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2025-11-19

17年前に里親として迎えた猫が、先月天寿を全うした

幼いころ、猫が飼いたいとさんざん言っていた私。

10歳の9月何気なく立ち寄った場所で、偶然にも犬や猫の譲渡会が開催されており

本当は整理券必要譲渡会だったのに

「すぐ帰らなきゃいけなくなったから!」

と、知らないおばさまから整理券を握らされた。

当時、猫を迎える準備などは何もしておらず

ただ、母親12歳の誕生日に猫を買ってもらうという口約束を交わしているだけだったが

これ幸いと、幼い私は軽い気持ち譲渡会を覗いてみた。

そこで出会ったのが、後の「ミー」くん。

ミーはとても小さくて、1カ月ほどだと言われた。

本当に本当に小さくて、10歳の私の両手に収まるような小ささだった。

からかなり離れた場所での譲渡会だったが、説明担当についてくれた獣医さんが

まさかの、当時の家の隣にある動物病院獣医さんだった。

そういう偶然も重なって、とんとん拍子にミーとの生活スタート

ミーは教えても無いのにトイレ自分でこなしたり

ごはんもしっかり食べる。健康診断も毎年問題なしの優良猫だった。

ミーは本当に人間が好きな子で、初めて会う人も、最初ビビリもしていたがなでられたらすぐなついた。

病院は苦手そうだったが、暴れず騒がず、獣医さんに撫でられてとてもうれしそうだった。

そして、記憶力が良い子だった。

1~2年に一度しか会わない祖母のことをしっかり覚えていて、

たまに会っても怯える様子も一切なく、自分から近寄って行ったりしていた。

寂しがりやで、遊ぶよりごはんより、何より人が好きだった。

年を取り、もうあと数年か…と感じるようになってきた。

もともと少し太り気味だったが、13歳を過ぎたこから少しずつ体重が減っていった。

それでも4キロ近くあり、獣医さんからは「もう少し痩せても大丈夫ですよ」と。

様子が変わったのは突然だった。

10月2日、ごはんを一切食べず、ほとんど動かない状態になっていた。

夜だったがすぐに獣医さんに連絡して、時間外だったが急遽診てもらえることになった。

事前に記載しておくが

私は、生き物の延命治療については「痛みや苦しみが無いなら、取り除けるなら」行うべきだと思っているが

末期であるとか、苦しみしかない場合については

治療延命ではなく、緩和ケアを行うべきと考えている。

自分や親、家族などの人間であっても変わらない。苦しみがある人生はつらいと考えているからだ。

ミーの診断の結果は、重度の腎臓病。ステージ4以上だ。

脱水もあった。

私は2年前に実家から離れて月に1~2回しか会えていなかったので、気が付くのが遅かった。

もっと早く気づいていれば、もっとしんどさを軽減させてあげられたんじゃないか、今でも考える。

なお、この日すぐにペットカメラを購入した。

ペットカメラ絶対おすすめ

ここから実家には週に3~4回帰るようになった。

そこからは少しでも食べれそうなものをあげてみて

とにかく水分を取れるようにだけ、苦しくないようにだけを念頭に置いて過ごした。

病院へはほぼ毎日点滴のために通った。

ミーはかつお節が好きだったが、いわゆる猫缶やちゅーるなどは元々そこまで好きじゃなかったので

ドライフードにかつお節をたっぷり入れてあげるくらいしかやってあげられなかった

強制給餌はしなかった。ミーは強制的に口を開けさせられるのが嫌いだったから。

フライドチキン刺身ツナ缶ステーキごはん、色々試した。

どれも食いつかず、やっぱりかつお節がかかったドライフードが一番だった。

一時的キャットタワーに登れるほど回復したが、それも2日程度しか保てなかった。

みるみるうちに歩くのもやっとなほどになった。

ミーはえらいもので、最後までトイレミス等の粗相は一切しなかった。

最後最後まで、自分で出来ることは自分でやった。

ミーはそれから10月21日に、ほとんど歩かなくなった。

トイレは1日に1回。水もほとんど飲まなくなった。

いよいよだった。

10月22日、強い雨の降る日だった。

胸騒ぎがした。今日実家に帰る予定にしていなかったが、帰らなければ一生後悔すると感じた。

ミーはもうずっと布団にいるだけだった。

でも、この日は珍しく何度か鳴いている様子だった。

体調が悪くなってからほとんどしていなかったのに、その日は実家の母にすり寄っていた。

夜21時、仕事を終えて駆けつけた。

ミーは私を見て、3回鳴いてくれた。

こういう様子は本当に久々だった。

そして、つらいだろうに、私に顔を向けてくれた。

撫でてあげても、もう頭を強く押し付けてはくれなかったが、相変わらず嬉しそうだった。

水やおやつを口元に持って行っても

もういらないという仕草をされた。

0時、寝る前に声をかけた。

おやすみって。

まだ「きっと明日大丈夫だろう」と考えていた。

布団に入ってからもミーの様子はずっと監視していた。

1時50分ごろ、ふとペットカメラを見ると

ミーとは別の、一緒に飼っている猫がミーを心配そうに見ていた。

の子はミーとは折り合いが悪く、あまり好き同士ではない子だったので珍しかった。

そこでミーの呼吸がすこし早く、深くなっていることに気づいた。

既に死戦期呼吸が始まっているのではとよぎる。

ミーはもう虚ろな状態で、恐らくすでに意識は失っていたものと思う。

それでも、聴覚だけは最後まで生きていると聞いたことがあったので、必死に声をかけた。

撫でてあげた。

それに反応してか、ただの筋肉痙攣か、声に反応して足をうごかしていた。

家族もみんな揃って、たくさん声をかけた。



そして1023日の2時13分、ミーは家族全員に見守られながら旅立って行った。

力なく垂れるミーの体が、死を伝えていた。

ミーの体が重く感じた。あんなに軽かったのに、ミーの体はまた重くなったように感じた。

意識のある生き物が軽く感じるのは本当なんだと思った。

ミーは少しずつ冷たくなっていった。

でも、まだ動きそうだった。

また起きて来そうだった。

朝になると、ミーは硬くなっていた。

死後硬直って本当にあるんだと思った。

生き物だと思えないくらい硬くなっていた。

冷たくて、硬くて、ミーの置物みたいに思えた。

でも、ベッドに寝かせてあげると、ただ寝ているみたいに思えた。

とてもとても可愛くて、大好きなミーがいた。


火葬は早かったが、ミーの体が傷んでしまうのも怖かったので、その日の内に行った。

22日は大雨だったのに、23日は暑いくらいの晴れ。

雲一つない快晴だった。

火葬場も、23日だけは予約も一切なく、いつでも対応可能だった。

そういうところも、ミーのおかげなのかな?と思った。

きっと全部、ミーの思い通りに進行したんだと思った。

火葬の直前、最後にミーの頭を撫でた。

陽の光のおかげで、ミーはとても暖かかった。



あーでもさ、もっと早く気づいていれば。

もっと知識があれば。

通常、腎不全が進行すると、口臭がひどくなる・痩せる・水をたくさん飲む・嘔吐下痢などの症状が現れる。

ミーの場合半年ほど前からだんだん口臭がすこしだけ強くなっていたし、痩せては来ていた。

しかし元々5キロ以上あって普通に太っていたので、ようやく標準体重になったころだった。

加齢によって体重が減るとも言われていたので、そういうものかと思っていた。

でも、ここで、いやでもおかしくないか腎不全があるんじゃ?

とか考えられてたらなあ…

いま生きている猫と過ごしている人たちは、つらいだろうけど猫の病気についてしっかり学んだほうがいい。

もしくは、もしもの時の覚悟方針を、しっかりと心に刻んでおいた方がいい。

ペットカメラ絶対付けたほうがいいよ。

そして、残念ながらもうすぐ最後の日を迎えようとしている動物とすごしている人。

たくさん写真を撮るといい。

顔はもちろん。他の物と一緒に撮ると、大きさがよくわかる。

横顔や後ろ姿、いろんな角度で撮ろう。

手足は意外と撮る枚数が少ない。動物が元気なら、足形を取るのは結構ありかもしれない。

私は、ミーが永眠してからだが、その体をスマホアプリ3Dスキャンした。

スマホアプリでのクオリティは期待できないが、ざっくりと姿を残すことができる。

元気ない間にスキャンできる人はおすすめカメラでぐるっと撮るだけでできる。


さて、もうすぐミーの四十九日が来る。

私はあまり虹の橋天国などの概念的なことは信じていない質だが

そういう話で心が落ち着くのは今回とても理解できた。

正直なところ、ミーが亡くなってから

たまに涙が出てしまうが普通に生活できている。

四十九日が来たとて、何も変わらない。

ミーの今回のことの思いや感覚を忘れたくなかったので、文章化したまで。

しろ私は幸運だった。

覚悟する時間があった。

世の中には突然その日に失ってしまう命もある。

きっと私はまた猫を飼う。

また里親だと思う。

生体販売ペットショップ)は出来る限り減っていくといいと思う。

野良猫はみんな去勢できるといいし、多頭飼育崩壊は許せない。

猫のトリマーさんがもっと増えたらいいなと思う。

そして何より、猫や犬の腎不全の進行を軽減できるような研究が進めばいいと思う。

なんと、令和9年春を目安に猫の腎臓病の新薬が使えるよう、色々と進んでいるらしい。

よかったね。これからの猫たち全員に幸あれ。

思ったことをつらつら書いているので、まとまりがないが

そろそろ締めようと思う。

今回分かったこ

・虫の知らせはある。

ペットカメラはあると良い。

病気の初期症状を調べておいて、すこしでも変化があったら相談すると良い。

・ChatGPTに飲水回数やトイレ回数などを伝えて表にしてもらっていた。とても便利だった。

子猫のうちから自動トイレ自動給餌器を設置して、健康状態をしっかりと管理できると最高。

以上。

2025-10-20

もしかして人間って幸せになるために生きているのか

友人と珍しく人生について話すことになったのだが、かなり衝撃を受けた

自分人生は(基本的に)苦しいもので、死ぬまでそれに耐え続けなければならない…と思って生きてきたのだけど、なんか違うっぽい

楽しいことをやるために、幸せになるために生きているらしい

悪いことや嫌なことがあったら楽しいことで埋め合わせをするらしい

子供のころから人生は苦しみ」という考えで生きてきてしまった

自分にとって人生緩和ケアみたいなもので、取り除けない苦しみをいかに小さくするか、苦しみを感じる機会をいかに少なくするか…みたいなところに力を入れてきてしまった

要は「マイナスに対してプラス相殺する」という考えにならず、「マイナスは避けられないので受け入れて耐える」になってしまっていた

今更どうこうできるものではないので諦めはついている

自分は「幸せ」ではなく、「楽」になりたいのだな、ということが分かった

いいことも悪いことも何にもなくていいので、安らかでいさせてほしい

まあ、その実現に一番近いのが「死」なのだけど…

2025-10-17

いちぬけた

45歳になったよ。

子供作れ作れ年齢からさよならしたよ。

少子化共同親権夫婦別姓もあとは好きにやっといてね。

必要なら署名投票はするからね。

でも自分には関係いからその話題に興味がスポンと消えたよ。

それまではチクチクと竹槍で刺される様な痛みがあったけど。

これからは周囲に気にせず好きなことやるよ。

この国の未来からいちぬけた!

この国の緩和ケアこんにちは

2025-08-04

帰省したくねぇ〜

遠方に1人で暮らしている義母が、要介護認定を受けようとケアマネージャーと面会したらどうにも具合が悪そうなので熱中症かなと救急要請したら入院になった。諸々検査をする中で膵臓腫瘍が見つかり、他の臓器にも転移していることがわかった。手術の適応はないとのこと。

その話を夫から聞いたのがだいたい3週間前だ。


私と夫が入籍したのはコロナが少し落ち着いたぐらいの時で、コロナ禍のどさくさに紛れて両家の顔合わせや結婚式の類は何もやらなかった。私も夫も、実家と仲良くする気は微塵もなかったから都合が良かった。

唯一したのが義母と私達夫婦の3人で食事だった。義両親の夫婦関係はとうに破綻しているが、夫への相続か何かの関係離婚はしていないらしい。

夫は「母親はこう言うところで喧嘩しないはずだから」と雰囲気のいい料理屋を予約した。義父はそれほど離れていない場所暮らしているが、“どんな場所でも自分に気に入らないことがあれば黙っていない性格“らしく、声をかけなかった。

約束場所で初めて会った時、思ったよりも小柄だなとは思った。品よく振る舞いつつも所帯染みた(言葉を選ばずにいえばくたびれた)印象だった。夫から前評判があって身構えていたが、普通のおばさんだ。

食事会はつつがなく進んだ。途中、あぁ、きっと夫はこう言うところが嫌なんだろうと思う振る舞いがあったが、私は我慢できないほどではなかった。

私の仕事高齢者と接することが多いので、高齢者ウケする対応はそれなにりできるつもりだった。ただ、いい嫁ぶることが今後の自分にとっていいかどうかは分からないよな、と美味しい料理を口に運びながら考えていた。

コースも終盤になったところで、夫がお手洗いに席を立ったとき、私は義母にあることを伝えた。

私の両親はとあるカルト宗教信仰していて、幼い頃はそういう環境で育ったこと。今は宗教実家から距離をとっており、夫はもちろん、子供が生まれても関わらせるつもりはないこと。

その話を聞いた義母は頭を抱えた。義母クリスチャンなので、実家宗教のことが大嫌いなことは分かりきっている。入籍してからこのことを告げるなんて卑怯だと思ったかもしれない。夫は私の実家のことはあまり気にしていない様子だが、義母にとっては大問題だろう。

義母は強張った声色で「息子が何であなたのことを話さなかったか分かりました」と言った。

私は(違うと思いますよ)と思ったが、もちろん言葉には出さなかった。いい嫁ぶらなくて良かったな、と思った。夫に対する解釈不一意、仲良くできないでしょう。

駅への帰り道、義母は夫にだけ話しかけていた。私の分からない話をする2人の後ろを黙ってついて行ったが、別に孤独感はなかった。夫がいい加減うんざりしてきているのが分かったからだ。

ホテルへ帰り、ベッドに寝転がりながら「美味しかったけど疲れたね」と話した。

食事会の前に、義母は夫に私と仲良くした方がいいか尋ねたらしい。それに夫は「人間として仲良くできそうなら仲良くしたらいいんじゃない」と答えたそうだ。

連絡先も聞かれなかったということは、まぁ、そういうことなんだろうが、それはそれで気楽だなと思った。


それから程なくして私は妊娠したが、義両親への報告は全て夫にまかせた。

出産直後、赤ちゃんを抱く私に夫は「3人で仲のいい家族になろうね」と言った。それがいいと私も思った。実家義実家もそれなりに離れているので、お互いに会おうとしなければ会うこともない環境なのが都合が良かった。なんの支援も得られないだろうけど、都会には社会資源がたくさんある。

楽しくも忙しい育児に追われる最中に入った今回の知らせ。

緩和ケア病院に移ったタイミングでさすがに孫を会わせておくか、と夏の休暇に合わせて今回の帰省計画した。

義母入院してから夫は2回ほど帰省して諸々の手続きや世話をしたが、私があの街を訪れるのは義母と会って以来だ。

私のこと何か言ってた?と夫に聞くと、あの時のことを後悔しているようなことを話していた。子供のことは?と聞くと写真を見たいと言っていたらしい。

義母が「孫に会いたい」と言わないのが少し不思議だった。ひょっとすると私に遠慮しているのかも知れない。

私は別に義母に会いたいと思わないけれど、子供にとって祖父母がいないと状況を申し訳なく思う気持ちは少なからずあった。

面倒だなとは思うけども、会わせたくないわけではない。義母への憐憫もある。

物に溢れたアパートの中で、1人で暮らしていた義母

何を考えながら暮らしていたんだろう。

何十年後かの自分を重ねて想像してしまう。

子供はまだ言葉を話せないけれど、考えていることは何となくわかる。性格何となく分かってきて、これ好きそうだよな、苦手そうだよな、といった予想も大体外さない。今、この子を一番分かっているのは私だ。

母親としての万能感や子供から愛情があまりにも幸せ永遠のように思うから、その思い出に縋ってしまうのだろうか。

面倒がられて、心が離れていしまっても気づかない。それとも気づかないふりをしているのか。

実母もそうだ。

母親が私に愛情を向けていることは知っているが、私はそれを受け入れられない。私の気持ちも、多分全然伝わっていない。虚しい程すれ違っていると感じる。

そんな親不孝な私だから、いつか子供から愛想を尽かされてもしょうがないと思う。



小さい子供を連れての旅行は準備も段取りも何かと面倒だ。

週末のうちに荷造りを進めた方がいいのは百も承知だが、鞄を引っ張り出すのも億劫現実逃避にこの記事を書いている。

せめて楽しいことを考えよう。

子供に美味しいものを食べさせてあげよう。

九州土産、みんなは何が好きですか?

2025-07-16

SNS界隈やエンタメ界隈ってもはや低強度紛争状態だよな

毎月の様にオッサンガールズバー若い女とその後ろの反社の彼ピに金を巻き上げられた恨みで、包丁で刺殺テロ放火テロを敢行して捕まって大事件になるのが風物詩みたいになり

狂った精神障碍者オタク界隈に人生逆転の活路を見出して居着いたら、狂って京アニ放火して津山事件を超える大量殺人事件で捕まって死刑判決を受け

それについて言及した芸大教授に正面から言い返せないから、ヤクザみたいなイチャモンをつけて炎上させて撤回させて

いただき女子りりちゃんは捕まった時の警察罪状テロリストマニュアル作って配布したに等しいレベルの罪で立件して

実際りりちゃんマニュアル使ってパパ活ファッション感覚で始めた若い子たちが気軽に経済犯罪や、騙した男性に刺殺されて事件になってるし

配信者界隈では唯我が殺害されるなんていう事件になり、金バエは気が狂ってる女に軟禁されて病院緩和ケアさえ受けられずに遺骨の所在さえ行方不明

寸借詐欺繰り返してた夜職上がりの女配信者は恨みを買われた中年男に高田馬場路上で白昼堂々刺殺される様子が生中継配信されて、幕末京都みたいな犯行現場スクショネットに出回り

オウム真理教も真っ青な頭のおかしい気が狂った泡沫政党が出てきてはSNSで有り余る暇使って政局を大混乱状態にさせてる

男ばかりじゃない、女で考えても推し活とか言って数年前は赤坂で中高学生が売り掛けの回収のために売春強要されて大事件になっていたのがニュースで出ていたほどだし

トー横界隈なんてそれらの搾取だとかの結果薬物中毒死やビルから飛び降り自殺がひどい次期では月一頻度で起きていたというし

りりちゃん事件ルポタージュを書いてノンフィクション賞を書いた作家がこの手の界隈を俯瞰して「こんなに命のやりとりが軽い世界や重犯罪ファッション感覚で行われる世界なんて、戦争と何が変わらないんだ」と意見記載してプチ炎上してたけど

なんかネットって行き着くところまで行き着いちゃってるよな、って思う

2025-07-15

今日実母が逝きました

実母が他界しました。

16年前のガンが再発し、再闘病8年目の今年2月、これ以上の治療は困難とのことで緩和ケアへ移行することになりました。

この時私は妊娠6ヶ月でした。念願の初孫だと喜んでくれていたので、この告知はとてもショックでした。

予定日は7月2日、母の余命は4ヶ月ほどだろうと言われました。主治医先生には被るのではないかとまで言われたそうです。

去年は友達九州旅行に行ったり、好きなアーティストコンサートに行っていたのに、本当に急でした。

もちろん里帰り出産なんて出来ませんでした。さらに今後、私がお腹の子を育てていく際に母の支えが無いのだということに絶望しました。孫の手を引くお母さんを見ることは出来ないんだと、孫を甘やかすおばあちゃんがいないのだと。

しかし1番悲しいのは母自身です。私は期待を持たせて悲しさが大きくなるのが怖くて、孫に会わせたい、孫を抱いて欲しいという願いをグッと飲み込み、母は母の病気に向き合って、私は私の出産を頑張るからと伝えました。

遠出を避けなければならない妊娠後期ギリギリまで何度も帰省しては、母にたくさんお腹を撫でてもらいました。撫でてもらうたびに、お腹の子に会わせたいという淡い思いで胸がいっぱいになりました。

最後に会ったのはGWでした。またね、頑張るんだよと声を掛けてくれた姿は比較的元気そうでしたが、今思えば妊婦の私を気遣って無理をしていたのでしょう。

その後、母はみるみるうちにやつれていきました。ご飯咀嚼出来なくなり、ゼリーなどの流動食ばかり食べていたようです。肺に水が溜まり心臓が痛くなり、起き上がるのが苦しくなっていたのです。また薬の副作用や症状の悪化せん妄が顕著に現れていました。テレビ通話メッセージ支離滅裂になっていく母の姿を見るのは辛かったです。

しかし私のお腹の子はどんどん大きくなって来ます。とうとう正期産の日になりました。その当日の妊婦健診時の「いつ生まれて来てもいいからね」という先生言葉を聞いたからなのか、はたまたこの後のことが分かっていたのか、その日の夜、子は予定より3週間も早く産まれてくれました。

小さく生まれものの、2510gとギリギリ体重クリア、増加率も問題なく、一緒に退院することが出来ました。

旦那が無事に出産したと実家メッセージを送ると、混濁していた母の意識が急にはっきりして、母子の無事を泣いて喜んでくれたと聞きました。喜怒哀楽を娘にあまり見せない親だったので、大泣きする母の姿が想像できませんでした。

母がしっかりと会話できたのはこの日が最後でした。

介護をしている姉から送られてくる母の様子は、かなり厳しいものでした。言葉が出てこなくて癇癪を起こしてしまう、姉の顔を忘れてしまった、ベッドから起き上がれなくなった、トイレに行けなくなったとゆっくりと、しかし着実に一生を終える階段を登っているようでした。

ついに1週間前、母が入院になりました。最後入院になるだろうとのことでした。医者見立てというものはすごいです。2月の段階ではここまで進行するとは思えないほど元気だったのに。

私は姉に伝えました。1ヶ月健診が終わったら帰るから、それまで頑張るんだよと伝えて欲しいと。

子が早く生まれてくれたから、早くに外出できるようになったのです。母に抱かせられるかもしれない。諦めたはずの期待が溢れてしまいました。

伝わるか分からないけど、伝えるからねと姉に言われました。

無事に1ヶ月健診を終え、急いで実家帰省しました。母を見舞う前日、姉からご飯が食べられなくなった。それに伴って持病の薬を全て中止した」と言われました。全身に転移したガンとは別に心臓の持病を抱える母にとってそれは、最期へのカウントダウンでした。

月曜日特別許可をもらい子を連れて病室に向かいました。母は息をしていました。意識はほぼなく、呼吸器をつけてやっとしていた息ですが、心臓を動かして待ってくれていました。痩せて骨と皮だけになった母の手を取り、子の手を触ってもらいました。発熱していたこともあり、温かい指先でした。目を少し動かし、私を、子を追っているように見えました。待っていてくれてありがとう、私もお母さん頑張るよと伝えて病室を後にしました。

その日の深夜、日付が変わる時に母は旅立ちました。主人に子を預け、最期に立ち会うことが出来ました。

息を引き取った母を見て、ああ本当に待ってくれたのだと思いました。また、子は母の命の時間を知っていて早くに生まれてくれたのだと思いました。

そうとしか思えないのです。

そう思ってもよいでしょうか。

母の病気が治らないと知った時、奇跡なんてものはなく、神もいないのだと悟りました。

でも抱かせることは叶わなかったけれど、無事出産できたことを知らせることができ、孫の写真を見せられて、直接孫の顔を見せることも、孫の手に触れさせてあげられたことも出来ました。

このタイミングが偶然のものだとしたら、出来すぎだなあと笑ってしまます

そして未明に母が帰宅し、授乳の合間を縫って仮眠を取り、やっとジワジワと母が逝ってしまたことを実感しています

死に目に遭えたからとしても、やはり私のこの先の人生に母の姿がないことに変わりはありません。その事実がどうしようもなく辛く、悲しく、胸に重くのしかかってきています寝不足のまま、微かに一階から流れくる線香の匂いを嗅ぎ、理由なく泣き続ける子をあやしながら、広くなって静かな家の廊下を歩いていると、今日がきっと人生で1番辛い日なのだと思います

程度は変わるのでしょうが、一生この辛さは消えないのでしょう。ここに母がいたら、母だったら何を言ってくれただろう、と。道ゆくおばあちゃんと孫の姿を見かけるたびに、私は一呼吸置いて鼻の奥が痛くなるのを堪えるのでしょう。

それでも我が子を抱きながら、この子と母の奇跡のような巡り合わせを思い出して、痛みを少しだけ溶かしていくのだと思います

義実家とは結婚の時に縁が切れています。そのため頼れる家族が、認知症を患う父と陸の孤島と呼ばれる県内の果ての地で教鞭をふるう姉しかいません。

住まうところに戻ると、主人と2人だけの育児が再開します。

子に寂しい思いをさせないように、明るく元気で健康な子に育てたいと思います

2025-07-11

延命治療緩和ケア定義確認

先日90歳の祖父入院したので、「万一の場合無駄延命治療希望しません」的な念書サインして思ったのだが

最近ネットで「延命治療反対」だの「緩和ケア反対」だとか言われてるの、「こいつら延命治療緩和ケア定義分かってないな(自分もよく分からん)」ということで調べた

  1. 延命治療
  2. 緩和ケア
  3. その他一般医療行為
    • 正直こっちが本題だと思われる。例えば90歳の患者治療しないと平均余命5年のケースだと、もう治らなくて良いので死ぬまでできるだけ楽になるようにしてくださいというのが大抵の患者希望だろう
    • そこでいや俺は治してもっと生きるぞ!という患者に対して金銭負担を求めるのは受け入れられやすいと思う
  4. (補足)ホスピス
  5. (補足)終末期ケアターミナルケア

とはいえ「こういうのはっきり線引きできるもんじゃいからさ~」とか言ってると、社会保険が逼迫するにつれて平均寿命より上の人間は全員まとめて負担増という結果になる気がする

また、老人福祉はその子である現役世代に対する福祉でもあるという意見が多々見られるが、今後高齢者に対する現役世代比率が1を割ると、自分の親だけ面倒見る方が期待値が得になるため長続きしない論法である

(こういうときにかつて見られた「今の高齢者福祉削ると当然自分高齢者なった時の分も削られるんだぞ」という意見が今では見られなくなり、つまり自分高齢者になったときは削られてるのが前提になっているのも時代の経過を感じる。上記意見も同様に消えていくだろう)

2025-07-09

終末期医療は全額自己負担

終末期医療って治療を諦めた人に対する苦痛緩和ケアのことだよね。

無理に延命するより痛みマシにして死ぬに任せるほうがよくない?

延命じゃなくてこっち批判する意味がよくわからない。

終末医療っても色々連想されるもの違うんじゃないか

ホスピス緩和ケア安楽死でいいだろ

胃ろう安楽死でいいだろ

認知症安楽死でいいだろ

まれた子に障害が→安楽死でいいだろ

結論は全部同じだった

2025-06-26

anond:20250626164846

尊厳死を望む人らはつまり寝落ち、昏倒、人事不省ブラックボックス状態を良しとする価値観ってだけじゃないか

緩和ケアに対するニーズ、なんならアルコール薬物依存に向かう欲求本質的には変わらんよね

生命活動が続いてようがなんだろうが究極どうでもいいんだよ

連続性を保った、意識が晴明な状態が耐え難いってだけの話

2025-06-25

anond:20250624165709

尊厳死議論については、現状について知識がない人が参加しても混乱を招くだけなんだよな。少なくとも以下の論点理解してないと。

 患者本人の意思家族同意治療担当医師判断の全てがそろうことで現在日本では実質的合法医師刑事告訴されないという意味で)。

 実質的合法とされるこの「尊厳死」に対する論点は、「黙認状態じゃなくて正式法律規定すべし」くらいしか残ってないのではないかな。

 なお、延命治療を中断した場合健康保険負担緩和ケアを受けることが可能

 自宅またはホスピス苦痛の緩和を目的とした投薬を受け、そのまま最後まで過ごすことになる。

 日本では非合法医師幇助罪で逮捕されるやつ。この制度で有名なのはスイスよね。

 スイスでは患者本人の服用と医師診断が絶対条件なんだけど、末期疾患と身体苦痛だけでなく、精神疾患でも許可が降りることがあるため、世界で最も寛容な自殺幇助制度と言われている。

 海外の人が利用できることもあり、それをサポートするNPOなども出現したことで、安楽死ツーリズムという言葉ができるくらい話題になった。

 日本では完全に非合法医師殺人実行犯逮捕されるやつ。スイスはこれを認めてないけれど、カナダオランダスペイン合法

 この制度問題点医師負担が大きすぎること。死刑囚に対する死刑執行ですら大変な負担なのにそれを医師押し付けるのはどうなんだという論点

 その点で、医師側の拒否感の方が大きいのではないかな。

以上3点の違いと、尊厳死はすでに日本でも合法という点を踏まえた上で議論しないと不毛だよな。

たとえば、残る医師幇助自殺積極的安楽死医師投薬安楽死)まで日本合法にする必要があるのか。

もし認めるにしてもどういう制度設計にするのかという議論なら建設的だと思うよ。

2025-06-11

anond:20190609233243

死にたくないと泣いている重病人に「生きたいという願望から降りれば楽になる」と言え


いうて緩和ケアみたいなのってそういうことちゃうん?

2025-03-05

医療費削減をしたいのなら、余命宣告をした癌患者には一切延命治療するな

余命宣告したんだから医者ももダメだって言ってるわけでしょ?

ならこれ以上の延命治療無駄なんだから緩和ケアだけしてればいいじゃないか

2025-03-01

「定年退食」

結構久しぶりに病気受診しにきたけど、老人で溢れかえってるな

いろいろ考えることがある。

耳が遠くなって何度も聞き直してたり、看護師にキレ散らかしてたり、自分の払っている健康保険料も殆どこういう人たちに使われているんだろう。アフリカとかなら自然に死んでいく人たちを莫大なお金をかけて生かしている?

いや、これは危険思想だ。

「定年退食」の世界肯定するようなもんだよなあ。

でも、アフリカなら自然なのに、日本に当てはめると途端にデストピア味が出てくるのは何故なんだろうなあ。

でも、少子高齢化社会保障費上がってくなか、実際こんなん続けられるとは思えないよなあ。

そのうち、後期高齢者原則緩和ケアみたいな議論になっていくんだろうか。

2025-02-01

お前は能力がないし人格カスなので誰もお前に金を与えません、お前を愛しません、お前を尊敬しません、カスなのでお前は家族も持てません、社会的地位も得られません

うわー無敵の人だー

って何なんだよ

カス扱いされながら惨めに生きるかそれが嫌なら大人しく首をくくってくれってことなのか?

緩和ケアみたいに大麻を吸いながら頭をぼーっとさせて寿命を迎えさせてくれるという選択肢提示して欲しい

未来に何の期待もない人間社会秩序と法を守るインセンティブとして65歳から大麻使用合法化

2025-01-17

anond:20250114214938

皆さんのアドバイスのおかげで、妻にたくさん話しかながら見送ることができたと思います

本当にありがとうございました

私が見守る中、妻は眠ったまま静かに旅立っていきました。

後悔はたくさんあります

抗がん剤を止めて緩和ケアに移行した頃にも、ここに書き込んでいれば、その時もきっとアドバイスをいただけたのではないかと思うこともあります

それでも、もしあの時ここに何も書かずにいたら、きっともっと後悔していたはずです。

さまざまな方のいろいろな意見に、とても力をいただきました。

ただ見守っていただけるだけでも心強く、とても嬉しく感じました。

もしよろしければ、旅立った妻に、皆さんも少し想いを馳せていただければ幸いです。

将来、また何かを書きたくなることがあるかもしれません。

その時は、またどうぞよろしくお願いいたします。

2025-01-13

anond:20250113152328

緩和ケアに入った時点で殺せるようになれば良いのにな

と、間質性肺炎で寝たきりでウンコすら行けないまま半年くらい「苦しい」とだけ言い続けてくたばった母を思い出しつつ

俺はどうするのがよかったんだろう

妻がもうすぐ亡くなるらしい

妻のがん治療を続けてきたが、どの治療効果を上げることができず、先月から自宅で終末期の緩和ケアを行っていた。

訪問看護の助けを借りながらも、落ち着かない日々が続いていたが、とうとうその時が来たようだ。

妻とは二人暮らしで、お互いの家族とは遠距離に住んでいるため、すっかり疎遠になっている。

妻ががんと診断されてからは、毎回診療に付き添い、できる限りの支えを続けてきた。

しかし、治療甲斐なくがんの進行を抑えることができず、病状が急激に悪化して入院。その後、自宅で緩和ケアを行うことになった。

自分毎日家事と妻の介護をこなしながら、訪問看護師の対応や手伝いに追われる日々を送っていた。

毎日数回、看護師が来るという生活は思いのほか慌ただしく、自分も妻も十分に休むことができず、心身ともにしんどい日々だった。

それでも、クリスマスには少し奮発して豪華な食事ケーキを楽しみ、年末年越しそばを作り、正月には鍋物を作ってあげたりした。

しかし、次第に妻が眠る時間が増え、食事も少ししか摂れなくなり、次第に水や果物けが頼りの生活になっていった。

この頃、自分も妙に疲れてしまい、看護師が来る時間以外は寝てしまうことが多かった。

起きている時は二人でYouTubeを見たりして、わずかな時間を過ごしていた。

妻のアレフガルドに来たばかりのプレイ中のドラクエ3HD2Dを起動したままで。(ラーミヤがもっさりし過ぎて数日やめなかったらクリア出来ていただろうか?)

世間は長い連休だったようだが、その休みが明けた頃、妻との意思疎通が急にできなくなった。

がんが脳に転移して、その症状が出たのだろう。

それ以降は水分補給も難しくなり、弱っていく妻を見守るしかなかった。

1日に数秒だけ、言葉理解しているように見える瞬間があるが、意識覚醒するたびに「体が痛い」「苦しい」という訴えが繰り返される日々だった。

最後に妻が口にした食事冷凍果物だった。意思疎通があやふや状態でも少しだけ食べることができたのだ。

水はもう飲めなくなっていたが、氷や冷凍果物はなんとか口にできた。

氷を口に含ませながら、「これで水分補給ができるね」と話していたことを思い出す。

その夜、冷凍みかんと冷凍イチゴを用意すると、妻は「おいちい、おいちい」と嬉しそうに食べていた。

「ごちそうさま、もういい」と言うので冷凍庫に片付けたが、戻ってくると妻は手をテーブルに置き、「もうない、残念。もっと食べたい。残念」と哀しそうにつぶやいた。

「まだまだあるよ、食べる?」と聞くと、妻は「もっと食べたい。眠い。1時間後に食べる。起こして」と言って眠りについた。

しかし、1時間後に起こした時には意識朦朧としており、氷を食べるか尋ねると「食べたい」と答えたものの、嚥下が難しくなっていたため、すぐに口から取り出した。それ以来、意識がはっきりすることはなかった。

今思い出しても悲しくなる。すぐに果物を出していっぱい食べたと言わせるべきだった。今も冷凍庫の中にたくさん残っているというのに…。

その後の日々では、意識覚醒するたびに体の痛みを訴える妻に麻薬を追加投与する生活が続いた。機械ボタンを押せば投与できるのだ。

さらに、痰が詰まる苦しみが加わり、ひどくなった時に看護師を呼んで吸引器で対応してもらったが、妻はそれをとても嫌がった。苦しいし気持ち悪いし辛いと言うのを前に入院した時に聞いていたので良く分かるが、それでも少しでも痰を取り除くしかなく、その間、妻の苦しむ表情を見るのがつらかった。

そんな日々でも、一日の中でほんの数秒でも、言葉理解して反応してくれる瞬間があったことは、ささやかな救いだった。

しかし、圧倒的に長い時間、妻は苦しんでいた。

そんな日々に何もできない自分が悔しくて、泣きながら「苦しませてごめん」と謝るしかなかった。

それに「愛してるよ」「大好きだよ」と元気なうちに最も伝えるべきだったと後悔した。

麻薬効果が十分ではなく、体の痛みを完全にコントロールできない中、昼夜を問わず追加投与する日々が続き、自分ほとんど寝られなかった。

心身ともに追い詰められる中で、先日、点滴で眠らせるような薬を追加することになり、ようやく妻は安らかに眠れるようになった。

その穏やかに眠る姿を見て、久しぶりに自分も体を休めることができた。

妻の脈は次第に弱くなっていき、今日明日にも…と医師から告げられた。

今はただただ安らかに最期を迎えてほしいと思っている。

子供はおらず妻が居るからと生きてきた数十年。自分はこれからどう生きたものかな。

よく分からないや。


疲れてしまったのでここまで。

文章下手なのでChatGPTに校正してもらったりした。

他に、家族に容体を伝えたこと、妻の友人に伝えたがちょっと迷惑な反応で心労が溜まったこと。看護師さんの何気ない言葉が妻をひどく悲しまたこと。終活の準備が全然出来ていないことなどを書くつもりだった。

元気や機会があれば書くかもしれない。

文書ける人ってすごいな。

40代夫婦です。




追記:

みなさん、本当にありがとうございました

https://anond.hatelabo.jp/20250117215558

追記:

吐き出す場所が欲しくて日記を書くことにしました。

https://witheov.hatenablog.com/entry/2025/02/10/204233

2025-01-09

anond:20250109122609

そんな事実はありません。デマはやめてくださいね

また、今は「延命治療」と言われる治療ほとんど行われません。何故なら緩和ケアなどの終末期医療に移行するからです。それが標準医療からです。

では、多くの人が延命治療だと批判するのはなんでしょう? そこにあるのは「回復させようとしてできなかった」と言う治療であり、結果論です。

功を奏して回復した人、手を尽くしたけれど死んでしまった人

その二つを事前に切り分ける事は、何らかの神の視点必要となりますが、そんなもの存在しません。

anond:20250109121552

全く終末期医療について知らないまま、分断煽りを行い何らかの我欲を満たそうとする人々の強く受けていることが示唆される文章心配になります

医療的死亡というおかし概念を作る必要ありません。


あなたの様な考え方の人にお話を伺うと、患者が望む限り無限治療が行われると勘違いしている方がいるのですが、そんなことはもちろんありません。

今の標準治療無限に行うようなものにはなっていなません。

この標準治療は、救命率や推定余命といった数字統計的無慈悲なほどはっきりと示されており、多くの場合は当てはまります

医師は、そこに至った段階で、積極的治療をやめて、終末期医療へと段階を進めます

そして、標準治療から外れると保険適用されません。


終末期医療にかかる医療費は、高額療養費の適用になるほど高額になることはほとんどありません。

何故なら、お金のかかる治療は行わないからです。ほぼケアだけを行います

財政負担も大きくありません。

それを削減するために生きている人間に死亡宣告し、社会的殺害を行ったとしても、ほんのわずかな金額しか節約はできません。


一方で、多くの人はそんな惨めな最後を迎えることを嫌がるでしょう。最後緩和ケアを受け、終末期医療を受け穏やかに死にたいと思うでしょう。それは人間として自然なことです。

すると、多くの人がそのために金を積み立てることになり、結果経済流れる資金が減りますし、保険医療という保護を外れると悪人も出てくる事でしょう。

それは社会選択としては妥当ではありません。

2025-01-08

anond:20250107193128

抗がん研究は やめよう。終末期の患者に大量の痛み止めぶち込む緩和ケアでいいと思う。それこそ国家財政破綻する

2024-12-01

anond:20241201011030

さらそんなことで一発逆転できるってマジで言ったり信じてたりするやついるの?

人口ボーナスピークの終わりとバブル崩壊が重なった時点で沈むのは確定で、この30年は沈み幅をどれだけ抑えられるかの勝負をずっとやってるだけだろ

ガンが治らないなら緩和ケア延命なんか無意味だと言ってるのと変わらない

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