はてなキーワード: 1940年とは
消音にしているはずのテレビから、キャピッ、キャピキャピッと音がする。画面の中で高市早苗首相が、トランプ米大統領の隣ではしゃいでいた。米海軍横須賀基地、原子力空母の上らしい。ながめているうち、身の内の深い深いところに沈めていた記憶がせりあがってきて、口の中が苦くなる。ああ、かつての私も、たぶん、こんな風に、「権力者」の隣でキャピキャピ音をたてていたのだろう。
笑顔を絶やさず、ぴょんぴょん跳ねてかわいらしさ=従順さをアピールし、おべんちゃらをちゃらちゃら、腕を組まれても肩に手を置かれてもはねのけることはしない。程度の差こそあれ、この日本で女としてつつがなく生きるということは「そういうこと」だと思い込んでいた。思い込まされていた。恥じ入るしかないマイ黒歴史。
今回、首相の振る舞いを目の当たりにし、自らの古傷をうずかせている私と同世代かちょっと上くらいの女性は少なくなく、首相を支持する/しないを超えて、ニュースを見られない、精神的につらいと一様にげんなりしている。「そういうこと」はおかしいと気づき、あらがい、闘い、必死に克服してきたはずなのに、なんでまたこんなことに――。
首相たるもの、外交の場でへつらうな。毅然(きぜん)としてくれ。これらは首相の性別とはまったく関係のない一般的な要望だ。ところが、へつらいをへつらいと指摘すると「女性首相の仕事をおとしめるな」「『毅然』は『男らしい』ふるまいで、その強要が女性の社会進出を遅らせてきたのだ」などという批判が飛んでくる。は? 首相として当然されるべき批判や論評を、女性に対しては控えろと? それこそ女性差別では? トランプ氏をノーベル平和賞に推薦だなんて鳥肌もののへつらいである。だいたい、説明も議論も一切ないまま勝手に決めて、答弁すら拒否するなんておかしいだろう。
米国と日本。戦勝国と敗戦国。男と女。入れ子状態の抑圧を一日でもろに可視化させた首相。ツイてるねノッてるね仕事が早いねYeah! セカイノマンナカデサキホコルニッポンガイコウ‼
入れ子状態の抑圧ということでは、沖縄のことを考えずにいられない。日本の米軍専用施設の7割が集中し、日米地位協定によって「守られている」米兵らによる性暴力被害が絶えない沖縄の女性は、首相の振る舞いをどう見ただろう。
「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表の高里鈴代さんに電話すると、開口一番「もうニュース見たくないですよ。怒ってますよ」。石破茂前首相は、結局何もできなかったけれど、沖縄を「見ていた」。しかし、米軍基地ではじける笑顔を見せる高市氏の視野に沖縄が入っているとは思えない。「沖縄に冷酷だった安倍・菅政権がよみがえってきた。そんな感じがします」
今年は、米兵3人が小学生をレイプした沖縄少女暴行事件から30年。米国―日本―沖縄、そして女性。社会の矛盾やゆがみのしわ寄せは、最も弱いところにいく。そのしわの上で踏ん張って闘ってきた1940年生まれの高里さんは「このあいだ骨折しちゃって、言葉もすっと出てこなくなった」と言いつつ、毎週水曜日、米軍普天間飛行場の辺野古移設に抗議するため辺野古へ通い続ける。
世界の真ん中がどこにあるかは知らないが、自国の最南端の県に負担を押しつけ、住民の犠牲を養分にして咲く花は、よほどグロテスクに違いない。
山本「1年前、海軍当局は三国同盟に同意しなかった。その理由は、この同盟は必ず日米戦争を招来するものであり、その場合、海軍軍備の現状を以てしては勝算がない
勝算を得るの途は唯一つ航空軍備の充実あるのみである。然し、それには年月を要する。それ故、日米戦を必至とするが如き条約を締結すべきでないとした。
その後、僅か1年を経過したのみで、対米戦に自信のもてる軍備ができよう筈がない。然るに、現在の海軍当局は、敢て三国条約に同意しようとしている。自分は、現当局が果して勝算の立つ軍備を早急に整備する自信ありや否やを問うつもりで、詳細に資料も準備して、会議に臨んだのであった」
会議席上
山本五十六「8カ月前まで私が次官を勤めておった時の政府の物動計画は、その8割まで英米圏内の資材でまかなうことになっておりました。然るに三国同盟の成立したときには、英米よりの資材は必然的に入らぬ筈でありますが、その不足を補うため、どういう計画変更をやられたか、この点を聞かせて頂き、連合艦隊長官として任務を遂行して行きたいと存じます」
会議後
山本「勘弁ですむか」
同年近衛首相邸
近衛「日独伊軍事同盟は、以前は海軍の立場からは種々困難ありとの事なりしに、此度は連絡会議にて海軍も直に同意せられ、実は不思議に思い居たり、然るに其後海軍の様子が少しはっきりせず、おかしいと思い居りしに、同盟成立後2週間目位に海軍次官が懇談に来られ、物動方面等容易ならぬ事を説明されたり。
然し、海軍戦備には幾多の欠陥あり、万難を排し、速に之を整備せざれば、国防上憂慮すべき事となるとの説明ありたる為、自分は少なからず、実は失望せり」
山本「それは是非やれと云われば、初め半年か1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば、全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避するよう、極力御努力を願いたい」
戦後の井上成美「山本さんは、何故あの時あんなことを言ったのか。軍事に素人で優柔不断の近衛公があれを聞けば、とにかく1年半は持つらしいと曖昧な気持になるのは決り切っていた。海軍は対米戦争やれません。やれば必ず負けます。それで連合艦隊司令長官の資格が無いと言われるなら私は辞めますと、何故はっきり言い切らなかったか」
五十噸の補助機関つき帆船で海峡植民地から東インド約二ヶ年の予定で一周しようといふ企てがある――計画者は神戸市元町三丁目近江一郎氏でボルネオやインドに久しく滞留、仏教を研究して最近帰朝した岡本春岳師ほか二名の同志の力を得、海外在留民を慰問し、病没者の展墓弔霊燈台守の慰問をなし、併せてわづか五十噸の小舟で南洋を一周すること自体によって海事思想の普及に資し、寄港地では新聞以外に故国の事情を知りたいと希望している人々のためには最近の東京風景や観艦式などの活動写真を見せるとともに故国の発展ぶりや近情を講演し、商品見本やカタログなどを配って行き、簡単な商品見本市を開き希望者には連絡の労もとり、各地にある日本人会の連絡をつけようといふのである。首唱者近江氏の厳父は日露戦役直後東京朝日新聞者がチャーターして満鮮巡遊団を企てた時のロセッタ丸の船長で、今年はその七周忌に当るので、亡父への供養の一端であると大した意気込みで、目下拓務省に補助の支出交渉中であるが、それが纏まり次第四五月ごろには壮途につきたいと、近江氏は語る。
『明中教育十年』より、「明石中學校十年史」の1932年2月1日の項。
直木由太郎編『家信 みとせのはるあき 上』より、1932年の「五月十六日 神戸より」。
臍主義者近江一郎君はまだ知らぬ人だが、其著「小舟を住家に南洋へ」は近来非常におもしろく感ふかく読んだ書物の一であるので一筆書いておく。
第一此書は君が鎮国丸という小船に乗じて南洋に向ふ途中、琉球近くの与論島に於て、船が暗礁に乗り上げ大破、九死に一生を得たこの死線突破の体験を本として、其遭難の顛末と共に南洋開拓に就て、かねて諸方面に就き自ら準備のために取調べた生きた心得の数々を教へ示さんとするもので、世に机上の空論は多くてもこの書の如く命をかけて出来た書物はまことに稀有と云ふべきで、この点に心ひかれるものがあるのである。
『楚人冠全集』より、1937年の杉村楚人冠「バルサ」という記事。
逓信省の船舶試験場で、近頃絶対に沈まない救命艇とかを作った。(中略)沈まない船といふのは、バルサを用材にして作ったとの事だから、何も今に始まった新案でも何でもない、現に私の友人がこれで救命艇を作って、特許を願ひ出た次第は、一昨年の十一月の「グラフ」に私が書いている。彼は特許が許されないので、気前よくその船を私に呉れて行ったので、私はこれを手賀沼に浮べて、時々漕いで出るのを楽しんで居る次第も、その時に書いた。この贈主の名を近江一郎といふ。朝日新聞社で明治三十九年の夏満韓巡遊の船を仕立てて、日本で初めて新聞社主催の団体旅行を企てた時、その乗艦ロセッタ丸の船長だった林橘治君が、即ちこの近江君の実父であった。
近江一郎の著書で、第一神戸中学校のおそらく1935〜1939年頃の同窓会報に掲載されたコラムを集めたものである。内容としては、神戸一中の卒業生がこんなにすごいことをやった、こういう面白いことをやった、といったもので、上記の「中村文夫(日本板硝子社長)」や「川西実三(埼玉・長崎・京都・東京知事を歴任)」なども登場する。卒業生には海軍関係者が多かったようで、特に奥田喜久司とは親しそうな書き方がされている。内容としては、笑いあり涙ありの平和なものだが、支那事変(日中戦争)が始まったことや、誰それが戦死したというようなことが書かれていたりもする。近江一郎自身のことはあまり触れられていないが、母親の名前が「朝子」ということ、娘がいて神戸の野田高等女学校に入学させたこと、第一次大戦の青島の戦いに従軍していたこと、などが書かれている。
1959年『新民』より、寺岡謹平「祖国の礎 特攻観音の縁起について」という記事。
昭和二十一年から、神戸の人近江一郎という老人がおりまして、南洋で貿易をしておったのでありますが、戦争がたけなわになりますと、日本の航空隊では油がだんだんなくなる。潤滑油をなんとかして作ろうということで満州にわたって白樺から潤滑油を作る研究に目鼻がついた、ということを軍令部に進言致しました。そのときには戦争が終ってしまったので、戦争に敗けたのはわれわれ国民の協力が足りないため、ということを考えまして、なんとかして戦死した御霊をなぐさめたいということで、まず特攻隊の遺族を弔問しよう。御霊に参拝しようという念願を立て、二十一年二月から、全国、北は北海道、南は九州のはてから、ずっと単独で廻って歩いた。
(中略)
はじめのうちは簑笠にカーキ色の服を着た坊さんが現れると、これは押売りか物貰いだろうと思って、虐待された。いろいろ考えた末、各県の世話課に頼んで遺族の住所を調べ、予め紹介してもらって参りました。そこで今度は順序よく運んだ。行くと、先ず以て仏様の前にいってお経を読んで焼香をする。そして般若心経を半紙に書いたものを一枚奉納する。
これは神戸の友人で美田禾山翁という書家がおりまして、その人の仏心で般若心経を沢山書いてもらった。海軍特攻隊の遺族は、二五二五名おりますから、美田先生も老齢ではあるし、耐えられなくなった。そこで誰かに書いてくれということで、私も何百枚か依頼されましたが、電報で何枚どこそこに送れと、こういうふうにくる。
(中略)
そういうものをお土産にもって廻って、六年間というものは休みなく廻りました。とうとうしまいには病気になりまして、二十七年一月二十一日に亡くなられた。その間に約一、九〇〇名の遺族を弔問しております。残ったのは東京と東海北陸の一部で、東京都を最後に残したのは、終ったところでお上に特攻隊の遺族の状況を奏上する、というのが狙いでございました。
『吉川英治対話集』より、1959年の対談での吉川英治の発言。
近江一郎という無名の人がいるのです。軍に徴集されて、なにかのことで満州で塾長をしたのです。開拓民の塾長じゃないかと思うのですが、終戦になってこっちに帰ってきて、さる人の紹介で、私が吉野村に疎開していたときに、杖をついて帰還者の服を着たままでやってきましたよ。そのころ、もう年齢は六十近かったでしょうか。
「いったい君はなにして歩いているんだ?」
「私は帰ってきて、たくさんの死んだ兵隊たちの家を一軒一軒歩いて、そうしてそこに年寄がいたら、年寄を慰め、仏壇があったらお線香の一本ずつもあげさせていただくのを生涯の念願にしている」「収入というものはどうしているんだ?」「収入はありません」「じゃ、どうして食べている?」「子どもが一人あって、女房が神戸の区役所の人夫をしている」女人夫ですね。「子どもは小学校に行っている。お父さんは好きなことをしていいと言うから、私はそれをやる」それから復員局で住所を調べましてね、全国を歩いていました。ほんとうに驚くべきものですよ。あるときその男と話をしまして、こういうふうに戦死者の家を歩いていると、ずいぶんひどいことを言われることがあるでしょうといったら、はじめてその男が炉辺でボロボロ涙を流しまして、このごろは復員局で言ってもらえるのでわかってきたけれども、いちばん最初は九州、あのへんの山間を歩くんですね。なにしにきたとどなられる、弟を死なせたという兄貴がヤケ酒を飲んでいるところにぶつかって、「戦死したものの供養にきたと、それで死んだものが生きてかえるか」と上りかかったところを蹴落とされた。そんな目にも会いました。そういうふうにけとばされたり、つばをされたり、なぐられたりするたびに、「これは陛下の罪滅しになると思って私はしのんできました」というのです。
近江一郎というのは私の中学時代のなつかしい同級の剣友であるが、五年の時、神戸一中を去って大阪天王寺中学に転校し、偶然にも、草鹿さん(註:草鹿龍之介)と同級となり、いずれ劣らぬ剣友同士の間柄だったのである。
近江君と私は一年の時からの同級で、しかもふたりは一時、剣道部の両雄として互いにしのぎを削った間柄で剣友として忘れられない一人だが、まことに気骨のたくましい一風変わった偉丈夫であった。それかあらぬか、一時は満州国に行って馬賊になったとまでうわさされたのであったが、敗戦となるや、彼は決然起って、あの戦争末期の花形として雄々しく散っていった海軍特攻隊の遺族を尋ねて全国行脚の壮挙を思い立ったのである。
しかし何分にも当時世をあげて戦後の虚脱状態にあり、特別関係者以外はだれ一人としてこれを支援しようとする者はなかったが、彼は毅然として、すげがさ、負いずる姿のいでたちで、全く乞食坊主そのままの行脚を続け、全国にわたる戦没英霊の実家を歴訪してその冥福と遺族の慰問に精魂を打ち込んだのであった。
戦後の軍当局と連絡をとったものらしく、一地区ごとに行脚を終わると必ず大阪に私をたずねて来訪し、つぶさにその難行苦行の実情を物語ってその感想録と写真を見せてくれたものだが、ほんとうに涙なくしては聞くことも読むこともできなかった。当時在阪の草鹿さんともいっしょに、時々は三人で食事を共にして、近江君の労をねぎらい、かつ旅情を慰めたものであった。
私の中学校の後輩で近江一郎という男がいて、父親が船長だった関係もあり、南方の島の資源開発を思いたった。ここが素人の私にはわからないことだが、それには沈まない船をつくらなければならないというので、あちこちに設計を頼んだり資金の相談にきたりした。
この話を川西さん(註:川西清兵衛)が聞いて、近江君を助けてやろうということになったらしい。そして近江君の希望どおり不沈船が竣工して南方へ出発したと聞いた。ところが、どうしたわけか帰りがけに台湾沖で沈んでしまったという。なんともロマンチックな話だ。
1940年 211万人 30年以上横ばい、つまり既に少子化が始まっている
1945年 168万人 戦中
1947年 267万人 戦後(戦中/戦後を平均すれば大体200万人)
2024年 68万人 14年で▲36%、44年で▲65%
1970年 2730万人 維持
1987年 2530万人 一人っ子政策してもなおこれ、団塊ジュニア
2016年 1786万人 一人っ子政策終了、二人っ子政策に、ここから現代の少子化開始
2021年 1062万人 二人っ子政策終了、三人っ子政策に ▲40%
2022年 956万人 6年▲46%
2024年 954万人 8年▲46% コロナ開け、龍年、出生支援
日本と中国はざっくり10倍のスケールで、どっちも危機的ではあるんだけど
日本が40年でやったことを、中国は10年くらいでやろうとしているので、社会インパクトは段違いだろうなと思う
ただ、歴史的に見ると大躍進政策のときのほうが「5年で半減」「5年で3倍」というとんでもないことをしてるので、彼らはこれが平常運転なのかもしれない
2000年 64万人
2010年 47万人 ここまでは日本と似た推移(40年で半減)
2016年 40万人 1年▲7%
2018年 32万人 3年▲25%
2019年 30万人 4年▲30%
2021年 26万人 6年▲39%
2022年 25万人 7年▲41%
いや、だいたい中国と同じだな、このシンクロニシティ誰か調べろよ
ちなみに底打ったと言う噂もあるけど全然信じられないよな
それに2016年くらいから減ってるってことは、もう10年になるわけで、20年後くらいから出生率を上げても人口減少する自体になる
https://anond.hatelabo.jp/20250727144129
要旨:香港という存在は「中華化」「冷戦」「経済発展」を経て「脱武装中産階級」に変質し、現在は“生存力”を失った国家なき中間層の集団になっている。そのため、中国共産党に対抗する実力もないまま衰退してゆく。真に生き延びるのは、暴力と慣習法を受け入れた“黒幫型コミュニティ”のみである。
主な論点:
中産階級は本質的に「賭け」に過ぎず、自身の行動が状況を変える力を持たない。
真に必要なのは暴力的闘争の能力だが、香港人はそれを歴史的に失っている。
香港の「愛国者」にも軍火走私(武器密輸)のような“実行力”が欠けている。
1940年以前の香港:広東系土豪、走私(密輸)、幇会が支配する“野蛮な”地域。教育水準も低かった。
抗日戦争〜1945年:中華民族という観念が国民党主導で香港に輸入され、赤華(共産)と白華(国民党)が対立。
冷戦初期〜1980年代:共産主義への恐怖から、走私勢力や民兵は“血汗工場”労働力へと再編され、中産階級が形成される。
1997年以降:共産党に近い黒幫(黒社会)が台頭。英米寄りの中間層は方向を失い、支配力を喪失。
「高収入・高家賃・英語使用」層は武力を持たず、また移民で脱出することしか考えていない。
民主化運動の主力だが、暴力闘争には向かず、共産党にとっては“鎮圧しやすい存在”。
結果的に、彼らの運動は西側の中産層からの共感は得られても、実際の変化を生み出せない。
経済的に下層の人々は、「攬炒」や火炎瓶を投げるような暴力的な手段に出やすい。
彼らは「粵人の暴力伝統」を受け継ぎつつあり、暴力的行動は文化的に根ざしている。
このような勢力こそが、生き残る香港の新しい“主流”となる可能性がある。
香港が金融・貿易港としての機能を失えば、政府は財政破綻し、警察も維持できなくなる。
治安維持は黒幫の役割になる。これは1920年代の状況への“逆戻り”。
結論:
香港中産階級(とその政治的運動)は「非暴力・高教養」ゆえに無力であり、国家や武装勢力の圧力に対して生存できない。一方、慣習法や暴力を受け入れた“部族的”黒幫型組織こそが、秩序と生存を担う新しい香港の姿である。
シリア 3.40→2.70
ニジェール 7.48→6.75
シンガポール 1.15→1.04
カザフスタン 2.59→3.05 増加
アンゴラ 6.19→5.21
チャド 6.99→6.22
マリ 6.58→5.87
ウガンダ 6.07→4.47
タンザニア 5.29→4.66
ほらな?
人口爆発してるとか言われてる国においてすら少子化は進行してるんだよ
2010年代に世界中で同時に起きたことってスマホ(携帯)=インターネットしか無いんだよ
亡くなる人数>生まれる人数 とならないと人口減少は起きないし、すると人口増加の鈍化に無頓着になる
例えば日本だって、本当は出生数のピークは1920年あたりで、団塊の世代が生まれたことは既に少子化は半分くらい進んでいた
1920年の出生数は202万人だが、1940年の出生数は211万人、1951年が213万人なんだ、わかるだろうか?既にここらへんで「人口維持」レベルまで少子化が進んでいた、1960年は160万人で既に危機的なんだ
しかし人口がピークに到達したのは2008年なので、世間が慌てるまで半世紀もかかっている
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ちなみに韓国は正確に影響が出ていて、2015年まではまだ1.24と日本と同じくらいだったんだが、今は0.78だ
中国は2018年まで顕在化しなかったんだが、これは2015年末に一人っ子政策を辞めたからだと思われる、2年耐えたんだ
なお2016年は2人っ子政策で、2021年夏に3人っ子政策になった、2024年に若干回復したのはこれだろうが、今年はまた下がるだろう
| 1,133,710 | 奉天市 | 奉天省 |
| 660,756 | 哈爾浜市 | 濱江省 |
| 555,009 | 新京特別市 | - |
| 315,032 | 安東市 | 安東省 |
| 269,622 | 撫順市 | 奉天省 |
| 213,740 | 鞍山市 | 奉天省 |
| 181,350 | 営口市 | 奉天省 |
| 178,363 | 牡丹江市 | 牡丹江省 |
| 172,935 | 吉林市 | 吉林省 |
| 143,046 | 阜新市 | 錦州省 |
| 142,258 | 錦州市 | 錦州省 |
| 133,138 | 斉斉哈爾市 | 龍江省 |
| 128,552 | 佳木斯市 | 三江省 |
| 100,032 | 遼陽市 | 奉天省 |
| 99,875 | 本渓湖市 | 奉天省 |
| 78,576 | 豊満村 | 吉林省 |
| 78,383 | 通化街 | 通化省 |
| 68,385 | 四平市 | 四平省 |
| 58,974 | 富錦街 | 三江省 |
| 58,758 | 雙城街 | 濱江省 |
| 58,639 | 敦化街 | 吉林省 |
| 57,636 | 綏化街 | 北安省 |
| 56,375 | 通遼街 | 興安南省 |
| 55,916 | 承徳街 | 熱河省 |
| 55,672 | 鐵嶺市 | 奉天省 |
| 54,666 | 扎蘭屯 | 興安東省 |
| 54,031 | 洮南街 | 龍江省 |
| 52,944 | 扶餘街 | 吉林省 |
| 51,114 | 海倫街 | 北安省 |
| 50,553 | 西安街 | 四平省 |
ジャック・シャー(John Jacob Sher、1913年3月16日 - 1988年8月23日)は、アメリカの新聞コラムニスト、ソングライター、映画監督、映画脚本家、プロデューサー。
経歴
ミネアポリス生まれのシャーは、『サタデー・イブニング・ポスト』、『エスクァイア』、『レッドブック』、『ラジオ・ミラー』、『リーダーズ・ダイジェスト』、『コリアーズ』などの雑誌に寄稿。
また、ニューヨーク・リポーター誌のコラムニストも務め、1937年から1940年までは、デトロイト・フリー・プレスが発行する全国シンジケーションの日曜増刊誌『スクリーン&ラジオ・ウィークリー』にも寄稿していた。
1959年の『The Wild and the Innocent(邦題:ワイルド・アンド・ザ・イノセント)』を含め、シャーはオーディ・マーフィーのために数多くの映画を執筆し、監督も務めた。
1979年にテレビ用にリメイクされた『The Kid from Left Field』では、このシリーズで主演を務めたゲイリー・コールマン(1968-2010)がNAACPイメージ賞の最優秀子供向け特別エピソード賞を受賞した。
1971-1972年にシャーが手がけたテレビ劇『Goodbye, Raggedy Ann』は、エミー賞のドラマ部門脚本賞にノミネートされた。
1940年 5550万人 +5.9%
1945年 5878万人 +4.1%
1950年 61197万人 +5.4%
1955年 6455万人 +3.1%
1960年 6661万人 ▲2.4%
1965年 6497万人 ▲3.6%
1970年 6261万人 ▲3.0%
1975年 6078万人 ▲2.9%
1980年 6043万人 ▲0.5%
1985年 5810万人 ▲3.8%
1990年 5401万人 ▲7.0%
1995年 5238万人 ▲3.0%
2000年 5037万人 ▲3.8%
2005年 4790万人 ▲4.9%
2010年 4398万人 ▲8.1%
2020年 3711万人 ▲6.8%
既に全盛期の半分に到達しそう
ジャズはだいたい100年ぐらいの歴史があり、次のような特徴がある。かなりの端折りが入っていることには留意してくれ。
世界最古のジャズのレコードとされているのは1917年。このころのごくごく初期のジャズで、形式や編成には幅があるが、ディズニーランドで演奏されてそうなゴキゲンで楽しげな感じといえばイメージできるかもしれない。
トランペット(またはコルネット)・クラリネット・トロンボーンの3つの管楽器がアドリブを交えながら同時に演奏するのが特徴的なスタイル。
当時の録音ではドラムセットやアンプなどは発展途上の段階で、ドラムはスネアやウッドブロック中心のマーチングっぽい感じ、ギターのかわりにバンジョー、ベースはチューバなどが使われることが多い。
具体的にはこういう感じ。これはヨドバシカメラのCMの原曲である。https://www.youtube.com/watch?v=dsp-cA89Wio これぞとされる名盤は特に思い当たらない。
当時の録音技術はぜんぜん良くないので、古い録音をリマスタリングした音源を聞いても聞きづらいしノイズもひどい。1950年ごろまではおしなべてこうで、それ以降に録音された音源のほうが聞きやすいと思う。
個人的にはSean MoysesのTiger Rag!というアルバムが好きではあるが、ディキシーランド・ジャズといよりもジャズバンジョソローアルバムという色が強い。
オーケストラっぽい大編成によるジャズである。クラシックのオーケストラとは違い、弦楽器セクションがいることはまずない。ドラム・ベース・ピアノ・ギターのリズムセクションと、トロンボーン・トランペット・サックス+クラリネットという編成が典型。
リズムのキメやソリやトゥッティのかっちりとしたアレンジ、分厚いバッキングを背負いながらのソロ回し、大人数による静と動のコントラストなどが特徴である。
バンドリーダーとしてはベニー・グッドマン、グレン・ミラー、デューク・エリントン、カウント・ベイシーの四者が特に有名。どこかしらで耳にしたことがある曲も多数あると思う。https://www.youtube.com/watch?v=aME0qvhZ37o
個人的にはFletcher Henderson - Swing The Thingsというアルバムが好きではあるが、これもまたとにかく録音が悪い。
バディ・リッチや、BBC Big Bandによる後年の録音や、より現代的なビッグバンドであるGordon Goodwin's Big Phat Bandなどのほうが聞きやすいと思う。
スーツを着たジャズメンが4〜5人程度でバーやナイトクラブで演奏してしそうなジャズをイメージしてほしい。だいたいそれがモダンジャズである。モダンと銘打ってはいるが、70年ぐらい昔の音楽のスタイルである。
ビバップ、ハードバップ、モード・ジャズなど演奏理論の違いによって通常さらに細かく分けられるが、全体的な構造や編成として大きな差はあまりない。
イントロ→テーマ→アドリブソロ回し→(バース)→テーマ→アウトロ という構成で進むのは変わらないまま、どのように斬新なソロをとるか?という音楽理論が30年かけて煮詰まっていった思っておけばよい。
チャーリー・パーカーはビバップの代表的奏者であるが、当時の録音も良くはなくソロも音感が強くないとぜんぶ同じに聞こえてしまうと思う。1950年代後半あたりに聞きやすいアルバムが多くある。
具体的にはMiles Davis - Bag's Groove,Sonny Rollins - Saxophone Colossus, Sonny Clark - Cool Struttin'、Art Blaky - Moanin'など。この4つは一般的にも名盤とされているし個人的にも大好きである。
1965年前後あたりのマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンのアルバムはだいぶ煮詰まっていてよりエクストリームになっていて、これはこれでまた独特の趣がある。
独特の趣でいうと、ジプシージャズ、マヌーシュスウィングというスタイルもある。
これはジャンゴ・ラインハルトの一強で、ギターとバイオリンの存在や独特のメロディセンスが特徴である。https://www.youtube.com/watch?v=gcE1avXFJb4
また、フリージャズという既存の音楽理論的制約を無視した……平たく言えばめちゃくちゃやってるだけじゃねーのか?という演奏スタイルも勃発した。
ノイズに近い激しいロックなどが好きな人はこれを好みがちという印象がある。
モダンジャズでジャズという音楽は完成してしまい、以降は主流のスタイルとして盛り上がっている新しい形のジャズは特に思い当たらない。
1970年以降はおもに別ジャンルの音楽(ロック、ファンク、電子音楽、民族音楽、ヒップホップなど)の要素をどのように混ぜ込むか?という発展の仕方をするようになった。もちろん伝統回帰する派閥もある。
ジャズという大木の成長は1970年で打ち止めになり、いろんな枝が沢山伸びていて全方位のジャズを把握している人間は極めてまれというイメージである。
ジャズ・ファンクの名盤にはHerbie Hancock - Head Huntersがあり、個人的にも好きである。
フュージョンでは、伝説的な天才ベーシストであるジャコ・パストリアスが在籍していたことで有名なウェザー・リポートというグループが有名である。
日本でもフュージョンブームがあり、1979年デビューのカシオペアは今も現役で活動する大御所フュージョンバンドである。
民族音楽・変拍子を取り入れたジャズにはAvishai Cohen -Continuo などがある。アヴィシャイ・コーエンは同姓同名のベーシストとトランペッターがいるが、これはベーシストのアルバムである。
ある意味電子音楽を取り入れたといえ演奏にはこのようなものがある。https://www.youtube.com/watch?v=KbvCgqTkj64
これは電子音楽の大家エイフェックス・ツインの曲のカバーであり、ブレイクビートという電子機器を使用してドラムの録音を分解して貼り直して作られた複雑怪奇なリズムを人力で演奏しているのが聞き所である。
ただしジャズといわれた場合はアドリブソロが組み込まれることが通常のため、これはジャズかと言われると微妙ではある。
the Bad Plusの他にも現代的なピアノトリオにはGoGo Penguinなどがいる。電子音楽の複雑怪奇なリズムを人力で再現する高い技量を持ったドラマーは他にはJojo Mayer,Louis coleなどがいる。
相変わらずジェンダーがどうとかつまらない話が多いので、過去の用例から「奥さん」あるいは配偶者呼称についていろいろ考えたいなあ。と思って書きます。
勿論、女中などに似ようはないと、夢か、うつつか、朦朧と認めた顔のかたちが、どうやらこう、目さきに、やっぱりそのうつ向き加減に、ちらつく。従って、今声を出した、奥さんは誰だか知れるか。
それに、夢中で感覚した意味は、誰か知らず、その女性(にょしょう)が、
「開けて下さい。」
と言ったのに応じて、ただ今、とすぐに答えたのであるが、扉(ひらき)の事だろう? その外廊下に、何の沙汰も聞えないは、待て、そこではなさそう。
「ほかに開ける処と言っては、窓だが、」
さてはまさしく魘(うな)された? この夜更けに、男が一人寝た部屋を、庭から覗き込んで、窓を開けて、と言う婦(おんな)はあるまい。(「沼婦人」泉鏡花、1908(明治41年)
「奥さん」は、自分の配偶者というより既婚女性に対する敬称として用いられています。「女中などではなく」自分が夢想する上流階級を思わせる女性(奥さん)が誰か分からないが、夜更けに訪ねてきた「女性(にょしょう)」は普通の「婦(おんな)」ではないだろう……という流れですが、この呼び分けは、日本語代名詞の豊かな言語世界を垣間見せてくれますね。
「奥さん」という語がめちゃくちゃ出てくる小説と言えば、やはり夏目漱石「こころ」(1914(大正3年))でしょう。前半では「先生」の妻である静さんの呼称として、後半では先生が青年期に下宿していた、静さんの母親の呼称として「奥さん」が登場します。この作品は、一人称の語り手による手記の体を(前半後半とも)取っているため、固有名詞を避ける書き方をしており、その結果であると思われます。
私はすぐ玄関先を去らなかった。下女の顔を見て少し躊躇してそこに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまたうちへはいった。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
「奥さんらしい人」という表現から、「奥さん」が「配偶者」の意味で用いられていることが感じられます。ただ、自分の配偶者を呼ぶ呼び方ではないですね。
私の知る限り先生と奥さんとは、仲のいい夫婦の一対であった。家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論わからなかったけれども、座敷で私と対坐している時、先生は何かのついでに、下女を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静(しず)といった)。先生は「おい静」といつでも襖ふすまの方を振り向いた。その呼びかたが私には優しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子もはなはだ素直であった。ときたまご馳走になって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間に描き出されるようであった。
「こころ」は新聞連載ですが、奥さんの初登場は先の連載4回目、その後奥さんと先生(夫)の重要なシーンである第8回を経て、この第9回で初めて名前が登場します。この作品、先生を訪問してきた「私」と奥さんが共に食卓を囲むシーンなどが多くあり、この夫妻は大正当時の一般的な夫婦関係よりも幾分現代に近い感じで描かれているように思います。
次は、「先生」が若いころ、その奥さんの自宅に下宿をしたとき、奥さんの母親を「奥さん」と読んでいたというシーンの引用です。(中略があります)
それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷の士官学校のそばとかに住んでいたのだが、厩(うまや)などがあって、邸(やしき)が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、無人で淋しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人(びぼうじん)と一人娘と下女より外にいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極好かろうと心の中に思いました。
(略)
私は未亡人に会って来意を告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも引っ越して来て差支えないという挨拶を即坐に与えてくれました。未亡人は正しい人でした、また判然(はっきり)した人でした。私は軍人の妻君というものはみんなこんなものかと思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性でどこが淋しいのだろうと疑いもしました。
(略)
私は未亡人の事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんといいます。奥さんは私を静かな人、大人しい男と評しました。それから勉強家だとも褒めてくれました。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。
「上さん」「未亡人」「妻君」「奥さん」は全て同じ人物を指していますが、それぞれの場所でニュアンスが異なることが分かります。それぞれ「下宿屋の女主人」「(夫を亡くした)配偶者」「配偶者(尊称)」「既婚女性(尊称)」くらいに捉えるのが適切でしょうか。
そういうわけで、私たちは家の主婦を奥さんと呼んでいました。下宿屋のおかみさんを奥さんと呼ぶのは少し変ですが、前にも言う通り、まったく上品で温和な婦人で、どうもおかみさんとは呼びにくいように感じられるので、どの人もみな申合せたように奥さんと呼び、その娘を伊佐子さんと呼んでいました。家の苗字は――仮りに堀川といって置きましょう。(「白髪鬼」岡本綺堂、1923(昭和3年))
…「下宿屋のおかみさんを奥さんと呼ぶのは少し変」という言語感覚から、「おかみさん」「奥さん」の使い分けがくっきりと見て取れて面白い用例ですね。この話は、発表は昭和ですが、岡本綺堂は明治生まれですし、物語内時間は10数年前(つまり震災前)という設定ですから、言語感覚としては漱石の少し後、大正期の中頃を反映していると言った方が適切かもしれません(まあ、それを言うなら「こころ」の場合、おおむね時代は明治期の想定と言えそうですが。)
昭和に入ると、「奥さん」が配偶者を指す呼称としてライトに用いられ始めたように思います。太宰はこういう言葉のちょっとしたニュアンスが本当に上手な作家で、次の用例の言葉の使い分けは非常に印象的です。
「奥さま、もうすこしのご辛棒しんぼうですよ。」と大声で叱咤しったすることがある。
お医者の奥さんが、或るとき私に、そのわけを語って聞かせた。小学校の先生の奥さまで、先生は、三年まえに肺をわるくし、このごろずんずんよくなった。お医者は一所懸命で、その若い奥さまに、いまがだいじのところと、固く禁じた。奥さまは言いつけを守った。それでも、ときどき、なんだか、ふびんに伺うことがある。お医者は、その都度、心を鬼にして、奥さまもうすこしのご辛棒ですよ、と言外に意味をふくめて叱咤するのだそうである。(「満願」太宰治、1938(昭和13年))
医者が、夫の体の静養のためにセックスを禁止して…というちょっとした掌編なのですが、最初の「奥さま」は、医者が患者の配偶者である若い奥さんに言い聞かせるときの呼称、医者の「奥さん」は医者の(やや年配の)配偶者のニュアンスで用いられていますが、地の文での「奥さま」と「奥さん」の使い分けで、雰囲気が表現されているのは実にうまいです。
最後に、呼称という点で、最初に見かけてこれは書き留めておきたい(ぶっちゃけこの記事を書くきっかけになった)のがこちら。
妻は水の引くように痩せて、蚊帳の中で死んでしまった。死ぬ前「今度奥さんを貰う時は、丈夫な奥さんを貰ってね」と言った。
「莫迦、お前が死んだら俺は一生独身でいるよ、女房なんか貰うものか」
彼は妻の胸に涙を落しながら言った。その涙をふいている内にふと俺は嘘を言ってるのかも知れないと思った。
しかし、妻が死んでしまうと、彼は妻に言った言葉を守ろうと思った。死んだ人間に対しては、もう約束を守るよりほかに何一つしてやるものがないのだと思った。
この3つの呼称の呼び分けを、代名詞が豊富でない文化圏の人にどうすれば伝えられるだろうなあ、と思ったりします。
さて、蛇足ながら、このエントリを書いた理由について。呼称、代名詞というのは、時代によって変遷し、人の心を映すもの。だから、いろいろな意見や議論はあっていいと思いますし、そもそも言葉が時代のジェンダー観を反映するというのは、取り立てていう必要もないくらい当たり前のことではありますが、そういった、人々の内心の方を変えるのが面倒だからといって、言葉の方に罪を着せるようにして言葉狩りじみたことをするのは、正直「違うんじゃないかなあ」と思います。人々の心が変化すれば、誰が強制しなくても言葉は廃れ、変化していきます。〇〇という言葉を使うな!なんて言わなくても、それが指す事象が消えたり変化したりすれば、あっという間に言葉は移り変わっていくものです。だから、変えるべきことを人々の総意に基づいて粛々と変えるよう努力するのが重要であって、「言葉狩り」みたいな遊びで何か大きな社会貢献を為したような気分になるのは、正直やめてもらいたいなあ、と思っています。そんな感じのことを感じていただけたのなら、この記事を書いた意味があったというものです。ありがとうございました。