はてなキーワード: 有色人種とは
まずは、「Virtual Gorilla+(バゴプラ)」という名のWebメディアです。
そしてもう一つが、SF小説に関する事業「Kaguya」。Kaguyaの取り組みは、いくつかあります。①ショートショートのコンテストの開催。②Kaguya PlanetというWebマガジンの刊行。ここでは毎月短編小説を配信しています。③Kaguya BooksというSFの出版レーベルとしての活動。
二つの活動以外にも、企業のSFプロトタイピングのコーディネーターなど、SF関係のさまざまな仕事も手掛けています。
Kaguyaで開催している短編小説のコンテストは、最大4千字です。気軽に書いて、読者や審査員からフィードバックをもらうなかで、自分の強みが何かを発見してステップアップしていく。そういう場所を目指しています。
ライフステージや、家庭における役割、精神状態などに大きく左右される。「連載が約束されていない長いもの」の執筆に時間を割けるということ自体、特権的なのかもしれない。
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20251022002010.html
【井上】 日本のSFだけではなく文学全体がそうかもしれませんが、商業デビューの王道として、新人賞をとって、そこで作品を出して商業デビューし、その出版社から2作目3作目を出し、他の出版社からも声が掛かる……というルートがあると思います。もちろん日本のSF作家で、そのルートに乗らず商業デビューして活躍している方もいるのですが、わりとイメージしやすいロールモデルとして、それがある。
主催によってカラーが決まっていることが悪いわけではないですし、一つのコンテストに「全ての多様性を担保しろ」と求めるのは無理だと思います。なので、窓口を増やすことで、デビューへの道筋を多様にすることが大事だと考えています。
【井上】 23年10月に文芸翻訳の経験を持つ編集者が新しく参加してくれたこともあり、海外から日本への輸入や、日本から海外への発信に力を入れることができるようになりました。
写真・図版
第3回かぐやSFコンテスト大賞作品「マジック・ボール」は、中国のSFマガジン『科幻世界』とイギリスのウェブジン『Schlock!』にも収録された=井上彼方さん提供
【井上】 「自分の表現で誰かを傷つけてやろう」と思っている人って、そんなにいないと思うんです。ごく一部の悪意のある人をのぞけば。でも実際に、自分が書いた文章に批判がくると、身構えるじゃないですか。そういうときに自分を見つめ直して反省して次に生かすって、非常に難しいことだと思うんです。特にSNSで炎上してしまうと、冷静ではいられないですよね。
自分の書いた文章について言われるのではなく、あらかじめ「こういうことって気をつけた方がいいね」とわかっていたら、過剰な自己防衛に陥らず、話を素直に受け止められる場合があるはずです。
ヒューゴー賞は世界SF大会によって設立されたSF・ファンタジー作品の文学賞で、受賞作品は世界SF大会に参加登録した人による投票で選ばれます。そして、このSad Puppiesというのは、ヒューゴー賞の選考に影響を与えるための組織的な投票運動でした。女性や有色人種の受賞が増えていることに抗議を示すため、白人でヘテロセクシュアルの男性作家たちが自らを、権利を侵害されているSad Puppies(悲しい子犬たち)と称したのです。
ヒューゴー賞は投票制なので、人々に開かれたものではあったはずです。ところが、Sad Puppiesたちは、「ヒューゴー賞はポリティカルコレクトネスに配慮するあまり、本当に面白い作品を受賞させなくなっている」といった主張を始めた。「もっと面白い白人男性の作家を受賞させろ」という風に呼びかけた。そういう事件ですね。
【井上】 ヒューゴー賞は2010年代、女性作家や非白人の作家の受賞が増加しました。女性だけではなく、クィアであることをオープンにしている作家の受賞も増え、それに対して「自分たちの土俵が荒らされた」というような被害感情を持たれる方がいた。それで起きた事件です。
【岡田】 この事件については、SF評論家の橋本輝幸さんが、ウェブ連載「いつでもSF入門」のなかで詳しく語られています。SF界において女性が優遇された時代はなかった、と指摘されています。
【対談を終えて】
対談から2年。2024年に慶応義塾大学にサイエンスフィクション研究開発・実装センターが開設されるなど、社会の中でSFをどうツールとして使っていくのかという取り組みは広がりを見せ続けているように思う。その中で、SFを取り巻く世界やSFが描く世界の中から、誰が取りこぼされてきた/いるのかということは今も問われ続けている。
この間、VGプラスで行った取り組みの一つに、刊行しているマガジン『Kaguya Planet』でのパレスチナ特集がある。1948年のイスラエルの建国以前から続く、入植型の植民地主義と人種差別的な支配、ジェノサイドは、「世界では誰の声が優遇されているのか」ということと無関係ではない。そのことにSF企業としてどう応答できるのかを考えて行った特集で、パレスチナ人/パレスチナにルーツのある作家による、パレスチナを舞台にしたSF・ファンタジーを翻訳した。
写真・図版
ウェブマガジン「Kaguya Planet」のパレスチナ特集
だが同時に、システムや場づくりについて問題提起をしているVGプラス自身、たくさんの方から至らぬ点についてご指摘をいただき、ときに引き立てていただき、ときに知恵を授けていただきながら活動をしている。マイノリティーの方々に「指摘する」というコストを支払わせてしまった局面もたくさんある。それらを抽象的な次元にとどめることなく、現実の制度や権利回復へとつなげるためになにができるのか、常に考えていきたい。
そしてそれは、SFという私の愛するジャンルそのものを豊かにすることにも、当然つながっているのだと思う。
排除はしばしば、「質」の名において実行される。
なにが「優れた」作品なのか。その指標そのものが、特定の経験や価値観にもとづいて構築されてきた。そうした規範に照らせば、大きく異なる経験を持つ他者の書いた作品は必然的に「劣った」ものと評価されよう。排除は意図的に行われるのではない。それは常に「客観的な評価」の結果として生じる。
Sad Puppies事件は「ポリティカルであること」への反感が運動のきっかけだったが、むしろ、従来の選考こそが政治的だったと考えることもできる。価値判断の場では多くの場合、既存の権力関係が反映される。正統性を維持するためのシステムは個人の意図を超えて作動する。
だからこそ、井上さんたちの取り組む解決策はシステムそのものに切り込むものだ。短編コンテストの開催、発表の場を多様化すること、経済的に持続可能な仕組みをつくること。これらはすべて、異なる価値観が共存できる環境を目指している。
誰が未来を語るのか。どのようにその語りを開いていくのか。今回の対談で示されたのは実践だった。完璧な一つのシステムを目指すのではなく、複数のシステムを並走させることで、今は「評価」できない作品や価値観にも光が当たる可能性を残している。SFの想像力が現実を形成する力を持ちつつある世界において、その想像力を担う主体の多様性こそが、私たちの未来の豊かさを決定づけるだろう。
ポケモン新作のカイリキーによるNTR風イラストが海外で炎上してるようだ。
イラスト自体はカイリキーが少女を抱え、NTR文脈を付与してるだけなので直球のエロではない。
https://x.com/perrone_405/status/1979124657870754285?t=Gw5sYAHrqak5c7AyGr_ugQ
https://x.com/mxing4214/status/1980936732507091437
頭の悪いバカ外人は濃い有色人種=黒人の文脈を付与しだすようで、青以外の何色でもないカイリキーを黒人とみなすらしい。
理屈でいうとドラゴンボールのピッコロを黒人とみなす、海外バカポリコレによる日本の文化盗用による加害が原因だ。
https://note.com/skasuga/n/n9b5f9bd9caf7
身内のローカルルールでやってるだけなら百歩譲っていいとしても、それを文化を盗用した先にまで展開して叩きだすのは日本へのレイシズム以外の何者でもない。
今更だけど、先の参議院選挙で参政党に投票した人達をバカにする事を批判する声が強いのが納得いかなかった
つーかそもそも参政党に投票した人々が弱者や負け組だって認定が大きな間違いなんだよ
競争社会から溢れた負け組が排外主義に走るという、分かりやすい物語で語る人達が多かったが、
でも参政党の支持層って元々自民を支持していた人が多いようだし
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/withbloomberg/2060337?display=1
参政党支持者の中で、「現在の自民党への評価は、かつての安倍政権の頃と比べて悪くなった」と感じている人が97%に上るなど“安倍政権を評価していたが、今の自民党に失望している”という人が多くいることがわかりました。
どう見ても「リベラル政党が救ってくれなかった弱者」などではないんだよな
https://news.yahoo.co.jp/articles/cb47d47609385c95ef23fbbcd19c0d44ff4c9f39
女性が高学歴になるほど婚姻率が上がる今世紀においては、けして低学歴ゆえに判断能力のない無知で愚かな可哀想な人達などではない
持てる者達が、持たざる者達をさらにいじめて苦しめようと躍起になっているのが参政党現象だが?
自分達の子育ての負担を減らしたいがために高齢者を殺せ、外国人労働者を追い出せと叫ぶ参政党支持者の何処が弱者なんだよ
データから分かる参政党支持は負け組のルサンチマンではなく勝ち組の傲慢。
それに対して、共産党、社民党といった昔ながらの野党や新興勢力の中でも立憲民主党やれいわに投票する層の方が、明らかに社会的経済的に不遇な人間が多いんだが?
非正規でしか働けず、結婚できないから男に養ってもらう事もできず、子供も持てず未来に何の希望もない氷河期世代から見たら、
参政党支持の子育て世代は特権階級の勝ち組以外の何物でもないんだから。
有権者の愚かな選択をバカにしてはいけないと杓子定規に述べる人達は
強者が弱者をバカにするのと弱者が強者をバカにするのとが同じなら訳がない
それよりも明らかに貧困率が高く学歴や健康状態も悪い有色人種の底辺層よりも弱者だと本気で思ってるなら、それは差別思想ゆえに感覚が歪んでいるからだよ
東アジア人は不細工だし。ただでさえ不細工揃いなのにルッキズムが浸透しているんだから少子化が進んでいるのは当たり前。自分の遺伝子を遺したくない、子供に遺伝させたくないと思ってセルフ断種を望むのは当然と言える。
東アジアの国はこのまま全て出生率ゼロになって滅びてほしい。不細工は子孫を残すな。生まれてくる子供達が可哀想だ。
でも訳が分からないのはほぼ白人で構成される北欧諸国でも少子化が加速しているらしいって事。これが謎すぎる。
都内でたまに北欧系っぽい人を見ると、もう本当に容姿のレベルが違うと言うか。自分がもしもこのレベルだったら5人でも10人でも喜んで産んでやるって思うのに。
今朝、目が覚めたとき
満足できそうですか?
今いるところが、こよなく大切だと思いますか?
すぐに「はい、もちろん」と
いえなかったあなたに
これを読んだら
まわりがすこし違って見えるかもしれません。
もしそれを100人の村に縮めると
どうなるのでしょう。
100人のうち
52人が女性です
48人が男性です
30人が子どもで
70人が大人です
そのうち7人が
お年寄りです
90人が異性愛者で
10人が同性愛者です
70人が有色人種で
30人が白人です
61人がアジア人です
13人がアフリカ人
13人が南北アメリカ人
12人がヨーロッパ人
33人がキリスト教
19人がイスラム教
13人がヒンドゥー教
5人は、木や石など、すべての自然に
24人は、ほかのさまざまな宗教を
信じているか
あるいはなにも信じていません
17人は中国語をしゃべり
9人は英語を
6人はスペイン語を
6人はロシア語を
これでようやく、村人の半分です
しゃべります
いろいろな人がいるこの村では
相手をあるがままに受け入れることが
とても大切です
また、こんなふうにも
考えてみてください
村に住む人びとの100人のうち
20人は栄養がじゅうぶんではなく
1人は死にそうなほどです
でも15人は太り過ぎです
すべての富のうち
6人が59%をもっていて
みんなアメリカ合衆国の人です
74人が39%を
20人が、たったの2%を分けあっています
すべてのエネルギーのうち
20人が80%を使い
80人が20%を分けあっています
75人は食べ物の蓄えがあり
雨露をしのぐところがあります
でも、あとの25人はそうではありません
財布にお金があり
家のどこかに小銭が転がっている人は
いちばん豊かな8人のうちの1人です
自分の車をもっている人は
豊かな7人のうちの1人です
村人のうち
けれど、14人は文字が読めません
もしあなたが
なにかをし、ものが言えるなら
そうではない48人より
もしもあなたが
おびえていなければ
そうではない20人より
1年の間に、村では
1人が亡くなります
でも、1年に2人
来年、村人は
101人になります
もしもこのメールを読めたなら、
これを送った誰かがいるだけでなく
けれど何より
昔の人は言いました
巡り往くもの、
また巡り還る、と
深ぶかと歌ってください
のびやかに踊ってください
心をこめて生きてください
たとえあなたが、傷ついていても
愛してください
まずあなたが
愛してください
この村に生きてある
ということを
もしもたくさんのわたしたちが
この村を愛することを知ったなら
この村を救えます
きっと
たわわとかラブライブだったら思いません。
そもそもだけど、日本の法律はそうだとして、海外では非実在も児童ポルノ扱いになっている場合もある状況で、
何を根拠に「日本の法律が正しい」と、自分の価値判断が正しいと思っているのか
そこに根拠があるのか?という問いだよ
貴方も言うように、実写児童ポルノには『未成熟な性知識につけこまれて撮影された児童』という直接の被害者がいる。非実在ならばいない。
むろん、「だから非実在の児童ポルノも罰するが、実在に比べて罪は軽くする」という区別もありえるだろう。だが……(次項に続く)
考え方もあるけれど少なくとも日本の法律では否定されています。
人権を持つのはあくまでも個人であり、「女性」「子ども」といった抽象的集団の人権は現在の憲法上認められておらず、むしろ認めることの害が大きい。
社会規範とは「こうあるべきだ」「これは良くない」といった、集団内で共有される行動や思考のルール
これらは、科学的な実験や統計によって導き出されるものではなく、人々の間で交わされる倫理的な議論、歴史的経緯、文化、そして「これは大切だ」という共通の価値判断によって時間をかけて形成されていく。
例えば「公共の場で大声を出さない」という規範は、それが社会に具体的な「被害」を及ぼすという科学的実証がなくても
そうだね。社会規範を一概に否定はしない。ただ、社会規範を理由に人権を制限することには慎重になるべきだ。
「有色人種は有色人種専用スペースを利用するべきであり、白人と同じスペースを利用するべきではない。それがアーカンソー州の社会規範だ」と1957年に叫んだ人もいるが、今思えばそれは差別だった。
「事後諸葛亮になれば何とも言える」そうかもしれない。ただ、俺達はヘイゼル・ブライアンにならないためにも「その社会規範は妥当なのか。それによって人権を制約することは本当に正しいのか」という疑いを持つべきではないか?
ほぼ全員が日本人で占められている日本は、普通に民主主義が成り立っている。
1990年代までのアメリカもWASP(白人)が7割以上を占めていて、黒人や南米系、アジア系は文字通り少数民族だった。
冷戦が終わった後のアメリカは、なぜか有色人種の移民を多数受け入れ続けているが、その結果白人の割合が小さくなってきている。
2020年の時点で57%と、一応は最大勢力であるが、1990年代と比べると低下してきている。
単一民族であることが揺らげば揺らぐほど、トランプさんのような白人主義の政治家が出てくるのだろう。
アメリカ中の黒人やヒスパニック系の人達がカリフォルニアに集まって独立するところまで行くだろうか。
それからネットでは「中国は民主化しろ」という意見をよく見るが、実際に民主化したらあの国はどうなるだろうか。
今の中国は漢民族が独裁体制を敷いていて、広大な中国の各地に多数の少数民族が多く住んでいる。
民主化したら、東北部やウイグル自治区やモンゴルに近い地域、福建省などの南方、パキスタン寄りの内陸のイスラム教徒達が一斉に分離独立を主張するに決まっている。
こんなことをどこに書くべきか何もわからなかったので、とりあえずここに垂れ流すことにした。
ぜひこの記事に「トイストーリー4 嫌い」とか「トイストーリー4 駄作」とか、なんだったらこれ以上の被害者を出さないためにも「トイストーリー4 評価」とかで検索してたどり着き、この感情に任せた書き散らしがひどいことになる前に止めたいと切に願っている。
件の「トイストーリー4」(以下トイ4)が公開されたのは、2019年。これを書いてる時点でもう6年も月日が経とうとしている。それでもなお、いまだに私はトイ4に対する強い憎しみを覚えているし、内容も昨日の事のように思い出せる。1回しか観てないのに、だ。もしかしたらこれを読んでいる人は「1回じゃ良さがわからないから、ちゃんともう一回見直せ」 「6年も経ってるなら新しい発見があるかもしれないだろ」と言うかもしれない。
異教徒め。
私はあの悪夢に魂まで焼かれ、わずかに残っていた企業に対する信頼すらすべて失わせるほどの苦しみを与えられたのだ。今更もう一度なんて絶対に観ない。観たくない。
じゃあそもそもなんでこんな書き散らしをしているのかといえば、Xで「トイストーリー5が作られるらしいよ」という情報を目にしたからである。
おいまじふざけんな。
そももそトイ4だってなかったことにしたいんだぞこっちは。なんでここで5を出すんだよ。お前らも4気に入らなかったってことじゃないか。気に入らなかったら続編を作って、最新作の良さで駄作を評価し直して金稼ごうってか。世間と制作会社と配給会社が許しても、私の心はそれに「いいね」なんて言えない。火あぶりにされても絶対に言えない。
そんなわけで、ネタバレたっぷりでトイ4の何が悪かったのか、私が何に対して憤りを感じているのか、書いていく。読んでもいいし、読まなくてもいい。
そもそも、あの美しく完結したトイストーリー3の続編を作ろう、というのが気に入らない。私が人生で初めて映画館で見た映画がトイストーリーだ。記憶は定かではないが、記憶が定かでないような年齢の子供が映画館でアニメ映画を1本まるまる見て、それでいて親に「あれがお前と人生で初めて一緒に観た映画だよ」なんて語られるんだから、相当静かに見入ってたに違いない。我が家にはトイストーリーのVHSもあり、それをセリフを覚えるまで何度も何度も何度も何度も観た。多分、観てない時間の方が短かったんじゃないかというくらい観た。なんだったら当時はアメリカ暮らしだったので、英語で見た。子供の頃にはわからなかったジョーク(例:ポテトヘッドが口を取り外して自分の腰あたりにペタペタ押し付けるモーションがウッディの最初の演説中に入るが、あれはkiss my ass、黙れとか消えろとかうぜぇとかそういう意味)が理解できたのは相当後になってからだった。とにかく、それくらい繰り返し観た、私の魂の映画だと思ってもらって構わない。
それが2を経て、なるほどバズとウッディの立場を逆にしたというか、1ではバスにおもちゃとは、を説くのがウッディだったのに対して、その構図がひっくり返ってるの、相当上手だなとひどく関心してた。3では自分と同じように年を重ねたアンディの気持ちが痛いほどわかって、ひどく辛く、そして優しく、嬉しく、豊かな気持ちになって映画館を出た。素晴らしい映画で、トイストーリーシリーズは傑作だと思った。
それがどうだ。トイ4。あれはゴミ箱行きにしてほしい汚点だ。トイストーリーシリーズに対する侮辱だ。けもフレ2だ。
あんなに優しく、大事にするんだよって念押ししながら渡したウッディの扱いがこれか。いや、子供なんだから仕方ない。そう、3におけるボニーのウッディに対する執着が、トイ4時点でコロっと変わるのは、もう、「子供は飽きっぽいからしょうがない」 「興味が移るのは子供の成長の証」と思うし、納得できないところではない。だからこそ仮面ライダーとかプリキュアだって毎年やってるし、当時の子供たちが大人になったタイミングでリバイバルとして新作映像作品に登場したりする。これは当然だ。うん、わかる。
あいつは正しく自分を自認していた。ゴミだよ、言っちゃ悪いけど。そりゃあボニーは大事にしていたかもしれない。でも、他にいくらでも遊ぶおもちゃの選択がある中で?ぬいぐるみだっていろいろ持ってたじゃない?ジェシーだっているのに?男の子向けのおもちゃが興味持たれないのは当然だろう。ただ、じゃあ自分の女の子向けのおもちゃよりも優位に立つだろうか?
「でも、学校には持っていけないじゃない」
そりゃあそうだ。でも、寂しさや疎外感を紛らわすなら、先割れスプーンで作った人形とかではない気がする。そんなので遊んでたら余計仲間外れにされるだろ……アメリカと日本とは常識が違うとかじゃない、アメリカだろうと日本だろうと、先割れスプーンで作った人形でずっと一人遊びしてる子は仲間外れにされる。ボニーはそんなことわからないのは当然として、これを読んで反論をしようとしたトイ4に賞賛的意見を持つ異教徒でも、それくらいは理解してほしいと思う。
で、ゴミ箱に身投げしようとするフォーキーを子育てする父親よろしく甲斐甲斐しく世話をしていくウッディ。
わかるよ。ボニーが泣いてるの見たくないよな。子供にはいつだって笑っててほしい。でもごめん、先割れスプーンで作ったなれ果てみたいな人形一つを失くしてギャン泣きしたら、多分翌日にはボニーはケロっとしてる。ウッディに対する執着のなさを見ていると、そうとしか思えない。だってトイ3であれだけウッディを可愛がっていた……はずなのに、トイ4ではあんなに興味ないんだぞ。多分、もとより興味が移りやすい子なのかもしれない。その中で執着を覚えたのがフォーキーなのかもしれない。
それでも、そんなフォーキーを「世話しよう」と決めたのはウッディだ。なんで疲れて弱音吐いてんだ。生きがいとしてやるって決めたのお前じゃねーか。私はこの時点で「もしかして制作陣は過去作を一つも観たことがないのでは……?」という不安に苛まれ始め、バズの言動でそれを確信へと変えた。
バズ。あぁバズ。スペースレンジャーと思い込んでアンディの部屋にやって来た、思い込みが激しく人一倍信念が強く、実はウッディよりも仲間想いのバズ・ライトイヤーよ。
トイ4を観る、という苦行を行った同士ならご存知かもしれないが、この映画、バズの登場シーンが他と比べて少ない。なんだったら、過去作のおもちゃの登場シーンはひどく少ない。なんというか、「バズを出す必要があったから出したけど、本当は出したくなかった」とすら感じてしまうほどだ。
極めつけはトイ4の中で、何か意思決定をする時に「心の声」とやらにしか従わない点にある。何、心の声って。英語だとinner voiceとかvoice inside youとか言ってたかな。要は「自分が正しいと思ったことをしろ」ってことなんだけど、それを音が鳴る機能の部分と勘違いして、それに従ってしまう。
第一に、バズの音声バリエーションはそんなに多くない。これは現実のおもちゃを触ってたからこその話なんだけど、でも作中だとスペイン語切り替えスイッチがあるし、結構高性能なおもちゃなのかもしれない。ならプレバン限定のおもちゃみたいに「40種類の音声バリエーション!」みたいな感じになってても不思議ではない、のかもしれない。
だが第二に、仮にそうだとして、過去作のバズならそんなことはしない。バズはスペース・レンジャーであり、即座の判断力に長けたおもちゃである。これはトイ2で、2種類のバズを比較してわかることだ。我らがアンディバズは、アルのアパートにやって来た際に、すぐに通気口から仲間たちが侵入したことに気づいた。描写としてはレックスの足跡と外された通気口の格子を見ただけ、というもの。この瞬間的観察力と判断力は、ウッディとジェシーが飛行機の貨物室から飛び降りる時にも、ウッディの軽い指示だけで受け止める準備をした様子からも見て取れる。
Al's Toy Barnで出会った新バズも、ウッディが襲われてると勘違いしたレックスに「どうしよう?」 (What do we do Buzz?) と問われて、即座に「頭を使え」(Use your head)と即答していた。その一連の流れ自体はギャグシーンなのだが、この判断力はさすがバズであるといえる。エレベーターで昇るのが無理になり、半重力システムを使うという判断をする際も、かなり思い切りがよかった。それこそ、他のおもちゃたちが止めても決行したほどに。
トイ2からの引用だけで申し訳ないが、この通りバズは思い切りの良さと判断力が強いキャラクターなのだ。それを「心の声に従わせて動いてもらおう」は、あまりにもバズというキャラクターを理解していないのみならず、理解しようという努力すら放棄していることの証左である。だって観たらわかるんだから。観てわかることをあえて行わないのだとしたら、それはもう反逆と言わざるを得ない。なんでそんなことしたんだ。
まず、アンディの家は、アンディはもちろん、母親もおもちゃに対する理解をかなり示す人である。引っ越し前にウッディとバズをなくして落ち込むアンディに「きっと出てくるよ」と優しく声をかけたり、アルが「いくらだ!?」と交渉を持ち掛けても「ウッディは家族のおもちゃで売り物じゃない」と突っぱねるなど、おもちゃと、それで遊ぶ子供に対して非常に理解のあるお方なのだ。
それをほかの人に譲るだろうか……?
いや、これはよくない。ボーがいなくなったのは2と3の間で、4とは関係ないのだ。今やりたいのは重箱の隅をつつくことじゃなく、トイ4を批判することだ。
2019年ごろのディズニーは、他の映画製作会社の例にもれず、というかアメリカ社会の流行である、強い女性の社会進出だとかLGBTや有色人種への配慮だとかSDGsだとか、そういうものにあふれていた。今も溢れてるのかもしれない……実写版白雪姫の評判を聞いている感じだと。
とにかく、その流れの中で「強い女を出そう」ということになったのは火を見るより明らかである。それも「過去に”女”というキャラクターで出されていたやつを、強い女へと昇華して”あげる”」という傲慢甚だしい考えがあったに違いない。それこそが白人の思い上がりというか、まぁそれはいいとして、キャラ改変されて再登場させられた。そこに元あったボーの華やかさとかお淑やかさとか、カウボーイに対するヒロインのイメージはない。ボー・ピープのアイデンティティ破壊というか塗り替え、完了ってか。そうして「強く自立した女を出した」ことで、それが評価されてるの、本当に駄作を作る才能に長けているとしか言いようがない。
これ以上書き続けても本当に細かい呪詛がたくさん出てくるだけだし、そろそろ眠くなってきたので最後にウッディについて。
いや、話の流れ的にはウッディは綺麗だよ。おもちゃとしての心であったボイスボックスをギャビー・ギャビーに差し出したことで、ウッディ自身がおもちゃとしての役割から解放されてしまい、仲間の元を去る。それはわかる。結果としてギャビー・ギャビーはおもちゃとして受け入れられていくことになった。いい話だ。ギリギリね。本当にギリギリ。
悪いけど、過去作のウッディならギャビー・ギャビーも一緒に連れて行ってるでしょう。ボイスボックスがダメになったくらいでおもちゃを見捨てるようなウッディじゃないし、なんだったら私はあのクライマックスのシーンでそれを期待していた。期待はいとも簡単に裏切られたけどな。
音の鳴らなくなったウィージーを見捨てることがなかったウッディは、たとえおもちゃが壊れてようと仲間として迎え入れる懐の広さとカリスマ性を併せ持つ最高のおもちゃなのだ。シドに魔改造されたおもちゃとも心を通わせられるカウボーイなのだ。ギャビー・ギャビーだってその例外ではないはずだ。
だがトイ4のウッディは説得ではなく、ギャビー・ギャビーの願いを叶える形を取った。美しくはある。だけどそれをトイストーリーという土台でする必要は全くない。ゼロ。
それなのにその決断をしたというのは、これはもう「トイストーリーのこと何もわかってません」と言ってるようなものだと思う。
トイ1で、トラックの下でバズになんて言ったか覚えてないの?覚えてないなら私が思い出させてやりたい。
ウッディは "You are a TOY! A child's play-thing!"って言ってたんだ。お前はおもちゃだ、子供が遊ぶやつだ、と。
ウッディの認識は、おもちゃ(自分たち)=子供が遊ぶもの、である。だから博物館に入ることにも価値はない、とトイ2でも帰還を目指す。トイ3でも同じ行動理念を持って、あの絶望的な保育園からの脱却を図る。
なんでその理念をトイ4で忘れたのか?答えは簡単、制作陣が過去作を観てないか、嫌いだったからである。
トイストーリーとしての当たり前に守るべきルールはまだまだああるが、どれ一つとして守れていない。トイストーリー4は純度120%のアンチ・トイストーリーであり、黒歴史であり、駄作であり、観る価値のない作品の一つで、これを観る暇があるなら騙されたと思って初代トイストーリーを見て欲しいと思う。
ポリコレが悪いとは思ってない、東アジア人としてはそれによって得られる恩恵が大きい側なので
そうじゃなくてなんで新しい価値観をそこまで推進しながらいまだにプリンセスにこだわってんの?と思う
王族だとかプリンセスだとか、そもそもが封建的で血統主義の古くさい価値観の煮凝りじゃん
子供の憧れがプリンセスである必要ないよね?だって少し大きくなってちょっと調べたら、あの豪華なドレスを纏うプリンセスっていうのが歴史的には抑圧されて政略結婚に使われる立場だったことなんてすぐ分かるでしょ(今より男尊女卑強いし)
だからあんだけアニメ版原作を破壊してまで価値観を刷新したいなら、プリンセスじゃなくて若手の実業家とかにしたらいいんじゃないの
王家も城も今となっては古くさい遺跡なんだから舞台にする必要ないし、平民のボロ屋からのし上がって国を動かす一大産業を生み出すまでになるサクセスストーリーにするとかさ
王子様への憧れを抱く女の子というのも排除されるべき価値観ならそもそも男性のメインキャラクターもいらないし、恋愛ものにする必要も王子を出す必要もないから半端に改変せずにまるごと消したらいい
曲も昔のは現代的価値観にそぐわないから全部違う曲に入れ替えて、服もコルセットでガチガチにする必要のあるドレスじゃなくて働く女性の服にする
壊すならここまで徹底的に壊して新しい価値観を作ればいいのに、なんで半端に「お姫様」「王子様」「お城」「恋愛」にこだわる?
SNS見てるとアニメ版原作ファンはメインターゲットじゃないってことだから、半端な原作要素なんか不要でしょ
これまでの白人だらけの作品作りを反省するなら新しい有色キャラクターをたくさん作ればいいし、それで人気を出せばいいだけなのに、昔の人気キャラを使って集客したい、プリンセスっていう設定も維持したい、でも一部の要素は「配慮」って、中途半端すぎて意味がわからないし作品作りをサボってるようにしか思えない
(なお自分はウィッシュもミラベルもモアナも好きで、特にウィッシュは何度も劇場に行ったので、人種が白人じゃないからって見に行かないことはない)
完全新作にするか、もしくははなから全く違うストーリーにしますと注意して完全破壊したほうが、原作ファンから「原作と違う」という点での批判を受けることはないし
演者もアンチから守れてリスク低いと思うので、今の半端なやり方が意味不明でしょうがないんだよ
原作ファンは離れ、演者が叩かれ、SNSでバトルが巻き起こり…子供子供って言うけどそんなところを子供に見せてどうすんだよ
ものづくりガチって有色人種主人公の面白い新作作れ、そんで有名にしろ
それかリイマジニングとか銘打つなら徹底的に破壊してくれ
半端に夢見せられた原作のファンも、原作の要素に勇気を貰っていたのに実写化で無かったことにされた子供達も、割を食う人の数が多すぎる
なので楽しみにしていた実写版の配役が発表されたとき、そのアニメ版のイメージとあまりにかけ離れたキャスティングに悲しみ、当時は見なかった
そして昨日、金ローで見た
とりあえずTLでは当たり障りなく褒めたけど、普通に何これは…となった
でも同じ意見を探そうとすると、お前は差別主義者だぞ、という記事やツイートにぶち当たりまくった
なので愚痴を吐き出したくなった
そんだけ
人種差別がどうとか、そんな高尚なことは考えてない
アニメ版と実写版の写真を並べたとき、二者は似ていると言えるのか?
ただそれだけを問いたい
あとはよく言われてることへの意見
そもそもアニメ版自体がアンデルセンの人魚姫から改変してるんだから、原作に忠実に…というのはおかしい
→アニメ版ディズニー作品の「実写化」なので、元のディズニー作品を再現してくれると期待するだろオタクは
アリエルって名前を使わず、鯛のフランダーもカニのセバスチャンもおらず、父とのすれ違いもなく、歌も完全新規のみ、クソデカアースラ討伐作戦で〆ない、みたいな感じならアンデルセンさんの原作からディズニーアニメ版が作られたときレベルの改変度になって、アニメ版ファンも何も言わなかったと思う
→人種が嫌なんじゃなくて明らかにイメージとかけ離れてるのが嫌って10000000回言ってる
ハリーベイリーさんはどっちかというとキリッとした顔立ちでアニメ版アリエルと印象が違うじゃん
鬼舞辻無惨をGACKTがやっても違和感ないけどルパート・グリントがやったら違和感あるだろ
人種の話はしてない
アニメ版の肌の色に設定はない、色白だと感じるのは差別主義者の思い込み
→じゃなんでヴァネッサは実写版アリエルと似通った肌の色の役者じゃないんだよ
アリエルの肌の色を再現してこうなったなら同じような色のヴァネッサも似通って然るべきだろ
それかアニメ版に色の指定がない場合はどうとでもしていいって建て付けなら、なんで緑とか青の肌の人魚がいないんだよ
黒人の子どものためのプリンセスが必要、それも有名なプリンセスが黒人であることに意味がある
→中国以外の東洋人のプリンセスなんか一人もいませんけどそれはどうなん?
今やモアナもティアナもリロもミラベルもいて、こっちはイマジナリー日本在住のヒロが一人で日本背負ってんだぞ
→よかったね
完全新作のプリンセスじゃダメなのか?もしくは他の有色のプリンセスたちは?
王子だけ謎に白人、みたいな下手に原作を意識せざるを得なかった結果半端にしか寄り添いきれないものをお出しして、それで満足させようとするのって本当に良いことか?
子どもたちはアリエルだから喜んだんじゃなくて、御伽話のプリンセスが自分たちに似てるから喜んだんだろ
昔の人気作の力を借りずに魅力的な新しい有色のプリンセスを作る努力をしろよ
これまで白人の物語を作りすぎてきたって反省があるなら、今後は有色人種が主人公のおもしろい物語を作りまくればいいだろ
歌の上手さや心がアリエルだ
→歌はバキバキに上手い、それはそう
でもそれなら逆にエリックとの親交を深めてく実写版オリジナルの肉付け描写いらんだろ
あと実写版はアニメ版に比べると表情硬くて全然天真爛漫に見えないんだよ
花食ってるとことか海に引き込もうとするセイレーンの本能が目覚めたかと思ったし
黒人が嫌なだけでは?
→ブラックパンサーも今のキャプテン・アメリカもプリキスも大好きだよ、人種で見るもん選んでねえよ
さっきも言ったが有色プリンセスや有色プリンスのおもしろい作品どんどん増やしたらいいんだよ
てか普通にスピンオフか別の映画作ればいいだろ、なんでもう出来上がってるイメージを壊すんだよ
新作の抹茶ポンデリング売るのに元のポンデリングと挿げ替えたりしねーだろ、普通に抹茶ポンデリングですって売り出すだろ
なんで新商品の抹茶ポンデリングのためにプレーンのポンデリングは売り場から追い出されんだよ
このままプレーンが買えなくなったらどうしようってプレーン派が不安になって抹茶や抹茶派を嫌いになったらそれこそ本末転倒だろ
アンデルセンの原作へのリスペクトに溢れてるので「原作重視じゃない」と言うのはお門違い、そもそも実写版はreimaginingであってアニメ版の実写化ではない
ディズニーがリトルマーメイドの実写化やります!って発表して誰がアンデルセンの原作へのリスペクトを期待すんだよ
普通アニメ版を原作としてそれが実写映像になるんだなと思うだろ
これはアニメ版の実写化ではありません、アニメ版とは関係ありません、別世界線の物語です、とか最初から注釈入れとけよ、サボんな
ここまで書いたら割とスッキリした