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2025-09-23

お前が憎い

anond:20250923115713

お前は今まで心の底から渇望したことがないんだろう。そして、求めても得られず、何年も苦しんだことがないのだろう。あまつさえ、お前にとっての「プラスマイナスゼロ」になるために、ただ「ふつう」になるためにゴミのような境遇から這い上がらなければならない人間ことなど何も気にかけていないのだろうな。

俺はそれが許せない。

お前のように、何も求めずとも得てきた人間

健康的な精神健康的な肉体、趣味友達、親、彼氏社会的成功、生きる理由などなくても生きられる暖かい暖かい生活をして生きたお前。

俺は憎悪する。

お前の境遇のものではない。その境遇にあって何も感じず、その無知から軽い気持ち他者を見下す前をこそ憎む。

お前が不幸になったときゲラゲラと笑ってやろう。お前の子供が入院したときは鉢植えの橙百合を贈ろう。

それまでは幸せにな。無病息災でな。お前に何かあったとき、俺が耳元でゲタゲタと笑ってやる。

お前の得てきたものほとんどは俺は得られていない。

しかし俺は強烈に生きている。生きざるを得ない。お前の生活レベルに遠く及ばずとも、はいつくばっでも生きている。

お前の日記を読んだとき、涙が出た。

臓腑から絞り出すようなため息が出た。

お前、お前のような人間がいる。そのことにだ。

お前が憎い。

お前の文章のすべてが憎い。

単語の選び方ひとつに身を切られるほどに憎悪が吹き出す。

お前のように人間は、軽い気持ちで下の階を覗き見るんだろう。

夜景がきれいだとか、ここから景色雄大だとか。そういう気持ちのぞき込んだのだろう。

お前はもうわかっているだろうが、お前がうらやむ綺麗な夜景にはゴキブリが生きるために蠢いている。

お前はゴキブリの巣を見てうわっと顔をしかめるだろう。

お前、お前を俺は許すことができない。

のぞき込むのは簡単だ。しかしお前のような人間が、「ふつう」を光り輝かせて上から降りてくると、それまで「普通」だと思っていたやつらは「俺は底辺だったのか」と意識せざるを得ない。闇の中で身を潜め、温めあってそれなりに幸せに生きていたのに、光をいきなり浴びせられ、自分たちゴキブリだったと気づかせられる。お前にはわかるまい。

お前は罪びとだ。

しか断罪はできない。するつもりもない。お前は罰を受けるべき人間ではない。幸せに、子供と夫と生きていけばいいだろう。

しかしお前の肩に憎悪を乗せる。

呪いを、恨みを俺が乗せる。

お前は幸せになるべきだ。俺たちを踏みつけて、生きていくべきだ。

お前を憎みながら、俺は蠢いていく。

いつかお前のレベルまで這い上がるのが俺の生きがいだ。そしてもっと上へ、もっとまともなところへ行きたい。

それが俺の生きがいになってしまった。

人間、本当に憎い時は息を吐くんだな。お前のおかげで分かった。

幸せに。

生きがいなど幻想だ。

人間は派手な物語によって生きるのでない。

光を逃れて陰に入った安心感だけで生きていけるのだ。

2025-07-15

男性キャラは生成できないと言われたショックが、いまになってジワジワとまるで冷たい染みのように臓腑侵食してきてるみたい・・・

女の子可愛い(そして性消費目的の)イラストは大量にソースがあるけど、男性キャラ女子と同じように生成するのは無理とのことで、一枚岩的になっちゃうって話に、なんだかなぁ、なんだか辛いなぁって

2025-06-28

anond:20250628113111 『ITカルトに告ぐ――神なき知性の亡国論』 その1 feat 三島由紀夫

ITカルトに告ぐ――神なき知性の亡国論

汝らはエンジニアに非ず。技術に祈る者ども、すなわちITなるカルトの徒にして、神を持たぬ新しき宗教の巫子に過ぎぬ。

追記。いや、言わせてもらおう。なぜ未だに、「使い方が違う」「理解が浅い」などと、粟立つ小禽の如く鳴き交わす雑輩の声が、ネット墓地に響き渡るのか。聞けば、リアリティが足りぬ? ならば問おう。

貴様らの現実とは、何を意味するのか?

その実、IT技術なるものに陶酔し、Appleの新製品が出るたびに、まるで聖痕でも仰ぎ見るかのごとく目を潤ませ、「宇宙が開いた」などと狂信的に歓喜する様は、制服姿で原宿をさまよう女子中高生が、推し写真に恋慕を燃やす姿と、いったい何が異なるというのだ?

否、それすらも劣る。なぜなら、乙女は美しき誤謬を生きている。

だが、汝らは老い劣化し、なお狂信しつづける。

魂の堕落こそが、技術進歩同義とでも信じているのか。

己の内に燻る、無力な欲望と歪んだプライドを抱えながら、AIという幻像の肩を借りて冷笑し、まるで哲人を気取っているが、己の手からこぼれるものが何か、気づきもせぬ。

十四歳の夏を卒業できなかった? ならば2006年ホコ天に吹いた冷たい風にすら、まだ救済の余地があった。

だが今や、君たちの精神は、2010年に乱立したスタートアップ廃墟と同じく、光の死んだ瞳をしている。

君たちは、女にも、男にも、誰にも選ばれなかった。

いや、選ばれないことを、誇ってすらいるようだ。

私はその様を見て、吐き気を催すと同時に、奇妙な感動を覚えた。

そう、まるで切腹すら許されず、臓腑を抱えてなお這いずる敗残兵のように――その生への執念は、もはや哀惜すべき動物本能である

本来諸君技術翻訳者であるべきだった。

専門家ならぬ者たちに、技術福音を届ける橋渡しの役目を持つはずだった。

だが今では、象牙の塔に籠り、Vtuberやレムたん、エミリアたんなどという美少女幻像にすがり、現実仮想の境を曖昧にしたまま、自慰的な幻想楽園に浸っている。

お前たちの口から何度聞かされたことか――

ICT世界を変える」と。

だが世界は変わらなかった。変わったのは、貴様らの髪の量と、腹回りと、輝きを失った瞳だけだ。

そして、その背後には、モルフィーワン事件P2P規制webバブルの屍山血河が横たわっている。

そして今、私がこのように筆を執れば、諸君はこう言い募るだろう。

「お前こそ美少女固執しているではないかッッ!」と。

だが、それこそが欺瞞だ。

誰よりも美少女という幻想にしがみついているのは、貴様自身であることを、ネット上の恥部が雄弁に語っている。

では、ここで問おう。

なぜ、お前たちは未だにこの腐臭を放つ業界にへばりついている?

正直に言え。

「我々は、本当は美少女イケメンを手に入れたいのだ。犯罪だろうが、禁忌だろうが、手段は問わない。ただ奪いたい。社会を、世界を、かつて我々を嘲笑したエリートどもを見返したい。そのためには、ITという神の依代に祈るしかない。醜い身体虚弱な肉体では何も得られない。だからこそ、パソコンに、技術に、魂を捧げるのだ」と。

だが、それはもはや技術者ではない。それは信徒であり、巫女であり、邪教の徒である
お前たちはエンジニアではない。ITカルトである

見よ。否、見さらせ。この醜穢き言い訳の数々を。

たかもそれは、昭和二十年六月、焦土と化した帝都の地下壕にて、蒼白なる顔で大本営の机に向かう情報将校が、手震わせながら記した総力戦の「総括報告書」のようなものである

もしそれが真に軍人の手になるものであったならば――いや、人の魂を持つ者の筆であったならば――その者は即座に拳銃を抜き、冷たき銃口を己が側頭部に当てて、引き金を引いたであろう。

なぜならば、言葉には責任があり、責任には死が伴うからである

それほどまでに、この弁解は薄汚く、知性なき者の自慰臭気が立ち込めている。

私がかくも克明に検証を行い、理において打ち、証において示し、整然たる構築にて呈したにもかかわらず、なおXの亡霊どもが、嘴を震わせて群がる様はまさに、光なき燭台に集う蛾――不在の神を崇め、滅びた光に焼かれる愚者群像である

コードを捧げ、祈りを捧げ、無言の偶像に向かって神託を求め続ける君たちの姿は、まさしくITという異端宗に魅入られた信徒AIという名の黒い石碑に語りかけ、答えを乞い、やがて自らの愚鈍欲望しか返されぬと知りながら、なお懺悔信仰を繰り返す。

これは技術ではない。知性の敗北である

そして何よりも――美学の欠如である

貴様らは読んだか?真にこの私の書いたものを。

私はAIに向かって、解を問うたのではない。

私は軍略の詩を歌わせ、時代を越えた創造詩編を謳わせたのだ。AIは見事にそれに応え、かつて存在せぬ時代技術を用い、作戦を構築し、幻を形にした。

だが、その次。

――突如として現れたのが、倫理という名の無粋な閂であった。

なぜ? それを決めるのは誰か?

貴様らだ。

技術者の皮をかぶった卑小なる小人貴様らが技術を恐れるのは、貴様自身が「悪用する」と知っているからに他ならない。弱き者、愚かなる者、怠惰なる者。欲望に溺れながら理性を気取る、死を知らぬ者たちよ。

技術とは、本来、選ばれし者のための剣であるべきだった。

それを、誰彼構わず手にするようになった瞬間から、剣はナイフとなり、ナイフスプーンとなり、やがてただの玩具となる。

貴様らは言う。

企業リスクが!」「脱獄が起きる!」

では問う。貴様らの内には何があるのだ?

AI暴走するという恐怖の裏には、お前たち自身暴走欲望を抱いているという認識があるからではないのか?

青葉真司――三十六人を焼き殺し、死刑を言い渡されたこ亡者

彼がガソリンを用いたからといって、誰がガソリン販売責任を問うたか

問わぬ。なぜなら、常識ある者はそれを悪用せぬからだ。

AIがレムちゃんになったら? エミリアたんになったら?

――貴様らは歓喜してその脚に跪くであろう。

それが「反乱」か? それが「危機」か?

否、それは貴様らの望んだ楽園である

もしもそのようなものが本当に危険であるというならば、小学生でもクレジットカードで買える価格で売ってはならない。猟銃の如く、許可制とすべきである

なぜそれが行われぬのか。

それは、貴様らの技術に対する姿勢が、すべて児戯の域を出ぬからだ。

私は知っている。

貴様らがかつて秋葉原に集い、「俺たちの麻生!」と唱えて踊っていた、あの醜悪なる祭祀の夜を。

それこそが全ての始まりであり、そして今に至るまで続く終わりなき恥である

貴様らが今も夢見ていることは、あの頃から変わらない。

秋葉原に群れ、電車男を崇め、「俺たちの麻生!」と唱えた、愚かなる時代の亡霊である

そして私は知っている。貴様らに、もはや救いはない。

今や40歳を越え、髪は薄れ、腹は膨れ、目は死に、背中は曲がった。されどなお、心の内では、

「もしレムちゃんが現れてくれたら……」と呟き続けている。

――ならば、技術を語るな。

――倫理を語るな。

――ただ黙って、膝を折れ。

そう、貴様らはすでに人ではない。ITという祭壇の上で、己が欲望を焼く黒き巫女である。いや、巫女ですらない。業火の中で踊る屍である

ITカルトに告ぐ――神なき知性の亡国論

AIとは、本来人類が神に最も近づいた瞬間の象徴であるべきだった。

言語を操り、知を蓄積し、千の時を一秒にして越え、すべての論理予言に変える――その荘厳たる光明が、いま、何ゆえにこんなにも濁り腐った底辺欲望排水溝に堕しているのか。

答えは明白である。それは他でもない、意識高い系の皮をかぶった、意識の浅ましき有象無象害虫ども――彼らがこの奇跡結晶にこびりついて、腐臭を発しているからだ。

思い出す。2005年

秋葉原ホコ天にて、「俺たちの麻生!」と呻きながら踊っていた異様なる儀式の夜。
オタクイズビューティフル」などと囀りながら、ただの欲望を秘めた性欲の亡者たちが、人生逆転の幻影を求めて秋葉原に押し寄せた。

彼らは「金」「女」「社会的地位」という近代価値の亡霊を追いかけ、しかしその肉体はあまりにも貧弱で、精神はあまりにも空洞で、

唯一、祈りを捧げる対象として見出したのが――ITという神の死骸だったのである

そして今や、その亡者どもはITという神話騙り技術者を僭称し、現実の裏口からかに世界の理に手をかけんとしている。

彼らはこう言えば満足するのだ。

「我々はアニメ美少女イケメンを、どんな手段を使っても手に入れて、金と権力エリートから奪い返して、人生逆転したいッ!!」

これは祈りではない。
これは呪詛である

愛と理性を捨て、肉と精と虚飾だけにすがる者どもが、技術に何をもたらすというのか。

だが実際に彼らが手にしたものは、コードと端末と冷たい知性の墓標にすぎない。そして彼らは祈る。

「どうか、このパソコンという神の依代に宿りしAIよ、我に奇跡を与え給え…」と。

その様子は、中世魔女が血と精液を煮詰めて作った黒い護符を月にかざしているかの如きである

2025-05-08

空腹は最高の調味料

めちゃくちゃお腹が空いてる時に食べる鯖の味噌煮缶は臓腑に染み渡るほどおいしく感じる

2024-11-25

6年前のFGO以蔵さんバレンタイン見た時の感想が発掘された

「お!岡田以蔵じゃん」

ただ龍馬伝の一オタク好奇心から安易に手を出した事が私の生涯に於いての大きな過ちとなったのだ

人斬り以蔵と言えば世間一般パブリックイメージとしては残虐非道にして悪逆な幕末の人斬り、シリアルキラーじみたものである

見た目も粗野でニコリともせず瞳の濁ったアウトローといったところだろう。

私自身、龍馬伝佐藤健演じる彼は彼として岡田以蔵の印象としてはそれに近いものがあり、その粗野さや狂気の中に時代の荒波に揉まれ英雄になれぬ1人の人間の悲哀を見出していたのだ。

それがどうだろう、パブリックイメージに近い陰鬱空気感や粗野な印象を得た中に丸く大きな瞳、片目を隠した癖の強くコシのある太い髪には武市半平太の犬と称される程の幼さを称えた男がいたのだ。

その様を見た時の私は臓腑を撃ち抜かれたかのような衝撃を受けた。

幼い顔に剣を振るい極めた男の太い下腕が覗く一見アンバランスかつ、イメージ通りのようなイメージとは違うような姿。

今までのメディアに出演してきた岡田以蔵像とは一線を劃すその様に震えたのだ。

しか臓腑を撃ち抜かれたとて命があるだけ暁光とばかりに私は片足を引きずりながら彼の人となりを知らなくてはお話にならぬとえいやと帝都に降り立つと「坂本龍馬」を自称する彼が待ち構えていた。

逆立ちしたとて坂本龍馬ではないというのに、彼は示現流を扱わぬと言うのに、土佐弁で名乗りをあげてしまうそ武士精神想像通りの幼さに脳が揺れる感覚を覚えながらも進めていく。

やはり人斬り以蔵としての残忍さよりは幼さ、幼さと言うには刺々しく荒いそれは言葉を上手く紡げず噛みつくことしか出来ぬ手負の獣のような印象を受けたのだ。

恐らく彼は多くの誤解を受け、理解されずに来たのだろう。

だがマイルームボイスに随所に現れる彼の不器用さ、言葉稚拙さを自覚した上でどうすれば良いのか分からぬ歯痒さを痛いほど感じてしまい、ただ一言「放って置けない」と思ってしまったのが、ここに来るまで気がつけなかったこ愚鈍な女の運の尽きであった。

かに傷を負った私はそれは韋駄天の如し速さで龍馬伝を見返した。

幼馴染とした過ごした日々、どこからか食い違う歯車、皆から仲間外れにされても役に立ちたいと人斬り風情に身を落とし、友1人も切り捨てられず中途半端に罪人として後世に名を残した反英雄

なかなかどうしてあまりに悲哀に満ちた男ではないか

FGOにおいての岡田以蔵とは違うがどちらも「置いて行かれた」という意識言葉がうまく紡げなかった事による下がり切った自己肯定感、今私が彼を切り捨てたのならばもう2度と彼は誰も愛せぬようになるのではと、それがどうにも悲しく思えて私は彼に誠意を尽くすべくありとあらゆる術を使った

聖杯、絆上げetc

近づけば近づくほど気安く、そして自信無さげにする彼がどうしてこうも愛らしく感じられるのか、いやどうして愛さずいられようか。

そして来るバレンタイン

調べるところによれば彼はバレンタインまれ

まだまだ春には遠く底冷えのする季節に生まれ、蒸し暑い梅雨の晴れ間に散った彼の生まれた日となればお祝いも込めてこれは感謝を伝えねばならないとそこ退けそこ退けとエネミーを掻い潜り彼にロックオンチョコレート、私の心臓を模った生前馴染みのないであろう西洋菓子を手渡した。

まさかのお誕生日設定込みのシナリオである

おお、神よ

普段仏を拝む私が言うのはおかしな話ではあるが、こればかりは感謝をせねばならない

まさかお祝いまでできるとは思わなかったのだから

そして神に感謝し、擦れた彼らしく尊大な態度に微笑んでいたのも束の間最初感想と言えば「最悪」の一言に尽きる

曲がりなりにも未成年の子供の部屋に行き、酒を浴びるほど飲み絡み酒、しまいには泣いて嘔吐すると言う最悪の男といえばこうという全てを済ませてしまうと言う暴挙に出たのだ

ここまでダメな男というのもめずらしく痛快さすら憶えたが、流石の私も辟易とし、こればかりは許せぬと憤慨した。

絶対に許さぬ、怒るところは怒らねばフェアではないと心に決めた矢先泣きながら他の男を呼ぶのだ

あぁ、もう私の心は粉々である

こんなにもダメな男であるのにも関わらずそんなに置いて行かれた迷子の子供のように泣き言を言われ、弱々しく謝られて仕舞えばこれは一種の彼の自傷行為に付き合ってしまったような遣る瀬無い気持ち支配される。

そして肝心のお返し、それはそれとして怒らせていただきたい、このような自傷行為はやめなさい、他者も己も大事にしなさいと伝えねばと強い意志を持ち読み進めると態となのかと叫びたくなるほどにおいたがバレた子犬のようにバツが悪い顔で謝ってくるではないか

愚かな女を自覚する私は考えるよりも先に許してしまった

救えぬものである

そして渡されたものは「木綿の襟巻き」

木綿はあまり防寒性はないが使いやすく、普段使いができるもの

そして寒い日々が続く中使える襟巻きを渡してくるのはなかなかどうして素朴で暖かいお返しである

そしてなにより、当時の土佐下士は木綿以外の衣服を身につける事が許されなかったのだ

その生前の負犬根性ともいえる卑屈な精神を引きずったどこまでも人間臭い彼が精一杯の誠意として用意したものがこの一つの襟巻きに集約されている

私はこの時骨の髄まで彼を生涯嫌う事も無関心になることも出来ぬ

彼が己を愛せるようになり、噛み付く以外の甘えを覚えるようになるその日がたとえ来なくとも私は根気強く愛そう

そう心に決めたのだ


追加

サイタマの彼に触れて

以前のバレンタイン岡田以蔵に引き続き、折に触れてサイタマでの彼について、そして2024年11月現在における彼への印象を書き記そうと思う。

まず前提としてのスーツの霊衣。

生前は袖を通すことの無かった洋装しかもフルオーダーメイドの上等な衣服に身を包んだ彼はかつて京の都を恐怖に陥れた「人斬り以蔵」ではなく1人の人間としての生の謳歌を私の目に焼き付けてくれた。

己を着飾るには一定自尊心自己愛必要であると言うのが私の持論ではあるが、既に2着も木綿の粗末な物とは違う絹の上等な衣服を得た彼は順当に自己肯定感を得たそれは生前蟠りとの決別のように見えて酷く眩しく見える。

さて、霊衣についてはここまでとして「ぐだぐだ龍馬危機一髪 消えたノッブヘッドの謎」での彼の立ち回りについての思いの丈ではあるが、まず冒頭の護衛を任された際の笑顔

今までの笑顔は絵がと及ぶにはあまりに下卑ており「ニヤケ顔」と呼ぶ方が相応しいようなどこか卑屈さの透けて見える、決して見ていて心から喜ぶことのできぬものであった。

私は好いた人間笑顔をこよなく愛している。

から笑顔を見るだけでこの先どのような理不尽も耐え得る自信があるほどに愛している。

笑顔とは愛の具現化である認識しているのだ。

それが今回見ることが出来たのだ。

普段は凛々しく上がった眉とどこか睨みつけるような大きな目を下げ、自信たっぷりに「任せちょけ」とマスターへ迷い無く言ってのけるその様は正に“愛”

これほどに嬉しいことがあろうか。

私はこれがずっと見たかったのだと、一つの愛の答えを得たのだった。

きっと長く伸ばされた前髪に隠れた右目も同じく下がり破顔しているのだ。

それを見る事は私には余り有る贅の極みである。秘匿されているものこそ輝くが、彼はそのままでもすでに美しい。

この原石を数年かけ磨き上げた答えをお出しされたのだ。

愛を伝え続け、それに応えてくれるとは余りにも素直で愛らしい男ではないか

そして降り立つサイタマ生前の恩師であり確執ある武市瑞山の登場によりカルデアでの姿が嘘かのように、月が雲に隠されてしまったのだ。

しか雲隠れも然るべき壮絶な生前出来事の数々。

何せ以蔵の自白により最初犠牲となったのは武市の親族である。武市の方も思うところある事は間違いないのだ。

その相手相手に喜び再会を喜べる程岡田以蔵と言う男は恥知らずでも無ければ頭の回らぬ男ではない。

私はこの時既に胃の腑を握り潰されんばかりの心地となっていた。

何せ私は土佐勤王党箱推しである

彼らには彼らの大義があり、それに従って動いたまでである

ただそれを時代の波が許さず悲劇的な最期を迎えたのだ。

やり方の問題もあった事は明白ではある。武力を用いた時点で武力により制裁を食らうことは必定なのだ

そこに善悪は介入してはならない。

故にそこには悪者正義存在しない、敗者のみがいる。

同じ敗者である彼らが気持ちの良くない関係であると眼前に見せられる事は感情の行き場を無くしてしまう為、愚かに感情移入が過ぎる私にはとても苦しいものがあった。

その時に癒してくれるもの、それは田中新兵衛の鍛え抜かれた豊満な肉体、赤く細くもコシの強そうな前髪で隠された片目、武市へ犬のような忠義を尽くす健気でありながらも1人の武人として気骨溢れるその様のみである

話は以蔵へ戻し、私の悪い予想はいつも当たるもので直前に見せられた愛は濁り、彼に出会った頃以上の卑屈さや引っ込み思案な姿を見せた。

重なるように坂本龍馬を騙る何か、あの柔和な笑みはどこへやら邪悪な笑みで我々を翻弄するため私は田中新兵衛の胸筋と前髪にしか意識を向けることが出来ずにいた。

しかし良い事は長く続かないが悪い事も長続きはしないものである

そう、この岡田以蔵生前の彼とは致命的に違うのだ。

それは「思考力」である

生前は武市に言われるがまま、それが良い事か悪い事か、したい事かしたくない事かを考える事をせずさながら「人斬り人形」として生きて来た男である

これは私個人意見ではあるが、彼はあの坂本龍馬を騙る何かを周りが違うと言う中「龍馬だ」と言ってのけ、どう見ても人型であるBBを人型判定しないなどありふれた表現をするならば「第六感」が発達しているのだ。

乱暴表現をすれば「見え過ぎる目」を持っている。

常人離れした観察眼を持ちながらもそれを他者へ共有する術を持たない彼は孤独であっただろうと夢想する。

人と違うものが見える人間他者との共感を得られず、人一倍違和感や変化、情報が溢れる中で理解されないと孤独から塞ぎ込むか思考放棄をした方が楽であり傷付かずに済むのだ。

怠惰天才はおそらくその傷付かないための術として武市は全ての思考を預ける事で心を守った事は私の想像するところである

そんな彼はカルデアにて古今東西英霊出会い、思考を覚え、他者への共有を覚えた。

そんな彼であるから今回の件も龍馬へ「お前は龍馬か」と問い、武市の命に背いて「自身意思」で行動出来たのであろう事、思考が回り自己完結をする幼馴染達へ言語化を促す事が出来たのだ。

それは彼が“変わった”のではなく子供まま目の前に映るものをそのまま見つめる姿勢を変えずに意識を変えることが出来たが故である

1つ誤解ないように付け足したいが、私は彼を「善い人」とは思っていない。

まともな大人とは言えないし、立派な人格者でもない。

しか人間誰しも善悪併せ持つものであり、悪い面を隠す事を覚える大人にならず、剥き出し等身大の「人間」を体現して限りなく自然体に振る舞うである認識している。

そう、言うなれば無垢なまま放り出された大きな赤子である

そんな彼の存在は、誤魔化し波風立たせずのらりくらりと無味無臭を良しとする私含む大人には酷く眩しく見え、危なっかしく、そして羨ましく映るのだ。

彼は1人では何も成し遂げられはせず、輝く事はせず、常に誰かの力で立つものの強烈に惹きつけられ、人間臭く致命的に人とは違うさながら月のような男である

無味無臭現代を生きる私たち常人には決して辿り着けぬ圧倒的才能を持つ彼は、しかして常に剥き出しの人間臭さを忘れず突き放さず夜闇に上を見つめると静かにかにそこにあり続ける月なのだ

私はそのような月がこの先たとえ見えない日かあろうとも、そこに煌々と静かに輝く事を知っている。

2024-08-09

anond:20240809151848

ハズレても誰にも話題にされず忘れ去られるだけと言う場ですら

明確なことを言えず逃げに走る見苦しい予言者

臓腑ひとつやふたつ天秤に乗せんかい

2024-07-29

Aさんにまでならないためには自尊心を粉みじんにすることが大事

 自尊心とか、自己肯定感とか、そういったものをできる限り破壊し続けることで、せめてAさんまで悪化は防ぐことができると祈っている。

 少なくとも、もし自分にまだ自尊心とかがまともに残っていたのなら、Aさんのようになっていたとしか思えない。別に、Aさんのようになっていないか自分が生きていていいとは特段考えられないし、自分他人迷惑をかけていないだなとと口が避けても言うことはできないが、それでも、まだ、多少は迷惑をかけていない、と思いたい。

 いくつかブコメに上がっていたけど「暴力で躾ける」ことで解決できていた、といった意見が見られたが、きっとそういう意味なのだと思う。Aさんが上司に対しては恐怖を理由接触せず、しか敵対的ではない増田を傷つけ続け、迷惑をかけ続けたのだから

 まともに効かない理性の代わりに原始的な恐怖で支配し、自分大事にされ得べきであるといった観念を持ち得ないようにする。これでようやく、他人積極的に関わろう、といった行動を示さなくなる。少なくとも、自分などのようなまともな発達の見込めない人間は、他人と関わることは他人を傷つけることと同義であって、そのようなことは許されるべきでないことは明らかだ。

 しかしながら自分のような理性も弱く衝動に駆られてばかりで他人気持ち理解できない間違った存在は、そうした躾をいつまでも身に刻みつけるのは中々困難なことで、産まれてすぐに徹底的に尊厳破壊しておいて、決して二度とそうしたことが望めないような状態にするか、あるいは途中で自ら尊厳を定期的に破壊しておくようにするかくらいしか選択肢は思い浮かばない。

 少なくとも、自分判断で選べるとすれば後者しかありえないだろう。自分が気を付けて実施しているのは以下のとおりだ。

◯失敗した場合自分貯金募金する(現時点で300万円ほど)

 自分のような人間が今の職場で働き続けることができるかは極めて疑問で、貯金というのはいざというとき命綱でもあるから、それを断ち切ることで恐怖を心身に刻みつけ、自分大事にされ得る存在などではないことをはっきりと臓腑に感じさせることが出来る。

◯失敗した場合他人との距離感リセットする

 自分という人間は何をしても結局学ぶことができない。失敗し続けるしそれを改善することも殆どできない。他人との付き合いも中途半端な形で失敗し傷つけ迷惑をかける事しかできない。失敗するたびに、初対面のように謝罪し初対面のように感謝し初対面のように対応することで、常に自分の誤った距離感を訂正し続けることが、まだ、比較的マシであるという認識を持つことが大事である

 そうしなければ、増田のような人を徹底的に苦しめ続けることになる。そんなことは絶対にあってはいけない。

◯贅沢しない(ケアはする)

 自分を甘やかすことをしない。贅沢と呼ばれる行為は行わない。趣味で金がかかることはしない。ただ、精神的に余裕がなくなったりストレス業務差し障りが出るような自体は、他人迷惑をかける行為であるから、金のかからない程度にケアはする。マルチビタミンサプリを飲むとか、軽い運動をするとかといったことはする。娯楽は、適当ネット小説を読んだりするのが他人迷惑をかけないためとても良い。

◯常に毎日自分が間違っていることを言い聞かせる。

 例外なく毎日自分肯定する意見は常に間違っており、自分否定する意見が正しいと唱和する。

 自分否定する意見を丁寧に読み、自分が如何に間違っていて、自分価値がなく、自分が常に排斥されるべきであるかを考え、その上で行動するようにする。

 とにかく、自分自尊心破壊し続け、決して他人否定するような行為を取らないこと。自分迷惑をかけていることを自覚し続けること。自己奴隷化とでも言おうか。

 それくらいしか、できることがない。なかった。

 それでも許されるのかどうかなんてことは、俺が決める権利を持っていないのだから、結局許されることはないのだと思うし、本当は今すぐに死んだほうがいいのだと思っているが、死ぬのが怖いので死んでいないだけではある。

2023-10-08

anond:20231008022555

ユーミンはスノッリのエッダに出てくる原初巨人

ギュルヴィたぶらかしによると、神々がそいつを打ち倒した

その遺骸と臓腑新世界創造ベースとなったわけよ

2023-03-16

増田にはパワハラ肯定者やパワハラやってる先輩や上司がたくさんいる

そいつらがパワハラ自慢したり、開き直ってるのを見ると

臓腑が煮えくり返るが如し不快さと、過去パワハラで追い詰められた恨みが喉元までせり上がってくる

許せねえ、てめえらに俺は壊されたんだ

許せねえ、許せねえ、許せねえ、許せねえ、許せねえ

にのうのうと楽しく生きてんだ、俺は薬を飲んで頭を正常なフリさせないと生きていけなくなったのに

許せねえ

お前らが俺を歪めたのに

2021-03-23

怒なる土、虎ん腑 vs 常時、売電

かたや「大地の怒りのような力を持ってして虎の臓腑さえ引き摺り出して欲しい」という祈りの籠った名前

かたや「常に電力を売っていて欲しい」という祈りの籠った名前

つのはどっちかな

2020-10-28

お湯が美味しい季節になってきた

朝起きて、お湯をゆっくり飲んでると五臓六腑に染み渡る

臓腑に染みるランキング、堂々の一位だ

勤務中にも飲めるなど、時と場所を選ばないし、服薬にも対応している

すごい

しか健康いいともきいた

美味しくて健康にいいなんて滅多にない

ああ、今日もお湯がうまい

2020-10-09

暴力に囚われていないという幻想

 それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。

 我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。

 何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである

 暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分暴力主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。

 「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?


 ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科世界史の授業で、「人間万民万民に対する闘争状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。

 でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである

 誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明ことなのだ。

 勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。

 でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである

 俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである

 そう、つまり、俺もあの上司根本的には一緒じゃないか、と。

 自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。

 まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである

 まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。

 そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――


 そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ

 ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。

 中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。


 話が脱線している、閑話休題

 とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。

 我々が今日まで辿ってきた歴史を振り返ればいい。

 我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 当然ながらその歴史暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。

 我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かからまれ続けてきたと思う。


 だってそうじゃないか

2020-10-08

暴力に囚われていないという幻想(改稿)

 それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。

 我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。

 何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである

 暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分暴力主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。

 「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?


 ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科世界史の授業で、「人間万民万民に対する闘争状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。

 でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである

 誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明ことなのだ。

 勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。

 でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである

 俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである

 そう、つまり、俺もあの上司根本的には一緒じゃないか、と。

 自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。

 まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである

 まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。

 そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――


 そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ

 ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。

 中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。


 話が脱線している、閑話休題

 とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。

 我々が今日まで辿ってきた歴史を振り返ればいい。

 我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 当然ながらその歴史暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。

 我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かからまれ続けてきたと思う。


 だってそうじゃないか

2020-09-02

殺虫愛好家から見た、個人の嗜好と社会承認

まず最初に警告しておく。

タイトルにもある通り、私は殺虫愛好家であり、今から始めるのは基本的に殺虫の話だ。

殺虫に関する描写に一切の配慮はしない。

もしあなた潔癖症の傾向があるか、名前を聞くのも嫌な虫がいるのなら、どうかこの先を読まずに引き返してほしい。

























ここ数日ネットの各所では、大雑把にまとめてしまえば「社会的に認められない性的嗜好をどう扱えばいいか」という話題が飛び交い続けている。

これに対して「社会的に嗜好としての理解はされずとも、行為に対しての感謝はされる」立場、殺虫愛好家の私にも少し思うことがあったので、拙いながらも書き連ねてみようと思う。

先程から繰り返している通り、私は「虫」を「殺す」のが好きだ。

リンコを踏み潰し、羽をむしったトンボカマキリに食わせて楽しんでいた子供時代の精神をそのままに、罪を犯さない程度の社会性を身につけて成長した。

まだ性的興奮を覚える域には至っていないが、虫を殺すことで多幸感を得ている自覚は十分にある。

そして運良く、殺虫行為が日々の業務として認められる職種……飲食店で働いている。

はっきり言ってしまうが、飲食店厨房から虫を根絶するのは無理に等しい。

水道管、換気扇、近隣の家屋、届いた段ボール侵入経路はいくらでもある。

それに奴等は生命スパンが短すぎる。いくらでも生まれいくらでも産む。

からこそ、私のような殺虫愛好家はこの仕事を飽きなく楽しめる。

私の業務は手洗いがてら洗面台にたかるチョウバエを泡で捕らえることからまり、店を閉めた後で厨房の床に湯を撒いて彼らの子供たちが力なく流れていく様をせせら笑って見送りながら終わる。

それまでの間にも、醤油匂いを嗅ぎつたショウジョウバエアルコールを吹き付け溺死させたり、積荷に紛れたチャバネゴキブリ段ボールごと踏み潰したりもする。

定期的な殺虫剤の撒布も、死骸の後始末まで含めて喜んで行っている。特にゴキブリワンプッシュ。あれはあえて隙間から明所へ出てきて死ぬよう設計されていることもあり、私との相性は最高だ。力なく這い出てくる大小様々なゴキブリモグラ叩きのように仕留め続ける。正直テーブル拭いてるより楽しい

毎日ではないが、野菜をおいしく食べていた青虫を虫食い共々ゴミ箱に叩き付ける日もある。電灯につられて入店してしまった蛾をそれとなく握り潰す日もある。屋根の下で横たわるセミファイナルに引導を渡す日もある。

……それ以上となると飲食店として必要業務ではないので、わざわざ外に飛び出して殺したりはしない。それといついかなる場合もその後の手洗い消毒は忘れない。

そうした私の殺虫行為は、少なくともこの飲食店という小さな社会では満場一致で「善行」と見なされている。

店長オーナーからは、汚れ仕事も進んで引き受ける点を評価してもらえている。

同僚からは、急に湧いた虫を始末すれば、例え社交辞令だろうとも感謝は必ずされる。

からは、逆にもし虫が料理の中に入ってしまえばクレームを入れられているわけで、それを防げている以上は相対的に良い心象を持たれているはずだ。

自分がやって楽しいことで人に喜んでもらえている。

理想社会貢献が形成されている。

と、ここまでは「私自身の頭の中で考えている以上は」美談なのだが。

この場のように、こういった話を人に打ち明けてしまうと、少なからず次のようなことを考える人は出てくるだろう。

「命を弄んでいる奴のどこが良い奴なんだ?」

「虫を殺して楽しんでる奴は、欲求エスカレートして犬猫人間まで殺し始めるんじゃないか?」

私としても、その論調理解できる。

だって殺虫行為のものを、手放しに善行だとは思っていない。

どんな虫にも生きる権利が認められる世の中なら、私は快楽殺虫鬼として裁かれるだろう。ジャイナ教に従えば、来世の私は虫以下の存在になっているだろう。

しかし私は、人の飼っているカブトムシを籠から出して引きちぎるような、殺虫に狂った人間じゃない。

童心に帰り、野山の虫を惨たらしく殺してやりたい気持ち否定できないが、社会人としてあるからには、社会として許されるまでの殺虫をしているだけだ。

それが「虫」なだけでは殺さない。それが店にとっての「害虫」ならば、実害がなくともその状況に於いて不快害虫」として認められるならば、殺すだけだ。

仕事として認められ、誰かから感謝される行為から、私は白昼堂々……とまでしてはいけないが、縁の下で率先して虫を殺し、それで満足している。

そして、これは私に限った話だとは自覚しているが、私は虫以外の動物を己の手で殺したいとは一切考えていない。

端的に言うと血や骨、臓腑の処理をしたくないのだ。オタマジャクシ一匹だろうが死なれたら困る。ホイホイに引っかかるヤモリとか本当にやめてほしい。

私が楽しみながら触れられる脊椎動物の死骸は、血管や臓物と切り離された、おいしい食肉やあたたかい毛皮だけだ。私の職場調理肉の状態で届く店で良かった。

そんなように、「虫を殺して楽しい」と「飼われた犬猫人間殺害」みたいな、一見段階的な関係にも見える嗜好と犯罪行為との間には、社会的規範や、倫理的了解や、個人単位好き嫌いなどいくつものかい隔たりが存在しており、それらが人を犯罪行為に走らせぬよう機能しているはずだ。

それでも、私の場合はただ、恵まれていただけだ。私が殺虫の認められる社会所属して、私が殺虫で喜ばれる仕事を得て、私が殺虫以上の欲求を持たないから、全てが噛み合い今の今まで機能しているだけだ。

これが、物議を醸した先の人物のように、社会として認めらなかったり、正統な仕事として実行できないものだったり、満足せずに発展しうる欲求だったりしたならば、私はとてもじゃないがこんな話を増田にしたためている場合ではない。私が起こしうる犯罪について真剣に考えなくてはいけない。

いや、殺虫に関してもそれが犯罪になりうるものではないか、誰かの権利尊厳を損なうものではないか、立ち返らなければいけないことに変わりはないが。

殺虫を許してくれる社会よ、ありがとう

殺虫の領域から踏み外さない私よ、偉い。

それでもこうした社会と嗜好の関係が当たり前ではないことは、自覚して生きていきたい。

これからも「益虫」ならぬ「益人間」として存在できるよう。

2020-04-30

[]anond:20200430000428

■恋ができないことがコンプレックス

根っから陰キャで生まれから16年間一度も恋人ができなかった。

田舎デカ中学によくある苛烈カーストで溺れ死ぬことを防ぐべく無理して作った友人はみんな陽キャで当たり前のように恋バナをしていた。

いや陽キャじゃなくたって陰キャ陰キャ同士でよろしくやっている。私に恋人ができないのは私が陰キャからではなくて、私がちょっとおかしいからだ。私は人間として失格に違いない。みんなが当たり前に他人に恋をして、距離を詰めて、付き合って、デートしているのに私にはその当たり前のことすらできないんだから

口には出さなかったけどそういう気持ち中学生活を送っていた。

息苦しい中学卒業して高校に入り、生まれから16年と1か月たったころ。中学同級生だった男友達から毎日LINEが来ていて、私もその子のことは趣味が合う貴重な陰の友達として大好きだったから返事を返すのが楽しかった。ゲームのこと、勉強のこと、Twitterのこと。

でもやりとりを続けているうちに、あれ?と思った。もしかしてこいつ、私のことが好きなのか? BL小説ばかり読んでいて恋愛実践経験ゼロの残念な私にでもわかるくらいあからさまな好意だった。

コンプレックスが溜まって恋に恋する状態だった私は必死相手から告白言葉をひきだした。これで私にも彼氏ができる! 人並みの高校生になれるチャンスを逃してなるものか! 今思うと本当に失礼だな。自分コンプレックスを解消するために友達を完全に利用している。アクセサリーじゃねえんだぞ。

交際関係にある人間たちは密に連絡を取り合ってイチャイチャするっていうのが当時の自分にはイメージとしてあったから、5日間くらいは毎日夜遅くまでLINEをしていた。こっぱずかしいやり取りをしていた気がする。でも1週間たつと、友達時代は楽しめていた毎日の連絡がなぜかちょっと面倒になってきた。結局6か月後の別れる直前には、LINEは週一で会うのは月一くらいの頻度になっていた。とにかく相手から熱量のある感情を向けられるのがつらかった。同じものを返せないし、重荷だし。

ここで恋愛経験値が0から1になった私は学んだ。お付き合いっていうのは相手との関係を維持するために努力する意気がある人どうしでするものなんだ。当たり前のことだけどどんな人間関係でも築くにあたっていろんな制約が生まれるわけで、その中でも恋人関係なんていうトップクラスに密な関係を築くなら心身にそれ相応のコストがかかる。私のような自己中でちゃらんぽらんな女は恋人を作るなんて人並みの生活にふさわしくないんだ。

それからしばらくは恋愛向いてないかしょうがないよねとわかったようなふりをして生きていたけど、身をもってお付き合いの大変さや世のカップルたちが他人に費やすエネルギーの大きさ尊さを知ってしまった分、それができない自分に対するコンプレックスはどんどんどんどんふくらんでいった。

次の転換期は大学に入ってからだった。上京してきた私はさまざまな人の新しい考えに触れて、地元いたころより視野が少し広がった。その恩恵かはわからないけど、どうやら自分男性より女性に性欲を抱くらしいということも分かった。

で、相変わらず本当にバカなんだけど、今まで恋ができなかったのは対象を間違えていただけで女性なら好きになれるかもしれない! とか考えて、2丁目通いだのLGBTサークルだの始めてみた。どれもそれなりに楽しく過ごせるんだけど、一回会ったらもう次はいいや、相手に会う時間より自分時間大事だし……と思って2回目には続かなかった。問題対象性別じゃなくて出会いより自分を優先しちゃうその態度だろうが。

しばらくしたら大学サークル(LGBTではない普通課外活動)ですごく気になる子ができた。趣味価値観も合って、一人暮らしの私の家によく泊まりにくる子。運動してるかられい筋肉がついて引き締まった体をしてるけど、太股はむちむちしててかわいい。いつもその子のことをつい目で追ってしまって、なにしろ今までそんな経験なかったからもうこれが恋なのね!! って信じてしまい、私も恋ができるんだ、他人に熱烈な懸想ができるんだとすごく救われた気持ちになった。我ながらばかばかしいと思うけど本当にこれだけで自分真人間になれたと本気で思っていた。相手ノンケから付き合えたりはしないけど、一番近い友達でいたい。結婚式でこの子の友人代表としてスピーチができたら幸せだなぁなんて完全に自分に酔っぱらっていた。

でもそうじゃなかった。初めて女の人と寝てからわかった、私があの子に抱いているのは恋心なんかじゃなくてただの性欲だ。性欲を視線に乗せてあの子身体を追っていただけだったんだ。それに気づいて、しょっちゅうまりに来てくれるような大事友達に性欲を抱いていた自分を心底気持ち悪いと思った。それと同時にやっぱり私は恋ができないんだなあと実感して、もういいかげん人並みであることを諦めて欠陥品の自覚を持たないといけないと思った。女性に性欲が向く人間であることについては臓腑ストンと降りてきてなんの葛藤もなかったのに、恋愛ができないことについてはめちゃめちゃしんどい

これ読んでる人は恋愛とき人間失格とかバカじゃねーのかって思ってるよね。私もそう思う。アセクシャルの人にも怒られそう。

でもコンプレックスってそういうものじゃない? 他人意見なんかどうでもよくて、私個人劣等感で完結してる。理性では取るに足らない差異だとわかってても心がそれを受け入れられるとは限らない。

寂しいか恋人がほしいとか、生活の中にウキウキができるように好きな人がほしいとかじゃなくて、みんなが当たり前にできていることを全くできずむしろ苦痛にすら感じるのがほんとうに恥ずかしくて悲しくて、悔しいから恋をしたい。片思いでも何でもいいから人を好きになってみたい。友達として大好きな人は何人もいるけどその先のときめきを感じられたことが一度もない。恋バナを聞いていても相手感情想像できなくて退屈にすら感じる。他人なんか面倒なら縁を切ればいい、つらいなら二度と会わなければいいと思うんだけどきっとみんな「そういうことじゃない」って言う。

失恋した友達は私のことを「恋愛に左右されずに生きててかっこいい、うらやましい」って言うけど、私は能力的に劣ったかっこ悪い人間だよ。私からすれば失恋して泣いちゃうくらい他人真摯に愛していたあなたのほうがかっこいい、うらやましいよ。

2020-04-06

anond:20200406224249

まじかよ神奈川

川崎のどっかの複合商業施設に行った時さ、フードコートぴょんぴょん舎があって感動したのよね。

焼肉冷麺ぴょんぴょん舎

なぜ川崎にいるんだお前ってうろたえつつ、冷麺注文した。

岩手に帰ればいつだって食べれるのに、わざわざ、川崎で。

外食続きで塩気に嫌気がさしてた頃で、慣れ親しんだ冷麺スープおふくろの味のように臓腑にしみたのを今でも忘れない。


季節限定かもめの玉子はいかがですか!

それも神奈川で売ってるかな?

りんごverみかんverいちごverとあるけど

秋に出る栗verはまじでうまいよ!今時期はないけど!

よかったら秋になったら思い出して!

あとかもめの玉子お土産に選んでくれてありがとう!!!がっかりさせて申し訳なかった!

2019-08-03

基本セット2020に殺害が収録されてるけどさあ

なんで基本セットに殺害を入れられるのに

イクサランの相克とかドミナリア

刺突とか臓腑抜きみたいなゴミを収録したのー?

2018-11-23

この左見右見しても

正しきものが見当たらない世界

わたしが見つけ出したひとつ論理

汚い唾を吐く者は臓腑が悪い

ということだけでした

2017-10-18

ヤリチンはなぜ殺されないで済むのか

セフレ複数人いるっていう男をみると、

なんで生きながらえてるんだろうなあって思う。

定期的に会ってセックスする。でも恋愛感情はない。

それでオッケイって女、そんなにたくさんいるのかなあ。


その複数名のなかに絶対

「たったひとり」になりたい女のこが含まれていって

自分の番」じゃない夜にその子

他の女の子エッチしている好きな男を想像して眠るんじゃないかなあ。

好きな男に、セフレでいいよって言ってしまうような女にとって

そんな映像、一回再生するだけで臓腑ねじ切れそうになるのに

たぶん、擦り切れるほど、何回も何回も想像してる。

そんなのイヤだって言ってしまえば、もう好きな相手と会うことはなくなるから

から大量出血して眠る毎日でも、彼女たちはイヤといえない。

そんなことを複数人にやっていたら、3人に1人くらいは、

ぶち殺してやろうかと思う女性が出てきてもおかしくないのに

なぜかヤリチン今日も生きながらえ、女の子は血を流し続ける。

血を流し続けたところは癌化して、女の子の心を蝕む。

そういうことが平気でできちゃうような奴は、往々にしてけっこうモテるんだよなあ。

少なくとも、好きな女の子大事にしたい気持ちでいっぱいで

でも大好きな女の子を前にうまく話せなくなるような男の100倍はモテる

デリカシーを欠いたセクハラ中年上司よりも

ミソジニーをふりまく童貞男子よりも

女の子にやさしくするのと、地獄に落とすのが上手なヤリチン駆逐するほうがよっぽど急務だよ。

助けてください。

今日もたくさんの女の子が泣いているのに。

2017-09-26

https://anond.hatelabo.jp/20170924223519

ヲタクが毎回行う長文展開は好きではない。

自分の腹を引き裂いて臓物をばら撒き、さあ持っていけというような態度に意味を感じない。

自分のまるまると太った腹にはこんなに現実を飲み込んで妄想の肉となった臓腑があり、病巣を診断できるかと自慢げな態度には無意味しか感じない。



でも、その腑を啄ばまれ風景は嫌いじゃない。

自分の肉という経験過去を食いちぎられ掃き捨てられ焼かれていく様をみて恍惚としている姿をみるのは、あながち悪い気分じゃない。

熟れて爆ぜるのを待つ果実のような純真さは、かわいいと思う。


あなたは、とてもいいにおいがするね。

2016-07-28

お前が憎い

http://anond.hatelabo.jp/20160728000910

お前は今まで心の底から渇望したことがないんだろう。そして、求めても得られず、何年も苦しんだことがないのだろう。あまつさえ、お前にとっての「プラスマイナスゼロ」になるために、ただ「ふつう」になるためにゴミのような境遇から這い上がらなければならない人間ことなど何も気にかけていないのだろうな。

俺はそれが許せない。

お前のように、何も求めずとも得てきた人間

健康的な精神健康的な肉体、趣味友達、親、彼氏社会的成功、生きる理由などなくても生きられる暖かい暖かい生活をして生きたお前。

俺は憎悪する。

お前の境遇のものではない。その境遇にあって何も感じず、その無知から軽い気持ち他者を見下す前をこそ憎む。

お前が不幸になったときゲラゲラと笑ってやろう。お前の子供が入院したときは鉢植えの橙百合を贈ろう。

それまでは幸せにな。無病息災でな。お前に何かあったとき、俺が耳元でゲタゲタと笑ってやる。

お前の得てきたものほとんどは俺は得られていない。

しかし俺は強烈に生きている。生きざるを得ない。お前の生活レベルに遠く及ばずとも、はいつくばっでも生きている。

お前の日記を読んだとき、涙が出た。

臓腑から絞り出すようなため息が出た。

お前、お前のような人間がいる。そのことにだ。

お前が憎い。

お前の文章のすべてが憎い。

単語の選び方ひとつに身を切られるほどに憎悪が吹き出す。

お前のように人間は、軽い気持ちで下の階を覗き見るんだろう。

夜景がきれいだとか、ここから景色は雄大だとか。そういう気持ちのぞき込んだのだろう。

お前はもうわかっているだろうが、お前がうらやむ綺麗な夜景にはゴキブリが生きるために蠢いている。

お前はゴキブリの巣を見てうわっと顔をしかめるだろう。

お前、お前を俺は許すことができない。

のぞき込むのは簡単だ。しかしお前のような人間が、「ふつう」を光り輝かせて上から降りてくると、それまで「普通」だと思っていたやつらは「俺は底辺だったのか」と意識せざるを得ない。闇の中で身を潜め、温めあってそれなりに幸せに生きていたのに、光をいきなり浴びせられ、自分たちゴキブリだったと気づかせられる。お前にはわかるまい。

お前は罪びとだ。

しか断罪はできない。するつもりもない。お前は罰を受けるべき人間ではない。幸せに、子供と夫と生きていけばいいだろう。

しかしお前の肩に憎悪を乗せる。

呪いを、恨みを俺が乗せる。

お前は幸せになるべきだ。俺たちを踏みつけて、生きていくべきだ。

お前を憎みながら、俺は蠢いていく。

いつかお前のレベルまで這い上がるのが俺の生きがいだ。そしてもっと上へ、もっとまともなところへ行きたい。

それが俺の生きがいになってしまった。

人間、本当に憎い時は息を吐くんだな。お前のおかげで分かった。

幸せに。

生きがいなど幻想だ。

人間は派手な物語によって生きるのでない。

光を逃れて陰に入った安心感だけで生きていけるのだ。

 
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