はてなキーワード: 無気力とは
仕事や恋愛とか運動とか努力した方がいいんだろうけどまじでやりたくないんだよね(「やる気が起きない」ではなく、「やりたくない」)
こうなってる要因の一つに、
不本意な事をした(させられた)上で得る報酬に脳が価値を感じなくなってる
っていうのがあると思う。
どんなに嫌な思いして頑張っても、それで得られた結果がどんなにいいものでも「あんな辛い思いしたくない」「嫌なことが終わって良かった」程度のことしか思えなくなってるんだ。
なので努力の結果とコストが釣り合わないことが目に見えててやりたくなくなるってのはあると思う。
とはいえ、イヤだイヤだで避け続けるとそのツケが回ってくると思うし、それを払わされるのも嫌なので、ダラダラ無気力に生きつつツケが回ってくる前に死んで勝ち逃げできればベストかなあ。
できれば40~50の間には死ねたらいいな
スーパー、コンビニの店員は無気力無愛想な店員がほとんどで買い物してても最後がそれだから本気でガッカリする
買ったものに対してウキウキで選んでたはずなのに、価格以下の価値のぼったくり商品を買わされた気分になる
ニコッとほほえんで良いの選びましたねと言って欲しい
スーパー、コンビニの店員はこんな安い時給で対応してるだけ偉いと思えといわんばかりのめんどくさそうにバーコードリーダーでピッピッとするだけ
このバイトを通じて社会にどう貢献したいのか尋ねてやる気のあるやつだけ採用しろよ
時給が今は1000円くらいか
稼ぐ側からすると1000円の価値はそんなに安くねえぞ!と感じるけど、もらう側からするとこの態度でも全然安すぎると感じてんだろうな
中抜きされて手にするのは200円くらいですってことならしょうがないなと思うけどさ
もうちょっと頑張れよ
最近しみじみ思うけど、暖房をケチると普通に老ける。肌も気力も落ちるし、寒さに耐えるだけで体力が削られる。節約だと思って我慢してると、最終的に自分の老化スピードを加速させてるだけっぽい。金を節約して寿命を溶かす、みたいな状態になってる。
東北とか北関東の人間が無気力なのは、メンタルの問題じゃなくて、生体エネルギーを生活防衛に回しすぎてるからなんじゃないかって思う。寒い部屋でじっとしてるだけでも、身体は内部から温めようとして常にエネルギーを放出してる。体温維持が最優先になるから、思考も感情も後回し。寒いと気力が削られて、寝そべるしかなくなる。寝そべり族がどうとかじゃなく、物理的にそうなる。
寒さって、地味に人間を破壊する。睡眠も浅くなるし、血行が悪くなって肌は乾燥してしわが増える。乾燥で皮脂バランスが崩れてニキビも吹く。寒いと肩が上がって姿勢も悪くなる。呼吸も浅くなる。免疫も下がる。ラジヒスも下がる。全部悪循環。身体を守るために余計な負荷がかかり続け、結果として老化に直結する。
暖房をケチる行為は、短期では数千円お得かもしれないけど、長期では肌、血管、筋肉、睡眠、脳、気力の劣化につながる。未来の自分に請求書が飛んでくる。いくら美容液を塗っても、根本が寒さで削られてたら意味がない。体温を保つことが最優先。暖房は化粧水より効く。
服を着込めば解決という話でもない。寒い部屋は空気そのものが冷えているから、呼吸から冷気が入って内側が冷える。手先足先からじわじわ体温が奪われると、深部体温まで下がって、身体が緊急モードに入る。すると回復に回す余力がなくなる。細胞のターンオーバーも落ちていく。若さは熱で維持されてる。
寒冷地の人が老けるのが早いと言われるのも当然で、環境ダメージがデカすぎる。毎日がリスク。暖房が弱ければ弱いほど、自分の身体を火力発電として酷使することになる。結果、脳も筋肉も臓器もすり減っていく。たとえ食事やスキンケアに気を使っていても、ベースの温度が低いと意味が薄れる。
で、俺は気づいた。暖房をつけるという行為は、ただ部屋を温めるんじゃなく、自分の若さに投資してるんだと。東京電力に先行投資して若さを買う。電気代は美容代。電気だけは裏切らない。部屋が暖かくなるだけで、生きる気力が戻る。勉強も仕事も進む。自己効力感が上がる。暖かい部屋は人生の生産関数を底上げする。
もちろん暖房代は高い。でも、金を節約して老けるぐらいなら、金を払って若さをキープした方が圧倒的に得。美容医療で3万円払うより、冬に暖房を3万円使う方がコスパが良い可能性すらある。暖房は全身に効く。肌にも脳にも精神にも。効き目が広い。
寒さに耐えるという行為は、昭和の根性文化の残滓でしかない。暖房をつけるのは甘えじゃない。生存戦略。自分を長持ちさせるための装備。省エネで生きようとすると、最終的に人生のスタミナが吹き飛ぶ。暖かい部屋で寝て、きちんと回復する方が合理的。
寒さは意思の問題ではなく、物理の問題だ。寒ければ老ける。身体は常に対処に追われ、他のことができなくなる。寒さがアイデンティティを溶かすぐらいなら、電気代を払った方がいい。東京電力に金を払って、未来の自分を守る。それでいい。若さは熱で生まれ、熱で守られる。
だから、俺は普通に暖房をつける。金を払って、気力を買う。暖かい部屋で、自分の人生をちゃんと回す。それが一番合理的だと思ってる。冬は暖房に金を惜しむな。若さが逃げていく。暖房は投資。老けたくなければ回せ。
無気力で何も手がつかない
疲労ばかり感じる
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とりあえずグチから書く
楽しみにしてたゲームが発売されたのに、買ってない
惰性で働いてる感じ
惰性でも働けるだけマシなんだろうけど
考えすぎた
疲れ過ぎて顔に表情がない
お好み焼き作ろうとしてキャベツ切ろうとしたんだけどふと思い出して見たらお好み焼き粉が少な過ぎて作れないことがわかった
こっちはバツイチなんでそういうのにはもう縁がない
セックスなんてなくても生きていけるけど、マネーはないと生きていけないんだよ
だから贅沢な悩みなんだよ
もう一度書くけど
セックスレスは贅沢な悩みだよ
生きてて、お金があって、パートナーがいて、それだけでもかなり恵まれているということを自覚すべきなんだよ
セックスしなくても生きていけるし、生活できるんだから、問題なくないか?
寂しいとか、満足できないとか、贅沢なんだよ
セックスレスに悩んでるやつは、俺のような存在は視界に入っていない
「別の世界の住人」と思っている
お金がないとか、不健康だとか、そういう問題をクリアした奴だけがセックスレスに悩むんだよ
セックスレスは贅沢な悩み
脳に刻んでくれ
また増田が非モテにありがたいお説教してご満悦だけど、年齢=彼女無しな俺としては身につまされるなあとは思うのよ。
ただどうしても彼女を作るための努力アレコレを見てるとどうしてもめんどくさっ!!!って気持ちが沸いて拒否反応が出るんだよな。
コミュ力に経済力、相手にの期待に沿った恋人像を演じるエミュ力、甲斐性に成長性…
そりゃこれだけの事が出来ればアルファオスとしてモテて当然だわな
俺みたいな無気力ハッタショからすればこれらを全て出来るようになるまで何年掛かるんだって話よ
恋愛してる人ってみんなこれを出来るように努力してたの?これが最低条件なの?
もぅマヂ無理。。。ってなるけど、全く適正もないし努力もしたくないのに異性に未練が無くはないのが一番情けない。
この辺折り合い付けられた増田いる?
私は父親だ
男だ
貧乳の女性を男性がどのように見るか、どのように評価するか、どのように扱うかをよく知っている
逆に、巨乳の女性を男性がどのように見て、どのように評価して、どのように扱うかもよく知っている
だからもうどうでもいい
子育てを終えて、子供が幸せな家庭を築くのを見るまでがゴールだった
娘のことを好きだった男の子たちが再び娘に興味を持つこともない
娘は好きな男性と結婚はできるかもしれないが、「娘のことを好きな男性」とは結婚できない
存在しないので
「家庭のようなもの」を築くことはできるかもしれないが、幸せな家庭は築けない
娘のおっぱいが止まって、私が全てを注いできた人生のゴールが閉ざされた
娘の人生が全てだったから、それが壊れたから自分の人生にも何もない
おっぱいが止まってから、娘もなんとなく陰気な女になったような気がする
人生が終わった
というか自称(藁)プロスポーツといってる公営ギャンブルは賭博興行でしかないんで公平性の欠片もない
興行として盛り上がりがあってほどよく荒れて人気選手が勝ち抜きできるようにゴリゴリ手心を加えた番組を作る。
その上走ってる奴らも八百長カスならまだましなほうで、実際は八百長すらできない雑魚キチガイとか、箸にも棒にもかからない素人乗せたほうがいいんちゃうか??レベルのゴミがそろってる。(一年365日朝から晩まで回す賭博興行として成立させるには最低限の頭数はいるでな)
買う側もそれは承知で、なんなら買うつもりがない八百長無気力カスのほうがありがたいまである。
私は就活生だ
今、非常に進路に迷っている。
やりたいことが大きく2つあり、決めきれない。
正直、私もかなりバリバリ働きたい。
動き回るのも、自分の手で何かを作るのも、勉強も好き。自立した経済力が欲しい。おかねもちになりたい。
だが、子どもは必ず欲しい。子どもはかわいい。幸せいっぱいの家庭を作りたい。
究極の選択だ。
きっと現代では「できる」という人が多いだろう。
が、ずっと少し違和感があった。
その理由は、あまりにも子育てを「親主体のイベント」として捉えてる感があったからだ。
それなのに、「何とかなります!」って。あなたにとってはそうかもしれないけど、子どもは本当に幸せと証明出来る?
きっと、母親との時間じゃないのだろうか。学校から帰ると「おかえり」と出迎えてくれて、お菓子を食べながら雑談を聞いてくれる母親の存在ではないだろうか。
そしてなんとなく、この役目は女親、「母親」でないといけない気がする。父親でも、祖父母でもなく、母親。
もちろん、親との時間が少しで満足できる子どももいる。しかし、当然そうでない子どももいるだろう。
結局、両立が上手くいくかどうかは子どもの生まれ持った性質に大きく依存するのではないか?
その時点で、子供に甘えてる部分もあるのではないかと思う。それは本当に誇れることなのだろうか。
こういう「親のあり方」に強い思想を持ってしまう理由は、幼稚園時代のある友人の記憶が引っかかっているからだ。
その子の両親は共にある業界の権威で、両親ともあまり家にいなかった。しかし非常に裕福な家庭だった。スーパーで会った時は、母親にレジ袋いっぱいのお菓子を買ってもらっていて、当時はそれが非常に羨ましかった。
しかし、いつも寂しそうな目をしていた。じっと静かにこちら側を見つめる目だった。公園で遊ぶ時は私と母に異常にべったりくっついてきていた。それが妙に忘れられないのだ。
じゃあ別にバリバリ働いても出世の未来はないのか、そっか。じゃあもう頑張らんでええやん、と無気力になっている。
進むべき方向が定まらず、本腰を入れられないのが今の悩みだ。
まぁ所詮は未婚で社会を知らない学生の詭弁だ。何も知らない今の私に正解が分かる訳が無い。
結局私が今できることは、全ての可能性を捨てずに必死に頑張ることだけなのだろう。
就活、やらないとな〜
子供のころから、僕の心はいつも繊細すぎるあまり、小さなことで深く傷つき、簡単に折れてしまっていた。
学校では友人関係に悩み、授業中のちょっとした指摘にも胸が締め付けられるような自己嫌悪に陥り、家に帰ると涙が止まらなかった。
しかし、その「精神の脆さ」の大部分が、筋力トレーニングによって驚くほど軽くなり、自分でも信じられないほど心が安定している。
以下、長いのでよければ読んでほしい。
幼稚園のころから、泣き虫で人前で発表なんて絶対にできなかった。
小学校では運動会のリレーでバトンを落としただけで、一日中ふさぎ込んだ。
中学生になると、テストの結果が思わしくないと、夜まで布団の中でうなされ、翌朝はまるで寝ていないかのように顔がむくんでいた。
高校生になっても「自分はダメな人間だ」という思考から抜け出せず、文化祭の準備でもイライラして友人と衝突し、自己嫌悪に陥っていた。
大学に進んでからは、自己評価の低さゆえに講義にあまり出席せず、暗い寮の部屋で無気力と羞恥心にさいなまれる毎日。
就職しても、些細なミスで上司に叱られると胸が締め付けられ、仕事が手につかず休職寸前まで追い込まれた。
そんなある時、ある専門記事で「筋トレはセロトニンやドーパミンの分泌を促し、幸福感と集中力を高める」と知った。
思い返せば、運動をすると一瞬スッキリする経験はあったものの、すぐに疲れてしまって運動の習慣化は出来ていなかった。
だから、じっくりと負荷をかけて無理のないように続けていく方針で筋トレに取り組むことにした。
最初の3か月は、週2回のスクワットとプッシュアップを中心とした軽い負荷から始めた。1回8〜10回×2セット程度で無理のない範囲に抑え、フォームの習得と運動習慣の定着を目指した。
この段階では、運動の爽快感によって落ち込みの谷が浅くなるのを感じる程度だったが、自己否定のループから抜け出すきっかけになった。
4か月目に入ると、スクワットの回数を12回×3セットに増やし、ダンベルローイングやプランクを取り入れた。フォームが安定するごとにプレートを少しずつ増やし、自分の身体の変化を実感できるようにした。
この時期には「自分には挑戦し続けられる」という感覚が芽生えた。
朝の目覚めが軽く、昨日の失敗をいつまでも引きずらなくなった。
仕事中、雑音や些細な会話に心を乱されず、自分のやるべきことに集中できる。
プレゼン前も、かつては胸がどきどき震えたが、「伝えたいこと」の構成に思考を巡らせられるようになった。
7か月目以降は、ベンチプレスやデッドリフトなどの複合動作を週3回のトレーニングに組み込み、1回10〜12回×3セットを目指した。
最初は扱えなかった重量が、月を追うごとに10%ずつ増え、そのたびに「もっと自分を高められる」という確信が胸を占めた。
トレーニング前後には適度なストレッチと瞑想を取り入れ、セッション中の「今ここ」に没入する集中力を養った。
筋トレ1回1回が自己制御とストレス耐性を鍛える「精神のレッスン」となり、仕事や人間関係でのプレッシャーにも動じなくなった。
以前は飲み会の雑談に気疲れしていたが、今はリラックスして会話を楽しめる。
休日に趣味の映画を観ても、昔のように心がざわつかず、作品の世界に深く没入できる。
小さな出来事に感情を振り回されない自分に驚きながらも、飾らない日常を心から喜んでいる。
不安の軽減:運動後のエンドルフィンとドーパミン分泌が、日常の小さな不安を和らげるバッファーとなった。
集中力の持続:重いバーベルに全集中することで「今ここ」に没入する感覚が養われ、仕事中の心の乱れが劇的に減少。
自己肯定感の向上:重量アップの成功体験が積み重なり、「自分には挑戦し続けられる」という強い信念が根付いた。
ストレス耐性の強化:ウェイトの重さに耐える身体感覚が、精神的ストレスにも耐えられる基盤を作り上げた。
もちろん、この方法が万人に効くとは限らない。
だが、子供のころから抱えてきた「精神の脆さ」が、筋力トレーニングというシンプルなアプローチで驚くほど軽くなる可能性があることを、同じように悩む人にはぜひ知ってほしい。
筋トレは単なる肉体改造ではなく、心の安定をもたらす最強のパートナーになり得るのだと実感している。
この方法は一例であり、トレーニング強度や頻度は個人差を踏まえて調整することが大切だ。
初心者はフォームの確認と段階的な負荷増加を心掛け、怪我を防ぐこと。
持病や既存のケガがある場合は、専門家の指導を受けることをおすすめする。
子供のころから抱えてきた「精神の脆さ」が、筋力トレーニングという継続的かつ段階的なチャレンジを通じて、1年間で驚くほど軽くなる可能性があることを、同じように悩む人にはぜひ知ってほしい。
本当に仕事から感情を抜き取ったら、共産主義の無気力で無責任で自己中心的で芸術家気取りで被害妄想的な給料泥棒たちと全く同じ様に働くことになる。
何故そうなるのか?
簡単だ。
「給料分は働こう」とか「お客さんが困るだろう」とか「バレなくても犯罪には手を染めない」とか「自分の拘りを押し付けない」とかそういった仕事に不可欠なマインドも全て感情だからだ。
「労働契約を結んでいる以上は給料分ぐらいは仕事しておいてやろうかな?」という態度は一見すると冷静で淡々とした働き方に思えるが、それはもっと労働に対して無責任な国の人間からすれば「ありえない」ことでさえある。
ある種の無気力な労働者にとって労働とは「与えられた役割をこなす」ことではなく、「システムに則って勤怠管理カードに労働時間を刻印すること」でしかない。
そういった人達にとっては、朝のタイムカード刻印の後何一つ社会や組織や自分の将来に貢献するでもなくトイレに籠もってスマホゲームを1日中やってから勤務終了時間にタイムカードを刻印して帰るのが「理想的な働き方」なのだ。
いろいろあり、30歳を目前にして貯金が一億近くある。
正当に自分で手に入れたものなんだけど、能力があって社会的に成功して稼いだ金という訳でもないから、なんとなくあるだけのものとして認識している。
親を含めた親しい間柄の人間に金銭的に搾取されてきた経験があるから、親孝行しようとか、困ってる知人友人を一方的に助けてあげようとか、見も知らぬどこかで困っている子供たちのために大きい額を募金しようみたいな気に全くなれない。(お世話になった人へのお返しとか、対等な関係での金銭のやり取りは除く。)
出不精だしコミュニケーションが苦手で友達がいない。作る気も積極的には起きない。
fireするには少し早すぎるし額が小さいと思う。
株などで増やすには脳が足りない。
小さいころ、宝くじで大金が当たったらと夢想した経験は自分にもあったが、実際使いきれないほどの金を手にしても持てあますだけだった。
むしろ、ゲームをズルして早々にクリアしてしまったような無力感にずっと苛まれていて、心療内科に行ったら適応障害を診断された。
鬱を経験したことがあるからあの時ほどの苦しみはないが、それでもぼんやりとした無気力感と嫌気に苛まれている。
生きていて楽しくないと思う。
お金があるおかげで生活に苦しむことはないが、味をあまり感じることができない舌なのでご飯を含めた生活のランクを上げるとかもしようと思わない。
お金が無かったり病気で仕事もままならず困っている人からすれば、働かなくてもしばらくは生きていけるだけの金がある自分は贅沢者に見えると思う。実際苦しくはないし、つらくもないが、ただ人生が楽しくなくて、無気力で、この先の死ぬまでの長い人生を思うと嫌になってくる。
[研究] 謎の薩摩弁「ちぇすと」はどのように生まれたか――鹿児島谷山方言とロシア語が結びついて流行語になり、誤解から「興奮とくやしさを表す雄たけび」に変化|mitimasu
(1) 本来、「ちぇすと」は**鹿児島谷山町の方言で、「よっこいしょ」の意味**の言葉
(2) 明治時代の中頃に鹿児島谷山方言の「ちぇすと」と**ロシア語の「че́сть(名誉)」が結びついて称賛としての「ちぇすと」が鹿児島の知識人の流行語になった**
(3) 島津義弘の関ヶ原正面退却や宝暦治水を**称賛する言葉として**「ちぇすと関ヶ原」「ちぇすと松原」(※宝暦治水の千本松原のこと)が生まれた
(4) しかしロシア語の意味がわからない人が、(3)の使われ方から(2)を**悲しいとき・くやしいときに発する言葉だと誤解した**と思われる
(5) これらを踏まえて明治30年ごろに「ちぇすと」が**東京の学生や青年のあいだで「気合を入れる言葉」として流行し**、広く世間に知られるようになった
(6) 流行がしずまり現実では(2)と(5)を使う人は減り、**フィクションの中の薩摩人ばかりが使う言葉になった**
(7) 鹿児島県出身の作家である**海音寺潮五郎が(4)の意味でさかんに使用**(海音寺氏は谷山から遠く離れた現・伊佐市の生まれ)
(8) これが鹿児島県に逆輸入され「ちぇすと」が「くやしいときや気合を入れる時に薩摩人が発する言葉」だと**鹿児島県人が認めてお墨付きを与えてしまう**
(9) 司馬遼太郎をはじめ**多くの作家が(4)の意味で使用し、(3)の意味は失われていった**
(10) 結果として「気合を入れるときの雄たけび」と「くやしいときに発する言葉」という**異なる意味が「ちぇすと」の中に共存し、よくわからない**ことになってしまった
(11) そもそも「ちぇすと」は「よっこいしょ」という意味でしかない江戸~明治期の谷山町の方言なので、**多くの現代鹿児島県人にとっても使わないよくわからない言葉**である
しかし、このnote記事では1936年の辞書の「露語から来たといわれる」という一つの記述を、そのまま鵜呑みにしてしまっている。
また全体として推測が多すぎるため、いくつかの情報を提示するとともに研究を補強したい。
「ちぇすと」の初出としては、1898年内田魯庵『くれの廿八日』が挙げられているが、これよりも早い用例はいくつかある。
まず、1888年の『青年之進路』。著者は鹿児島県士族の佐藤良之助とある。
これは相手を馬鹿にして煽っているシーンであり、この「ちぇすと」は少なくとも称賛の意ではあるまい。
ただ、ステッキを振るための掛け声なのか、相手を威圧するための掛け声なのかはわからない。
「さうダワ」「なくつてよ」のあどけない令嬢のみならんや「チエスト」と罵るこわからしき九州男児も「オオしんど」と言ふ裊娜(たほやか)なる西京佳人も以て一対の主人公となすに足らん
句読点がないからどこからどこまでが一文かわからないが、ともあれ「ちぇすと」は「罵り」だという認識があったことが窺える。
「ドウモ奇絶ジャ…」「エライ人が駈をるナ…コレどふする…」
田舎者が上京してきて呆然としているところに箪笥をかついだ男に突き飛ばされて「ちぇすと」と扼腕する、といった場面。
「ちくしょう」「なんてこった」などと同じような、思わず出てしまった言葉という感じがする。
1892年『罪と罰』。ドストエフスキーの訳書だが、訳者が『くれの廿八日』の内田魯庵である。
真向に鉈振上げて、婆アの頭脳を打砕き、腥血淋漓たる中に生血の滴る得物を手にし、錠を破し、金を盗んで、隠れやうとする自己だ。ちェすと!こんな事が出来るか?有るもんか?
英文からすると「ちぇすと」はかなり意訳っぽいが、やはり「なんてこった」という感じだろうか。
1893年『称好塾報』。称好塾は滋賀出身の杉浦重剛という人が東京に作った私塾である。
此頃より陰雲未た開けずと雖も細雨は既に跡を収め皆チエストと絶叫せり
其佳なる所に至れば「チエスト」と絶叫せしむ
前者は川船を漕いでいるときに雨が上がったところ、後者は薩摩琵琶の演奏についての記述で、いずれにしても快哉を叫んでいるようである。
薩摩琵琶はともかく、雨上がりに「ちぇすと」と叫ぶのは、すでに鹿児島出身ではない学生たちのあいだでも「ちぇすと」が定着していたのだろうか。
此愉快なる、此呑気なる、此無責任なる、此無頓着なる生活の写生に向って毛奴を奔らす、予輩も亦自らチエストー一声の下に案を叩いて四辺を一睨せさるを得さるなり
下宿暮らしの書生はあまりに自由気ままだという話のオチの部分だが、よく意味がわからない。
とりあえず、気合を入れるための一声、という感じか?
「左様か教師が左様云ッたか……自分でさへ左様思ふもの……」と言つつ両眼に涙を湛へ「チエストッ鹿児島男児が」と一声高く叫びたり
自分が情けなくなってちぇすと。
溝口は下足番の招き声に風(ふ)と心注(こころづ)きて立止り「チエストー、貴様(おはん)は偽言と云ひ馬鹿なッ」と言捨しまま元来し道へ駈戻らんとせり
怒りのちぇすと。
彼が情厚の男子と己(おい)どんを今日まで思ッチヨルとは何たる事か夢か誠か、イヤ誠……此文……チエストー、アア愉快愉快ト喜び勇むも実に尤もなり
喜びのちぇすと。
薩摩人の「溝口」が女義太夫の「紋清」に惚れ込んで事件に巻き込まれていく話らしく、全体的に良くも悪くも感情が高ぶると「ちぇすと」と言う描写になっているようだ。
ただ著者は匿名だが、実は高谷爲之という刑事上がりの新聞記者で、東京の出身らしい。
チェストー、這は是れ感情鋭烈なる薩摩隼人が何事にか其の心を刺撃せられ感泉俄に湧て抑ゆるに由なく、一條の熱気思はば口端より迸出するの声なり、此感声の発する時、是れ彼れ等が掌を握り肉を震はすの時なり、ステキヲ揮ひ路草を薙ぐるの時なり、実に薩人の感情は激烈なり
ステッキで草を薙ぐというのは『青年之進路』の場面そのままだが、そんなに典型的な行動だったのか?
と気付いたが、note記事でも紹介されていた『薩摩見聞記』にもほぼ同じ文章が出てくるので、この「薩摩新風土記」を本にしたものが『薩摩見聞記』なのだろう。
この『薩摩見聞記』の著者は本富安四郎といい、新潟(長岡藩)出身だが鹿児島に数年ほど滞在したという。
1897年、江見水蔭『海の秘密』。江見水蔭は先ほど出てきた「称好塾」の出身らしい。
「ちえッすと!」
謎の集団が、その企みが失敗したのか「ちぇすと」と叫んで去っていった、というような場面。
と、こうしたあたりが1898年の内田魯庵『くれの廿八日』以前の用例である。
明治中期からしか用例がないということに変わりはないが、当初から明らかに「称賛」ではない例が多く見られる。
これは冒頭でリンクしたnote記事の説明に反する事実である。
「薩摩新風土記」に書かれているように「何らかの感情が高ぶったときに出る声」というような説明が適当ではないか。
ちぇすと てすとに同ジ
元は「てすと」なのか?
元は「ちぇ+すとう」なのか?
チエスト よいしょ(掛声)
note記事では「ちぇすと」と「ちぇっそ」は無関係であろう、としていたが、
1977年『かごしまの民俗探求』の久保けんお「薩摩の方言と民謡」では、
チェストはおそらくエイクソの転化であろう。エイヨは薩摩ではチェイヨとなる。母音エに子音Tをかぶせてチェとするのである。エイクソがチェイクソとなり、促音化してチェックソ、クを省いてチェッソ…。チェッソを遠くへぶつけるには当然「チェスト」となるはずである。
1979年、井島六助『出水方言 カゴシマ語の一特異分野』では、
ちぇっそ 感動詞。一般に知られているカゴシマ語としては「ちぇすと行け」など言って激励の語とされ、または、思わず感嘆する時の語とされているが、ここでは元来、「ちょいちょい」と同様、「ざま見ろ」という気持ちを現わす感動詞で、これに類する用例は、「ちぇすと行け」多用のずっと南にもあるようである。チェッソ、ユゴトセンモンジャッデ(ざま見ろ、言うようにせんもんだから)。語源については、英語zestからとか、露語yectbからとかいうのがある。
と説明されており、これらは「ちぇすと」と「ちぇっそ」には関係がある、としている。
これらの説明が正しいかどうかはともかく、多くの異論があるということであり、そのなかで一つの説を支持するならば、何らかの根拠が必要になりそうである。
7:00_性欲の高まりを感じる。普段ならとっとと抜いて横になり、休むが「俺が無気力気味なのは抜いてるからでは」と思いつき、向き合うことにした
7:15_精管(精子の通り道みたいなもん)がダクダク言ってるのがわかる。あと腎臓の手前側(腎臓は背中側にある)もバクバク言ってる。理由は知らん
7:30_頭の片隅が「マ○コマ○コマ○コマ○コマ○コマ○コマ○コマ○コマ○コマ○コ」と言っている。気にせずC++26で使えるリフレクションについて調べる。C#で出来ることをなんでお前は令和になっても出来ねえんだよ
7:45_このままでは爆発するのでマックへ行く(徒歩5分)。グリドルソーセージうめえ。あまじょっぱいのがいいんだよ。甘味に塩。これは普段の生活じゃ手に入らねえ
8:00_ふたなり美少女が身長190cmの美女二人に左右を固められてペニスを愛撫される妄想をする。モレスキンのノートを開く、落書きに目を通す。「成城石井にウィスキーは期待出来ない」数か月前の落書きだが、何があったんだろうか
8:15_ブルーアーカイブでめちゃくちゃシコってるけどゲームそのものやキャラの設定を全く知らんな、これは人に興味がないということなのだろうか?半勃起している
8:30_非同期処理を多用する時のmutexlockについて復習。仕事ではC++を使わんので、頭に入るか不安。でも趣味で使うので覚えなければいけない。精管がドクドクして爆発するかと思う
8:45_めちゃめちゃ頭が活動的、めちゃくちゃマ○コについて考えてる
9:00_業務?知らねえよ 足ふみ機(10,000円ちょい、ステッパーが一般名称)で体を動かす。上下するたびに美乳について考える
9:15_なんか気が向いたので、セールスフォースのApexという言語について検索。むかーし触ったんだけど、環境が重すぎて嫌な思い出しかない。勃起と半勃起を繰り返す
9:30_VisualStudioの最新版(2026 Insiders)について評判をチェック。なんか2022より速いらしい。金髪ギャルで抜きたい(平成
で、今なんだけど(まだ射精してない)、昇華とかいうやつはこの性欲のバクバク感を誤魔化す為の行動とかなんかなーとか思った(適当です
我慢しとくかーってなった時、活動量が低いとすぐマ○コについて考えてしまうので、勉強したり運動したりすると
性欲薄い俺ですらこうなんだから、学生の頃1日3回抜いてたとかいう知り合いは大変だろう(俺は一週間に2,3回くらいだった
人に優しくしようと思った 以上
実工数:0.5h
氷河期世代として社会に出てからずっと、人生はしんどいものだとばかり思っていた。
頑張っても報われない、無理をすればするほど体も心もすり減る。
だけど最近になって、そのつらさの大部分を和らげる方法を見つけた。
大げさに聞こえるかもしれないけど、誰にでも試せることだからシェアしてみる。
二十代のころは、体力に任せて仕事を押し切っていた。
でも三十代半ばになるとそうはいかなくなり、無気力やイライラ、集中力の欠如に悩まされた。
典型的に出ていたのはこんな症状だ。
• 朝起きられない
• 眠っても疲れが取れない
• 集中できず、気分が沈む
• 無駄に怒りっぽい
• 昼食後は頭が働かなくなる
• 運動するとすぐに膝や腰を痛める
• 休日はだらだらして終わる
自己啓発本やメンタル本も試したけど、結局は一時的な気休めにしかならなかった。
じゃあ何を変えるべきか。答えはシンプルで、「食生活」「運動」「規則正しい生活」だった。
これだけで午後のだるさが激減した。
続けていくと体力が戻り、気分も安定する。
運動を習慣にすると、不思議とイライラや不安に振り回されなくなる。
夜ふかしをやめて、朝は同じ時間に起きる。
午前中に集中タスクを片付け、午後は調整や打ち合わせに回す。
このサイクルに変えてから、無駄に時間を浪費して自己嫌悪に陥ることがなくなった。
効果はすぐに出た。
集中力が戻り、仕事での小さな成果が積み重なって自信になった。
以前はただ「つらい」としか思えなかった日常が、令和の今は意外と充実してきている。
• 食生活を整える
• 運動を習慣にする
この三つを軸にするだけで、心も体も立て直せる。