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はてなキーワード: 史料批判とは

2025-10-05

AIのいいところは、

「バシレイオス2世“ブルガロクトノス”あたりの東ローマ皇帝時代を深く知るための書籍を教えて下さい。」

という質問にサクッと答えてくれるところだと思う。

従来の検索エンジンでは、「サクッと」知ることが出来る場合もあるが、そうでない場合も多かった。

ちなみに上記質問に対する答えは以下の通り。

バシレイオス2世(“ブルガロクトノス”)期の東ローマ帝国を深く学ぶための書籍

バシレイオス2世期は、マケドニア朝の全盛期にあたり、軍事行政文化の各面で東ローマ帝国が最高潮に達した時代です。

以下の書籍は、概要から専門的研究まで網羅的にカバーしており、学術的知見を深めるのに最適です。

1. 総合的な帝国

ジョルジュ・オストロゴルスキービザンツ帝国史』(新版筑摩書房

東ローマ帝国研究古典的名著。

マケドニア朝期を概観しつつ、バシレイオス2世事績政治社会文化文脈で捉える。

学部から大学院生までの必読書

ジョン・ジュリアスノリッジビザンツ帝国衰亡史』(上下巻・新潮社訳)

読み物としても優れ、バシレイオス2世の功績や後継皇帝との比較が平易に記述されている。

詳細な年代記記述とともに、帝国全体の流れを把握できる。

ウォーレントレッドゴールド東ローマ帝国マケドニア朝から十字軍まで』(創元社

軍事史を重視する著者が、バシレイオス2世の対ブルガリア戦争軍制改革について詳細に分析

数多くの地図系図を収録し、ビジュアルにも優れる。

2. 専門的研究・モノグラフ

ジョン・フレイザーハルドン中世東ローマ帝国文化国家の変容』(勁草書房訳)

10世紀前後社会構造官僚制経済システム批判的に検討。バシレイオス2世期の行政改革財政政策が、いか帝国強化に寄与たか学術論文レベル理解できる。

マーク・ホイッタウ『ビザンツ帝国史入門』(臨川書店

平易な導入書ながら、バシレイオス2世役割文化的・宗教的視点から考察

地下聖堂建築修道院運営との関連も扱い、制度史だけでない広がりを示す。

アントニー・カルデリス『ビザンツ帝国東ローマ再考』(明石書店訳)

最新の資料批判考古学成果を踏まえた再評価書。

バシレイオス2世に関する一次資料の読み替えや、新出の碑文・文書を紹介しており、先端研究動向を掴める。

3. 軍事対外関係に特化した研究

ロバート・オーフィランディス編『東ローマ軍制史』(戎光祥出版訳)

マケドニア朝軍隊組織補給・動員システムを体系的に解説

バシレイオス2世ブルガリア遠征戦術的展開や兵站を詳細に記述。図版多数。

ペンサ・K. ケネディビザンツ北方外交史』(藤原書店訳)

北方異民族ブルガリアルーシなど)との外交戦争史を分析

バシレイオス2世による“ブルガロクトノス(ブルガリア殺し)”の背景と結果を外交政策の観点理解できる。

4. 一次資料資料

オフネス年代記日本語訳笠間書院

10世紀末までの東ローマ史を記した重要年代記

バシレイオス2世期の出来事原典に近い形で追える。

注釈版が充実しており、原典研究入口として最適。

スキュリタス東ローマ帝国史』(講談社学術文庫訳)

11世紀初頭に編まれ編年史

バシレイオス2世期の記述豊富で、歴史叙述の特徴や史料批判視点を学べる。

選書ポイント

1. 総合史で全体像を把握

オストロゴルスキーノリッジ時代背景を押さえる。

2. モノグラフで専門知識を深化

ハルドン、カルデリスなど最新研究を通じ、行政文化的変容を理解

3.軍事外交史で“ブルガロクトノス”を解明

専門書・論文集で遠征の詳細とその意義を知る。

4. 一次資料史料批判力を養う

年代記』や編年史原典に当たり、学術的厳密さを身につける。

これらを併読することで、バシレイオス2世期の帝国像を多角的理解できます

ぜひ学習目的や興味に応じて組み合わせ、東ローマ研究の深掘りに役立ててください。

2025-08-07

「ホンモノ化」する與那覇潤

注意 リンクをたくさん貼っているが、スパム対策をしています。ご了承ください。

これは以前から何度か書いている與那覇潤について、もうそ観点見方陰謀論とまではいかなくとも、かなり接近しつつある段階に突入していることを「実証」する試みである

この検討によってもはや與那覇の現状がいかヤバいことになっているかが分かるだろう。

正直、少し調べてみただけだが(そもそも今の與那覇にそこまで時間を費やす価値はない)、ここまでとんでもないことになっているとは予想だにしなかった。まさに與那覇は「ホンモノ化」しているといえるだろう。

なお、「ホンモノ」とは與那覇による自称である。主流派専門家を「ニセモノ」と断じて自分こそが社会を正確に批評できる「ホンモノ」であると対比させている。そもそも、50手前のいい年した大人がこんなイタい表現使うこと自体どうなのかと思うが、まあ本人が気に入っているようなので與那覇は「ホンモノ化」していると批判しても一向にかまわないだろう。ここでは與那覇のいう「ホンモノ」の思考や言説が一体どういうものなのか明らかにしたいと思う。

突然だが歴史学には「史料批判」という言葉があるらしい。AIに要約させてみた。

史料批判」とは…史料批判とは、歴史研究において、史料信頼性評価し、歴史的事実を解明するための批判的な手法のことです。史料の真偽、作者、作成年代、内容の信憑性などを検討し、史料が示す情報がどの程度信頼できるかを判断します。

まあ要するにソース史料)にはしっかりとその正否を問える力を付けようということである。與那覇研究者たちとの争いの中で自分批判する研究者たちを「史料批判できない」と言って批判している。

ttps://note.com/yonahajun/n/n9e5c69865c86

ここではこの争いの是非については立ち入らない。気になるなら各自で調べてもらえればと思う。

さて、與那覇コロナに対するマスクワクチンへの批判を痛烈に熱心に行ってきた。最近はとうとう「店員マスクを外せ」と言い出している。

これは結局マスク強要することを批判していたことの裏返しに過ぎない典型的逆張りのしょうもない話であるしか理由が「外国人がせっかく来ているのに」とか自分が気に食わない、とかいうどうでもいい理由である。いや、流石にそんなことは言わないだろうと思った人はこの記事を見てほしい。

ttps://note.com/yonahajun/n/n28ac220c53ff

この記事問題点は「マスク信仰」が江戸時代以来の日本の図式だ!みたいな杜撰まりないぎろんをしているところ。そしてそれを「ホンモノ」たる成果として誇っていること。下記の『潮』に掲載した一文なんてすさまじいことこの上ない。嘘だろと思うだろうけれど、「ホンモノ」は本気で言ってるらしい。アンケートでも取ったというのだろうか。

「この2025年にも、食事を運ぶ人たちがみなマスク姿。せっかくの美しい和装台無しで、インバウンドで訪れた外国人がっかりするだろう。なにより、本人たちが楽しく働けないに違いない」

 →むろん、こうした記述に全く根拠がないのは言うまでもない。

問題はここからである。與那覇はここまで自信満々にコロナについて発言するのだから、当然それなりの根拠があるはずである。そんな與那覇コロナ観が分かるのが、2023年newsweek掲載されたこちらの記事である

驚くべきは與那覇が「マスク無用コロナは大したことない」と主張するソースである

ttps://www.newsweekjapan.jp/yonaha/2023/04/post-5.php

森田洋之と宮川絢子である森田は非常に有名な反ワクチン論者で、人によっては「陰謀論者」と評するような人物である

https://note.com/inbouron666/n/na670d641ce30

宮川コロナで苦汁をなめたことで有名なスウェーデン在住で、その姿勢はかなり批判されてきた。

ttps://note.com/nyanpy7x/n/nae5e69ef7519#45a31942-36fe-478b-99f0-7f23e330a050

宮川が絶賛するスウェーデンコロナ対策2020年時点で国王から「失敗」の「太鼓判」が押されている。

ttps://www3.nhk.or.jp/news/html/20201218/k10012770601000.html

スウェーデンコロナ対策については下記も参照。

ttps://toyokeizai.net/articles/-/363225

ttps://x.com/Calcijp/status/1885227563603419627

ttps://x.com/Otola_ryntaro/status/1910237498996916547

宮川スウェーデンの当時の悲惨さを無視してスウェーデンコロナ対策を礼賛する発信を続けている。

ttps://news.ntv.co.jp/category/society/d0692a604c2e42b28878125de0701b42

ttps://forbesjapan.com/articles/detail/65891

まさにリアル歴史修正」である。そんな人の記事引用することに、なんの疑問も「史料批判精神も働かなかったのだろうか。

正直、コロナのことはいまだに分からない点も多い。少なくとも與那覇根拠に挙げた二人の論者を論拠に挙げてマスク不要、と結論付けるのはかなり乱暴である。最低限でもこれらの議論に対する批判や別の考え方も示したうえでどちらが妥当かを判断するような見解にでもしない限り、到底多くの人を納得させることはできない。與那覇のかねてからコロナに対する持論の根拠がかなり薄弱であることをここでは指摘しておきたい。

無論、このような與那覇杜撰記事は痛烈な批判さらされた。

ttps://x.com/Newsweek_JAPAN/status/1651882699106267136

3年前のこちらの記事ツイート。118引用ツイートがついているが、與那覇見解根本から批判するものが多い。

以下、いくつか引用したい。

ttps://x.com/mama_melaleuca/status/1652160087778291712

マスク感染予防に有効だとする「医学的な根拠はない」

マスクウイルス捕集できる科学的な根拠

マスク捕集機構についての科学的な説明

ならそこら中にあります

ttps://x.com/tkay109/status/1652219662393040896

そもそも、医科学素人が「マスクには医学根拠はない」などと断言することが不遜です。さらに、彼がその論拠として引用している医師二人がまた、非科学的なのです。二重にトンデモ記事を書いた與那覇潤氏は、歴史学非科学である可能性を示してしまいましたから、歴史学から叱られるはずです。

 →不遜なんて言うと與那覇は「センモンカなんかあてになるか!」言い出しそうだが、その根拠がまた「非科学的」という・・・

ttps://x.com/yoshimy_s/status/1652134906879942661

マスクによる防御能は物理学的な作用によるものであり、数学的に解明することが必要で、いわゆる一般的に言う「医学的な」範疇ではありません。

また数学的に得られる結論は、確率論に基づく理論値ですから根拠が「ある/ない」の二者択一で論じるのも不適切です。

以上、引用終わり

今日でもコロナは拡大しており危機感を持った医療関係者による発信が続いている。

後述するように、與那覇は「対談」を自己ステータス証明に使っているので、ぜひこういった人たちと議論してほしいのだが、いかがだろうか。

なお、当然のことながら與那覇がこれらの批判反論した形跡は全くない。まさに與那覇批判するような「言いっぱなし」を自ら実践している。

森田にいたっては、参政党ともつながっていることが分かっている。その森田は與那覇記事を礼賛している。

ttps://sankago.hp.peraichi.com/2025/

鹿児島政治資金パーティー広告

ttps://note.com/hiroyukimorita/n/n783b8188b14d

森田による與那覇礼賛の記事

こうしてみると、以前の記事で與那覇参政党の躍進を「支持はしないが、参政党の躍進を喜びたい」と述べたことも、別の意味を帯びてくる。そもそも支持はしないが喜びたいという言葉自体、一昔前の「ご飯論法」にも通じる詭弁である。與那覇参政党にシンパシーを感じていて、表立って支持するなんて言ったらたたかれるので、予防線を張っているとも考えられる。與那覇の文面から参政党への強い批判危機感を見出すことはできないし、反ワクチンなどでは参政党と近い立場であることは明らかである。なお、與那覇参政党の躍進を喜ぶのは「ホンモノ」の予言が当たるかどうか確かめたい、という意図によるらしい。だが、こうした與那覇の文面をそのまま馬鹿正直に受け取ることもできない。以下に見るように與那覇依拠する言説の中には参政党と通じる人脈が複数まれている。與那覇参政党の反ワクチン姿勢に対して特に言明しないのも、なんだか不気味に思えてくる。無言の肯定ということにならないだろうか。

そもそも民族差別など数々の問題点を指摘されている参政党の躍進を「喜びたい」などと表現するのは、常軌を逸していると言わざるを得ない。もはや與那覇陰謀論に通じているか、そうでなくともそうした価値観を容認していると批判されても言い訳できないだろう。

もし、そんなことない、「ホンモノ」たる俺が陰謀論なんて信じているわけないと言いたいなら、森田宮川議論引用するときに最低限の注記をはさむべきだった。そうした行為を一切していないのは、與那覇にはすでに陰謀論者とも言われる人物議論引用することにためらいが無くなっていることを意味する。

専門家批判は決して悪いわけではない。だが、それに代わって批判するのが根拠が薄く、数多く批判されている論者の言説であるというのはもはや喜劇しかない。専門家ダメからといって、自分に合う言説を無批判的に引用するのは真摯立場ともいえないだろう。

そうした問題の多い言説を世に出すことに何の疑問も抱かない。そして、批判を受けても一切無視できる。そのクセ他人には「失敗を認めて反省しろ」と口汚く罵る。これが「ホンモノ化」の現実である

繰り返すが、おそらく與那覇は「陰謀論になんてはまってない!」と言い張るだろう。だが、改めて森田の言説やそれに対する指摘を見てほしい。普通ならそのまま引用するのに躊躇うくらいの批判が相次いでいる。それらを論拠として挙げることに何の抵抗もなくなった時点で、すでに與那覇は「陰謀論」のナラティブに絡めとられつつあると言っても、大きくは外れていないだろう。えてして陰謀論にはまった人には陰謀論にはまってるといっても聞かないものだ。

さて、ここまで見てもらえたならもうお分かりだろう。與那覇には「史料批判」の視点が全くないのである。自説に都合のいい議論を紹介してあたかもそれが結論であり、最新の議論であるかのように偽っている。

そういえば、『中国化する日本』でもそんな手口を使っていたような・・・

https://yu-koba.hatenablog.com/entry/20111212/1323691605

https://kscykscy.exblog.jp/18241381/

なんどもいうがkscykscyこと鄭栄桓の記事は與那覇議論問題点や手口がよくわかる内容となっている。與那覇を論じるならまず必読の内容である。與那覇が今なおこのブログに一切言及しないことも含めて、示唆的であろう。

では、これからどうしたらいいか。與那覇最近でも著名な有識者と対談をしている。與那覇は対談することで自分が一流の批評であるというアイデンティティを確保しているようである(先の歴史研究者への反論でも自分専門家対話していることをまともな証拠に挙げていた)。

ttps://note.com/yonahajun/n/n411c48f6f523

ちなみにこの記事で挙げられている宮沢孝幸は参政党と通じている。

https://x.com/tokyo_jyoto/status/1885649076517249067

ここまで参政党と通じている点をいうと與那覇のことだから「学級会みたいに誰かとつながっているからなんて理由批判するのは幼稚だ!」などと言い出しそうだが、参政党躍進を喜んだ以上、その人脈とのつながりは指摘されて当然であるそもそも聞かれてもないのに参政党躍進にはしゃいだのは與那覇なのだから自分のうかつさを反省すべきである

念のため補足しておくが、與那覇参政関係者と対談したり、その価値観や政策肯定したことも、支持を明言したことも一度もない。

ただし、その主張の背後には「参政党的」なものが見え隠れしている。すでに與那覇参政党に自身の思惑はどうあれ接近しつつある。いずれ参政党の支持を明言するのも時間問題ではないだろうか。これは外れて欲しい予言であるが。

ttps://note.com/yonahajun/n/nb2bd757600df

自分地位を誇るために「こんなすげー専門家と対談しているんだぞ!」という論法は「俺スゲー人と握手したんだぜ!」みたいな「幼稚」な自己顕示欲の発露に見えなくもない。

対談もいいが、大事なのはそこで何を話したかだろう。単に権威をひけらかして自分立場正当性を主張しているように見える。『中国化する日本』で批判された手口と同じである

余談だが、戦前にもそんな人の権威に寄りかかって自らの権威正当性を訴えた人物がいたようである

ttps://x.com/NAKAHARA_Kanae/status/1890289544702066920

中身のない人ほど誰と会ったかや誰と話したかの「実績」にこだわるのは戦前から変わらないらしい。こういう発見もあるから歴史ってのも案外面白い

実は対話をしたり表向きのメディアでは與那覇は非常に行儀がいい。普段noteネット記事でやるような苛烈批判は鳴りを潜め、つつましく対談しているのである。使い分けがとても上手で、ここはさすがという他ない。その意味で與那覇の振る舞いはとても洗練されている。これは皮肉抜きである

ただ、ここまで来たように、與那覇には陰謀論者と批判されるような根拠の弱い議論を平気で受け入れて、他人罵倒して自分は「ホンモノ」だと居直り自身に対する批判には耳を貸さない身勝手な側面があることは間違いない。

から、今やるべきはもうこうした人物をしっかりとした「批評家」と見なすことをやめることである。與那覇議論は常に身勝手さに裏打ちされた恣意的印象操作批判に対する無視が付きまとっている。そうした問題点がある限り、與那覇議論をまともに受け止めることは難しいし、それこそ「史料批判」の観点から批判的にとらえる必要がある。

仮にこの記事を與那覇が目にしたなら、鄭の批判にさかのぼって、まずは自分の間違いや問題点をしっかりと洗い出して、自分議論や言説に間違いがないか反省する作業をしてほしいと思う。そうしないと、マジで本当にもう誰にも相手にされなくなる。少なくとも、後世では無視されるか「こんな「ホンモノ」がいたのか!」と笑いものにされる可能性が高い。笑いものにされるならまだマシで今のままだと無視される方が確率的に高そうである

そうした言説に対する真摯見直し反省ができないなら、やはり本稿の批判はかなり当たっているということになる。

この記事が與那覇議論が「すごい」と思った人に届けばいいと思っている。たまたま見つけた人が「あれ、與那覇さんってなんかいいと思ったけど、もしかしてまずい人なのかもしれない」と思ってもらえればそれで十分だ。そうした批判見方を改める作業を繰り返すことで、真の「本物」が生まれるはずだから

2023-04-23

anond:20230421002026

帝王切開語源の項目を数年前に執筆した当人である雑兵ウィキペディアンが通ります

誰も悪くないって元増田は言ってるけど、これはイシドールスが悪いよ。

カエサルという語はユリウスに由来する。内戦が勃発するや、彼はローマ貴族として最高の地位を得た。他方で彼は死んだ母の切り取られた(caeso)胎内から引き出されたために、もしくは生まれつき豊かな髪(caesarie)を靡かせた子供だったために、カエサルとも呼ばれた。それ以来、彼の跡を継いだ皇帝たちもカエサルと呼ばれることになった。そして切り取られた子宮から取り出された者は、Caeso あるいは Caesar と呼ばれることになった。

— イシドールス、『語源』第9巻 3章 12

カエサル帝王切開で生まれたってのも嘘(というか、語源因果関係が逆)だし、フッサフサだったってのも嘘。与太話すぎるっしょ。

イシドールスの『語源』は、数々の言葉の由来について、キリスト教世界でのソースになっていて、中世においては権威のものだったんだが、ぶっちゃけ信頼性が低いということが最近わかってきた。

語源』のおかげで、多くの古典時代著作記述が断片的に散逸を免れた一方、この著作原著作よりも重んじられることが多かったために、原著作で散逸してしまったものが多いくらい。

現代ウィキペディアみたいなもんだよね。

はい大学で教えてるんだけど、レポート書かせたら「ウィキペディア調べ」ばっかりなの。史料批判どころか、一次史料に当たることなんて全然しない。

あんまりひどいから、私はレポート読んでからウィキペディアを直すボランティアをしている。

ちなみに、イシドールスはカトリック教会における「インターネット利用者およびプログラマー」の守護聖人でもある。おあとがよろしいようで

2021-07-07

歴史上の人物は何をもって実在と見做すか

例えば織田信長なんかは、今生きている人は誰もその姿を自分の目で見たことがないはずであるが、実在していたことは疑いようのない事実である認識している。

これがスティーブ・ジョブスだったりすると、ウェブテレビ新聞など様々な媒体で目にしたことがあるので、実在していたことは疑いようがない。

しかしながら、だんだん過去に遡っていくと、文献など客観的傍証しか確認できなくなっていくはずである

wikipediaを見てみると、天皇についても「実在を認められないか強く疑われる名が多い」とあり、どこかの段階で実在非実在の線引きがなされている。

 

先程の織田信長の例だと、我々は例えば歴史教科書記載されていることを事実として受け止めているはずである

しかし、その教科書記載されている事実についても、何らかの客観的な文献等に基づいて事実認定されているはずである

 

その辺りの判断について確認できるような資料書籍はないだろうか(調べてない)

 

追記(2021-07-11

ここで問いたかったのは、哲学的認知論的な観点ではなく、学術的な観点である

歴史学の研究は「史料」に対して行われるということをコメントから読み取れたので、以下wikipediaの「史料から引用する。

一次史料[編集]

一次資料」も参照

一次史料とは、当事者がその時々に遺した手紙文書日記などを指す[2]。記述対象について「そのとき」「その場で」「その人が」の三要素を充たした文献を「一次史料」と呼び、そうでないものを「二次史料」と呼んでいる[1]。代表的な一次史料日記、書翰、公文書がある[1]。コイン新聞記事は通常、一次史料ではない。

二次史料[編集]

二次資料」も参照

二次史料とは、上記三要素を満たさない文献史料を指す。第三者が記した物や、後の記録が該当する[2]。二次史料は、一般に一次史料より重要性が劣るが、必ずしも信頼性に乏しいとは限らない。例えば、太田牛一の『信長公記』や小瀬甫庵の『信長記はいずれも織田信長に関する二次史料であるが、前者が高い信頼性を有していると考えられるのに対し、後者史料としての価値ほとんどないとされる[3]。

史料の中でも「そのとき」「その場で」「その人が」の三要素を充たした文献について「一時史料」と呼び、歴史的な情報重要価値を持つらしい。

ただし、一次史料自体が正しいかどうかの検証必要(「史料批判」と呼ぶ)とのことである

 

現在は、巷に溢れる情報いくらでも入手することができる世の中になってきているが、陰謀論似非科学など公衆衛生に対して有害になり得る情報が氾濫している。

どういった情報が信頼できるものであるかを判断するためには、史料批判のアプローチ活用できるのではないだろうか(調べてない)。

2020-08-02

戦史叢書、各巻の概要(書きかけ)

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戦史叢書

防衛研修所戦史室(現・防衛防衛研究所)が編纂した太平洋戦争及び日中戦争大東亜戦争)に関する公刊戦史。

開戦経緯、戦争指導、個々の作戦等について、各種文書口述記録並びに外国の公刊戦史等を元として、記述するもの

1966年昭和41年から1980年昭和55年)にかけて編纂・発刊。

大本営関係34巻 · 陸軍戦史37巻 · 海軍戦史21巻 · 陸軍航空戦史9巻 · 年表1巻の全102巻で構成

戦略レベル以上の分析史料批判に欠ける。旧軍所属していた元軍人が書いているため、身内に係る批判がされにくい。陸海軍対立編纂事業にまで及ぶ。捕虜の取り扱いや占領行政に係る記述が無いか少ない。索引が無い。誤りが多い等の問題点が見られるようだ。

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戦史叢書第099巻 陸軍軍戦備

 日本陸軍の軍備及び戦備並びにこれらに関連する事項について記述官制について記述

 扱う期間は慶応3年1867年)~昭和20年1945年8月15日

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戦史叢書第008巻 大本営陸軍部<1>昭和15年5月まで

 明治元年1868年から昭和15年1940年5月までの約70年間に亘る陸軍中央部施策中、大東亜戦争関連事項につきその大綱を概説して記述国防上の政策軍令機関等の制定改廃、帝国国防方針の制定改定等について記述

 扱う期間は明治元年1868年)~昭和15年1940年5月

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戦史叢書第009巻 陸軍軍需動員<1>計画

 主として大正6~7年(1917~1918年)頃から昭和12年1937年)頃までの約20年間に亘る陸軍軍需動員の計画準備について記述徴発制度法令官制計画等について記述実施面については、戦史叢書33巻『陸軍軍需動員<2>実施編』に詳述。

 扱う期間は大正6~7年(1917~1918年から昭和12年1937年)。

戦史叢書第065巻 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<1>

 大本営陸軍部の立場から大東亜戦争日中戦争太平洋戦争)に至った政戦略の経緯や戦争指導について記述。主として「大本営政府連絡会議」及び「御前会議」の運営及び開催に伴う陸海軍及び外交当局の動きについて記述

 扱う期間は昭和6年1931年)~昭和16年1941年8月30日

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戦史叢書第091巻 大本営海軍部・聯合艦隊<1>開戦まで

日本海軍創設から大東亜戦争」開戦までにおける海軍中央部施策 、開戦から終戦までの大本営海軍部・連合艦隊戦争指導および作戦指導概要記述

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戦史叢書第088巻 海軍軍戦備<2>開戦以後

 日本海軍の軍備及び戦備並びにこれらに関連する事項を重点的に概述。

 扱う期間は昭和16年1941年11月昭和20年1945年8月15日

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戦史叢書第043巻 ミッドウェー海戦

 昭和17年1942年6月5日から7日にかけて行われたミッドウェー海戦及びその前後海軍作戦について記述。本作戦は、戦争全般ターニングポイントとみなされている重要な戦役(戦闘)であり、本作戦の失敗(敗北)以降、開戦から常に先手を取り続けていた日本海軍は、守勢に回ることとなった。なお、本作戦は、アリューシャン列島西部要地攻略作戦と一体の作戦として計画及び実行されたものであり、戦史叢書第029巻『北東方海軍作戦』を関係して参照することが望ましい。

 明治戦争勃発前までの海軍作戦構想が概述されている。

 扱う期間は昭和17年1942年1月昭和17年1942年6月

 (但し、海軍作戦構想概略部にあっては明治以降)

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戦史叢書第046巻 海上護衛戦

 海上輸送及びその護衛について総合的かつ包括的記述

 外地特に南方占領地)から海上輸送は、戦争中の国力維持に対し極めて強い影響を与える。戦争敗因の一大要因として、わが海上輸送力の減退に基づく国力喪失が挙げられており、それらの実相並びに諸対策実態を明らかにするためにも、これらの関連分野全般に亘っての総合研究叙述が必要とされるところである

 扱う期間は明治40年(1907年4月昭和20年1945年8月

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戦史叢書第082巻 大本営陸軍部<10昭和二十年八月まで

 昭和20年1945年1月8月にかけての大本営陸軍部の作戦指導及び戦争指導の経緯を記述

 扱う期間は昭和20年1945年1月20日~昭和20年1945年8月15日

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2019-12-22

白蛇のナーガビキニアーマーなのか?

まず、ビキニアーマービキニ形態の鎧であり、すくなくともトップが胸の形に成型され、足や太もも露出の多いものとする。

そう考えると白蛇のナーガそもそも接近戦も人並みにこなせるリナ・インバースとは違い、接近戦はからっきしの魔術師であり衣装は硬質な感じでの描写もない。

もちろん、ビキニ状の格好で戦っていればビキニアーマーだという広義をとれば含まれるが、それだとDQ4マーニャ、SAGA2のエスパーガール。あとはラグナロクオンラインの女マジシャンの様なものビキニアーマーだとなってしまい、ビキニアーマーが廃れたという主張と整合しない。

さらに言うと、平家物語などのフィクション史料として用いることは史料の少ない時代などではなくもないが、それは史料批判をした上での話なので、ファンタジー作品であるスレイヤーズに「何百年か前に流行った、世に言う『悪の女魔道士ルック』」と有ることから直ちに現実日本においてビキニアーマーが廃れていたとは結び付けられない。

というか普通に考えて犯罪者人権問題について議論してる時に「悪人人権はない」とか言い出しちゃう人でしょ?

フィクションの影響を受けやす中高生なら我が身を振り返りいささか胸に痛いものを感じつつも微笑ましくもあるが、いい大人が言ってたら「フィクション現実くらい区別しろバカ」でおわりでしょ?

さらに言うと何故かナーガ初出の「スレイヤーズすぺしゃる1 白魔術都市王子」じゃなくて「スレイヤーズすぺしゃる3 ナーガ冒険」なの?

タイトルに入ってこそないけど、表紙にめっちゃナーガいるよ?

https://ch.nicovideo.jp/SPQR/blomaga/ar112889

てか正直いってここの記事みて書いたんじゃない?

2019-05-11

文系学問における注と参考文献の話、補遺

文系学問において資料実在証明するものとは何か」(anond:20190510230425)についたブコメに応答&補足説明します。

参考文献と注は違うよ!

Wikipediaですら参考文献を求められるので、参考文献(ここで言っている注)のない本はある意味Wikipedia以下の信頼性と考えられても仕方がないことを多くの人に知らせるべきだと思う。

参考文献と注は違います! ぜんぜん別です! 参考にした本を並べてあるのが参考文献(厳密にはこの場合「参考文献一覧」)で、本文中の記述の出典を直接明らかにするのが注です!

参考文献と注については、以下の4つの組み合わせが考えられます

  • a)参考文献も注も揃っている
  • b)参考文献はあるが、注はない
  • c)参考文献はないが、注はある
  • d)参考文献も注もない

このうち、研究書として許されるのはaとcだけです。ここで問題にしているのはbとdで、多くの学術的な新書はbであり(中公新書とかでよくあるやつ)、ごくまれにdみたいな本があります最近だと、岩波新書の『ロシア革命』)。

えっ、cも許されるの? はい、許されます。なぜなら、個々の注でしっかりと典拠を示してある場合は、参考文献リスト存在せずとも出典の表示に不自由はないからです。

これだとわかりづらいかもしれないので、架空の例で説明してみます(わかりづらいかと思ったので書き直しました)。

a)増田うんこを漏らした(注1)。一方、同人作家おしっこを描いた(注2)。

(注1)はてな太郎増田研究Hatelabo2019年、819頁。

(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.

参考文献リスト

Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.

はてな太郎増田研究Hatelabo2019年

b)増田うんこを漏らした。一方、同人作家おしっこを描いた。

参考文献リスト

Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.

はてな太郎増田研究Hatelabo2019年

c)増田うんこを漏らした(注1)。一方、同人作家おしっこを描いた(注2)。

(注1)はてな太郎増田研究Hatelabo2019年、819頁。

(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.

d)増田うんこを漏らした。一方、同人作家おしっこを描いた。

cでも十分に出典表示として問題のないことはご理解いただけるでしょうか? 実際、英語圏でもcのような本はたまにあります。そして、著書ではなく論文レベルだと、cのようなやり方を採用している雑誌はとても多いのです(日本語圏でも英語圏でも)。いや、もちろん理想を言えばaみたいな本であるべきなんです。でも、紙幅の都合というものがあり、印刷費が嵩むからどこかを削りたい、となった場合には、真っ先に参考文献が削られてしまうのは致し方ないと思います

日本出版問題は、そこで「参考文献ではなく、注を削ろう!」という話になってしまうことです。違います注か参考文献、ページ数の関係上どちらかを削らないといけないのなら参考文献を削るべきなんです。

もし注がしっかりとつけられていれば、参考文献の欠如は「どんな文献があるかひと目でわかりづらい」程度の問題しかなりません。しかいくら参考文献があったところで、注がなければ「ではこの記述典拠はいったい何なのか」という根本的な問題惹起します(bの例から正しい出典を復元できるでしょうか?)。参考文献は省いても構いません。しかし注を省いてはダメなのです!(学術的な新規性のある本ではなく、学界の定説初心者向けにわかやす纏める本でなら、読みやすさを優先して逆の判断になっても構わないのですが)

もちろん、これはauthor-date方式やMLA styleの注をつける場合には適用できません。どういう方式かというと、次のような方式です。

author-date方式

増田うんこを漏らした(はてな 2019: 819)。一方、同人作家おしっこを描いた(Arim 2019: 8107)。

参考文献リスト

Arim, Y. 2019. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies.

はてな太郎.2019.『増田研究Hatelabo

MLA style:

増田うんこを漏らした(はてな 819)。一方、同人作家おしっこを描いた(Arim 8107)。

参考文献リスト

Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.

はてな太郎増田研究Hatelabo2019年

こういう方式の注をつける場合には参考文献が絶対必要です。当たり前ですね(author-date方式についてはanond:20190511230117も参照)。

2種類の「参考文献」

自分実験室の試験管”イメージ偏ってるなー(´・_・`)理系論文での引用たことないんかな。普通に出典書いてるし、それを叩き台に積み上げたり、否定したりするんだが。博士論文なんか引用文献沢山乗るしね

理系学問についてのイメージが偏っている点についてはごめんなさい。でも引用については、申し訳ないけれどそちらが勘違いされていると思います(もちろん私は理系論文ちょっとしか読んだことないので、私に事実誤認があれば教えてほしいのですが)。

文系学問において、参考文献には2種類あります

このうち、理系論文で文献として挙げられるのは「先行研究」だけですよね? でも、文系では「一次文献」も参考文献に含まれ、そこへの参照が論文重要な核を占めているのです。

たとえば上皇陛下が書かれた論文(※1)を見てみると、確かに末尾にずらずらっと先行研究が並んでいますが、論文の核となる部分はあくまハゼ遺伝子を解析した部分にあって、それは当然ながら実験室で採られたデータであり、何らかの文献によって引証される類のものではないわけです。

しかし、皇族つながりで天皇陛下が書かれた論文(※2)を例に出すと、この論文において著者の主張の裏付けとなっているのは古文書における記述であって、その原本研究施設が所蔵していたり史料集として公刊されていたりするわけです(史料集って何ぞや、という点については後述)。

私が最初増田で言ったのは、この「一次文献」の問題です。多くの場合理系ではこういう資料引用しないですよね(最近だと古天文学歴史的史料引用するとかあるのかな?)。しかし今回の研究不正がなされたような分野においては、そのような資料こそが研究の核心にあるという話です。

もちろん、慌てて言いますが「なにをデータにするか」は研究対象によって異なります文化人類学のような分野では、ヨソの土地まで出かけていって住人たちとの会話を書き取ったもの資料です(この分野だと「インタビュー」とかいう生易しいものじゃなくて、ヨソの土地に住み込んでその土地言語習得して日常生活を過ごす中で遭遇した会話や出来事を持ち歩いてるノートに書き付ける、という調査方法が採られます。これを参与観察というわけですが、私にゃ無理ですわ)。記述言語学だと研究対象の言語話者にその言語を口に出してもらって記録する(「これを○○語でなんといいますか?」と聞くこともあれば、話者どうしで会話してもらってそれを横で聞くパターンもあり)、というやり方になるんだろうと思います。なので私が言っているのは、あくまでも近現代史やその隣接領域での話だと思ってください。

一次史料からといって信憑性が高いとは限らない

文系生データは出典となる書籍だったり、原典資料がある場所と。原典原典って、どんどん辿っていけるブロックチェーンみたいな形式理想ってわけか。一時情報当事者証言なら信憑性高いって判断にはなるし

違います! 当事者証言からといって必ずしも信憑性が高いわけではありません! たとえば戦争犯罪裁判にかけられた人の証言のことを考えてみてください。彼もしくは彼女証言をそのまま「信憑性が高い」として扱ってしまってよいか? そんなわけはない。

歴史学において一次史料が重視されるのは、それが「生データ」だからです。それはひょっとしたら当事者の保身によって捻じ曲げられているかもしれないし、当事者が間違えているかもしれないし、当事者が見ても聞いてもいないことは書かれていないかもしれない(たとえば「沖縄返還をめぐる日米交渉」を研究しようと思ったとき日本側の史料は「日本側の政策決定過程」を教えてはくれますが、アメリカ外交官たちがどういう考えを持って交渉に臨んでいたかを教えてはくれないのです。それを知りたければアメリカ側の史料を見るしかありません)。けれども新しい研究は必ず一次史料から出発する必要があるのです。何故ならそれは昔の人によって直接書き記されたものから

なので歴史学では「史料批判」というものを重視します。これは説明すると長くなるので詳しくは歴史学入門書とかを読んでほしいんですが、要するに史料に書かれていることはどのくらい信用できるのか、みたいなことを分析するわけですね。あれれ~? おっかしいぞ~? この人、自分は後方にいたか虐殺行為に関わってなかったって言ってるけど、部隊の記録では後方にいたなんてどこにも書いてないよ~?

(「なにが一次史料か」というのも研究対象によって変わります特に科学史史学史といった分野では「他の研究において先行研究とされている文献が一次史料である」という状況がしばしば発生するのですが、この理屈はわかっていただけますよね)

デジタルアーカイブ史料

図書館ScanSnap SV600を完備し研究する皆の熱意でデジタルライブラリが出来るといいな… P2Pで共有されればノード消滅にも耐えられる。しか日本ではプリウスミサイル上級国民は不逮捕で、P2Pプログラマ逮捕なので

出来るといいな、じゃなくて、既にあります

たとえば国立国会図書館デジタルライブラリーには幕末以降の古書が多く登録されていて、PDFで落とすことができます。archive.orgや、フランス国立図書館デジタルライブラリー「Gallica」も有名ですね。こういうところに所蔵されている文献については、わざわざ現地の図書館まで行かなくともPDFダウンロードすればそれでよいわけです。デジタル化によって歴史学者の仕事は格段にやりやすくなりました。18世紀ドイツ語の本をコタツに入ったままで入手できるんだもんなぁ。

しかし、当たり前ですが全ての史料電子化されているわけではありません。国によってデジタルライブラリーの整備状況に違いがありますし、そもそも現代以降に出版された印刷物の数を考えたら全部をデジタル化するなんて人手も時間も足りない、という場合もあるでしょうし、身も蓋もない話をすれば著作権問題もあるでしょう(とある国では、その国の図書館に直接行かないとデジタル化された史料アクセスできなかったりします。てっきりPDFはないと思っていたのですが、著作権上の問題で館内からしかアクセスできないようになっているだけだそうです)。

また、多くの国では、公文書館史料まではデジタル化は及んでいません。元増田でも書きましたが、お役所ちょっとした書き付けなんかも史料になるわけで、それ全部デジタル化しようとしたらとんでもない数になります(これについて、日本戦前外交文書のかなりの数をウェブで読めるので恵まれていますね……アジア歴史資料センター様には足を向けて寝られません)。なので未だに、現地に行って史料を直接見てくる、というのが重要になるわけです。

さらに言うと、史料が必ずしも公的機関によって保存されているとは限らず、貴族武士の子孫のおうちに保管されていて、読みたい人はご当主様の許可を得て読ませてもらう、という場合もあり、当然デジタル化の波は及んでいません。イギリスだと由緒ある大貴族屋敷には私設の文書館付属している場合もあり、日本歴史学者でもソールズベリ侯爵のお屋敷であるハットフィールドハウスに赴いて史料収集している人もいます。謝辞で「史料を閲覧させてくれた当代のソールズベリ侯に感謝する」みたいなこと書いてあって「すごい……」って思いました)

ただ、「みんなが読みたがる重要史料」については、史料をまとめた本を出すとか、史料を集めたマイクロフィルムを作るとか、そういう形で広く公開されている場合があります(たとえば第一次世界大戦の勃発に関しては、イギリスオーストリアなどの当事国が何十巻にも及ぶ史料集を出版していて、東京大学などの国内研究機関にも所蔵されています)。けれどそういうのを購入するのはお金がかかるし、何より発行から何十年も経ってしまうと入手自体が難しくなってしまう(でも著作権は残っているためデジタル化も遅々として進まない)ので、あんまりお金がなかったり新設されたばかりだったりする大学研究者は結局それらを所蔵している大学図書館に行く必要が……

「注があると読者に嫌われる」は本当か?

しろ最後の注を見て次の本を決めたりするので、注があると読まなくなる人というのがいるのにびっくり…

注なんて読みたくなければ飛ばせばいいのに注があると売れない……? やべえな世の中。/ みんな本当に自己防衛意識が弱いよね。優しい世界生きてるんだろうな

注があると読まない人が居るという話、ただ気持ちよくなるために情報摂取してる層には、正確性の担保なんてむしろ邪魔なんだろね。ワイドショー視聴者と同質。

これ、実際に「注があるから読まない」読者が本当にいるのか、と疑ってみるべき案件だと思うんですよね……。「編集から言われて注を外した」という話は学者あいから漏れ聞こえてきますが、「注があるから読んでいて苦痛だった」という話ってなかなか聞かなくないです? いやもちろん編集者のところにはそういう苦情のお便りが届いているのかもしれませんが……。「注があると売れない」という都市伝説が生き長らえているだけのような……(一般読者からしてみれば、注の存在に気づいてなかった、とか、なんか数字が振ってあるけど気にしてなかった、という場合も多いでしょうし)

注は別に読まなくてもいいです

ちゃんと注まで読んでるのね。今まで気にしたことも無かった…我ながら知的レベル低い…

注がついている本を読んでいる段階で十分かと思いますので安心してください。注は、もし興味がないならさらっと読み飛ばしても別に大丈夫ですよ。というか、注で典拠が示されていても、アラビア語とかギリシャ語とか朝鮮語とかロシア語とかで書かれている場合も多々あるわけで、そんなの普通の読者さんにチェックできるわけないですし。ただ、注を見てみると、おっ、ここはちゃんと原史料を読んで書いてるのか、なーんだ、ここは英語二次文献に頼って書いてるんだ、みたいなことがわかっちゃったりするので、学者仕事の裏側を垣間見ることができて面白いですし、どんな情報源を使って書かれているのか? をチェックしてみることは学術書だけでなく普通ニュースとかを読むときにも重要なことだと思いますよ。

ブコメ

物理分野では「参考文献」の意味増田とは異なる。参考文献は本文記述の直接の引用を表す。あとあまり明確に決まってないけど、注は捕捉説明を指す。「参考にした文献一覧」は存在しない。読書案内なら見かける。

誰がReferences(Bibliography)を参考文献と訳したのか。"refer"した文献のリストであって、本文の著述に紐づけられるものだけリストアップすればよく、逆に、何でもかんでも列挙して博識をひけらかすところではない。

や、まあ、文系でもたいていの場合は「引用文献」ってことですよ。それを「参考文献」と呼んでるだけ。参考にはなったけど言及してない文献は、私なら入れない(でも入れる人もいるかも)。

いま史学科にいる人間全員読んでリアルブクマしとけ。懇切丁寧な論文の"文法書"だぞ。

あなたがこの増田に感心してくれたことは嬉しいけれど、史学科の学生上から目線アドバイスしないでください。こんなの初歩の初歩で、史学科の学生さんならとっくに理解してます史学出身じゃない人たちが「そうだったのか~!」って言ってるだけ。別に史学科の常識を知らないのは悪いことじゃないけれど(私も他学科常識とかわかんないし)、自分が知らなかったある分野の初歩の初歩を解説されて、そこで聞きかじった内容をその分野を学んでいる人の前で「お前らこういうのよく読んどけよ~」って言えちゃうの、ちょっと傲慢すぎません?

2018-12-31

忠臣蔵大正時代にも飽きられていた」のは嘘

忠臣蔵大正時代にも飽きられていた」という記事ホッテントリにあがっている

http://cocolog-nifty.hatenablog.com/entry/2018/12/29/172400

根拠として玉田玉秀斎講談速記本をあげているが、これは明らかにおかしい。


まず言うまでもないことだが、たった一人の証言根拠結論をだしてはならない。

その個人玉田玉秀斎)の観測範囲限界ポジショントーク可能性等々があるからだ。

歴史学で正しい結論を出すには複数の文献を史料批判する必要がある。

で、忠臣蔵ほど著名なジャンルとなると、こういう史料批判はすでに専門家がしてくれている。

・宮澤誠一 『近代日本と「忠臣蔵幻想青木書店

この本によると明治戦前忠臣蔵ブームは3回

日露戦争直後、大正時代日中戦争である

最初の2つのブームに影響を与えたのはレコードである

忠臣蔵レコードに乗って全国に流される事で流行したのだ。

日露戦争直後のブームで儲かった浪曲師・桃中軒雲右衛門がそのお金泉岳寺大石内蔵助銅像を立てるほどであった。

大正時代ブームでもレコード活躍したのみならず、中央義士会が設立され、大佛次郎の『赤穂浪士』がベストセラーになり、その後はラジオ活躍した。

…などと言うことは宮澤の本を引いたウィキペディアにも書いてあるのでご確認あれ。


さて、日露戦争終結1905年)直後の一度目のブームから大正の2度目のブームの間は

たったの10年強。

この間には大正デモクラシーがあり、玉田玉秀斎発言はこの時期に当たる

開明的な大正デモクラシーで一時的飽きていたというのが正しく、

・飽きはじめたのは、明治の後半くらいなんじゃないのかなっていう雰囲気はある。

というのは明確な間違えである

なにせ、忠臣蔵はわかってるだけでも明治~戦中に114回も映画になっているのだから




【その他コメント

浄瑠璃歌舞伎か知らないけど、とにかく『仮名手本忠臣蔵』はかなり読むのダルいと思う。

見て楽しむ人形浄瑠璃歌舞伎読んでダルいのは当然。

アクション映画台本読んで「つまらん」というようなもの


スタンダード忠臣蔵を延々と楽しめるのであれば、アレンジする必要なんかない。

スタンダードアニメ二次創作コミケで量産されたら飽きられてる証拠だというようなもの


・ 読んだことねぇからよく分からないけど、(吉川)英治なら絶対面白いんじゃないかな。

吉川英治の「忠臣蔵」は「吉川英治歴史時代文庫」に入れてもらえなかったのに?(補巻扱い)




追記

個人的には最初に知るには映画テレビ忠臣蔵オススメする。目から情報理解やすいから。

エロゲの「ChuSinGura46+1 -忠臣蔵46+1」も実はオススメだが(1話無料だし)

あと一部の方に誤解があるようだが、特に戦後忠臣蔵忠義より個人の意地や人情に焦点を当てたものが多い

そりゃ、戦後になって忠義を全面に出したら流行らないからね。

2018-12-08

史学科のゼミとか卒論とかって何やってるの

数学科事情、すごく興味深く読んだ。

「数学の修得には時間がかかる」ことの概説 - Unhappy Go Lucky!

ただ、文系学部の「研究」や「卒業論文」の位置づけとかについて、過大評価していただいているような気がしなくもない。日本語とは縁遠い言語を話す地域を専門とする史学科卒の人間として、「ゼミ」や「卒論」の位置づけについて語ってみたい。

ゼミで何をやっているか

いやこれは本当に分野によるのだが、「研究」というよりも「勉強」をやっているところが多い。歴史学というのはまず史料に何が書かれているかを正確に読み解く必要があるのだが、その読み方を徹底的に叩き込まれる。場合によっては修士課程でもこれが続く。もしくは、研究文献の読み方を叩き込まれる。そもそも2・3年前まで高校生だった連中である文系研究書をどのように読むべきかよくわかっていない人も多いし、英語の本を通読なんてしたことないですという人がほとんどだろう。レベルの高い大学なら外国語文献の購読をし(何語なのかは研究分野や参加者による)、あまりレベルの高くない大学なら日本語の本・論文の読み方をゼミで躾けられる。

(「史料」ってのは要するに「昔の人が書き残したこと」。王様勅令だったりお役所行政文書だったりインテリの書いた思想書だったり過激派の撒いたアジビラだったり新聞記事だったり、色々である公文書館に行って実物を見てくる場合もあれば、別の学者がまとめて印刷出版してくれたものを参照する場合もある)

何で学部の段階からゼミに分かれるか、というと、「歴史学とは何か」「史料批判とは何か」みたいな概念方法レベルの話や、「いやしくも歴史学を学ぶ者として最低限踏まえておくべき各地域・各時代の基礎知識」みたいなのを除けば、分野ごとに身につけるべきスキル全然違うので。江戸時代歴史なら江戸時代古文書明治期の歴史なら明治期の文書中国史なら漢文イギリス史なら当然英語古文書……を読まないといけない。イギリスについて研究したい学生日本古文書の読み解き方を勉強しても時間無駄だろう。逆もまた然り。

ぶっちゃけ、「卒業論文」に大したオリジナリティはない

慌てて言えば分野による。

社会調査とかする分野で、自分なりにアンケート調査してみた、とかそういう論文なら、どれだけ拙かろうがオリジナリティはあるだろう。あるいは歴史学でも、オリジナル史料を発掘することが可能な分野ならオリジナリティは出る。

ただやっぱり、学部4年の段階で大層な「オリジナリティ」は出てこない。そもそも外国史の場合史料の読解すら教員の手助けを得てようやく、という人が多い。歴史学では一次史料が重視されるが、私の分野では卒業論文で一次史料を使った時点で優秀な学生の部類に入るだろうなと思う。二次文献、つまり他の研究書や論文をまとめて長いレポート(うちの大学では3万2,000字が下限だったかな)を書けたらOK、という運用をしている大学も多いのではないか。まとめるのにもオリジナリティは出るしね、という苦しい理屈だしそんなの査読つき学会誌に「論文」として発表できるレベルではないが、学会誌に「論文」として出せるレベルのもの要求していると4年では足りないわけで、多くの史学科の学生修士論文で初めて学会誌投稿できるレベルのもの要求されることになる。

何度も言うようにこれは分野による。地味に重要なのが、「その言語大学第二外国語として開講されているか、あるいは教養科目で講義が受けられるか」という点。朝鮮史ドイツ史やフランス史場合韓国語ドイツ語やフランス語文系学部ならたいていは必修の第二外国語として教えられていることが多いので、卒論でも韓国語ドイツフランス語論文は読めて当然だよなあ? というハードモードになることもある。中国史なら「高校から漢文やってるんだしゼミでも読んでるんだから卒論でもちゃん漢文史料は読めるよね? 現代中国語論文も読んでね」ということになるだろう。英語? そんなの読めて当然でしょ? 第二外国語ではなくとも、たとえばトルコ語アラビア語なら多少気の利いた大学なら教養科目とかで開講されているから、イスラーム史やりたいなら学部1年のうちから履修しといてね、という話になると思う。逆に、マイナー外国語必要な分野だと、せめて英語の本くらいは読んどいてね、くらいにまでハードルは下がる。アイスランド史を勉強したいです! と言われても、日本アイスランド語の授業がある大学がいったいいくつあるのか……という話になるわけで。まあ東大の某ゼミではゲエズ語購読とかやってたらしいですけどね。雲の上の世界すぎてまったく想像もつかない。

なので、大学に入った段階で既にどの分野に進むのかなんとはなしの道筋がついていないと厳しい。第二外国語韓国語選択して、やっぱり私ドイツ史がやりたい! というのは不可能ではないが難しい。第二外国語選びの段階である程度進路が決まってしまう、というのが史学科の特徴だ(まあ、英文学科とかは、学科選びの段階で専門地域が決まってしまうわけだが……)。イスラーム史やるなら第二外国語フランス語にしないとね。そんなのついこないだまで高校生だった連中にわかるか! もちろんこれは大学による。西洋史に進学した者にはドイツ語とフランス語双方の習得義務付ける大学もあるそうである。これならヨーロッパのたいていの地域対応できるね! 史学語学と言われる所以だ。

あとは西洋以外の地域だと、「史料に書かれている言語」と「論文に使われている言語」が違うことが結構あって、何でかといえば近代以降に西洋諸国植民地支配されていたりすると「オランダ人研究者がオランダ語で書いたインドネシア史についての先行研究」みたいなのがたくさんあるので。つまりいくらインドネシア語やアラビア語が堪能でもそれだけでは片手落ちで、オランダ語フランス語ができないと先行研究が読めないので勉強せざるを得ない(付け加えるなら、植民地支配されてたということは、お役所では宗主国言語が使われていたり宗主国のお役所植民地統治担当する部局があったりしたわけで、それらの史料は当然宗主国言語で書かれている)。さら前近代史だと、「昔使われていた言語」と「現在使われている言語」が異なっていることが多く、典型的には古文とかラテン語とかである現代日本語論文はスラスラ読めても古典日本語チンプンカンプンという人も多かろう。前近代西洋征服王朝なんかだと大変で、現地語+支配階級言語植民地支配してたヨーロッパ言語、をやらなければいけなかったりする(アラビア語オスマン語+フランス語、みたいな感じ)。いやー、西洋現代史はヌルゲーの領域っすわ……その国の言語ができれば用足りるからなぁ。現地に行けばネイティブスピーカーいるか勉強簡単だし(アッカド語みたいなネイティブがいない言語習得してる人ほんと尊敬する)。もちろんここで少数民族とか国際関係史とかに興味を持ってしまうと語学沼に引きずり込まれるわけだが。イギリス史なら英語だけでいいだろうと思っていたらうっかりウェールズに興味を持ってしまウェールズ語を勉強することになりました、とか、ドイツ語だけで通そうと思っていたら枢軸国外交に興味を持ってしまったせいでイタリア語も読んでます、みたいな。とはいえこれらは院に進学してからの話(あるいは院への進学を希望する学部生の話)だ。院に進学しない学生卒論レベルなら日本語英語or中国語でじゅうぶん、という運用大学ほとんどだと思う。

ヨーロッパ植民地についてしか述べていないのは、日本植民地場合宗主国言語習得する困難はほぼ存在しないからであって、日本植民地支配をしていなかったと言いたいわけではないので念の為。もちろんこれは日本語母語話者である学生の話で、韓国台湾学生あるいはそれらの国から留学生植民地時代自国史を勉強しようと思ったら日本語を読まなければいけないわけであり、なんというか申し訳ない)

でもまあ、卒論書くのは大事ですよ。たとえそれがレポートに毛の生えたレベルのものであっても、院に行かない学生にとっては専門家指導されしっかりと文献を読み込んだ上でこんな長文を書かされる機会はこの先の人生でなかなかないし、それを経験するというのが大学に行く意味だと思う。院に行く学生にとってはもっと長い修論博論書くんだから当然このくらい書けなきゃ話にならんわけで。

院に進んだら何やるの

留学します。

これも分野によるのだけれど、たいていどっかに留学する。中国史なら中国台湾フランス史ならフランス、みたいに。留学先で大学ゼミに参加したり史料を集めたり現地の専門家指導を受けたり、あるいは分野によっては語学勉強をしたりする。もちろん複数国に留学してもいいし、研究対象国以外に留学することもありえる。アフリカ史を研究するためにポルトガル留学した人がいたり(イエズス会士が書いたものを読みたかったらしい)。で、帰国してから博論を書く(たまに留学先でそのままPh.D獲っちゃう人もいる)。

上述のような事情があるので、歴史学を専攻している人はたいてい4年以上博士課程に在籍する。ちゃんとした大学で3年で博士号獲るのは一部のバケモノだけです。たまにいるんだよそういうバケモノが。日本史なら楽勝かというとそういうわけではなく普通に4年以上かかってることが多い。留学期間とかもあるので、博士課程の先輩に学年を聞いても即答できないことが多いから気をつけよう。29歳でドクター? 夢物語かな? まあ本当に文系大学院なんて資産の子供か養ってくれる配偶者持ちか自殺志願者以外は来ない方がいいです。男性歴史学者が書いた研究書のあとがき奥さんへの謝辞が書いてある場合、もちろん本当に純粋感謝の念であることも多かろうがけっこうな確率で一時期ヒモ生活を送っていたことへの感謝だったりする。奥さん実家でチクチクとイヤミを言われた経験を聞かせてくれた教授もいらっしゃる。これ有名大学の教授様になれたから笑って話せるだけで、なれなかったら悲惨だよな……。まあでも、研究者の不遇っぷりは文理問わないか

2018-08-20

anond:20180820204354

当事者体験真摯に語っているのに、それを疑うこと自体セカンドレイプ二次被害だよ。

そりゃ歴史学などは史料批判重要かもしれないが、ナラティヴな語りは否定しえない。

2016-07-11

アラサーヲタ読書遍歴

端的にいうと、バカの為の読書術のおかげで、ミリオタ歴史オタになりましたという感じ

高校時代
大学時代
社会人

2014-09-12

anond:20140911191425

歴史歴史学は別物。史料批判の上で科学的に論理を積み重ねるのが歴史学。知らない分野のことを思い込み批判して「科学」を語っちゃう人って

2014-05-05

数年前東方にはまってたけど今カゲプロにはまりそうかもしれない

 http://anond.hatelabo.jp/20140503135700

 なるほど。当方二十代前半。カゲプロMVをいくつか白い目で観てアニメを4話まで観て再度MVを観て色々設定を発見できた時点。情報の答え合わせと仰られていたその感覚についてふと懐かしい記憶が蘇ったので増田


 私はちょっと違うかもしれないがおよそ同じような感覚東方やその二次創作物語に嵌っていたような気がする。

 まずキャラが大量でようわからんキャラ絵もうへぁすげぇ。うわなんか女の子で盛り上がってるうえぇ。でもシューティングやそのゲーム展開に同期させた音楽演出かいいなぁと思った。

 それからも触れているうちにちょっとずつキャラを覚えていき、そうなるとだんだん面白く感じてきた。

 原作からして、ストーリー世界観キャラクタの相関など設定が完璧に網羅されておらず、想像掻き立てる

 私はその世界理解しようと妄想することに心地よさを感じた。世界を構築している感覚である


 東方カゲプロものすごく色々違うだろうけど、断片的な情報の群れを楽しむ点で私は今とても似た体験と感じている。

 というわけで、そういった情報の未整理、「謎の楽しみ方」において自分にとって両者の間で何が共通で何が異なるだろうか考えてみた。


 カゲプロの特徴として、これが自意識の高さに特化した設定であることが挙げられそうだ。この作品の素晴らしいポイント音楽性やイラストを含めてここではないだろうかと思う。

 東方場合はある程度の神話などの背景知識やキャラクタニッチな思考や能力階級などの設定を用いながらありそうなことなさそうなことを考える面があったように感じる。

 対してカゲプロは背景知識のお勉強などという高次の要素を必要とせず、身近で簡素な思考から生まれる出来事から情報の群をなしている。この枠組みは自意識演出する上で重要であると感じる。自意識の発現に史料批判は伴わない。

 理解やすキャラクタと不必要な背景知識が読者を須らく同じ土俵からスタートさせる。私はこの稚拙な設定から10代の頃のあの無知から世界を把握していこうとする感覚に浸り堪能している。ロックのあの感情の高ぶり、イラストのあの通常から脱却してカッコよくあろうとする姿勢は、その世界観の結論として位置し、私は自力で何かを考えた先にカッコ良い結論に至れたという高い自意識に浸れるのだ。

 このあたりはきっと繊細なお年頃の子たちは等身大に浴びているんだろうなぁと思うし、東方では味わえないなぁ。全然違うな。東方のは、作者が描写していない箇所を狙って、AがBした、AとBはこういう関係だとかを論理的に導けそうってのが楽しかった気がする。

 東方カゲプロ情報落ちの面白さの違いは何か、それはなんか勢力図の構築か作者の描いた意図の構築かの違い、とかそんなんで一旦。東方固有の面白さがカゲプロに通ずるところあるかなと思っのだがうーん……なんか論点が定まらん……入口の広さから来る途中入場からの同じコンテンツを数回楽しめる感覚東方とあるロック二次創作を再度観た時あぁ二次創作作者こういうキャラ理解で描いてたんだなぁみたいな思い出がカゲロウMV再度視聴時に引っかかったのだろうか……なら勢力図の構築とか関係ねぇなうーん。


 カゲプロ最初ニコニコの他のボカロ曲と合わせて思春期大事な子たちに対して血とかアイドルとかセクロスとかセンセーショナルな描写で煽ってるのやだなぁと漠然と思っていたけど、新房監督の助力もあってかアニメ観る限りでは血なども抽象化されて誰もが通りそうなレベルの根の優しい感じの気高き繊細な中二って印象に変わって今のところ好きです。

 おやすみ


2014-03-23

歴史修正主義=疑似歴史学

最近従軍慰安婦問題を中心とした歴史修正主義大手を降って表通りを歩く様になって来ていてまったく嘆かわしい限りだが、要するになんでこんな馬鹿げた嘘つき連中に騙される善良な市民がいるのかと言うと、それはヘイトスピーチがその定義に「出自アイデンティティに関わる属性などによって差別する」という意味があるのも知らずに、「差別をしたら罵倒された。これはヘイトスピーチに対するヘイトスピーチだ」などという滅茶苦茶な主張に騙されてしまうのにも似た、まあ一言で言えば「言葉定義を語感でなんとなくしか捉えない」国語力の低下に起因するものであろうと考えられる。残念ながら、「歴史修正主義」という言葉を前に「歴史は仮説に過ぎないのだから、見直すのは良いことなんじゃないの?」というような自分では冷静に考えたつもりであろう意見は、単なる無知の成せるわざと断ぜられる。なんとなれば、簡単に歴史を「見直せる」と考えること自体が、疑似科学ならぬ疑似歴史学とでも呼べるような間違った発想だからだ。

歴史は元々、矛盾内包するものである。それはどういうことかというと、普通どんな定説が作り上げられる過程にも矛盾した史料と言うのは必ず存在するということである現存する矛盾した史料を全て集め、突き合わせ、読み込むことによって、「少なくともこの出来事はあった/なかった」をひとつひとつ確定していったもの歴史定説なのである。この過程史料批判と言い、要するに文書と言うものはどうで執筆者主観立場、その他もろもろの事情から切り離せぬものなのだから、そこを考慮して信ずべきところとそうでないところを選り分けるという作業である特に言えば、官僚作成した政府資料などと言うものとき政府の都合に合わせきった単なるプロパガンダと見るのが当然であり、そんなもの歴史に限らず今のご時世だって政府発表の資料や説明をそのまま鵜呑みにするのは馬鹿のすることだとまともな大人ならわかることなので、「当時の政府は悪いことはしてないと発表している。だから悪いことはしてないはずだ」などと言う幼児のごとき論理は真っ先に排除される。

矛盾する史料を付き合わせて組み立てられた歴史の「定説」は、当然ながら、仮に今新しい、何か定説矛盾するところのある史料発見されたとて、そう易々と覆されうるものではない。本当にそれが未発見の新史料とでも呼べるものであったのならば、それまであった他の史料と同じ様に読み込まれ、史料批判を行い、もしかしたら定説に多少の修正が見られる可能性もないではないが、殆ど場合それほど影響をもたらさない可能性の方が高いであろう。言うまでもなく、「ここに新たなる史料の見つかった。これは定説矛盾するからして、定説は見直されるべきである」などという歴史修正主義によくある主張は純粋ナンセンスである歴史学は、人の書いた文章の嘘を見抜くのがその手法重要な部分を占めている学問である。嘘をつかない自然を相手にしている自然科学とは違い、単純にひとつ事象観測して、その観測勘違いがなく、その上で定説既存理論と折り合わないようであれば十分な反証が得られたと考えるような、いわば性善説にでも則ったような発想はしないのである

以上が、原理原則から歴史修正主義の疑似歴史学性、それが如何に歴史学的な主張として正当を欠いたものであるのかの説明であるが、もっと現実的処世術として持っていると便利な視点は、歴史修正主義とはためにする運動以外の何ものでもないと言うことだ。歴史修正主義者は常に結論から全てを考える。結論に合わせて史料を探し(多くの場合彼らのいわゆる「新史料」は実は史料批判の終わっている既知のものである)、求めるものから逆算して史料を読み、ときにその史料が結論を裏付けてくれるものでないと知れれば、あっさりとそれを捨て別の史料に根拠を求める。こういったやり方が史料批判という歴史学的な手法に反しているのは言うまでもないが、残念ながらこの恥知らず姑息さこそが、善良な素人をして歴史修正主義に理ありと錯覚させることもある要因となっているのも否めない。素人目に一見正しそうに見える主張をしている手合いにこそ、その「正しそう」に見える部分が何か狡猾な手段から来たものでないのか、学問的な手順の不正によるものではないのかと疑うことが必須である

歴史修正主義は疑似歴史学である。それが用いるロジック一言で言って詭弁であり、歴史を簡単に見直し、修正することが出来るかの様に喧伝する議論は学問的にまったく正当性がないのみならず、不見識な素人を騙すためならなんでもする詐欺師にも似た卑劣な活動に他ならない。昨今の日本の歴史修正主義の台頭は、国外から戦後体制に対する反逆と見られるのみならず、こと21世紀に至ってもまったく成長の見られない日本人論理的な思考力の弱さ、都合の良い結論への飛びつきやすさ、畢竟ためにする勢力のプロパガンダに如何に簡単に騙され流されるかという知的脆弱さを露呈しているのである

2014-02-27

http://anond.hatelabo.jp/20140226223546

それの真実性はどう判断する?

って君がいうから、「史料批判」ていう1つの回答をしたんだけど。

つか、何をそんなに怒ってんの?

2014-02-26

http://anond.hatelabo.jp/20140226185224

から、そう言ってるんだけども。

ひとつには「史料批判」をやるってのがある(初耳だったらぐぐってね)

これを言ってドヤ顔して人を見下したいがためだけに出てきたの?

http://anond.hatelabo.jp/20140226184041

横だけど

もう誰も生きてない時代歴史上の出来事が事実がどうかどうやって認定してるかっつーと

ひとつには「史料批判」をやるってのがある(初耳だったらぐぐってね)

要は集めた史料について信頼性を判定するための史学の分野ではある程度合意されたプロセスがあるってこと

それを(両国史学者が合同で、事前に合意した基準のもとで)ちゃんとやれ、ぐらいしか出来ることはないっちゃないんじゃない

ただその結果を日本なり韓国なりが受け入れるかどうかは科学じゃなくて政治の話になっちゃうだろうけどね

2014-02-20

http://anond.hatelabo.jp/20140218130250

横槍スマソ。元主の反応なかったので史学科の俺が書いとくと、平城京は、710年から714年頃に遷都っていう両論併記が主流になると思うよ。

いまんとこあくまでも「元明天皇710年遷都するっていったか710年平城京遷都の年」である派が主流と言ってよいと思う。

けど、最近、あまりにも「714年に平城京遷都」の方がもっともらしいから、その派の勢いがなくなってるのよね。

つか、遷都するっていったからで決めてたら、史料批判も何もへったくれがないわけで、発掘する意味ないしね。

あと、遷都するって言ったか710年派はソース元が一つだから論争も何も反論できないのも痛い。結果的には両論併記になると思われる。

2008-09-15

歴史学に詳しい増田に訊きたい

まったくの門外漢が歴史学に興味を持った際、読むべき本を教えて欲しい。

今のところ興味があるのは、歴史学史や学問的手続き(歴史学だと史料批判?)、それと実証主義批判の論点。

2008-01-13

http://anond.hatelabo.jp/20080113214308

>否定派の俺からすると肯定派の人が「よし、これに沿った証拠を集めよう!」という活動を

しているようにしか思えないし、逆の立場からすると否定派がそう見えるのだろう

うん。双方ほかの地道な土地制度とかに興味ないみたいだし、同時代史に興味ないみたいだし。(あ、自分は相手の増田じゃないよ)

>ただ、しかし、基本的に誰々が何をやった、というのは「推定無罪」からスタートすべきだと思うし、

これは司法と混同してるんじゃない?史学においてはまず史料批判だよ。罪より時代状況。

祖国の人々の歴史や行為はまず基本的に“守る”ところからスタートするのが自然だと思う。

これは政治です。歴史学じゃない。そのつもりでやってくれてるならかまわないのだけど、歴史と言わないで欲しいな、と思うだけ。別に歴史では誰を守ることもない。事実を地道に積み重ねていくだけ。だから虚学なの。

2008-01-05

http://anond.hatelabo.jp/20080105102533

歴史ってそもそも政治的決着しか着かないんじゃないの。

科学的な手続きに従った史料批判ということは可能だけれども、その史料に基づいて事実を再構成して意味付けしていく枠組みというのは政治的にしか決まらないと思う。

特にそれが近現代史であれば、現在の状況を正当化するまたは批判するという価値観から自由ではありえない。なぜなら、歴史には普遍的な根本原理というものがないから。普遍的な原理がなければ、現在のなんらかの社会思想にしたがって枠付けするしかない。

 
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