はてなキーワード: はまっているとは
ウエブの情報よりも面白い私ちょっと笑っちゃったことがあって、
それは!
商品の取扱説明書のPDFをNotebookLMに読み込ませて音声解説してもらうの。
なんかテレビショッピングみたいで
聴き入っちゃったわ。
そんで
当たり前のことをなんかもっともらしく言うので、
「なんと!この商品100ボルト電力で出力は1300ワットなんです!」
「えー!高出力ですね!」って
テンション高めで言うのよ。
もうさ、
驚き屋のあの洗濯洗剤のシーエムで「驚きの白さ!」って驚いてみせる声を吹き込むプロの人っているじゃない。
あのような驚きの!って声をサウンドエフェクトで吹き込んでも面白いかも!って
あと「えー!」大袈裟に言ったり笑ったりする、
テレビショッピングのご婦人のオーディエンスの方々っているじゃない?
それの「えー!」とかのあと爆笑するサウンドエフェクトを付け加えたら、
本当にテレビショッピング、
冗談で取扱説明書のPDFを読み込ませて音声解説してもらったけれど、
まっとうな仕上がりに恐れおののいたわ。
たぶん、
おのののかさんも驚くと思う!
内容もさることながら、
ちゃんと私が作ったときは30分を超える解説の長尺で音声作ってくれて、
本当に番組みたいじゃない?
つーか番組みたいなのよ!
あんまり調子に乗って音声解説してもらいまくりまくりすてぃーだと、
1日の制作回数をすぐに上限行ってしまうので私のNotebookLMちゃんが止まっちゃったわ。
これはChatGPTちゃんに引き続き課金してもいいかも知れないわ。
そのぐらいの衝撃が走るぐらいに
そしてつい最近日本語動画も作れるようになった動画解説もなかなか的を得て、
そんで、
私はステラーブレイドの研究家を自ら名乗るほどでもない謙遜はするけれど
そのぐらい研究して大好きな
ステラブレードの長きに書いて書いて書きまくっている考察メモやらを読み込ませて、
音声解説してもらって、
最近気付いたのが音声解説のやる内容も決められて「議論」させたの、
そうしたら、
こ!これは!って思ったのよね。
私の考察テキストがどのぐらいの熱量を持ってるか世間で比べたことが無いので、
その良し悪しは評価私はできないけれど、
なるほどねー!って私が思うぐらいの議論をしていて結構マジで深く考えてる?って思ったのよね。
NotebookLMちゃんは対話できないけれど資料を読み込ませて圧倒的な便利さで、
音声だったり動画だったり文字だったりとのいろんなアプローチで読み解いてくれるの。
それぞれの得意とする使い方をもってすれば、
だってさー、
英語の英文の論文のPDFも読み込ませて解説して読んだ風に自分に内容を取り込むことができるので、
リアルに真面目な話興味あるいろんな資料って世の中にインターネッツにあるでしょ?
それをNotebookLMちゃんにどんどんソースを読ませて解説してもらってーっての。
ラジオやテレビのニュース番組を聴いたり見たりするより刺激的で面白いのよ。
ショート動画で時間を無駄にして翻弄されている人類は今すぐNotebookLMちゃんにいろいろ好きなものを読み込ませて解説してもらって、
自分の学びとして得た方がよっぽどAIの人間がお利口さんになる使い方かも知れないの。
私は分かっているわ、
あんまりAIのことをカロリー高めに言うとAI陰謀論にはまっている身長3メートルの女子高校生みたくなっちゃうので、
あんまり高カロリーでしゃべることはこのぐらいにしておいた方がいいってことは重々知っての承知の助よ。
でも、
これだけは言わせて欲しいの。
冗談でNotebookLMちゃんに読み込ませた家電製品の取扱説明書のPDFを音声解説してもらったらめちゃ面白かったってこと!
しかも30分という長尺!
テレビやラジオショッピングの台本できんじゃね?って思うぐらい。
まあ、
散々解説してもらって私のションテン爆上がりにもかかわらず、
一旦は冷静になって買うのは落ち着かせているところなのよ。
でもさー
またうかうかしていたら、
ションテン高めだけど
一旦は落ち着くわ!
うふふ。
いつも買うところとは別のところのお店で買ってみているタマゴサンド。
うーん、
ちょっと味は違うかな?
でもタマゴの美味しさには変わりないので、
これも美味さ炸裂、
コーン茶なぜ今まで気が付かなかったんだろう?
そのぐらいの後悔!
でも今気付いて飲めることの幸せを噛みしめるわ。
飲み物だけれどね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
API利用して使ってるけど、5に切り替えて特に大きな劣化は感じてないよ。
おそらくあなたの使い方や入力に問題があるから、出力も問題が生じているんだと思うよ。
GPT-5 APIの説明は読んだかな。様々なオプションが使えなくなったり変更になっているけど、この辺りは対応したかな?
またAPIの使い方は人それぞれだから、あなたの使い方だとGPT5が性能劣化しているように感じられたとしても、全員が同じように困るわけではないよ。
自分だけが困った事になってる場合に、自分は正しくて周りだけが気づいてないと短絡的に考えない方がいいと思うよ。自分だけが世の中のおかしさと正しさに気づいたって思考回路は、陰謀論にはまっている人とそっくりだよ。
腐も夢も適性がないのでまったくはまってないが、なんとなくわかるような気持ちにはなりはする程度の人間から質問
これがわからない
受けにメスみがあってもええやん?だめなの?なんでだめなの?
たとえばバリバリ男らしい(?)積極的・攻撃的な性格の男だとしても、「その男の前でだけ」受けとる側になってしまうとかあってもいいんじゃないのと思ってしまうんだが
それに受けのメスみはやおいーBLと続く系譜でもむしろ主流だったんじゃないの?
むしろやおい史の中でメスみのない受けが市民権を得たのは比較的近年の流れじゃないの?
(00年代の研究的本を読むと「やおいは男同士の関係だが受けが女性的に描かれることが多く」とかしょっちゅう見かけたが)
精神的な上位下位の関係性はむしろ男のほうがよくわかる感覚のはずでもある(生物学的にも男は女より上下関係に敏感である)
これはわからないでもない、それに
これもわからないでもない。
ただ、作者じゃない以上、受けだろうが攻めだろうがどっちにしたって「性格は変化させてる」よね?????
ここ数年、非常にはまっている漫画(アニメ化もされたし映画も好調)のおかげでPixivアカウントで二次創作を見るようになった
程度の差はあれ、攻めだろうが受けだろうが全年齢向けだろうが性格は二次創作者の好みに合わせて変化させてるよね?
男キャラを女っぽくさせるほうがギャップが大きいから受け入れられないだけなの?
>メス化を見ると「夢女子が、自分が攻に抱かれたいのために受の性格を捻じ曲げてまで割り込んでくる」性欲強すぎる悪霊かよみたいな悍ましさを感じる。
こういうことなんだろうが、
そもそもやおい論自体、あなたの解釈と違う楽しみ方をしていた人が大勢だったと読んでいるので
その「夢女子がウケの性格を捻じ曲げている」という解釈に固執しすぎな姿勢の問題にも思える
あなたは「好きなキャラ(男)を幸せにしてくれるキャラ(男)はこいつだという感覚が好き」なんだろう
でも自分と他人が違うこともわかってるんだろう(左右の逆で戦争が起きるとか聞くし)
だからこそキャラの性格を変えられることが受け入れられないんだろうが(性格が変わってしまえば好きな男を幸せにしてくれる要素がなくなるしその組み合わせから感じる萌えがなくなる)、
でも好きな男が幸せになるなら相手は「幸せにしてくれるキャラ」であることが重要なのであって、
じゃあ性格が同じままなら女体持ちでもええやん??
あなたは今そこに気が付いちゃったわけだね?
プレイヤーは連合軍の特殊部隊員になり、ドイツに占領されたフランスに侵入し
マップ上に沢山いるドイツ兵の一人として、他のプレイヤーのゲームに侵入し、プレイヤーを倒すというものだ。
マップや侵入するタイミングはプレイヤー次第なので、毎回シチュエーションは異なる。
侵入開始時点でCPUのドイツ兵たちに追い詰められていて、負け寸前の状況のこともある。
動きの慣れてない初心者っぽいプレイヤーの場合が多く、「追い打ちをかけるようで悪いな」と思いつつも
CPUが倒すと自分に勝ちポイントが入らないので、積極的に相手にとどめをさしている。
もちろんプレイヤーが手練れの場合もあり、CPUと一緒に攻め込んでみたら自分だけハチの巣にされて返り討ちにあうこともある。
侵入に慣れたプレイヤーは、侵入者の通るルートを予測して地雷などのトラップを仕掛るが
上級プレーヤーは、侵入者を狩るためのトラップハウスのような状況を作ってくる。
プレーヤーは建物の上階で待ち構えているが、そこに行くまでの通路・階段はトラップだらけ。
トラップを解除しつつ、上階までたどり着かなければならない。
トラップに掛かると運が悪ければ死、ダメージで済んでも相手はそれを察知して止めをさしに来る。
過去に何回か遭遇する機会があったが、全て「トラップを踏んで動けなくなり回復していると、どこからともなくグレネードが投げ込まれて死亡」という負け方で
相手の姿すら拝めなかった。
先日のプレイでも、侵入して相手をウロウロ探し回っていたら、遠くの丘で2つの光る点が見えた。
撃ち返せば1人は倒せるかもしれないが、確実にもう1人にやられる。
ダメ元で相手の丘に突撃してみたが、かなり近くまで行けたものの返り討ちにあってしまった。
ジリジリとにらみ合いをしても良かったのだけれど、そういうプレイは膠着状態になってしまい、面白くなくなってしまう問題がある。
かつてはネットでできるボードゲームとして麻雀(天鳳、雀魂)やポーカー(ポーカーチェイス)にはまっていたけど、最近はもっぱら将棋ウォーズだ。将棋に運の要素は無く、勝ちも負けも自分次第というのがいい。勝ったらうれしいし、負けたらくやしい。
これがいい。
麻雀やポーカーだと、長い時間をかけて作戦を練っても最後は運で決着するなんてことはよくあるからな。
ふたりぜろわゆうげんじょうほうかくていかんぜんじょうほうげーむ……、えーっとなんだっけ? 大学でゲーム理論の講義受けてたけど忘れちまった。まあいい。とにかく、運の要素が無く、勝ち負けは自分と相手の選択のみで決定するというターン制対戦パズルゲームの将棋が気に入った次第だ。
将棋のルールは小学生の頃の羽生ブーム(羽生七冠達成の頃、朝ドラ(ふたりっ子(マナカナ出演))でも将棋が主題だった)の頃に覚えた。いかんいかん、思い思いのままに書き連ねたら括弧がネストしまくってしまった。
とはいえ、屋内ゲームとしてスーファミやプレステやロクヨンをやるようになり(ひとりでも複数人でも)、自然と将棋はやらなくなっていった。
2010年頃から、「コンピューター将棋はプロよりも強いのではないか?」と言われるようになって、実際にプロvsAIの対局が実現されるようになった。今ではAIがプロより強いのは当たり前で、プロの強さをAIとの指し手の一致率で表現することもあるが、当時の価値観ではまだ考えられないことだった。
その頃にコンピューター将棋を少しやったことがある。当時最強と言われていたボナンザやその派生ソフトは使い方が良くわからなかったので、フリーソフトの「きのあ将棋」をやっていた。そして、「あひるがあがあ地獄」に負けまくって嫌になって、もう将棋なんて指すもんか、と思ってしまったのだ。ひたすらアヒル戦法を相手にして負けまくったらそりゃあ嫌になるよなぁ。
とはいえ、指すことが嫌になっただけで、将棋業界の動向をエンタメとして楽しむことは好きだった。公式非公式問わずで、「加藤一二三伝説」(ニコニコ動画を中心に流行)だったり、「豊島? 強いよね」(最近、日清がCMのネタにした)だったりだ。
今、将棋をやり始めるようになったきっかけは「龍と苺」だ。私が知ったのははてブで話題になった時であり、その時はSF設定の漫画なのかなぁと思っていた。ただ、ブコメ欄でなぜそこまで盛り上がっているのかが分からなかった。気になって1巻から順に読んでみたが、現代を舞台にしたリアル志向の漫画だったので、そこからどう最新のストーリー展開になっていくのか分からなくて、ブコメ欄で盛り上がるのもわかるなぁと思った。
「龍と苺」の作中で、将棋ゲームをきっかけに才能を見出してプロを目指す人物が登場する。それに感化されて、私は十数年ぶりに将棋を始めたのである。それが、将棋ウォーズだ。
やはりというか、私にはたいした才能が無いことを改めて自覚させられたが、それでも楽しかった。その楽しさの源泉は、勝ったり負けたりのバランスがちょうどいいからだ。対戦相手はレートに応じて自動的にマッチングされて、勝率が50%くらいになるのだ。ボロ勝ちばかりやボロ負けばかりだったら、すぐにやめてただろう。
それと、AIによる棋譜解説で対局の振り返りができるのもいい。負けたときにはたいてい悪手や疑問手があるので、どうすればよかったのかを教えてくれる。これにより、自分の成長を実感できるのもいい。まあ、同じようなミスをやらかして負けることも多々あるけど……。
ネットには定跡などの様々な情報があるし、プロアマ問わず将棋を配信している人もいるし、ぴよ将棋では毎日詰将棋問題が配信されるし、将棋を学ぶことに困ることは無い。
そんなこんなで、将棋ウォーズ3級になったのだ。始めたばかりの頃はテンポよく昇級して気持ちよかったが、4級になってからはなかなか昇級できない期間が続いた。私はどこまで昇級できるのだろうか? 2級か? 1級か? 響きがカッコいいから初段を目指したいなぁ。でも3級止まりかもしれないし、もしかしたら逆に4級へ降級するかもしれない。
まぁでも、段級位も勝ち負けもよくよく考えたら二の次だ。一番は、自分の頭脳を最大限駆使することだ。それが何よりの幸せだ。勝てばいいという訳ではない。相手のしょうもないミスだったり、接続切れだったりで勝っても面白くない。時間をギリギリまで使って、自玉が詰まされそうな状況で持ち駒を使い果たして辛勝するのはすごく気持ちいいし、逆にそうした場面で時間が無くなったり、相手玉を詰め切るのに失敗するとすごく悔しい。それがいい。
そういえば何年か前に「Into the Breach」というゲームにのめり込んだ時期があったけど(Steam実績全解除するまでやった)、そのゲームはまるで詰将棋だとか言われてたなぁ。かつてはそう思ってたけど、将棋にはまった今思い返してみると、コンピューターに接待されている感が強くて将棋とはちょっと違うかなぁ。まぁあまりにもガチ過ぎたら楽しくないからあたりまえだけど。あくまでも「Into the Breach」は戦略SLGだ(それでもパズル要素があって面白い)。その頃に将棋も始めてればよかったなぁ。他にSteamゲームだと、パズル要素の高いゲームが好きだ。ここ増田でもいくつかゲームの感想を書いたことがあるけど、リンクを貼るのは……やめておこう。あくまでも今ここでは将棋の話だけにとどめておこう。Steamでやりたいゲームはそれなりに積んだままになっているけど、将棋にはまっている今現在は、パズル要素の高いゲームの出番はしばらく無いだろうな。
単に感覚というだけじゃ意図が伝わり切らなくてクオリアということで「自分がまさに感じている感じ」のがやっと「大げなな表現」と言われることありきでも伝わる。
文脈と言わずコンテクストと言う事があるのもそのことでより言いたいことが明白に伝わるという信念があるから。
民事的な自白より刑事的な意味での自白の方が、その意味での自白を立証できたとき明らかに逃げづらくなるのは明らか。民事の意味での自白なら「まだそういう弱い条件で使える言葉に当てはまっているだけ」と逃げられる。自分のやったことが刑法的な手続き的に見てもガチガチの自白になっていてもう逃げようがないというのとは明らかに状況が違う。
「失態をして恥ずかしがる」というのを重言だというのを念頭に誤用と言う人もいたが、それにもちゃんと計算がある。
「失態をした」というだけでは、単に世間一般に見て恥ずかしいこととされることをしたという意味にしかとられないおそれがある。その失態と呼ばれる行為をした本人の内面への言及があるかどうかについては判断が揺れる余地があると思っている。
だから俺ははっきり区別するために、「失態をして恥ずかしがっていた」とはっきり書く。誤用とか言われてもそれは逆に意図自体は伝わっている証拠なので計算通りだ。
その数値の出し方が証明されてない(お互いアルゴリズムとして正しい合意してない)結論を仮定にしてるよね。
お前らの傾向はささいなミスに対してすぐ馬鹿とかみなすを使う傾向があるということ(=典型的な白黒思考にどっぷりということ)。
そもそもその馬鹿だと言っている部分が言っている本人自身にもあてはまっている可能性が否定できないだけでなく、
「そのようなことで馬鹿だということが果たして客観的に正常な判断なのか」という問題もある。
むしろ俺が本質的に立っているのは後者の立場で前者に見えるのは副次的なもの。
たとえ言った本人自身にもあてはまっていることでも、そもそも「そのこと自身では馬鹿とは言えない」というなら、俺も馬鹿と言えなければ相手も馬鹿だということにもならない、で終わること。
元増田もまた「世間でネガティブな反応が多いのに納得できない」んだろうなと
都市解の批評って良い点と悪い点の両方を書いてるものが多いし、どちらの説明も「確かに」となることが多いから、
世にある都市解への(批判的意図を含んだ)批評全体の傾向に当てはまっているようには思えない。
仮に自分の評価に対して世間の評価が高い、という言及している人に限定したとしても、
これは公式が「普段ゲームをしない方/配信を見るだけな方におすすめ」だと説明していて、自分はターゲットではなかったのだと納得している面が大きいし、
賛否が別れているのに「全人類におすすめ!」だとか、ゲーム性が違うのに「〇〇に並ぶ名作!」と言う人への反論が主という場合もある。
あるいは単純にズレに対する驚きとして言及していたり、自分にはこういう基準があったからズレたんだと内省的な考察をしてる人もいる。
それをミステリ/ゲームオタクが書いている、幼稚だ、未熟だ、見下している、自他の境界線が曖昧だと貶すように断定していて、結局これも「変な批評」になっている。
適量の油をひいたフライパンに、適当に切った野菜を焼いて、漬け汁に入れるだけの簡単な料理だがとても美味しい。ご飯が進む。
焼く野菜は何でもいいらしいのだが、私は長ネギ(の白いところ)、ズッキーニ、玉ねぎ、あたりが特に美味しいと思ってよく焼いている。
レシピサイトなどを見ると、出汁を入れるところも多いのだが、個人的に出汁は入れない方が美味しいと感じたので、シンプルに水にしている。
じっくりとよく焼いた野菜は、それだけで甘味と旨味があって、醤油と酢と砂糖(を水で薄めたもの)に浸かると、驚くほど美味しくていっぱい食べられる。
長ネギ、おいしい。1本では足りない、2本ぐらい焼いてしまう。
ズッキーニ、おいしい。夏野菜のイメージだったけどスーパーには1年中置いてあるのでありがたい。
玉ねぎ、めちゃくちゃおいしい。ただ、輪切りにして焼いてるのだが、途中でバラバラになってしまうのが悲しい。バラバラにならない方法はないものか。切り方だろうか。解けてリングになった焼き玉ねぎを楚々と食べるのもいいが、輪切りを保った状態のまま、かぶりつきたい欲がある。そんなことを考えながら今日も焼いている。
先日友人と会った。お互い20代だったころは3ヶ月に1回会うくらいの頻度だったけれど、ここ数年は年に1回会うか会わないかくらいに落ち着いている。
9月に出産予定のため、それまでに一度会いたいなと思って約束をした。約2年ぶり。前回は彼女の地元まで行ったので、今回は身重なこともありこちらの地元の都内で会うことになった。
駅で待ち合わせカフェに向かう。久々に会った彼女は何も変わっていなかった。ノーメイク、セミロングの黒髪、ベージュのコットンパンツ、ゆるめのパーカー。動物の柄が書かれたサブバッグ、スニーカー。
学生時代も、大人になって少しお洒落な店で会えるようになってからもいつも彼女はノーメイクだった。もう少しお洒落をしたら垢ぬけるのにと思いながらも、彼女のことが好きだったからそのまま何も言わずにいた。というのも、以前社会人になってから私がリップを買いにデパコスに立ち寄ったとき、「高いね。こんなのにお金出せないよ。無駄じゃない」と言っていたし、メイクに興味はないというスタンスだったからだ。それ以来ふたりで会う時は雑貨屋やカフェ以外あまり立ち寄らないようにしている。
ファッションとコスメ以外に私たちにはたくさん話題があったし、外見なんてどうでもよいと思っていた。少なくとも先日会った日までは。
カフェで話しながら少しずつ違和感、ずれのようなものを感じ始めた。話す話題は変わらない。お互いの仕事の話、最近観たドラマの話、など。彼女は何も変わっていないのだ。学生時代のサークルや授業の話が仕事に取ってかわっただけで基本的な共通の話題は変わらない。
私たちの生活レベルは同じくらいで、仕事をバリバリしている人よりは低く、平均よりは高いお給料をもらっていて、安定している。会社の住宅補助を使えば、ひとり暮らしをしても遊びに使うお金と月3万の貯金ができる。それくらいだ。適度に自炊と外食を織り交ぜて、ボーナスで年に一回旅行に行ったり、何か自分へ記念になるものを買えるくらい。それくらいのお給料で結婚しておらず、実家暮らしならお金は大いに余裕がある。実家に生活費を納めている話も聞いたことがないから、スキンケアやコスメ、服飾にお金を使えないはずはない。これまでは気にならなかったのに、どうも彼女の身なりがちぐはぐに見えてしかたない。
肌は当然20代のころとは違うし、眉は少しは整えてはいるもののぼさぼさ。リップを塗っていないから血色があまりよくない。
2年の間に会ってきた同年代の友達の顔を思い浮かべる。こうではなかった。思い返せばここ数年よく会う子は自分と同じように家庭を持っている子ばかりだった。子育てが忙しい子も仕事にまい進している子もいて、みんなそれぞれ忙しけれど、会う時は身ぎれいにしていた。
目の前に私たちが重ねてきた年月があった。明るいカフェの光に耐えられるすっぴん時代は終わりを告げていたのだ。きっと、もうとうに。
別に好きな恰好をすれば良いし、すっぴんが好きならすっぴんでも良い。メイク至上主義でもないし、私だって人に何か言えるほどお洒落ではない。でも何となくこの場所では浮いている。身だしなみってこういうことか。初めて私はそう思った。
自分がとんでもなく嫌な奴に思えて、話題に集中しようと最近はまっているドラマの話とかを振ってみる。
「〇〇が好きなんだ~」と私が言うと、「それ見てない」「ややこしいの好きだね笑」と言われる。ふたりが共通して観ているものは話が広がったけれど、私が単独で観ているものに関しては冷たい反応だった。それでもいつもの感じが少し戻ってきたように思った。日本の某アイドルグループにはまっている話も昔からイケメンの好きな彼女らしい。
会話の仕方が子どもっぽいとか、相手のことを褒めたら褒めかえすとか、そういう部分で物足りなさを感じるようになってしまった。仕事の話をすれば「頑張っているね!」と褒め、バッグの柄がかわいかったので褒めた。彼女からリプライは無く、引き続き自分の話をするか私から話題が出てくるのを待っている。学生時代から嘘がつけない子だった。お世辞を言わない子だったから、それが楽だった。なのに今はゲスト体質、という言葉が脳裏に浮かんでしまっている。
こんな詰まんないやつになってしまってごめんよと思いながら相槌を打つ。打ちながら年相応、いやスキンケアをしていないからか年相応より少しくすんだ肌を見る。よーく見ると少しだけチークが塗ってあるように見えた。
「今日、少しメイクしているんだね。キラキラしていて良いね。そのチークどこの?」と聞いてみる。
「これ?プチプラのだよ。普段はすっぴん。会社では学生に見えるねって言われるんだ」とにこにこしながら言う彼女に罪はない。
私に会うからいつもよりお洒落してきてくれたのだ。それを意地悪く小姑みたいに責める方が悪い。
気が付けばなんだかんだと話し込み窓の外は夕暮れになっていた。駅直結のタワーマンションがオレンジ色に光っている。
「あそこは高いよ」と私が言う。
あの物件は、利便性の高さからファミリータイプなら億はくだらない。それでも現実的な話が出たのがうれしくて、何となく彼女が身近にいる気がして、質問を重ねた。
「今物件見たりしているの?」
「ううん、実家を出るつもりはないよ。家事しなくて良いから楽だし。ずっといるつもり」」
にこにこと彼女は話す。「住みたいなあ。駅近くて良いなあ」とひとりごとみたいに呟きながら。生まれたら赤ちゃんに会わせてよ、と無邪気に話す彼女の横顔が夕焼けに光って、白髪が数本透けてみえた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20250423132711
先日友人と会った。お互い20代だったころは3ヶ月に1回会うくらいの頻度だったけれど、ここ数年は年に1回会うか会わないかくらいに落ち着いている。
9月に出産予定のため、それまでに一度会いたいなと思って約束をした。約2年ぶり。前回は彼女の地元まで行ったので、今回は身重なこともありこちらの地元の都内で会うことになった。
駅で待ち合わせカフェに向かう。久々に会った彼女は何も変わっていなかった。ノーメイク、セミロングの黒髪、ベージュのコットンパンツ、ゆるめのパーカー。動物の柄が書かれたサブバッグ、スニーカー。
学生時代も、大人になって少しお洒落な店で会えるようになってからもいつも彼女はノーメイクだった。もう少しお洒落をしたら垢ぬけるのにと思いながらも、彼女のことが好きだったからそのまま何も言わずにいた。というのも、以前社会人になってから私がリップを買いにデパコスに立ち寄ったとき、「高いね。こんなのにお金出せないよ。無駄じゃない」と言っていたし、メイクに興味はないというスタンスだったからだ。それ以来ふたりで会う時は雑貨屋やカフェ以外あまり立ち寄らないようにしている。
ファッションとコスメ以外に私たちにはたくさん話題があったし、外見なんてどうでもよいと思っていた。少なくとも先日会った日までは。
カフェで話しながら少しずつ違和感、ずれのようなものを感じ始めた。話す話題は変わらない。お互いの仕事の話、最近観たドラマの話、など。彼女は何も変わっていないのだ。学生時代のサークルや授業の話が仕事に取ってかわっただけで基本的な共通の話題は変わらない。
私たちの生活レベルは同じくらいで、仕事をバリバリしている人よりは低く、平均よりは高いお給料をもらっていて、安定している。会社の住宅補助を使えば、ひとり暮らしをしても遊びに使うお金と月3万の貯金ができる。それくらいだ。適度に自炊と外食を織り交ぜて、ボーナスで年に一回旅行に行ったり、何か自分へ記念になるものを買えるくらい。それくらいのお給料で結婚しておらず、実家暮らしならお金は大いに余裕がある。実家に生活費を納めている話も聞いたことがないから、スキンケアやコスメ、服飾にお金を使えないはずはない。これまでは気にならなかったのに、どうも彼女の身なりがちぐはぐに見えてしかたない。
肌は当然20代のころとは違うし、眉は少しは整えてはいるもののぼさぼさ。リップを塗っていないから血色があまりよくない。
2年の間に会ってきた同年代の友達の顔を思い浮かべる。こうではなかった。思い返せばここ数年よく会う子は自分と同じように家庭を持っている子ばかりだった。子育てが忙しい子も仕事にまい進している子もいて、みんなそれぞれ忙しけれど、会う時は身ぎれいにしていた。
目の前に私たちが重ねてきた年月があった。明るいカフェの光に耐えられるすっぴん時代は終わりを告げていたのだ。きっと、もうとうに。
別に好きな恰好をすれば良いし、すっぴんが好きならすっぴんでも良い。メイク至上主義でもないし、私だって人に何か言えるほどお洒落ではない。でも何となくこの場所では浮いている。身だしなみってこういうことか。初めて私はそう思った。
自分がとんでもなく嫌な奴に思えて、話題に集中しようと最近はまっているドラマの話とかを振ってみる。
「〇〇が好きなんだ~」と私が言うと、「それ見てない」「ややこしいの好きだね笑」と言われる。ふたりが共通して観ているものは話が広がったけれど、私が単独で観ているものに関しては冷たい反応だった。それでもいつもの感じが少し戻ってきたように思った。日本の某アイドルグループにはまっている話も昔からイケメンの好きな彼女らしい。
会話の仕方が子どもっぽいとか、相手のことを褒めたら褒めかえすとか、そういう部分で物足りなさを感じるようになってしまった。仕事の話をすれば「頑張っているね!」と褒め、バッグの柄がかわいかったので褒めた。彼女からリプライは無く、引き続き自分の話をするか私から話題が出てくるのを待っている。学生時代から嘘がつけない子だった。お世辞を言わない子だったから、それが楽だった。なのに今はゲスト体質、という言葉が脳裏に浮かんでしまっている。
こんな詰まんないやつになってしまってごめんよと思いながら相槌を打つ。打ちながら年相応、いやスキンケアをしていないからか年相応より少しくすんだ肌を見る。よーく見ると少しだけチークが塗ってあるように見えた。
「今日、少しメイクしているんだね。キラキラしていて良いね。そのチークどこの?」と聞いてみる。
「これ?プチプラのだよ。普段はすっぴん。会社では学生に見えるねって言われるんだ」とにこにこしながら言う彼女に罪はない。
私に会うからいつもよりお洒落してきてくれたのだ。それを意地悪く小姑みたいに責める方が悪い。
気が付けばなんだかんだと話し込み窓の外は夕暮れになっていた。駅直結のタワーマンションがオレンジ色に光っている。
「あそこは高いよ」と私が言う。
あの物件は、利便性の高さからファミリータイプなら億はくだらない。それでも現実的な話が出たのがうれしくて、何となく彼女が身近にいる気がして、質問を重ねた。
「今物件見たりしているの?」
「ううん、実家を出るつもりはないよ。家事しなくて良いから楽だし。ずっといるつもり」」
にこにこと彼女は話す。「住みたいなあ。駅近くて良いなあ」とひとりごとみたいに呟きながら。生まれたら赤ちゃんに会わせてよ、と無邪気に話す彼女の横顔が夕焼けに光って、白髪が数本透けてみえた。
いや、分かってるんだよ。今の世の中、「適当」って言ったら大抵「いい加減」「雑」「投げやり」みたいな、ネガティブなニュアンスで受け取られるってことは。
でもさ、本来は「程度や状況にぴったり合っていること」「ちょうどよく当てはまっていること」なんだよな。英語で言えば "appropriate" とか "suitable"、文脈によっては "optimal" に近い意味合いもあるはずなんだ。
この前、仕事で後輩に「このデータ、適当なところで区切っておいて」って言いかけて、ハッとした。俺の意図としては「キリのいい、最適なところで」って意味だったんだけど、後輩はたぶん「雑でいいから、なんとなく」って受け取るだろうな、と。危うく誤解を生むところだった。
結局、「ちょうどいいところで区切っておいて」みたいに言い換えたんだけど、なんかモヤモヤする。
「適当な塩梅」とか「適当な量」って、本来はすごく便利な表現だと思うんだよ。料理なんかで「適当に味付けして」って言われたら、「ベストなバランスで」って意味に捉えたい。でも、現実は「目分量で雑に」って意味で使われることのほうが多いんだろうな。
辞書引けばちゃんと「ちょうどよい程度」って意味が先に出てくるのに、なんでこんなにネガティブな意味合いが定着しちゃったんだろうな。言葉は生き物で、意味が変化していくのは仕方ないって頭では理解してるんだけど、本来の良い意味が失われていくのは、なんだか少し寂しい気がする。
たまに年配の人とか、古い文章とかで「適当」が本来の意味で使われているのを見ると、「そうそう、これだよ!」って思うんだけど、自分で使うのは躊躇してしまう。
みんな、「適当」って言葉、どういう時に使ってる?やっぱり、ネガティブな意味合いで使うことが多い?それとも、俺みたいに本来の意味で使いたいけど、誤解を恐れて言い換えちゃう派?
あの時、マスコミがセンセーショナルに取り上げたのは、被害者の無念や社会の闇ではなく、彼の部屋にあった大量のアニメやビデオテープだった。
それ以降、「オタク=危険人物」「社会に馴染めない人間」というイメージが、日本中に植え付けられた。
俺はあの時代をリアルタイムでは知らないけど、ずっとその影響下で生きてきた。
クラスでアニメの話をすれば「キモい」と言われ、電車でラノベを読めば白い目で見られた。
恋愛の話になれば、女の子から「オタクはちょっと…」と笑われた。
「選ばれる側」にはなれないと、そう刷り込まれてきた。
俺たちを見下してきた人たち――特に、“普通”という幻想を信じてきた女性たちが、婚活の沼にはまっている。
「いい人がいない」「普通でいいのに」――そう言いながら、誰からも選ばれず、焦りと諦めが交差している。
その“普通”って、何?
しかも、その理想を支えていたのは、「自分は選ばれる側」という自信、あるいは虚構だった。
現実に目を向けよう。
アニメが好きでも、ゲームが好きでも、ちゃんと働いて、身なりを整え、人を思いやる心があれば、それはもう“まともな男”だ。
いま、自分が切り捨てられている。
婚活アプリの裏で、“選ばれるための自分”を必死に演出してるその姿、
それこそが、かつて「オタクは現実逃避」と笑っていた人たちの現実逃避に見える。
あの時、社会が貼ったレッテルは、いま婚活市場で逆転し始めている。
虚構に生きていたのは、俺たちじゃない。
エロ同人CGを作っている人が、あとがきで一般誌のレーベルで漫画を出す夢が諦めきれずぼちぼちその作業をしているといったことを言い始めている。
DLsiteで分かる売り上げを見る限り同人だけでも十分食べていけそうな収入を確保できているように見えるのだが、向上心というものなのだろうか。
奴隷との生活並みに売れていたらそのような夢も無くなっていたのだろうか。
どうにもこうした夢には金銭欲だけではない欲求が絡んでいるようにも思える。
しかし、それがもしも自分の創作意欲に忠実でありたいということなら、一般向け進出という夢は大して目的には合ってないのではないかと思える。
大は小を兼ねるというような論理構造が、成人向けと一般向けの間にも当てはまっていると思う。
つまり、猥褻、というと法との整合性に関して語弊があるのだが、そのような要素が制限される一般向けに対して、成人向けではその制限がなくなる。
逆に成人向けを謳ったらわいせつな要素を盛り込まなければならないという決まりがあるわけでもない。たぶん詐欺罪にもならない。
一般向けに対して成人向けは単純に自由度が増えるだけというわけだ。
つまり、結果としてわいせつな要素がない作品になってしまったとしても、そもそも余計な規範意識から解放されるので、最初から一般向けとして出すつもりの場合と比べて、より伸び伸びとした気持ちで斬新な内容の作品が作れる可能性が高くなるわけだ。
そもそも作り手側として、何をもって成人向けか一般向けか判断すればいいのか、厳密に考え始めるとかなりややこしいものだ。
せんとくんをエッチな目で見ている人もいるそうなのだが、誰か一人でも性的に消費する可能性のある内容だったら、成人向けとするべきなのか。
そうだとしたら誰にも性的な消費をされるおそれのない内容であることをどうやって検証すればいいのか。
そういうことを考えたら、作品を発表するなら、とりあえず成人向けとしておくのが安心ではないのか。
「この本で抜ける人こそ同志だ」と言って即売会に出展する漫画の内容が、有害図書を指定する組織に通告しても、何が有害なのかさっぱりわからないと判断されるというような、ただデフォルメされた獣がワチャワチャしてるだけの内容だったら、成人向けと一般向けどちらに出展すればよいのか。
このような場合、上記の想いを売り場の見えるところに掲示している時点で、そういう文脈と結びついて反社会的な頒布物とみなしうるから、成人向けに出すべきとも考えられないだろうか。
しかしあるいは、ジャンルと内容が合っていないとして出禁になる可能性もあると思う。
とにかく、創作して発表したいなら、一般向けを目指すより、成人向けを銘打つ方が安全で楽で、創作活動に集中できると思う。
即売会やプラットフォームでは成人向けか一般向けかについてよくわからないしがらみがあって、自分の判断では出禁や利用禁止を食らう可能性があるような狭量な場なら、pixivでも、最悪自分のホームぺージにするという手は残っている。
pixivにはほとんどペイントのバケツ機能だけで塗ったような、明らかに検索妨害として顰蹙を買っているイラストを何千枚と投稿している絵師もいて、それでも別に罰せられたりはしないのだから、R18として出したものが一般向けに見られるというようなタゲ違いが起こったとしても、詐欺だとか法的責任を問われたりするようなことはないだろう。
dorawiiより。
Xのアカウントを消して、一切見なくなってから1か月くらい経った
その結果を貴様らに報告する
XをやっているとYoutubeやテレビ番組の切り抜き動画っぽいものが多く流れてきていた
ほとんどは興味がないのでスクロールしてどんどん下に流していたが、一応目で追ってどういった雰囲気の動画か?は判断していた
膨大な見知らぬ情報がどんどん頭に入ってきて、スクロールすると次々に新しい話題や動画のサムネが出てくる
これに関してはYoutubeの作りも同様。スクロールしてどんどん新しい動画が現れる
この一連の動作を、脳は報酬と捉えるようで俺の脳はSNS中毒っぽくなっていた
ちょっとした空き時間にもどんな話題が盛り上がっているのか を見たくなり、気に入る情報が見つかるまでスクロールしていた
そうすると脳にモヤがかかったような感覚になって、集中力の低下を感じた
Xではとにかく男女計、ジェンダー系の話題が流れてくる。そして俺はそれを見てしまっていた
男女論という誰にでも通用する話題のため、自分事として捉えてしまい、時に怒りが湧いたりした
怒りが湧くと、同時に気持ち良さも感じていて、怒るために怒りの湧く話題をわざわざ探してしまっていた
こういった怒りポルノにはまっている状態を俯瞰してみたとき、精神衛生上の大きな問題と不安を感じた
見たくもないジャニーズ系の人がでているテレビ番組の切り抜きがなぜか膨大におすすめされたりとか
動物の画像が2枚張られて「←〇〇な時の私 →〇〇な時の私」というようなクソしょうもない笑いとか
俺が天邪鬼なだけかもしれないが、面白いとおすすめされたものがつまらないとストレスを感じていた
上記で記載したようなストレスや脳疲労はかなり減った。特に怒りポルノの問題を除去できたのは一番大きかったと思う
頭が前よりスッキリして、心なしか仕事のパフォーマンスも上がった気がする
ボーッとXを見ている時間がなくなったこと、脳疲労が低減されたことにより、いままで中断していた個人ゲーム開発などの作業を再開できた
お前らはきっとこう言うだろう「Xやめても、はてなをやってるなら意味ねーだろ」と
ただ、不思議とはてなを見る時間もかなり減ってる。また、はてなで男女計の話題が上がっているときは見ないようにしている
Xにハマっていたのは自業自得的な部分があったのに偉そうなことを言わせてもらうと、あれはマジで毒だぜ
あれは怒り増幅装置で、俺らは怒りポルノの気持ち良さにハマってしまう、そして脳が疲れて更に精神的に不安になって怒りが湧く