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2025-08-02

AV女優が着たドレスが「嫌だ」と言ったら叩かれた。それ差別なの?

SNSで「このドレス、元AV女優が着てたかちょっと嫌」と言った投稿が、「職業差別だ」と激しい批判さらされている件。

 

もちろん、SNSという場で発言すれば、反応があるのは当然です。

思慮が足りなかったかもしれないですし、感情的だったかもしれない。それでも、それが本当に「差別」だったのでしょうか?

 

投稿内容を見ると、実際は次のようなものでした

 

国内の後撮りで着ようと思ってたドレスAV女優イベントで着てて最悪。このドレスとあるスタジオオリジナル衣装からここでしか着られないし、本当に楽しみにしてたから靴とか小物自分で揃えてコンセプトも練ってたのに。AV女優に貸すって知ってたら契約しなかったんだけど〜どうしよ。 」

この投稿がここまで強い批判さらされるほど、問題のある内容だったのでしょうか?

私は、そこまで強い批判を受けるような内容には思えないと考えています

 

この違和感から、いくつかの論点を考えてみたく以下に列記します。

 

 

■「嫌」と感じることすら許されないのか?

消費者が、ある商品に対して嫌悪感を抱くこと、それ自体はごく自然なことではないでしょうか。たとえば、ある芸能人インフルエンサーが着用しているブランド商品を「嫌だ」と思う人は少なくありません。むしろ広告プロモーションというのは、その“誰が着ているか”を含めてブランドイメージ形成しているわけです。

 

それを「元AV女優が着ていたから嫌だ」と感じた途端、「職業差別だ」と糾弾するという構図は、少し違和感があります。なぜAV女優けが感情的忌避を表明された瞬間に「差別」という言葉封殺されなければならないのでしょうか。

 

■「AV売春」とは言えない。でも構造無視しすぎていないか

根本的な論点として、「AV売春ではないのか?」という論点があります

AV出演そのものは建前上は合法労働です。売春防止法に違反しているとは言えません。

芸能」や「演技」の名の下で、売春ではないと形式的には整理されています

ただし、形式上は「撮影」であっても、AVの多くが実際の性行為を含む撮影であり、実際には金銭を受け取りながら性行為をしており、「買春構造」に近いし、実質的には売春に類する営みと見なされても仕方がない部分があります

 

もちろん法的には、売春防止法の抜け道を通して成立している業界ですが、その建前と実態乖離違和感を持つ人がいるのは自然なことではないでしょうか。

 

AV売春だ」と断定するものではなくとも、あくま倫理的構造的に“買春に似た側面がある”と感じる消費者がいたとして、それは法的な誤解ではなく、価値観感受性問題として理解されるべきではないでしょうか。

そこに忌避感を持つのは「職業差別」ではなく「違法行為に対する嫌悪」とも言えるかと思います

 

パチンコ三店方式自由恋愛スキームと同じ構図

合法とされているが実態はグレー」という構図は他にもあります

 

たとえば、パチンコ三店方式は、景品を第三者が買い取るという建前でギャンブル性を隠しています

また、風俗業界では「入浴介助」「自由恋愛」などと称して実質的売春に近い行為が行われるケースがある。

 

形式を整えさえすれば実態は問われない――というロジックが成立している分野において、その実態に着目して拒否感を示す人々の感覚を「差別」と決めつけてよいのでしょうか。

 

純粋まっすぐな純情君かよ、世の中そんな綺麗事で成り立ってないよ~」という向きもあるだろうが、だったらなおのことグレーを忌避する毀誉褒貶

殊更に「職業差別女」とあげつらうのは何なんだよとなると思うが、いかがかなと。

 

 

職業差別日本で法的に「反社会的勢力」として存在する

そもそも職業差別は許されない」は、正論に見えて実際には例外があることを失念してないか

 

暴力団排除条例では、反社会的勢力関係のある職業個人契約から除外される。これは法的に正当な「職業差別」だといえる。

この暴力団排除条例は、暴力団関係であることを理由に、銀行口座の開設、保険契約不動産賃貸結婚式場の利用まで制限できる。これはれっきとした「職業属性による差別的取扱い」だが、社会的には正当化されている。

 

そして現実には、風俗AV業界も、過去には反社との結びつきが問題視された歴史がある。

業界の大多数の人がそうではないとしても、かつ、現時点では業界健全に努めようとしているとしても、かつて「関係があるかもしれない業界だった」と思って忌避することを、一律に「差別」と決めつけるのは、あまり乱暴ではないか

まだ払拭しきれていないそれらの背景をもったイメージによって反社と同様に警戒や忌避されるのは、他のブランドイメージ嫌悪とは一線を画す部分もある。

 

まあ、何にしろ現在日本基本的人権すら制限反社に対して架す職業差別合法という犠牲の上に築かれている安寧があるという状況をみんな忘れて議論するなよ、と。

 

AV出演者の子どもが差別はされてはならないとおもうけど、現状だと反社はその子もも差別的な扱いの犠牲に巻き込まれているのだから

今回「職業差別」だと言う言葉批判する側の発言した人は、忌避感表明程度で強い言葉を使うなよ、とも思う。

現在日本には法的に規定されたガチ職業差別憲法第14条「法の下の平等」との関係問題視している考えだってあるんだぞって。

職業差別ゆるさんと吐いた人は、暴対法暴力団排除条例どうおもってるのかな。

 

売春する側を忌避ことは職業差別にあたるのか?

近年、「売春する側を責めるのは職業差別」という意見も出てきている。

しか経済的理由選択せざるを得なかった人もいるだろう。

しかし、違法行為である売春を、“職業として肯定すべき”とまで主張することには疑問が残る。現在日本には公娼制度はないのだから

 

私は男性で、買春行為に手を染めたこともないし、それは避けてきた。

その立場から見ると、法的には売春行為は明確に禁止されているにもかかわらず形式を整えて実態正当化する人などが、忌避されてるので「職業差別だ」と反論しているのだとすると、その構図には違和感がある。

違法性のある行為に対する批判すら封じようとする」主張になってないか

 

ある特定信条からすると蔑まれ行為を行った人への社会的批判忌避感情は、差別とは別次元倫理的・法的なフィードバックだと考える。AV出演者の子が「親の因果が子に報い」的な蔑視を受けるなら差別だけど、本人の責任ある行為の結果で第3者に好悪の感情をもたれるのは

一定社会人としたのこれまで歩んだ道の評価でしょ、と。

 

とはいえ建前であれ適法運用されており、かつ、法的な反社組織と何ら関係のない人が職業門地によって、銀行口座の開設、保険契約不動産賃貸結婚式場利用制限とかが起きそうになっているならそれは明確に阻止する側でありたい。

 

 

職業としてのAV出演を隠して一般社会人として活動している状況で、過去を暴かれて叩かれるのは問題があると思う。

AV出演歴を隠さず、同一名義でキャリア継続するのは勇気のあることだと思う。

隠してないのはある意味ではとても誠実かもしれない。

 

例えば、声優エロアニメに出るときに別名義を使ったり、漫画家エロ同人を別ペンネームで出すことも、「見られたくない、でも仕事としてやった」ことを社会がある程度容認してきた例だと思う。

 

一方で、同一名義で堂々とAV出演歴を公開し続けるなら、過去仕事によって起用された商品作品に対して生まれたその人物の“イメージ”で忌避されるのも、ひとつ社会的反応であり、それをただちに差別だ」と糾弾するのは、やはり無理があると思うよ。

AV女優が同一名義で芸能モデル業に進出し、過去仕事を隠していない場合なのだから、それを理由消費者側が忌避することは「職業差別」ではなく、パブリックイメージの受け止め方の違いとして普通にありうる。

 

抱かれたくない芸人とかで、ある意味お笑い要素に本人達がしているから許されているかのような印象をもっているかもしれないが、芸人特定ブランドを愛用しているとかに対して心ない発言はこれまでよく見たはず。それを「芸人に対する職業差別だ」とか批判したことないでしょ。

 

芸能表現者として過去活動現在活動が地続きである以上、「ブランド全体」として評価されるのは避けられない。

からといってその人の人格まで否定するのは行き過ぎだが、関連した商品が「選ばれないこと」まで否定するのは、やや一方的に思える。

 

消費者忌避感を持つのは当然の自由だし「(元)AV女優モデルに使われた」という情報を知って、その商品距離を置く。

それは“職業”を理由差別しているというより、過去の出演歴が与えるイメージによって「自分が身につけるには合わない」と判断しているだけだとおもう。

 

たとえば「ジャニーズ(旧ジャニタレントCMに出ていたから不買する」という行動や、「インフルエンサーが紹介してると逆に買いたくなくなる」といった反応だってある。

これを「職業差別だ」と言う人はいない。

 

では、なぜAV女優の起用だけが“聖域化”されているのか?

 

■「それは職業差別だ」と言えば、どんな違和感も封じ込められる――

そんな風潮が広がっているように見えてならない。

 

でも本当にそうだろうか?

 

ジャニー喜多川の件で、忌避されるのは事務所のものだった。広告タレントを起用すること自体批判対象にもなった。

芸人が出ているだけで「買いたくない」と思われることもある。タレントインフルエンサーが身に着けている商品に「ステマだ」「信用できない」と不信感を持たれることもある。

 

それでも誰も「芸人差別だ」「インフルエンサー差別だ」とは言われていない。

 

実際、最近オープンしたテーマパーク「ジャングリア」でも、インフルエンサーによるPRや発信が議論を呼んでいる。

彼らの投稿嫌悪感を抱いた人は批判的なコメントしている。しかし、その際「インフルエンサー批判するのは職業差別だ」といった声はほとんど見なかった。

 

感情に基づく忌避や好感は、どの職業にも付きまとう。特に芸能表現者として舞台でやっていく場合は、消費者への好悪の感情ブランディング資するBtoB商品でもあるのを理解して表にでているのだから

それらを“ブランディング”としてどう受け止めるかは企業消費者自由であり、「嫌」という感情のものまで規制しようとする空気は、むしろ自由社会”とは言えないのではないか

 

それなのに、AV女優だけを「特別扱い」して、少しでも違和感を示しただけで「差別だ」と決めつけるのは、公正な姿勢と言えるのだろうか?

それは“平等”ではなく、“過剰な規制”ではないのかな、と。

 

 

■「表現の自由」と「批判されない自由」は別の話

最近では、表現規制についてもクレジットカード決済会社が「性的」「暴力的」「フェティッシュ」なコンテンツへの決済を一律に禁止しようとする動きが問題になっていて、多くの人が反対していると思う。

 

私は、表現の場は確保されるべきだと考えています

 

ただし、その表現内容が社会からどう見られるか、という評価毀誉褒貶)まで「規制だ!差別だ!」と主張するのは違う。

表現した以上は、批評批判されることは避けられない。批判が来たら再反論すればいい話で、それは健全言論空間のあり方の一部だと思う。

 

批判された=規制された」「不快に思われた=差別された」という論法は、言論空間をかえって狭めてしまうのではないでしょうか。

 

嫌悪感情はAVに限らないし、なぜこのケースだけ「差別」なのか?は明確に批判者側が自省して向き合うべきだと思う。

この「嫌だ」投稿差別だと断じる人たちは、AVというカテゴリにだけ特別保護を与えようとしていないでしょうか。

 

結局、芸人でも、インフルエンサーでも、タレントでも、商品ブランドを「誰が着たか」「誰が使ったか」で好悪を判断するのは消費者自由です。AV女優という存在に限ってその“好悪”の表明を封じようとするのは、むしろ自然ではないでしょうか。

 

発言を「差別」のレッテルで封じる風潮こそ危ういと思います

ジャニー喜多川問題のように、過去問題のある人物と結びついた企業ブランドを避けるという行為は、フジテレビを例に出さずとも、今や一般的になっています広告に誰を使うか、商品に誰を起用するか、広告媒体側の評価、というのは消費者の印象形成に大きく関わるものです。

 

それに対して「嫌だ」と感じた人が、それを素直に言葉にしたとき職業差別という重いレッテルを貼って糾弾するやり方は、本当に健全議論なのでしょうか。

 

表現者には表現の自由があるように、消費者にも感情価値観を持つ自由があります感情違和感があったとき、それを表明することが即座に「差別だ」と決めつけられる空気は、言論空間の萎縮に繋がると感じます

 

表現規制を過剰に求めたフェミおかしいとか言っていた人が、今回の件では同じような行動をとってトレースしてないか

ジャニー喜多川問題の時に暴れたジャニオタを嗤っていた人が、「職業差別だ~」で同じような行動に陥ってないか

 

 

差別という強い言葉を乱用しない

「嫌だ」と感じた個人感情をすぐに「差別だ」と糾弾するのは、本当に守るべき“差別されている人”への関心すら薄める危険があるとおもう。

 

個人感情には多様性があり、その中には好みも忌避もある。

それを「思ってもいいけど、言ったらアウト」と言う社会理想だろうか?

 

差別とは、もっと構造的で、もっと暴力的で、もっと絶望的なもののはずだ。

 

内心の自由とそれを発言することは分けて考えろとか、言ってる向きの人は、クレカ表現の自由規制問題になんてコメントしてるの?

職業差別女って強い言葉レッテル貼って発言者を潰せれば、表現規制が達成できれば満足なのか?

 

 

■余談

職業の貴賎はあるとおもうよ

医療介護福祉系の家族・親類が多いなか、いわゆるエンタメ系の業界で働いてるから思うけど

やっぱり、エッセンシャルワーカーの方が偉い職種だと思うよ

 

エンタメなんて別に存在しなくても人の生活は成り立つし。

 

それでもエンタメの笑いや感動が勇気希望を与えるんですって思うのは良いし、それでプライドを保つの勝手だけど、エッセンシャルワーカーの人らに劣らず偉いんですって思ってるならダサいし、恥ずかしいからってだけ思う。

面白いと思ってもらったら勝ちとか、笑わせたら勝ちとか、歌や演技で感動を起こせればそれでいいとか

ある意味そういう別ルールゲームじゃん。

社会的地位をもとめるのは基本的人権とか自分家族プライバシー必要最小限で守られてればよくない?

差別ってそういう領域まで踏み込んでくるものであって、人権確保された上での毀誉褒貶はつらいけどあるよね。社会人なんだし。

 

あと、職種自体が偉くたって、その中にはクズい人もいるし、 Permalink | 記事への反応(4) | 20:33

2025-05-30

anond:20250530232102

これが公娼制度が認められている国なら国家公務員扱いで

当然福利厚生もあるし退職金とか雇用保険もあるんだけどなぁ・・・

2022-06-30

不況対策としての慰安所

コロナ禍の不況収入を失った女性にとって、性風俗産業セーフティネットとして機能しているという話を聞く。しかしそれは本当にセーフティネットなのだろうか。女性主体的貧困を脱却していくことのできる「溜め」が生じるような仕組みになっているだろうか。性風俗産業実態を知るにつけ、どうもそうは思われないのだ。

それならばいっそのこと国が責任を持って公娼制度を復活させて全国に慰安所を設置し、性風俗産業収入の道を求めるしかない女性安全安心提供するべきではないだろうか。

慰安所に勤務する女性国家公務員と同様の待遇が得られ、当然のことながら公務員向けの共済に加入することができる。定期的な健康診断は国費で行われ、性病感染心配する必要もない。慰安所には託児所の併設が義務付けられ、シングルマザー時間帯を問わず安心して勤務することができる。

慰安所が集まる地域は新赤線と呼ばれ、訪れる人々のためにさまざまな飲食店ができる。コロナ禍で稼働率の低下した外食産業にとっても慰安所は新しい活力を与える試みとなる。全国の新赤線めぐりツアーが新しい旅行商品カテゴリとなれば、壊滅状態にある旅行産業再生の途上に就くことができるだろう。

より多くの女性社会参加が求められている時代に、主体的選択によって慰安所に新たな活躍の場を求める女性が増えるならば、新しい男女平等社会形成されていくだろう。慰安所で働くことをごく普通仕事として捉える意識が浸透すれば、セックスワーカーに対する差別もおのずから解消され、女も男もより自由社会が実現するだろう。

慰安所で働く女性高齢になってきたらどうするのか、生活が成り立たなくなるのではないかという懸念を述べる人が当然出てくるだろう。しかしこれから日本高齢化が進む一方だ。若い異性との交流を求めて慰安所にやってくる人ばかりではなくなる。むしろ、年齢を重ねた女性の方が人気が高くなる状況も出てくるだろう。

2022-06-28

また、芸妓さんを体を売る「娼妓」(しょうぎ)さんと混同してはいけません。前掲書によれば、売春防止法施行された昭和30年以前の公娼制度の枠組みの中では、花街には、芸妓さんと娼妓さんの両方がいて、それぞれ別個の存在だったそうです。

 「芸」は売っても「体」は売りませんという気概を持ち、芸を磨き続けるのが芸妓さんなのです。いわゆる「旦那」が芸妓を「妾」的に囲うといった暗いイメージもある「水揚げ」も現在はまったく行われていないそうです。

2009年記事では体は売ってませんよという建前で押し通してたんだな

2022-05-28

明治時代、庄屋の娘が夫のDVから逃げて上京議員財政を立て直した話

矢島 楫子(やじま かじこ、1833年6月11日天保4年4月24日〉 - 1925年大正14年6月16日)は、日本女子教育者社会事業家

肥後国上益城郡津森村杉堂(現・熊本県上益城郡益城町)の惣庄屋矢島左衛門直明・母鶴の1男7女の6女(末子)に生まれ、かつと命名された。極端な男性社会にあって度重なる女児誕生は歓迎されず、名付け親10歳違いの姉である三女・順子であった。順子(竹崎順子)は、横井小楠の高弟である竹崎茶堂と結婚し、熊本女学校校長となった教育者である。また、順子のすぐ下の姉・久子(徳富久子)も同じく横井小楠の高弟である徳富一敬結婚し、湯浅初子・徳富蘇峰徳冨蘆花兄弟を生んでいる。蘇峰は明治大正昭和にかけての大論客、蘆花は明治大正文豪である。また、かつのすぐ上の姉つせ子(横井つせ子)は横井小楠の後妻となった。この姉妹4人は「肥後の猛婦」、「四賢婦人」と呼ばれた。

かつは学校などない当時、一通りの教育を母から厳しく身につけさせられるが、もとより勝気で秘めたる情熱の持ち主だったかつは、やがて母亡きあとは母に替わって兄・直方のために尽くす。その兄も妹のために良縁を求め、かつ25歳の時、初婚にはもはや遅いとして既に2男1女を儲けていた富豪林七郎(1828年生) を家柄・人物ともに相応と認め、後妻として嫁がせる。林は武家出身で、横井小楠弟子であった。後年楫子自身の口からも「この人は気品の高い、竹を割ったような人でした」と語らせるが、家族への乱暴など夫の酒乱の悪癖にかつは極度の疲労と衰弱で半盲状態に陥り、かつ自身も三人の子まで儲けながら、このうえは身の破滅と思い、末子達子を連れ家出する。迎えに来た使いの者に見事に結い上げていた黒髪を根元からプッツリ切って紙に包み、無言の離縁を言い渡したのである明治元年(1868年)、これを転機に新しい一歩を踏み出す「新生元年」ともなった。

妹たちの間を転々とする間、兄・直方が病に倒れ、達子を置いて上京を決意する。長崎東京行き蒸気船に乗り込み、船上にて自ら「楫子」と改名する。兄は大参事副知事兼務左院議員で、神田の800坪の屋敷に書生、手伝いらはもとより千円という借金を抱えていた。楫子はその放漫財政を正し、3年で借金を片付けると、生来の向学心から教員伝習所に通うこととなる。明治6年学制が施行され全国に小学校が設置、訓導試験合格した楫子は芝の桜川小学校(現・港区御成門小学校)に採用される。当時教員初任給3円のところ、楫子は5円という破格の待遇であった。

このころ長姉・藤島もと子が息子二人と、直方の妻・糸子も子供をつれて上京、兄宅は一気に賑やかになった。しかしそうした喧騒の中、楫子は妻子持ちの書生との間に女児を宿す。堕胎父親に渡すべきだと諭す姉の言を受け入れず、楫子は妙子(鵜飼猛の妻、湯浅清子の母)と名付け、練馬農家に預けて独り下宿生活に戻る。そんな折届いた兄から手紙で、熊本に残してきた長子・治定がキリスト教徒になったのを知り愕然とする。熊本学校生徒35名による花岡キリスト教奉教同盟事件である。治定だけでなく甥の横井時雄、徳富蘇峰徳冨蘆花も参加している。やがて熊本学校廃校になり、彼らの一部は、新島襄同志社入学し、熊本バンドと呼ばれることとなるが、この熊本バンド札幌バンド横浜バンドと並び日本におけるキリスト教の三大源流と言われている。教え子の居宅で父親の酒害を目撃し、寂しさでタバコを覚えた楫子だったが、悩める楫子にとってもキリスト教はわが子の信じる宗教であり、遠い異国の宗教ではなくなった。

明治11年(1878年)、楫子は後半生に多大な影響を受ける米国宣教師教育者マリア・ツルー夫人運命的に出会う。明治7年(1874年)にB六番女学校として設立された築地居留地にある新栄女学校教師に請われ、住み慣れた下宿を引き払い、同女学校寄宿舎舎監室に移る。

自ら吸いかけのタバコによるぼや騒ぎを起こして禁煙を決意、翌12年(1879年築地新栄教会ディビッド・タムソンから洗礼を受ける。ほぼ同時期に、三人の姉である富久子、横井つせ子、竹崎順子洗礼を受けている。当時17歳キリスト教徒であった甥の徳富蘇峰は、純粋がゆえに楫子の洗礼に際して、「過去の過ち(1.幼いわが子を置いて家を出たこと 2.妻子ある人の子を産んだこと)」を告白すべきでないかとの手紙を送っている。しかし、楫子は幼い妙子のことを考え、死ぬまで「過去の過ち」を公表することはなかった。

明治14年(1881年)夏、櫻井女学校の校主(現在校長理事長を兼ねた職)代理就任。楫子は校則を作らず、「あなたがたは聖書を持っています。だから自分自分を治めなさい」と生徒たちを諭したという。

明治23年(1890年)、櫻井女学校新栄女学校合併して女子学院となり、初代院長に推される。

明治29年(1896年)、恩師のツルー夫人が55歳で客死。楫子64歳であった。

一方、恵まれなかった結婚生活小学校教師時代に抱いた心の疑問から、楫子は「一夫一婦制の建白」、「海外醜業婦取締に関する建白」を政府に提出、国会開設と共に二大請願運動として継続する。

楫子の情熱日本に止まら日本国外にも向かい明治39年(1906年)、74歳にして渡米、ルーズベルト大統領と会見。激務のため白内障を患う。大正9年(1920年)には欧米の旅に出掛け、翌10年(1921年)には満州に、同年から11年(1922年)にかけては三度渡米、このとき楫子89歳であった。教職大正3年(1914年)、女子学院院長を後裔に譲り、齢81で名誉院長として退いた。その後は禁酒運動公娼制度廃止運動等に尽力するも、大正もその幕切れを迎えんとする大正14年1925年6月半ば、楫子は眠るように大往生を遂げた。明治大正といういまだ婦人が一個の人間として尊重されることのなかった時代に、楫子は婦人福祉のためにその一生を捧げたのであった。

大正時代華族の娘が50歳の男に売られた話

anond:20220526160552

2021-09-05

シングルマザー推進で事実上一夫多妻的な構造社会全体がなれば?

anond:20210512094722

シングルマザー推進で事実上一夫多妻的な構造社会全体がなれば

この最大の問題は、あぶれオス(ベータオメガオス)が社会に対して非協力的になったり、あるいはユースバルジのように機能するようになってしまうこと。

また、人類発展の一因は、一夫一婦制によってあぶれオスを慰撫することによって、アルファオスに対する闘争を停止することができた結果、オスを生産的な活動に駆り立てることができたことなので、これがまず阻害されること。

ついでに、人間は数少ない「処刑」をする社会動物ですけど、この処刑対象が「独占するアルファオス」なんですよね。

しかも、オスはメスに比べて、相対的自分の命が軽く(軽くしなければ闘争に勝てなかった=遺伝的形質となった)、テロルによる秩序破壊アルファオスの討伐)に躊躇がないんです。

ここで、現代社会アンソニーブレイビクの事件のように、一人前の男が本気になれば、かなりのことをやらかすことができるので、かなりヤバい

から、もし「シングルマザー推進で事実上一夫多妻的な構造社会全体」をするとなると、あぶれオスを慰撫する機能、たとえば安価公娼制度途上国から配偶者輸入、アイドルポルノ供給強化といった策を講じるか、あるいは逆に、男性に対してテストステロンを減少させる強制的医学措置男児に対するバースコントロールテロルを防止するための厳しい監視社会といった、ディストピアSFみたいなことをせざるをえなくなると考えられますね。

2015-12-12

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福沢諭吉について5 | 雁屋哲の今日もまた

ご無沙汰しました | 雁屋哲の今日もまた

さようなら! 福沢諭吉 日本の「近代」と「戦後民主主義」の問い直し : 安川 寿之輔, 雁屋 哲, 杉田 聡 : 本 : Amazon

福沢諭吉が日本の近代化誤らせた? 8日に名古屋で集い:朝日新聞デジタル

【愛知】2015.12.8 不戦のつどい 「福沢諭吉の正体 アジア蔑視と侵略戦争で果たした役割 ~日本の近現代史を問い直そう~」講演・安川寿之輔氏、雁屋哲氏、杉田聡氏(動画)

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其業たる最も賤しむ可く最も悪(にく)む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞なりと云ふの外なし

窃(ひそか)に其無教育破廉恥を憐むこそ慈悲の道なれ。

「福沢諭吉の正体」-⑮

福沢諭吉の正体

朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す

最も恐るべきは貧にして智ある者なり

「“さようなら、福沢諭吉さん あなたに学ぶものはありません“ 」本誌編集委員・編集者・黒田 貴史 | コラム/深層

馬鹿と片輪に宗教、ちょうど良い取り合わせ

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福沢諭吉:独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は、必ず人を恐る、人を恐るる者は、必ず人にへつらうものなり。 | 芸能人や有名人の感動と共感する英語名言・格言集kyoucando

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2014-05-08

高年齢童貞病気認定するべき

誰も直視しないが、現代日本蔓延社会問題としてセックス満足度の低下という大問題が存在する。

例えば20を超えても自然恋愛の結果セックスに至らなかった男はなんらかの精神疾患にかかっていると言える。

かつて鬱は甘えと言われた時代があった。

性同一性障害は気のせいだと思われていた時代があった。

同じことである

思春期を終えてもセックスまで至れない男は、ある種の精神的な病気にかかっている。

その結果、さまざまな社会的な問題を引き起こすことになる。

彼らを童貞病と認定し適切な治療を受けられるように政治が後押しするべきである

具体的には戦後すぐまであった公娼制度を復活させ、医師の診断の元、童貞病に罹患していることが判明した場合

風俗通いに保険適用できるようにするべきである

これにより、童貞をこじらせたせいで発生する、大量の性犯罪が予防される他、

童貞、非童貞の間に存在する対立や、社会的齟齬が解消され、

生産性が高まり、失われつつある国際競争力回復さえ見込まれる。

さあ、高年齢童貞たちよ!

いまこそ声高に叫ぶ時である

私達は病人であると!

2013-12-23

人倫 の大義に背きたる人非人の振舞なりと云ふの外なし

「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取合せならん」

窃(ひそか)に其無教育破廉恥を憐むこそ慈悲の道なれ。

福澤は、男女同等論を唱えながら存娼論者でもあった。

妾を養うことも芸者を買うことも隠してせよ、と隠匿論を述べ、公娼制度積極的に肯定し、『品行論』(明治18年12月出版)のなかでは「社会の安寧」「社会の秩序」のために公娼制度はぜひ必要であると主張している。

しかし、その娼婦を称して「其業たる最も賤しむ可く最も悪(にく)む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞なりと云ふの外なし」と罵り、隠れて遊べといっている[10]。

[福沢諭吉] - 育児パパ 子育てWiki - 育児パパ

海外移植地に娼婦必要なるは右の事実に徴するも甚だ明白にして、婦人の出稼は人民移住と是非とも相伴ふべきものなれば、寧ろ公然許可するこそ得策なれ。」

Orionblog : 福沢諭吉 「賤業婦人輸出」の誤解

福沢諭吉と某K大が嫌いな理由。 - 虹 と 審 美 眼 ***

Amazon.co.jp: 福沢諭吉の教育論と女性論: 安川 寿之輔: 本

すべての人間は平等につくられている アメリカ独立宣言・全訳

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている__人は生まれながら貴賎上下差別ない。

けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある

その違いは何だろう?。

それは甚だ明らかだ。

賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ

人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るもの貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。

学問のすゝめ - Wikipedia

2013-04-30

従軍慰安婦存在したのか

朝日新聞の記事以外で明確な証拠はあるんだろうか。

朝鮮人の証言は適切か。北朝鮮はどう言っているのか。

あくまで日本側が提示した談話や謝罪から始まっているため自作自演である可能性も当然ある。

さて、民潭および朝鮮総連を介さない部分で従軍慰安婦は問題として存在したのか。

私は存在しなかったと考えています

慰安婦はあるいは存在たかもしれませんが、それは強制的にされたものなのかの事実確認は朝日新聞記者を介してのみしか判断されておらず客観性に乏しい。

また、維新中山成彬議員も指摘したように朝日新聞の記事には決定的な矛盾がある。詳しくは彼の答弁が出ているつべ等を参照。

慰安婦というのは欧米にも確かに存在しています

英国ドイツでは20世紀まで公娼という国が認可した国家公務員職業としての慰安婦存在していました。

日本、というより朝鮮では恐らくこれが採用されていたのではないでしょうか。

日本はとりわけ欧米式に拘っていたので公娼制度採用される可能性があったと思われます

そうなると、強制的な慰安婦というのは存在しなかったのではないでしょうか。

少なくとも私はそう考えています

 
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