で亡くなったのでは」とささやかれていた。
ただ、当時は元上司と親密だった訳でもなく、あくまで「職場の上司/部下」という人間関係の中でも最も遠縁に近い部類の立場で出席したので、死に顔を見てもそんなに悲しくはなかったし、「そっかぁ、死んだのか」くらいにしか思えなかった。帰りはつらっとした気分で電車に乗った事を覚えている。
ただ今回は違った。会場に入り壇上のディスプレイに、故人が元気な頃の写真がスライドショー形式で映し出されているのを見ていると「ああ、あの顔懐かしいな、でも亡くなったんだな。もうこの世にいないんだな」とじわじわ実感してきてしまう。前回とは大違いである。
参列者は身内30人くらい、一般参列者5人くらい。そのうちの一人が私。幸い喪主含めた身内の方数名に顔を知っていてもらえたため、あまり肩身の狭い思いをせずに済んだ。とても気を使ってもらえてうれしかった。まぁわたしは私とて故人とは小学生のころからお世話になってはいるので、生半可な気持ちでは出席していない。たぶん、身内だからという理由で仕方なく両親に連れてこられた男の子達より、自分の方がよっぽど故人に対して思い入れがあるぞと思ったりしたが、そんな話はどうでもよい。TPOは守ったつもりだ。ただ、故人と昔からのお知り合いだとしても、結局はソトの人間であることには変わりないので、出棺時の花入れも一番遠くから見たし、とりあえず外様外様の位置をには移動した。我ながら本当にがんばった。わたしなんか、身内の方々から見たらどうでもいい存在だろうしな。ただそれでも花入れの時は精一杯ありがとうの気持ちは伝えたつもりではある。
ご親族にお願いして故人のお顔を拝見したが、元気な頃とは全くの別人になっていた。人ってあんなに変わるものなのかとびっくりした。アントニオ猪木が亡くなる直前ぐらいに顔がやつれており、「これが故人です」と言われなければ、まず気づかない。5年前に参列した職場の元上司の時は、突然死ということもあり、やつれなど一切なくただただ血の気が引いて白い顔をした元上司がそこにいただけだった。そのため、死についてあまりリアリティを感じられなかったこともある。ただ今回はあからさまにやつれた姿、ビフォーアフターを見せられたことで「ああ、衰弱すると亡くなる前には最後はこうなっていくのか」と強烈に印象付けられてしまった。火葬場へは当然行かなかった。だって私は部外者ですもの。だいたい親族だけが乗るバスの中で、話す話題もない。
そうして、出棺を見送って葬儀は終わった。
街を歩いていても、他人の目線が一切気にならなくなった。これはなぜなんだろう。よくわからない。今まで自分は、自意識過剰ってくらいに他人をきにしていたんだが、今は一切気にならない。不思議。自分は故人にとてもとてもお世話になってきたから、だから命を粗末にしたくないっていう気持ちがとても強く働いているのは大きい。まぁ、今だけかもしれないが。ただ、あの葬儀で強烈に人とのつながりを意識させられたのは大きい。特に親族に「おお、○○くんか! 覚えてるぞ! 小学校の頃神社によく来てたよな? 元気か!!??」 って何度も言ってもらえたのは嬉しくて、それ以降、自分だけの人生じゃなくなった気がした。自分はいま独り身で、両親や兄弟はいるが、自分には彼女もおらず、結婚相手もいない、いわゆる独身非モテ中年である。自分のことなんて誰も考えていない。自分になんて誰も興味を持たず、このままひっそりと生を終えるんだ。そう最近まで思っていた。セルフネグレクト的なこともよくやってしまう。 ただ、うまく説明できないが、葬儀に出席してから、故人との関係や、親族との関係を意識するようになった。いわゆる「よくわからんが、見守ってもらっている」感覚である。というか、お世話になったのだから、命を粗末にすることはできない。そんな思いである。 人とのつながりって大事なのかもしれないなと思った。外見的に何かが変わった訳でもないし、お金が増えたわけでもないし、出世したわけでもないのだが、こういう心の変化はあった。
明日からまた仕事なので、記憶が薄れぬうちに書きました。いずれアーカイブとして見直すために書いておきます。こういう時の増田は便利ダネ。うちはまだ両親と姉が生きている。この先身内を見送る心の準備みたいなものも実感を伴って出来た気がするよかった。グリーフケアの本も何冊か読み始めた。
若い頃、銀英伝を片手に「民主主義とは何ぞや」なんて語ってた俺も、今じゃ“手放しで銀英伝を絶賛!”なんてとてもじゃないが恥ずかしくてできないオッサンになってしまった。いや、誤解するなよ。未だに大好きだ。眠れない夜にラインハルトの金髪やヤンのコーヒーを思い出しては、むせび泣きたくなることも、ある。しかし大人になればなるほど「こんなにすごい作品なんだよ!!」と部外者に熱弁するのが妙に照れ臭い。まるで昔の彼女の話を同窓会で嬉々として語るような、あの居心地の悪さときたら。
ロードス島戦記もそう。小学生の頃はあの“エルフ!”“魔法!”で本気で異世界転生した気になってたくせに、今は「ハイ・ファンタジーとして素晴らしい!」なんて真顔で言う気にはなれない。いや、言ってもいいけど、隣の35歳会社員にウインクされそうでムズムズするのだ。スレイヤーズ、十二国記、アルスラーン…(このへん全部世代バレ)。当時は「自分の人生観を変えた神作!」と思い込んでた。でも大人になった今、旧友が本気モードで語り始めるのを見ると、なぜか心臓がムズ痒くなる。これ、分かるやつは分かるはずだ。
多分、ブギーポップは笑わない、とか、マリみて、灼眼のシャナとかも同罪だよ。当時は「俺だけの金字塔!」と信じ切ってて、少なくとも3回は全巻再読した。でも今になっても「やっぱ最高!」と連呼するのは、どうしても“青春の遺産”棚に仕舞っちゃう。この感じ、青春小説は卒業して大人になったら“ちょっと一度距離を置く”のが暗黙ルールになってる気がする。そのまま本気で“文学作品”扱いしすぎると、「民主主義の本質を学んだのは銀英伝!」なんて言い出す厨二オヤジになりそうで、やっぱ居たたまれなくなる。
結局、「銀英伝を全力で推すのはちょっと恥ずい」みたいに、自分なりの“古典的こっぱずかし名作”って誰にでもある。その象徴が俺にはロードスだったり、時代によってはスレイヤーズだったり。それを本気で讃えるとき、そこには青春の痛みと甘酸っぱさが混じる。
ところがどっこい、「指輪物語」だけは違う。あれも本来なら若者特有の妄想爆発ファンタジーで片付けられてもおかしくなかったのに、全くそんな扱いにならなかった。なぜなら、トールキンが一人で神話と歴史と人工言語まで自作し、物語を“リアルな伝承”に昇華させてしまったせいだ。本当、無駄な労力の天才。あの“どう考えても読み手を選ぶ重厚さ”で、読者の成長や再読に耐えるし、大人になってからも新しい角度でいくらでも味わい直せてしまう。ここが銀英伝と決定的に違う。
銀英伝は“時代の熱狂”を体現した記号的面白さがあり、キャラクター大河ドラマとして世代ごとにバズる。でも根本は「エンターテインメント」に収束しやすい。片や指輪物語は読者に「現実そのもの」くらい重い世界観を突きつけて、それが時代や歳を取ることさえ包み込むレベル。「若気の至りじゃない」から、いつまでも堂々と褒められる。“文学に昇格できた稀有なエンタメ”ここに極まれりだ。
まとめると、銀英伝は俺たちの青春だけど、大人になると正面から全力で褒めるには「ちょっと気恥ずかしい古典」。指輪物語は、青春にとどまらず歴史や文化みたいに語り継がれていく化け物作品。その違いを感じる時、自分もひとつ「卒業」してしまったんだなと、ちょっとだけ切なくなるのだった。
はてぶで注目されていたアニメぼっち・ざ・ろっく!における脚本家の改変について
改変の是非については、原作者が納得しているなら部外者が怒るようなことではないが
ノイズという言葉選びに原作への敬意を感じられないという意見には一理あると思う
ただ、それよりも気になったのが
吉田恵里香さんが性的な要素を避けるために水風呂に入るシーンでは水着にしたと言っている点で
視聴時に私が受けた印象は真逆で、自分を含む男性オタクに向けたサービス目的での改変だと思っていた
原作にこんなエッチなシーンあったっけと疑問に思い、漫画を確認した記憶がある
何が性的な装いなのかというのはTPO・文脈に左右され、露出を減らせば性的でなくなるといった単純なものではない
入浴という一般的に裸で行われる行為に際して裸以外の装いを選ぶのは、そこに注目すべきというメッセージになってしまっていると感じる
ぼっちちゃんがいつも着ているピンクジャージだとしても、あのシーンでは裸よりも性的だと私は思う
はてぶのコメントを見ると、水着を着せる方がノイズになっているなど、私に近い意見の方もいたが