はてなキーワード: 鳥類とは
動物にも感情はあります。特に脳を持つ哺乳類や鳥類などは、人間と同様に喜び・悲しみ・恐怖などの感情を感じ、それを行動で表現します。
多くの研究者によれば、犬や猫、カラス、サルなどにも複雑な感情や共感、時には不満を感じることが確認されています。たとえば、犬は飼い主が帰宅した時にしっぽを振って喜びを露わにしたり、叱られるとしっぽを下げて悲しそうな態度を示します。ネズミが傷ついた仲間を助けたりする行動も、感情の存在を示唆しています。
恐怖や喜びといった原始的な感情は、脳を持つ多くの動物に認められています。
人間特有の「悲しくて泣く」などの高度な感情表現は、現時点ではほとんど認められていませんが、人間以外の動物も「鳴く」「動き」「接触」などの行動で感情を伝えます。
脳の発達した哺乳類や鳥類は、喜怒哀楽のような感情を分かりやすく表すことができます。
昆虫などの脳が小さい動物の場合、人間と全く同じ感情とはいえないまでも、恐怖やストレス、欲求といった「原始的な心の動き」がある可能性も指摘されています。
人間との違い
人間は言葉によって感情を表現できる特別な存在ですが、動物もそれぞれの方法で感情を持ち、それを行動で示しています。また、「感情に伴う涙」は基本的に人間に限られるとされてきましたが、犬が飼い主と再会した際に涙を分泌するとの研究報告もあります。
その法律、罰則規定がない理念法だったし、今だってネズミとかは自分で駆除するように。
牛も馬も豚も、その辺で野生化したやつはいないけど、注意が必要なのが犬、猫、ウサギ、ハト。
2の規定はヒトが占有している、つまり所有権がはっきりしてる動物だけなんだけど、犬、猫、ウサギ、ハトは所有者がわからなくても、害獣害鳥として駆除しちゃダメでさ。
保健所に連れて行っただけでダメかというと、厳密にいうと放さなくちゃいけないってだけで保健所につれていったことが罪を増やすわけじゃないんで、そこについては要するにカスハラ、単に業務妨害でしかないんだが。
鉄オタには鉄道車両に対して生き物と同じような感情移入をしている人もいるかな。
自分はふと汽車を見たら丸い部分が顔に見えるというベタかもしれない理由だけどなんかこいつは生きてるんじゃないかって哺乳類鳥類などに感じるようなのと同じような愛おしさを感じたよ。
でもミリオタの戦艦好きとかにも通じてそう。鋼鉄の身体ってものの無機質さのロマンと、そういう見た目だからこそもし何か感情みたいなものがあったらとそのギャップはすごいもので想像が止まらない。
そんな理由で鉄道とかにハマってる人もいるんじゃないのかなあと思った次第。
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近所の不動産屋の軒先に巣を作ったつばめの子どもたちがついに巣立ち始めている。
つい先週くらいまでは巣にぎゅうぎゅうになって、3羽の子つばめの上に2羽の子つばめが重なるようにして、黒丸の頭に黄色いひし形の口を開けていたのに、今は悠々と空を飛んでいる。
いや、悠々とは言い過ぎか。巣の正面の広い空間を集団で、おっかなびっくり飛び回っている。あまり遠くに行かないのがいかにもビギナーらしい。
その飛んでいる空間は歩道に当たるところなので、こちらとしても衝突してこないかとおっかなびっくり歩くことになるわけだけども、そこはビギナーでも瞬速の鳥類、うまいこと躱して飛んでくれる。
その辺りには蚊柱がないので、やっぱりご利益なのかなと思ったりする。
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可視光の外側に人間の見れない領域があって、それを見れる生物がいるわけやん?
ほんで、もっと根本的部分で、見れてない数学的構造、みたいなもんもあるかもしれんわけやん?
ほんなら、人間の数学認識を変えたら、新しい現実にアクセスできたりするんかな?
これは非常に興味深い考察ですね。確かに、人間の認識能力の限界と、それを超えた可能性について深く考えさせられる問いです。
人間の視覚は確かに可視光の範囲に限定されています。一方で、多くの生物が異なる光の波長を感知できることが知られています:
これらの例は、私たちの周りに存在するにもかかわらず、人間には直接知覚できない現実の側面があることを示しています。
同様に、私たちの数学的理解にも限界があるかもしれません。現在の数学で捉えきれていない構造や概念が存在する可能性は十分に考えられます。
歴史を振り返ると、数学の発展が人類の現実認識を大きく変えてきた例がいくつかあります:
1. 非ユークリッド幾何学の発見は、私たちの空間認識を根本的に変えました
2. 量子力学の数学的基礎は、微視的世界の理解を可能にしました
3. フラクタル幾何学は、自然界の複雑な形状を新たな視点で捉えることを可能にしました
新しい数学的概念や構造を発見することで、これまで認識できなかった現実の側面にアクセスできる可能性は確かにあります。例えば:
人間の数学認識を拡張することで、新しい現実にアクセスできる可能性は十分にあります。ただし、これは単に新しい数学を「発明」するだけでなく、自然界に既に存在する構造を「発見」することを意味するでしょう。
重要なのは、常に好奇心を持ち、既存の概念にとらわれず、新しい視点で世界を見る姿勢を持ち続けることです。科学と数学の歴史は、人間の認識の限界が常に拡張され続けてきたことを示しています。未来にどのような発見が待っているか、想像するだけでわくわくしますね。
社会の通念として、それは裏切りであり、倫理的に許されないとされている。しかし、私にはそうは思えない。むしろ、それを肯定的に捉える視点こそが、より公正な社会の実現に寄与するのではないかと考えている。
まず、生物学的な視点から見れば、托卵は自然界において決して珍しいものではない。カッコウをはじめとする多くの鳥類がそれを戦略として用いている。ではなぜ人間の社会においてのみ、それが罪悪視されるのか。答えは単純で、社会のルールが男にとって都合のいい形で作られてきたからだ。
そもそも、子育ての負担は圧倒的に女性に偏っている。妊娠・出産という過程そのものが女性に課せられており、その後の育児もまた、男性はほんの一部しか担わないのが現実だ。それなのに、DNAの一致という、育児にほとんど寄与しない要素が重視されるのは滑稽ではないか。
男性は自分の遺伝子が受け継がれることに異常な執着を持っている。その根底には、「自分の所有物が他人のものになってはならない」という発想がある。だが、そもそも女性も子どもも彼らの所有物ではない。子育てにおいて最も重要なのは「誰の遺伝子か」ではなく、「誰がどれだけの労力を提供するか」だ。その点で言えば、托卵された男性が育児を担うことは、社会全体の負担の公平性を高める一助となる。
また、男性は自分の子どもでなかった場合、それを裏切りと感じるようだが、彼ら自身はどれほど誠実に生きているのだろうか。浮気や不倫、風俗通いなど、彼らは自らの快楽のためには倫理を平気で踏みにじるくせに、女性がそれをした場合には烈火のごとく怒る。このダブルスタンダードが、托卵を問題視する心理の背景にあるのではないか。
さらに言えば、托卵は女性にとって合理的な選択肢となり得る。遺伝的に優れた男性の子どもを持ちながら、経済的に安定した男性に育てさせることは、子どもの生存戦略としても合理的だ。それを「道徳的に許されない」と言うのは、女性の自由な選択を奪おうとする抑圧に他ならない。
男性側からすれば「騙された」と感じるかもしれない。だが、社会全体を見渡せば、女性は長らく騙され続けてきたのではないか。恋愛においては「養ってやる」と言いながら実際には家事育児を押し付け、結婚すれば「一生守る」と言いながら経済的DVを平然と行う。男性による欺瞞は許され、女性がそれを返したときだけ非難されるのは理不尽ではないか。
道徳とは、時代とともに変わるものだ。かつては女性が働くことすら非難されたように、現在の「托卵は悪」という価値観も、男社会によって作られた歪んだ規範にすぎない。より公正な社会を目指すならば、托卵は非難されるべきではなく、一つの選択肢として認められるべきではないか。
少なくとも私は、そう考えている。
そうかな?
ワニって恐竜っぽいじゃん。恐竜って鳥類に近いらしいからワニは鳥類だと思うんだよね。卵も産むし。
クジラはしらんけどイルカは実際に見ると人に慣れてる感じが犬っぽいから哺乳類でいいよ。
「托卵」という言葉は、元来生物学的な用語として知られています。
その学術的な意味は、ある動物が自分の卵を他の動物の巣に預け、その動物に育てさせる行動を指します。この現象は主に鳥類で見られ、たとえばカッコウが代表的な例です。英語では brood parasitism と表現されます。
しかし近年、日本語では「托卵」という言葉が学術的な文脈を離れ、比喩的かつネガティブな意味で使用されるケースが増えているように感じます。たとえば、人間関係や家庭において、子どもの父親が実際の夫ではない状況を指す言葉として、「托卵」が使われることがあります。この場合、「托卵」はいわば下世話な比喩として用いられ、その学術的な意味や本来の文脈が忘れられてしまっているのです。
こうした使い方に私は違和感を覚えます。学術的な背景を持つ言葉が、軽率にネガティブな意味合いで使われることで、本来の意義が失われることを懸念します。たしかに、「托卵」は家庭や人間関係の問題を説明する際にインパクトのある表現かもしれません。しかし、こうした状況はそもそも生物学的な行動ではなく、倫理的・法律的な問題です。つまり、この場合の問題の本質は「父性の詐欺」、すなわち英語で言う paternity fraud に近いものです。
本来、こうした行為は社会的・道徳的な観点から「詐欺」として厳しく非難されるべきです。「托卵」という言葉を使うことで問題の本質がぼやけ、「仕方のないこと」「面白おかしい話」として扱われてしまう危険性があります。学術的な言葉を使って社会的な問題を語るのは便利かもしれませんが、それによって問題の深刻さや正当な批判が軽視されるべきではないと考えます。
結論として、私は「托卵」という言葉の比喩的な使われ方に慎重になるべきだと思います。その背景にある学術的な意味を忘れることなく、もしこのような家庭や人間関係の問題を語るなら、英語の **paternity fraud** に倣い、「詐欺」という適切な言葉を用いて表現するべきです。
「例え」の何と何がどう対応しているかを解説する人って少ないよな
野暮だからかな「株価とは木の上で眠っている鳥類のようです。強い風が吹けばパッと飛び上がるが、間抜けにも転がり落ちることが多い。」と啖呵を切った後に「あのーこの例えを解説いたしますとね、悪材料が来ても株価が上がることって案外ございましてね…」とかいいだしたらダサいわな
でもそうやって捨象の悪影響を無視するから木に登ることなんてないペンギンさんがよくわからないという顔をしているのだが???
そういやヒトラーを例えに出すと議論がめちゃくちゃになるみたいな話あったよな。ヒトラーやナチスに含意が多すぎ、つまりそれはミスリードされる要因が多すぎるということなわけで。
もう少し山に入ると猪がおるけど会いたくない
数年前は熊が出たので林業の人以外はもう多分山には入ってない
夜はイタチだかなんだかよくわからんけど大型のネズミみたいなやつが道路を横切ってくるので怖い
朝になったらよく轢かれた死体がころがってる
サギみたいなやつとかギーギーうるさいし
また街中の暮らしに戻りたい
コメにバンコクのレストランでの存在しない記憶体験書いてくださった方がおり、出張と重なっていたこともあり勢いで行ってきた、ほんとに今さっき。
前に書いた増田
https://anond.hatelabo.jp/20240914232747
店を教えてくれた方
https://anond.hatelabo.jp/20241010005731
バンコクのプルンチット駅のホテルオークラにあるエレメンツ。タイの公式観光サイトでも紹介されていてあのマシュマロマンにも認められた名店だ。
まあそれなりの値段ではあるもののゴチレベルのスゴイタカイ感じではなかったため、勢いでメール予約した。ただし予約後に一部前払いしないといけなかったのでちょっとびっくり。
プルンチット駅含めてのロケーションは静かで綺麗で落ち着いた印象。まあ流行りの某駅まわりはアカン葉っぱの看板がやたらめったら増えたので余計にそう思うのかも。内装が海外とは思えないぐらいぴっちり綺麗だった……。
まずテーブルにデカい碁石みたいなのが置かれていく。碁石のはしっこには可愛らしいあひると、ケーキのミニチュアと、そして小さいタルトがのっかっている。ウエイターさんの英語が流暢すぎてよくわからないものの、あひる、ケーキ、タルトの順で食べろということだ。
緑がかったつやつやのあひるは、小さな花が散りばめられたクッキーでできた台の上に乗っている。初っ端から可食部が分からないやつがきてしまった。昔コラボカフェとかのキャラが印刷されたウエハースを発泡スチロールと思い込んで避けて残したことを思い出すものの、さすがに花は発泡スチロールよりはちゃんと胃で消化されることだろう。花ごとあひるを口に入れるとフォアグラの味とサクサクとした食感がする。シンプルに美味しくて見た目が良い枠だ。
次のケーキは、便宜上ケーキと言っているがイクラが乗っかっている。そのまま食べるとほんのり魚介のテリーヌの味で、ディルの香りがする。時間差でこぼれたイクラがはじけて味変して面白い。
最後は胡椒のかかったクリームのミニタルト。こんなの絶対おいしいよ。タルトがサクサクしてたぶんホタテみたいなクリーム、その中に強烈なうまみ、そして、シャキシャキの……これはたぶん長ネギのはずなのだが、長ネギの中でもSSRのスーパー長ネギを複数本引いて重ねてボーナスまでつけて強化でもしたかのようなLRレジェンド長ネギ+99みたいな長ネギが満を持して出てきちゃった。サクサクシャキシャキシャキシャキジャキジャキ……歯応えがよすぎるうえに後を引く。今いちばん好きな食べ物聞かれたら絶対この長ネギって言うわ。MVS(モーストバリュアブル食材)だわ。
次にパンが3種類やってきた。ウエイターさんはどれにする?と訊いてきたがイヤしんぼなので3個もらえないか聞くといいよとのこと。ツチノコの形をしたソフトフランスときめ細かいクロワッサン、あとよくわからない真っ黒なパン。同時にバターが2個出てきたが、片方はどうやらみそバターということらしい。
ツチノコフランスは初見普通に美味しいフランスパンだったが、試しにみそバターを塗ると豹変した。インチキ英語力の私にはみそバターなのかどうかすらわからないが、これは、美味いハムの味だ。おめでとう、ツチノコは生ハム原木に進化した!
クロワッサンは、純粋にクロワッサンとしか言いようのない味であるものの、これもまた不思議なクロワッサンであり、脳の中に直接うまあじと多幸感が送り込まれてくる。これは紛れもなくカロリーの味だ。数ヶ月苦楽を共にしてきたあすけんの女の血の気が引いていく。飽和脂肪酸、禁じられたそれに手を出してしまったんですかと震える声がする。その罪悪感が多幸感を倍プッシュする……罪の味ほど美味いものはないのかもしれない。
黒いパン。これは普通の良いパン味のような気もしたが、食べたことのない食感だ。ちぎったところで別にトーストされたわけではないバターロールのテクスチャなのだが、歯触りが胡麻でも練り込んだみたいにプチプチで面白い。みそバターにもよく合って美味しかった。
ブリのカルパッチョにウニのエスプーマ、ペアリングのコンブチャ。
ウニは見た目どおりストレートに美味しい。ブリを一緒に食べるとこれが複雑な味になる。わざと奏でた不協和音みたいなえぐみのノイズが入る。好きだった地元のラーメン屋のスープの、今はもう失われてしまった大好きなあのえぐみに少し重なった。切ない。
ペアリングのコンブチャを一口。コンブチャってタコピーに出てきたアレだなあ、ピーチウーロンとかアップルグリーンティーみたいなノリかなと思って軽い気持ちで頼んでみたらドギツイ酢だった。普通に果実酢。これはそういうものらしく、単純にリサーチ不足。だけどウニコンブチャブリコンブチャと繰り返し口に運んでいくと、何かが「理解って」いく。そういうことね、完全に理解したわ。
鯛のムニエルが運ばれてきた。最初は鯛とイクラだけが皿に乗っていたが、後からウエイターさんがバターソースをかけてくれた。ライブ感。
ナイフを取ろうとしたら、その場所にはペインティングナイフみたいなのが置かれている。明らかに切るには向いていないペインティングナイフでどうせぇっちゅうんやと思ったものの、鯛の皮はパリパリで身はほぐれやすくてイクラとかソースとかをすくうにはちょうど良かった。
鯛の皮はパリパリサクサクのいいしょっぱさで、普段は焼き魚の皮アンチの私でも永久に食べていたいと思うぐらい。身も柔らかくまったりとしたバターソースと上手く調和していてとても美味しい。そして主役を食うぐらいの主張をするのがソースに浮かぶイクラだ。プチプチとかじゃない。バツン、バツンぐらいの弾け方をしていて大変に良い。いつもスシローとかで食べている無抵抗なイクラとは全然違う。まあ人間にも自分のような凡人もいればオオタニサンだっているんだしそんなものなのかもしれない。凡人でも頑張ればイクラ界のオオタニサンを口にできるのである。しらんけど。
食用の鳩が映える塩竈に包まれてやってきた。塩竈をはずしながら、ウエイターさんが流暢な英語で説明してくれる。10%ぐらいしらわからんものの、鳩は骨だらけだから後でもう一度持ってくるから撮影用に持ってきたんだよということだそうだ。実際めっちゃ映える。
しばらくするとさらに調理された鳩がやってきた。盛り付けが素晴らしく綺麗だった。鳩なんて後にも先にも今しか食べないものだから、味なんて想像すらつかないのでおっかなびっくり口に入れる。お肉はレアでしっとりと柔らかく、ちょっとだけレバ刺しの感じがしてそしてほろ苦い。付け合わせの玉ねぎがこれも甘さ辛さ食感と三拍子揃っていて良いアクセントになっている。ただやはり日本人には食べ慣れない味かもしれない(し、生っぽい鳥類はどうしても怖い)……これはちょっとだけ選択肢をミスしたと思われる。情報元の方と同じ牛肉にしておくべきだったかな。
何を言っているのかわからねーと思うが、メニューに無いデザートとメニューにあるデザートとメニューに無いデザートが出てきた。
まずメニューに無いやつ。かぼちゃのかき氷とアイスクリーム。これはちょっと全体的に酸っぱくて好きな味ではなかったかも。上述のとおり酸っぱいのが嫌いなわけではないものの……。
つぎにメニューで選んだやつ。キャラメルプリンのようなものとアイスクリーム。キャラメルプリンだけ食べてみるとちょっと野暮ったい印象。だけど飾りのクッキー細工と一緒に食べると甘さと苦さと食感が程よくなって楽しい。アイスクリームのほうも甘すぎないミルク味でいい感じ。逆にアイスクリーム単体だと物足りない甘みだから、匙加減が絶妙だと思った。
さいごにまたメニューに無いやつ、アンコール枠。テーブルに箱が置かれて小さなデザートが置かれていく。マカロン、クリームのはさまった抹茶クッキー、フィナンシェ的焼き菓子、ネスプレッソのカプセル……ネスプレッソのカプセル。二度見したけどやっぱりネスプレッソのカプセル。まんまキラキラで2色のやつ、マシンのスターターキットにいくつかだけ入ってる普段使いはできないレアなほうのカプセルでしかない。
ギョッとしているとウエイターさんが「これはスペシャリテのチョコレートだよ」と教えてくれた。しかし何故この形にしたグランプリ最優秀賞という感じではある。作ろうと思って精巧に作れたからお出ししたのかもしれない。そんなことを思いながら食べてみるとチョコレートの中にふわりとオレンジの味がする。騙し絵グルメとしてかなりの完成度でとても良かったです。
マカロンは美味しい(ねちょっとしない)タイプでアーモンドとフルーツのフレーバーがして、クッキーサンドはしっかり抹茶の味がしてこれも美味しくて、ハロウィン仕様でカボチャ型の焼き菓子も、焼き菓子のなかでは弾力があって不思議な食感だったもののとても美味しくいただけた。
味で色々な気持ちになれて楽しい良いお店でした、ウエイターさん達もタイ人あるあるのすごく優しくて色々教えてくれて高いホスピタリティを感じたものの、あまりにも相手の英語ペラペラすぎて何が何だかわからなかったです、美味しかったです、情報ありがとうございました!
アロサウルスを料理したらチキンと同じ味がする…?という面白い仮説ですね!
残念ながら、アロサウルスを料理して味見をすることは、現実に不可能です。
絶滅している: アロサウルスは、恐竜時代の肉食恐竜で、すでに絶滅しています。そのため、現存する生物ではありません。
倫理的な問題: 仮にアロサウルスが生きていたとしても、絶滅危惧種である可能性が高く、食用にすることは倫理的に問題があります。
安全性の問題: 肉食恐竜の肉には、現代の食生活に適さない細菌や寄生虫が含まれている可能性があり、食中毒などの危険性も考えられます。
恐竜の肉が鶏肉に似ているという想像をする人がいるのは、恐竜と鳥類が共通の祖先を持つため、ある程度の身体構造や代謝が似ていると考えられるからです。しかし、現代の鳥類は長い進化の過程を経て、現在の姿形や肉質を獲得しています。
恐竜の肉の味については、様々な憶測が飛び交っていますが、確かなことは何もわかっていません。恐竜の種類によって、肉質や味は大きく異なっていた可能性も考えられます。
まとめ
アロサウルスの肉がチキンと同じ味かどうかを科学的に証明することは不可能です。これは、あくまで面白い想像の範囲内のお話として捉えていただくのが良いでしょう。