はてなキーワード: 還元主義とは
以下で展開される議論は、アメリカのある哲学者が学術誌の査読(ピア・レビュー、同業者による査読)の適切さを確かめるためにでっち上げたデマ論文の内容であり、しかもその論文はある雑誌に受理された。
このことから投稿者は、文化人類学者ではないが、いくつかの考察を試みる。
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1. 以下の内容は、「サル山のボス猿とそのなかま」が信奉するペニス信仰と、それに対する「フェミニスト」の反論の両方を痛烈に揶揄している。これらの議論は、ここ「はてな」での果てしない同種のやり取りの上位互換となっている。つまり、そのことに気づかないでいる、いわば自己相貌失認を患う矮小な関係者の姿をアナロジカルに揶揄している。
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2. 仲間による「レビュー」を経て認められた「議論」が、いかに穴だらけなものであるか、つまり、特定のコミュニティの支配イデオロギーとはしばしば、ブードゥー教の偶像崇拝にすぎないことを示唆している。
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3. 投稿者はこのデマ論文の紹介により、いわば原始人に優れた棍棒の作り方の一例を教唆することになるかもしれない。いずれにせよ、上位互換の議論がデマであると著者により暴露されたことは、はてなでの「議論」の有効性の上界を抑えられたことを意味する。平たくいうと、0くxく1のように、xの取りうる範囲が有限なある一定の値以上にならないことである。原始人たちが、今後どのような道を選ぶのか知らないが、進化の選択肢があることを付け加えたい。
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4. 敷衍すると、この論文の内容に限らず、はてなでの任意の「議論」には、それの上位互換となるある学術的な議論を作ることができる、という可能性が示唆される。平たくいうと、はてなの投稿を分析すれば論文が書けるかもしれない。
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この論文「概念的なペニスは社会構成物である」は、ジェイミー・リンゼイとピーター・ボイルによって2017年にCogent Social Sciencesに掲載された研究論文であり、ペニスという概念が単なる解剖学的な器官ではなく、社会的に構築されたものであり、それが有害な「毒性のある男性性」(toxic masculinity)と密接に関連しているという革新的な主張を展開しています[1]。著者らは、この「概念的なペニス」が、ジェンダー・アイデンティティ、生殖に関するアイデンティティ、社会および家族の力学に深刻な問題を引き起こし、女性やその他のジェンダー周縁化されたグループにとって虐待の根源となり、レイプの普遍的な原因であり、さらに気候変動の概念的な原動力であると結論付けています[2-4]。
伝統的に、ペニスは男性の生殖器または性器として圧倒的かつ議論の余地のないものとして科学的に認識されてきました[5]。しかし、著者らは、この見方が「過度に還元主義的」であり、ペニスを持つ人間の経験の多様性を完全に表現できていないため、「首尾一貫しない構成物」であると指摘します[6]。
この主張の根拠として、まず解剖学的なペニスが必ずしも男性の生殖器官としての役割を果たすわけではないという事実が挙げられます[5]。例えば、怪我を負った者、配偶者を強制できない者、子孫を産むことに興味がない者、医学的に不妊の者、またはアセクシュアルを自認する者など、ペニスを持つ多くの人々が生殖を行いません。これらの例は依然として「男性」を構成するかもしれませんが、彼らのペニスを生殖器官として特定することは明確に誤謬であるとされています[5]。
さらに重要な点として、ペニスを持つ女性が数多く存在することが強調されます[5]。これには、性別適合手術前のトランスジェンダー女性や、女性と自認し、性別移行を望んでいない染色体上の「男性」が含まれます[5, 7]。文化的な有害な常識に反して、これらの人々にとって、彼らの性器(ペニス)は、生殖に利用される場合があったとしても、男性の性器として最もよく理解されるべきではありません[7]。このような人間の表現の多様性という重要な事実に照らして、ペニスを具体的に男性の解剖学的な器官と概念化することは、非常に問題があり、言説的な再検討が喫緊に必要であるとされます[6]。
著者らは、ペニスが「男性性に対する首尾一貫しない構成物」であるとし、ペニスは解剖学的な器官としてではなく、**ジェンダー遂行的な、非常に流動的な社会構成物**である「概念的なペニス」として理解されるべきだと主張します[6]。この「概念的なペニス」は、ジェンダーに関連する様々な遂行的な行為や発言を通じて社会で確立されるペニスの操作的な表現です[6]。
この概念的なペニスが、**「毒性のあるハイパーマスキュリニティ(hypermasculinity)」と等型写像的(isomorphic)な関係にある**とされています[1, 8-10]。この等型写像関係とは、二つの異なる構造が、その構成要素間の関係性において本質的に同じ形を持っていることを意味します。ここでは、概念的なペニスという社会構成物が、毒性のあるハイパーマスキュリニティの行動や心理と鏡像のように一致しているということです。
特に、この等型写像関係は、**「マチスモ・ブラガドシオ」(machismo braggadocio)**という概念によって媒介されます[10, 11]。マチスモは本質的に攻撃的な男性のプライドを指し、ブラガドシオは傲慢な自慢の性質を意味します[12]。これらが一体となって、社会的に男性的な心や異性愛規範的な女性の心がペニスを「客観視」し、それを介して男性性と支配的な男性の権力ダイナミクスを遂行的に表現する具体的な描写であるとされます[12]。
この等型写像関係において、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな男性が権力のない主体的な立場から強力な立場へと自身を再配置するために、**「主体」「客体」「動詞」の三つの役割**を果たします[11-14]。
この主体としての役割は、男性が性的な「征服」や「パフォーマンス」について自慢する際に明らかになります[16]。また、「俺は彼女にやった」「彼女はもっと欲しがった」といった表現に見られるように、名詞の「それ」("it")が客体的な概念的なペニスを女性の経験の知覚された主体に変え、概念的なペニスを男性のジェンダーパフォーマンスに関してさらに客体化します[16]。これにより、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな心において、ペニスを主体として(男性の)セクシュアリティを強力な現実とする脱所有化(deappropriative)のツールとなります[16]。
この傾向は、性的なアイデンティティが根本的にヒエラルキーの維持に利用されるという考え方によって説明されます[17]。概念的なペニスを行動を表す動詞として使用することで、ハイパーマスキュリンな男性は、他者を抑圧し、脱制度化する社会的なヒエラルキーを強制し、自己を認識的に高めます[17]。この現象は、ラップ音楽におけるミソジニーの分析や、「マン・スプレッディング」(manspreading)と呼ばれる、公共交通機関などで男性が足を開いて座り、不必要に広いスペースを占有する行動にも見られます[17]。マン・スプレッディングの言い訳は、解剖学的なペニスと睾丸が「快適さ」のためにスペースを必要とするという男性的な社会言説に直接基づいていますが、これは概念的なペニスを遂行的な社会構成物として見た場合、周囲の空きスペースを「レイプする」ような支配的な物理的空間の占有であり、毒性のあるハイパーマスキュリニティへのマチスモ・ブラガドシオ等型写像を通じて最もよく理解されるとされます[17]。
マチスモはハイパーマスキュリンな本質であり、ブラガドシオはその表現です[10]。現代の思考における概念的な要素としてのペニスは、マチスモ・ブラガドシオの概念によって、ハイパーマスキュリニティにおける最も毒性があり問題のあるテーマと自然に等型写像関係にあります[10]。これらのテーマは、解剖学的なペニス自体には適用されず、生殖しない個人やアセクシュアルな個人にも関連性を持たないため、ペニスは既存の男性的な社会的な比喩を演じるために利用される、構築された社会的な客体、つまり言説的な「概念的なペニス」として理解されるべきだとされます[10]。
概念的なペニスが毒性のあるハイパーマスキュリニティに等型写像的に同定されることの最も問題のある結果の一つが、**気候変動**であると指摘されています[4, 18]。気候変動は、まさにハイパーマスキュリニティの特定の有害なテーマによって引き起こされており、これらは概念的なペニスと識別される気候生態学への支配的な略奪的アプローチを通じて最もよく理解できます[18]。
著者らは、地球が急速に2℃の気候変動閾値に近づいている原因が、現在の資本主義構造を維持する家父長的な権力ダイナミクス、特に化石燃料産業にあると主張します[18]。科学、政治、経済の言説におけるハイパーマスキュリンな支配と、生態系への修復不能なダメージとの関連性は明確であるとされます[18]。破壊的で持続不可能であり、ヘゲモニー的に男性的な環境政策と行動へのアプローチは、男性優位の精神性による自然の「レイプ」の予測可能な結果です[19]。この精神性は、男性心理に対する概念的なペニスの役割を認識することによって最もよく捉えられます[19]。
特に、資源を安価に略奪し、家父長的な経済的利益のためにその内在的な価値を奪われた後、荒廃し減退したまま放置されるような「未開の環境」にこの精神性が適用されるとき、概念的なペニスに内在するレイプ文化の延長が明らかになるとされます[19]。気候変動は、最もよく言えば、ハイパー家父長制社会が地球の生態系にメタファー的に「マン・スプレッディング」している例であると述べられています[19]。
この問題のある傾向の根底にある理由は、現代の資本主義理論、すなわち新資本主義理論が、科学と社会におけるハイパーマスキュリンな焦点から直接その合理性の主張を引き出していることにあります。そしてこの焦点は、概念的なペニスとの同一視によって最もよく説明されるとされます[20]。毒性のあるハイパーマスキュリニティは、概念的なペニスから直接その意義を引き出し、新資本主義的唯物論の支持に自身を適用します[20]。この新資本主義的唯物論は、特に炭素排出の化石燃料技術の無制限な使用や、未開の自然環境の無謀な支配において、気候変動の根本的な原動力であるとされます[20]。
この分析から導かれる実践的な推奨事項は、気候変動研究において、可能な限りハイパーマスキュリンなペニス中心の視点を避けるように、政治や科学の言説への関与方法を変えるべきであるというものです[3]。
結論として、著者らは、ペニスは男性の性器や生殖器として理解されるべきではなく、むしろ Permalink | 記事への反応(0) | 19:03
「Society for the Prevention of Cruelty to Dead Horses(死んだ馬への残虐行為防止協会)」について、アーサー・ケストラーの意図をさらに深く、鋭く考察してみましょう。
この架空の協会は、単なる皮肉や批判を超え、ケストラーが抱えていた知的・倫理的な危機感を象徴するものです。それは、人間の認識の歪み、集団的記憶の操作、そして知識人が陥りがちな「進歩」という名の停滞に対する、痛烈な告発と言えます。
ケストラーが最も懸念したのは、歴史の「終わり」を宣言し、不都合な記憶を葬り去ろうとする政治的・社会的な圧力です。彼は、ホロコーストやスターリン主義の残虐行為といった人類の深淵に触れる出来事を、あたかも「済んだこと」として扱うことで、その教訓を未来に活かすことを妨げるメカニズムを看破しました。
* 「死んだ馬」の定義の曖昧さ: 何が「死んだ馬」であるかを決定するのは誰か? その定義は、往々にして権力を持つ者や、特定のイデオロギーに囚われた集団によって恣意的に行われます。彼らは、自らの過ちや責任を追及されることを避けるために、「もう終わったことだ」というレッテルを貼ることで、議論を封殺しようとします。
* 「進歩史観」の罠: 多くの人は、歴史は常に進歩していると信じたがります。この進歩史観は、「昔の過ちは過去のもの」とし、現代の視点から見れば時代遅れで野蛮な行為として片付けがちです。しかし、ケストラーは、人間の破壊衝動や集団狂気といった根源的な問題は、時代を超えて存在し続けると見ていました。「死んだ馬」と見なすことで、その本質的な問題を直視する機会を失わせるのです。
ケストラーは、科学や哲学の領域でも、一度確立された(しかし、もはや妥当性を失った)理論やパラダイムが、一種のドグマとして機能し続ける現象を批判しました。
* 「共有された虚偽」の継続: 例えば、粗雑な還元主義や行動主義といった思考様式は、既にその限界が露呈しているにもかかわらず、多くの教科書や研究者の思考様式に深く根付いています。これは、過去の成功体験や、その概念に基づいて構築された学問的・社会的構造が強固であるため、新しい視点や批判が受け入れられにくい状態を示します。
* 「専門バベルの塔」の弊害: 各専門分野が細分化され、それぞれの領域内で完結しようとする傾向は、俯瞰的な視点や異なる分野間の対話を阻害します。その結果、「死んだ馬」と化した概念がそれぞれの専門分野の「聖典」として生き残り、他の分野からの批判を受け付けない閉鎖的な状況を生み出します。ケストラーは、ホロンの概念を通じて、この断片化された知のあり方に警鐘を鳴らしました。
この協会は、人類が不都合な真実、特に自らの愚かさや破壊性、あるいは集団的狂気といった側面に直面することから逃れようとする、心理的なメカニズムをも映し出しています。
* 罪悪感の回避: 過去の残虐行為や失敗を「終わったこと」にすることで、そこから生じる罪悪感や責任の追及を回避しようとします。これは個人の防衛機制が、集団レベルで発動している状態です。
* 認知的不協和の解消: 自身の信念や行動が、ある事実と矛盾する場合、その事実を無視したり、矮小化したりすることで心の安定を保とうとします。ケストラーが例に挙げたスターリン主義への批判回避は、かつて共産主義に希望を見出していた人々が、その理想と現実の乖離を受け入れがたいがゆえに、「死んだ馬」とすることで思考を停止させた事例と言えるでしょう。
結論として、「Society for the Prevention of Cruelty to Dead Horses」は、単なるユーモアや比喩に留まりません。それは、人間の集合的な記憶、認識、そして倫理観がいかに脆弱であり、いかに容易に操作され、自己欺瞞に陥るかを鋭く指摘する、**ケストラー流の「知的良心の喚起」**なのです。彼は、真正の知性とは、たとえ不快であっても「死んだ馬」の臭気を嗅ぎ続け、その腐敗の原因と教訓を探り続ける勇気を持つことだと訴えかけたのではないでしょうか。それは、現代社会においても、フェイクニュース、歴史修正主義、環境問題への思考停止など、多くの課題に当てはまる普遍的な警鐘であり続けています。
神経系による主観的経験と単なる生化学的反応は、情報伝達の「次元」が異なる
確かに、神経系による情報伝達も広義では「生化学的プロセス」に含まれます。神経細胞の活動はイオンチャネルの開閉、神経伝達物質の放出といった化学反応を伴います。しかし、それは単なる分子のやり取りではなく、「情報の統合・処理・意味付け」を行うシステムの一部です。
具体的に言えば:
神経系は、感覚入力・統合・意思決定・出力という「情報処理アーキテクチャ」を持つ
このアーキテクチャによって、痛みや恐怖といった**主観的・経験的な意識状態(qualia)**が生まれる
このプロセスは、単に信号を出すだけの植物のホルモン反応とは情報構造・機能・目的すべてが異なる
植物にも電気信号やホルモン伝達はありますが、それは**「事象に対する反応」以上のものではなく、「経験」「認知」「判断」「予測」といった高次機能は存在しない**とされています。植物は情報を蓄積・統合して、意識的に何かを選ぶわけではないからです(Trewavas, 2005)。
例えるなら:
神経系はコンピュータで、情報を分析し意味付けできるOSを持つ
植物の反応はサーモスタットや自動販売機のような単純なフィードバック制御に過ぎない
したがって、両者を「同じ生化学的情報伝達だから本質的に同じ」とする主張は、情報の階層性・複雑性・機能的意義を無視した不正確な還元主義です。
好き嫌いと善悪や良い悪いは別物だと言う人がいるけれど、あんまりそうとも思えなくて色々考えてた。
後者を構成する要素が様々にあるとしても、結局全て個人の快不快の集合に帰結しそう。
宗教・法・倫理等々の社会規範、文化、技術的方法論、色々な要素を基準とした善悪や良し悪しがあるけれど、その基準そのものがやっぱり根源を辿っていけば快不快をどれだけもたらすかを問題としてる。その形成過程が政治的なものであるにせよ、何らかの共感やナラティブによるものにせよ。
(道具的ではない)理性なる概念も、いまいちしっかりと定義(実証?)出来ない。定言的な義務なんて言っても、それを揺るぎないものとする根拠に欠ける。あったらあったで結局それは仮言的なものでしかないし、そんなメタ規範があるとしてもまた定言命法同様の矛盾を抱える。黄金律にはなり得ず、単なる主義主張にしか留まらない。それが普遍性を持ち効力を発するとしたら、政治的過程によってなんだろうな。自然法則は価値判断を行わないし、神は言葉を聞かせてくれない。政治なんて快不快原理の擦り合わせそのものだし、であれば「理性」なるものの根源も快不快感情に基づいた欲求以外のものが見当たらない。
個人の快不快は集団において相互に作用する。衝突が発生したり、強固に結束する事もある。その中で、快楽を最大化する手段として新たな規範なんかが生じる。宗教的信念なり功利主義なりの主義であったり、あるいはもっと具体的個別的な法であったり、美意識であったり。
それらが蓄積・継承されたり、更にそれら同士が相互作用を生じることで、個人の快不快原理に対しても影響を与える可能性があるのも事実かもしれない。
「好きと良いは違う」に対して還元主義(?)的に考えていった結果、良いと悪いは好き嫌いの多数決でしかないのではないかという結論に至った。
この服はなぜ良いのか?
着心地が快適だから。なぜ着心地が快適だと良いのか?快適である状態は良い事だから。快不快の問題だ。
かっこいいから。なぜかっこいいと良いのか?そもそも「かっこいい」の定義は?かっこいいものを身につける事は精神的充足に繋がるから。かっこいいとは見ていて嫌悪感を抱かず、むしろ快楽や憧れの念を抱かせるような事である。快不快の問題だ。ちょっとトートロジーめいてる気もする。
安いから。なぜ安いと良いのか?可処分所得の減少が少なくなるから。なぜ可処分所得の減少が少ないと良いのか?可処分所得の消費による購買の機会を増やし、効用の追求機会が増えるから。快不快の問題だ。
高いから。なぜ高いと良いのか?高額な消費であればより大きな効用を得られるだろうという誤謬めいた判断が快楽をもたらすから。高額の消費、及びそれを誇示する服を着ることが収入の高さ、引いては社会的評価の高さを示唆し、自尊心の向上や社会的承認が得られるから。快不快の問題だ。
もっと言えばエシカルコンシャスネスだとか、造形の斬新さや精緻さ、テーマ性の反映度合いや精神性が云々だとかいくらでもあるけど、それらを測る評価軸はどこから湧いて出きたのかという事になる。
いずれの評価軸も快不快、好き嫌いの問題へと収束していくはずだ。デニムなんかで着心地が悪いからこそ「良い」みたいな美意識もあるだろうけど、それも然りだろう。
いつからかあってこれからもあり続けるであろう自然法則を所与の前提として持つ自然科学と違って、何が良いかという判断においては意図的に何かを前提として置かなければならないのだから、感覚的な部分に頼らざるを得ないのは当然に思える。
ただそれだと必ずしも多数派に支持されない「権威」の存在の説明がつかない。
ハイメゾンの攻めたコレクションを見て賞賛を送る人間は多数派だろうか?もっと定量的にいけばジャンルを変えてトマトメーターでも見れば分かるけど、権威と大衆の意見は必ずしも一致しない。それなのに権威の意見が良し悪しの評価に無影響だとは受け取られていない。
謎すぎる。
世界共通の自然法則に支配される存在であって、かつ誤差みたいな個体差はあれどほぼ構造も似たような生き物同士なんだから、何かしら共有されている本質的な感覚があるのだろうか。
それはまああるか。
様々なノイズを除去しながら、そういった本質的なものを見極めて評価の対象物と照らし合わせる技能を持った人間が伝導師として権威を握っているんだろうか。
ただ人類の共通の感覚って言ったって大枠のものに過ぎない気もする。ドブ川の水を啜って美味いと感じる人間は多分いないだろうけど、椎茸を美味いと感じる人間もいれば嫌いな人間もいる。
アレルギーでもなきゃ、食わせ続ければいつかは美味しさを「理解」して好きになるのか?
宗教規範から脱却したように思えてその実人々が未だ様々な信仰に基づいて生きている点は全く変わらないように、本質主義だとか教養主義だとかが社会の中で生き永らえているだけの話なのか?
多数派が好き(あるいは嫌い)だと思わないようなものについても、新たな価値判断の基準を提示して「言われてみれば、確かに……」という共感を呼び、考えを変えてしまうような魔力を持った主張の出来る人間が権威を握るのか?常にそれが達成される訳ではないにせよ。
論理的に分析してみた所でそれが良いか悪いかは論理ではなく基準の問題なので、共感の方が重要に思える。
基準に沿った判断は合理的にやっていけるけども、基準そのものの妥当性はより上位の基準でしか判断出来ない。好き嫌いというのは恐らく最上位の基準であって、それ以上の基準はなく共感によって一変してしまうのかもしれない。
これなら原則として良い悪いが好き嫌いの多数決によって決まるという説の中でも得意的に良い悪いへの影響力を持つ事がさほど矛盾しない気がする。一番しっくり来るかもしれない。
哲学の世界ではとうにこんな議論もグチグチと交わされてるらしいけどおれの中では前向きなニヒリズムが一番納得感があるし、それ以上の理屈を求めようという気にもあまりならない。
欲望を実現するための具体的な方法論においてはバランス感も大事だろうけど、その欲望を生み出す信仰だとか納得だとかは心の底の底まで貫くものをたった一つだけ持った方が幸せになれるような気がする。
中庸とか言って反復横跳びするような真似はせず、大事な一つ以外には一切の疑いも迷いも捨てる。自分の信仰も心の持ちよう次第ではいくらでも曲げられてしまうものだと思わず、この世でたった一つだけ確実に存在する所与の真理とみなす。
ヒューマニズムだとか人権思想だとかコミュニタリアニズムだとか宗教規範だとか、その他の価値は全てただ一つの真理に基づいた行いを現実的に実践するための手段としてのみ存在させる。
おれは実存主義的な生き方が一番美しいと思ってたけど、こういう生き方の方が遥かに美しいような気がしてきた。
似ているようだけど、ほんの少しの違いが決定的に違う。
ちょっと嫌な事があれば「でも結局全部意味ないしな……」と思えてしまうような、論理にお膳立てされた「好きに生きよう」ではない。一度全てを論理的に疑って無限の還元主義へと陥るような小賢しいメタ思考を挟まず、ただ情熱と信念のみによって信仰の獲得を成し遂げる。
別に宗教規範に限らず世俗的価値観にせよ個人の感覚に依拠した価値規範にせよ、やっぱ無垢の信仰は満足に生きるにあたって大事な気がする。
人生の楽しさを感覚で味わえないから、せめて理屈だけでもと生きる意義を論理的に追及してみる。そして考えれば考えるほど、今まで所与の事実だと思っていたものが快不快の多数決に過ぎない規範へと後退していく。
寄る辺なく存在しながら、じゃあ好きに生きるしかないか……と思いつつ、そもそもが人生つまんなくてこんな事考え始めてるので、改めて振り出しに戻っても活力が湧くとは限らない。何なら虚無感だけが残って、余計無気力でつまらない人生になるかもしれない。
一度虚無へと至ってしまったら、もう二度と無垢の信仰は手に入らない。
でもあんまり一つの信仰だけを貫いてると、何かのきっかけで打ち砕かれるような事があったら自殺しちゃいそうだなとも思う。
ここまで強烈に徹底はしなくともそれなりの強度でこういう生き方をしている人はいて、そういう人が信念を支えきれなくなるといわゆる中年の危機的なやつを迎えるんだろうか。
「問」は具体例を挙げた説明を要するものと解釈して説明していく。
パソコンとは何か?
還元主義的階層論では、CPU、メモリ、HDD等のパソコンの部品がそれぞれパソコンの一部と捉えて、
そう言った部品の集合体と捉える。このようなパソコンを部品に分解していってもそれはあくまで
だが、半導体1個、抵抗1個を「これはパソコンの一部です」と言えるだろうか?
全体主義的階層論ではそう言った部品一つ一つはパソコンではなく、各部品が集合して電子信号等を
やり取りする、つまり部品間で関係性を持つ事によって初めてこれはパソコンであると捉えている。
例えばパソコンから電源なりCPUなりを1つ取り外せばパソコンは起動しなくなるだろうが、
構造主義的階層論でもバラバラのパーツはパソコンではないと捉える点では全体主義的階層論に似ている。
では両者の差異は何か。
全体主義的階層論ではパソコンはCPU、メモリ、HDD等のパーツからなり、HDDはネジ、ベアリング、
モーター等のパーツからなり、ベアリングは金属やグリス、ゴム等のパーツからなると全てにおいて
一方構造主義的階層論では例えばパソコンは各パーツ差し込んで組み立てれば完成するけどベアリングは各パーツで加工を
しなければ完成しないから同じ論理を持ちだすのは間違いであると考える(構造列の相違による不連続)。
ひとつひとつのクラスのオブジェクトのふるまいをよく理解すればライブラリが理解できるよ
プログラミング言語いろいろあるし、ハードウェアもいろいろあるで。
上記は、多様なハードウェアで動く、多様な言語を、オブジェクトという1つの観点からぶった切ったときだけ、見えてくる構造よね。
みたいな話かなと思った。
俺は読めないけど。
還元主義的階層論は次のような仮定に基づいている。全体の性質は部分の性質に還元できる。すなわち部分と部分がいかなる関係をもつかは部分自身の性質により決定される。これに対し全体主義的階層論は、部分と部分の関係性は他に還元することができず、関係性自体を実在と看做さなければならないと考える。さて、構造主義的階層論は、構造は下位の構造に還元できないと考える点で、明らかに全体論に近い。しかし全体論が成り立つのは同一構造の内部に限られると考える。ここに全体主義的階層論と構造主義的階層論の決定的な違いが顕わになる。前者はこの世界のすべての部分-全体関係はそれ自体が一つの構造であると暗黙理に前提する。すると宇宙全体を最大の全体、最小の粒子(いまのところクォークやレプトンのようなもの)も最小の部分とする、全体-部分の構造階層系列に、この世界はすべて包摂されてしまう。素粒子から始まって原子、分子、高分子、細胞内小器官、細胞、組織、器官、個体、個体群、群衆、生態系、地球、太陽系、銀河系、宇宙と連なる壮大な形態的部分-全体系のどの一つをとってみても、部分と部分の関係性自体は、部分の性質に還元できない何らかの実在と看做される。これに対して構造主義的階層論は、全体主義的階層論あるいは還元主義的階層論によってア・プリオリに措定された、形態的部分-全体系列の連続性の仮説を放棄して、水平面には構造の相違による、垂直面には構造列の相違による不連続面を構想する。たとえば構造主義生物学は、生物を形成する空間には無生物からなる空間とは異なる生物固有の上位構造が具現していると考える。したがって単一の細胞や単一の個体が同一の構造(列)下に包摂され、この空間の内部に関する限り全体論的な部分-全体関係が成立することを擁護する。
http://anond.hatelabo.jp/20130528133141
をよみ、「この文章を改変して批判し発展的なことを書いてみよう」と思いましたが、不幸なことに私にはその文章力がなかったので、むしろ端的に書いてみます。
仰る通り、考えるやり方は人それぞれありますし、それを育み育てていくことはとても大事なのです。
また、その材料や燃料の"一部"に、例えば本が大きな比重を占めることは確かでしょう。
でも、読むだけではだめなのです。
大事なのは考えること、そしてそれを書いてみることです。その際に、批判的思考を常に持つべきです。また、読み・考え・書いている、その"テーマ"や"内容"に、どのような要素があるのか、それらがどのような関係性をもって動いているのか、様々な考え方やものの見方、いろんな軸で捉え直してみて、より深く発展させていくのです。
読み、考え、書く。
これは、インプット(入力)・プロセッシング(処理)・アウトプット(出力)に例えることができます。
考える材料を、仕入れ、考え、そうして思ったことを書く。
材料はなんでもありです。ただ、考える時に"幾ら考えてもよく解らない"というのは、材料としては優れていません。
アウトプットも何でもよいのです。でもやっぱり、人によって表現しやすい形態があります。
考えるやり方、これもなんでもありです。どのように考えてもよいでしょう。例えば、様々なテーマについて、たくさんの視点や背景から考えることができます。ひとによって背景や知識も違います。
読み・考え・書く、この一連の流れのなかで、より貪欲に知的になろうと、つまり、より良く読み、より良く考え、より良く書こうと思うと、その為の材料が必要になります。
それが本であったり様々なメディアであったりするのです。
たくさん読むだけでは駄目なのです。世の中には様々な見方や考え方・捉え方の軸がありますから、それを仕入れることが必要です。また書く時にも、どのように書くのか何を書くのか、といった視点が必要です。
要素還元主義とは、物事を部分に分けて考えてゆくやり方です。どのような要素があり、それらが、他の要素とどのような関係があるのか、どのような働きをするのか、と考えていきます。
また、批判的思考(critical thinking)とは、物事をみるときに、果たしてそれは妥当なのか、と常に自身に問い続ける、そのような態度による思考をいいます。
つまり、読み・考え・書く、すべてにおいて、どのように読み、どのように考え、どのように書くのか、常に意識しながら行うことが、よりよい営みになるでしょう。
彼の指摘した、物事に対する批判が、妥当な批判になるかどうか、という課題については、こういった視点が有効では、と思います。