はてなキーワード: 見えざる手とは
持ち家はいいとしても、ギチギチの土地にプラモデルみたいな3階建てのやつ建てるのってなんか嫌だよな。
健康ならいいんだけど、なんか年取ったらたいていの衛兵は膝に矢を受けて階段上り下りできなくなるらしいぞ。2階建てでさえ寝室に行くのが苦行になるらしい。
老後も考えたら平屋がいいと思うんだけどそんな贅沢に土地使えないというジレンマがあるよな。
子育て期間は部屋数も必要だし賃貸で対応して、老後は部屋が少ない平屋を建てるとかのほうがいいのでは?
(追記)
やっぱ平屋いいよな。土地があればだけど。あとは目立ったリスクは洪水のとき床上浸水で全滅くらいか?
中庭がある平屋が理想なんだよな。誰にもみられずに開放的に全裸カンフーしたい。
なんていうかこう持ち家vs.賃貸の話って持ち家がメリットある的な結論になりまくるからもう持ち家が神話性おびてきてるよな。
まあその評価軸が資産性とかキャッシュフローとかの面が第一になってるからなんだと思うけど、家ってそれだけじゃないよな。
人による面が大きいというか。
持ち家の神話がデカくなりすぎて本来持ち家を買うべきでない人とか、その人が買うべきでない物件を買う人みたいなミスマッチが多発してそうなんだよなあ。
持ち家がいくら正しくても、カレーのジャガイモのように、ライフスタイルを考えれば持ち家を買わないほうがいいような人がそこに紛れたりすることは避けられなそう(ジャガイモ派への挑発)
ライフスタイルでまずマンションと一軒家を分けて、その後に建売か注文かを分けてで決めれば良いと思う。別に弱点とかでなく選択肢の違いなだけ
家を買うとなればこういう意見にはまあハンドレッパーアグリーではあるんだがこういう選択肢を冷静に選べる人ばかりじゃなくない?
ライフスタイルの変化で住みかえればってのはあるけど、うまく住み替えれるかどうかがわからない不透明性とかもあるし、なんかこうデカ金額を負債としてハンドリングし続けるのが結構ストレスというか。
ローンももちろんストレスだけどたとえ資産でも毀損するリスクとかおもいもよらぬ外部要因とか考えたら、なんかこう地味に生殺与奪の権他人に握られ感あるよな。
最寄りの交差点が完全に陥没とか、ありえなかったこともこれからよく起こりそう。それらをあんま考えんでいいという隠れた?メリットが賃貸にはあるよな。
あと都会でちゃんとした物件を買える経済力ある人は住み替えなんかも簡単だろうけど持ち家神話に流されてギリギリの生活でギッチギチの物件買う人がそれをスムーズにできるかといえば怪しいきがする。
注文もカスタマイズしまくると売りにくくなるというジレンマもあるらしいしな。
持ち家と賃貸は市場の見えざる手がバランスを取るので不毛な争いだと思ってるけど、持ち家派の最大の弱点は近所におかしい人が住んでいる可能性かなあ。
これは結構簡単に解決すると思うんだけど、要は隣人ガチャがどんだけ外れようと自分の方がより狂えば相手は正常になるからな。これは簡単。
(追記)
ずっと我慢したけどサァ・・・さすがにもう1日くらい経ったから言わせてもらいますわ・・・・
『逆逆ゥ!膝に矢を受けたから衛兵になったんやろがい!』
「業界」なんてものに頭脳はついてないんだから、頭が良いも悪いもない。頭そのものがないんだから。
資本主義的な神の見えざる手の話に寄せて考えれば、技術者を欲しがるIT系の企業がどんどん給与を上げていけば、どこかの段階で、気の利いたビジネスパーソンが「IT系の技術者をガチで育成する濃いめの教育機関を作って、卒業者に私企業的な、しかし権威のある認定書を出す」ってビジネスを始めるはずだ。
その認定書があれば年収+500万みたいになれば自己投資としてそのビジネススクールに通う価値が発生するからね。
でも現実にはそうなってない。
つまり問題なのは、金を出す気がないのに給与以上の人材を求めようとしてるっていう、その一点だけなんだよ。素直に年収三千万とか出せばいいんだ。
金を出す気がないのに、自分以外の何処かの誰か(国家機関含む)が安価で質が高く使い潰せる従順な人材を作って俺にプレゼントしてくれないかなーって思ってるってだけなんだよ。
アダム・スミスの経済思想、とりわけ**「見えざる手」や自由市場理論**が、支配者階級のイデオロギーを後押しした点についての深い考察は、マルクス主義的視点を通じて非常に重要なテーマです。スミスが提唱した調和利益説が、どのようにして支配層の利益を正当化し、維持するために利用されてきたのかを理解することは、資本主義社会の構造的な問題を深く掘り下げることに繋がります。
アダム・スミスが『国富論』で提唱した中心的なアイデアのひとつが、**「見えざる手」**の概念です。この理論は、個々の経済主体(生産者や消費者)が自分の利益を追求することによって、結果として社会全体の利益が増大する、という考え方です。スミスは、競争が市場における効率を生み出し、全体としての富が増加することを信じていました。
「調和利益説」は、社会における各集団(資本家、労働者、消費者など)が、それぞれの利益を追求しながらも、最終的には全体の利益が調和する、という理論です。スミスは、この考え方を基に、自由市場が最も効率的で公平な経済システムであるとしました。つまり、個々の利己的な行動が社会全体の利益に貢献するとする点で、社会の調和を強調しました。
この「見えざる手」の概念は、当初から資本主義経済における市場メカニズムが自発的に調整され、最終的に社会全体が豊かになるという理想的な見解を示しています。スミスは、政府の干渉を最小限に抑えるべきだとし、市場における自由競争を重視しました。
3. 支配者層にとって都合の良いイデオロギーとしての調和利益説
この「調和利益説」の考え方が、どのようにして支配者階級のイデオロギーを後押しするかを理解するためには、次の要素を考慮する必要があります。
スミスの理論は、資本家が利益を追求する過程を自然で合理的なものとして描きます。資本家は、労働者の労働を利用して利潤を上げ、その結果として市場全体が繁栄するという理論は、資本家にとって非常に都合が良いものでした。この自由市場のメカニズムによって、資本家は自らの利益追求が社会全体にとっても利益であるかのように正当化することができたのです。
資本家は、「利益追求が社会全体を豊かにする」というスミスの見解を採用することで、自らの支配的地位や富の蓄積を合理化しました。労働者は、資本家の利益追求が結局は全体の利益に繋がるという理論に納得しやすくなり、反発を抑えられる効果がありました。
スミスの理論は、社会全体の調和を強調し、市場メカニズムが自動的に効率的な結果を生むとしたため、労働者にとっても「市場が自由である限り、皆が利益を得る」といった考えを内面化させやすくしました。これにより、労働者階級は自らの搾取を問題視せず、「自分たちも努力すれば富を得られるはずだ」という幻想を抱かせることができました。
資本主義の下での貧困や不平等は、スミスの理論においては、あくまで自然な市場の調整過程とされ、労働者階級はその構造を疑うことなく、逆に「自己責任」として受け入れるように仕向けられます。労働者が市場での競争に負けることは、単にその人の努力不足や能力の不足に過ぎないとされ、階級的な対立意識を持ちにくくなります。
スミスの理論は、政府の干渉を極力排除することを推奨します。この自由放任主義は、支配層にとって非常に都合が良いものであり、資本家が市場での競争を自由に行い、利益を最大化できるようにするための理論的根拠を提供しました。
資本家は、政府が経済活動に介入しないことを望み、自由競争を保つことが自らの利益につながると考えました。スミスの理論が広がることで、政府の規制や労働者保護の政策が抑制され、資本家の利益がより一層守られる結果となりました。
スミスの理論は、単なる経済学の枠を超えて、支配集団(特に資本家階級)のイデオロギーとして作用しました。スミスが描いた調和利益説は、資本主義社会における階級対立を隠蔽し、社会の不平等を自然なものとして受け入れさせる役割を果たしました。
• 経済の自然法則としての正当化:スミスの自由市場理論は、経済活動における「自然法則」を強調し、資本主義の不平等や搾取の構造を合理化しました。市場での自由競争が社会全体の調和を生むとされ、資本家が労働者を搾取して得る利益が、結果として社会全体を豊かにすると主張されたため、支配層は自らの特権的な地位を正当化しやすくなります。
• イデオロギーとしての普及:スミスの理論は、19世紀以降の資本主義経済の発展において、特に自由貿易や市場原理主義を強化するために利用されました。労働者階級は、自らの搾取が市場の自然な調整作用であり、自由競争が最も効率的な経済システムであると教えられることになり、不平等や階級対立への意識を薄れさせました。
5. マルクス主義との対比
マルクスは、スミスの調和利益説が資本主義社会における搾取を隠蔽し、支配層の利益を擁護するイデオロギーとして機能していることを鋭く批判しました。マルクスによれば、資本家の利益追求が社会全体に利益をもたらすという見方は、実際には労働者の搾取を隠すためのイデオロギーであり、資本主義の矛盾を見逃すものに過ぎません。
スミスの理論が調和利益説として広まり、社会の不平等や階級対立を隠す役割を果たす一方で、マルクスはこの理論を社会変革のために批判的に再考し、資本主義の基盤にある階級闘争と搾取の構造を明示しました。
アダム・スミスの調和利益説とその自由市場理論は、資本主義社会における支配層のイデオロギーを後押しする重要な役割を果たしました。この理論がどのようにして支配層の利益を擁護し、労働者階級の抵抗を抑制するための道具として機能したのかを深く理解することは、資本主義の矛盾とその維持に関する重要な洞察を提供します。
スミスが提唱した「見えざる手」と市場の自由競争による調和は、資本主義経済における階級闘争の存在を隠す役割を果たしました。スミスの理論においては、個々の経済主体(消費者、企業、労働者)がそれぞれの利益を追求することによって社会全体が豊かになるとされていますが、実際にはその過程で資本家と労働者の利益は対立するものです。
資本家は利益を追求し、労働者は自らの労働力を売ることによって生計を立てています。この関係において、資本家が労働者を搾取することが前提になっており、その利益は自然と資本家に集まる構造になっています。スミスの自由市場理論はこの対立を調和として美化し、搾取の現実を隠蔽しました。
スミスの理論は、市場が自然な状態で最適な結果を生むとする自然法則的な視点に基づいています。これにより、資本主義経済が持つ不平等な側面や搾取の問題は、あたかも避けがたい現象として受け入れられることになります。資本家はその「自然な」経済法則に従い、利益を得る権利があると主張することができます。
このように、スミスの理論は資本主義の不平等を自然で合理的なものとして描くことで、支配層にとって都合の良いイデオロギーとして機能しました。経済活動が「見えざる手」によって自動的に調整されるとすれば、支配層が享受する富や権力もまた自然な結果であるとされ、資本主義の批判を抑制する役割を果たしました。
スミスの自由市場理論は、労働者が自らの搾取や貧困を個人的な失敗や努力不足として解釈させるためのイデオロギー的な武器にもなりました。もし市場が「自然に調整される」と信じれば、労働者は自らの労働の価値が過小評価されていることに疑問を持たず、社会の不平等を受け入れることができるようになります。
また、競争が公平であり、各人が自分の能力を最大限に発揮すれば成功するというメッセージは、労働者にとって不平等の構造を自らの責任として内面化させる結果を生む可能性があります。労働者は、自分が競争に負けているのは努力が足りないからだと考え、資本家に対する反発の感情を抱きにくくなります。
スミスの理論は、資本主義が個々人に経済的自由をもたらすと同時に、社会全体の利益を促進するという観点から、非常に魅力的に見えました。しかし、これは支配層にとっての都合の良いイデオロギーとして利用されました。経済的自由が「全ての人に利益をもたらす」と信じることで、富の不平等や労働者の権利の問題が見過ごされることになります。
実際には、経済的自由は資本家にとっては利益を増大させ、労働者にとっては貧困の維持を意味することが多いです。スミスの理論が示す「自由競争」は、必ずしも公平な競争を意味するわけではなく、資本家が有利な立場に立つための道具に過ぎないという現実を見過ごすことになります。
スミスが提唱した自由市場理論は、国家の介入を最小限に抑えるべきだという考え方に基づいています。資本主義社会において、政府の規制が少なければ少ないほど、資本家は自由に利益を追求できるとされました。この点で、スミスの理論は支配階級の利益を保障するための理論的な基盤を提供しました。
政府の介入が少ないことは、資本家にとっては税金の負担や規制を減らし、自由に利益を上げることができる状態を意味します。そのため、スミスの理論は、資本家が自らの利益を守り、支配的な立場を維持するために利用されました。これにより、労働者の保護や社会的な不平等の解決には政府が介入しにくくなり、資本主義の矛盾を解決する手段が制限されました。
アダム・スミスの自由市場理論と調和利益説は、資本主義社会における支配階級のイデオロギーを正当化する重要な役割を果たしました。スミスの「見えざる手」による市場の調整メカニズムは、資本家の利益追求が社会全体に利益をもたらすという幻想を生み出し、結果として資本家の利益を擁護し、労働者の搾取や社会的な不平等を見過ごす原因となりました。
さらに、この理論は、階級対立の隠蔽や労働者階級の無自覚な受け入れを促し、資本主義社会における支配層の特権的な地位を強化しました。スミスの理論は、自由市場のメカニズムが自然で効率的な調整を行うという楽観的な幻想を提供することで、資本主義の不平等を正当化し、労働者階級の反発を抑えるための道具として機能しました。
最終的に、スミスの思想は、資本主義の維持において重要な役割を果たし、その後の経済学や政治経済理論においても、支配層によって活用され続けたのです。
いや、ガンダムシリーズって本当に歴史が長いんだなと思ったよ。
だってこんだけひどくても「歴代ワースト10には流石に入らないかな……」ってなるんだもの。
以下俺の考える酷い最終話(順不同)
戦争の悲惨さを描いてるはずなのに「ヘルメットがなくても平気だった」で平然と蘇るパイロットを始めとして全てがグダグダなクソ脚本。
まさか最終回で今までのクソを超えてくるとは俺も思って無くて唖然としたもんだ。
盛り上がるところと言えばサイ・アーガイルの再登場ぐらいで、他はただひたすら「なにこの酷いアニメ……」と実況スレの皆で困惑しながら見てることしか出来なかった。
主人公交代のためにシンがなおざりにされたのか、扱いきれなくて弾き出されたのか、そもそも交代するに足るほどの魅力がないキラとアスラン。
マジで全てが酷い。
1期が面白かったことによる反動。を、抜きにしても単体で酷すぎるラスト。
無駄死にする主要キャラ、デウス・エクス・マキナによる強引な解決、登場人物だいたいアホとしか言えない世界。
それまでマイナス50点ぐらいで耐えてた評価がマイナス500点に急降下するクソさの底抜けスピードでは種運命でも勝てないだろう。
本当のクソ最終回を見せてもらったぜ。
作品全体としてそこまで悪いとは言えないのだが、後味で考えるとクソ。
カテ公ザマーみやがれプゲラッチョwwwwwwwで楽しめるようなメンタリティじゃないので、ただただ「皆、不幸になっちゃった……」と陰鬱になる。
まあ生き残れただけましなのかなあ。
圧倒的クソではないがそこそこクソ。
ニュータイプアンチにしてニュータイプファンアンチの偽ニュータイプが暴れてただけ!
本当の黒幕とかなし!ドームはよく分からんけどとにかく凄いニュータイプ!
打ち切られたからってヤケクソすぎだろ。
とって付けたようなネタバラシ、とって付けたような虐殺、取ってつけたようなラストバトル。
ラスボス「ハハハハハ!世界大会とかもうどうでもいいぜ!武力による支配だ!」
主人公「許せねえ!いくぜ!ラブラブケーキ入刀ビーム!!!!」
ラスボス「ぐわあああああああああ」
「地球を皆の力で救うぞ!」「おう!」からの「何の光ィ!!!」で全部解決。
凄いよ。
「(´Д`)ハァ…~~~~結局フィクションなんて、誰かがでっちあげた人形劇なんスよね~~~~~」においてジークアクスはこれの1/3ぐらいしかないんだなマジで。
「クククク……突然襲い来る暴力におびえるがいい……その恐怖によって平和の大切さを思い出すのだ……クククク……」
なにこれ?
水星も叩こうと思ったけど、アレはファンの火力が強いからやめとくか。
なんかブレーキかける途端に筆が乗らなくなったわ。
これぐらいにしとくか。
とりま、ジークアクスより酷い最終回なんていくらでもあるんですわ。
この程度で騒いでる奴らがニワカなのよね。
が、その怪談界隈が、陰謀論界隈に飲み込まれて政治の話題に侵食されそうになっている。
今の怪談界隈では「ヒトコワ」というジャンルが人気だ。このヒトコワが元々心霊中心だった怪談界隈を少し悪い方向に変えている気がする。
知らない人のために説明すると、ヒトコワとは身近にいた怖い人や犯罪者など実在するヒトにまつわる怖い話で、怪談をテーマにするYouTubeチャンネルでは心霊による怖い話と同列で語られることが多い。「結局一番怖いのは人間だよね」というオチになる怖い話の一種として怪談好きの視聴者から支持されて、今では怪談の中の一大ジャンルとしての地位を確立しているといって良い。
しかし、ヒトコワは実際の人が関わる分、話された内容が、憶測で新聞記事などと関連付けられては、それが都市伝説界隈や陰謀論者に利用されて彼らの主張を裏付けるストーリーの中に組み込まれやすい。ストーカーや痴情のもつれ、性産業に関連するヒトコワも多く、社会問題につなげて問題提起し政治の話題に広がることも多い。そうなってくると元々近い界隈だった陰謀論者が怪談界隈にわらわらと集まるようになる。
もともと陰謀論界隈は、都市伝説や宇宙人、災害、戦争、フリーメイソンといった切り口で自衛隊や米軍、〇〇政府の〇〇機関と結びつきやすく、往々にして政治と距離が近くなりがちである。最近で言えば、都市伝説系YouTubeチャンネルのNaokiman Showを手がけるナオキマン氏がトランプ大統領の私邸に招待されたのは有名な話だ。
その陰謀論界隈がヒトコワを機に侵入したことで、心霊界隈(というか視聴者層)が急速に政治化しているのだ。
結果としてただの心霊話でも、何らかの形で現世と結び付けられることが多くなる。例えば土地柄がからむ心霊ならその土地の政治家の「財務省がらみ」の陰謀論が持ち出されたりといった具合だ。本来、原理について深掘る必要のない心霊が都合よく陰謀論者の世界観を強化するように使われている。芸能人に関するものなら、芸能界のスキャンダルや芸能人の事件や自死と結びつけられることもある。芸能スキャンダルは陰謀論者が大好きなジャンルだ。彼らはしきりにそれを使って政治的陰謀を連想する。
こうして元々心霊を主にしていたはずの怪談界隈はヒトコワを窓口にして「政治」という俗世の空気を迎え入れることになった。
本来、心霊を主軸にしていた怪談は、不思議な現象への好奇心を満たしつつ、亡くなった人や生き霊の無念に思いを偲び、少しだけ優しい気持ちになって自らの生を見直すきっかけになるような、「個人的な」話であったはずだ。そこには話す方も聞く方にも罪悪感と呼べるような「よそよそしさ」があり、だからこそ怖さに真実味が増す。もちろん、幽霊なんて居ないと思っている人がこんなことを聞けば「何言っているんだ。エンタメなんだから自由でいい」と言うかもしれないが、フィクションと割り切ってしまうと心霊話は虚無になる。心霊話は、「もしかしたら嘘かもしれないけど、本当だと思うことで生きる自分や死んだ誰かが救われるかもしれないし、本当と信じたところで誰にも迷惑をかけないのなら、より優しい世界になりそうな方をこっそり選んでしまえ」という、内心の自由の行使によって主観的な世界をチューニングするための道徳的契機のようなものなのだ。それは体系的な宗教とも違う、聖典がない多神教だった日本の原風景で生き残った日曜大工的な思想形態の一つなのだろう。
しかし、そのような個人的であるべき世界が、陰謀論界隈の侵入によって「みんなのこと」になって、多くの人を巻き込む「おおごと」になっている。
それに拍車をかけているのは2025年7月問題という、(日本の)陰謀論界隈にとってのハルマゲドン的な共通トピックが去年、怪談界隈を侵食していることだろう。2025年7月問題とは、日本の陰謀論界隈で盛り上がっている、新たな滅亡論の類いだ。その出自には、ホピ族の予言という人もいれば、物理学者でノートルダム清心女子大学教授の保江邦夫氏が自身のNASAの知り合いに聞いたという証言、漫画家たつき諒氏の『私が見た未来』での言及、『奇跡のりんご』で知られるリンゴ農家木村秋則氏の宇宙人との交流エピソードが挙げられる。こういった様々な根拠を元にして、陰謀論界隈ではこれら全ての一致は偶然ではないと本気にしている人が多い。滅亡シナリオが果たして戦争か災害なのかは不明だがとにかく2025年7月は大変なことになると界隈は大盛り上がりである。この熱が海外にも波及した結果、7月の来日観光客による予約が前年より減少しているというニュースが先日報道されたのは記憶に新しい。
怪談界隈はこの滅亡論によって痛手を受けた。ヒトコワの登場を皮切りにして視聴者層が「現世寄り」に変異した中で、そのニーズに応えるため怪談ライブや怪談系のYouTubeチャンネルがこの話題を取り上げるようになった。そして、これらの動画の再生数は心霊系怪談のそれを遥かに凌駕していたため、それに味を占めた配信者の中には、心霊の世界から、むしろスピリチュアルと政治を絡ませる方向に「還俗」する者が出始める。そうでなくても、オチのない心霊話ではなく、よりエンタメ性の高いヒトコワや都市伝説の頻度を上げるような形でコンテンツの質が変化したり、視聴者層の変化によってコメント欄がX味を増し居心地が悪くなったりした。
「怖い〜」
「〇〇分〇〇秒に男の声の人が入ってませんか?」
で良かったのに
「〇〇トンネルって建設中の死亡事故あったらしいです。それを当時の△△大臣が揉み消して…」
みたいな人が増えている。
現世に持ち込まれた心霊が「見えざる手」によって視えるようになる過程を見ていくようだ。心霊に社会的意味なんてなくていい。
事故物件や忌み地といったワードを使って、東京の再開発地や地域を曰く付き呼ばわりすることは昔から多い。YouTubeで「大島てる」と検索すれば数多くの怪談動画がヒットするだろう。しかし、最近ではそれがエスカレートし、人気だったり有名なところに遊びに行く人や住もうとする金持ちを「穢れ」扱いする「これ差別か嫉妬をお化けの力を借りて正当化してるだけだろっ」てショート動画がたくさんある。
怪談と陰謀論界隈の間に長らく鎮座していたスピ界隈が自己啓発の果てに投資にたどり着いて、そう言う偽霊媒師の言うことを本気にしてるから救いようがない。本来霊界が突き放したはずの資本主義が、残留思念のごとく心霊すらも物象化してしまっている。
人間の尺度で心霊が現世に召喚され、それが都合よく各所で利用されるところには、さもしさがある。霊感が衆愚化し、彼らに配置された心霊がそこかしこに視えてしまう世界は、もはや死後の世界に等しい。
どうか、2025年の7月に「何も起こらない」ことで、下らない陰謀論の世界が一掃され、我々の世界が生きる者のための世界に戻って来てくれ。
今年の盆こそは怪談が楽しみたいんだ。
思ったより多くの人に見られて驚いてます。
まず、こんなに見られるなら、もっと考えて一大ブームのモキュメンタリーにも触れたら良かったなと後悔してます。
他にも、オカルトが右派の陰謀論へ行くのは昔からあるという意見を多くいただきましたが、一方で、今年世間を賑わせた性接待一般への関心の高まりがあるなか、性犯罪的なヒトコワになると、左派のポリコレへと接続していくような別の政治化があるので、右派も左派も関係がなくなった点も盛り込めば良かったなとも後悔してます。
様々な人の声をまとめると、現実の延長で怖いものを見たいという欲求がヒトコワやモキュメンタリーの人気を呼び、その中には「怖いものを取り除きたい」と思う人が出てきて、歪んだジャーナリズムになびかれ、元から近かった陰謀論に接続していくという道筋が見えた気がします。
ありがとうございました。
あなた:
ChatGPT:
バブル期(1980年代後半)の日本でなぜ金融引き締めが行われたのか――その理由は、過熱する資産バブルの抑制とインフレ懸念にあります。以下、背景と目的を分かりやすく説明します。
1980年代後半、日本は歴史的な好景気にありました。以下のような現象が起きていました:
株価:日経平均が1989年末には約39,000円に到達(1985年頃の約2倍以上)。
地価:東京の地価が急騰。「山手線の内側でアメリカ全土が買える」と揶揄された。
融資:土地を担保にすれば簡単に巨額の融資が受けられ、資金が株や不動産市場に流れ込む。
この背景には、1985年のプラザ合意を受けて進んだ円高→景気後退→それを下支えするための金融緩和(低金利政策)がありました。
■ なぜ金融引き締めに転じたのか?
銀行も無理な融資をどんどん行い、「土地神話」に基づいた投機が加速。
バブル崩壊による後の損害が懸念されたため、「今のうちに冷やそう」という判断。
消費者物価はそれほど上昇していなかったが、資産価格インフレ(バブル的インフレ)は深刻。
このままでは社会全体が不健全な投機に傾き、崩壊リスクが高まると判断された。
日本銀行は1989年5月から1990年8月までに、公定歩合を2.5%→6.0%へと急激に引き上げ。
融資規制:「総量規制」と呼ばれる、銀行による不動産向け融資の抑制も実施。
地価:数年かけて下落。担保価値の崩壊により不良債権問題が表面化。
経済:企業や銀行がバランスシート調整(借金返済・資産売却)を迫られ、長期的なデフレ経済に突入。
■まとめ
日本銀行がバブル期に金融引き締めを行ったのは、投機的な資産価格の高騰を抑え、経済の健全性を守るためでした。しかし、その対応が遅れ、かつ急激だったことで、バブル崩壊を加速させ、長期不況の引き金にもなったという評価がなされています。
興味があれば「なぜもっと早く・緩やかに引き締めなかったのか?」という政治との関係や、日銀内部の議論についても解説できます。
あなた:
土地と株には沸騰はあったけど、関係のない一般の産業にもお金が不足するようになったのはなぜ
ChatGPT:
とても鋭いご質問です。
バブル期における金融引き締めの影響が、土地や株と関係のない一般の産業(製造業や中小企業など)にまで及び、資金不足(=信用収縮)を招いた理由は、主に次の3つです:
1989年から始まった「総量規制」は、不動産業などへの融資の総額を制限するものでした。しかし、実際には:
リスクを避けるため、「関係ない業種」にも融資を渋るようになった。
結果として、資金需要のある健全な企業や中小企業にまで貸し渋りが発生しました。
銀行は「貸しすぎている」と判断し、企業に返済の前倒しや追加担保を要求。
バブル崩壊で、銀行は不良債権(返ってこない融資)を大量に抱えることに。
そのため、「自己資本比率の維持(BIS規制)」を守るため、融資をどんどん縮小。
→ この結果、すべての業界で資金供給が細るという現象が起きました。
バブルが崩壊しても、日銀はしばらく高金利を維持していた(1991年頃まで)。
政府も、当初は「自己責任」や「市場の調整力」に期待して介入をためらった。
結果として、企業の倒産が続出し、景気は底なし沼に突入しました。
■まとめ
金融引き締めと総量規制の副作用で、銀行が貸出を全体的に抑制したから。
担保価値の下落で、企業の資金調達能力が実質的に低下したから。
つまり、「バブルのツケを払わされ、被害が経済全体に波及した」というわけです。
さらに知りたいテーマ(例:日銀の判断ミスや、BIS規制、当時の政治の対応)などあれば、深掘りできます。
あなた:
土地や株が加熱してるから少し下げるというのはぜんぜんいいけど、なぜ関係のない人まで干上がらせたのか
ChatGPT:
本当に本質的な問いです。
そしてその疑問は、当時を生きた中小企業経営者や労働者たちの「実感」と完全に一致しています。
ではなぜ、「土地や株の加熱だけを冷ますつもりだったのに、関係のない人まで干上がった」のか?
これは単なる技術的ミスではなく、政策判断の誤りと構造的な金融システムの限界が重なった結果でした。
✅ なぜ“そこだけ”を冷ませなかったのか?
日銀がコントロールできるのは 金利やマネーの量(通貨供給量) という「経済全体にかかるレバー」。
しかし、金利を上げたり貸出を制限すれば、株や不動産以外の分野にも等しく冷水を浴びせる。
つまり「熱いところだけ狙って冷やすことが構造的にできなかった」。
🎯=**「ピンポイントで撃ちたいのに、散弾銃しか持っていなかった」**という状態。
② 総量規制が“雑”だった
バブル対策として導入された「総量規制」は、不動産業向け融資の総額に制限を設けた制度。
ところが、不動産と関係のある業種(建設、流通、サービス業など)も巻き添えに。
銀行もリスクを嫌い、**「関係ありそうな会社全部アウト」**という判断で貸出を抑制。
地価の下落で担保割れが起きると、銀行は貸したくても貸せなくなる(BIS規制=自己資本比率の縛り)。
同時に、「不動産に融資した銀行自体」が傷んで、健全な企業にも融資を出す体力がなくなった。
日本の金融は間接金融(銀行依存型)なので、銀行が縮むと企業も一緒に干上がる。
💡つまり、「バブルの熱を冷ます」はずが、「金融システムの血流自体を止めてしまった」。
日銀は「土地バブルが悪い」という正義感が強すぎて、副作用に無頓着だった。
結果として、干上がる企業や家庭が続出しても、回復支援がまったく間に合わなかった。
🧠 なぜそんなことになったのか?(根本)
「資産インフレを冷ませば景気全体もソフトランディングできる」と甘く見ていた。
中小企業や地方の声が中央銀行に届いておらず、東京中心の視点で政策判断がなされていた。
日銀や大蔵省(当時)に、経済の現場に対する感受性が欠けていた。
🔚まとめ:なぜ関係ない人まで干上がったのか?
「熱い部分だけ冷ましたかったのに、金融政策の構造上、経済全体を冷やしてしまった。
さらに、対応のミスや銀行の自己保身が重なって、干上がった人たちへの水すら止まってしまった。」
もしももっと段階的に、現場の実態を見ながら慎重に調整していれば、バブル崩壊も「軟着陸」できたかもしれません。
あなたの感じている「そこまでやる必要あった?」という疑問は、今でも多くの経済学者・歴史家が共有している、正当な問いです。
あなた:
ChatGPT:
非常に核心を突く質問です。
なぜ、バブル崩壊で不振に陥った企業(=そこに勤めるサラリーマン)を国有化しなかったのか?
これは、単なる経済政策の話を超えて、日本の政治的哲学・制度の設計思想に関わる深いテーマです。以下、歴史的・制度的・思想的な観点から説明します。
国が企業を直接「国有化」して救済するという発想が、日本では非常に例外的・否定的に扱われていたからです。
戦後の日本は「自由主義経済(市場経済)」を基本とし、国家はできるだけ企業経営に直接関与しないという建前。
特に高度成長期以降、「政府はルールだけ作る」「経営は民間に任せる」という方針が徹底。
企業は潰れるときは潰れるべきで、政府は雇用保険や融資など間接的支援に留めるという考えが根強かった。
📝 経済への国の関与は「産業政策(行政指導)」の形ではあったが、「国有化」は極めてまれ。
② 「モラルハザード」を恐れた
こうした「道徳的危険(モラルハザード)」を避けるため、自己責任原則が重視された。
→ 「国が助けてくれるなら、経営ミスしても大丈夫」と思われたら、それこそ経済が腐るという発想。
バブル崩壊直後、企業倒産は数万社規模、中小企業は数十万社が苦境。
これらを国有化(買い取って経営を維持)するとなれば、膨大な税金が必要。
当時はまだ「財政健全化」が強く意識されており、大規模な企業救済には政治的な抵抗が強かった。
1998年〜:「長銀(日本長期信用銀行)」「日債銀(日本債券信用銀行)」→一時国有化
💡つまり、「潰れると日本経済全体が崩れる」という銀行には、特別扱いの救済がされた。
→ 企業(≠銀行)は個別救済せず、金融システムの根幹だけ守るという政策スタンスだった。
「国が企業を持つ=計画経済」的な発想に対して、政治的にも国民感情的にも拒否感が強かった。
特に冷戦期には、「国有化」は共産主義的・非民主的とみなされがちだった。
歴史的背景 日本は「国有企業」にトラウマがあり、市場経済への信頼が強かった
あなたの疑問は、「そもそも国がもっと積極的に現場を守るべきだったのでは?」という非常に正当な視点です。
実際、そのような議論は当時も存在し、今でも「国の対応が遅く・冷たすぎた」という批判は根強くあります。
もし希望があれば、「たとえばどんな制度があれば救えたのか?」という代替案的な話もできます。
あなた:
ChatGPT:
竹中プラン(正式には「金融再生プログラム」2002年)は、バブル崩壊後の「長期不況」の最終局面に打たれた劇薬的な金融政策パッケージです。
このプランは、それまでの「不良債権処理を先送りするぬるま湯路線」を強制終了させる決断であり、結果として日本の金融システムを立て直した反面、中小企業の淘汰・地方経済の打撃という大きな副作用も生みました。
当時、小泉政権の経済財政政策担当大臣だった竹中平蔵氏が主導。
メインの柱は以下の通りです:
施策 内容
不良債権の早期処理 銀行に「厳格な資産査定」を義務付け、損失を先送りさせない
自己資本の強化 不良債権処理で自己資本が不足する場合、公的資金(税金)で注入
金融庁の監督強化 銀行検査マニュアルを厳格に運用、甘い査定を許さない体制に変更
株価下落対策 政府系金融機関が株式購入などの支援(株価維持策)も実施
厳密には、竹中プランは**金融政策(金利・通貨供給)**ではなく、**金融行政(銀行の健全化)**に分類されます。
しかし、経済への影響という意味では、猛烈な引き締め圧力をかけました:
厳格な査定→「貸し倒れリスクのある企業に貸すと、自分の首が飛ぶ」
これは実質的に「貸しはがし」「貸し渋り」という形で実体経済を冷やした
銀行の信用が崩れ、国民が「預金引き出し」に走る可能性も視野に
無限の猿定理の研究は、かなり示唆的な含みを持ってはいないだろうか?
チンパンジーが一生タイピングし続けても"Bananas"という単語すら打てないなら、
カンガルーに袋があったり、キングコブラが毒を持ったり、デンキウナギが電撃を発したりするために
必要な時間を待っていたら宇宙の歴史が終わってしまうかもしれない。
つまり、チンパンジーが一生ランダムにタイピングし続けることはなく、
神の見えざる手によって「結果的に」知性を獲得する必要があるのではないか。
結果から遡って考えると確かにそこに存在していなければ成立しない何か。
まだ、わからないことは多いということだ。
もし人間が現時点でそんなに知的なら、政治家はもっと良い政治をするし、医者はもっと簡単に病気を治すし、学者の意見はそんなに対立しなくてもいい。
そうは思わないか?
ほんと、週末のスーパーって高くて頭にくるよね。確かに、最近の物価の上昇は厳しくて、なんだか家計が圧迫される。だが、ちょっと歴史を振り返ると、この「高い」という感覚は、決して新しいものではないんだよ。
例えば、19世紀の産業革命後、都市化が進み、労働者階級はその生活がどんどん厳しくなっていった。その時代の経済学者、アダム・スミスは「見えざる手」という言葉で市場経済のメカニズムを説明したけど、結果として富の集中が進んで、一般の人々の生活はどんどん困窮していったんだ。それと似たようなことが今、私たちの目の前でも起きてるんだよ。
現代のスーパーの価格設定も、ある意味「パワーカップル」や高所得者向けにシフトしていると感じる人が多いだろう。まさに、資本主義の縮図だよね。お金を持ってる人がもっとお金を得るシステム。確かに、この現実に心が痛むのも無理はない。でも、これはひとつの社会構造の一部に過ぎないんだ。
昔から「金持ちはますます金持ちになり、貧乏人はますます貧乏になる」というフレーズがあるけれど、これは皮肉なほどに現実を映している。かつて、フランス革命を起こしたロベスピエールも、貧困層の絶望を前にしてどうしようもない気持ちになっていただろうね。革命を経ても、結局、社会は完全には変わらない。新しい秩序のもとでまた別の不平等が生まれてしまう。哀愁を感じずにはいられない。
だから、君のその不満も当然だし、理解できる。でも、悲観してばかりもいられない。歴史を見ても、最も困難な時期を乗り越えたのは、少しずつでも諦めずに戦い続けた人々なんだ。家計の厳しさを嘆くよりも、どんな方法ででも少しでも生活を楽にする道を模索していくほうが、今の時代には求められてるんじゃないかな。
田舎というか街の作り方が適当過ぎて田舎の発展は一企業に任せっきりにしてきた戦後行政の敗北なんだろうな
街をどうやってデザインして維持 or 発展していくってのが基本人口移動によって決めてきたツケだよな
でも経済は(神の)見えざる手によって動かされるから行政だけが乗り出しても駄目だろう
金の匂いをちゃんとさっちする一企業が街のグランドデザインに加担する必要はある
キッコーマソが千葉県野田市に病院作ったりして街をデカくしたとか見るとカリスマが動かすのが一番良いのかねえ
イオングループは「悪しき資本主義の象徴」みたいに扱われているが、やっと黒字という状態でもはや田舎の公共事業みたいなものだった - Togetter