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はてなキーワード: 還元主義とは

2025-09-04

虚人たち

以下で展開される議論は、アメリカのある哲学者学術誌の査読ピアレビュー同業者による査読)の適切さを確かめるためにでっち上げデマ論文の内容であり、しかもその論文はある雑誌受理された。

このことから投稿者は、文化人類学者ではないが、いくつかの考察を試みる。

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1. 以下の内容は、「サル山のボス猿とそのなかま」が信奉するペニス信仰と、それに対する「フェミニスト」の反論の両方を痛烈に揶揄している。これらの議論は、ここ「はてな」での果てしない同種のやり取りの上位互換となっている。つまり、そのことに気づかないでいる、いわば自己相貌失認を患う矮小関係者の姿をアナロジカル揶揄している。

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2. 仲間による「レビュー」を経て認められた「議論」が、いかに穴だらけなものであるか、つまり特定コミュニティ支配イデオロギーとはしばしば、ブードゥー教偶像崇拝にすぎないことを示唆している。

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3. 投稿者はこのデマ論文の紹介により、いわば原始人に優れた棍棒の作り方の一例を教唆することになるかもしれない。いずれにせよ、上位互換議論デマであると著者により暴露されたことは、はてなでの「議論」の有効性の上界を抑えられたことを意味する。平たくいうと、0くxく1のように、xの取りうる範囲が有限なある一定の値以上にならないことである。原始人たちが、今後どのような道を選ぶのか知らないが、進化選択肢があることを付け加えたい。

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4. 敷衍すると、この論文の内容に限らず、はてなでの任意の「議論」には、それの上位互換となるある学術的な議論を作ることができる、という可能性が示唆される。平たくいうと、はてな投稿分析すれば論文が書けるかもしれない。

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この論文概念的なペニス社会構成である」は、ジェイミー・リンゼイピーター・ボイルによって2017年にCogent Social Sciencesに掲載された研究論文であり、ペニスという概念が単なる解剖学的な器官ではなく、社会的に構築されたものであり、それが有害な「毒性のある男性性」(toxic masculinity)と密接に関連しているという革新的な主張を展開しています[1]。著者らは、この「概念的なペニス」が、ジェンダーアイデンティティ生殖に関するアイデンティティ社会および家族力学に深刻な問題引き起こし女性やその他のジェンダー周縁化されたグループにとって虐待の根源となり、レイプ普遍的な原因であり、さら気候変動の概念的な原動力である結論付けています[2-4]。

1. 緒論:ペニス伝統理解への異議**

伝統的に、ペニス男性生殖器または性器として圧倒的かつ議論余地のないものとして科学的に認識されてきました[5]。しかし、著者らは、この見方が「過度に還元主義的」であり、ペニスを持つ人間経験多様性を完全に表現できていないため、「首尾一貫しない構成物」であると指摘します[6]。

この主張の根拠として、まず解剖学的なペニスが必ずしも男性生殖器官としての役割を果たすわけではないという事実が挙げられます[5]。例えば、怪我を負った者、配偶者強制できない者、子孫を産むことに興味がない者、医学的に不妊の者、またはアセクシュアルを自認する者など、ペニスを持つ多くの人々が生殖を行いません。これらの例は依然として「男性」を構成するかもしれませんが、彼らのペニス生殖器官として特定することは明確に誤謬であるとされています[5]。

さら重要な点として、ペニスを持つ女性が数多く存在することが強調されます[5]。これには、性別適合手術前のトランスジェンダー女性や、女性と自認し、性別移行を望んでいない染色体上の「男性」が含まれます[5, 7]。文化的有害常識に反して、これらの人々にとって、彼らの性器ペニス)は、生殖に利用される場合があったとしても、男性性器として最もよく理解されるべきではありません[7]。このような人間表現多様性という重要事実に照らして、ペニスを具体的に男性解剖学的な器官と概念化することは、非常に問題があり、言説的な再検討喫緊必要であるとされます[6]。

2. 概念的なペニス定義と「毒性のある男性性」との等型写像関係**

著者らは、ペニスが「男性性に対する首尾一貫しない構成物」であるとし、ペニス解剖学的な器官としてではなく、**ジェンダー遂行的な、非常に流動的な社会構成物**である概念的なペニス」として理解されるべきだと主張します[6]。この「概念的なペニス」は、ジェンダーに関連する様々な遂行的な行為発言を通じて社会確立されるペニス操作的な表現です[6]。

この概念的なペニスが、**「毒性のあるハイパーマスキュリニティ(hypermasculinity)」と等型写像的(isomorphic)な関係にある**とされています[1, 8-10]。この等型写像関係とは、二つの異なる構造が、その構成要素間の関係性において本質的に同じ形を持っていることを意味します。ここでは、概念的なペニスという社会構成物が、毒性のあるハイパーマスキュリニティの行動や心理鏡像のように一致しているということです。

特に、この等型写像関係は、**「マチスモ・ブラガドシオ」(machismo braggadocio)**という概念によって媒介されます[10, 11]。マチスモは本質的攻撃的な男性プライドを指し、ブラガドシオは傲慢な自慢の性質意味します[12]。これらが一体となって、社会的に男性的な心や異性愛規範的な女性の心がペニスを「客観視」し、それを介して男性性と支配的な男性権力ダイナミクス遂行的に表現する具体的な描写であるとされます[12]。

この等型写像関係において、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリン男性権力のない主体的立場から強力な立場へと自身を再配置するために、**「主体」「客体」「動詞」の三つの役割**を果たします[11-14]。

**客体としての概念的なペニス自己客観化)**: 多くのシスジェンダーハイパーマスキュリン男性は、ペニス男性権力支配制御能力、魅力、攻撃性の象徴として捉え、自らの男性性の最も明白な側面をペニスと同一視する傾向があります[9]。これは、彼らが自身概念的なペニスを通じて自己を客体化する行為であり、弱さの心理闘争を緩和するための権力再配置として機能します[12, 15]。男性勃起不全を「機能不全の非貫入的(異性愛男性性」という「虚構」として捉えることも、この自己客観化の例とされます[15]。

**主体としての概念的なペニス**: ハイパーマスキュリン精神性は、社会化された男性個人を、彼の概念的なペニス刻印され、具体化された延長と混同することがよくあります[13]。この混同を通じて、ハイパーマスキュリン男性自身概念的なペニスを「主体」とし、自身の核となるアイデンティティをそのペニスを通して表現します[13]。この現象は、新資本主義唯物論が「性的アイデンティティ客観的な価値を持つ」と示唆している状況で、特に不利な立場にある人々を抑圧する結果をもたらすとされます[13]。男性性的アイデンティティ客観的な価値があるという誤解は、権力のないハイパーマスキュリン男性主体を、彼の概念的なペニスによって強力なものとして再配置する結果を招きます[13]。

この主体としての役割は、男性性的な「征服」や「パフォーマンス」について自慢する際に明らかになります[16]。また、「俺は彼女にやった」「彼女もっと欲しがった」といった表現に見られるように、名詞の「それ」("it")が客体的な概念的なペニス女性経験の知覚された主体に変え、概念的なペニス男性ジェンダーパフォーマンスに関してさらに客体化します[16]。これにより、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな心において、ペニス主体として(男性の)セクシュアリティを強力な現実とする脱所有化(deappropriative)のツールとなります[16]。

**動詞としての概念的なペニス**: ハイパーマスキュリン男性は、「dick」(ペニス意味する俗語)という言葉を、行動を表す動詞として頻繁に使用します[14]。例えば、「to dick someone」(誰かを騙す、または性交する)や「I dicked her good」(彼女を十分に性交した)といった表現は、男性権力支配的な男性セクシュアリティテーマ表現するために利用されます[14]。これらの使用法は、男性自身主体的立場にある様々な言説の相互作用直感的に理解し、特定の状況、特に実際の性的な遭遇においてそれを調整することを可能します[14]。また、「I dicked him over」(彼をひどい目に合わせた)のように、他の男性に対する権力ダイナミクス表現するためにも使用され、支配的な男性ヘゲモニー思考を示しています[14]。

この傾向は、性的アイデンティティ根本的にヒエラルキーの維持に利用されるという考え方によって説明されます[17]。概念的なペニスを行動を表す動詞として使用することで、ハイパーマスキュリン男性は、他者を抑圧し、脱制度化する社会的なヒエラルキー強制し、自己認識的に高めます[17]。この現象は、ラップ音楽におけるミソジニー分析や、「マン・スプレッディング」(manspreading)と呼ばれる、公共交通機関などで男性が足を開いて座り、不必要に広いスペースを占有する行動にも見られます[17]。マン・スプレッディングの言い訳は、解剖学的なペニス睾丸が「快適さ」のためにスペースを必要とするという男性的な社会言説に直接基づいていますが、これは概念的なペニス遂行的な社会構成物として見た場合、周囲の空きスペースを「レイプする」ような支配的な物理空間占有であり、毒性のあるハイパーマスキュリニティへのマチスモ・ブラガドシオ等型写像を通じて最もよく理解されるとされます[17]。

マチスモはハイパーマスキュリン本質であり、ブラガドシオはその表現です[10]。現代思考における概念的な要素としてのペニスは、マチスモ・ブラガドシオの概念によって、ハイパーマスキュリニティにおける最も毒性があり問題のあるテーマ自然に等型写像関係にあります[10]。これらのテーマは、解剖学的なペニス自体には適用されず、生殖しない個人アセクシュアル個人にも関連性を持たないため、ペニス既存男性的な社会的な比喩を演じるために利用される、構築された社会的な客体、つまり言説的な「概念的なペニス」として理解されるべきだとされます[10]。

3. 気候変動と概念的なペニスの関連性**

概念的なペニスが毒性のあるハイパーマスキュリニティに等型写像的に同定されることの最も問題のある結果の一つが、**気候変動**であると指摘されています[4, 18]。気候変動は、まさにハイパーマスキュリニティ特定有害テーマによって引き起こされており、これらは概念的なペニス識別される気候生態学への支配的な略奪的アプローチを通じて最もよく理解できます[18]。

著者らは、地球が急速に2℃の気候変動閾値に近づいている原因が、現在資本主義構造を維持する家父長的な権力ダイナミクス特に化石燃料産業にあると主張します[18]。科学政治経済の言説におけるハイパーマスキュリン支配と、生態系への修復不能ダメージとの関連性は明確であるとされます[18]。破壊的で持続不可能であり、ヘゲモニー的に男性的な環境政策と行動へのアプローチは、男性優位の精神性による自然の「レイプ」の予測可能な結果です[19]。この精神性は、男性心理に対する概念的なペニス役割認識することによって最もよく捉えられます[19]。

特に資源安価に略奪し、家父長的な経済的利益のためにその内在的な価値を奪われた後、荒廃し減退したまま放置されるような「未開の環境」にこの精神性が適用されるとき概念的なペニスに内在するレイプ文化の延長が明らかになるとされます[19]。気候変動は、最もよく言えば、ハイパー家父長制社会地球生態系メタファー的に「マン・スプレッディング」している例であると述べられています[19]。

この問題のある傾向の根底にある理由は、現代資本主義理論、すなわち新資本主義理論が、科学社会におけるハイパーマスキュリンな焦点から直接その合理性の主張を引き出していることにあります。そしてこの焦点は、概念的なペニスとの同一視によって最もよく説明されるとされます[20]。毒性のあるハイパーマスキュリニティは、概念的なペニスから直接その意義を引き出し、新資本主義唯物論の支持に自身適用します[20]。この新資本主義唯物論は、特に炭素排出化石燃料技術の無制限使用や、未開の自然環境の無謀な支配において、気候変動の根本的な原動力であるとされます[20]。

この分析から導かれる実践的な推奨事項は、気候変動研究において、可能な限りハイパーマスキュリンペニス中心の視点を避けるように、政治科学の言説への関与方法を変えるべきであるというものです[3]。

4. 結論提言**

結論として、著者らは、ペニス男性性器生殖器として理解されるべきではなく、むしろ Permalink | 記事への反応(0) | 19:03

2025-06-29

anond:20250628122821

大規模言語モデルは、本質的には「続く文章確率的に返す(答える)」というものから一歩も外へ出ていない。

いつまで言い続けるんやろうか

AIニューラルネットワーク)って意図的創発を起こすシステムやろ?

いつまで要素還元主義的なパラダイムしてんの?

2025-06-23

マッチポンプとSPCDH: 放火犯火事場の野次馬に混じって延焼被害糾弾する

Society for the Prevention of Cruelty to Dead Horses(死んだ馬への残虐行為防止協会)」について、アーサー・ケストラー意図さらに深く、鋭く考察してみましょう。

この架空協会は、単なる皮肉批判を超え、ケストラーが抱えていた知的倫理的危機感象徴するものです。それは、人間認識の歪み、集団的記憶操作、そして知識人が陥りがちな「進歩」という名の停滞に対する、痛烈な告発と言えます

1. 記憶忘却政治学強制された忘却メカニズム

ケストラーが最も懸念したのは、歴史の「終わり」を宣言し、不都合記憶を葬り去ろうとする政治的社会的圧力です。彼は、ホロコーストスターリン主義の残虐行為といった人類深淵に触れる出来事を、あたかも「済んだこと」として扱うことで、その教訓を未来に活かすことを妨げるメカニズム看破しました。

* 「死んだ馬」の定義曖昧さ: 何が「死んだ馬」であるかを決定するのは誰か? その定義は、往々にして権力を持つ者や、特定イデオロギーに囚われた集団によって恣意的に行われます。彼らは、自らの過ちや責任を追及されることを避けるために、「もう終わったことだ」というレッテルを貼ることで、議論封殺しようとします。

* 「進歩史観」の罠: 多くの人は、歴史は常に進歩していると信じたがります。この進歩史観は、「昔の過ちは過去のもの」とし、現代視点から見れば時代遅れで野蛮な行為として片付けがちです。しかし、ケストラーは、人間破壊衝動集団狂気といった根源的な問題は、時代を超えて存在し続けると見ていました。「死んだ馬」と見なすことで、その本質的問題直視する機会を失わせるのです。

2. 科学・知の領域におけるドグマ化と思考停止:見えない檻

ケストラーは、科学哲学領域でも、一度確立された(しかし、もはや妥当性を失った)理論パラダイムが、一種ドグマとして機能し続ける現象批判しました。

* 「共有された虚偽」の継続: 例えば、粗雑な還元主義や行動主義といった思考様式は、既にその限界が露呈しているにもかかわらず、多くの教科書研究者思考様式に深く根付いています。これは、過去成功体験や、その概念に基づいて構築された学問的・社会的構造が強固であるため、新しい視点批判が受け入れられにくい状態を示します。

* 「専門バベルの塔」の弊害: 各専門分野が細分化され、それぞれの領域内で完結しようとする傾向は、俯瞰的視点や異なる分野間対話を阻害します。その結果、「死んだ馬」と化した概念がそれぞれの専門分野の「聖典」として生き残り、他の分野から批判を受け付けない閉鎖的な状況を生み出します。ケストラーは、ホロン概念を通じて、この断片化された知のあり方に警鐘を鳴らしました。

3. 人間精神の深層:自己欺瞞認知的不協和の解消

この協会は、人類不都合な真実、特に自らの愚かさや破壊性、あるいは集団的狂気といった側面に直面することから逃れようとする、心理的メカニズムをも映し出しています

* 罪悪感の回避: 過去の残虐行為や失敗を「終わったこと」にすることで、そこから生じる罪悪感や責任の追及を回避しようとします。これは個人防衛機制が、集団レベルで発動している状態です。

* 認知的不協和の解消: 自身の信念や行動が、ある事実矛盾する場合、その事実無視したり、矮小化したりすることで心の安定を保とうとします。ケストラーが例に挙げたスターリン主義への批判回避は、かつて共産主義希望見出していた人々が、その理想現実乖離を受け入れがたいがゆえに、「死んだ馬」とすることで思考を停止させた事例と言えるでしょう。

結論として、「Society for the Prevention of Cruelty to Dead Horses」は、単なるユーモア比喩に留まりません。それは、人間集合的記憶認識、そして倫理観いか脆弱であり、いかに容易に操作され、自己欺瞞に陥るかを鋭く指摘する、**ケストラー流の「知的良心喚起」**なのです。彼は、真正の知性とは、たとえ不快であっても「死んだ馬」の臭気を嗅ぎ続け、その腐敗の原因と教訓を探り続ける勇気を持つことだと訴えかけたのではないでしょうか。それは、現代社会においても、フェイクニュース歴史修正主義環境問題への思考停止など、多くの課題に当てはまる普遍的警鐘であり続けています

2025-04-30

anond:20250430120132

神経系による主観的経験と単なる生化学的反応は、情報伝達の「次元」が異なる

かに神経系による情報伝達も広義では「生化学プロセス」に含まれます神経細胞活動イオンチャネルの開閉、神経伝達物質放出といった化学反応を伴いますしかし、それは単なる分子のやり取りではなく、「情報統合・処理・意味付け」を行うシステムの一部です。

具体的に言えば:

神経系は、感覚入力統合意思決定・出力という「情報処理アーキテクチャ」を持つ

このアーキテクチャによって、痛みや恐怖といった**主観的経験的な意識状態qualia)**が生まれ

このプロセスは、単に信号を出すだけの植物ホルモン反応とは情報構造機能目的すべてが異なる

植物にも電気信号ホルモン伝達はありますが、それは**「事象に対する反応」以上のものではなく、「経験」「認知」「判断」「予測」といった高次機能存在しない**とされています植物情報を蓄積・統合して、意識的に何かを選ぶわけではないからです(Trewavas, 2005)。

例えるなら:

神経系コンピュータで、情報分析意味付けできるOSを持つ

植物の反応はサーモスタット自動販売機のような単純なフィードバック制御に過ぎない

したがって、両者を「同じ生化学情報伝達だから本質的に同じ」とする主張は、情報階層性・複雑性・機能的意義を無視した不正確な還元主義です。

2024-12-30

anond:20241228213336

この手の話になると、男女の差をなんでも無理やり生まれつきの脳の違いにしたがる「脳還元主義者」が現れてウンザリだったからな

脳科学」が世間偏見をばら撒いた罪は重いよ

2024-11-27

好き嫌い善悪や良い悪いは別物だと言う人がいるけれど、あんまりそうとも思えなくて色々考えてた。

後者構成する要素が様々にあるとしても、結局全て個人の快不快の集合に帰結しそう。

宗教・法・倫理等々の社会規範文化技術方法論、色々な要素を基準とした善悪や良し悪しがあるけれど、その基準のものがやっぱり根源を辿っていけば快不快をどれだけもたらすかを問題としてる。その形成過程政治的ものであるにせよ、何らかの共感ナラティブによるものにせよ。

(道具的ではない)理性なる概念も、いまいちしっかりと定義実証?)出来ない。定言的義務なんて言っても、それを揺るぎないものとする根拠に欠ける。あったらあったで結局それは仮言的ものしかないし、そんなメタ規範があるとしてもまた定言命法同様の矛盾を抱える。黄金律にはなり得ず、単なる主義主張しかまらない。それが普遍性を持ち効力を発するとしたら、政治的過程によってなんだろうな。自然法則価値判断を行わないし、神は言葉を聞かせてくれない。政治なんて快不快原理の擦り合わせそのものだし、であれば「理性」なるものの根源も快不快感情に基づいた欲求以外のものが見当たらない。

ただ還元主義では複雑系理解出来ないとも言うしな。

個人の快不快集団において相互作用する。衝突が発生したり、強固に結束する事もある。その中で、快楽を最大化する手段として新たな規範なんかが生じる。宗教的信念なり功利主義なりの主義であったり、あるいはもっと具体的個別的な法であったり、美意識であったり。

それらが蓄積・継承されたり、更にそれら同士が相互作用を生じることで、個人の快不快原理に対しても影響を与える可能性があるのも事実かもしれない。

ただやはり基盤にあるのは個人の快不快感情であって、それを超越するような要素が相互作用の中で発生するようには見えない。

まるっきり別物のように扱うほど異質なものでもないのではなかろうか、という結論に至った。

2024-07-07

群盲像を評す、的な還元主義批判ってタラバガニで考えた方が分かりやすいな。

生き物の分類を明確に定義づけるために、定量的な要素を見ていこう。

ヤドカリカニじゃ見た目は違う。でも水棲で、外骨格で、ハサミがあって、と色々な要素は重なってる。

じゃあ脚の本数や歩き方で区切ろう。

カニに対して、ヤドカリヤドカリたらしめるのは脚が8本である事だ。となればタラバガニヤドカリだ。

いやどう見たってカニじゃん。宿も借りねえじゃん。

何ガニとは言わずとも、「カニ」と言われて我々が思い浮かべるかにぱんみたいな生き物そのものじゃん、っていう。

2024-06-21

「好きと良いは違う」に対して還元主義(?)的に考えていった結果、良いと悪いは好き嫌い多数決しかないのではないかという結論に至った。

この服はなぜ良いのか?

着心地が快適だから。なぜ着心地が快適だと良いのか?快適である状態は良い事だから。快不快問題だ。

かっこいいから。なぜかっこいいと良いのか?そもそも「かっこいい」の定義は?かっこいいものを身につける事は精神的充足に繋がるから。かっこいいとは見ていて嫌悪感を抱かず、むしろ快楽や憧れの念を抱かせるような事である。快不快問題だ。ちょっとトートロジーめいてる気もする。

いから。なぜ安いと良いのか?可処分所得の減少が少なくなるから。なぜ可処分所得の減少が少ないと良いのか?可処分所得の消費による購買の機会を増やし、効用の追求機会が増えるから。快不快問題だ。

いから。なぜ高いと良いのか?高額な消費であればより大きな効用を得られるだろうという誤謬めいた判断快楽をもたらすから。高額の消費、及びそれを誇示する服を着ることが収入の高さ、引いては社会的評価の高さを示唆し、自尊心の向上や社会的承認が得られるから。快不快問題だ。

もっと言えばエシカルコンシャスネスだとか、造形の斬新さや精緻さ、テーマ性の反映度合いや精神性が云々だとかいくらでもあるけど、それらを測る評価軸はどこから湧いて出きたのかという事になる。

いずれの評価軸も快不快好き嫌い問題へと収束していくはずだ。デニムなんかで着心地が悪いからこそ「良い」みたいな美意識もあるだろうけど、それも然りだろう。

いつからかあってこれからもあり続けるであろう自然法則所与の前提として持つ自然科学と違って、何が良いかという判断においては意図的に何かを前提として置かなければならないのだから感覚的な部分に頼らざるを得ないのは当然に思える。

ただそれだと必ずしも多数派に支持されない「権威」の存在説明がつかない。

ハイメゾンの攻めたコレクションを見て賞賛を送る人間多数派だろうか?もっと定量的にいけばジャンルを変えてトマトメーターでも見れば分かるけど、権威大衆意見は必ずしも一致しない。それなのに権威意見が良し悪しの評価に無影響だとは受け取られていない。

謎すぎる。

世界共通自然法則支配される存在であって、かつ誤差みたいな個体差はあれどほぼ構造も似たような生き物同士なんだから、何かしら共有されている本質的感覚があるのだろうか。

それはまああるか。

様々なノイズを除去しながら、そういった本質的ものを見極めて評価対象物と照らし合わせる技能を持った人間が伝導師として権威を握っているんだろうか。

ただ人類共通感覚って言ったって大枠のものに過ぎない気もする。ドブ川の水を啜って美味いと感じる人間は多分いないだろうけど、椎茸を美味いと感じる人間もいれば嫌いな人間もいる。

アレルギーでもなきゃ、食わせ続ければいつかは美味しさを「理解」して好きになるのか?

宗教規範から脱却したように思えてその実人々が未だ様々な信仰に基づいて生きている点は全く変わらないように、本質主義だとか教養主義だとかが社会の中で生き永らえているだけの話なのか?

多数派が好き(あるいは嫌い)だと思わないようなものについても、新たな価値判断基準提示して「言われてみれば、確かに……」という共感を呼び、考えを変えてしまうような魔力を持った主張の出来る人間権威を握るのか?常にそれが達成される訳ではないにせよ。

論理的分析してみた所でそれが良いかいか論理ではなく基準問題なので、共感の方が重要に思える。

基準に沿った判断合理的にやっていけるけども、基準のもの妥当性はより上位の基準しか判断出来ない。好き嫌いというのは恐らく最上位の基準であって、それ以上の基準はなく共感によって一変してしまうのかもしれない。

これなら原則として良い悪いが好き嫌い多数決によって決まるという説の中でも得意的に良い悪いへの影響力を持つ事がさほど矛盾しない気がする。一番しっくり来るかもしれない。

哲学世界ではとうにこんな議論もグチグチと交わされてるらしいけどおれの中では前向きなニヒリズムが一番納得感があるし、それ以上の理屈を求めようという気にもあまりならない。

2024-06-14

欲望を実現するための具体的な方法論においてはバランス感も大事だろうけど、その欲望を生み出す信仰だとか納得だとかは心の底の底まで貫くものをたった一つだけ持った方が幸せになれるような気がする。

中庸とか言って反復横跳びするような真似はせず、大事な一つ以外には一切の疑いも迷いも捨てる。自分信仰も心の持ちよう次第ではいくらでも曲げられてしまものだと思わず、この世でたった一つだけ確実に存在する所与の真理とみなす

ヒューマニズムだとか人権思想だとかコミュニタリアニズムだとか宗教規範だとか、その他の価値は全てただ一つの真理に基づいた行いを現実的実践するための手段としてのみ存在させる。

おれは実存主義的な生き方が一番美しいと思ってたけど、こういう生き方の方が遥かに美しいような気がしてきた。

似ているようだけど、ほんの少しの違いが決定的に違う。

ちょっと嫌な事があれば「でも結局全部意味ないしな……」と思えてしまうような、論理にお膳立てされた「好きに生きよう」ではない。一度全てを論理的に疑って無限還元主義へと陥るような小賢しいメタ思考を挟まず、ただ情熱と信念のみによって信仰の獲得を成し遂げる。

これって要するに前近代宗教では?

別に宗教規範に限らず世俗価値観にせよ個人感覚依拠した価値規範にせよ、やっぱ無垢信仰は満足に生きるにあたって大事な気がする。

人生の楽しさを感覚で味わえないから、せめて理屈だけでもと生きる意義を論理的に追及してみる。そして考えれば考えるほど、今まで所与の事実だと思っていたものが快不快多数決に過ぎない規範へと後退していく。

寄る辺なく存在しながら、じゃあ好きに生きるしかいか……と思いつつ、そもそも人生つまんなくてこんな事考え始めてるので、改めて振り出しに戻っても活力が湧くとは限らない。何なら虚無感だけが残って、余計無気力でつまらない人生になるかもしれない。

一度虚無へと至ってしまったら、もう二度と無垢信仰は手に入らない。

でもあんまりつの信仰だけを貫いてると、何かのきっかけで打ち砕かれるような事があったら自殺しちゃいそうだなとも思う。

ここまで強烈に徹底はしなくともそれなりの強度でこういう生き方をしている人はいて、そういう人が信念を支えきれなくなるといわゆる中年危機的なやつを迎えるんだろうか。

2024-05-17

anond:20240517153101

敢えてマジレスすると

その場合の「性差」は文化的概念なのでそもそも質的差異と直接結び付けられない

結びつければただのダメ還元主義

日本人中国人のどちらが優れた人種か?

という話で

そもそも優れた人種って何?という定義がなされてないのに

素朴に学力テスト結果を振りかざすようなもの

2024-02-27

anond:20240227071300

現代社会個人主義ベースで出来上がっている。その個人とは何か?

個体」ではないのである社会制度でありフィクションであるように個人もまた取り決められたフィクションである

個人個体混同するのは一種ダメ還元主義と言えるだろう。

一言で言って個人ジーンとミームの両方に足場を持つというごく単純な話である

功利主義的な説明をするなら、血族だけで構成される小部族と、寡婦や老人が他人の子守を手伝うような共同体とでどっちが生き残る可能性が高いか? あるいは直接抗争が生じた場合にどっちが勝つか。

社会へのコミットメントの深さと子の有無は関係がない。

まあこんな程度のわかりきったことでもはてな村レベルではチョット難しいんだろう

2020-01-12

anond:20200112005944

妻のトリセツかいうのもどうせ、脳の違いがどうのみたいなアホアホ還元主義アナクロ性差観に阿るだけの疑似科学本だろ。1文字も読んでないけど間違いないね。作者の名前見ればわかる

2019-04-29

anond:20190429000454

から精神病理学など臨床哲学の出番だと思うのですが。

何でもかんでも要素還元主義解決できると勝ち誇った気になるのは近代医療マンの悪いクセやぞ

2019-03-10

anond:20190310091705

抽象的な観点においては引用文で十分に説明されているので

「問」は具体例を挙げた説明を要するもの解釈して説明していく。

パソコンとは何か?

還元主義階層論では、CPUメモリHDD等のパソコン部品がそれぞれパソコンの一部と捉えて、

そう言った部品集合体と捉える。このようなパソコン部品に分解していってもそれはあくま

パソコンの一部だと捉えるのが還元主義である

だが、半導体1個、抵抗1個を「これはパソコンの一部です」と言えるだろうか?

全体主義階層論ではそう言った部品一つ一つはパソコンではなく、各部品が集合して電子信号等を

やり取りする、つまり部品間で関係性を持つ事によって初めてこれはパソコンであると捉えている。

例えばパソコンから電源なりCPUなりを1つ取り外せばパソコンは起動しなくなるだろうが、

それはもはやパソコンではないと捉えるのが全体主義である

構造主義階層論でもバラバラのパーツはパソコンではないと捉える点では全体主義階層論に似ている。

では両者の差異は何か。

全体主義階層論ではパソコンCPUメモリHDD等のパーツからなり、HDDはネジ、ベアリング

モーター等のパーツからなり、ベアリング金属やグリス、ゴム等のパーツからなると全てにおいて

同じ論理によって構成されると捉えている。

一方構造主義階層論では例えばパソコンは各パーツ差し込んで組み立てれば完成するけどベアリングは各パーツで加工を

しなければ完成しないから同じ論理を持ちだすのは間違いであると考える(構造列の相違による不連続)。

また、HDDCPUでも組み立て等の製造方法は違うので同一視できないと考える(構造の相違による不連続)。

具体例を挙げての説明なので一側面を示したものではあるが、以上が三者の違いである。

anond:20190310092816

プログラミングにおきかえる

還元主義階層

 ひとつひとつクラスオブジェクトのふるまいをよく理解すればライブラリ理解できるよ

全体主義階層

 いやいや、オブジェクはカプセル化されているし継承もある。

 そういうクラス階層構造自体もふくめてライブラリなんやぞ。

構造主義的階層

 プログラミング言語いろいろあるし、ハードウェアもいろいろあるで。

 上記は、多様なハードウェアで動く、多様な言語を、オブジェクトという1つの観点からぶった切ったときだけ、見えてくる構造よね。

みたいな話かなと思った。

おまえらってちゃん日本語読めてるの??

ある本から引用した文章だけど、ちゃんと読める?

俺は読めないけど。

還元主義階層論は次のような仮定に基づいている。全体の性質は部分の性質還元できる。すなわち部分と部分がいかなる関係もつかは部分自身性質により決定される。これに対し全体主義階層論は、部分と部分の関係性は他に還元することができず、関係自体実在と看做さなければならないと考える。さて、構造主義階層論は、構造は下位の構造還元できないと考える点で、明らかに全体論に近い。しか全体論が成り立つのは同一構造の内部に限られると考える。ここに全体主義階層論と構造主義階層論の決定的な違いが顕わになる。前者はこの世界のすべての部分-全体関係はそれ自体が一つの構造であると暗黙理に前提する。すると宇宙全体を最大の全体、最小の粒子(いまのところクォークレプトンのようなもの)も最小の部分とする、全体-部分の構造階層系列に、この世界はすべて包摂されてしまう。素粒子から始まって原子分子高分子細胞内小器官、細胞組織、器官、個体個体群、群衆生態系地球太陽系銀河系宇宙と連なる壮大な形態的部分-全体系のどの一つをとってみても、部分と部分の関係自体は、部分の性質還元できない何らかの実在と看做される。これに対して構造主義階層論は、全体主義階層論あるいは還元主義階層論によってア・プリオリに措定された、形態的部分-全体系列連続性の仮説を放棄して、水平面には構造の相違による、垂直面には構造列の相違による不連続面を構想する。たとえば構造主義生物学は、生物形成する空間には無生物からなる空間とは異なる生物固有の上位構造が具現していると考える。したがって単一細胞単一個体が同一の構造(列)下に包摂され、この空間の内部に関する限り全体論的な部分-全体関係が成立することを擁護する。

問. 「還元主義階層論」「全体主義階層論」「構造主義階層論」の違いを簡潔に説明せよ。

2017-04-26

命の価値について論じている最中細胞集合体、という位置まで「還元して」論を展開する以上還元主義ですがな

ああ

「命の価値」という命題を論じているやつらがいたのね

俺が言ったのは還元主義を持ち出すならなんだって適用できるだろ

命は細胞分裂だというのが還元主義なのですか

命=細胞分裂という還元主義を持ち出すなら、その鼻持ちならないエリート発言も全く意味をなさない水泡だわな。

文中のそのはどこを指してる

お答えどうぞ

さようならクソ雑魚ナメクジ

これがそのかな

単細胞生物ナメクジを持ち出したのはそちらなのだろう

2016-05-09

吉本隆明信者キモさは異常

一生○○(なんとなくエリートホーリズム的)と××(なんとなく大衆還元主義的)にわけて「僕は××の側に投票する…!」とかわけわからん見栄切ってろよ

2013-05-28

読み、考え、書く、その材料の一つが本

http://anond.hatelabo.jp/20130528133141

をよみ、「この文章を改変して批判し発展的なことを書いてみよう」と思いましたが、不幸なことに私にはその文章力がなかったので、むしろ端的に書いてみます

仰る通り、考えるやり方は人それぞれありますし、それを育み育てていくことはとても大事なのです。

また、その材料や燃料の"一部"に、例えば本が大きな比重を占めることは確かでしょう。

でも、読むだけではだめなのです。

大事なのは考えること、そしてそれを書いてみることです。その際に、批判的思考を常に持つべきです。また、読み・考え・書いている、その"テーマ"や"内容"に、どのような要素があるのか、それらがどのような関係性をもって動いているのか、様々な考え方やもの見方、いろんな軸で捉え直してみて、より深く発展させていくのです。

読み、考え、書く。

これは、インプット(入力)・プロセッシング(処理)・アウトプット(出力)に例えることができます

考える材料を、仕入れ、考え、そうして思ったことを書く。

材料はなんでもありです。ただ、考える時に"幾ら考えてもよく解らない"というのは、材料としては優れていません。

アウトプットも何でもよいのです。でもやっぱり、人によって表現やす形態があります

考えるやり方、これもなんでもありです。どのように考えてもよいでしょう。例えば、様々なテーマについて、たくさんの視点や背景から考えることができます。ひとによって背景や知識も違います

読み・考え・書く、この一連の流れのなかで、より貪欲に知的になろうと、つまり、より良く読み、より良く考え、より良く書こうと思うと、その為の材料必要になります

それが本であったり様々なメディアであったりするのです。

たくさん読むだけでは駄目なのです。世の中には様々な見方や考え方・捉え方の軸がありますから、それを仕入れることが必要です。また書く時にも、どのように書くのか何を書くのか、といった視点必要です。

ここで、要素還元主義と批判的思考を紹介したいと思います

要素還元主義とは、物事を部分に分けて考えてゆくやり方です。どのような要素があり、それらが、他の要素とどのような関係があるのか、どのような働きをするのか、と考えていきます

また、批判的思考(critical thinking)とは、物事をみるときに、果たしてそれは妥当なのか、と常に自身に問い続ける、そのような態度による思考をいいます

まり、読み・考え・書く、すべてにおいて、どのように読み、どのように考え、どのように書くのか、常に意識しながら行うことが、よりよい営みになるでしょう。

彼の指摘した、物事に対する批判が、妥当な批判になるかどうか、という課題については、こういった視点有効では、と思います

 
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