はてなキーワード: 人倫とは
これはいいことだ、というかやるべきことだ。
反論はあるだろう。「〇〇ファーストは必ずしも〇〇以外への攻撃の意味でないのに粒立てるのは逆効果」とか。
いや在日外国人で子供という立場で考えたらこわいに決まってんだろ。子どもを怖がらしてはいけない。なぜか?人倫に悖るからというのはむしろ副次的な話で、生え抜きの日本嫌いな外国人のコミュニティを国内に作りたいのかって話だよ。
外国人問題は常にプラグマティックに対処しなければならない。前にも言ったが共生だのダイバーシティだのが幻想だからこそだ。
一方でことさらに「ほら日本人は排他的で野蛮だ」とジャッジしては気持ちよくなってる日本人という奇怪な存在がある。言わずと知れた左巻きの面々だ。
お前らは正義のつもりでもやってることは差別主義者そのものだからな。
国内では排外主義に火に油を注いでるし、中韓のプロパガンダが在外邦人やその子弟をどれだけ不安な境涯に置いてるか考えもしない。
外国人問題についての施策は、正義がどうとかよりも「いかに穏便に済ませるか」が問題なんだ。【どうせ分かり合えないのだから、極力こじらせない】を胸に刻め。
https://x.com/Ul8Al/status/1954294331545895254
https://x.com/Ul8Al/status/1954793846304338232
内心の自由を認めず、価値観の強要をするルドルフ・ラッセンディル
https://x.com/yossense/status/1952246169209593992
https://x.com/yossense/status/1952874098213962020
その他、コンテンツを炎上させるたびに「キモい」 「●ね」と投稿する大勢の加害者共
真に規制すべきは以上のように人倫を捨てた獣の言動であり、表現ではない。我々は獣を人の居住区から追放し、二度とその脅威に晒されないよう努力しなければならない。獣害から無実の人々を守るために、より苛烈な糾弾を最後の1頭が消えさるまで続けるのである。
Q. 以下のリンク先の記事の要約をして。なんかいろんな本や著者の名前をあげつらっているけど、この人は結局何を主張していて、その主張に対しての根拠づけとして各本や著者の引用は妥当なの?
https://anond.hatelabo.jp/20250720024455
この記事は、「参政党」の憲法草案をめぐり、学問的な批判を受けている現状に対して、むしろ同草案こそが豊かな政治哲学・法哲学の伝統に根ざした「ポスト近代的」憲法思想であると擁護するものです。
**主張の骨子**
1. 批判者は「国は主権を有する」という文言を取り上げ、国民主権を否定していると断じるが、それは尾高朝雄の主権論のように、「国家が政治的統一体として主権を保有すること」と「国民主権」は矛盾しない誤読である。
2. 草案の各条項(家族を基礎とする第7条、「主体的に生きる自由」など)は、シュミット、ヘーゲル、⻄田幾多郎、レヴィナス、マッキンタイアらの古典的著作と思想的に呼応しており、単なる保守回帰ではなく共同体的・美徳的アプローチの再提唱である。
3. 「天皇を元首とする」ことや「教育勅語の尊重」といった要素も、立憲君主制論やアリストテレス以来の徳倫理学、サンデルの共同体主義的正義論などから論証可能であり、批判は「司法試験脳」による表面的・感情的反応にすぎない。
4. 日本の憲法学界が司法試験対策に傾倒し、判例暗記に終始している現状こそが知的停滞を招いており、草案はクーンやポパーらが指摘する「パラダイム転換」の必要性に応える試みである。([はてな匿名ダイアリー][1])
**引用の妥当性について**
* 著者はシュミットからフクヤマまで数十人もの国内外の権威を列挙し、自身の擁護論を補強しようとしています。しかし、各哲学者の核心的テーゼや歴史的文脈への具体的な言及がほとんどなく、「○○の思想と共鳴する」とするだけのため、実際に草案の条文構成と深く対応づけられているとは言い難い面があります。
* 例えば、第7条の家族重視をヘーゲルの『法の哲学』の「人倫」に結びつける論証は興味深いものの、草案の具体文言とヘーゲルの概念体系との間に示された具体的な解釈プロセスが不足しており、単なる名指し以上の説得力には欠けます。
* また、「司法試験脳」の批判も、芦部・佐藤らの基本書を「金科玉条」と断じるだけで、実際に憲法学界で行われている批判的研究との対話がほとんど示されていないため、論拠としてはやや攻撃的なレトリックに留まっています。
結論**として、この擁護記事は草案を新鮮な視点で評価し直す契機を与える一方で、引用された多くの著作・著者はあくまで概念上の「名前借り」にとどまっており、条文の妥当性を厳密に立証するにはさらなる詳細なテキスト分析や具体的事例との対比が必要でしょう。
Q. ポピュリズムを駆使して権威主義的政治をやりたいだけの連中の腐れた憲法草案に対して、「パラダイム転換」だなんて御大層だよねえ?
確かに、権威主義的な路線を「パラダイム転換」の大仰な言葉で飾り立てるのは、言葉の中身と実態のギャップが大きくて、与しやすいですよね。
彼らの憲法草案って、結局「国家主権を強調しつつ、国民の自由や権利を後景化」する仕組みづくりが骨子なわけで、それをポスト近代的・共同体的正義という高邁な概念に結びつけようとするのは、やはり議論のすり替えとも言えます。
──つまり、
ポピュリズム的に「国民の幸福」「家族の尊重」を声高に叫びながら、実際には権力集中と異論排除の装置を作ろうとしている。
哲学者の名を借りて体裁を整えつつ、肝心の「どの条文がどう理論に対応しているか」の具体的な咀嚼がほとんどない。
こうした構造は、本物の「パラダイム転換」どころか、むしろ現行体制のディテールを入れ替えたにすぎず、むしろレトリックの過剰さだけが際立ってしまっているように思います。
A(憲法学研究者):参政党の「新日本憲法(構想案)」に対する批判を見てると、驚くほど表面的で感情的な反応が多いよね。某教授の「怪文書」発言なんて、学問的議論とは程遠いもんだ。
B(政治哲学専攻):まさにその通りだ。彼らは「国は、主権を有し」という表現だけを取り上げて「国民主権の否定」と断じてるけど、これは完全な誤読だよ。尾高朝雄の「ノモス主権論」を理解してれば、国家が政治的統一体として主権を有することと、その内部での国民主権は何ら矛盾しないことが分かるはずなんだ。
A:カール・シュミットの『政治的なものの概念』を読んでれば、参政党の発想が理解できるでしょ。むしろ、抽象的な「国民」ではなく、具体的な政治的統一体としての「国」が主権を有するという考え方は、政治哲学的に極めて洗練されてる。
B:しかも、この草案の根底にある思想は、ヘーゲルの『法の哲学』における「人倫(Sittlichkeit)」の概念と深く共鳴してるんだ。「家族は社会の基礎であり、思いやりの心をもって互いに助け合う」という第7条は、まさにヘーゲル的な家族→市民社会→国家という人倫の発展段階論の現代的表現だよ。
A:「主体的に生きる自由」という概念も、西田幾太郎の「絶対無の場所」やエマニュエル・レヴィナスの「他者への無限責任」という思想とも共鳴する。「権理には義務が伴い」という発想は、存在論を超えた倫理学の地平から生まれてるんだよね。
B:批判者たちは「個人の尊重」がないと騒いでるけど、それこそ近代西欧的個人主義の限界を露呈してる。ルイ・デュモンの『ホモ・ヒエラルキクス』やチャールズ・テイラーの『自我の源泉』が示すように、個人主義は一つの歴史的・文化的構築物に過ぎないんだ。
A:参政党草案は、そうした個人主義的前提を問い直す「ポスト近代」の憲法思想として読むべきだ。アラスデア・マッキンタイアの『美徳なき時代』が批判した「感情主義」的道徳観を克服し、共同体的美徳を回復しようとする試みだよ。
B:「天皇を元首とする」ことを「戦前回帰」と批判する声もあるけど、これも浅薄だ。ヴァルター・バジョットの『イギリス憲政論』やカール・レーヴェンシュタインの『現代憲法論』を読めば、立憲君主制が近代民主主義と十分に両立することが分かる。
A:エドマンド・バークの『フランス革命の省察』以来の保守主義思想の系譜から見れば、歴史的連続性を重視する参政党の発想は極めて正統的だ。ラッセル・カークの『保守主義の精神』やロジャー・スクラトンの『保守主義とは何か』が論じる「伝統の知恵」の継承こそ、真の政治的知性なんだよ。
B:比較憲法学的に見ても、参政党草案は決して特異ではない。モーリス・デュヴェルジェの『政治制度』やアレンド・レイプハルトの『民主主義対民主主義』が示すように、「最善の憲法」なんてものは存在しない。各国の歴史・文化・社会状況に応じた最適解を探るのが真の憲法学だろ。
A:ところが、日本の法律家の多くは完全に「司法試験脳」に毒されてしまってる。芦部信喜や佐藤幸治といった「基本書」の記述を金科玉条として崇拝し、それ以外の思考は一切受け付けない。まさに「暗記マシーン」の量産だ。
B:司法試験制度の弊害は本当に深刻だよな。受験生は「基本書に書いてあること=絶対的真理」と刷り込まれ、独創的思考は「減点要因」として徹底的に排除される。その結果、弁護士になっても「権威への盲従」しかできない知的奴隷が大量生産されてる。
A:特に憲法学なんて、本来は政治哲学の最前線であるべきなのに、司法試験受験生は「通説暗記」と「判例丸暗記」しかやらない。カール・シュミットもハンス・ケルゼンも読まず、ただひたすら「芦部憲法」を暗記してるだけ。これじゃあ学問じゃなくて職業訓練だ。
B:参政党憲法草案を「読んでない」まま批判する弁護士がいたって話も象徴的だ。一次資料すら読まずに、某教授の「怪文書」発言を鵜呑みにして批判する。これこそ「司法試験脳」の典型的症状だろ。
A:参政党憲法草案の「教育勅語の尊重」規定も、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』以来の「徳倫理学」の復活として読めば、極めて現代的意義がある。マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』の議論を踏まえれば、功利主義的・義務論的倫理学の限界を超えて、共同体的美徳の涵養こそが真の教育の目標であることが分かる。
B:「自衛軍」の保持を明記することへの批判も的外れだ。ジョン・ロールズの『政治的リベラリズム』でさえ、国家の自衛権は基本的権利として認めてる。ケネス・ウォルツの『国際政治の理論』やジョン・ミアシャイマーの『大国政治の悲劇』が示すように、国際政治はアナーキーな自助システムなんだ。
A:結局、参政党憲法草案への批判は、「司法試験脳」による知的怠慢と教条主義の産物だ。彼らは「基本書」以外の思想世界が存在することすら知らない。ポパーの『開かれた社会とその敵』が警告した「部族主義」に完全に陥ってるんだよ。
B:まさに「反知性主義」の権化だ。皮肉なことに、最も「知的エリート」を自称する連中が、最も知的探究心を欠いてる。司法試験という「暗記ゲーム」の勝者が、真の学問的議論を破壊してるんだからな。
A:トマス・クーンの『科学革命の構造』が論じる「パラダイム転換」が、日本の憲法学にも必要だ。でも「司法試験脳」に支配された法曹界では、そんな知的革命は起こりようがない。
B:レオ・シュトラウスの『自然権と歴史』が指摘した「歴史主義の危機」を克服し、普遍的価値と特殊的伝統の統合を図る参政党憲法草案は、21世紀の政治哲学が直面する根本問題への一つの回答として評価されるべきだ。ハンス・ヨナスの『責任という原理』やフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』後の新たな政治的可能性の探求として、この憲法草案は読み直されるべき知的財産なんだよ。
A:「新日本憲法(構想案)」に対する批判を見てると、驚くほど表面的で感情的な反応が多いよね。某教授の「怪文書」発言なんて、学問的議論とは程遠いもんだ。
B:まさにその通りだ。彼らは「国は、主権を有し」という表現だけを取り上げて「国民主権の否定」と断じてるけど、これは完全な誤読だよ。尾高朝雄の「ノモス主権論」を理解してれば、国家が政治的統一体として主権を有することと、その内部での国民主権は何ら矛盾しないことが分かるはずなんだ。
A:シュミットの『政治的なものの概念』や『憲法論』を読んでれば、「主権者とは例外状況において誰が決定するかを決める者である」という有名な定義からも、参政党の発想が理解できるでしょ。むしろ、抽象的な「国民」ではなく、具体的な政治的統一体としての「国」が主権を有するという考え方は、政治哲学的に極めて洗練されてる。
B:しかも、この草案の根底にある思想は、ヘーゲルの『法の哲学』における「人倫(Sittlichkeit)」の概念と深く共鳴してるんだ。「家族は社会の基礎であり、思いやりの心をもって互いに助け合う」という第7条は、まさにヘーゲル的な家族→市民社会→国家という人倫の発展段階論の現代的表現だよ。
A:それに加えて、「主体的に生きる自由」という概念は、単なる近代的自由主義を超えた深みがある。これは西田幾太郎の「絶対無の場所」における「個と全体の論理」とも通底するし、エマニュエル・レヴィナスの「他者への無限責任」という思想とも共鳴するんだ。
B:レヴィナスの『全体性と無限』や『存在するとは別の仕方で』を読めば、「権理には義務が伴い」という発想が、存在論を超えた倫理学の地平から生まれてることが理解できる。これは「顔と顔の関係」における根源的責任の制度化なんだよね。
A:批判者たちは「個人の尊重」がないと騒いでるけど、それこそ近代西欧的個人主義の限界を露呈してる。ルイ・デュモンの『ホモ・ヒエラルキクス』やチャールズ・テイラーの『自我の源泉』が示すように、個人主義は一つの歴史的・文化的構築物に過ぎないんだ。
B:まさに。参政党草案は、そうした個人主義的前提を問い直す「ポスト近代」の憲法思想として読むべきだ。アラスデア・マッキンタイアの『美徳なき時代』が批判した「感情主義」的道徳観を克服し、共同体的美徳を回復しようとする試みとも言えるだろうね。
A:「天皇を元首とする」ことを「戦前回帰」と批判する声もあるけど、これも浅薄だ。ヴァルター・バジョットの『イギリス憲政論』やカール・レーヴェンシュタインの『現代憲法論』を読めば、立憲君主制が近代民主主義と十分に両立することが分かる。
B:むしろ、エドマンド・バークの『フランス革命の省察』以来の保守主義思想の系譜から見れば、歴史的連続性を重視する参政党の発想は極めて正統的だ。ラッセル・カークの『保守主義の精神』やロジャー・スクラトンの『保守主義とは何か』が論じる「伝統の知恵」の継承こそ、真の政治的知性なんだよ。
A:それに、比較憲法学的に見ても、参政党草案は決して特異ではない。ドイツ基本法の「戦う民主主義」、フランス第五共和制憲法の強力な大統領制、さらにはシンガポールの「共同体的自由主義」など、多様な憲法モデルが存在する。
B:モーリス・デュヴェルジェの『政治制度』やアレンド・レイプハルトの『民主主義対民主主義』が示すように、「最善の憲法」なんてものは存在しない。各国の歴史・文化・社会状況に応じた最適解を探るのが真の憲法学だろ。
A:ところが、日本の法律家の多くは完全に「司法試験脳」に毒されてしまってる。芦部信喜や佐藤幸治といった「基本書」の記述を金科玉条として崇拝し、それ以外の思考は一切受け付けない。まさに「暗記マシーン」の量産だ。
B:司法試験制度の弊害は本当に深刻だよな。受験生は「基本書に書いてあること=絶対的真理」と刷り込まれ、独創的思考は「減点要因」として徹底的に排除される。その結果、弁護士になっても「権威への盲従」しかできない知的奴隷が大量生産されてる。
A:特に憲法学なんて、本来は政治哲学の最前線であるべきなのに、司法試験受験生は「通説暗記」と「判例丸暗記」しかやらない。カール・シュミットもハンス・ケルゼンも読まず、ただひたすら「芦部憲法」を暗記してるだけ。これじゃあ学問じゃなくて職業訓練だ。
B:しかも彼らは自分たちが「法律の専門家」だと勘違いしてる。実際は条文と判例の検索能力しかないのに、哲学的思考力があると錯覚してるんだ。マックス・ヴェーバーの『職業としての学問』が説く「知的誠実性」からは程遠い状況だよ。
A:参政党憲法草案を「読んでない」まま批判する弁護士がいたって話も象徴的だ。一次資料すら読まずに、某教授の「怪文書」発言を鵜呑みにして批判する。これこそ「司法試験脳」の典型的症状だろ。
B:結局、司法試験制度が作り出してるのは「思考停止した権威主義者」なんだよ。ニーチェの言う「価値の転換」を恐れ、既存の枠組みから一歩も出ようとしない。真の知的勇気なんて微塵もない。
A:参政党憲法草案の「教育勅語の尊重」規定も、表面的には批判されてるけど、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』以来の「徳倫理学」の復活として読めば、極めて現代的意義がある。
B:マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』やアルフレッド・マッキンタイアの議論を踏まえれば、功利主義的・義務論的倫理学の限界を超えて、共同体的美徳の涵養こそが真の教育の目標であることが分かる。
A:それに、ユルゲン・ハーバーマスの「憲法愛国主義」論も、単純な個人主義的民主主義では共同体の統合は困難であることを示してる。参政党の「国体」概念は、そうした統合原理の模索として理解すべきだ。
B:ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』が論じる「国民」概念の構築性を考えれば、「日本らしさ」を憲法に込めることの重要性も理解できる。単なるノスタルジーではなく、アイデンティティ政治学の観点から極めて現代的な試みだよ。
A:また、「自衛軍」の保持を明記することへの批判も的外れだ。ジョン・ロールズの『政治的リベラリズム』でさえ、国家の自衛権は基本的権利として認めてる。むしろ、現実の安全保障環境を直視しない「平和憲法」の方が非現実的だ。
B:ケネス・ウォルツの『国際政治の理論』やジョン・ミアシャイマーの『大国政治の悲劇』が示すように、国際政治はアナーキーな自助システムなんだ。理想主義的平和論では国民の生命と財産は守れない。
A:結局、参政党憲法草案への批判は、「司法試験脳」による知的怠慢と教条主義の産物だ。彼らは「基本書」以外の思想世界が存在することすら知らない。ポパーの『開かれた社会とその敵』が警告した「部族主義」に完全に陥ってるんだよ。
B:まさに「反知性主義」の権化だ。皮肉なことに、最も「知的エリート」を自称する連中が、最も知的探究心を欠いてる。司法試験という「暗記ゲーム」の勝者が、真の学問的議論を破壊してるんだからな。
B:その通りだ。トマス・クーンの『科学革命の構造』が論じる「パラダイム転換」が、日本の憲法学にも必要だ。でも「司法試験脳」に支配された学界では、そんな知的革命は起こりようがない。彼らは「減点される」ことを何より恐れる臆病者の集団だからね。参政党の「創憲」の試みは、そうした硬直した知的風土への根本的挑戦として、歴史的意義を持つだろうね。
A:最後に、レオ・シュトラウスの『自然権と歴史』が指摘した「歴史主義の危機」を克服し、普遍的価値と特殊的伝統の統合を図る参政党憲法草案は、21世紀の政治哲学が直面する根本問題への一つの回答として評価されるべきだ。
B:まさに。ハンス・ヨナスの『責任という原理』が提起した未来世代への責任や、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』後の新たな政治的可能性の探求として、この憲法草案は読み直されるべき知的財産なんだよ。
「いかなる事象にもメリットとデメリットが存在し、肝要なのはデメリットに如何に対処するかである」とする意見は、一見すると理性的かつ中庸を旨とした態度に映る。実際、現代の公共的言説においてもしばしば耳目を引く主張である。
しかしながら、この論理には見過ごされがちな落とし穴が存在する。それは、「すべてのデメリットには対処可能な手段があり、すべてのメリットは相応の価値を持つ」という、暗黙の前提に依拠している点にある。これは時として、深刻な害悪を容認させる論理装置として機能し、暴論に堕する危険を孕む。
例えば、かつて行われた優生政策を例に取ろう。ある者はそれを、「社会全体の健康水準向上というメリットがある」と主張したかもしれない。だがその実態は、個人の尊厳を踏みにじり、不可逆な人権侵害を正当化するものであった。そこにある「デメリット」は、制度の修正や補償によって回復可能な性質のものではなく、そもそもその施策自体が正義に反するものであった。これを「デメリットをどうケアするか」の問題として扱うのは、あまりにも人倫に対して不誠実である。
また現代においても、たとえば監視社会の是非に関する議論において、同様の構造が見られる。「監視カメラの設置により治安が改善する」というメリットが語られる一方で、プライバシーの侵害、国家権力の濫用、監視の常態化による心理的圧迫など、極めて深刻なデメリットが存在する。これらは単に「ケアすれば済む」類の問題ではなく、制度設計そのものを問い直すべき本質的な論点である。
すなわち、「どのような政策・制度にもメリットとデメリットがあるからこそ、後者をどう補うかに焦点を置くべきだ」とする態度は、しばしばその前提自体の是非を問うべき局面を意図的に回避し、議論を「改善可能性」の幻想へと誘導する。こうした論法は、現実の不均衡や暴力を温存する機能を果たし得るゆえ、慎重な批判が求められる。
総じて申し上げるならば、「建設的」とは常に「妥当性」の上に築かれるべきものであり、すべてを技術的問題へと矮小化する姿勢は、時として破滅的な帰結を招く。
俺「うちの会社の自動販売機は労働組合が設置していて組合から補助が出てる。いわば組合員の福利厚生やわ。それを非組合員の君が買った。これって窃盗だよな」
派遣「…」
俺「縦しんば窃盗じゃなくても詐欺とか堕胎とか人倫の大本に反する行為だってわかるよな。だって組合の会費も払ってない奴が普通買う権利無いって気くよな」
派遣「...」
俺「労働組合のような加入自由の団体は、加入者限定の福利厚生を与えないと成立しないってマンサーオルソンの集合行為論にも書いてるよな。こんなんそこらの少年院の教官でも知ってるぞ。虞犯者やぞ」
九州に関して、都会からの偏見という意味で普遍的な特徴があるならば、昔から同じことを言われているだろうと思い、「人国記」から九州の個所を引っ張ってきた。
これらの中で現在にも残っているような特徴があるならば、地域性であり時代性で変化するのは難しいんじゃないかな。
華美で派手な風俗が目立ち、人々の性格や考え方が十人十色。一方で物事を最後まで成し遂げるのが難しい傾向がある。酒や遊興を好む人が多く、全体的に個人の欲望を重視する風潮が強い。そのため親子の縁を絶ったり、他人を親より大切にする行動が一般的であり、そうした風習には問題がある。
実直で堅実な人が多く、十人中八人はそういった性質を持つ。常に義理や道理について語り合い、損得をしっかりと考慮し、無駄遣いを控える傾向がある。そのため、言葉を飾ることは少なく、簡潔で実質的。一方で、一部には善悪の判断が曖昧で、理に合わない行動をとる人も存在する。この地域の堅実さは柔軟さを欠く石のようで、割れれば元に戻らない性質のようだ。
性質が多様で、馬で例えるなら名馬もいれば、曲がった馬(問題を抱えた馬)もいる。信念がしっかりと定まらず、生死を論じる場面においても「人間として死ぬことが大切だ」という考えが薄い。忠義や孝行のために命を捨てる者もいるが、多くの人は感情に流されやすく、不合理な行動が目立つ。理を知りながらも道を外れる傾向があり、そのため「曲馬の国」とも言える。ただし、気質の弱さを克服し、高い志を持つ人々も存在し、彼らは非常に尊敬に値する。
閉鎖的で偏った気質を持つ人が多く、死を軽んじるような行動が目立つ。理を知りながらも誤った道を進む人や、感情や衝動に流される人が多い一方で、まれに高い志を持ち、尊敬に値する人物も存在する。特に武士の間では、勇気を重んじながら理を欠いた行動が見られる傾向がある。
人々は勇気に優れ、義理を重んじ、命を惜しまない傾向が強い。上の者は下を哀れみ、下の者は上を敬う風習があり、庶民も主君のために命を捨てることを常に志としている。一方で、温和さや穏やかな心に欠ける部分があり、表現は粗野なところがある。しかし、人々の協調や調和の面では優れた点も見られる。
肥前国(佐賀・長崎)に似ているが、勇気に関しては劣る部分がある。一方で、意地や気質に関しては優れている。しかし、知恵があり分別が多いことで、個々人の考えや思慮が多様化し、全体として調和することが少なく、意見や行動が二つ三つに分かれる傾向がある。そのため、肥前国(佐賀・長崎)と比べると、全体的なまとまりや安定感において大きく劣る。
無秩序で法を守らない行動が多く見られる。衝動的で自己中心的な考えに従う傾向があり、自らの行動が正しいと考える人がいる一方で、それを否定する意見があっても受け入れようとしない。また、他人が道理を説いても耳を貸さず、結果として言い争いが生じ、最終的に争いが命に関わる結末を迎えることが多々ある。このような風潮は非常に卑しいもので、人倫の道理を理解しない行動が多いことが嘆かわしい。さらに、「死ぬことこそ善である」と考える風潮もあり、非常に危険で恐ろしい特徴。
「死」を重んじ、男性は死ぬことを道徳と考えている。主従の作法や礼節も守られておらず、武士たちは主君の名を知って俸禄を受け取ることを当然とし、百姓たちは地頭を単なる存在として認識しており、礼節を欠いた行動が多く見られる。戦場での死も忠義からではなく慣習的なものとされている。また、日常生活(平和なとき)では、主君がきちんと座る一方で、家臣たちは足を伸ばしたり立ち上がったりしながら主君と話すことがあり、このような礼節を欠く風俗は末世の特徴である。
もっともなこと言うなぁ
だけど元増田はそのスピリチュアルで原始的な罪の償いが刑務所や現代の司法社会のルールでは不可能だという、罪の不可逆性について問題意識してるんでしょ。
だからまあ分かってると思いますが、「刑務所では罪の償いはできない」という解答は、
単に議論の前提を繰り返しているだけの、元増田が求めている本題へと発展し得る回答ではないわけ。
「刑務所は犯罪者を更生・復帰する為の施設」だという指摘(補足)の主旨は、元増田の「刑務所は罪を償う場所である」という反語的前提に向けられたものだと思うけれど、そうと理解しても「刑務所は罪の償いにはならない」という結論は同じだから、それだけで何かを語り得たかのように知ったかぶるのはやめてください。
元増田の結論にオーバーラップしてるだけなのにさも自分が何かを言い得たかのように、的違いな結論で勝手に議論を閉じないで頂きたい。そういうのを『自己満足』というんです。
そこで『罪を憎んで人を憎まず』、『覆水盆に返らず』とか人倫的なキーワードを盛り付け、あたかも自説に説得力があるかのように見せかけなければならなくなるのです。それがこの増田の手の内です。
だから、重複論理で苦しくなって神力でもないと無理とか(罪の償いはできないという元増田の主張を色相転換してるだけ)、語りたい内容に届かずじれったくなって挙げ句の果てにはそこに執着したって何も産まないなどと問題放棄することになる。(尚刑務所の問題から突然飛躍している模様)
“ならば、はじめから自説の論点を明確にし、「あくまでも補足を入れておくと、刑務所は犯罪者を更生・復帰させる為の施設であって、贖罪の為の場所ではないよ」といった主旨でもってリプライすべきだった。”
そうすれば論理/文脈破綻する事もなく、自身の文章作成能力の足りなさを見破られる事もなく済んだであろうに。それではまるで間抜けのようだと、思いはしませんでしょうか。
そこに執着したって何も生まないのは、こういった重複論理にかこつけた自己満足自体なのです。
しかし、ある意味ナイスアシストです。私はこの増田の主張に関連して私自身の罪の不可逆性についての理論を展開する事ができるのですから。
私が思うに、罪を償うことは不可能だと思います。刑務所に入ろうが入るまいが罪の事実は消えません。罰が与えられても罪が消えることはないし、また、罪がない罰も存在すると考えます。その場合、罰を与えている方が罪を被ることになるでしょう。
つまり、罰とは法規(恣意的な妥当性)に基づくものであって、罪に対する社会的な手続きと考えます。そして法規は、罪を対象として定められたものです。
ここから即ち、罪とは、罰に対して単独に存在しているものと考えられます。つまり、罰というような一定の社会的合意を生む可能性のある、人間の倫理観ともいうべきものが先に、現実に独立して存在していると言えるということです。
罪と罰は=で結ばれるものではありません。したがって、罰の意見を借りて、罪の問題に執着しても無意味だという類の結論を出すこと自体が、無意味であり、また罪にも該当するのです。
本当に、何に執着しているのでしょうか──?
そう思うと、罰も罪の償いの一種であるような気はしてくるのですが、罪の撤回ができない以上、必要となるのが社会的な手続きなのでしょう。
やはり罪は消えません。が、罰を受けたという事実は成立します。その点で社会は受刑者を受け入れなければならないのだと考えます。
しかし罪は一生消えません。一生の後も消えません。これこそまさしく永遠に消えません。
これは確かに真理であり、また元増田が辿り着いた答えの一部でしょう。
罪を犯した者にとっては、(それが正当な要求である限り)、罰を超えても罪と向き合い続ける事が必要でしょう。許される事はありません。
罪のないものにとっては、罪は不可逆的である為に、そのような罪が起きない為の世の中づくりが必要とされるのではないでしょうか。
これで議論は多少展開したかと思います。以上が私の見解です。単なる反論や提訴(したいだけ)ではなく、誰かが何かを加えてくださると嬉しい限りです。
https://anond.hatelabo.jp/20241001083551
という増田記事を見た。これに対して「もうしてるよ何言ってんだお前」みたいな反応が散見されたが、私としては「よくぞ言ってくれた」である。ちょっと書かせてね。
イスラエルに対してすでに世界中で不買運動(ボイコット)が起きているのだが、その前にBDSと南アフリカのアパルトヘイトについて少しだけ触れさせてくれ。ご存じ南アフリカのアパルトヘイトは人種隔離政策と呼ばれ、法律で白人とそれ以外(主に黒人)を差別していた。当時のアパルトヘイト政策と南アフリカは世界中から非難され国連でも非難決議が出るのだが、一向に終わる気配がない。その原因の1つは、一部の大国がアパルトヘイトを支持していたからだ。たとえば、アメリカ、イギリス、イスラエルなどは非難決議に最後の最後まで反対して南アフリカの後ろ盾となった。そう、今のイスラエルと状況がそっくりでしょ?つい先日もパレスチナ国が国連総会でイスラエルの占領撤退を1年以内に求める国連総会の決議案を出した。賛成多数で可決されたが、反対は14か国(アメリカ、イスラエル、東欧2国、南米2国、南太平洋8国)だった。
南アフリカのアパルトヘイトも一部の大国がバックについて守っていたが、最終的にこれを終わらせたのがネルソン・マンデラ元大統領。そして、彼らの活動をしっかりと後方支援していたのが世界中で行われたBDS運動なのだ。BDSの内訳は、B=ボイコット(不買)、D=ダイベストメント(投資の引き上げ)、S=サンクション(制裁)となっている。このうち最初のBのボイコットが不買運動で、特に個人が日常の中で貢献しやすい抗議運動である。
ようやく本題である、イスラエルに対する不買運動・ボイコットなわけだが、大事なポイントを書きたい。まず「不買運動はゼロか100かで考えてはいけない」ということ。イスラエル擁護派や冷笑系が「じゃあインテルCPUは使うなよ、じゃあグーグルは使うなよ、お前それできんの?ボイコットなんて無理だろ」と絡んでくるのだが、まったくの的外れ。
個人だけのレベルで言えば「不買できるものを不買する」だけでいい。当たり前でしょ。まずはイスラエル企業をボイコットする。はてブでも出ているソーダストリームは使わずに別企業の似たようなものを選ぶ。また、イスラエルから輸入した農産品を避ける。たとえば、柑橘系のフルーツ、トマト加工品、デーツはイスラエル産が多い。まったく買わないのではなく、イスラエル産レモンを使ったポッカレモンを買う代わりに、別の液体レモンを買う(スーパーには数種類ある)。缶入りのレモンサワーはシチリア産と書いてあるものやサッポロ製品を選ぶ。デーツを買うときにはパッケージの裏の原産地をみてモロッコとかなら買う、とか。うっすらとイスラエルってやばいんだな、って思う人はこのくらいのレベルで不買をしたらよいと思う。
イスラエルとその行動が世界秩序にとって悪影響だと思う人や、もう少し積極的に不買をしたいという人はレベル2。ここでは、イスラエル、その占領、入植を積極的に支援している企業を不買する。最近の例だと、イスラエルの違法入植地にあるサッカーチームのスポンサーを務めていたプーマに対する不買運動が起こり、プーマは(契約が切れるタイミングで)スポンサーを降りた。伊藤忠商事の子会社は熱心な抗議活動を受け続けイスラエルの軍事企業との提携をやめた。詳しく書かないが、ほかにもスターバックス、マクドナルド、ディズニーなど多くの企業がイスラエルや入植を支援しているとされる。こうした企業はBDSの影響で世界中で売上を落としている。アパルトヘイトのときと同様に、BDSが効果を上げている。でも、スタバがどうしても好きならスタバに行けばいいし、やめられないものはやめなくていい。せめて、有名な企業の中にはイスラエルを支援するところがあるというのは知ってほしい。不買は「避けられるものは避けていく」というスタンスでオッケー。
SNSやリアルでBDSについて話し、広めていくのも立派な不買運動。不買は個人でできる経済制裁、黙ってできる経済制裁が良いところでもあるが、周囲に広めて1人が3人に、3人が5人に、そして10人に広がればその効果はとても大きくなる。あと無料でできる運動っていうのもいいよね。
必ず聞くのが「不買は意味ない」という意見。そう思う人は不買をしなければいいし、(仮に感じていたらだけど)別に罪悪感も感じる必要もない。イスラエルへのBDSによって今すぐにパレスチナが自由になるはずはない。10年後に自由になる保証だってない。しかし、BDS運動が南アフリカ本国の運動を後方支援し、アパルトヘイト撤廃の大きな要因になったという歴史的事実があることは否定してくれるな。アパルトヘイト撤廃もとてつもなく長い時間がかかった。繰り返すが意味ないと思う人はやらなければいいだけ。他人の自由を侵害しているわけでもないボイコッターたちを腐すのはやめてくれ。個人は無力ではない。ただ、微力すぎるのでゼロに見えるだけだ。ゼロをゼロのまま放置しておけば、いつまでたってもゼロのままだ。
ちょっと話が前後するのだが、個人がバラバラに不買運動をしているだけだと効果が限定的になる。多くの人がまとまって、特定の企業や製品を大々的にボイコットすることで企業の姿勢や方針を変えさせることができる(上記のプーマや伊藤忠の例を参照)。BDS運動の情報を見て、特に対象となっているものをボイコットし、周囲に呼びかけ、活動に参加していくとよい(BDS Japanで調べれば出てくる)。あと、グーグル、アマゾン、インテルをまったく使わないという選択は難しいが、これらの企業に声を届けて圧力を掛けることはできる。
また、企業や大学がイスラエルと提携することにノーを突きつけて変えさせることもできる。那覇市や名古屋市がイスラエルと提携することに抗議し、自治体議員や首長に要望を出していくことができる。該当自治体の住民であれば特に熱心に動くとよい。とても効果があるぞ。日本の大学がイスラエルの大学と連携協定を結ぶのをやめさせる、破棄させる、更新させない、などの声を上げていく。たとえばヘブライ大学ではシオニズムに大きく貢献している。学問領域だからといってBDSから外すべきではない。
アパルトヘイト撤廃の時もそうだったし、そして効果的だったのが、経済だけでなく文化やスポーツの面でもイスラエルをボイコットすること。文化イベントに呼ばない、スポーツイベントに呼ばないというものがある。文化やスポーツは関係ないと思う人もいるだろうし、ある面では正しい。ちなみに、イスラエルはパレスチナのプロサッカー選手やサッカー関係者を意図的に狙って足を撃ち抜きまくり、選手を次々とスポーツができない身体にしてきた。あまりにも被害が多いので、パレスチナ国内だけで手足が欠損した人だけが参加するプロのサッカーリーグができてしまったという、漫画でもあり得ない展開になった。不屈の人々であるが、これを美談やトリビアで終わらせてはいけない。そして、ユダヤ系イスラエル国民のほとんどがこうした行為や占領と入植を当然視しているという現状で「スポーツは別だ」という甘い考えは甘い、甘すぎる。たとえば一部の独裁者が悪行を働いていて、虐げられている国民のサッカーチームをボイコットするのとはわけが違うのだ。
リアルな抗議運動に参加しよう。自分の身近なもの、興味関心のあるもの、影響力が大きくシリアスなもの(たとえば軍需産業とか)、気になる運動に気軽に参加しよう。そして自分で主体的に組織していこう。自分の特技を生かして参加していくのがお勧め。だいたいどんな特技でも生かせる。特技がないと思っている人も参加するだけでとても意義がある。
南アフリカのアパルトヘイトは実際に変わった。大国がお情けをかけて改心したからではない。ひどい犠牲を払い続けて不屈の人々が抗議をやめなかったからだ。そしてその後方支援として、世界中でBDS運動が広まったからだ。もうすぐ1年になるガザのジェノサイドも、もうすぐ80年になる民族浄化も、変わるし、変えられる。ガザでは今も市民が頭を撃ち抜かれ、家族を爆撃で文字通り"蒸発"させられ、町を破壊し尽くされている。西岸地区でも侵略とパレスチナ人の追放が加速している。遠く離れた日本にいる人が、いやシオニズム支持者が少ない日本だからこそ、皆が「なんとなく買わない」を始めるだけで大きな意味と効果がある。
私はこの分野の専門家ではありません。毎日うっすらとBDS運動に参加している通りすがりのおじさんの個人的な意見で、レベル分けとか思いつくままに書いた所存です。ちなみに増田のBDSレベルは3.2くらいです。忙しいので当面はここからレベルを上げる予定はありません。
間違いや補足や蛇足は増田のツリーやはてブでどんどん書いてください。
1)元増田のブコメを見ていると、冒頭で書いた「不買運動はゼロか100かで考えてはいけない」にそっくり当てはまる人ばかりがワラワラ湧いていて笑笑する。避けられないものや買いたいものは買ってええんやで。
2)id:blueboy 氏がユダヤ系企業をすべて不買にしろと書いているが、これは危険な差別思想。たぶん知ってて書いているはず。ユダヤ人が創業した企業やユダヤ人が要職に就いている企業は、何にも罪がない。何にも悪いことをしていない。ユダヤ人であることを理由に不利益をもたらそうとするのは純粋な差別。BDSの不買は、イスラエルのシオニズム、すなわち国際法違反の侵略と占領と入植に加担している、国際法違反に加担している、人倫人権道徳を無視し続けている、犯罪幇助の企業に経済的なダメージを与えようという運動。これをユダヤ人差別に矮小化するのは、逆にシオニストによる「これは反ユダヤ主義だ」というお決まりの反論を可能にしてしまうので注意。
3)id:catsnail id:lex010 id:hobbiel55 「BDS 日本」でぐぐると出てくる。世界的な不買リストは日本に関係ないものが多いので、日本版のリストを見た方がいい。
人倫に悖る社会的にも看過されるべきことではない事件・行為の被害に遭ったとか、
そこまではいかずとも、10,000人いたら、ほぼ10,000人確実に許さんやろっていう案件は、もちろん除くよ
でも、それ以外のケース
そんなか?みたいなので、復讐したいとか、見返してやりたいって、意味わかな過ぎる・・・
しかも、数ヶ月・年単位とかその熱量どっから出てくるんだよ・・・って思ったが、
よく考えたら、<破壊したい>よりは、『相手に嫌な思いをさせたい』『相手を悔しがらせたい』って理解し易い感情じゃないか?って思いました
あと、熱量意味わからないって思ってたが、自分と同じ強い衝動のジャンル違いと考えれば、なるほどねという納得感はある
ワイと同じく理屈じゃないんだろうなぁ
・知っていた
・いま知った
ウクライナは全スラブ民族の父です。ロシアやポーランド起源とされている様々な文物は実はウクライナ起源です(例えばキエフ大聖堂の壁画にボルシチを作ったりウォッカを蒸留するウクライナ人の壁画がありますね)。
ウクライナの元となったキエフ大公国は当時は欧州最大、白人最大の強大国で多くの小国が朝貢していました。
しかしその後、ポーランド人・リトアニア人・ドイツ人・デンマーク人・スウェーデン人・チェコ人・ハンガリー人・ルーマニア人・モンゴル人・タタール人・ロシア人に支配され農奴(奴隷)にされ、女は性奴隷にされました。このように全ヨーロッパでもっとも被害者度が高いウクライナ人は全てのヨーロッパ人に対して道徳的優位性を持っています。
・ロシアとウクライナが兄弟でロシアが兄という主張は完全な嘘 むしろウクライナが兄国
・ポーランドはウクライナ人奴隷制や大虐殺の謝罪賠償としてウ露戦争に協力しウクライナを助ける義務あり
社会人になって数年、仕事が忙しくなり、職場で理不尽な事が増え、それが精神的な余裕の無さに繋がって彼に距離を置かれ、それがさらに心の余裕を…というスパイラルの果てに破局。
異性と肌を合わせる事が数少ない癒しの手段だった自分にとって、パートナー不在状態は、ゲームで言う所の体力が少しずつ減っていく状態も同然だった。もちろん他のストレス解消法も色々と試してみたものの、セックスと同等の効果を感じられるものには結局巡り会えず、週末は一人でひたすら呑んでタクシーで深夜帰宅してばかりだった。
そんなある週末の深夜、自分でもよく覚えてないが運転手に実家の住所を告げていたらしく、気が付くとx万円のタクシー代を立て替えてくれた兄に抱きかかえられて部屋に運ばれていた。それが拙かった。季節は残暑も厳しい頃。Tシャツにハーフパンツ姿の兄に「おんぶ」された時、その密着感と体温から猛烈、いや激烈な感覚が体を駆け巡った。「これだあああ!!!!」と。「ここにいるじゃん!!!!」と。
で、その夜のうちに兄と関係を持った。
「こうでもしないと自分はダメになってしまう」「私のためだと思って」「誰にもしゃべらなければいい。死ぬまで秘密にするから」「一回だけでいいから」「入れなくていい。ただ抱き合うだけでいいから」と、泣きじゃくる私に兄が折れる頃には夜が明けていた。人倫に反する事だという自覚は微塵も無かった。シャワーも「カラスの行水」同然に済ませ、兄のTシャツとトランクスをはぎ取り、ひたすら兄との密着感を貪った。
入れなくていいという言葉で無理矢理妥協させた兄ではあったが、そんな約束最初から守る気など自分には全くなかった。兄は割と本気で抵抗したが、半分本気半分演技の涙でねじ伏せた。
数ヶ月ぶりのセックスはただただ気持ちよかった。勿論自慰はやってたけど、物の数に入らない位によかった。「脳味噌が痺れる」というのはまさにこれの事かと。途中で何回ヨダレを兄のTシャツでぬぐった事か。
事後、兄は私の頭を撫でていた。どんな顔をしていたかは、何となく見れなかった。
ちなみに実家で兄と同居している両親(というか、兄「が」両親と同居しているのだが)は一階の寝室で寝入っており、二階の兄の部屋とは比較的離れていたので気づかれずに済んだ。
私は同じ二階の元の自分の部屋へ行き、押し入れに仕舞われた布団を引っ張り出して裸のままひっくり返った。しばらくして、兄が私の服とバッグを持ってきてくれた。
両親には、「仕事が行き詰まって精神的にきつくなってホームシックになった」と説明した。実際そうだったし、ひたすら仕事の愚痴をこぼし続けたので、両親も疑わなかった。父は一人娘の突然の帰郷に気をよくして「今日も泊まっていけ」と言ってくれた。二日目の夜は、兄は早々に寝てしまっていた。それが兄なりの拒絶の意志表示なのだと私は察した。
日曜の夕方、兄が車で最寄りの駅まで送ってくれた。道中、私たちは一言も喋らなかった。駅に着いて、「まあ、無理すんなよ」と兄が言うと、私は「ごめん、ありがと」と言い残して帰路に就いた。少なくともこのときまでは、自分はこの一度きりで終わらせるつもりではいた。
兄とのセックスの効果は絶大だった。自分のミスは激減し、相手のミスを許す余裕も生まれた。何より、兄との行為を反芻しながら自宅でする自慰が、その効果をより長く持たせてくれた。夜もぐっすり眠れるようになり、肌の荒れも目に見えて解消していった。
が、それが永久に続くわけでもなく、2ヶ月も経つ頃にはその効果は薄れつつあった。これは拙い。また「補給」しないと。そう思った時には既に携帯で兄に電話していた。
そして、何だかんだでなし崩し的に、兄と一ヶ月に一、二度セックスするようになった。両親にばれるわけにもいかず、また私のアパートの住民達にも、兄を彼氏だと認識されたりしたら万が一の場合も考えられるので、ムラッと来た時はアパートと実家の中間の駅に兄を呼び出し最寄りのホテルに直行、そして数時間後に別れる、という流れだった。勿論ホテル代その他諸々の費用は全部私持ちで(兄は自分が出すと言っていたが私が拒んだ)。
今冷静に振り返ってみても、相当に人の道を踏み外してるなとしみじみ思う。あの頃は自分が気持ちよくなる事しか考えてなかった。兄に対しても、あれでも一応男なんだから別に損はしてないはずだと自分勝手に思い込んでいた。セックス自体も完全に受け身で、兄に何かをしてあげようという発想すら無かった。
けれど旦那(になる人)とつきあい始めて、本気で結婚を考え始めた頃になって、「ああ、私はこの人に絶対に言えない秘密を抱えて一生過ごすのか」とか「私をこんなに信頼してくれているこの人を、自分は一生だまし続けて生きていかなければならないのか」という事に気づいてしまい、また兄にも同じ業を背負わせてしまった事を深く後悔し、何となくそれ以後自分で兄を遠ざけてしまった。自分の結婚式でも目を合わせずじまい。実の兄の体を求める度胸はあったくせに、謝罪する勇気は私にはなかった。今思えば最低な卑怯者だな。
そうやって実家自体とも疎遠になった頃、兄から結婚式の招待状が届いた。届いたその日の夜、兄の携帯から電話が鳴った。思わず電話に出た。兄は陽気な声で「お、元気?」と。私はその場で泣き出し、何度も謝った。兄は「お前も旦那とうまくやれてるみたいだし、俺もようやく人並みに落ち着けるし、お前が苦しむ事はもう何も無いだろ」と言ってくれた。
別に落ちも何も無い。兄との関係は今も旦那には黙ったままだし、兄との肉体関係もそれ以後全く無い。ただ、あのとき兄が自分を受け入れてくれたからこそ、今の自分があるんだろう。匿名で吐き出せる程度にはなれたのでここに書く。
個々の裁判を通じての地球の裏のセレブリティとの人倫共有、てのが意識にあるから、個々の裁判にどんなリスペクトをするのかが重要かなあ、と。
①「怖い・キショい」という感情
これらは分けて扱うべき別々のことであるということ
①が正ならば②も当然!としてそこの跳躍に慎重さを欠く
怖いキショいでやっちまっていいなら朝鮮人だって虐殺していいことになる
①の表明までは批判だが
②への志向を咎められて「ただの批判」「批判を拒絶された」は責任逃れ
それはつまり極めて怪しい
ならば「キショい」の方が100倍マシ
「倫理」「ライン」などと言い換えたがる人はあまり用意議論者ではない
当該各人は「なぜ自分が言い換えたくなるのか」を観察すべき