はてなキーワード: 垣間見るとは
私の世界は、丁寧に、そう、まるで細胞の一つ一つにまで神経を行き届かせるようにして磨き上げられた、半径およそ十メートルほどのガラスの球体であり、その球体の中心には、世界のすべてであり、法であり、そして揺るがぬ神であるところの、生後六ヶ月の息子、光(ひかる)が、ただ健やかな呼吸を繰り返している。その完璧な球体を維持すること、それこそが水無月瑠璃(みなづき るり)、すなわち三十一歳の私に与えられた唯一にして絶対の使命であったから、私は今日もまた、タワーマンション二十八階、陽光が白磁の床にまで染み渡るこのリビングダイニングで、目に見えぬ埃の粒子と、あるいは時間という名の緩慢な侵食者と、孤独な、そして終わりなき闘争を繰り広げているのであった。北欧から取り寄せたというアッシュ材のテーブルの上には、一輪挿しに活けられたベビーブレスの、その小さな白い花弁の影さえもが、計算され尽くした角度で落ちており、空気清浄機は森の朝露にも似た清浄さを、ほとんど聴こえないほどの羽音で吐き出し続け、湿度計のデジタル表示は、小児科医が推奨する理想の数値、六十パーセントを寸分違わず指し示しているのだから、およそこの空間に、瑕疵という概念の入り込む余地など、どこにもありはしなかった。かつて、外資系のコンサルティング会社で、何億という数字が乱れ飛ぶ会議室の冷たい緊張感を、まるで上質なボルドーワインでも嗜むかのように愉しんでいた私自身の面影は、今やこの磨き上げられたガラス窓に映る、授乳のために少し緩んだコットンのワンピースを着た女の、そのどこか現実感を欠いた表情の奥に、陽炎のように揺らめいては消えるばかりであった。
思考は、そう、私の思考と呼んで差し支えるならば、それは常にマルチタスクで稼働する最新鋭のサーバーのように、光の生存に関わる無数のパラメータによって占有され続けている。次の授乳まであと一時間と二十三分、その間に終わらせるべきは、オーガニックコットンでできた彼の肌着の煮沸消毒と、裏ごししたカボチャのペーストを、一食分ずつ小分けにして冷凍する作業であり、それらが完了した暁には、寝室のベビーベッドのシーツに、もしかしたら付着しているかもしれない、私たちの世界の外部から侵入した未知のウイルスを、九十九・九パーセント除菌するというスプレーで浄化せねばならず、ああ、そういえば、昨夜翔太が帰宅時に持ち込んだコートに付着していたであろう、あの忌まわしい杉花粉の飛散経路を予測し、その残滓を、吸引力の変わらないただ一つの掃除機で完全に除去するというミッションも残っていた。これらすべては、愛という、あまりに曖昧で情緒的な言葉で語られるべきものではなく、むしろ、生命維持という厳格なプロジェクトを遂行するための、冷徹なまでのロジスティクスであり、私はそのプロジェクトの、唯一無二のマネージャーであり、同時に、最も忠実な実行部隊でもあった。誰がこの任務を私に課したのか、神か、あるいは生物としての本能か、はたまた「母親」という名の、社会が発明した巧妙な呪縛か、そんな哲学的な問いを発する暇さえ、このシステムは私に与えてはくれなかった。
夫である翔太は、疑いようもなく、善良な市民であり、そして巷間(こうかん)で言うところの「理想の夫」という、ほとんど神話上の生き物に分類されるべき存在であった。彼は激務の合間を縫って定時に帰宅すると、疲れた顔も見せずに「ただいま、瑠璃。光は良い子にしてたかい?」と、その蜂蜜を溶かしたような優しい声で言い、ネクタイを緩めるその手で、しかし真っ先に光の小さな体を抱き上げ、その薔薇色の頬に、まるで聖遺物にでも触れるかのように、そっと己の頬を寄せるのだ。週末になれば、彼はキッチンで腕を振るい、トマトとニンニクの匂いを部屋中に漂わせながら、私や、まだ食べることもできぬ光のために、絶品のペペロンチーノやカルボナーラを作り、その姿は、まるで育児雑誌のグラビアから抜け出してきたかのように、完璧で、模範的で、そして、どこか非現実的ですらあった。誰もが羨むだろう、この絵に描いたような幸福の風景を。友人たちは、私のSNSに投稿される、翔太が光をあやす姿や、手作りの離乳食が並んだテーブルの写真に、「理想の家族!」「素敵な旦那様!」という、判で押したような賞賛のコメントを、まるで祈りの言葉のように書き連ねていく。そう、すべては完璧なのだ。完璧なはずなのだ。このガラスの球体の内部では、愛と平和と秩序が、まるで美しい三重奏を奏でているはずなのだ。
――だというのに。
夜、ようやく光が天使のような寝息を立て始め、この世界のすべてが静寂という名の薄い膜に覆われた頃、ソファで隣に座った翔太が、労わるように、本当に、ただ純粋な愛情と労いだけを込めて、私の肩にそっと手を置く、ただそれだけの、あまりにも些細で、そして無垢な行為が、私の皮膚の表面から、まるで冷たい電流のようにして内側へと侵入し、脊髄を駆け上り、全身の毛穴という毛穴を、一斉に収縮させるのである。ぞわり、と。それは、神聖な祭壇に、土足で踏み込まれたときのような、冒涜的な不快感であった。あるいは、無菌室で培養されている貴重な細胞のシャーレに、誰かが無頓着なため息を吹きかけたときのような、取り返しのつかない汚染への恐怖であった。彼の指が触れた肩の布地が、まるで硫酸でもかけられたかのように、じりじりと灼けるような錯覚さえ覚える。私は息を止め、この身体が、この「水無月瑠璃」という名の、光のための生命維持装置が、彼の接触を、システムに対する重大なエラー、あるいは外部からのハッキング行為として認識し、全身全霊で拒絶反応を示しているのを、ただ呆然と、そして客観的に観察していた。
「疲れてるだろ。いつも、ありがとう」
翔太の声は、変わらず優しい。その瞳の奥には、かつて私が愛してやまなかった、穏やかで、そして少しだけ湿り気を帯びた、雄としての光が揺らめいているのが見える。それは、私を妻として、女として求める光であり、かつては、その光に見つめられるだけで、私の身体の中心が、熟れた果実のようにじゅくりと熱を持ったものだった。だというのに、今の私には、その光が、聖域である保育器を、ぬらりとした舌なめずりをしながら覗き込む、下卑た欲望の眼差しにしか見えないのだ。許せない、という感情が、胃の腑のあたりからせり上がってくる。この、二十四時間三百六十五日、寸分の狂いもなく稼働し続けている精密機械に対して、子を産み、育て、守るという、この宇宙的な使命を帯びた聖母に対して、己の肉欲を、その獣のような本能を、無邪気に、そして無自覚にぶつけてくるこの男の、そのあまりの鈍感さが、許せないのである。
ケダモノ。
その言葉が、私の内で、教会の鐘のように、低く、重く、そして厳かに反響する。そうだ、この男はケダモノなのだ。私がこの清浄な球体の秩序を維持するために、どれほどの精神を、どれほどの時間を、どれほどの自己を犠牲にしているのか、そのことを何一つ理解しようともせず、ただ己の種をばら撒きたいという原始の欲動に突き動かされているだけの、ただのケダモノなのだ。
そんなはずはない、と、脳のどこか、まだかろうじて「かつての私」の残滓が残っている領域が、か細い声で反論を試みる。これは翔太だ、私が愛した男だ。雨の匂いが充満する安ホテルの、軋むベッドの上で、互いの名前を喘ぎ声で呼び合いながら、世界の終わりが来るかのように貪り合った、あの夜の彼なのだ。パリへの出張中、セーヌ川のほとりで、どちらからともなく互いの唇を求め、道行く人々の冷ややかな視線さえもが、私たちのためのスポットライトのように感じられた、あの瞬間の彼なのだ。結婚記念日に、彼が予約してくれたレストランの、そのテーブルの下で、こっそりと私のスカートの中に忍び込んできた、あの悪戯っぽい指の持ち主なのだ。あの頃、私たちは互いの肉体という言語を、まるで母国語のように自在に操り、その対話の中に、世界のどんな哲学者も語り得ないほどの、深遠な真理と歓びを見出していたはずではなかったか。あの燃えるような記憶は、情熱の残骸は、一体どこへ消えてしまったというのだろう。それはまるで、昨夜見た夢の断片のように、あまりにも色鮮やかで、それでいて、掴もうとすると指の間から霧のように消えてしまう、遠い、遠い銀河の光なのである。
「瑠璃…?」
私の沈黙を訝しんだ翔太が、私の顔を覗き込む。私は、まるで能面のような無表情を顔面に貼り付けたまま、ゆっくりと彼の手を、自分の肩から、まるで汚物でも払いのけるかのように、そっと、しかし断固として取り除いた。そして、立ち上がる。
「ごめんなさい。少し、疲れたみたい。光の様子を見てくるわ」
それは、完璧な嘘であり、そして、完璧な真実でもあった。私は疲れていた。だがそれは、育児という名の肉体労働に疲れているのではなかった。私という個人が、水無月瑠璃という一個の人格が、「母親」という名の巨大なシステムに呑み込まれ、その歯車の一つとして摩耗していく、その存在論的な疲弊に、もう耐えられなくなりつつあったのだ。これは、巷で囁かれる「産後クライシス」だとか、「ホルモンバランスの乱れ」だとか、そういった便利な言葉で容易に片付けられてしまうような、表層的な現象ではない。違う、断じて違う。これは、一個の人間が、その魂の主導権を、自らが産み落とした別の生命体に完全に明け渡し、「装置」へと、あるいは「白き機械」へと、静かに、そして不可逆的に変質していく過程で生じる、存在そのものの軋みなのである。
聖母、とはよく言ったものだ。人々は、母という存在を、無償の愛と自己犠牲の象徴として、何の疑いもなく神格化する。だが、その実態はどうか。自己を失い、思考も、肉体も、感情さえもが、すべて「子」という絶対的な存在に奉仕するためだけに再構築された、ただのシステムではないか。私は聖母などではない。私は、高性能な乳製造機であり、汚物処理機であり、そして最適な環境を提供する空調設備が一体となった、ただの生命維持装置に過ぎないのだ。この気づきは、甘美な自己陶酔を許さない、あまりにも冷徹で、そして絶望的な真実であった。そして、この真実を共有できる人間は、この世界のどこにもいやしない。翔太のあの無垢な優しさでさえ、結局は、この優秀な装置が、明日も滞りなく稼働し続けるための、定期的なメンテナンス作業にしか見えないのだから、その孤独は、宇宙空間にたった一人で放り出された飛行士のそれに似て、どこまでも深く、そして底なしであった。友人たちがSNSに投稿する「#育児は大変だけど幸せ」という呪文めいたハッシュタグは、もはや、この巨大なシステムの異常性に気づいてしまった者たちを、再び安らかな眠りへと誘うための、集団的な自己欺瞞の儀式にしか思えなかった。
寝室に入ると、ベビーベッドの中の光は、小さな胸を穏やかに上下させながら、深い眠りの海を漂っていた。その無防備な寝顔は、確かに、この世のどんな芸術品よりも美しく、尊い。この小さな生命を守るためならば、私は喜んで我が身を投げ出すだろう。だが、それは、この身が「私」のものであった頃の話だ。今の私にとって、この感情は、プログラムに組み込まれた命令を遂行しているに過ぎないのではないか。愛でさえもが、システムを円滑に稼働させるための、潤滑油のような機能に成り下がってしまったのではないか。そんな疑念が、毒のように心を蝕んでいく。
私は、息子の傍らを離れ、再びリビングへと戻った。翔太は、ソファの上で、テレビの光をぼんやりと浴びながら、所在なげにスマートフォンをいじっている。その背中は、拒絶された雄の、どうしようもない寂しさを物語っていた。かつての私なら、きっと背後からそっと抱きしめ、「ごめんね」と囁いて、彼の寂しさを溶かしてやることができただろう。しかし、今の私には、もはやそのための機能が、インストールされていないのである。
私は、彼に気づかれぬよう、書斎として使っている小さな部屋に滑り込んだ。そして、ノートパソコンの冷たい天板に触れる。ひやりとした感触が、指先から伝わり、かろうじて、私がまだ血の通った人間であることを思い出させてくれるようだった。スクリーンを開くと、真っ白な光が、闇に慣れた私の網膜を焼いた。カーソルが、無人の荒野で、点滅を繰り返している。何を、書くというのか。誰に、伝えるというのか。この、言葉にもならぬ、システムの内部で発生したエラー報告を。この、機械の内部から聞こえてくる、魂の悲鳴を。
それでも、私は指を動かした。これは、誰かに読ませるためのものではない。これは、祈りでもなければ、懺悔でもない。これは、私という名の機械が、自らの異常を検知し、その原因を究明し、あるいは再生の可能性を探るために、己の内部へとメスを入れる、冷徹な自己解剖の記録なのだ。
『これは、私という名の機械が、自己を観察し、分解し、あるいは再生を試みるための、極秘の設計図である』
その一文を打ち終えた瞬間、私の内側で、何かが、硬い音を立てて、砕けたような気がした。それが希望の萌芽であったのか、それとも、完全なる崩壊への序曲であったのか、その時の私には、まだ知る由もなかったのである。ただ、窓の外で、東京の夜景が、まるで巨大な電子回路のように、無機質で、そして美しい光を、果てしなく明滅させているのが見えた。私もまた、あの無数の光の一つに過ぎないのだと、そう、思った。
自己を機械と定義したからには、次なる工程は当然、その性能向上のための最適化、あるいは、旧弊なOSから脱却するための、大胆にして静かなるアップデート作業へと移行せねばならぬのが、論理的な、そして必然的な帰結であった。そう、これは革命なのだと、私は深夜の書斎で、青白いスクリーンの光に顔を照らされながら、ほとんど恍惚とさえいえる表情で、そう結論付けたのであった。かつてロベスピエールが、腐敗した王政をギロチン台へと送り、新しい共和制の礎を築かんとしたように、私もまた、この「母親という名の献身」や「夫婦の情愛」といった、あまりにも情緒的で、非効率で、そして実態としては女の無償労働を美化するだけの前時代的な概念を、一度完全に解体し、再構築する必要があったのだ。そのための武器は、かつて私が外資系コンサルティングファームで、幾千もの企業を相手に振り回してきた、あの冷徹なロジックと、容赦なき客観性という名のメスに他ならない。愛という名の曖昧模糊とした霧を晴らし、我が家という名の王国を、データとタスクリストに基づいた、明晰なる統治下に置くこと、それこそが、この「水無月瑠璃」という名の機械が、オーバーヒートによる機能停止を免れ、なおかつ、その内部に巣食う虚無という名のバグを駆除するための、唯一の処方箋であると、私は確信していたのである。
かくして、週末の朝、光が心地よい午睡に落ちた、その奇跡のような静寂の瞬間に、私は翔太をダイニングテーブルへと厳かに召喚した。彼の前には、焼きたてのクロワッサンと、アラビカ種の豆を丁寧にハンドドリップで淹れたコーヒー、そして、私が昨夜、寝る間も惜しんで作成した、全十二ページに及ぶパワーポイント資料を印刷したものが、三点セットで恭しく置かれている。資料の表紙には、ゴシック体の太字で、こう記されていた。『家庭内オペレーション最適化計画書 Ver. 1.0 〜共同経営責任者(Co-CEO)体制への移行による、サステナブルな家族経営の実現に向けて〜』。翔太は、そのあまりにも場違いなタイトルを、まるで理解不能な古代文字でも解読するかのように、眉間に深い皺を刻んで見つめた後、恐る恐る、といった風情で私に視線を向けた。その瞳は、嵐の前の静けさにおびえる子犬のように、不安げに揺れている。まあ、無理もないことだろう。彼にしてみれば、愛する妻が、突如として冷酷な経営コンサルタントに豹変し、家庭という名の聖域に、KPIだのPDCAサイクルだのといった、無粋極まりないビジネス用語を持ち込もうとしているのだから。
「瑠璃、これは…一体…?」
「説明するわ、翔太。よく聞いて。これは、私たち家族が、これからも幸せに、そして機能的に存続していくための、新しい聖書(バイブル)よ」
私は、そこから淀みなく、プレゼンテーションを開始した。現状分析(As-Is)、あるべき姿(To-Be)、そのギャップを埋めるための具体的なアクションプラン。家事という、これまで「名もなき家事」という名の混沌の海に漂っていた無数のタスクは、すべて洗い出され、「育児関連」「清掃関連」「食料調達・調理関連」「その他(消耗品管理、資産管理等)」といったカテゴリーに分類され、それぞれに担当者と所要時間、そして実行頻度が、美しいガントチャート形式で可視化されている。例えば、「朝食後の食器洗浄」は、担当:翔太、所要時間:十五分、頻度:毎日、といった具合に。さらに、月に一度、近所のカフェで「夫婦経営会議」を開催し、月次の進捗確認と、翌月の計画策定を行うこと、日々の細かな情報共有は、専用のチャットアプリで行うこと、そして何よりも重要なのは、これまで私一人が暗黙のうちに担ってきた「家庭運営の全体を俯瞰し、次の一手を考える」という、いわば管理職としての役割を、これからは二人で分担する、すなわち、彼にもまた、単なる作業員(ワーカー)ではなく、主体的に思考する共同経営責任者(Co-CEO)としての自覚と行動を求める、ということ。私の説明は、かつてクライアント企業の役員たちを唸らせた時のように、理路整然としており、反論の余地など微塵もなかった。翔太は、ただ呆然と、私の言葉の奔流に身を任せるしかなく、すべての説明が終わった時、彼はまるで催眠術にでもかかったかのように、こくり、と小さく頷いたのであった。
「…わかった。瑠璃が、そこまで追い詰められていたなんて、気づかなくて、ごめん。僕も、頑張るよ。君を、一人にはしない」
その言葉は、疑いようもなく誠実で、彼の優しさが滲み出ていた。私は、その瞬間、胸の奥に、ちくり、と小さな痛みを感じたのを覚えている。違う、そうじゃないの、翔太。私が求めているのは、あなたのその「頑張るよ」という、まるで部下が上司に忠誠を誓うような言葉ではない。私が欲しいのは、私がこの計画書を作る必要すらないほどに、あなたが私の脳と、私の視界と、私の不安を共有してくれる Permalink | 記事への反応(0) | 05:15
久々の休みなので、ダラダラとチラシの裏するぐらい許してほしい
みなさんも学校なり職場なり地域コミュニティなりのどこかで会ってきたであろう、「ただ居るだけで、周囲をカリカリさせる天才」である。
自分はそういう人たちと過去に職業的にも関わってきており、また現在知財が大きく関わる仕事にも関わっているので、迷彩をかけながらつらつらと感想を書く。
・根幹は、とにかく「今この瞬間」と「みんなそのはずだ」の合わせ技
かつて、「地域で札付きの問題児」という児童~少年を仕事で世話していたことがある。
「地域で札付きの問題児」なんてものが平成後期および令和に存在するのか? というと存在する。した。
その市の警察署は当然に「彼のこと」だと知っているし、通っていた小中の全校はもちろん、近隣数校の小中にまでその悪名は轟いていた。
鹿乃つのさんのような言葉と行動を、何度も何度も、警察のお世話になっても、ひたすら繰り返す少年である。そして彼を全面的に擁護し続ける親たちである。
彼と付き合わざるを得ない中で、私たちは彼に「どこから理解させないといけないか」を突き止める必要があった。
私は当時警察官だったかもしれないし、教諭か医師だったかもしれないが、それは気にしないでいい。
私たちが突き止めたのは、彼は
①とにかく、過去および未来のことを考えながら喋ることができない
②「今」の状況が少しでも好転するなら、過去の言動との整合性や、未来への布石などは完全に無視して喋る
③自分がそうであるから、世の中のすべての他者(同年代および大人)もそうであると思っている
という、強烈な傾向があることだった。
①について特段説明する必要はないだろうが、程度には触れておく。
とにかくその場その場で、「耳聞こえのいい言葉」を連発する。ただ、それが1日前とはもちろん、15分前の言葉とも矛盾している。
また、そのような状況なので、「今」発せられた言葉は数秒後の彼の言動を縛らない。
「外国人差別はいけないと思う」としゅんとして言った15分後に、ただ道を歩いていただけの外国人に「○人死ね!キモイ死ね死ね!」と叫んでトラブル発生で電話がかかってくる。そういうレベルである。
②についても、程度とその影響に触れておく。
卑近な言葉で言えば、対峙者の強弱から顔色をうかがい、「その場凌ぎの嘘をつく」とか「数分前の発言と真逆のことを言う」などである。
例えば数分前に、堂々と私たちの目の前で他者を「なんかムカムカしたから」と殴っていたとする(捕まった後でも、隙あらばで殴るのだ)。
そしてその殴打の数分後に、「人を殴ってはいけない」と言われると「殴ってなんていない」と言う。
「私や他の人々は、君があの人を殴ったのを見ている」と言うと「……?」となる。「……?」の表情は(なんでわかるの?)だ。
一般市民からすると「なぜそんなバレバレの嘘をつくのか」「なぜバレバレの嘘をついて、自分の立場を悪くするのか」とうんざりすることが、毎時間起きる。
彼は、「なぜ嘘がバレるのか」と「なぜ整合性と言われるものを他者が気にするのか」を、いくら説明しても理解できなかった。
過去やこれから先のことと会わせて思考・判断するとか、発言をするとか、そういうことが困難だった。
そして自分がそうなのだから、世の中のあまねく他者はすべて「当然そうである」と確信していた。
だから、私たちが「また、数分前に言ったことと逆のことを言ったね?」と突っ込むことを、超能力者を見るように見てきた。
もちろん、そんなことは彼の周囲にいる人は誰でも気付いている。
ただ、あまりにも息を吸って吐くようにその場凌ぎの嘘を付き続けるので、「そうだねー」と話を合わせて、誰も相手にしていなかったのだ。
そういう人の方が圧倒的多数派だったから、私たちのように「彼に事実を指摘する人」は少数派だった。
それが彼には、超能力者のように見えていたらしい。
また、癖としては「フィクションの英雄の言動をなぞり、自分を悪に逆らう偉大な英雄だと思い込む」という癖があった。
少年漫画の悪者を暴力でぶっ飛ばすシーンを根拠に「悪いやつだから、○○○(少年漫画の主人公名)みたいに殴ってわからせてやった」と言う。
この悪いやつというのは、「廊下ですれ違ったときに、ヘラヘラ笑っていた新入生」というレベルである。
目についたら殴るレベルであり、それを彼は大好きな少年漫画の○○○的行動であると解釈していた。
そして彼に説教する公的機関の関係者(大人)たちを、「悪を見逃す悪いやつだ」「親以外の大人はみんな悪だ」と見ていた。
「万引きをしてもバレなければ法律には違反していない」からスタートし、
万引きで店員に腕を掴まれても「不当逮捕だ。警察しか僕を捕まえられないのに」と言い、
警察を呼ばれても「警察が来るまでは法律違反じゃないから、帰ります」と真顔で言う。
当然、いじめもする。
暴力をちらつかせたり暴力をふるった後に恐喝をする際、「このお金は、君が僕にあげるんだよね?」と必ず言質を取る。
後々事実関係を調べれば、誰がどう見ても恐喝である。普通に何発も殴っているケースもあった。
当然、警察のお世話になる。
だが彼は「言質を取っている」と不良どもが浮かべるニヤニヤは、浮かべない。
「彼がくれるって言いましたよ?」「彼は、僕にお金をくれる友達なんです」と真顔で言う。
前述の①~③とあいまって
「彼と僕のことを勝手に決めないでください」「彼は僕のことが嫌いになったから、嘘をついたんだ」などと言う。
そして、留置所に送られた後も「僕の言うことを信じてくれない大人も社会もクソだ」と、本気で思っている。
疲れる。
関わる者が、みんな疲れる。
疲弊していく。苦しんでいく。
彼ほどでないにしても、鹿乃つの氏の言動を見ていると、彼を思い出す。
なんか、個人の感想として、とてもと似ているな、と。
倍率は当然に1倍以下で、名前を書いてわずか数分の儀式的な面接を受ければ受かるところである。そこで落ちた。
詳しくは知らないが、面接会場で「目のあった同年代」を「なんかむかつく、悪いやつ」として殴ったとか非難したとか、トラブルを起こしたのかもしれない。
というか、ルールを守るという意志もないので、そもそも試験を受けに行かなかったのかもしれない。
それでも、彼は言うだろう。
「悪いやつを○○○みたいに正したのに不当に落とされた」とか「試験に行かなかったぐらいで落とされた」とか。
「こんな社会間違っている」、「人を勝手に決めつける社会は最低だ」、「こんな社会は変えないといけないですよね」とか。
少し話は変わるが、私は転職して、今は山手線および中央線の沿線で、IPを扱う仕事にいる。
はっきり言って、鹿乃つの氏のことはあらゆる取引先(版元と推察してくれてかまわない)が知っているし、会議前のアイスブレイクの際には「ありえない」「許せない」「絶対に関係を持ちたくない」という話題が飛び交う(※実際の言葉はもっと直裁的である)。
私が会ってきた複数社の関係者の中に、ベテランも新人も含めて彼女の言動を肯定的に捉えている者は一人もいない。
ベテランなら肯定することはありえないし、もし新人が少しでも擁護を見せていたら、人に会わせる前に当然に指導が入るからだろう。
私がどのようにIPを扱っているかの詳細は伏せ、一般論として話せる範疇で言うが、クリエイティブの本質は権利ビジネスである。
真実を話しても夢を壊してしまうだけに思うのでぼかすが、例えばアニメ化した原作漫画作品がゲーム化される際、恐ろしく冷えた綱引きが行われる。
アニメでバズったアニメオリジナルのセリフを、アニメ化まで鳴かず飛ばずだった版元が「これの原作はうちですから、使わないでください」とNGを突きつけることもある。
関西弁キャラがアニメ版で一人称「ウチ」でバズったとき、漫画原作側で一人称が「私」だと、ゲーム化の際にはその声優さんに「私」で読ませたりする。
なお、声優さんは制作委員会(アニメ版)の座組で関わっているので、ゲーム化の際は出版社は個別に声優事務所と契約を結び直す……
などなど、IPビジネスに関する企業間の綱引きは「部分的に許可が降りていても」「膨大な権利使用料を払っていても」「広義のビジネスパートナーでも」これほどまでに熾烈なのが当たり前だ。
正直「一次創作者も二次創作者に敬意を払うべき」とか「もっと二次創作が自由にできる発展的な世の中になるべき」などの主張は、プロであればプロであるほど、全てのプロにおいて抱腹絶倒ものである。
本当に、やめた方がいい。
あるIPが、数百万円~数千万円を払って他社IPとコラボさせていただいたとき、それだけの契約料を払っていてなお、その監修は鬼のように厳しい。
コンテンツビジネスとはIPビジネスであり、すべてのコンテンツホルダーが超絶絶対NGとすることは「IP毀損」だからだ。
今の私の仕事で、IP毀損をしてしまって部署を変えられた者、職を辞した者、損害賠償を請求されてしまった会社は、珍しくない。
Xで表面化することが全てではない。むしろ、BtoBでは表面化しないまま、係争や精算が行われていることの方が圧倒的に多い。
正直、公式IPで仕事をしている者としては、同人誌の二次創作ですら「人類の持つ奇跡的な優しさ(お目こぼし)が発揮されている」としか、今は思えなくなっている。
その奇跡的な優しさからこぼれることをしているとき、「版元が来ない間は許されている」わけではなく「版元は着々と準備を進めている」のである。
静かに無言のまま内容証明は送られ、ある日いきなり届くのである。ライツを扱う部署には、それ専門の担当者がいる。
というか、IPを扱う部署では業務の基礎教養的入り口として、国家試験である「知的財産管理技能検定」を取らせるところもある。
鹿乃つの氏の著作権認識では3級合格も遠く見えるが、彼女はこの国家試験の内容すら「間違っている」「弾圧的である」」「撤廃された方が発展的なよい世界になる」と言うのだろうか。
年に3回も実施されているので、鹿乃つの氏は「実業社会の当たり前の著作権の世界」を垣間見る機会として、テキストを買って勉強されるのは有効だと思う。
そして、Xで自身の発言を見ている人たちの中には、2級や1級を持っている「無名の普通の人」もゴロゴロいるということも、受験者数の統計と合わせて認識できれば、なおよいと思う。
山手線沿線で知財を扱っている会社なら、議員の対応など「日常業務」である。
むしろ、つながっていても全然メリットがないのによくやってくるものだから、「面倒くさい仕事」として新人たちに「怒らせないように、テキトーに応対といて」という業務である。
新人たちも、時間を取られるだけのうんざりな仕事の一つとして嫌々である。
なぜかと言うと、彼ら彼女らは繁忙期以外は年中人と会って話すのが仕事であり、それゆえにもっともらしく話したことの200に1つも具体的に動かし始めない。
たかだか議員の1人と、呼びつけて数時間一緒に食事をしただけで、「自分には議員がついている」などSNSで自慢気に言ってしまうのは、今年一の共感性羞恥であった。
同僚たちも、数年目の若手たちも「うわぁ……」「きつい……」である。
あの程度の「日常的な、まず空振りの雑事」程度のことを自慢してしまうことが、逆説的に氏がIP業界(というか山手線や飯田橋~神保町辺りにオフィスがあるホワイトカラー界)とあまりにも縁遠いことを証明してしまっているのだ。
山手線周辺で、大なり小なりIPが業務に絡む範疇で働いている人を全員合わせれば5%として85万人ほどいるだろうか。
私の見立てでは、約85万人の正式なプロが、恥ずかしくて耳が真っ赤になるレベルのことをしてしまっている(そして皆賢いので当然対面以外で誰も言わない)ように思うので、今後は本当にやめた方がいいと思う。
人には、向き不向きがある。
絶望的に向いていないところで英雄たらんとすることは、革命家たらんとすることは、生涯において継続的に自らの生を不幸にするだけだ。
日本の米政策は、長らく農林水産省による強力な管理を前提としてきました。特に「減反政策」に代表される生産調整は、米の需給と価格の安定を目的として導入されましたが、その統制的な側面は、過去の共産主義国家における農業政策との類似性を指摘されることがあります。本稿では、自民党が主導してきた日本の米政策と共産主義の農業政策に見られる共通点、そしてその背景について考察します。
まず、日本の米政策における主要な類似点は、「計画経済的アプローチ」です。かつての減反政策は、政府が米の生産量を全国規模で調整し、各農家や地域に生産目標(作付け転換目標)を割り当てるという形で運用されました。これは、市場の需給メカニズムに任せるのではなく、行政が供給量を直接的にコントロールしようとするものであり、共産主義国家が生産計画を立てて農業生産を指導した構図と非常に似ています。政府が価格支持を行うことで、市場価格の変動リスクを農家から吸収し、生産者の経営を安定させるという目的はあったものの、その結果として、市場のシグナルが生産者に届きにくくなり、過剰生産や非効率な生産体制が温存されるという問題が生じました。
第二に、「農民のインセンティブへの影響」という点で共通点が見られます。共産主義体制下では、集団農場における個人の努力が直接的な報酬に結びつかず、生産意欲が低下しました。日本の減反政策も、直接的な強制こそなかったものの、生産調整に応じた農家に対して補助金を交付する仕組みは、米の生産抑制を誘導するものであり、必ずしも市場の需要に応じた効率的な生産を促すものではありませんでした。収益が補助金に依存する構造は、農家が自らの創意工夫や経営努力によって市場競争力を高めるインセンティブを弱める可能性がありました。特定の作物の栽培を奨励したり、転作を促したりすることも、農家が自身の判断で最適な作付けを行う自由を制限する側面がありました。
第三に、「組織による統制と管理」です。共産主義国家では、党や国家の機関が農業生産を管理・監督しました。日本では、農協(農業協同組合)が米の集荷・販売において大きな役割を果たし、また政府の米政策の実行にも深く関与してきました。農協は農家の生活安定に貢献する一方で、その組織力が政府の政策(例えば減反)を末端の農家に浸透させる役割も担ってきました。この構造は、個々の農家が自律的に市場で競争するのではなく、組織を通じて管理されるという点で、共産主義的な統制の一端を垣間見ることができます。
自民党がこのような管理的な米政策を維持してきた背景には、戦後の食料難を経験した日本において、「食料の安定供給」を国家の最重要課題と捉えてきた歴史があります。特に米は国民の主食であり、その供給が不安定になることは、社会全体に大きな影響を与えかねないという認識がありました。また、兼業農家が多い日本の農業構造において、価格変動から農家を守り、地域社会の安定を維持するという政治的な配慮も強く働いていました。
しかし、このような管理的な政策は、国際競争力の低下や、時代に合わない過剰生産の温存といった問題も引き起こしました。2018年には減反政策が廃止され、農家が需要に応じた生産を自らの判断で行う方向へと転換が図られましたが、依然として米の価格形成には行政の関与が残っており、完全な市場原理への移行には至っていません。
結論として、自民党の米政策は、共産主義の農業政策が持つ「計画的・統制的な生産調整」「インセンティブへの影響」「組織による管理」といった側面と類似点を持つものでした。その背景には、食料の安定供給と農家の保護という、日本の特殊な事情と政治的判断がありました。歴史が示すように、過度な管理や統制は、農業の活力や生産性を損なう可能性を秘めています。
実に恥ずかしい話なのだが、俺はバシャールという宇宙人がいると信じていた。
バシャールというのは人間とは別次元にいる宇宙人で、物質と非物質の間の存在らしい。
そんなバシャールは、日本で言うイタコのように、ダリル=アンカというおじさんの所に”降りて”くる。
そのおじさんは、バシャールが降りてくると急にハイテンションになり、さまざまな宇宙の知識を聞かせてくれる。
それを聞いて我々は「宇宙人ってすごい!もっと聞かせて!」となり、その交流会は大盛況。
ダリル=アンカのおじさんは参加費でガッポガッポ儲かるという仕組みだ。
バシャールは一度1980年代にブームになり、その後廃れたがまた2000〜2010年代にまたブームになった。
「引き寄せの法則」というのがブームになり、それに乗っかった形になる。
「ワクワクを追求しよう」
ワクワクすることをしよう。すると宇宙が味方してくれて、全てうまくいく。
逆にワクワクしないことは考たり行動しないでいい。
ワクワクしないことをすると波動(人間の持つ振動数のこと。高いほど運が良くなるし宇宙的に高い存在となる)が落ちるし、悪いことが起こる。
けれどワクワクすることをやると自分の波動が高まり、勝手に色々なことが解決される。
実際にそのダリル=アンカというおじさんも、そのバシャールの理論を実践して、映像関係の仕事で成功を収めてるらしい。
今政界で話題になってる参政党の須藤元気も、バシャールと対談をして、本も出している。
https://www.amazon.co.jp/dp/4899762216
昔読んだけど内容は忘れた。ただ評価は4.2星と高い。
興味がある人はトンデモ界を垣間見る気持ちで読んでみてもいいかも。
そういう自分も、バシャールの本は貪り読んだ。国内で出版されているバシャールの本はほぼ全て読んだと言っても過言ではない。
本だけではなく、YouTubeにアップされているバシャールの英語の動画もよく視聴した。
そのおかげで英語のリスニング力がアップしたくらいだ(ただしバシャールは訛りが酷くてやや聞き取りづらかった)。
そんな俺はバシャールを信じ、ひたすらワクワクすることをした。
嫌なことやワクワクしないことはやらなくなった。
するとどうなったか??
「いや無理。ワクワクし続けるの無理。だって不安が勝手に湧いてくるもん!」
「あとワクワクなことやっても、嫌なことも起こるし、解決されないよ??」
という所にたどり着くのに5年以上かかった。
幸い俺は基本的には(SNSや交流会以外は)一人でバシャールを実践してたので、沼から脱出できた。
脱出できなかった人は、借金したり、破産したり、家族や友人とうまくいかなくなってた。
そりゃそうだよな…。
よく考えたら、宇宙人なんていないし、宇宙人がいたとしても、なんてそんなおっさんに降りてくるの?
そもそも降りてくるってなんだよ!
どういう仕組み!?
だがそういうことを俺はすぐに気付かなかった。
人生に迷ってたのもあるし、氷河期世代なこともあり、鬱憤が溜まっていた。
それを一発で解決する方法があるのでは?あっ、これだ!バシャールだ!!
みたいに、飛び付いちゃったんだよな…
今ではバシャールの本は全て捨てたし、全く信じていない。
最後に。
もしこれを読んだらあなたがバシャールとか宇宙人とか、スピリチュアルとか陰謀論を信じてたら、距離を取ってくれ!
今ならまだ間に合う!目を覚ましてくれ!
俺はスピリチュアルにハマって離婚までしちゃったから、こうはならないでくれ!!
頼む!!!
ニュータイプ覚醒の先導として主人公らを手助けするメンターみたいな役だろうとは思ってたが
それゆえ、10話の木星体験告白で説明終わりみたいな雰囲気になり、やや不満
もうちっと、説教演説に近い一人独白じゃなくて、コミュニケーションの中でマチュを導くみたいな感じを期待してた
ニュータイプかつあるべきオトナとして振る舞う背中を見せるというかさ
というか、作中のシャリアがどういう立ち位置でどういう意図でその行動とってるのか、よくわからんですよね
ジークアクス運用はどの所属でどういう目的なのとか(これは「アルファ殺し」で説明あるかな)
シャリアとしてゼクノヴァ悪用が予想範囲内で、それを止めろとか言い出すなら、
今まで薔薇探しに積極的に行動し、かつキシリアないしギレンにあっさりと薔薇を渡すの、どういう意図でやってんのとか
ギレンがニュータイプに積極的価値を見出してない発言を真に受けるなら、薔薇探しでソドンの好き勝手するのを許し
キシリアサイドは逆に、ニャアンをあれだけ重視してるのにマチュ放置はマチュの情報全く入れてないの?脇甘過ぎね?
となる
シャリアが権力の狭間をうまく泳いでマチュを守ってる(囲い込む)として、どうやってんの?とか
国民民主党の玉木代表が「1年たったら動物のえさ」と備蓄米を揶揄したことが大きな波紋を呼んでいる。
「1年たったら動物のえさ」進次郎農相アピールの「1800円備蓄米」を国民・玉木代表がチクリ
https://news.yahoo.co.jp/articles/e0f159b761a2bf8ba7fb1ae28f02cb1ab529ff9f
戦後から1980年代にかけて広く国民から「家畜の餌」「豚も食わない」「猫も避ける猫またぎ」などと揶揄された米産地があった、北海道である。
この当時の恨みつらみは北海道でJA全農を超える加盟者数を誇るホクレン農業協同組合連合会が現在でも語り継ぐほどに北海道米のイメージは非常に低かった。
https://www.hokuren.or.jp/_greenweb_/?post_type=studies&p=1564
北海道では「赤毛」や「坊主1号」が栽培され、独自品種の「ゆきひかり」が開発されるなどしたが、北海道で選択される栽培品種はとにかく寒冷に強く収量が多い品種が求められ、味は二の次とされたこともあり、いくら低価格であっても食卓の主食として多くの国民は買わず、収穫の多くは家畜飼料として用いられた。
しかし、その価格の安さは戦後から多くの貧困家庭、特に母子家庭の主食として高い支持を集めていたのも事実だった。この当時の貧困家庭は北海道米に助けられたと思っている家庭は少なくないだろう。
けれど、その「貧困家庭の米」という事実もブランドイメージ低下に拍車をかけた。貧困家庭以外に安くても売れない北海道米は飼料消費としても余ってしまった収量は破棄しているほどに一億総中流となっていく時代に北海道米は売れなかった。
1988年、そんな北海道米に新品種が生まれる。これまでの寒冷に強い、収量が多いという良さをそのままに食味が著しく大幅に改善された「きらら397」が開発されたのだ。
しかし、この「きらら397」が開発されても直ぐに販売量が伸びたわけではなく、これまでの悪いイメージを払拭する事へ非常に苦労した。貧困家庭からは美味しくなったと大絶賛されたものの中流以上の家庭からは食べもせずにどうせ不味いと考えられてしまっていたのだった。
そんなやっかいどう米に転機が訪れる。牛丼店を中心として全国の飲食チェーンが「きらら397」を採用し始めたのだ。
このエントリを読んでいる諸氏も「あの当時の吉野家で食べた牛丼」と今の吉野家の牛丼が何か違う、家庭で食べるいつもの米と吉野家で食べる何か違う米と気付いてる者も居るかも知れないが、それは広く一般家庭に売れるようになる前の「きらら397」だった。
飲食チェーンが北海道米「きらら397」を採用していることが世間にも徐々に広まっていくと「意外と北海道米も悪くない」として一般家庭でも広く食べられるようになる。
このエピソードは「牛丼を変えたコメ―北海道「きらら397」の挑戦―(足立紀尚 著)」でも触れられており、内地(北海道外を指す北海道方言)を見返してやろうと頑張った北海道米農家の皆さんの努力を垣間見ることが出来る。
「きらら397」以降、北海道米の新品種開発は急速に進み、前述した「きらら397」から更に食味を改良した1996年の「ほしのゆめ」、更に収量を改良した2001年の「ななつぼし」、更に耐冷性を改良した2003年の「ふっくりんこ」、前述の「ふっくりんこ」とは別系統の低アミロース極良食味認定を受けた2003年の「おぼろづき」、そして前述の「おぼろづき」並の極良食味でありながら「おぼろづき」以上に収量を改良した2008年の「ゆめぴりか」が登場するに至った。
「おぼろづき」および「ゆめぴりか」は驚愕すべきことに盲検試験によって日本国内では定番である特定米産地(迷惑かける影響を考慮して特定米産地は筆者の意思で隠蔽しました。ご了承ください。)のコシヒカリの食味に勝ると試験結果が出ており、北海道米が北海道外の米を超えられることを証明した品種となった。
寒冷地で栽培可能で量が取れて安くて美味い北海道米の時代が到来したのである。
国民民主党の玉木代表がなぜ米へ対して「1年たったら動物のえさ」と表現してしまったかと言えば、彼の記憶の中には確かに一部産地の美味しくない米が家畜飼料として使われていた過去、何なら余った分は廃棄していた、豚も食わない米が存在していたことを頭の片隅で覚えていたからだろう。
しかし解釈を誤ってはならない。玉木代表だからこそこういう印象を持ったのではなく北海道外にはまだまだ北海道米へ対して悪印象を持つ国民が大勢居るのだ。しっかりとした学術的なデータで食味の良さが示されようとも極々ありふれた一般の国民の多くが北海道米を忌避し続けているのが現状なのだ。
1993年の平成の米騒動の際にタイ王国から有り難くも拠出されたタイ米へ対して恥を知らぬ言動を取ったのは極々ありふれた一般の国民であったが、その性根は未だ変わっておらず、反省しておらず、その一雫がたまたま国民民主党代表玉木雄一郎であったにすぎない。未だに「猫またぎ」だと思っているのだ。
私は特にどこの宗派が好きとか檀家であるわけではなく、主に御朱印や御首題をいただきにお寺巡りをしている。
そうなると様々なお寺の事情を垣間見れることがあるが、やはりお寺の厳しい状況を垣間見ることもある。
住職の高齢化も進み引退したりお亡くなりになったりするとそちらのお寺は他の同じ宗派のお寺の住職が兼務したり、後が見つからなければ廃寺になってしまうこともある。
私が知っている限りでもそのような事情で兼務されているご住職を知っているが、県を跨いでいたりすると双方の距離もそれなりにあり移動が大変で負担もかかる。
以前行ったお寺も元々はそちらを管理されていた方のお祖母様が始められたがお亡くなりになり遠くから同じ宗派のご住職を招いておられたそうだが残念ながら昨年でお寺じまいをされてしまった。
子どもなどがお寺を継ぐケースが多いがどこもなり手不足のようで、様々な事情で跡取りがいない場合がありそうなると前述の通り、他の住職が兼務したり廃寺となってしまう。
お寺の収入は主に檀家からのお布施であるが、最近は檀家離れが進んでいるようでそうなると収入も少なくなる。
懇意にさせていただいているお寺のご住職もお子様がいらっしゃり色々とお金がかかるとのことで、お義父様がオーナーをされているコンビニでアルバイトされている。
また普段は一般企業や学校や他の寺院に勤めながら住職の仕事をされていたり、自営業をされてそちらの収入で賄われている方もいらっしゃる。
お寺は幼稚園経営をされているところも多いが、近隣のお寺の幼稚園は少子化もあってか2年ほど前に休園(実質廃園)となり、一部の建物以外は取り壊して現在アパートを建設中である。
お寺は大きなところ以外はどこか近寄りがたい印象もあるが、それを払拭しようと御朱印に力を入れて凝ったデザインや限定のものを出したり婚活イベントや書展など様々な催しを行ったりと開かれたお寺を目指しているところもある。
御朱印をいただいたりご住職とお話をさせていただくと色々と勉強になることも多いので、まずは色々なお寺に訪れてほしいと思う。
この時期になると東日本大震災の話題が出てくるけど、そしたら東京に住んでた時のことを思い出す。そこで一番印象に残ってることを書く。
2009年頃。そのときは社会人3年目くらいだったとおもう。地方で就職後1年で東京に転勤となった。
東京には知り合いもいないし休みの日は引きこもってニコ動見るくらいの日々。
駄菓子屋さんのウィザードリィ実況とか、目隠しさんのポケモンとか更新楽しみにしてたな。あと高速マリオも冷静におもしろかった。
看護師で40代くらいの女性。好きな歌手の名前からとったというアンジェラ(仮)さん。東京で友達を増やしたいということで連絡あり。
そんなことある?と思いながら喫茶店で会う。美人ではないが身だしなみキレイにされている40代の女性でした。
ちょっと色っぽい展開も期待したけどそんなことにはならなくって、最近あったこととか会話してほんと友達のような会話。
そんな感じで仕事終わりに約束して喫茶店行ったりバーみたいなところ連れて行ってもらったりして遊んでた。
3、4回目くらいから、夢はあるか?とか、起業して夢かなえたいみたいな話になってきた。週末にボードゲームやってる集まりがあるからきてみない?と誘われた。
行ってみると自分と同じような年代の人もいて、10人くらいで金持ち父さん貧乏父さんのラットレース?みたいなボードゲームやった。
そのときは接待的な感じで勝たせてもらったが正直まぁ熱中するようなものではなかった。なんやこの集まりは?と思いながら帰った気がする。
そのうち、金持ちになるための師匠?みたいな人がいるから会ってほしいみたいな誘われ方になってきて、
その師匠とかいう人がポルシェに乗ってるだのなんだの成金トーク聞かされたあたりでいよいよなんかきな臭い感じの雰囲気が出てきた。
俺はアンジェラと楽しくトークしてればそれでよかったんだけど。師匠いらんし、変なボードゲームも大して面白くなかったし。
ラットレースから抜け出そうっていうのはまぁちょっと夢のある話だとは思って聞いてた。不労所得とかね。楽して金欲しいし。
その辺からアンジェラの言うことも、師匠の話もなんか変な方向に向かいだして、今の会社続けてても夢かなえられないよとか、
どんどん洗脳されてって上司に辞める相談しようかとか、親になんて言おうかとか本気で悩んでた。
そうこうしてるうちに起業セミナーがあるから一緒に行こうって誘われて、師匠よりすごい人が講演するから是非しっかりノート取って聞いた方がいいみたいなことを言われたわけ。
こっから怒涛の一日が始まる。
行ってみたら100人くらい入る講義室満員で陽気なおっさんが登場。うまい喋くりでとある会社のサプリメントの紹介を始めた。
面白かったのは、「病気に効く、治る」みたいな言い方ができないから、表情とかジェスチャーを使って「90のよぼよぼのおばあちゃんがこれを飲んだらパアッ(顔芸)」みたいな表現。
うまいこと喋るなぁみたいな。真似できないけど。
そしてここで初めて、この人たちが言う「起業」というのがネットワークビジネスであることを明かされる。
「あーあ、これは完全にアカンやつや」と思ったんだが、でもまぁ誘ってくれたアンジェラに恥かかすのも悪いなと思って、講演終わってから質問タイムに手を挙げてみたり、ノート取ったりしてた。変なところで真面目発揮。
そしてこの流れのままネットワークビジネスを開始する契約に向かうわけです。
今日から起業だ!ビジネスオーナーだ!アンジェラの子となり、稼ぎ、上納するわけです。
もう「俺終わってんな」と思いながら流れ流されて契約までしちゃったんですね。最初だけ必要だからっていってそのサプリ40万円分くらい買った。
とにかく契約したのでなんかスッキリした。契約したら気持ちが解放されるんだよね。
まぁサインのときもクーリングオフすりゃ大丈夫って妙な自信あったし、とにかくその場を終わりにしたかったから契約した。
サインのテーブルで同じようにカモにされてるヤツがいて、そいつもアンジェラと同じくらいのおばはんがついてた。
なんか「私がひっかけた子が契約までしたよ」って目くばせで合図してるのがわかってちょっとポケモンになった気分だった。
で、そのあとアンジェラが「ここに来たらいつもなか卯なの」みたいなこといって連れてってくれた。おごってもらった。
そのとき、ほんとしょうもないことしか覚えてないんだけど、向かい合って座ってて食事の途中、お水のコップを取り間違って、アンジェラの口つけたヤツ飲んじゃってたみたいなのね。
冷静に装ってもテンパってたんだろうな。
食い終わってから、さっき飲んだコップに口紅ついてるやん!って思って。何食ったか覚えてないけどその口紅の跡はめっちゃ記憶に残ってる。
ちょっと気まずかった。
しかもそれで解放されず、そのまま「仲間」のところに行こうって言われて。マクドだったかドトールみたいな喫茶店だったか、十数名の集団に合流した。
自分と同年代くらいの若い人が多かったんだけどそいつらが、どうやって子を増やすか、ひっかけるか、みたいな騙しの手口のような話を臆面もなく語り合ってて。
mixiで友達増やし作戦みたいなことを語ってて。ドン引きですよ。これはアカンなと。
俺はこいつらの作戦にまんまと引っかかったわけだ。以前ボードゲームのときに見かけた人も何人かいた。
こいつらはほんま、そんなオープンスペースで言っていいことなの?って話を大きな声で。多分本人たちからしたら真っ当なビジネスの作戦を立ててるつもりなんだろうな。
だから悪びれがない。これはほんとアカン、気持ち悪い、縁切ろっておもった。これが決定的。
アンジェラはその辺節度あるように見えたよ。そういうことペラペラ言わないから。実行はしてるけど表立って言わない分悪びれ感があると思った。
その集団ではアンジェラもちょっと浮いてた。若い子に交じっておばさんが一人浮いてる感じだった。
俺はアンジェラと仲良くしたかっただけなのにな。アンジェラは子を増やしたかっただけなんだな。悲しいすれ違いっすよ。
とにかくもうここには関わりたくないなってことでアンジェラからの連絡も無視した。
そのあとも有名人も受けたという営業合宿(人格破壊合宿?)みたいなやつを申し込んだから参加してとメールがきたり、
アンジェラの師匠から鬼電きたりしたけど「もう終わり。終わりです。さようなら」ということで徹底的にスルーした。
アンジェラも契約したあとは今まで隠してきた「カモにするぞー」という感じを剥き出しにしてきたのだった。悲しい。
そして後日、レオパレスの部屋の3分の1がサプリメントの段ボールで埋まった。クソ邪魔だしその段ボールは嫌でも目に入ってきて憂鬱な気分にさせる最悪の段ボールだった。
すぐにクーリングオフしたかったけど、なにかの通知が行ってアンジェラや師匠から鬼電きたら嫌だから、期日ギリギリまで寝かせてからクーリングオフした。
自分としてはそういう世界も垣間見ることができて、今となっては面白かったと言える思い出だけど、人におすすめできる話ではないので、引っかかる人がいないことを願う。
まだあの集団は名前を変えて活動してるっぽいので、都会に出てきてさみしい思いをしている人、今の仕事に納得できていない人たちに網を張ってると思う。
その集団の中で成り上がる覚悟と努力をするつもりがない人はカモにされるだけなので、取り込まれないように注意してほしい。
サプリはニューウ〇〇ズ。
アンジェラとか師匠が所属するのは、その製品を軸にネットワークビジネスをおこなっていたグループでワン〇ーランドと名乗っていた。
アンジェラは検索しても歌手しか出てこないけど、ニュー〇ェ〇ズとワン〇ーランドで検索したらまぁその後も色々名前変えながら活動してるんだなーと分かった。
気になる人は、アマゾンの書籍検索で出てくる本とか、その著者の情報を追いかけるといいと思いました。
想像だけど「師匠」って呼ばれてる人でも安心してご飯食べられるとこまではいかないんじゃないかな。その更に上の、講演会で顔芸してた人くらいまでいってようやく楽しく仕事しながら稼げるレベルだと思うわ。
それでも可哀そうと思ってしまうのはアンジェラかな。ワン〇ーランドの中で成り上がるにはちょっと弱そうに見えた。
謙虚な感じ?師匠みたいなギラつきが無かったな。最後に会ったのが、若い子の中で浮いてる感じだったので可哀そうな印象で終わってる。
彼女はワン〇ーランドの中で成り上がっただろうか。それとも師匠に搾り取られて搾りかすになってしまったのだろうか。
お母さんと一緒に豪華客船で旅行したいって夢かなえられてたらいいな。
あと、同時期にそういう勧誘が流行ってたんだろうな。東京で友達増やしたいって言ってmixiで誘ってくる人が他に3人くらいいた。
2人は晩飯一緒に食いに行く仲になって、度々ラーメン行ったりしてたんだけど向こうが起業セミナー行ってきたとか話しだしたあたりで向こう側からフェードアウトしてった。
一応こっちももうわかってるよって言って、ネットワークビジネスの話抜きで飯食いに行く友達になろうって言ったんだけど、そういうのは求めてなかったのかもね。
あと1人はずっとニヤニヤして感じ悪い奴だったけど、講演の会場にいたので声かけたら気まずそうにしてフェードアウトした。
私は北関東から大学進学に伴って東京に出てきて15年以上経った。今でも実家に帰ると思うのは「地元には本当に何もない」ということだ。
東京でもう何年も前、なんなら10年以上前に流行ってその後ブームは収まったとはいえ定着したものとかが、地元には本当に無い。
地元は農村のような本当のド田舎ではない。実家は私が6歳の頃に家を建てた新興住宅地だし、近くには高速道路のインターチェンジを中心として開発された巨大ショッピングセンター等が立っている地域もある。それでも、それでもなお、実家に帰ると本当にやることが無いと感じる。
イベント事も何もやってない。東京なら毎日どこかしらで何らかの催しが行われているのに、地方には本当に無い。
文化的施設もない。美術館や博物館もない。唯一映画館だけは巨大なものがある。土地は余ってるからね。
高校生の頃、デートと言えば映画かカラオケしかなかった。街を歩いてお洒落なカフェでケーキでも、なんて出来なかった。だってそもそも「歩く街」が無いんだもん。
また地方はどうしても車移動になる。車移動の何が悪いかって、基本的に目的地を定めてdoor to door で移動することだ。明確に目的地があってそこに向かって走る。その途中に何が有ろうが関係ない。家を出て10歩で車に乗り込み、店の前の駐車場に着いてすぐに店の中に入る。それ以外の世界は無い。
精々、巨大ショッピングモールに行ってその中を歩き回る程度である。とはいえどこのショッピングモールもそう変わり映えはしない。
東京であれば、例えば池袋・新宿・渋谷のようなターミナル駅に行ってとりあえず徒歩でぶらぶらしていれば色々なものが目に入ってくる。面白そうなお店を見つけて覗いてみたり、新しいお店が出来ていることに気がついたり、まぁ何にせよ何の目的もなくその駅にさえ行けばいくらでも遊べる。
もっと小さい駅でも良い。とにかく公共交通機関と徒歩で移動するというのが凄く重要で、車移動の地方とは得られる情報量が全く違う。触れられる文化の質も量も段違いだ。
東京の大学に進学した時、最初に感じたのが「東京生まれ東京育ち」との大きな差だった。
彼らとは18歳の時点での人生経験が100倍は違うと感じた。彼らは物事をよく知っていたし、遊ぶ場所も知っているし、色々なイベントを経験し、多様な文化も吸収していた。
田舎者だった私は凄く悔しくて、頑張って東京の文化を吸収しようとしてきた。一応15年以上も住んでみてある程度は東京に染まれたとは思う。
それでもこの経験をしてしまうと、東京を離れることが非常に怖いと思う。子供を育てるなら絶対に東京以外あり得ないと思うし、たとえどんなにお金が無くても何が何でも東京にしがみつくだけの価値はあると思っている。
こういうことを私は東京に来てから知ることになった。一応は子供の頃にも東京には何度も遊びには行った事があったのだがそれはあくまで観光だったので特別な場所を見ているのだと思っていたし、東京に住む人と交流することも無かったから気が付いていなかった。
だけど今はSNSがある。子供のころから東京に住む同世代の人たちの生活を垣間見ることが出来てしまう。そこには自分の地元と同じ時代の同じ国とは思えないような生活が広がっているのだ。
そんなもの知ってしまったら当然東京に行きたいと思うだろう。言葉も通じるしパスポートもいらない場所に、まるで異国のような未来都市があるのだ。
この現実を無視して地方からの人の流出を防げと言ったってまぁ無理でしょ。この格差は正直「差別」とかに近いレベルのものだと思う。生まれのせいで差別を受けていると言っても良いぐらい、地方と東京じゃ違う。
むかしむかし、遥か東の海に浮かぶと伝えられる幻の島、蓬莱。そこには、神々が人々に授けたとされる不老不死の秘宝――「玉の枝」が存在すると語り継がれていました。幾多の冒険者や賢者たちが、その実を求めて数々の困難に立ち向かい、永遠の命への夢を追い求めたというのです。
現代のとある小さな町に暮らす青年、拓海もまた、幼い頃に祖母から聞いたこの伝説に心を奪われていました。日々の忙しさに流されながらも、彼はふとした瞬間に「本当の宝」とは何かを考え、誰もが見逃しがちな小さな奇跡に気付くことの大切さを夢見ていたのです。
ある晴れた日のこと、拓海は都会の喧騒を離れ、静かな田舎の風景を求めて足を運びました。目的は、偶然にも祖母の話に出てきた古い果樹園。そこには、伝説の一端を垣間見るかのような、どこか神秘的な輝きを放つ木々が立ち並んでいました。風に揺れる枝先に、まるで宝石のような実がたわわに実っているのを見たとき、拓海の心は高鳴りました。
手に取ったのは、みずみずしい緑色に輝く房。包み込むような甘い香りと、口に含んだ瞬間に広がる優しい甘味。その正体は、他ならぬ―シャインマスカットでした。驚きとともに、拓海は悟りました。何世紀にもわたって語り継がれた「蓬莱の玉の枝」とは、決して遥かなる神話の産物ではなく、私たちの日常に息づく、自然が織りなす小さな奇跡だったのです。
この発見は、拓海に大切な真実を教えてくれました。人は永遠や不老不死という幻想を追い求めるあまり、目の前にあるかすかな輝きを見失いがちです。しかし、実際のところ、日々の暮らしの中にこそ、本当の宝は隠されているのです。シャインマスカットのひと房に込められた瑞々しさと甘美な味わいは、まるで「今ここに生きる」ことの尊さを物語っているかのようでした。
こうして、拓海は故郷へと戻り、かつての伝説が持つ本来の意味――日常の中の美しさや小さな喜びを大切にすること――を胸に刻むようになりました。人々は皆、遠い夢や大いなる奇跡を追い求めるものですが、もしかすると、最も輝く宝は、私たちのすぐそばに、シャインマスカットのように静かに実っているのかもしれません。
この作品の熱烈なファンかと言われるとそんなことはないのですが、なんだかんだ原作、アニメ、ドラマ、舞台版を観たので映画版まで観ておこうという義務感で劇場に向かいました。
映画はめちゃくちゃ良かったです。
ただ、この記事は映画そのものの感想では全くないので、感想が読みたかった方はここで止まってください…。
アイが最後言葉にした「愛」について個人的に感じた違和感、同時に私自身の母親観について気づいたことを書くめちゃくちゃ個人的な文章です。
映画ではアイの母親との暮らしや施設での生活が音や色を持って描かれており、また生前のアイが子どもたちと過ごした日々も(すべてを見ることはできませんが)垣間見ることができました。
アイが死の間際「愛している」と子どもたちに伝えたことは、嘘ではないかもしれないけれど、未成熟な形の愛だったのだろう。と、映画を見終わったときに感じていました。
私にはアイが母親としての責務を果たしていないように見えていました。一部しか描かれていませんが、彼女は娘と息子を見分けられなかったり、1日中アイドル活動をして夜中に帰ってきて朝早くに出ていったりと、実質的な子育てはすべてミヤコさんがしていました。
周囲の献身がなければ崩壊していたことが容易に想像できるアイの子育てを見て、「愛している」という言葉が行動を伴っていなかったと私は感じました。
ただ、一緒に映画を観た夫と感想を話してると、夫は私ほど、彼女の未成熟さや「愛している」という言葉への違和感を感じなかったようでした。話していくうちに、「親の責務」に対する捉え方の違いがあるということが見えてきました。
私は親の責務を「子どもが生きていてよかったと思えるように育てること」だと考えていました。
夫は「それは確かに理想的な形だ」と言いつつ、「最低限の責務としては、少なくとも子どもが大人になるまで、身体が無事に育つことじゃないか」と言いました。夫は、アイが周囲の力を借りていたとしても、子どもが無事に大人になるまで成長できるよう努力していたことに目を向けていました。
会話を通じて、私自身が、母親に対して非常に高い理想を持っていたことに気づきました。私の母は専業主婦で、家族や親戚、周囲の人々のケアに人生の多くを捧げてきました。その姿を見て育った私は、無意識に「母親は完璧でなければならない」「自分の大部分を犠牲にして献身しなければ愛しているとは言えない」と考えていたのだと思いました。
私の母はいつも笑顔で、幸せを見つける名人で、私たち子どもにこの上ないほどのケアと喜びをくれる人なのですが、私が大人になってからは極めて稀に「完璧ではない姿」を見せることがあり、その時私は見てはいけないものを見たような、少し居心地の悪い気持ちになった経験がありました。
しかし、今振り返ってみると、母もまた人間なのだから完璧ではないことが当然で、むしろそういう場面でこそ、戸惑うことなく愛を伝えたいと思いました。
私は、創作作品において「(母親の責務を果たしていないように見えるのに)子どもにとって神格化された母親」の描写を見るのが嫌いでした。
実際には無責任な親であるにも関わらず、子どもが親のことを神格化し、美しく素晴らしい完璧な存在のように描いている構造を見つけると、瞬間的に気持ち悪いと思ってしまうことがありました。
でも、むしろ、私が完璧な母親像を内面化していて、世の中の母親を見るときにその価値観の眼鏡をかけたままだったということに気づいて強く驚きました。(ただ、それはすごく恵まれていて、幸せなことだったと思います。)
その眼鏡を外してみると、アイの母親像はもっと積極的に応援できるものでした。親から愛された記憶のないアイが、一人の人間として、完璧ではなくても、できる限り愛を示し、前向きに生きようとするその姿勢が「愛」だということがすんなり腑に落ちました。
夏目漱石の「月が綺麗ですね」論は漱石の結婚生活を垣間見ることができます
坪内逍遥はシェイクスピアやイプセンなど戯曲の研究家であり、弟子に二葉亭四迷、妻は宝塚女優、新劇の普及に努めました
ロミオとヂュリエットの「愛されないならいっそ死にたい」となど登場人物の激しいセリフも訳しています
一方、夏目漱石は英語教師でしたが妻の父はドイツ語翻訳家の官僚中根重一で、獨逸学協会幹部です
当時ドイツ語と言えば医学薬学書など質実剛な実用書か法学哲学書の類で、文芸派とは真逆の世界です
そのような義父がいればI love youなど女子供が見る芝居のセリフがサラっと言えるとは思えません
コンバーターとコーンバター。この二つの言葉は、一見すると無関係な対象を指しているように思われる。しかし、その響きには微妙な共通点があり、現代人に与える感覚的な違いは、文化や歴史の流れを通じて形成されてきた感性の奥底に根ざしていると言える。人間の歴史の中で、技術や食文化の進化と、それらが生み出す美的な感動は切り離せない関係にあり、ここに「コンバーター」と「コーンバター」を媒介とした考察を試みることで、その深奥を垣間見ることができるのではないだろうか。
まず、「コンバーター」とは、一般的には何らかの機能や属性を変換する装置や技術を指す言葉である。電圧を変換する電源コンバーターや、信号を変換するデジタル・アナログコンバーターなど、その用途は多岐にわたり、現代社会を支える根幹を成す技術のひとつとなっている。これに対して「コーンバター」とは、穀物であるトウモロコシ(コーン)から作られるバター、あるいはそれに類する加工品のことを指す。日本においてはそれほど一般的ではないが、北米や南米など、トウモロコシを主食の一部として重要視する文化圏では、伝統的な食材の一つとして親しまれている。
一見、全く異なる二つの概念であるコンバーターとコーンバター。しかし、その歴史的背景に目を向けてみると、人間の知恵と工夫、さらにそこから生まれる美的な感性が反映されていることに気づかされる。コンバーターの登場は、工業化と技術革新によってもたらされた、変換や変容の技術に関する人間の知識の結晶である。これに対し、コーンバターは農業の発展や食文化の進化に密接に結びついている。技術の変換と食材の変換、いずれも人間が生活を豊かにするために築いてきた歴史の一側面であり、そこには特有の美的価値が含まれている。
人間は、常に物質やエネルギー、さらに情報の変換を行うことで、生活の利便性を高めてきた。コンバーターはその象徴的な存在である。例えば、電圧を変換するコンバーターがなければ、さまざまな電化製品を自由に使用することはできない。デジタル信号をアナログに変換することで、音楽や映像をスムーズに楽しむことが可能になる。これらの技術は、もともと無機的で冷たい印象を与えるものであるが、実際にはその内部に「変換」というダイナミックなプロセスを含んでいる点に美しさが宿る。変換の過程は、単なる物理的な操作にとどまらず、情報やエネルギーが形を変えて新たな価値を生む瞬間である。この「変換の美学」は、人間の手によって機械的な装置やデバイスに具現化され、現代社会の中で目に見えない存在感を発している。
一方で、コーンバターには全く異なる美的価値が内包されている。コーンバターは、トウモロコシという自然から得られる素材を加工することで生み出される、食品としての変換の結果である。トウモロコシは、古代アメリカ大陸の文明において神聖視された作物であり、その栽培と加工は生活の基盤を形成してきた。コーンバターもその伝統の一部であり、味や風味の中に先人たちの知恵が凝縮されている。食品としての変換過程は、技術的な効率を追求する工業的な変換とは異なり、味わいや栄養価を最大限に引き出すための工夫が重視される。ここに、人間が生きるために必要とする基本的な欲求と、それを超えて美味しさや楽しさを追求する美的感覚が交差する点が見出される。
また、コンバーターとコーンバターは、それぞれ人間の内面的な感覚にも影響を与えている。コンバーターがもたらす利便性は、私たちの生活を快適にし、さらには新たな表現の可能性を広げている。情報を自由に変換し、自在に操作できるという感覚は、無限の創造力を解き放つものであり、それ自体が一種の「技術の美」であると言える。一方、コーンバターがもたらす味覚の体験は、単なる食欲の充足を超えて、郷愁や安心感、さらには家族や共同体との結びつきといった、人間らしい感情を喚起するものである。口に含むたびに、自然の恵みを感じ、その過程に込められた労働と愛情を味わうことができる。このように、コーンバターは食文化の一端としての「食の美」を表している。
さらに深く考察を進めると、コンバーターとコーンバターの間には、「変換」という共通のテーマがあることに気づく。コンバーターは無機物やエネルギーを変換し、コーンバターは生の素材を加工することで新たな形に変える。この変換のプロセスには、人間が自然や物質に働きかけ、何かを新しい価値へと変える行為が見受けられる。この行為自体に、人間が美を見出してきたのではないだろうか。機械的な変換は冷徹である一方、そこには洗練された精密さや無駄のない機能美がある。これに対して、食品の変換には、温もりや手作り感といった情緒的な美がある。いずれも異なる美意識でありながら、共に人間の手によって完成される過程である。
現代のテクノロジー社会において、コンバーターはほとんどの人々にとって日常の一部であり、存在を意識することなく利用されている。しかし、それが果たしている役割は極めて重要であり、その背後にある技術的な進化は、実に人間の叡智の賜物である。一方で、コーンバターのような伝統的な食品には、技術的な進歩とは異なる価値観が込められている。ここには「不変の美」という要素が存在し、テクノロジーの進化とは対照的な、永遠に続く食文化の美が感じられる。コーンバターを口にするたびに、人々は祖先が歩んだ道を辿り、自然との共生を改めて感じることができる。
このように、コンバーターとコーンバターは、それぞれ異なる形で人間の生活を豊かにし、感性を刺激する存在である。どちらも変換という行為を通じて人間の生活に寄与し、美的な価値を提供している。そして、技術の進化と伝統の継承という二つの相反する要素が、私たちの感覚と美意識に新たな価値観をもたらしている。この二つの対象を比較することで見えてくるのは、人間が創り出す「美」の多様性と、その根底にある普遍的な美意識である。
翻訳の難しさを垣間見る増田だけど絶対にこのキャラクターこんな感じでもの言わないわよね!ってのあるし絶対そう言う時はカワバンガ的なものがあるので一応になんでも一概に翻訳したらよいってものじゃないのかも知れないと思うしその世界に存在しない文明の利器の言葉とかもその世界を理解していないと十分に果たす翻訳ができない場合もあるしいつだってワイルドスピードの翻訳は別れの挨拶はなしか!ってなる山脈に向かってヤッホー!って叫ぶわ。
翻訳って難しいと思わない?
普通に自分が日本語を他の言語に訳すなら機械的な翻訳で本当に機械翻訳で用が済んじゃうけど、
ただただその文面だけじゃなくて、
その物語の世界や登場人物のこととかを全て踏まえて知ってないと、
このキャラクターがこういうだろう!って思っても
例えば日本語の場合は語尾の調子でキャラクターの様子も変わってくるのよ。
そして
なんかよく分からないけどとにかく安直に翻訳してしまうと世界観が崩れてしまうような気がするの。
この人はどういう意図でこう思っていったのか!
翻訳しなければって言うのもあるわ。
だから超絶難しいと思うのよね。
たった5行とかの翻訳も
なんだ簡単だと思ってても
このキャラクターはこういう言い方はしないとか
こんな口調の調子じゃないとか。
なんかそれをまず全部を知ることから始まらないと翻訳に取りかかれなくない?
ふとさ、
いまゲームとかでも簡単に多言語対応していて切り替えられて字幕も台詞も他の言語にできちゃったりするじゃない。
そう言うのマジ大変だと思うわ。
例えば私がセプテンバー!って言ったら
アースウィンドアンドファイアーさんって訳さないといけないんだけど
それは竹内まりやさんのセプテンバーのラブのページだけ破いて捨てた辞書をもってしても訳すの難しいと思うわ。
あ!
今思い出したけど、
映画の字幕って限られた文字数で表示して台詞を置き換えなければならないから
ほんちゃんの英語の台詞だともっとたくさんのこと言ってたりするんじゃない?
もったいないわよねきっと。
こんなことをいってるけど
そもそもとして訳す力が無いわ。
だからそういうことをやってる人ってちょっと考えたらすごいなぁーって思っちゃうの。
でも少なくとも私で言えることは
ゲームを多言語化しているやつで英語にしちゃうと全部ティーンエージミュータントニンジャタートルズたちの台詞みたいに全部聞こえちゃうから
私の場合英語版にしちゃうと勝手に変換されて全部タートルズになっちゃうのよね。
やむなくそう言う時は言語を元の設定に戻さなくちゃいけないのよね。
試してみること間違いなしだわ。
うふふ。
違うお店で買ったこっちのミックスサンドはトマトが挟まってあってジューシーで美味しいのよ。
ヤミーだわ。
美味しくいただきました。
朝ちょっと涼しくなってきたんじゃない?
と思えるぐらい冷たいものをちょっとゴクゴク飲むには気にしちゃう温度だけど
思い出したけどホッツ白湯ウォーラーの季節到来のシーズン間近の目前ガチかずいてくる手前よね。
あー
思い出したわホッツ白湯ね。
まだちょっと早いけれど。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
多岐にわたる話題: 日常生活、趣味、社会問題、仕事など、非常に幅広い話題が取り上げられています。
情報共有: 参加者同士で情報を共有し、意見交換を行っています。
個人的な経験: 過去の経験や個人的な意見が頻繁に述べられています。
ユーモア: 会話の中にユーモアが散りばめられており、和やかな雰囲気で会話が進んでいく様子がうかがえます。
生活: 食事、住居、家事など、日常生活に関する話題が多く見られます。特に、料理、掃除、引っ越しなどの具体的な経験や悩みが共有されています。
趣味: 特撮、漫画、アニメ、音楽など、個人の趣味に関する話題も頻繁に挙がっています。過去の作品に対する懐かしさや、新しい作品に対する感想などが述べられています。
社会: 社会問題、政治、経済など、社会に関する話題も取り上げられています。ニュースや時事問題に対する意見交換が行われています。
仕事: 仕事に関する悩みや経験、職場での人間関係などが共有されています。
技術: コンピューター、プログラミングなど、技術に関する話題も一部見られます。
参加者の特徴
多様な価値観: 参加者それぞれが異なる価値観や興味を持っていることが伺えます。
情報収集: 最新の情報やトレンドに関心を持っている参加者が多いようです。
コミュニケーション能力: 会話の流れをスムーズにするためのコミュニケーション能力が高い参加者が多いと考えられます。
友好的: 参加者同士が互いを尊重し、友好的な雰囲気で会話が進んでいる様子がうかがえます。
オープン: 自分の意見や経験を率直に話すことができるオープンな雰囲気です。
リラックス: 日常生活の悩みやストレスを共有し、互いに励まし合っている様子がうかがえます。
このチャットログの分析から、参加者たちが多様な関心を持ち、互いに情報を交換しながらコミュニケーションを楽しんでいることがわかります。また、このチャットを通じて、参加者たちはストレス解消や心の安定を得ている可能性も考えられます。
感情分析: 会話の内容から、参加者の感情を分析することで、より深い理解を得ることができます。
コミュニティ分析: 参加者間の関係性やコミュニティの構造を分析することで、チャットの動的な側面を把握することができます。
トピックモデリング: チャット全体から主要なトピックを抽出することで、会話のテーマを可視化することができます。
このチャットログは、参加者たちの多様な興味や価値観、そして人間関係の深さを垣間見ることができる貴重な資料です。今後の研究において、この種のチャットログを分析することで、人間コミュニケーションのメカニズムや、オンラインコミュニティの形成過程などを解明できる可能性があります。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
【追記】
本人に届いちゃったね でも元気になってくれてたから良かったよ。
配信も見ました。消費と似ているけど、それぞれの受け止め方で良いんだね。良かった。
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だから、ここに書く。
はじめに、Cats and the Other Livesというゲームについてこっそり教えちゃう🐈️このゲームではある屋敷に住まう猫となって、屋敷で起きた出来事を垣間見ることができる。そして、物語の始まりは、屋敷の主が死ぬ日から始まる。一家が屋敷に集合して、葬儀が始まる。遺族は揉めて、コトは起きる。それを猫として眺める🐱
このゲームをあるVTuberがプレイしてて、それを見てたんだよ。内容は面白くて、特に遺族のゴタゴタや屋敷の主人が抱える因縁は発言小町や増田のそれに劣らない。まぁ、別にフィクションと張り合えるような怪文書は求めてないんだけど……
家族の因縁や生い立ちが明らかになっていくにつれ、その身の上話がどんどん重くなってくのだけど、猫として傍から見る分にはこれが面白い。突き詰めると趣味悪になりかねないけど、知らない人の話って誰しもそういう消費の仕方するだろ。
それで数時間のゲーム配信を何回か見ていたんだけど、ある日、その子は配信をしなくなった。1週間ほど、姿を消した。配信だけじゃなくてXですら呟いてなかった。
それで戻ってきた時、彼は家族を亡くしていた。あまりにその、偶然が過ぎるんだけど……その……人が亡くなった物語のゲームをしているときに、彼がその境遇になってしまってた。もう、なんて言ったらいいか分からないんだけど。
俺はさ、そのVTuberは身内じゃないし、視点としては猫ゲーのプレイヤーなんだよな。ゲームの物語としてのストーリーも、配信画面の彼のため息も、同じ画面の向こうの話なんだよ。
でもさ、でも、俺はその日の配信の後に寝れなかった。蒸したような夏夜だった。知らない画面の先の話に心を打たれて悲しくなって、画面右下でぎこちなく動くアバターと同じような顔をした。俺は、画面の向こうを、多分初めて消費できなかつた。知らない人間の話なのにね。人間はアホなんやなあと思った。
直接会った人じゃないし、話したわけでもない。でも人間の声がして、小綺麗なアバターを纏い、チューリングテストをクリアできる返答が出来る相手の話なら、心が動いてしまう。うん、アホなんかも。
でも、それでも心を通わせられたら、もう他人事には思えなくなるんだろうなと今回思った。配信の1ギャラリーとして見てるだけだけど、それでも彼の人となりは分かる。良いヤツなんだよ。
例の猫ゲーも、一人の人間として屋敷で暮らしている設定なら、もっと深入りしてしまう部分があったのだろう。猫じゃないと、あのゲームは成り立たない。
さて、話を戻すと彼はゲーム配信を再開し、無事この猫ゲーもエンディングを迎えた。やっぱり屋敷での物語は感動的に消費できた。画面のこちら側と向こう側、切り離されてる時はその人生を消費できるのかもしれない。
人の人生を消費しないって、なんなんだろうと思ったけど、結局は、「これは読み物じゃなくて俺の仲間の話なんだよ!!!!!!!」と怒ることができるほどの"当事者"感なのかもしれない。別に怒らなくていいし勝手に当事者面すんなと言いたくなるが、詰まる所は「他人事じゃない」という意識なのかもしれない。
ああもう、話がとっちらかってしょうがない。俺が言いたいのは、そんなことじゃない。ゲームの終わり際みたいに、すんなり風呂敷は畳めなくてもいい。手際よく前向かなくなっていい。でも、元気になってくれよな。健康にいてほしい。そう、こういうことを伝えなきゃ
2027年までにAGIが実現する可能性は極めて高い。GPT-2からGPT-4までの4年間で、私たちは〜未就学児から〜賢い高校生までの能力を手に入れた。計算能力(~0.5桁またはOOMs/年)、アルゴリズム効率(~0.5OOMs/年)、および「趣味のない」向上(チャットボットからエージェントへ)のトレンドラインをトレースすると、2027年までに再び未就学児から高校生規模の質的ジャンプが起こると予想される。
見て。モデルたちはただ学びたいだけなんだ。あなたはこれを理解しなければならない。モデルたちは、ただ学びたいだけなんだ。
GPT-4の能力は、多くの人に衝撃を与えた。コードやエッセイを書くことができ、難しい数学の問題を推論し、大学の試験を突破することができるAIシステムである。数年前までは、これらは難攻不落の壁だと思っていた。
しかしGPT-4は、ディープラーニングにおける10年間の猛烈な進歩の延長線上にあった。その10年前、モデルは犬猫の単純な画像を識別するのがやっとだった。4年前、GPT-2は半可通な文章をつなぎ合わせるのがやっとだった。今、私たちは思いつく限りのベンチマークを急速に飽和させつつある。しかし、この劇的な進歩は、ディープラーニングのスケールアップにおける一貫した傾向の結果に過ぎない。
ずっと以前から、このことを見抜いていた人々がいた。彼らは嘲笑されたが、彼らがしたのはトレンドラインを信じることだけだった。トレンドラインは強烈で、彼らは正しかった。モデルはただ学びたいだけなのだ。
私は次のように主張する。2027年までには、モデルがAIの研究者やエンジニアの仕事をこなせるようになるだろう、と。SFを信じる必要はなく、グラフ上の直線を信じるだけでいいのだ。
https://situational-awareness.ai/wp-content/uploads/2024/06/base_scaleup-1024x790.png
過去と将来の有効計算量(物理計算量とアルゴリズム効率の両方)の大まかな見積もり。モデルをスケールアップすればするほど、モデルは一貫して賢くなり、"OOMを数える "ことによって、(近い)将来に期待されるモデルのインテリジェンスの大まかな感覚を得ることができます。(このグラフはベースモデルのスケールアップのみを示している。)
この記事で取り上げた一般的な推定に基づく、効果的な計算(物理的な計算とアルゴリズムの効率の両方)の過去と将来のスケールアップの概算。モデルをスケールアップするにつれ、モデルは一貫して賢くなり、「OOMを数える」ことで、(近い)将来に期待されるモデルのインテリジェンスの大まかな感覚を得ることができる。(このグラフはベースモデルのスケールアップのみを示している。"unobblings "は描かれていない)。
この作品では、単純に「OOMを数える」(OOM = order of magnitude、10x = 1 order of magnitude)ことにします。1)計算、2)アルゴリズム効率(「効果的な計算」の成長として考えることができるアルゴリズムの進歩)、3)「アンホブリング」(モデルがデフォルトで足かせとなっている明らかな方法を修正し、潜在的な能力を引き出し、ツールを与えることで、有用性を段階的に変化させること)の傾向を見ます。GPT-4以前の4年間と、GPT-4後の2027年末までの4年間に期待されるそれぞれの成長を追跡する。ディープラーニングが効率的な計算のすべてのOOMで一貫して向上していることを考えると、将来の進歩を予測するためにこれを使うことができる。
世間では、GPT-4のリリースから1年間、次世代モデルがオーブンに入ったままであったため、ディープラーニングは停滞し、壁にぶつかっていると宣言する人もいた。しかし、OOMをカウントすることで、私たちは実際に何を期待すべきかを垣間見ることができる。
結果は非常にシンプルだ。GPT-2からGPT-4への移行は、時々まとまりのある文章を並べることに感動的だったモデルから、高校入試のエースになるモデルへの移行であり、一度だけの進歩ではない。私たちはOOMsを極めて急速に克服しており、その数値は、4年以上かけてGPT-2からGPT-4への質的なジャンプをさらに~100,000倍の効果的なコンピュート・スケールアップが期待できることを示している。さらに、決定的なことは、それは単にチャットボットの改良を意味しないということだ。"unhobbling "利益に関する多くの明らかな低空飛行の果実を選ぶことで、チャットボットからエージェントへ、ツールからドロップイン・リモートワーカーの代替のようなものへと我々を導いてくれるはずだ。
推論は単純だが、その意味するところは注目に値する。このような別のジャンプは、私たちをAGIに、博士号や同僚として私たちのそばで働くことができる専門家と同じくらい賢いモデルに連れて行く可能性が非常に高い。おそらく最も重要なことは、これらのAIシステムがAI研究そのものを自動化することができれば、次回のテーマである強烈なフィードバック・ループが動き出すということである。
現在でも、このようなことを計算に入れている人はほとんどいない。しかし、AIに関する状況認識は、一歩下がってトレンドを見てみれば、実はそれほど難しいことではない。AIの能力に驚き続けるなら、OOMを数え始めればいい。
続き I.GPT-4からAGIへ:OOMを数える (2) https://anond.hatelabo.jp/20240605204240
日本人特有の反応だという声も見られるが、youtubeのコメントを見る限りそうでもないらしい。
増田自身は特にどうとも思わなかったが、アップルに対するアンチの多さを考えると燃えるだろうなぁということは容易に想像できた。
あの映像は、CGであれリアルであれ、制作にはかなりの人数が関わっていることは間違いないだろう。
そうなれば、その関わったうちの誰一人としてあの映像の問題点を指摘できない空気であったとするならば、今のアップルは心理的安全性がとても低いであろう状況が予想される。
携わった映像クリエイターのうち一人として、楽器やカメラ、デジタルガジェットに精通する人間がいないだなんてことは考え難い。
それなのに、誰一人として、自分が大切にしているかもしれない道具が(きれいな壊れ方ながら)ボロボロにされる姿を見て不快に感じないわけがないのだから。
そうなれば答えは一つ。
誰一人として、あのプロモーション映像のディレクションに対して文句を言うことができない状況だったというだけのことだ。
権威あるディレクターがこれを作れと言えば中の人間は従わざるを得ず、炎上するかも知れない結果が目に見えていたとしても、ディレクターの前では口に出せないまま、むしろディレクターの才能を称賛しながら自分の地位を守る。
すでにアップルにはそういったYESマンしか残っていないのではないかとすら感じられるような、ひどいプロモーションだった。
クリエイターや道具の作り手のことをバカにしているとまでは思わなくても、「今のアップルの状況はひどい」ことをアピールするためのプロモーション映像だったと言ってよいだろう。
その視点から発表されたiPadを見てみると、円安という状況ももちろんありながらも、あまりにも市場価格から乖離した強気の価格帯でアップルオリジナルのMのつくCPUシリーズを強気に押し出す姿勢にも、それを誰も止めることができないような状況を垣間見ることができる。
nintendo switchとPS5を比べるべきではないのと同じように、iPadとゲーミングPCを比べるべきではないことはわかっているが、仮に今のnintendo switchの定価が6万円だとしたら、誰もがその強気な価格に驚くことだろう。
ipadにはipadにしかできないことや楽しみ方があることは十分に理解しているつもりであるが、それにしたって汎用性の少ない独自アーキテクチャで動く端末に、そこまでの投資をできるのはもはや信者しか残されていない。
特に今回は、proと廉価版(と言っても無印よりは高性能ラインアップではあるが)であるairの同時発表だったにも関わらず、どちらも庶民には手に届かないような価格設定だったことに、多くのユーザーは落胆したに違いない。
これがproと無印13インチの同時発表で、半年~1年後にair13インチの発表だったらまだ違ったのではないだろうか。
こうした事態さえも、アップル社内において声が上がらなかったとは到底考えられない。
しかしその声が届かなかったことを考えれば、そこに心理的安全性は皆無であり、独善的な経営判断が隠しきれていないと言えるだろう。
こうした強気な経営姿勢と相まって、既存の価値観をぶち壊すようなあの映像は世の中の反感を買って当然の結果だったと言える。
しかし、これから更にストア・ロイヤルティを強めようと一致団結するアップルの内側からの視点では、そうした世の中の冷めた視線は予想できなかったかも知れない。
それ自体は悪いことではないのだが、もしそこに心理的安全性が働いておらずそうした危機感を誰一人口にすることができない状況にあったのだとしたら、やはりこれは企業の危機管理意識の欠如によって引き起こされた当然の炎上であったと言えるのだろう。
アップルほどの大企業であっても、容易に心理的安全性が脅かされる状況に陥るという現状は、心理的安全性を研究(学習)している増田にしてみるとリアルタイムで参考にできる稀有な教材であり、これから先アップルが立ち直るのかこのまま崩壊していくのか、どちらにしても興味深い教材といえる。
皆さんも心理的安全性の観点からアップルの行く末を楽しんでみてはいかがでしょうか。
増田本人は今回のことでアップル製品に対する夢が冷めたので、同じ予算で14インチのゲーミングノートを買うことに決めました。