はてなキーワード: 知識人とは
『全体主義者の公式集〜科学から空想への移行は如何にして行われるか?〜』
はじめに
本公式集は読者の皆さんのような虐げられている優秀な人々が既存の支配階級を打倒するために必要な理論武装を助け、また、その実践を導く為のものであります。下記の公式は実際に100年以上にわたって多くの全体主義者の手引として使われ、国家権力の奪取から官庁や大学での予算の掌握まで、実に多くの不朽の業績を残してきました。本公式集を使い今後さらに多くの全体主義者が大衆を正しく導いていくことでしょう!
公式①「xはyである。人間もまたyである。故に人間(とその社会)もxに過ぎない」
公式②「①の故に地球上の諸問題はxの適切な科学的使用によって解決できる、つまり、yの専門家に全てをまかせればzは必要ない」
公式③「②の結果すべての人々が最大の幸福を味わえる素晴らしき新世界が誕生します、このことは科学的必然なので理性有る人々なら容易に理解できます」
えっ!たったこれだけで?と思われる読者も多いでしょう、しかし偉大な公式ほど美しく洗練されシンプルなのです!一つずつ順を追って細かくご説明しましょう。
公式①「xはyである、人間もまたyである、故に人間(とその社会)もxに過ぎない」
以下は公式①をつかったマルクス主義者の主張の古典的一例です。注1
「x物質はy弁証法的に発展している、人間とその社会もまたy弁証法的に発展している、故に人間もx物質に過ぎない」
この文は「弁証法的って何?」などと考えずに公式➀の構造をしているという点に注目して下さい、わかりやすくするためにもっと簡単な言葉を代入すると次のようになります。
「xバナナはyアミノ酸を合成する生物である、人間もまたyアミノ酸を合成する生物である、故に人間もxバナナに過ぎない」
そんなバナナ!と思われる読者も多いでしょう、しかし次の文はどうでしょうか?
「xコンピューターはy情報を処理するシステムである、人間もまたy情報を処理システムである、故に人間もxコンピューターに過ぎない」
いかがでしょう?当世風に言葉を変えると急に信ぴょう性があるようにみえますね!※注2
単語ではなく文の構造に注目すると、これらは実は全く同じ型の主張なのです。
特に公式➀では『人間は〇〇に過ぎない』論を強調するのが肝心です、全体主義の先人達は全員この論法を駆使しました。例を挙げますと、全体主義の先人曰く、
人間は動物に過ぎない…人間はゼンマイ時計に過ぎない…人間は蒸気機関に…人間は物質に…、人間は酸化過程に…人間は経済的下部構造に規定される存在に過ぎない…人間は自己の利益のみを最大限にしようとする利己的存在に過ぎない…人間は〇〇システムに過ぎない…人間は〇〇に操られる存在に過ぎない…のです。
注1:マルクスが本当にこんなことを言ったかどうかは問題ではありません。実際にこの論法が大衆を正しく導くのに有効だった、ということこそが重要なのです。
注2:むしろバナナも人間もアミノ酸を合成していることは実証されており、人間はバナナとDNAを50%も共有しているといいますので人間=バナナ論のほうがより科学的といえます。
「人間は〇〇に過ぎない論」は内容がショッキングでセンセーショナルで有るなら有るほど大衆に人気が出ます。※注3なぜならばこれらの真理を発見した人は頭が良く、この論理を信じる人達もまた同じように進歩的かつ賢いのだ、ということになるからです。
また、この公式➀の応用としてこの公式の「人間は〇〇に過ぎない」の部分を以下のように、
〇〇人種は〇〇民族は〇〇国民は〇〇人は〇〇族は〇〇地域の人間は〇〇階級は〇〇主義者は、〇〇〇教徒は…〇〇にすぎないのだ、と代入することもできます。
さらにxとyにもどのような単語でも代入できますので、同じ公式を使い以下のように
「x猿はy血液型にB型が多い、〇〇人種はy血液型にB型が多い、ゆえに〇〇人種は猿に近い」ですとか
「x牛馬はy体が大きく労働に適している。〇〇人もまたy体が大きく労働に適している。故に〇〇人はx牛馬と同じで肉体労働用の人種である」
と簡単に証明でき、また同時にそれを客観的に証明することができる「『我々』は『彼ら』よりも優秀な人間なのだ」という事実も同時に科学的に証明できます。
さらにこのテクニックを応用すれば「芸術は経済的下部構造に規定されている人間活動の産物である。イデオロギーもまた経済的下部構造に規定されている人間活動の産物である。故に芸術はイデオロギーである」とか、
「疑似科学である西側の経済学はブルジョア階級によってつくられた、〇〇学もまたブルジョワ階級が作った、故に〇〇学は西側の経済学と同様のブルジョア疑似科学に過ぎない」
というように、例外無くありとあらゆる人間活動の党派性を暴露することもできます。
このテクニックは、後々読者のみなさんが権力を掌握した時に全体主義に反抗的な芸術家や学者を処理する時に素晴らしい口実となりますので是非覚えておいてください。
注3:実際にこれら主張を口にだすときはできるだけ「ああなんて私は頭が良いんだ!あなたたちの大半は理解できないでしょうけどね!」と 自信満々に半目で薄ら笑いをうかべましょう!
公式②「①の故に地球上の諸問題はxの適切な科学的使用によって解決できる、つまりyの専門家に全てをまかせればzは必要ない」
この公式で私達全体主義者に権力を集中することを正当化しましょう。公式②の緻密な論理的整合性は権力を握った後で考えればいいので、それまで大衆受けする言葉を考えることに集中しましょう!下記の例文は社会主義国で実際に使われた理論を簡略化したものです。※注4
「➀の故に現在の建設途中の我が国に見られる諸矛盾はx全ての生産設備を国家が所有することによって止揚される。y政府に全て任せればz一般人民による市場経済は不要である」
「➀の故に現在建設途中の我が国に見られる諸矛盾はx全ての権力をソヴィエト政府に集中することによって止揚される。yソヴィエト政府に全て任せればz一般人民による民主主義は不要である」
もしお好みならばこの例文の「全てを〇〇に任せれば〇〇は不要である」を少しいじって
「ちょうど良いさじ加減で産業を純血のアーリア人種or白人の政府が所有すれば市場経済は重要ではない!」
として、簡単にナチズムやアパルトヘイトのテーゼに変更することもできます。
もちろん私達が権力を掌握した後も頭の悪い保守反動分子どもは難癖をつけてきますが「今はまだxが足りないだけだ!来たるべき〇〇革命の地平において全てはyに任せられる!」と根気よく啓蒙しましょう。※注5
今日ではこの公式①をつかった理論としては次のようなものが大変人気です。
「人間はコンピューターなので地球上の諸問題は人工知能の適切な使用によって解決できる。つまりy人工知能に全てをまかせれば、z民主主義も、市場も、責任ある人間の決定も必要ない」
ただ万能のソヴィエト政府を万能の人工知能に変えただけですが、実に現代風になっていますね!
大切なのは流行りの言葉を使うことです、例えば世がバナナダイエットブームならば
「人間はバナナであるが故に地球上の諸問題はxバナナテクノロジーの適切な科学的使用によって解決できる。故にyバナナ専門家に全てまかせればzバナナ以外の炭水化物は必要ない」
と言うような理論を作りましょう。
以上の例はこの公式集が不変かつ、永久に有用であることを示す好例といえます。
注4:マルクスが本当にそう言ったかどうかは大した問題ではありません。実際にこの論法が大衆を正しく導くのに有効だった、ということこそが重要なのです。
注5:この理論の公表に際しては大衆が読み切れないくらいの厚さの論文や本を用意し、その中で公式➁は公式➀に基づく科学的必然性による真理なのだと証明しましょう。啓蒙書は最低でも厚さ10cm程度は必要です、それより薄いと枕にしにくいですし、本で反抗的大衆の頭をブン殴って修正することも困難です。
さて、最後に公式③をご説明します、あと一息ですのでがんばってください!
公式③「②の結果すべての人々が最大の幸福を味わえる素晴らしき新世界が誕生します、このことは科学的必然なので理性有る人々なら容易に理解できます」
公式③のみ少々使い方が異なり、この公式は大衆に提示したときにちゃんと心酔するか否かの反応を観察することで大衆を以下の2つに分類でき、革命の行動部隊となる同志を見つけるのに使えます。
・第Ⅰ層「革命家」
つまり第Ⅰ層の「革命家」は私達の理論を本心から本気で信じてくれる、優秀かつ大変従順で純粋な革命の前衛であり、幸福な新世界を夢見る若き同志達です(もちろんみんなバナナ大好きですよ!)
初期の同志は主に傍流の青年官僚やノンキャリ組の地方公務員、貧乏将校、大学を出たのに仕事がない人達(特に職のない弁護士)つまりはルサンチマンを溜め込んだぱっとしない2流インテリの中に多くいます、そこから経済的不満を抱えた労働者階級へと浸透して行きましょう。
彼らは公式③を理解でき、科学的理性の何たるかを知っています。
第Ⅱ層の「保守反動分子」たちはこの公式③を受け入れられない頭が悪い人たち及び既得権を持つ保守反動階級であり、つまり、彼らは人間はバナナであるという科学的かつ客観的な事実さえ理解できない党派的ドグマに凝り固まった人たちです。
まったく彼らの権力への異常な執着はどこから来るのでしょうか?
ソヴィエト共産党や巨大テクノロジー企業やバナナの専門家が権力を握ることの何が悪いのでしょうか?
しかし、どのような理由であれ我々進歩的全体主義者には人類全体の幸福のために彼らの横暴を止める責任があります。
以上で公式③の説明はおわりです、今皆さんは新世界を作るための革命理論を手にしました!
ですが「理論」の次に皆さんは「実践」も学ばなければいけません。
今日の超高度情報化社会において我々の革命理論を広める為にはメディア戦略が重要です。
まず、メディア産業へと浸透します。メディア露出を初めた当初は我々もイロモノ扱いされて半分小馬鹿にしたような扱いを受けるでしょうが、メディア上でセンセーショナルな言動を繰り返す内に大衆は
「人間バナナ論か、この新人芸人さんのいうことは本当かもしれない…なにせマスコミがいってるんだ」
と思い(理由はまだ未解明ですがなぜか大半は男性です)熱狂しはじめ、それを再びマスコミが勝手に取り上げてくれるようになります。
メディアへの浸透段階では保守反動知識分子は次の2つの反応を示します。
・1 無視
・2 日和見的支持
1の知識人たちは「バナナエンジニアに全て任せろと?バカバカしい!」と、自身の愚かさ故に無視するかメディアとの関係を悪くしたくないので黙りこみます。
2の知識人たちは自身もマスコミに出ている芸人ですが「バナナテクノロジーで全人類が幸福になれる?おもしろいことをいう!それでこそ次世代を担う人間だ!俺様ほどではないが面白い考えだ!」と、自分の若さと柔軟さをアピールするために我々を支持してくれます、こうして段々と全体主義者の主張がメディアに取り上げられていき、我々とメディアとの共闘関係が強固なものへとなってゆきます。
そして次に革命家同志たちを前衛党員へと教育しなくてはなりません。
現代の若者は承認欲求が大変強いので、まず彼らにクールなグループ名をつけてあげます「国家社会主義労働者党」とか「インターナショナル第一バナーヌ戦線」とか「ハイパーメディアクリエイターズ」「民族と伝統の守護騎士団」とか、14才程度の若者が好きそうな創作語や外国語をたくさん並べたものが良いでしょう、また、あとで「看板に偽りあり!」とか言い出す反動分子が必ず現れるので、出来るだけ「NS」や「インターナショナル」などクールでヒップな略称で呼ぶようにしてください。そうすれば大衆は本来の名前の意義をすぐに忘れてくれますし、同志内での専門用語は連帯感を高め「我々」と「奴ら」を強く区別して対立を煽るのに役立ちます。
そして「君たちは優秀で、賢い、特別な存在だ!バナナ革命の闘士なのだ!」と煽り、階級名やバッジ、旗、独特なポーズやコスプレ衣装、ノートパソコンに貼るシールなどをあてがい行動に駆り立てます。
最初はあまりノリ気ではない人も行動をしている内に失ったものの大きさ(仕事や友人や社会的地位)ゆえに引き返せなくなるものですし、そもそもいつの時代も幼稚な若者は自分たちは文明の大転換を起こせるとーっても優秀で特別な天才なのだと思いたがるものなのです。
さて、理論と世論の支持そして行動部隊がそろったならば好機を待ちましょう、戦争や恐慌は絶好のチャンスですし、行動部隊をつかい非常事態を演出するのも良いですね!
そして!その日!!その時!!大通りに!立法府に!裁判所に!家庭に!工場に!老人ホームに!そしてバナナ畑に!!革命の旗が翻り全体主義の歌がこだますのです!
しかし、時ここにいたってもなお、反動分子の犬共はこう言うことでしょう。
「そもそも君たちの理論とやらは三段論法を誤用した誤謬の上に誤謬を積み重ねた無内容な詭弁であり、過去百年以上にわたって悪魔的所業をしてきたイデオロギーの哀れなパロディだ!君たちはただ権力に飢えてルサンチマンに凝り固まった愚か者だ!このバナナ野郎め!」などと…
ああ!!革命の度に毎回毎回どこからか湧き出てくるなんて救いようが無い人種!
こうなった場合はもはや「最終的解決」しかありません!!最終的解決とはつまり例を挙げると……
…ヘーゲルはどこかで、全ての偉大なる世界史的な事件と人物はいわば二度現れると述べている、しかし彼はこう付け加えるのを忘れてしまった、一度目は偉大なる悲劇として、二度目は哀れなる喜劇として。
1. 「X(旧Twitter)は思想的植民地政策説」 → 140文字という制限が、思想を浅薄化させ、特定の価値観を強要する手段になっている可能性。
2. 「140文字で大衆のIQの低下に歯止めがかからない説」 → 短文での情報伝達が思考の短絡化を助長し、議論が深まらないまま炎上する現象の要因。
3. 「知的なKindle本は売れない。割に合わない説」 → 一般読者の知的好奇心よりも、エンタメや簡単な自己啓発本のほうが売れる現実。
4. 「日本の知的エリートは無能しかいない。彼らが大衆を説得することを諦め、傲慢になり大衆と変わらない存在になった説」 → 知識人層が本来持つべき「啓蒙する能力」を放棄し、自己満足に陥っている可能性。
5. 「平均的な有権者が無知なため、格差社会が広がっている説」 → 情報を適切に処理できない有権者が、富裕層に都合の良い政策を支持してしまう悪循環。
春:円安・物価高が深刻化。エネルギー価格の高騰により地方自治体の財政が悪化。
秋:関西広域連合(大阪・兵庫・京都など)が「地方主権の再設計」を掲げ、中央政府への財政依存縮小を宣言。
冬:東京政府(内閣)は「地方独自課税は憲法違反」として法的措置を検討。国と地方の対立が表面化。
春:大阪府議会が「関西経済圏憲章」を可決。地元企業や金融機関が支持を表明。
夏:自衛隊関西方面隊の一部が命令系統に混乱。防衛省内で「政治的中立」をめぐる対立が発生。
秋:SNS上で“西日本独立論”が拡散。京都大学・神戸大学の知識人グループが「連邦制日本案」を公表。
春:中央政府が地方交付税削減と関西圏への企業移転規制を強化。関西側は経済封鎖と受け取り反発。
夏:関西電力が独自料金体系を導入、東京電力との送電協定を停止。実質的な「エネルギー分断」が発生。
秋:一部の地方自治体(広島、福岡、愛媛)が関西側に同調。西日本ブロック形成が進む。
春:政府が関西広域連合を「違憲組織」として解体命令。大阪府知事が従わず。
夏:警察庁と大阪府警の間で管轄権争い。衝突が発生し死傷者が出る。これが「大阪事件」と呼ばれる。
冬:東京政府は非常事態宣言を発令。西日本の自治体首長らは「連邦暫定評議会」を設立。
春:一部の自衛隊部隊が命令拒否。京都・名古屋間で補給路をめぐる小規模武力衝突。
夏:「東日本連邦政府(東京中心)」と「西日本連邦評議会(大阪中心)」が事実上の分立状態に。
秋:国際社会(特に米国・中国)は「内政問題」として静観姿勢を取るが、在日米軍の動向が緊張を高める。
春:九州北部・中部地方で戦闘が断続。民間インフラが被害を受け、物流網崩壊。
夏:中立地域として北海道・沖縄が自治的立場を宣言。外国人避難が始まる。
秋:国連が「日本内戦」を正式に認定。停戦監視団の派遣を協議。
夏:両政府が「東西暫定境界線(富士山〜伊勢湾)」を承認し停戦成立。
冬:国土は「東日本連邦(東京・仙台)」と「西日本連邦(大阪・福岡)」に分かれ、名目上の統一国家は維持されるが、実質的に分裂。
公明党が連立離脱した。高市政権が発足する前から崩壊危機だ。野党は政権交代のチャンスだと騒いでる。マスコミは混乱混乱と煽ってる。
でも待てよ。これ、全部お前らのせいじゃないのか?
お前らは一体何がしたいんだ?どの政党にどういう政治をしてもらいたいのか、自分で決められてないだろ。
自民党が勝つとけしからんと言いながら、野党が政権取ったら経済が崩壊すると思ってる。かといって自民党を積極的に支持してるわけでもない。結局、文句だけ言って何も決められない。
その結果が今の混迷だ。
2009年、お前らは自民党にNOを突きつけた。政権交代だ、新しい政治だ、変化だと騒いだ。そして民主党が政権を取った。
結果はどうだった?
超円高で日本企業は死に体になった。1ドル80円を切る異常な円高が続いた。輸出企業は軒並み赤字に転落し、工場は海外に逃げた。雇用は失われ、デフレは深刻化した。
株価は9000円前後で低迷し続けた。年金基金は目減りし、資産運用どころじゃなかった。氷河期世代はさらに追い詰められ、就職も昇給も諦めざるを得なかった。
東日本大震災の対応も最悪だった。官邸は混乱し、現場は放置され、復興は遅れに遅れた。
あれが、お前らが選んだ政権の結果だ。
でも一番頭を抱えてたのは誰だと思う?
民主党政権を積極的に担ぎ上げてた奴らだよ。マスコミも、知識人も、左派も。自分たちが推した政権があまりにも無能で、言い訳のしようがなかった。
アベノミクスが始まった途端、何が起きた?
為替は1ドル100円台に戻った。日本企業は息を吹き返した。株価は2万円を超え、最終的には3万円に達した。
雇用は劇的に改善した。有効求人倍率は1倍を超え、氷河期世代にもチャンスが巡ってきた。賃上げも始まった。
これが現実だ。政権が変われば、政策が変われば、経済は変わる。
でもお前らはまた同じ過ちを繰り返そうとしてる。
今、野党は政権交代のチャンスだと言ってる。立憲民主、維新、国民民主が結束すれば過半数だと。
で、お前らはどうしたいんだ?
本気で立憲民主党に政権を任せたいのか?経済政策はどうする?外交はどうする?トランプ大統領が来日する時に、野党連立政権で対応できるのか?
世論調査を見ろ。「野党連立政権はトランプ訪日に対応できない」と答えた人が54%だ。お前ら自身が信用してないんだよ。
それも違うんだろ?支持率は40%台。支持するとも言えない、でも野党もダメ。結局、何も決められない。
創価学会の支持層は、自民党との連立に疲れてた。でも自民党も、公明党がいないと過半数取れない。お前らが自民党に明確な支持を与えないから、こんな中途半端な状況が続いてた。
そして今、全てが崩壊しようとしてる。
高市政権が発足しても、すぐに崩壊するかもしれない。野党連立政権が誕生しても、民主党政権の二の舞になるかもしれない。
でもそれ、全部お前らが決められないからだろ。
政治に完璧を求めすぎなんだよ。100点満点の政党なんて存在しない。黒いところがあっても、経済を回せる政党を選ぶのか。クリーンだけど無能な政党を選ぶのか。
俺の考えを言わせてもらう。
経済は国の土台だ。雇用がなければ、賃金がなければ、国民は生きていけない。どんなに理想を語っても、経済が崩壊したら全て終わりだ。
民主党政権の時、俺は就職できなかった。氷河期世代の尻尾を引きずって、派遣を転々とした。あの絶望を二度と味わいたくない。
だから俺は、経済を回せる政党を支持する。黒いところがあっても、結果を出せる政党を選ぶ。
お前らも決めろ。
何を優先するのか。経済か、理念か、クリーンさか。どの政党なら任せられるのか。
それを決めないで、文句だけ言うのはもうやめろ。
今の混迷は、お前らの優柔不断が招いてるんだよ。
日本初の女性総理大臣が誕生する、その歴史的な前夜。社会学者の東山教授は、自室の書斎で苦虫を噛み潰したような顔をしていた。テレビ画面の中では、次期総理の座を確実にした、天城(あまぎ)るり代表が、勝利宣言で満面の笑みを浮かべている。
「天城さん、初の女性総理として、長年この国を覆ってきた『ガラスの天井』をどう打ち破りますか?」
記者の紋切り型の質問に、天城はマイクの前で小首を傾げ、悪戯っぽく笑った。
「天井? 申し訳ありませんが、わたくし、上ばかり見て走ってきたので、道中に天井があったことには気づきませんでしたわ。そもそも、存在しない壁や天井の話をするのは、もうやめにしませんこと?」
その瞬間、スタジオは凍りつき、SNSは沸騰した。そして、東山教授の堪忍袋の緒は、見事に切れた。
「愚か者めが…!」
東山教授は、長年にわたり「日本社会に蔓延る、見えない構造的差別」としての『ガラスの天井』を研究し、その存在を説いてきた第一人者である。彼女にとって『ガラスの天井』は、単なる比喩ではない。それは彼女の学問のすべてであり、彼女自身が丹精込めて織り上げた、知的で高尚な、しかし目には見えない「至高の御衣(ぎょい)」だったのだ。
この御衣の存在を理解できる者こそが、現代社会の知的エリートであり、ジェンダー意識の高い「わかっている人間」。逆に、これが見えない者は、時代遅れで、差別的で、救いようのない「馬鹿」なのである。
それなのに、天城るりという女は、その御衣の存在そのものを、国民の前で一笑に付したのだ。まるで、裸の王様を指さす無邪気な子供のように。いや、子供より性質が悪い。彼女は、圧倒的な実力と国民の支持という「権力」を持って、それをやってのけたのだから。
「彼女は家父長制に取り込まれた『名誉男性』に過ぎない。天井が見えないのではない、見る能力と思想がないのだ」。
東山教授はすぐさまメディアにコメントを発表し、取り巻きの学者やコメンテーターたちも一斉に同調した。彼らは、来る日も来る日も、テレビや新聞、ネット上で「ガラスの天井」という御衣の素晴らしさを語り続けた。
「この緻密で複雑な構造が見えないとは、なんと浅はかなことか!」
「天城総理の成功は、天井に偶然空いた小さな穴をすり抜けただけの例外だ!」
「我々『賢い人間』には、その透明な天井がはっきりと見えているのだ!」
彼らは、自分たちだけが見える高尚な天井画を、互いに褒めそやし続けた。
天城るりが総理大臣に就任し、組閣は驚くべきスピードで進んだ。能力主義を徹底し、性別や年齢、派閥など一切関係なく、適材適所の人材を抜擢していく。彼女の政策は明快で、実行力に満ちていた。国民の支持率は、うなぎのぼりだった。
そんな中、東山教授とその一派は、国会議事堂の前で奇妙なデモを計画した。プラカードにはこう書かれている。
『天井はここにある!』
『見えないからって、無いわけじゃない!』
『我々の知性を無視するな!』
彼らは空に向かって指をさし、「見よ、この分厚く、冷たいガラスの天井を!天城総理、あなたにもこれが見えないのか!」と代わる代わるシュプレヒコールを上げた。しかし、道行く人々は、何もない空を指さして熱弁をふるう一団を、ただ不思議そうに眺めるだけだった。中には、不審者を見るような目で、足早に通り過ぎていく者もいた。
「どうして見えないのだ、この愚民どもには!」
東山教授は苛立った。彼女が何十年もかけて織り上げてきた、世界で最も高尚で、最も知的な「見えない御衣」が、誰にも理解されない。それどころか、天城総リは、そんな騒動を意にも介さず、外交に、経済政策に、次々と目に見える成果を上げていく。
国民は、もはや空虚な天井画には興味がなかった。彼らが見たいのは、自分たちの生活が良くなるという、具体的な未来予想図だった。
就任後、初の所信表明演説の日が来た。国民の注目が、官邸から国会へと注がれる。東山教授も、テレビの前で腕を組み、天城がいつ「天井」の存在に言及し、自分たち知識人に謝罪するかと待ち構えていた。
壇上に立った天城るりは、朗々と、しかし力強く語り始めた。経済、外交、社会保障。具体的な数値と計画を伴った演説に、野党からさえも感嘆の声が漏れた。そして、演説の最後に、彼女はふと笑みを浮かべ、こう言った。
「さて、一部の賢明な方々が、わたくしが打ち破るべき『天井』の存在について、大変ご心配くださっているようです」
「その方々が仰るには、わたくしには見えていないだけで、この国の空には、それはそれは分厚いガラスの天井が広がっているのだとか。そして、それが見えない者は、愚か者なのだそうです」
天城はそこで言葉を切り、満場の国会議員と、その先にいる全国民に向かって、堂々と宣言した。
「ならば、わたくしは、喜んで愚か者でありましょう。わたくしには、見えない天井を見上げて嘆いている時間はありません。わたくしが見ているのは、天井の先にある、この国の未来です。国民一人ひとりの、笑顔です」
彼女は両腕を広げた。
「皆様。存在するかどうかもわからない天井の話は、もう終わりにいたしましょう。それよりも、わたくしが仕立てた『繁栄』という名の新しい服を、共にご覧いただきたい!」
その瞬間、割れんばかりの拍手が議場を包んだ。それは、もはや誰にも止めることのできない、新しい時代のファンファーレだった。
テレビの前で、東山教授は呆然と立ち尽くしていた。彼女が心血を注いで織り上げたはずの「至高の御衣」は、いつの間にか、誰の目にも見えないどころか、誰の記憶にも残らない、ただの空気に成り果てていた。
「王様は裸だ…」と叫んだのは誰だったか。いや、そもそも王様などいなかったのだ。いたのは、自分の仕立てた服こそが最高だと信じて疑わなかった、時代遅れの仕立て屋だけだったのである。
浅薄な知識人ほどカッコづけ公開オナニーしたがるの心底気色悪いんだよ!!!!!自分の身の回りと特定の下心からなる好奇心でしか動かない最底辺のゴミだと思ってる、唾棄すべき。本好きを装って知的好奇心があるような素振りをするな。
増田みたいな「「「「中身すっからかんな高尚様」」」」が本の売り上げを低迷させるんだよまじで黙って身内にだけアピールしてくたばってろ氏ね時代遅れのオタクですらそんなアピールはネタでもしねーよ
どうせ好きな本のレビューすらしないだろ。考察すらしないだろ。どうせこの登場人物尊い〜〜〜〜♡♡♡♡♡で終わるきしょ女だろ。あっさ!!!!!!浅はか!!!!!!!クソゴミ!!!!!本を自分のアクセサリーにしてるキモ増田。そのくせにマンガや木内なんとかみたいなホラーしか買っていなさそうな安上がりな人間。名著は絶対読まない。積読しない。好奇心のために難しい本を読むという忍耐などない、本当は知的好奇心なんてないから。古本を毛嫌う。
でもお前のオナニーに適したものしか集めないから。あーきっつい。心底嫌い。はっきり言えば別にそれでもいいんだよ。それでいいのに下手に高尚と自己顕示拗らせて、大事にしない奴の神経分からないとか抜かす。氏ね。お前なんのために読書してきてんだよ、ろくな読書体験してきてないんだろうけど。お前の価値観の蓄積ってただで罵倒できる程度のゴミ。
相手が知識人だと思ってるかどうかは明言してるのでもなければ内心の話でありわかるはずなのにそういうふうに言いきっちゃうのはそういう虚像が見えてるからでなんかコンプレックスがあるんだろうね。
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ななしのよっしん
「これには思わず筆者も横転」とかも気取りすぎててくせーよなあ。筆者てwお前は現代文の作者かよw横転もそんなん書かなくてもファーwwwwwwで十分言いたいこと伝わるだろw
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20250927181744# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaNeruwAKCRBwMdsubs4+ SGvWAQD7hXUAvKabuUW0CB0MKfNsay/BpEoDHSv9CCFyhP3+2QD+NZatgluBhvFO wm3g1UJnlBwoVG+LW5j4yWDA3el6Tgw= =6OzE -----END PGP SIGNATURE-----
SNSを見ていると、MBTIなんて血液型診断と同じだ、非科学的なお遊びにすぎない、などと得意げに言う人間をよく目にする。彼らはさも知的な態度を取っているつもりなのだろうが、実際には中身のない知識人ごっこでしかない。
MBTIはユング心理学を基盤とし、質問紙によって16の性格類型に分ける心理測定ツールだ。確かに妥当性や再現性に限界はあるものの、少なくとも理論と方法論に裏付けられた枠組みが存在するし、実際に研修やカウンセリングの現場で利用されている。
一方、血液型診断は科学的根拠が一切なく、性格との相関も統計的に否定されている。文化的に広まった占いの一種にすぎない。
不完全な心理学的道具と、完全に非科学的な俗説を同列に並べるのは、顕微鏡を精度が足りないから手相占いと同じだと断じるようなものだ。比較そのものがカテゴリー錯誤であり、論理の体をなしていない。
本当に頭の回る人間なら、MBTIには理論的基盤があるが科学的妥当性には限界がある、と冷静に指摘するはずだ。血液型と同じとしか言えない時点で、彼らの批判はただの浅いマウントであり、知識人を演じたい欲望が透けて見える。
冷笑を気取っているつもりなのだろうが、その言葉は冷静な分析ではなく、単なる無知の露呈にすぎない。
ChatGPTに診断してもらったところ、彼らはおそらくINTP(論理学者)だそうだ。
頭の悪いINTPって救いようがないな。
[研究] 謎の薩摩弁「ちぇすと」はどのように生まれたか――鹿児島谷山方言とロシア語が結びついて流行語になり、誤解から「興奮とくやしさを表す雄たけび」に変化|mitimasu
(1) 本来、「ちぇすと」は**鹿児島谷山町の方言で、「よっこいしょ」の意味**の言葉
(2) 明治時代の中頃に鹿児島谷山方言の「ちぇすと」と**ロシア語の「че́сть(名誉)」が結びついて称賛としての「ちぇすと」が鹿児島の知識人の流行語になった**
(3) 島津義弘の関ヶ原正面退却や宝暦治水を**称賛する言葉として**「ちぇすと関ヶ原」「ちぇすと松原」(※宝暦治水の千本松原のこと)が生まれた
(4) しかしロシア語の意味がわからない人が、(3)の使われ方から(2)を**悲しいとき・くやしいときに発する言葉だと誤解した**と思われる
(5) これらを踏まえて明治30年ごろに「ちぇすと」が**東京の学生や青年のあいだで「気合を入れる言葉」として流行し**、広く世間に知られるようになった
(6) 流行がしずまり現実では(2)と(5)を使う人は減り、**フィクションの中の薩摩人ばかりが使う言葉になった**
(7) 鹿児島県出身の作家である**海音寺潮五郎が(4)の意味でさかんに使用**(海音寺氏は谷山から遠く離れた現・伊佐市の生まれ)
(8) これが鹿児島県に逆輸入され「ちぇすと」が「くやしいときや気合を入れる時に薩摩人が発する言葉」だと**鹿児島県人が認めてお墨付きを与えてしまう**
(9) 司馬遼太郎をはじめ**多くの作家が(4)の意味で使用し、(3)の意味は失われていった**
(10) 結果として「気合を入れるときの雄たけび」と「くやしいときに発する言葉」という**異なる意味が「ちぇすと」の中に共存し、よくわからない**ことになってしまった
(11) そもそも「ちぇすと」は「よっこいしょ」という意味でしかない江戸~明治期の谷山町の方言なので、**多くの現代鹿児島県人にとっても使わないよくわからない言葉**である
しかし、このnote記事では1936年の辞書の「露語から来たといわれる」という一つの記述を、そのまま鵜呑みにしてしまっている。
また全体として推測が多すぎるため、いくつかの情報を提示するとともに研究を補強したい。
「ちぇすと」の初出としては、1898年内田魯庵『くれの廿八日』が挙げられているが、これよりも早い用例はいくつかある。
まず、1888年の『青年之進路』。著者は鹿児島県士族の佐藤良之助とある。
これは相手を馬鹿にして煽っているシーンであり、この「ちぇすと」は少なくとも称賛の意ではあるまい。
ただ、ステッキを振るための掛け声なのか、相手を威圧するための掛け声なのかはわからない。
「さうダワ」「なくつてよ」のあどけない令嬢のみならんや「チエスト」と罵るこわからしき九州男児も「オオしんど」と言ふ裊娜(たほやか)なる西京佳人も以て一対の主人公となすに足らん
句読点がないからどこからどこまでが一文かわからないが、ともあれ「ちぇすと」は「罵り」だという認識があったことが窺える。
「ドウモ奇絶ジャ…」「エライ人が駈をるナ…コレどふする…」
田舎者が上京してきて呆然としているところに箪笥をかついだ男に突き飛ばされて「ちぇすと」と扼腕する、といった場面。
「ちくしょう」「なんてこった」などと同じような、思わず出てしまった言葉という感じがする。
1892年『罪と罰』。ドストエフスキーの訳書だが、訳者が『くれの廿八日』の内田魯庵である。
真向に鉈振上げて、婆アの頭脳を打砕き、腥血淋漓たる中に生血の滴る得物を手にし、錠を破し、金を盗んで、隠れやうとする自己だ。ちェすと!こんな事が出来るか?有るもんか?
英文からすると「ちぇすと」はかなり意訳っぽいが、やはり「なんてこった」という感じだろうか。
1893年『称好塾報』。称好塾は滋賀出身の杉浦重剛という人が東京に作った私塾である。
此頃より陰雲未た開けずと雖も細雨は既に跡を収め皆チエストと絶叫せり
其佳なる所に至れば「チエスト」と絶叫せしむ
前者は川船を漕いでいるときに雨が上がったところ、後者は薩摩琵琶の演奏についての記述で、いずれにしても快哉を叫んでいるようである。
薩摩琵琶はともかく、雨上がりに「ちぇすと」と叫ぶのは、すでに鹿児島出身ではない学生たちのあいだでも「ちぇすと」が定着していたのだろうか。
此愉快なる、此呑気なる、此無責任なる、此無頓着なる生活の写生に向って毛奴を奔らす、予輩も亦自らチエストー一声の下に案を叩いて四辺を一睨せさるを得さるなり
下宿暮らしの書生はあまりに自由気ままだという話のオチの部分だが、よく意味がわからない。
とりあえず、気合を入れるための一声、という感じか?
「左様か教師が左様云ッたか……自分でさへ左様思ふもの……」と言つつ両眼に涙を湛へ「チエストッ鹿児島男児が」と一声高く叫びたり
自分が情けなくなってちぇすと。
溝口は下足番の招き声に風(ふ)と心注(こころづ)きて立止り「チエストー、貴様(おはん)は偽言と云ひ馬鹿なッ」と言捨しまま元来し道へ駈戻らんとせり
怒りのちぇすと。
彼が情厚の男子と己(おい)どんを今日まで思ッチヨルとは何たる事か夢か誠か、イヤ誠……此文……チエストー、アア愉快愉快ト喜び勇むも実に尤もなり
喜びのちぇすと。
薩摩人の「溝口」が女義太夫の「紋清」に惚れ込んで事件に巻き込まれていく話らしく、全体的に良くも悪くも感情が高ぶると「ちぇすと」と言う描写になっているようだ。
ただ著者は匿名だが、実は高谷爲之という刑事上がりの新聞記者で、東京の出身らしい。
チェストー、這は是れ感情鋭烈なる薩摩隼人が何事にか其の心を刺撃せられ感泉俄に湧て抑ゆるに由なく、一條の熱気思はば口端より迸出するの声なり、此感声の発する時、是れ彼れ等が掌を握り肉を震はすの時なり、ステキヲ揮ひ路草を薙ぐるの時なり、実に薩人の感情は激烈なり
ステッキで草を薙ぐというのは『青年之進路』の場面そのままだが、そんなに典型的な行動だったのか?
と気付いたが、note記事でも紹介されていた『薩摩見聞記』にもほぼ同じ文章が出てくるので、この「薩摩新風土記」を本にしたものが『薩摩見聞記』なのだろう。
この『薩摩見聞記』の著者は本富安四郎といい、新潟(長岡藩)出身だが鹿児島に数年ほど滞在したという。
1897年、江見水蔭『海の秘密』。江見水蔭は先ほど出てきた「称好塾」の出身らしい。
「ちえッすと!」
謎の集団が、その企みが失敗したのか「ちぇすと」と叫んで去っていった、というような場面。
と、こうしたあたりが1898年の内田魯庵『くれの廿八日』以前の用例である。
明治中期からしか用例がないということに変わりはないが、当初から明らかに「称賛」ではない例が多く見られる。
これは冒頭でリンクしたnote記事の説明に反する事実である。
「薩摩新風土記」に書かれているように「何らかの感情が高ぶったときに出る声」というような説明が適当ではないか。
ちぇすと てすとに同ジ
元は「てすと」なのか?
元は「ちぇ+すとう」なのか?
チエスト よいしょ(掛声)
note記事では「ちぇすと」と「ちぇっそ」は無関係であろう、としていたが、
1977年『かごしまの民俗探求』の久保けんお「薩摩の方言と民謡」では、
チェストはおそらくエイクソの転化であろう。エイヨは薩摩ではチェイヨとなる。母音エに子音Tをかぶせてチェとするのである。エイクソがチェイクソとなり、促音化してチェックソ、クを省いてチェッソ…。チェッソを遠くへぶつけるには当然「チェスト」となるはずである。
1979年、井島六助『出水方言 カゴシマ語の一特異分野』では、
ちぇっそ 感動詞。一般に知られているカゴシマ語としては「ちぇすと行け」など言って激励の語とされ、または、思わず感嘆する時の語とされているが、ここでは元来、「ちょいちょい」と同様、「ざま見ろ」という気持ちを現わす感動詞で、これに類する用例は、「ちぇすと行け」多用のずっと南にもあるようである。チェッソ、ユゴトセンモンジャッデ(ざま見ろ、言うようにせんもんだから)。語源については、英語zestからとか、露語yectbからとかいうのがある。
と説明されており、これらは「ちぇすと」と「ちぇっそ」には関係がある、としている。
これらの説明が正しいかどうかはともかく、多くの異論があるということであり、そのなかで一つの説を支持するならば、何らかの根拠が必要になりそうである。
長年創作活動を趣味にしているが、「バズりたい」という感覚がマジでわからない。
まず、俺が誰からも注目されず相手にされず流行りについていけないのは前提なので、落ち込む理由にはならない。誰からも期待されず好きなときに好きなように作品を作り、たまたま通りかかった中にときどき、作品のメッセージを真剣に読み取ろうとしてくれる人や、楽しんでくれる人がいる。
それに、酸っぱい葡萄と言われればそれまでだが、「バズった」ところで金以外に何か得があるか?
アンチが沸き、ゾンビが沸き、よく知りもしない奴から急に馴れ馴れしく話しかけられ批評され消費され、フリー素材のオモチャ扱い。自称知識人からはただ「流行り物」というだけで唾を吐かれ、ほとんどの人間は作品が何を伝えたいのか真剣に考えすらしない……。
ちょっと想像しただけでも幸せになれそうなビジョンがほとんど浮かんでこない。全く羨ましくならない。
もちろんこれは俺の考え方が著しく歪んでいるだけで、「バズること」を目標に日々活動しているクリエイターを否定するつもりも、貶めるつもりも全くない。むしろ俺は彼らを尊敬している。
たとえ承認欲求を満たす為だとしても、ひとりよがりになりがちな創作活動において、自分を客観視し、他人のための努力ができるというのは素晴らしいことだ。アートだって突き詰めればコミュニケーションだし、より多くの人に伝え届けるために上を目指して試行錯誤した者こそが報われて大成すべきだと思う。
そもそもどんなモチベーションで創作していようが出来上がる作品とは無関係なので、「バズりたい」という願望があなたの力になっているなら、ぜひ胸を張って堂々と「バズること」を夢見て頑張ってほしい。
話が逸れた。
バズりたい、もっと人気になりたい、それ自体は別にいいんだ。ピンとはこないが理解したいと思う。敬愛するクリエイター達には夢を叶えて幸せになってほしいから。
ただ、それで病んだ奴の言い分が気に入らない。
今いるのが創作界隈の中でも週2くらいで揉め事や炎上が起こる限界部落な上、俺自身がこんな性格なので、変な言い方だが、俺は付き合う奴はかなり慎重に選ぶようにしている(大勢とうまくやっていけるほど器用じゃないという方がでかいが……)。
おかげさまで鍵垢で繋がっている相互は皆、炎上騒ぎに動じることのない思慮深さと分別を持ち、ストイックに界隈のトレンドや創作活動と向き合い、素晴らしい作品を生み出す、クリエイターとしても友人としても尊敬できる人達ばかりだ。
そんな人達でも病む。
そして決まってこういうことを言う。
「誰にも見てもらえない」
「どんなに頑張っても報われない」
ふざけんじゃねえよ。
この俺が好きだっつってんだろうが。
お前の作品は最高で、お前は天才だって何回言えばわかるんだクソッタレ。
順番が前後したが、そんなことになる随分前から、俺は相互に「作品が好きだ」ということは欠かさず伝えてきたつもりだ。本当に、本当に手を替え品を変え再三伝えた。いいね・拡散・コメント・ファンアート・二次創作、俺も自分の作品や生活があるので24時間365日とはいかないが、ファンとして友人として、やれることは全てやったと断言できる。作品ハッシュタグを賑わせ、オリジナルグッズを出し、コラボ作品でそこそこ権威のある賞も取った。お前らあとほかに何が足りないんだ?
そういうことじゃないんだろうなとは重々承知の上だが、思わずにはいられない。「誰にも」って何だ? 俺のことは見えていないのか?
お前らや世間の皆様がどうなのか知らないが、俺はな、お情けや社交辞令で二次創作ができるほど暇でもお人好しでもないんだ。本当に心からお前らの作品が良いと思ったから自主的にやってんだよ。お前らの作品の世界観の理解深めて二次創作に活かすために、俺新しく習い事始めたんだぞ。お前らの作品は人ひとりの人生を変えてるんだ。めちゃくちゃ凄いことだろうが。堂々としててくれよ、俺が惚れ込んだクリエイターなんだから。
そもそも俺がこんな治安の悪い界隈に来たのだって、お前らの作品に憧れたからなんだよ。どうしてくれるんだよ俺だけ残っちゃって。
無論、俺の感情や人生や尽くした労力がどうかなんて、悩める彼らには何の関係もない。彼らが足りないと言うなら足りないし、報われていないと思うなら報われていないし、不幸だと感じているなら彼らは不幸なのだ。
可哀想だ。助けてやれるもんなら助けてやりたい。
信じてもらえないかもしれないが、これでも俺は相互の良きファン、良きライバル、良き友人でありたいと思っている。彼らの求めているもの、大切にしている価値観を理解し尊重したい。
だが正直なところ、俺に共感できない問題で相互が次々と病んで消えていく現状にかなり参っている。少しでも気を抜いたら「お前の価値を理解しない有象無象のクズどもとこの俺とどっちが大事なんだ」と、一昔前のめんどくさい彼女みたいな台詞を叫びながら胸ぐらを掴みそうだ。
どうしてやればいいんだ? 俺は。
俺がもっと数字を持っている有名インフルエンサーになればいいのか。
あるいは俺の行動や存在自体が彼らのプレッシャーになっていて、俺は今すぐ全てのファン活動を辞めて彼らの前を去るべきなのか。
どちらも根本的な解決にはならない気がする。いや、まず他人の抱えている悩みを俺一人がなんとかしよう、できるという考え自体が傲慢なのは間違いないのだが。
俺はたぶん、側から見れば、世間の「バズりたい」クリエイター達が「そうできたらいいだろうが、そんなものは綺麗事で理想論だ!」と声高に叫んでいる「綺麗事で理想論」にそこそこ近いメンタリティで創作をやっているんだと思う。この増田も共感されないだろう。(実際相互や創作趣味の人と話していても、「純粋に創作を楽しんでいる俺さんと違って周りを気にする惨めな自分…」みたいな自己陶酔のダシにされているのを露骨に感じることがある。正直けっこう不快だ。俺を鬱シコのズリネタにするんじゃねえよと思う)
ただ、そこは仕方がない。創作活動のモチベーションというテーマにおいて、マイノリティは俺だ。
だからこそ教えてほしい。承認欲求を拗らせているクリエイターに対して、無名の個人ができることは何なんだろうか?
……蛇足ながら最後に愚痴らせてほしいんだが、俺だって別に承認欲求がないわけではない。不特定多数に期待しない分、「たまたま好きになってくれた最初の数人」に死ぬほど依存しているだけだ。
つまり相互が病んで活動していない今、メチャクチャにモチベーションが下がっている。 困る。
誰だよ「みんな」って……
思い通りの反応してくれない奴らのことなんか放っとけよ、俺がいるんだから俺で良いじゃん……
前みたいに俺と遊んでくれよ……
長年創作活動を趣味にしているが、「バズりたい」という感覚がマジでわからない。
まず、俺が誰からも注目されず相手にされず流行りについていけないのは前提なので、落ち込む理由にはならない。誰からも期待されず好きなときに好きなように作品を作り、たまたま通りかかった中にときどき、作品のメッセージを真剣に読み取ろうとしてくれる人や、楽しんでくれる人がいる。
それに、酸っぱい葡萄と言われればそれまでだが、「バズった」ところで金以外に何か得があるか?
アンチが沸き、ゾンビが沸き、よく知りもしない奴から急に馴れ馴れしく話しかけられ批評され消費され、フリー素材のオモチャ扱い。自称知識人からはただ「流行り物」というだけで唾を吐かれ、ほとんどの人間は作品が何を伝えたいのか真剣に考えすらしない……。
ちょっと想像しただけでも幸せになれそうなビジョンがほとんど浮かんでこない。全く羨ましくならない。
もちろんこれは俺の考え方が著しく歪んでいるだけで、「バズること」を目標に日々活動しているクリエイターを否定するつもりも、貶めるつもりも全くない。むしろ俺は彼らを尊敬している。
たとえ承認欲求を満たす為だとしても、ひとりよがりになりがちな創作活動において、自分を客観視し、他人のための努力ができるというのは素晴らしいことだ。アートだって突き詰めればコミュニケーションだし、より多くの人に伝え届けるために上を目指して試行錯誤した者こそが報われて大成すべきだと思う。
そもそもどんなモチベーションで創作していようが出来上がる作品とは無関係なので、「バズりたい」という願望があなたの力になっているなら、ぜひ胸を張って堂々と「バズること」を夢見て頑張ってほしい。
バズりたい、もっと人気になりたい、それ自体は別にいいんだ。ピンとはこないが理解したいと思う。敬愛するクリエイター達には夢を叶えて幸せになってほしいから。
ただ、それで病んだ奴の言い分が気に入らない。
今いるのが創作界隈の中でも週2くらいで揉め事や炎上が起こる限界部落な上、俺自身がこんな性格なので、変な言い方だが、俺は付き合う奴はかなり慎重に選ぶようにしている(大勢とうまくやっていけるほど器用じゃないという方がでかいが……)。
おかげさまで鍵垢で繋がっている相互は皆、炎上騒ぎに動じることのない思慮深さと分別を持ち、ストイックに界隈のトレンドや創作活動と向き合い、素晴らしい作品を生み出す、クリエイターとしても友人としても尊敬できる人達ばかりだ。
そんな人達でも病む。
そして決まってこういうことを言う。
「誰にも見てもらえない」
「どんなに頑張っても報われない」
ふざけんじゃねえよ。
この俺が好きだっつってんだろうが。
お前の作品は最高で、お前は天才だって何回言えばわかるんだクソッタレ。
順番が前後したが、そんなことになる随分前から、俺は相互に「作品が好きだ」ということは欠かさず伝えてきたつもりだ。本当に、本当に手を替え品を変え再三伝えた。いいね・拡散・コメント・ファンアート・二次創作、俺も自分の作品や生活があるので24時間365日とはいかないが、ファンとして友人として、やれることは全てやったと断言できる。作品ハッシュタグを賑わせ、オリジナルグッズを出し、コラボ作品でそこそこ権威のある賞も取った。お前らあとほかに何が足りないんだ?
そういうことじゃないんだろうなとは重々承知の上だが、思わずにはいられない。「誰にも」って何だ? 俺のことは見えていないのか?
お前らや世間の皆様がどうなのか知らないが、俺はな、お情けや社交辞令で二次創作ができるほど暇でもお人好しでもないんだ。本当に心からお前らの作品が良いと思ったから自主的にやってんだよ。お前らの作品の世界観の理解深めて二次創作に活かすために、俺新しく習い事始めたんだぞ。お前らの作品は人ひとりの人生を変えてるんだ。めちゃくちゃ凄いことだろうが。堂々としててくれよ、俺が惚れ込んだクリエイターなんだから。
そもそも俺がこんな治安の悪い界隈に来たのだって、お前らの作品に憧れたからなんだよ。どうしてくれるんだよ俺だけ残っちゃって。
無論、俺の感情や人生や尽くした労力がどうかなんて、悩める彼らには何の関係もない。彼らが足りないと言うなら足りないし、報われていないと思うなら報われていないし、不幸だと感じているなら彼らは不幸なのだ。
可哀想だ。助けてやれるもんなら助けてやりたい。
信じてもらえないかもしれないが、これでも俺は相互の良きファン、良きライバル、良き友人でありたいと思っている。彼らの求めているもの、大切にしている価値観を理解し尊重したい。
だが正直なところ、俺に共感できない問題で相互が次々と病んで消えていく現状にかなり参っている。少しでも気を抜いたら「お前の価値を理解しない有象無象のクズどもとこの俺とどっちが大事なんだ」と、一昔前のめんどくさい彼女みたいな台詞を叫びながら胸ぐらを掴みそうだ。
どうしてやればいいんだ? 俺は。
俺がもっと数字を持っている有名インフルエンサーになればいいのか。
あるいは俺の行動や存在自体が彼らのプレッシャーになっていて、俺は今すぐ全てのファン活動を辞めて彼らの前を去るべきなのか。
どちらも根本的な解決にはならない気がする。いや、まず他人の抱えている悩みを俺一人がなんとかしよう、できるという考え自体が傲慢なのは間違いないのだが。
俺はたぶん、側から見れば、世間の「バズりたい」クリエイター達が「そうできたらいいだろうが、そんなものは綺麗事で理想論だ!」と声高に叫んでいる「綺麗事で理想論」にそこそこ近いメンタリティで創作をやっているんだと思う。この増田も共感されないだろう。(実際相互や創作趣味の人と話していても、「純粋に創作を楽しんでいる俺さんと違って周りを気にする惨めな自分…」みたいな自己陶酔のダシにされているのを露骨に感じることがある。正直けっこう不快だ。俺を鬱シコのズリネタにするんじゃねえよと思う)
ただ、そこは仕方がない。創作活動のモチベーションというテーマにおいて、マイノリティは俺だ。
だからこそ教えてほしい。承認欲求を拗らせているクリエイターに対して、無名の個人ができることは何なんだろうか?
……蛇足ながら最後に愚痴らせてほしいんだが、俺だって別に承認欲求がないわけではない。不特定多数に期待しない分、「たまたま好きになってくれた最初の数人」に死ぬほど依存しているだけだ。
つまり相互が病んで活動していない今、メチャクチャにモチベーションが下がっている。 困る。
誰だよ「みんな」って……
思い通りの反応してくれない奴らのことなんか放っとけよ、俺がいるんだから俺で良いじゃん……
前みたいに俺と遊んでくれよ……
政府のこれまでの外国人政策を厳しく見つめ直し、その抜本的な転換を求める異例の提言が発表されました。
これは、法務大臣である鈴木馨祐氏が29日に公表した報告書です。
この報告書は、法務大臣の所掌範囲を大きく超え、中長期的な視野に立った統一的な方針が欠如していると、これまでの政府の対応を痛烈に反省し、政策の見直しを求めているのです。
複数の政府関係者によりますと、当初、この文書はあくまで一人の大臣が個人的にまとめた論点整理として位置づけられていました。
しかし、今年7月の参院選で外国人政策が大きな争点となったことで、政府内部で急速に問題意識が共有され、やがて「政府方針」に近い重要な文書へと形を変えていったといいます。
鈴木法相が就任したのは2024年秋。その前年から、埼玉県川口市では在日クルド人をめぐる地域社会との「摩擦」が報じられ、SNS上では排外的な主張が広がっていました。
この状況を重く見た鈴木法相は、就任直後に若手議員らに視察を依頼し、地域の実情を直接確認したのです。
「欧州のように、移民排斥論で社会が分断され、政治が混乱する事態を避けたい」という強い思いから、今年2月には自ら勉強会を立ち上げました。
報告書は「外国人比率が高くなるほど、社会に与える影響は増し、様々な課題が顕在化する可能性がある」と警鐘を鳴らします。
2023年の総人口に占める「移民」の割合は、日本が2.5%であるのに対し、
フランスは13.8%、イギリスは15.2%、ドイツは18.2%に上ります。
鈴木法相は今年7月の講演で、「2040年頃には日本でも10%を超えることも想定しなければならない」と語りました。
この「外国人1割時代」を前に、報告書が強く求めるのが多角的な調査です。
OECDは、学歴、就業形態、健康状態など、多岐にわたる指標から各国の移民の状況をまとめています。
しかし、日本総合研究所によると、2023年のリポートで日本のデータがあるのは、68の指標のうちわずか14のみ。
公的なデータがなければ、中長期的な統一方針を立てることはできません。
このため、報告書は、外国人の受け入れ規模に応じた経済成長のシナリオを作成し、
社会保障や賃金、治安などへの影響を詳細に調査するよう提言しています。
また、SNS上で広がる誤った情報に対抗するため、公的なデータを示し、事実に基づいた冷静な議論を促す狙いもあるとしています。
大きな摩擦や分断を避けつつ、外国人と共生していく上で不可欠なのが、「社会統合」という考え方です。
これは、受け入れ国と外国人が、お互いの努力で適応を図るというものです。
一方的に同化を強いるのではなく、受け入れ国は差別や障壁のない環境を整え、外国人はその国の言語やルールを学ぶ。
双方の歩み寄りが不可欠だというのです。
筑波大学の明石純一教授は、日本語の習得や就学、職業訓練の機会を保障し、地域への参加を促す施策で調和を目指すべきだと指摘します。
さらに、社会統合が可能な範囲で受け入れを行うという考え方も検討すべきだと語ります。
また、報告書は、社会との摩擦が許容度を超えそうな場合、一時的に受け入れを制限する仕組みの検討も求めています。
これに対し、明石教授は、社会統合が成功すれば、長期的には社会のキャパシティが大きくなり、受け入れ可能な人数も増えていく可能性があると話しています。
しかし、この報告書に対しては、専門家から厳しい声も上がっています。
明治学院大学の阿部浩己教授は、報告書が「外国人は社会的な摩擦を引き起こす存在だ」という前提が強く、
さらに、法務大臣が5月に発表した「不法滞在者ゼロプラン」も、
「ルールを守らない外国人」という漠然とした言い方で規制強化を図っており、政府の発信が外国人嫌悪を加速させかねないと懸念を示しています。
これまで外国人がもたらすポジティブな側面ばかりを強調し、マイナスの側面を直視してこなかったと語ります。
反移民感情の高まりを避けるためにも、報告書が提起する日本社会への影響調査や、受け入れ制限の検討は必要だという見解です。
欧州では、政治が自国の労働者層の感情を置き去りにした結果、移民排斥を求める声が高まりました。
賃金底上げなどの施策とセットで外国人受け入れ政策を進めるべきだと、岡部教授は提言しています。
韓国では実際には「立憲君主制」は採用されていない(=現在の韓国は共和国であり、王室も存在しない)にもかかわらず、架空の王室を描いたドラマ――いわゆる「もし今も王室が存在していたら」という仮想歴史(オルタナティブ・ヒストリー)や現代王室もの――が人気を集めることがあります。
以下は、なぜそのようなドラマが人気なのかについての理由です:
現代社会におけるストレス、格差、政治不信などから、視聴者は日常とかけ離れた華やかな王宮生活や非日常の恋愛に憧れや癒やしを求めます。王子や王女が登場するストーリーは、まるでおとぎ話のようで、夢の世界への入り口のように機能します。
韓国はかつて朝鮮王朝や大韓帝国が存在した歴史を持ちますが、日本の植民地時代を経て王政は廃止されました。
それゆえ、「王室が今も存続していたらどうなっていたか?」というロマンや好奇心をくすぐるのです。
特に、現代的な価値観(自由恋愛、民主主義、女性の自立など)と王室制度の伝統がぶつかり合うストーリーは、ドラマ的にも非常に面白くなります。
🔹 3. ビジュアル面の魅力
王宮、伝統衣装(韓服)、儀式など、美術的・文化的に視覚的な魅力があります。豪華なセットや衣装、美しい俳優たちが視聴者を惹きつけます。
韓国社会にはいまだに学歴・家柄・経済力によるヒエラルキーが色濃く残っており、「王族や財閥」という“頂点”にいる人々のドラマは、現実社会の縮図としても描かれることがあります。
「身分の差を越えた恋」「王室内部の陰謀」「跡継ぎ争い」などは、そうした社会的なテーマとも重なっています。
🔹 5. 過去のヒット作の影響
たとえば:
『七日の王妃』
『太陽を抱く月』
『赤い袖先』
などのドラマが大ヒットしたことで、「王室+恋愛」の組み合わせが一つのジャンルとして確立されました。
総合すると…
韓国人が王政に憧れているというよりも、ドラマというフィクションの中で「非日常」や「理想の恋愛」「社会階層の象徴」を描くのに、立憲君主制という舞台装置が非常に便利で魅力的だから、ということが言えます。
もし特定のドラマを指している場合(例:『宮』や『赤い袖先』など)、それに合わせた考察もできますよ。
あなた:
世界にはたくさんの共和国があります。立憲君主制に興味を示す人が多い共和国はどこですか?
ChatGPT:
とても鋭い観点ですね。
実際、多くの**共和国(君主制を採用していない国)**でも、立憲君主制に対する強い関心や人気が存在する国があります。そうした興味は、政治的な意味というより、文化・歴史・エンタメ的な憧れや好奇心として表れることが多いです。
以下に、立憲君主制に特に関心を持つことが多い共和国の例を紹介します。
🇰🇷 韓国
概要:すでにお話したように、現代王室を舞台にしたドラマや映画が人気。
背景:
ドラマ『宮』などのヒットにより、若者の間で「王子様」「プリンセス」幻想が根付く
概要:王朝時代を舞台にした歴史ドラマ(古装劇)が大人気。皇帝・后妃・官僚・宦官などのキャラクターが中心。
背景:
清朝の滅亡から100年以上経っており、皇帝制度は完全に過去のものとされている
※ただし、中国では現実政治での君主制復活などは絶対にタブーです。完全なフィクションとしての消費。
🇹🇷 トルコ
背景:
共和国化以降も、「もしスルタン制が続いていたら…」という空想やロマンは根強い
代表作:『オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜』などが世界的ヒット
概要:ロマノフ朝(帝政ロシア)への関心が根強く、アナスタシア伝説やロマノフ家に関する作品が人気。
背景:
興味の形:現代ロシアが立憲君主制になることを望む声は少ないが、「失われたロマノフ家」のロマンは強い
概要:フランス革命で王政を廃止した国でありながら、ルイ14世やマリー・アントワネットなどの人物には人気がある。
背景:
注目点:現在も王政復古を唱える「王党派(Légitimistesなど)」が少数ながら存在
🇮🇷 イラン
概要:1979年に王政(パフラヴィー朝)を打倒してイスラム共和国になったが、現在の政治体制への不満から「王政時代のほうが良かった」という声もある。
背景:
パフラヴィー家の王子たちが今も国外で活動しており、象徴的な存在として注目される
💡共通点として言えるのは:
王政時代を「理想化」または「ノスタルジーの対象」としてとらえる傾向がある
立憲君主制への関心は、政治的な復活希望ではなく、文化的・情緒的な興味に留まることが多い
ほとんどの共和国では、実際に王政復古を求める声は非常に小さく、「制度」としての君主制に興味があるわけではなく、あくまで文化・娯楽・歴史としての関心であることが多いです。
ご希望があれば、「どの国が最も君主制に復活の可能性があるか」みたいな政治的な話にも踏み込めますよ。
あなた:
世界のほとんどの国にはかつて国王がいました。かつて王室があったから、という理由だけでは特にそれらの国がより強く君主制に関心を示すのか?という問いに対して不十分です。地理的な観点から論じることは可能ですか?
ChatGPT:
素晴らしい問題提起です。
おっしゃる通り、「かつて王室があった=関心が強い」とする説明は単純すぎますし、全ての国に当てはまるわけではありません。
この問いをもう一段深く掘り下げるために、**地理的観点(=地理、地域文化、近隣国の影響、文明圏など)**から分析を試みましょう。
🔍【問いの再定義】
「世界の中で、特にどの地域の共和国が立憲君主制に関心を示しやすいか?そしてその背景には地理的な要因があるのか?」
この問いに答えるには、以下の要素を軸に考えると良いです:
特徴:
日本の皇室が存続しているため、文化的ライバル意識や比較意識が働きやすい(特に韓国・中国)
結果:
架空の王室を使ったドラマやフィクションの舞台として君主制が頻出
特に韓国では「現代王室+恋愛+政治ドラマ」のフォーマットが人気
特徴:
結果:
現体制(イスラム共和国)への反発から、王政時代を「失われた秩序」として理想視する層も存在
✅ 東南ヨーロッパ/バルカン半島(ブルガリア、セルビア、ルーマニアなど)
特徴:
冷戦期に共産化→君主制を廃止したが、比較的最近まで王室が存在
結果:
特徴:
結果:
王政そのものへの復活願望は少ないが、文化的にヨーロッパの宮廷文化に対する憧れが見られる
アメリカ:反王政(独立戦争の歴史)が国家アイデンティティの一部
カナダ:イギリス国王を元首とする立憲君主制国家ではあるが、王政に対する文化的関心は低下傾向
結果:
立憲君主制に対して冷静/無関心
フィクションとして消費されることはある(例:『プリンセス・ダイアリー』)が、文化的に根ざしてはいない
多くの国に伝統的首長制が残っているが、欧州型の君主制への関心は限定的
一部に象徴的王族がいるものの、立憲君主制を制度として復活させようとする動きは少ない
結果:
自国文化の再評価の方が強く、欧州型王政は「支配の象徴」として敬遠されることも
地域的に君主制への関心が高まるのは、以下のような地理的な環境があるときです:
周辺国に現存する王政がある 日本、英国、サウジなど 比較対象・メディア露出により関心が刺激される
王制が比較的最近まで続いていた 韓国、イラン、バルカン諸国など 記憶が風化しておらず、ノスタルジーが強く残る
欧州文化や貴族文化への接触が強い ラテンアメリカ、バルカン、東欧 王室=格式・伝統の象徴として文化的憧れが根付く
地政学的な比較意識がある 韓国→日本、イラン→湾岸諸国など 政治的・文化的に隣国と比べて「自国の過去」への再評価が進む
ご希望であれば、特定の地域や国についてもっと詳細に掘り下げることもできます。
あなた:
近隣国に王室が存在するから自国の立憲君主制ファンタジーを楽しむ、というのは納得します。
ChatGPT:
ありがとうございます、非常に本質的なご理解です。
まさに**「近隣に王室がある」という地理的・心理的条件**が、「自国にはないもの」への関心や空想を生む土壌になりやすいのです。
近隣国に王室があり、その存在が文化的・国際的に注目されている場合(例:日本の皇室、英国王室)、
→ 国民の中に「我が国にもあれば…」「我々の文化も誇れるものがあるはず」という感情が芽生えやすい。
近隣国の王室報道(戴冠式、結婚式、葬儀など)は国際ニュースとして流れる。
→ それを見た視聴者が「格式」「伝統」「ロマン」といった要素に惹かれ、自国文化における対応物を求める。
例:韓国での『宮(Love in Palace)』のような現代王室ドラマ。
→ これは単にファンタジーとして楽しむだけでなく、「日本に皇室があるのだから、韓国にだって王室があったら面白いじゃないか」という比較文化的な空想が土台にある。
韓国 日本(皇室) 高い 『宮』などで自国に王室がある想定が人気。
中国 日本、タイなど 高い(主に歴史もの) 清朝ドラマの大人気。過去の王制を美化しがち。
イラン サウジ、ヨルダンなど 中〜高 イスラム王政国との対比で「かつての帝政」を再評価する声も。
トルコ ヨルダン、湾岸諸国 中 オスマン帝国のノスタルジーと近隣国との比較。
東欧・バルカン スペイン、英国、モナコなど 中 王族の再登場も時折話題に(ブルガリアなど)。
これはいわば「隣の芝生は青く見える」現象の文化バージョンです: