はてなキーワード: 法則とは
美女でもイケメンでも、小鼻から上唇までの鼻周辺が嫌い。頬骨とエラも嫌い。
そしてその辺加工してある写真の気持ち悪さ。まぁ加工写真で一番キモいの目だけど。
コミュニケーションを伴う現実の人間関係では顔なんて個体を判別できればなんだっていいんだけど、顔の良さを売りにしてる商売は無理。
ジャニーズ好きの人とか本当に相容れない。そういう話題の時は必死で気配消して石になってる(余計なこと言わんように)。
そんな訳で2.5次元ミュージカルが心底嫌い。
好感度マイナスの状態でテニミュ見に行って、「物理法則」と「顔面」の限界があるお遊戯会を嫌ってほど体感した。そしてブロマイド販売とブラインド情報。あっ無理。超絶無理。
衣装のクオリティは高いので、モデルに着せて【衣装主体】の写真集とかにしてくれた方がいいのにな。顔主体の方が売れるのは分かってんだけどさぁ、三次元の人間の顔、加工前も加工後も嫌いなんだよ。
そんな訳で、また好きな作品がミュージカルに穢されて、作者がミュージカル激推しになってグッズがミュージカル系ばっかりになって、あぁもうすぐファン辞めるんだろうな自分、となっている。
友人たちは一応「ミュージカルに誘わない」と気を使ってくれてるけど、それでもたまに「これなら楽しめるかも」と提案してくれたりする。数年に一度とかのことなので行くけども、毎回「このナルシスト達のコスプレお遊戯会にこんな金額出してまで……!?」とショックを受けている。
シリアス系のシナリオだと特に役者は悲劇のヒロインしがちで自分酔いドン引きかつ、衣装がバキバキ原色(アニメやゲームの原作準拠)でちぐはぐでもう苦痛。苦行。ギャグならまだ楽しめる気もするけど。コント見るノリで。
そして苦行に耐えたところで「どうだった?」の感想には「楽しかった」以外はない。礼儀です。マナーです。でも一言追加する「次はもういいかな」。
まぁ文句言ったけどnot for meというだけです。
地球温暖化の問題について、小学生が抱きそうな素朴な疑問をローカルLLM(テキスト生成AI)に訊いてみた。
モデル:
Qwen3-VL-8B-Thinking-UD-Q4_K_XL(GGUF)
プロンプト:
地球温暖化の問題について、地球から大気圏外までとても長くて丈夫なホースを通して、ホースの両端にポンプを設置、地球の余分な二酸化炭素を宇宙に放出すれば問題が解決するというアイデアがあります。莫大な資金と技術があれば実現できますか?
回答:
Think
(省略)
/Think
地球温暖化問題を解決するための「大気圏外へ二酸化炭素(CO・)を放出するホース構想」は、技術的にも経済的にも現実的でないため、実現不可能です。以下に主な理由を整理します。
長さと重量の問題:
地球表面から宇宙空間まで(約7,000 km)延びるホースは、自身の重力によるたわみや破断リスクが致命的です。
炭素繊維など最強の材料でも、張力強度は10 GPa程度ですが、ホースの自重による応力は100 GPa以上に達します(計算例: 1m2断面積のホース100km長の自重で約1,000,000倍の応力)。
大気圧は海面で約100 kPaですが、高度100 kmでほぼ0に近い真空状態です。
ポンプを沿って連続して圧力を維持するには、エネルギー消費量が膨大(例: 1kgのCO・を宇宙まで運ぶのに約900 MJのエネルギーが必要)。
36億トン/年の排出削減に必要なエネルギーは、世界全体の年間電力生産の40,000倍に相当(約10^21 J)。
ホースの建設費(材料費+打ち上げ費用)は100兆ドルを超えると推定されます。
運行コストも年間100万倍の規模で増加し、地球のGDPの数十分の一を消費します。
現在のロケット技術では「宇宙へCO・を輸送」は可能ですが、連続的な大規模排出は既存のシステムでは実現不可。
宇宙に放出されたCO・は瞬時に分散し、効果的な「削減」になりません。
大気中の濃度低下には、地球を含む閉鎖系内の循環処理が必要です。
既存の技術(炭素捕集・貯蔵(CCS) や 太陽光発電による排出削減)の方が実用的かつ経済的です。
例えば、CCSで1億トン/年の除去は現実的ですが、ホース構想では数千倍のコストがかかります。
国際法の制約:
宇宙活動に関する《宇宙条約》により、商業的宇宙開発は厳しく制限されています。
「大気圏外へのCO・排出」は、国際的な規制違反となる可能性があります。
このアイデアは「科学的発想」として興味深いですが、物理法則と経済の観点から完全に不可能です。
地球温暖化問題は、持続可能なエネルギー転換・排出削減・森林回復などの現実的な対策に焦点を当てるべきであり、理論的な「宇宙ホース」は無駄な資源浪費につながります。
実現可能性のないアイデアを推進するよりも、現実の解決策を優先すべきです。
<リ
゚ 環境問題の解決には、現実的で持続可能な技術の開発が鍵です。
まずは、現状の科学的根拠に基づく方法を検討しましょう。 =リ玻=リ'ン
(参考文献: NASAの宇宙船設計データ、IPCC報告書、材料工学の基礎資料)
※この回答は、技術的・経済的制約を考慮した分析に基づいています。
「宇宙にCO・を排出する」は、科学的に無効な方法であり、誤解を招く可能性があります。 ('=リ゙。'<リ
゚ (⇒ 正しい解決策の探求を)
https://climate.nasa.gov/ | https://www.ipcc.ch/report/ar6/wg1/ | https://www.energy.gov/energy-sources/renewable-energy-and-clean-tech/battery-storage-technology-101-2023/
※ 本件は、科学的根拠に基づく議論のため、ファンタジー要素を排除しています。 <リ
゚('
直接空気捕集(DAC): 1億トン/年の削減が可能(コスト:$1,000/トン)。
太陽光発電による脱炭素化: 2050年までに世界の電力を100%再生可能エネルギーに置き換える計画あり。
「技術の限界を超えて問題を解決する」のではなく、「現実の技術を最大限活用する」ことが重要です。
(例: イギリスの"Carbon Capture and Storage"プロジェクト)
「サン(太陽)」+「バルカン(ローマ神話の火の神)」である。企画当初の名称は単に「バルカン」だったが、この名前は化粧品などですでに使われていたので、商標を登録するためには前か後に語を足す必要が生じ、当時のスポンサーだった後楽園スタヂアムのマークから「太陽」を取り入れたという経緯がある
僕は木曜日の朝10時に、昨日(水曜日)の出来事を記録している。
朝の儀式はいつも通り分解可能な位相のように正確で、目覚めてからコーヒーを淹れるまでの操作は一切の可換性を許さない。
コーヒーを注ぐ手順は一種の群作用であって、器具の順序を入れ替えると結果が異なる。ルームメイトは朝食の皿を台所に残して出かけ、隣人は玄関先でいつもの微笑を投げかけるが、僕はそこに意味を見出そうとはしない。
友人二人とは夜に議論を交わした。彼らはいつも通り凡庸な経験則に頼るが、僕はそれをシグナルとノイズの分解として扱い、統計的に有意な部分だけを抽出する。
昨晩の中心は超弦理論に関する、かなり極端に抽象化した議論だった。僕は議論を、漸近的自由性や陽に書かれたラグランジアンから出発する代わりに、代数的・圏論的な位相幾何学の言葉で再構成した。
第一に、空間−時間背景を古典的なマンフォールドと見なすのではなく、∞-スタック(∞-stack)として扱い、その上の場のセクションがモノイド圏の対象として振る舞うという観点を導入した。
局所的な場作用素の代数は、従来の演算子代数(特にvon Neumann因子のタイプ分類)では捉えきれない高次的相互作用を持つため、因子化代数(factorization algebras)と導来代数幾何(derived algebraic geometry)の融合的言語を使って再記述する方が自然だと主張した。
これにより、弦のモードは単なる振動モードではなく、∞-圏における自然変換の族として表現され、双対性は単に物理量の再表現ではなく、ホモトピー的同値(homotopical equivalence)として扱われる。
さらに踏み込んで、僕は散逸しうるエネルギー流や界面効果を射影的モチーフ(projective motives)の外延として扱う仮説を提示した。
要するに、弦空間の局所構造はモチーフ的ホモトピー理論のファイバーとして復元できるかもしれない、という直感だ。
これをより形式的に述べると、弦場の状態空間はある種の導来圏(derived category)における可逆的自己同型の固定点集合と同値であり、これらの固定点は局所的な因子化ホモロジーを通じて計算可能である。
ただしここから先はかなり実験的で、既知の定理で保証されるものではない。
こうした再定式化は、物理的予測を即座に導くものではなく、言語を変えることで見えてくる構造的制約と分類問題を明確にすることを目的としている。
議論の途中で僕は、ある種の高次圏論的〈接続〉の不変量が、宇宙論的エントロピーの一側面を説明するのではないかと仮定したが、それは現時点では推論の枝の一本に過ぎない。
専門用語の集合(∞-圏、導来スキーム、因子化代数、von Neumann因子、AQFT的制約など)は、表層的には難解に見えるが、それぞれは明確な計算規則と変換法則を持っている点が重要だ。
僕はこうした抽象体系を鍛えることを、理論物理学における概念的清掃と呼んでいる。
日常についても触れておく。僕の朝の配置には位相的な不変量が埋め込まれている。椅子の角度、ノートパソコンのキーボード配列、ティーカップの向き、すべてが同相写像の下で保存されるべき量だと僕は考える。
隣人が鍵を落としたとき、僕はそれを拾って元の位置に戻すが、それは単なる親切心ではなく、系の秩序を保つための位相的補正である。
服を着替える順序は群作用に対応し、順序逆転は精神的な不快感を生じさせる。
ルームメイトが不可逆的な混乱を台所に残していると、僕はその破線を見つけて正規化する。
友人の一人は夜の研究会で新しいデッキ構築の確率的最適化について話していたが、僕はその確率遷移行列をスペクトル分解し、期待値と分散を明確に分離して提示した。
僕はふだんから、あらゆる趣味的活動をマルコフ過程や情報理論の枠組みで再解釈してしまう悪癖がある。
昨夜は対戦型カードのルールとインタラクションについても議論になった。
カード対戦におけるターンの構成や勝利条件、行動の順序といった基礎的仕様は、公式ルールブックや包括的規則に明確に定められており、例えばあるゲームではカードやパーツの状態を示すタップ/アンタップなどの操作が定式化されている(公式の包括規則でこれらの操作とそれに付随するステップが定義されている)。
僕はそれらを単純な操作列としてではなく、状態遷移系として表現し、スタックや応答の仕組みは可逆操作の非可換な合成として表現することを提案した。
実際の公式文書での定義を参照すると、タップとアンタップの基本的な説明やターンの段階が明らかにされている。
同様に、カード型対戦の別の主要系統では、プレイヤーのセットアップやドロー、行動の制約、そして賞品カードやノックアウトに基づく勝利条件が規定されている(公式ルールブック参照)。
僕はこれらを、戦略的決定が行なわれる「有限確率過程」として解析し、ナッシュ均衡的な構成を列挙する計算を試みた。
また、連載グラフィック作品について話題が及んだ。出版社の公式リリースや週次の刊行カレンダーを見れば、新刊や重要な事件がどう配置されているかは明確だ。
たとえば最近の週次リリース情報には新シリーズや重要な続刊が含まれていて、それらは物語のトーンやマーケティングの構造を読み解く手掛かりになる。
僕は物語的変動を頻度分析し、登場人物の出現頻度や相互作用のネットワークを解析して、有意なプロットポイントを予測する手法を示した。
夜遅く、友人たちは僕の提案する抽象化が読む側に何も還元しない玩具的言語遊びではないかと嘲笑したが、僕はそれを否定した。
抽象化とは情報の粗視化ではなく、対称性と保存則を露わにするための道具だ。
実際、位相的・圏論的表現は具体的計算を単に圧縮するだけでなく、異なる物理問題や戦略問題の間に自然な対応(functorial correspondence)を見出すための鍵を与える。
昨夜書き残したノートには、導来圏のある種の自己同型から生じる不変量を用いて、特定のゲーム的状況の最適戦略を分類するアルゴリズムスケッチが含まれている。
これを実装するにはまだ時間がかかるが、理論的な枠組みとしては整合性がある。
僕の関心は常に形式と実装の橋渡しにある。日常の儀式は形式の実験場であり、超弦理論の再定式化は理論の検算台だ。
隣人の小さな挨拶も、ルームメイトの不作法も、友人たちの軽口も、すべてが情報理論的に扱える符号であり、そこからノイズを取り除く作業が僕の幸福の一部だ。
午後には彼らとまた表面的には雑談をするだろうが、心の中ではいつものように位相写像と圏論的随伴関手の組を反芻しているに違いない。
法則とか言う言葉使ってるけどこの増田が言いたいのは法則なんかじゃない
334の法則とか262の法則とかそういうののことを言ってない
法則というなの与太がいくつもあるとして
別にそれぞれの法則に言及、否定する意味で作られてる訳ではなく、単に独立した与太が矛盾を起こすというだけのこと。
そこに知識の順序性見いだすのって
「エントロピー低下=情報生成、エネルギー消費」「エントロピー増大=情報喪失、エネルギー生成」という枠組み(これは熱力学と情報理論を結びつけた、生命現象を理解するための一つの考え方です)を前提とした場合、生命がこの系をコントロールするための良い戦略は、情報の効率的な獲得・利用による、外部へのエントロピーの最大放出であると言えます。
生命は開放系であり、周囲の環境との間でエネルギーと物質をやり取りすることで、自らの内部の低エントロピー(秩序立った状態=情報)を一時的に維持しています。
熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)は、孤立系のエントロピーは常に増大することを示しています。しかし、生命は開放系として、この法則に対抗しています。
生命は、太陽光(植物)や、複雑で秩序立った有機物(動物)といった低エントロピー(利用可能な価値のあるエネルギー)なものを取り込みます。
これは、ご提示の「エントロピー低下=情報生成」に相当するプロセスに必要な「情報」の原材料や、そのための「エネルギー消費」の元手となります。
取り込んだ低エントロピーの資源を使って、生体高分子の合成(DNA複製、タンパク質合成など)や、細胞構造の維持・修復といった秩序立った状態(低エントロピー=情報)を作り出します。
この過程で、生命はエネルギーを消費し、体内のエントロピーを低下させます(ご提示の枠組み)。
特にDNAなどの情報を持つ分子を複製・維持することは、この戦略の核となります。
体内で資源を利用・代謝した結果、生命は熱や単純な分解生成物(老廃物)といった高エントロピーなもの(無秩序で利用価値の低いもの)を周囲に排泄・放出します。
この「周囲のエントロピーを大きく増やす(捨てる)」という行為によって、生命体自身は内部の低エントロピーな状態を維持し続けることができます。
生命が長く存続し、進化していくための「良い戦略」は、「情報の獲得」と「効率的な情報利用」に集約されます。
動的平衡の維持: 体内の物質を常に作り変え(分解と合成)、故障した部分を迅速に修復・交換します。これは、エントロピー増大の法則がもたらす「秩序の崩壊(情報喪失)」に先回りして対処する自転車操業のようなものです。
情報(DNA)の複製と継承: 完全にエントロピーの増大に抗うことはできないため、「自己複製」によって、低エントロピーな「情報」を次の世代へと継承します。
センサーとフィードバック: 光、化学物質、熱などの環境情報を正確に取得し、それに基づいて代謝活動や行動を調整する「情報処理能力」を進化させます。これにより、最小限のエネルギー消費で最大の秩序維持効果(エントロピー低下)を得られます。
適応と進化: DNAという「情報」をベースに、環境の変化に応じて形質を変える「適応」と「進化」を行うことで、系(生命体+環境)の中での生存確率を高めます。
つまり、生命は「局所的なエントロピーの低下(秩序の形成=情報生成)」を、「系全体のより大きなエントロピーの増大(熱・老廃物の放出)」という形でコストとして支払い続けることで、生存を維持しているのです。
量子力学の測定問題とは、ざっくり言えばなぜ波動関数が結果を持つのかという問いだ。
数学的には、量子系はヒルベルト空間というベクトル空間の中の状態として記述され、時間の進行はユニタリという厳密に可逆な変換によって動く。
ところが、実際に観測をすると、必ずひとつの結果、例えば粒子がここにあった、という確定した現実が現れる。この確定が、理論の形式からは出てこない。これが測定問題の核心である。
量子状態は、通常、いくつもの可能性が重ね合わさった形で存在している。
観測装置と接触させると、系と装置は相互作用して一体化し、双方の状態が絡み合う。
結果として、宇宙全体の視点では、系と装置がひとつの巨大な純粋状態として存在し続ける。
しかし、観測者が見る局所的な部分だけを取り出すと、それは確率的に混ざり合った混合状態として見える。
つまり、観測者にとっては、ある結果が確率的に現れたように見える。
だが、ここに重要な区別がある。この見かけの混合は、真に確率的な混合ではない。
宇宙全体では、全ての可能性がまだ共存しており、単に観測者がその一部しか見られないというだけの話である。
だから、確率的にどれかが起きるという現象を、ユニタリな時間発展からは厳密には導けない。数学的には、全体は今も完全に決定的で、崩壊も起きていない。
ではなぜ、我々は確定的な結果を経験するのか。
現実の観測では、周囲の環境との相互作用によって、異なる可能性の間の干渉がほぼ完全に消えてしまう。
この過程をデコヒーレンスという。デコヒーレンスは、我々が古典的な世界を見ているように錯覚する理由を説明してくれるが、それでも実際にどの結果が選ばれるのかという一点については何も言っていない。
数学的には、干渉が消えたあとも、依然としてすべての可能性は存在している。
この状況を抽象代数の言葉で表すと、量子の全体構造の中からどの部分を古典的とみなすかを選ぶことが、そもそも一意に定まらない、という問題に突き当たる。
つまり、何を観測対象とし、何を環境とみなすかは、理論の外から与えなければならない。数学の構造そのものは、観測という行為を自動的には定義してくれない。
さらに、確率とは何かという問題がある。量子力学では確率は波動関数の振幅の二乗として与えられるが、なぜそうなのかは理論の内部からは説明できない。このルールを外部から公理として置いているだけである。
確率の起源を論理的に説明しようとする試みは多数ある。対称性から導くもの、意思決定理論から導くもの、あるいは典型性の議論を用いるものなど。だが、それらはどれも追加の仮定を必要とする。
開放系の理論(リンダブラッド方程式など)は、系が環境と関わることで混ざり合い、最終的に安定した状態に向かう過程を記述できる。
しかし、これは統計的な平均の話であって、単発の観測でどの結果が現れるかを決定するものではない。数学的な形式は、あくまで確率分布を与えるだけで、確定事象を選ぶメカニズムは含まれていない。
多世界解釈は、この問題をすべての結果が実際に起きていると解釈する。つまり、我々が経験するのはその分岐の一つにすぎず、波動関数全体は依然として一つの決定論的な構造として存在している、とする立場だ。
ボーム理論では、波動関数が粒子の軌道を導く実体的な場として扱われ、結果の確定は初期条件によって決まる。
崩壊理論では、波動関数に物理的なランダム崩壊を導入して、観測に伴う確定を確率的に再現する。
しかし、いずれも新たな公理やパラメータを導入しており、なぜそうなるかを完全に説明したわけではない。
第一に、量子の基本法則は常に可逆的で、確率的な選択を含まない。
第二に、観測によって現れる確率的混合は、単に部分的にしか見えないことによる見かけの効果であり、真のランダムな決定ではない。
第三に、確率法則そのもの、なぜ振幅の二乗なのかは理論の内部からは出てこず、別途の公理や哲学的前提を必要とする。
つまり、量子測定問題とは、単に波動関数がなぜ崩壊するのかという素朴な疑問ではなく、物理理論がどこまで現実の出来事を自力で生成できるかという根本的な問いなのだ。
しかし、どの可能性が実際に起こったと言えるのか。その一点だけは、いまだに数学の外に、あるいは意識や観測という行為の奥に、置かれたままである。
私は、昔から宇宙の真理とかに中二病的に憧れるタイプのオタクだった。当然、物理学の究極の理論である「超弦理論」に手を出したわけだ。
しかし、すぐに気づいた。これは物理学のフリをした、超絶ハードコアな数学だということに。
超弦理論が語る世界は10次元とか11次元とか言われる。我々が知る3次元空間(+時間)以外に、極小に丸まった余剰次元が存在するらしい。この「余剰次元の形」が、この世界の物理法則(電子の質量とか、力の種類とか)を決めている、と。
「その丸まった形って、一体どんな形なんだ?」
この素朴な疑問に答えるために、私は抽象数学の沼に両足から突っ込むことになった。
この余剰次元の候補の一つに、有名な「カラビ・ヤウ多様体」がある。 こんな、SF映画に出てきそうな、美しくて複雑怪奇な図形が、実は電子の動きを決めているというのだ。
この「形」を数学的に扱うには、通常の微積分なんて全然役に立たない。必要になるのは、
トポロジーは、空間を伸び縮みさせても変わらない性質(穴の数とか)で分類する。「コーヒーカップとドーナツは同じ形!」という、あの有名な学問だ。
超弦理論では、この余剰次元の「穴の数」や「ねじれ具合」といったトポロジー的な性質が、物理学の重要な定数に対応することがわかっている。
純粋な「形」が、現実世界の「法則」を決めている。これ以上の恐怖と感動があるだろうか。
私が最も戦慄したのは、このトポロジーで使われる概念の一つ、「ホモロジー群 (Homology Group)」だ。
これは簡単に言えば、空間の「n次元の穴」を数えるための、めちゃくちゃ抽象的な代数的な道具だ。
例えば、ドーナツには「ぐるっと一周する穴」が一つある。ホモロジー群は、この穴を代数的に(群という構造を使って)記述してしまう。
この概念は、元々、誰がどう考えても「何の役にも立たない」純粋な遊びとして生まれた。ひたすら抽象的で、自己目的的な美しさしか持っていなかった。
「このホモロジー群こそが、余剰次元の空間に存在する『ひも』の巻き付き方を完全に記述している…!」
純粋な数学的創作物が、数十年後、この宇宙の最も深い設計図のキーコードとして機能している。
これを目の当たりにしたとき、背筋が凍ったね。
抽象数学は、人間が世界を記述するために作り出した「道具」ではない。
そうではなく、抽象数学こそが、この世界が構築される「ルールブック」であり「設計図」だったのではないか?
そして、我々人類は、その設計図を、何の目的もない純粋な思考実験(数学)を通して、たまたま発見してしまっただけなのではないか?
超弦理論の沼にハマって得たのは、物理的な知見ではない。「この世界は、あまりにも美しく、冷徹な数学的必然性によって成り立っている」という、人生観を揺るがす確信だった。
最後に一つ。
「ホモロジー」、ちょっとググってみてくれ。理解できなくて全然いい。その概念が持つ、純粋で絶対的な美しさに、少しでも触れてみよう。そうすれば、世界が少しだけ違って見えるはずだ。
この主張は「例外を設定することが理論を妄想化させる」と言っていますが、特にタルムード的思考の観点から見ると、まったく異なる理解の体系が存在します。
ユダヤ教おいて、「例外」や「条件分岐」は論理の破綻ではなく、むしろ真理をより正確に掘り下げるための手段とされます。
タルムードはその典型で、単純な法則を提示した後に、無数の「例外」や「場合分け」が登場します。たとえば:
「シャバットに火をともすことは禁じられている」
— では、もし病人を助けるためなら?
— では、命に関わらないが苦痛を和らげるためなら?
このように、例外を探ること自体がトーラーを「生きた法」とする営みなのです。
神は人間に理性を与え、「境界線の思索」を求めたとされます(創世記 2:19)。例外を検討することは、神の創造の多様性に応答する行為です。
なぜなら、ユダヤ的思考では、「例外」は理論を壊すものではなく、現実の複雑さを正直に反映させるための器だからです。
例:「人は自由意志を持つ」と「すべては神の計画である」は矛盾して見えます。しかし、ラビたちはこの二つを「両立させよう」とします。
神の完全な知と人間の部分的な自由、その間にこそ真理の緊張があるのです。
あなたの提示した主張では、「例外」は理論を守るための防衛反応とされますが、ユダヤ教ではむしろ逆です。
例外を問うことは、理論を現実に照らして再検証する道徳的責任です。
つまり、理論(法)は現実に生きる人を導くものであり、もし法が現実を傷つけるならば、例外を探すことが義務です。
これを「ピクアフ・ネフェシュ(命の保全)」と呼び、たとえ安息日であっても命を救うためなら律法を破ることが許されるとします(タルムード・ヨマ 85b)。
「例外を設ける」ことは、理論の腐敗ではなく、真理を現実に根づかせる努力です。
むしろ「例外を認めない」理論こそが、生命や倫理から遊離した「妄想」に陥ります。
とあるメーカーの営業職なんだが、ウチの会社でよくやりがちなとある見積もり作業で「要領掴めばそこまで難しくはないけど単純に都度確認作業の発生はどうしても避けられない」ってプロセスがあってさ。
その都度確認作業の部分で必要な情報だけ最低限打ち込めば適切な選択肢が勝手に表示されるってツールをExcelとかで作れないかなってふと思った。
けどそれって、ただ単にExcel上に一定の法則のIF関数並べて「これの時はこの数値を出す」ってやってはい終わりって単純な物が作れない構造になってる。
だから枠組みというか骨組みというか、Excelシート全体の基礎部分は自分で工夫してこういうものにするって考えなきゃいけない。
俺は奇跡的にそこの枠組み部分は思いついたんだけど、恥ずかしながらExcel関数の知識がてんで無い。
そこでGeminiに「このセルに入れる関数を作って欲しい。数値がこれからこれの間の場合はこの表示をするものを…」みたいな指示を延々送り続けてそのツール作成をめちゃくちゃ助けてもらい、最終的に社内にそれを配布できた。
なんていうか今の時代って「中身の構造的な部分で最適解を導き出すことに長けた有能」はAIに仕事を奪われかねない反面、自分みたいな「基本的に無能だけどたまにアイディアの骨組みだけはふと思いつく」みたいな思い付き野郎はむしろAIに助けてもらいやすい時代なのかなって思った。
記憶力の高いサヴァンは、単に個別事象をすべて暗記することで色々なことに対応する
だが、記憶力が低い人は、物事に共通するパターンを見つけなければ対応できないのではないか
もちろん、ここにはグラデーションがある
サヴァンは入力情報を一対一で保存するが、抽象思考者は入力情報を構造化し、数式や概念という圧縮形式に変換する
東大的教育が生み出すのは高精度なデータベース人間であり、アインシュタイン的知性は高次の圧縮アルゴリズムを備えた理論生成装置である
試験で測られる賢さは、あくまで既知情報の再生能力に過ぎず、未知の問題への耐性を測るものではない
記憶の多寡は知の方向性を決める。記憶に頼る者は世界を例外の集合として見るが、記憶に頼れぬ者は法則の体系として世界を捉えるしかない