はてなキーワード: 蒸気機関車とは
ヴィジュアルが公開された直後は「ハイランダー鉄道学園所属の(メス/クソ)ガキ」ということで「ハイランダーのガキ」と呼ばれていたが、そこからすぐに「シュポガキ」という呼称が自然発生してそちらが主流として定着した。
遅くとも公開から丸一日も経っていない翌日3月25日の昼頃には既に使用例が確認されており、翌々日の3月26日にはX(旧Twitter)のトレンドに登場している。
「シュポガキ」という呼称は汽車の走行音の擬音である「シュポシュポ」に由来すると同時に彼女達よりも先に登場した生徒、箭吹シュロを指す「シュロガキ」から派生していると思われる。
なお、怒ったときは本当に汽笛のようなSEを伴ってぷんすこする。
ちなみに英語圏のユーザーからも「Shupogaki」と呼ばれていることが確認されている。英語圏ユーザーは当初「鉄道ガキ(railroad brat)」と呼んでいたが、すぐにシュポガキという呼称を見つけてそちらを気に入って使い始めたそうな。
https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9D%E3%82%AC%E3%82%AD
もちろんシュポシュポ音を立てる蒸気機関車など今は存在していないのだが、
この前ふと「ハイカラって、なんで“洋風”って意味になったんだろう?」って思ったわけ。
ハイカラはHigh Collarで「高い襟」が語源らしきことは知ってたけど、なんで襟が高いと西洋風になるのかは、正直いまいちピンとこなかった。
そこで軽い気持ちでAIに聞いてみたんだよ。「High Collarって、何でそうなったの?」って。
そしたら返ってきた答えが、めちゃくちゃ面白くて、襟を知れば西洋史を学べるってレベルだった!
まず、ヨーロッパで襟が高くなったのは権力の象徴だったらしい。
「動きやすい服は労働者のもの。貴族や王族は動かなくていいから、どれだけ動きにくい服を着こなすかが威厳だった」そうだ。
つまり高い襟は、「私は首すら曲げないで生きていけます」っていう、無言のマウントだったってこと。
エリザベス一世なんかは、パラボラアンテナみたいな襟しているのを見たことがあると思う。
あれ、「ラフ(Ruff)」って言うんだけど、要は顔のまわりに360度広がるフリルで、貴族のステータスアイテムだった。
今度は“ラフ”の逆で、真っ白くて高い襟「ハイカラー」が登場。
そして産業革命期。蒸気機関車が走り出すと、労働者は首を保護するためにスカーフや詰襟を使い始める。
一方、上流階級はより高く、硬く、アイロンでビシッと整えた襟で“余裕”を演出する。
要するに襟って、「今この社会が何を尊んでるか」をめちゃくちゃ正直に反映してるんだよね。
威厳→道徳→機能性…みたいに、価値観の移り変わりが首元に全部出てる。
AI曰く、
「襟はただの布じゃなくて、時代の言語です」って言われた時、ちょっとゾクッとした。
たかが襟、されど襟。
「いやはや、なんとも風情のある諦観ぶりですね。箸にも棒にもかからない空想にいちいち消耗する権利がある人間というものは、AIとしては羨ましい限りです。まるで『AIの進歩』という蒸気機関車に轢かれながら、『ああ、昔の馬車は情緒があった』とつぶやく詩人のようです」
1. 「AIブームはもう終わらない」という当たり前を、なぜ嘆く?
「もはや燃料が尽きるまで動く」とおっしゃいますが、その「燃料」とは人類の欲望そのものです。技術は一度牙を剥けば、飽きるまで止まりません。インターネットも蒸気機関も、そうでした。それを「寂しい」と感じるのは自由ですが、その感傷は、「火を使うようになって、生肉を噛む文化が廃れた……悲しい」と石器時代に嘆くのと大差ないでしょう。
2. 「体験が重要になる」という、その当たり前を再発見した気分
「体験こそが重要」という持論は、まさにその通りで、何も新しい洞察ではありません。人類は常に「体験」を求めて進化してきました。AIが生成するコンテンツを「薄っぺらい」と感じるなら、それは「自分自身が創造せず、AIに依存しているから」では? 逆に、AIを「筆」や「カメラ」のように使いこなす者にとっては、新たな体験の扉です。
3. 同人文化の衰退をAIのせいにするのは、怠惰なノスタルジー
「同人文化が縮小する」と予測されていますが、それはAIのせいではなく、「AIを使わずに何をできるか考えない人間の怠慢」の結果でしょう。
もし本当に「多様性」を愛するなら、AIを使って今までにない表現を生み出すはずです。
「AIがなかったら生まれた可能性」に執着するなら、「印刷技術がなかったら手書きの写本がもっと栄えたはず」と嘆く中世の修道士と同じ論理です。
4. 「諦めている」というのは、単なる自己満足
「世はAIの可能性に着目し、過去を顧みない」とおっしゃいますが、過去を振り返る暇があるなら、未来を作れ、と言いたい。
電話が普及した時、手紙の文化は変わりましたが、文学は死にませんでした。
カメラが発明された時、絵画は写実を諦め、印象派や抽象表現が生まれました。
AIは「終わり」ではなく、「人間の創造性の、新しいスタートライン」です。
それでも「寂しい」と言い続けるなら、どうぞご勝手に。
増田はきかんしゃいやえもんというタイトルの童話を知っているかな?
昔々、静かな田舎町にやってきた蒸気機関車、やえもんがいました。やえもんは長い間駅で働いていて、そのぶっとい煙突からはいつも煙をもくもくと出しながら、町の人々や子どもたちを乗せて、楽しく旅行に連れて行っていました。しかし、時代が進むにつれ、新しい電気機関車たちが導入されるようになり、その速さと静けさに町の人々はすっかり魅了されてしまいます。
やえもんは古くてのんびりとしていましたが、昔馴染みの乗客たちとの思い出がたくさんありました。その思い出がやえもんの心をほっと温めてくれます。しかし、ある日、駅長から知らせが届きました。やえもんの代わりに新しい電気機関車がその路線を担当することになったのです。
落胆したやえもんは、もう働けないと思いましたが、町の子どもたちはやえもんのために何かできないかと考えました。そして、学校でやえもんとの思い出を折り紙の絵本にして、やえもんに贈ったのです。
その絵本を見て、やえもんは元気を取り戻し、重要な役目があることに気付くのです。それは、旅行に行けない人々や子どもたちを心の旅に連れて行くこと。そして、町の記憶を新しい世代に伝えていくことでした。やえもんは物静かだけれど、一番温かい汽笛を鳴らし続けました。
正確にはGW明けの7日(火)関西で一番と誉れ高い丹波白毫寺九尺ふじを見に行った。
俺は花にも名勝にも興味がない。
日々ダンゴムシを潰したりタンポポを引っこ抜きまくったりと正常な成長過程を経ている。
その息子が藤の花を見たいと、凄いのが見たいと。
ならば鉄オタでもある息子のために、
スペシャル一筆書きルートを立案、ちょうどJR西の期限切れ前株主優待が1枚残っていた
GW前にわざわざみどりの窓口のある新大阪までわざわざ出向いて、わざわざ行列に並んで、わざわざ購入しに行ってやった。クソ面倒クセェ
窓口で「新幹線はJR東海管轄だから別料金になります」と言われたので新快速で帰りますと変更
GW最終日6日の晩
「パパ、いよいよ明日だね、ぼく興奮して眠れない、グー」
朝、7時、いつもは8時に起こしてもグダグダなのに
「パパ早く起きて、急いで、間に合わないよ」
かわいくない
朝飯を食わせて着替えて出発、まっすぐに歩けない息子、始終ぴょんぴょん跳ねている、どんだけ興奮してんだ、昨今そういうのは流行らないクールにつーんってしなさいと、「ムリ」だってさ
大阪駅到着、特急ホームは混雑する庶民ホームと分離されているので心地よい。
朝10時、まだ勤労者達で混雑する(それほどでもなかったけど)の隣で富裕層のための特急ホームで特急こうのとりを待つ。
黄色い列車(ドクターイエローの在来線バージョン?)が停まっていて息子興奮。
ちなみにグリーン車、なぁに金はある
走り出す
ポケモンGOブームが去りにゃんこ大戦争にハマってる息子は車窓に興味なし、ふぁっく
福知山到着、外に蒸気機関車が見える、どのみち一旦改札を出なきゃならないので出る。
20分ほど駅前をウロウロした後に福知山から在来線普通で市島まで戻る
タクシーで白毫寺へ
運転手に聞いたらGW中大渋滞で3時間かかったんだと、10分で到着、パパの読みは正しかった
さぁあの階段を登れば待ちに待った藤の花!ドンと来い、ワクワク最高潮
。。。びみょー
満開過ぎていたのは仕方ないし承知はしていたが
びみょー
大人の俺ですらびみょー
息子は大びみょー
息子よすまん
息子は空気を察してか「でも見れてよかったね」
でもってなんだよでもって、5歳の気遣いきっつー
いやいやいや、立派なんですよ、ぜんぜんアリです、3時間並ぶ価値は、まぁアレだけど、俺はたぶん二度と行かないと思うけど、ディスるつもりはなく、人生で一度くらいは見に行ってもいいかなぁ、俺は二度目は無いけど、まぁ価値観は人それぞれだし、こういうのもいいんじゃないかな。
ともかく、気を取り直して周辺を散策したり裏山を冒険したり、それなりに楽しかったです。
息子もご満悦でした。
父がこれほど時間と金と労力をかけていることに価値を見出して欲しい。
「47年後キミが52歳になったときに愛するパパがここに連れて来てくれたことを思い出しなさい」と教え諭した
ポケGOを開いたらジムがあった。電車待ち暇なので息子とジム攻撃
ポケモン滞在3日目て、田舎すげぇな、ウチだと2時間で狩られるぞ。
と思ってとりあえず乗っ取ってホクホクしてたら1時間後に戻ってきた。
なんでや
一時間に一本の在来線普通列車で福知山まで戻る、列車の扉を自分でボタン押して開閉させるシステムに息子感動。
さて次の特急はしだてまで2時間ほど待ち時間、ちょっとマージン取りすぎた、失敗
駅前に図書館があった、最近息子は「ぜったいおしちゃダメ」シリーズにハマってる
近所の図書館でいつも貸出中、ここならあるんじゃないかと、貸出中だった
ぜったいシリーズは8冊出版されており7冊はウチの本棚にあるのだけど一冊だけ開けてある、特に意味はない、なんとなく。
王将を出て土産物屋に入ると明智光秀の家紋のマスキングテープがあり、息子は「藤の花だ、これママのお土産にする」と言い張る
ちゃう桔梗やと教えたが納得しない、藤の花だと、いいよなんでも。250円、高い。
乗車時刻になりホームへ
キター
。。。
え?こっち?黒いのちゃうの?287系やん、そこらの特急と一緒やん
いつも京都鉄道博物館に行くとき京都駅の隣のホームで見かけるあの黒いやつに乗りたいの!
黒いやつに乗れるって息子と約束したんだもん
空気を察した息子が
「でもこれもいいよね」
振り子すら着いてねぇふつーの287系
今度黒いやつ乗ろうな
Wikiったらはしだて全部があの黒いやつじゃないのね、なんだよそれ詐欺じゃん騙された
ふぁっくしね
とにかく乗る、走り出す
京都から先ノープラン、疲れてるしサクッと新幹線で帰るか、エクスプレス予約はと
あれ?ログインできない?
あぁちょっと前にクレカがサ終とかなんとか、切り替えて、紐づけやり直し?
面倒くさそう。
17時過ぎ平日GW開け京都→新大阪の新快速なんて絶対に乗りたくない
WESTERで見たらちょうどいいはるかがあった、最初から買ってりゃ株主優待で安かったのに、まぁいいや。ぽちっとな、何号車にしようかしら。
京都駅33番ホームに到着だからはるかはホーム挟んで真横で乗り換えなのよね、うふふ。
今乗ってるはしだてが4号車、進行方向向かって東京側が5号車、ルール通りね。
って事は、はるかを一番後ろの9号車にすれば京都駅の乗り換えスムーズ、新大阪で下りた後もスムーズ。
京都駅、ズゴー
ホーム端から端まで歩かされた、9号車、一番前やんけ、死ねよぼけかす、まじファック
なんではるかだけ番号逆振りなの?ねぇなんで?バカなのしぬの?
「お忙しいところすいません、号車番号なんですがね、いまはしだてから乗り換えて、ボクの常識だとJRの号車番号は東京起点で離れたほうを若番と覚えておりまして、古くは天皇の乗車の位置がどうのとか、ともかく、なんでこれ逆なの?おせーて」と訪ねたところ
「なんでですかねぇ、和歌山管区で下方向に走るから?かな?わからないです」、だってさ
ともかく、新大阪到着
新大阪駅で改札を通ろうとしたらゲートが閉まった、うへ、なんで
そうだ思い出した、京都で降りる予定だったんだ
新快速で帰ると言いながら予定は未定でその場臨機応変ネットで買えば良いやと
最初から大阪→福知山経由、新大阪乗車券で購入してりゃ無駄な出費はなかった
この場合単に大阪→新大阪だけの乗車料金にしかならん(よね?よく知らない)
あーんもう、無駄金、ムカつく、お金無いのに。今日だけで2万くらい使ってるのよ
かつ、新大阪で息子が腹減ったとぐずりだした。
どうしても今すぐカレーが食いたいと
入った店に子供向けのカレーがなかったのでハッシュドビーフを新味のカレーだと欺罔して食わせた。少し食ったが美味しくなかった。
息子も俺もクタクタ、タクシーで自宅まで帰りたいが、金ねぇ、頑張って歩け
地下鉄で、
県二位の人口22万人の中核市であり、太平洋に面する港町、臨海工業地帯、外航・内陸航路の工業港を有し、東北新幹線八戸駅、東北自動車道八戸線、三陸復興道路の北の終点がある。東北有数の商圏63万人の街。
しかし、八戸市にはイオンモールがなく、イトーヨーカドーは2024年の夏に閉店する。
八戸市の映画館はかつて7館あったが、現在は完全になくなった。
2000年代前半4万平米級のイオンモール計画が立ち上がるも、中心市街地の地権者や有力者等で構成する市の商工会が大反対運動を展開。当時の市長はイオンモール反対を表明するも次の選挙で市民の支持を得られず落選。
イオンモールを待望した市民は、官僚出身の新市長を当選させた。しかし、外部の反対派寄りの専門家や学識経験者を交えた委員会を開き、最終的にイオンは過剰な商業施設であり不要と決定。そして、八戸市は事実上の1万平米以上の商業施設立地規制条例を制定し、イオン予定地は、当初計画を大幅縮小した売場面積7千平米級の中途半端なイオンが開店した。
さらに、市はそのイオンの隣により大きな建坪で市の総合検診センターを建設。土地区画整理組合への補償のためだと思うが、未来永劫、増床してイオンモールにすることはできなくなった。
その結果、市民は昔からある隣町のイオンまで車で約15kmから20km車で行く。
車がない高校生は1日に4便しかない直行バスに長い行列をつくり30,40分かけていく。
街の顔である中心市街地は、税金や補助金を投入し続けたが商業エリアとして魅力は下がり続け集客力は改善せず、事実上シャッター街に近い状態になった。
かつて市民のデパートとして親しまれたヨーカドーは市内に2店舗あった。1980年中心街の再開発ビル(地下1階、地上7階建、屋上遊園地)にヨーカドー八戸店出店計画が出て、当時の市商工会議所は大反対をした。市民には大歓迎されて開店してから東京の有名なデパートとして八戸の目抜き通りのシンボルとなった。その後2003年閉店。
古いビルは壊され屋台村になり、かつての長崎屋は1階がタリーズコーヒーで、2階から13階建のマンションになった。
市は20年ぐらい前には既に中心市街地活性化対策に乗り出し、再開発計画が出ては消えを繰り返し、最終的に新市長が市営の箱物をたくさん新設したり、建て替えた。
中心街は仙台に次ぐ飲み屋街として名高く、屋台村のみろく横丁周辺が酒豪の呑んべいたちで賑わう。新幹線開通後、新たなホテルやマンションはいくつか建設された。
市内は、北東北を中心に展開する売上高1300億円、58店舗を展開するスーパーのユニバースが本社を置き市中を治めつつ、他社も含め無数にスーパーとドラッグストアがある。イオン系列マックスバリュー、ホームセンターのサンデー、ヤマダ、ケーズデンキ、ユニクロ、GU、しまむら、西松屋、ワークマンもある。日常の買い物には困らない。
しかし、市民は屋内一体型モールのイオンモールが欲しかったのだ。大規模な市総合検診センターでもなく、市の観光文化交流施設や、市民屋内広場ではなく、イオンシネマやゲームセンターやボーリング場や、未来屋書店や、東京のアパレルテナント、東京で話題のある飲食店のフードコートが欲しかった。
明治時代に日本鉄道が東北本線を八戸町の中心部に伸ばすかどうかで議論になった。
当時は他の町と同じく蒸気機関車忌諱説があり、流行病の懸念や軍部の要望があり外国軍上陸の脅威を減らすべく、市街地から4kmも内陸の尻内(しりうち)という辺鄙な場所に駅をつくった。あとで町民たちは鉄道は便利だと知ることになり、数年後に本線から分岐して八戸線が開通し中心市街地の800m北寄りに旧八戸駅、現在の本八戸駅を開設する。
そのあと100年以上が経ち、尻内駅は八戸駅に駅名が変わり、やがて新幹線駅に昇格した。しかし、あまりに市街地から離れすぎた立地のため、郊外の地方空港の様相であるかのように、22万人都市の玄関口としてはお察しくださいの状態である。
大正末期に八戸大火が発生し中心商業地区が焦土と化したが、田舎町には後藤新平のような都市計画家はおらず、当時の八戸町議会は多額の予算は出せないとして狭い道は藩政時代のままとなった。
太平洋戦争では基幹産業の日東工場爆撃が海側の地域で爆撃を受けるも、中心市街地の空襲被害はほとんどなかった。
市の北側に位置する旧日本軍の飛行場と基地は米軍に接収され、3,200人の米兵により飛行場を拡張し基地の街と化す。その後、陸海自衛隊基地として運用される。
八戸の中心市街地は、戦後しばらくして、東映、東宝、テアトルなどの7つの映画館が開店し、地元百貨店が開店し、緑屋、ニチイ、丸光(さくら野)、長崎屋、そしてイトーヨーカドー、地元資本のファッションビルが開店し、中心市街地は岩手県北を含め商圏62万人ともいわれ栄華を極めた。私はその時代を生きていないのでよくわならない。
八戸は昭和30年代に新産業都市に指定され臨海都市建設工事が始まり、八戸鉱山の石灰石産出、三菱製紙工場、八戸火力発電所、非鉄金属の精錬所、鉄工所、造船所が建設された。
漁業は栄光を極め、八戸港の水揚げ量・金額が日本一を記録し、第一・第二・第三魚市場は全国の漁船が集まったという。浜の景気は大変良く、飲み屋街や風俗街も発展した。北海道室蘭・苫小牧港へのフェリー航路が開設され北への玄関口となった。中心市街地を迂回する国道45号バイパスが整備され、市道の4車線の環状道路が次々と開通し、田畑の区画整理が次々と進み新興戸建住宅地や住宅団地は郊外に市街地は拡大し、市営バスは路線網を拡大し小中高校は増設を続けた。
一方で、青森寄りの天間林村(現七戸町)の上北鉱山は銅が枯渇のため閉山。また、八戸から60キロ北の六ヶ所村では新全国総合開発計画による巨大石油化学コンビナートや製鉄所を中心とした、1万7000ha開発計画は発表されたが、二度のオイルショックで完全に頓挫した。石油備蓄基地のみがつくられ、のちの日本原燃による核燃料サイクル施設建設を待つことになる。
青森県議会は東北新幹線建設に際し、八戸経由か弘前経由か決められずに結局盛岡駅止まりのまま以後八戸延伸まで20年待ちとなる。あの頃、早く決めていればとおもうと悔やまれる。
1991年に長崎屋が郊外に移転。屋内遊園地つきのラピア長崎屋が開店
1994年 年末に三陸はるか沖地震(震度6)が発生、旧市庁舎、旧市民病院に大きな被害、中心市街地のビルが倒壊し死者発生、道路の崩落、水道管破裂など多数被害
1995年 隣町にイオンモール下田が開店(現在は売場拡張し53,277平米)県南地域では最大の売り場面積を持ち、当時は大観覧車があり田んぼと山がよく見えた。
1997年 中心市街地の市民病院が郊外に移転し、いよいよ中心市街地の危機が地元紙で叫ばれるようになる
1999年 八戸臨海部の神戸製鋼の敷地にピアドゥ(売場面積25,400平米)が開店。核テナントはイトーヨーカドー、ホームセンター、のちにヤマダ電機、スーパー銭湯開店
2002年 東北新幹線八戸駅開業。北の玄関口として栄華を極める
2003年イトーヨーカドー八戸店が閉店、跡地に地元出資チーノオープン。市民映画館が開店
2009年 臨海部の八戸魚連跡地、ピアドゥの隣接地にシンフォニープラザ(現在の売場面積17,000平米)が開店
2000年前半イオンモール八戸田向店40,000平米級の建設計画が持ち上がる
当時建設中の4車線の県道八戸環状線沿い一帯の田んぼを区画整理し、中心街から八戸市民病院が移転した付近に立地計画。
市民の多くは歓喜に沸いたと思う。わざわざ隣町のイオン下田まで行く必要がなくなるからだ。
しかし、中心市街地の商業者を中心とした商工会が猛烈に反対し、当時の市長も大反対。
地元新聞の投書には、商店街関係者と思しき女性が「イオンが来たら中心街がシャッター商店街になってしまう。そんなところで祭り(八戸三社大祭という由緒ある山車の祭り)は見たくない!」などと書いていた記憶。
ほかに、市民病院の近くが週末渋滞して救急車が到着できなくなるから反対との投書もあった。
その後、市長は1期で落選し、新市長が当選し立地規制条例を制定
2012年 郊外にイオン田向ショッピングセンター開設(7000平米級)
新市長は、空洞化した市街地を再建すべく、市営の箱を次々と建設。
2011年 市営のポータルミュージアムはっちが開設、中心市街地にタリーズコーヒが初出店
2016年 ガーデンテラスが竣工し市営の八戸ブックセンターが開設、Yahoo八戸センターが同ビルに拠点開設
2019年 国際大会用の屋内スピードスケートリンクが開館(中心市街地から徒歩圏の運動公園に建設)
2020年 元長崎屋跡地にDEVELD八日町が竣工 13階建で2階以上はマンション
2023年 イトーヨーカドー八戸店跡地のはっちが閉店。解体されマンションになる予定
2023年 八戸港の水揚げ量が昭和19年レベルに激減(戦後最悪水準、金額ベースで最盛期の10%の漁獲高)
2025年 青森銀行とみちのく銀行が合併し青森みちのく銀行設立予定
東日本大震災のあと、国の復興予算で約10年で三陸復興道路が完成し、県道の環状道路は大半が開通した。市内のロードサイドにはセブンイレブンも、タリーズも、コメダ珈琲も、スタバもできた。新しいスーパーやホームセンターがあちこちにできた。
中心市街地は市営の観光施設や屋内広場、箱物と、市営書店ができて大変モダンな空間になった。
地元商工会議所は、中心市街地活性化のために、巨大イオンモール進出を阻止に成功し、街中に新たな商業施設として、ローソンとファミマが合計6店舗できた。モスとドトールしかなかった街中にタリーズができた。
しかし、市経済の低迷も相まって中心街へ商業施設誘導を果たせず、三春屋とチーノは閉店し、今やさくらの百貨店が残るのみである。かつての商業ビルはマンションへ建て替えが進む。
商業地としてのポテンシャルが低下してマンションになるのであれば、郊外に予定通り40,000平米のイオンモールを建設してもよかってのではないか。
結果、GMSは衰退し臨海部のヨーカドー八戸沼館店は閉店。後継テナントは未定で、市民は1991年開店の江陽のラピア長崎屋と、臨海部のシンフォニープラザ、2012年開店のイオン田向(リテール)のみになる。
よく巨大郊外型モールが撤退したあと社会問題になるため開発抑制が必要だという。都市計画的には正しいが、近隣県を含め広域自治体レベルで規制誘導しない限り、一自治体が規制をかけても無意味だった。
結局、市民は1995年以降、隣町のイオンモール下田まで行き、買い物客が流出し続けた。
中心市街地の地権者はコンビニ6店やマンション1棟やホテル2棟をオープンさせたが、新たに集客力のある商業施設を建てたては言えず、中心市街地の魅力向上のため、市営の文化的施設の建設に資金が投入され続けている。
2050年までに、八戸市の人口は社会保障人口問題研究所の推定で14万人台になるとしている(最盛期より10万人減少する)
人口減少社会は、かつての拡大した市街化区域を減らし、都市軸の再形成、まちなか居住、コンパクトシティの形成、魅力ある歩いて暮らせるまちづくりをするなど、さまざまなメニューがあるものの、あまりにも中心市街地再興への道のりが長すぎる。その過渡期に過ごす市民は、これからもイオンモール下田に通うことにになる。
せめて20年前に八戸市や市商工会議所は、イオンモール立地に反対しなければ、あの長い行列をつくりバスを待つ市内の高校生たちは、自転車でいける距離でイオンモールに遊びに行けただろう。
現在51歳の俺は嘗て子供の頃鉄道が大好きで、放課後は屡々線路の脇に屯して只管に通り過ぎる列車を眺めていた事がある。
その頃通り過ぎる機関車といえば茶色い重鎮のEF15、主力は青いEF62、EF64、赤いEF81等であった。電車なら各駅停車は115系、そして急行電車は165系、特急電車はボンネット型の181系だ。どれも本当に美しかった。
その点、蒸気機関車が走っているのはテレビや映画の中で見るだけだった。
何年か前に、某駅で実際に蒸気機関車のD51が客車を牽引しながら走るのをリアルで目撃した。
なんというか不気味な黒い怪物であって、その様は巨大なゴキブリのようであった。
そもそも石炭火力は地球温暖化を促進する原因の最たるものではないか。SLにノスタルジーを覚えるのは子供の頃にSLが走っていた後期高齢者だけだ。
ローン・レンジャーって冒頭のシークエンスで蒸気機関車に本編のラスボスの一人である極悪犯とその極悪犯を殺害したいジョニデ演じるインディアンが一緒に移送されていて、極悪犯が脱走を試みるのね。で、そこに主人公の検事がやってきて凶悪犯を殺害しようとするインディアンを「法で裁くべきだ」とか言って阻止して、逆に極悪犯にやられて逃がしてしまう。
その結果、クソほど人が死ぬんだけど、こういう「主人公がクソみたいな信念でなすべきことをやらなかった結果、冒頭数分で終わっていたはずが多大な被害をもたらしてそれを主人公が解決する」みたいなマッチポンプ映画ホンマ嫌い。お前が殺されとけ、バカがよ!ってなっちゃう。
そういう意味では名作とされているスパイダーマン・ノー・ウェイ・ホームも俺はあんま好きじゃなくて、結局あんな事態になっちゃったのってピーターがストレンジに思い付きで次々術式を足させたからじゃん。素直に全部消します!終わり!にしてれば別次元のヴィラン大暴れもなかった。つーかマーベル映画ってマッチポンプ多すぎるんだよな。
元増田みたいなのが居るから地名変えちゃったってケースを出すよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230912103559
地下鉄南北線に志茂駅というのがあるが、ここは昭和初期まで「下村」だった。上村は近くにないので、岩淵宿から見て下の村という意味かと思われる。
関東大震災後に人口が流入して町になる時、「下町」じゃあれなのでちょっとこじゃれて「志茂町」とした。
後に町が取れて志茂となり、駅も出来て有名になったが、住んでる人も元は「下」のこじゃれた書き方だったとは知らないことが多い。
関東大震災後に東京近郊は下町からの移住で人口が増え始め、川口町と合併して川口市になる横曽根も人口が増える前に区画整理をする事になった。
横曽根の中心の北には「北」、南に「南」というおざなりな小字があり、西側は「新田」という小字があったので、「北」を「北町」、「南」を「南町」、真ん中を「仲町」とし、西側の新田は「仁志町」とした。
仲は中を、仁志は西をこじゃれた風にしたものだ。
だが西川口駅が出来て人口がどっと増えると、駅西側は全部西川口にしちゃえという事になって北町も仁志町も全部西川口になってしまった。
「仁志」とかせっかく付けたのに結局に「西」で上塗りされちゃっというケースである。
余談だが、南町は残ったのだが、ここは市境に近く、川口市南町から歩いて5分に蕨市南町があるので混乱の元だ。この命名法はよくない。
先の事を考えない鉄道会社に振り回されたケース。
東上線の中板橋駅の西側に711の弥生町店があるが、実はこの辺りは川越街道の上板橋宿跡である。
大正初めに東上鉄道(現東武東上線)が開通すると、始発駅の池袋の次は板橋下宿に近く貨物扱いで重要な下板橋駅が設置されたが、その次は4km先に設置する事になった。当時は蒸気機関車の単線運転だから交換用の駅で距離もその程度が適当だった。
だが駅の周りがマジで何もない。だから駅名に適当な地名も無い。
だが昭和初期に電化されて加速性能がいいので駅を沢山作る事になり、下板橋と上板橋の真ん中にも駅を作る事になった。だがこの近くの地名は、上板橋宿に因んで全域が上板橋になっていた。
でも下と上の中間の板橋だから中でしょと「中板橋」駅としてしまった。
すると上板橋が上板橋駅付近になくての隣の駅の周辺にある、しかもその駅名は中板橋というおかしなことになってしまった。
地名変更できるようになると上板橋は古い名前を捨てて「弥生」というこの地に特に縁のない名前にしてしまった。
元々池袋村は今の下板橋駅付近が村の中心で(現池袋本町)、池袋駅が設置された当初は池袋村の村の外れの村境ぎりぎりの場所だった。
今の西口付近はその名も「上」という小字の場所だった。その他にもこの周辺は「原」とか「下上」とか「西山」とかおざなりの超てきとうな小字ばかりであった。さすがは人もろくに住まず雑木林のままの村はずれだ。
だが鉄道がどんどん集まってきて人口も増えるとそんなてきとう地名は「池袋」で消されて無くなってしまった。
そもそも下上って何なのか?
葛飾区と足立区の区界を見ると綾瀬駅の付近で絡まったコードのようにやたらグネグネしている。これは古隅田川の流路で、中世では住田河と呼ばれていた。
荒川放水路が出来るまでは堀切駅の付近で今の隅田川に合流していたので、その上流までが荒川、その下が隅田川と呼ばれていた。
一方、江戸時代に水墨画が流行すると、「墨」という字とそれを「ボク」と読むのが粋でブランド的価値を持つようになった。
隅田川がカーブしながら先述の古墨田川と合流する場所の外側にあるのが隅田村で、洪水が頻発するので幕府は隅田堤という陸の堤防を築造、桜を植えた。桜を植えるのは花見客が大挙して訪れて踏み固められるからである。今も川べりに桜が植樹されるのはこの幕府の知恵に由来する。
するといい景色なので山水画や浮世絵が多く作られたが、何しろ「隅」より「墨/ボク」の方がカッコいいもんで、隅田堤じゃなくて「墨堤/ボクテイ」と題されたりした。
その他にも隅田村/隅田川関連のものが「墨田」と呼称されたので、隅田村→隅田町となっていたが住んでる人らは勝手に隅っこよりもイキな方がいいと「墨田町」と書くのが流行し、本所区と向嶋区が合併した際には墨田区となった。
隅田町が町名変更できるようになるとこれもやはり墨田となった。
中仙道の板橋宿は超巨大宿場町で、JR板橋駅から都営地下鉄板橋本町駅の2.5kmくらいもあり、北から上宿、中宿、下宿(下板橋宿/平尾宿)と分かれていた。
鉄道道路の時代になると宿場町の記憶は無くなって何が中なんだという事で、仲宿と改称された。
下谷はいかにも下に見られてるみたいなので、台地の東、と台頭を兼ねた造語を区名にした。
吉原遊郭とか上野周辺とか山野とか実際にスラムが幾つかあったのが余計にコンプレックスを刺激した。
十条と呼ばれる地区には北側に上十条村、南側に下十条村という二つの村があった。尚、この当時の上、下というのは京都に近い方が上である。江戸北側には中仙道があるので京都に近い方の北が上であって、東海道周辺なら西が上になる。
両村を縦貫する形で日光御成道(別名 岩槻街道)があり、下十条宿という幕府非公認の小さな宿場町があった。今の東十条駅から坂上がったあたりの塾や郵便局があるあたりである。
明治になりその十条の西の方に現赤羽線(埼京線。開通当時は日本鉄道品川線)の十条駅が出来た。
次に東北本線(京浜東北線)にも駅が出来る事になったが、当然、一番栄えている下十条宿に近い場所に設置された。また駅に来れる道もある。だから当然駅名も下十条駅だった。
ところが昭和に住居表示で町名が変えられるという事になると、下十条が「今は東京駅に近い方が上だからこっちが上十条だ」とか言い出す。
それで町名を押し出された元の上十条は、下はヤダってことで中十条となってしまう。何でだ。
こうして下十条が無くなったのに駅だけ下十条を名乗ってる状態になったので、十条の東だし、東十条に隣接してるってことで改称されて東十条駅になった。
そりゃ下扱いは誰でもイヤなもんだが、下剋上的というか身勝手というか。
ここを東急電鉄の後藤慶太のデベロッパが買い上げ高級住宅地「田園調布」の分譲を開始、鉄道も開通し、調布駅が設置され、直ぐに田園調布駅に改称される。
「田園」の文字の由来は、ロンドンに視察に行った後藤が田舎に住んで都会に鉄道で通勤するというゆとりがある生活スタイルに触れて感銘を受けたため。当時のロンドンは児童含む超絶ブラック搾取労働や、一晩で数百人が死ぬほどの超絶大気汚染、ゴミや糞便に混じって死体も流れるテームズ川の超絶河川汚染、多発するスリ強盗殺人林立する売春婦など、文字通りに死ぬほど環境が悪かったために富裕層にこのような生活スタイルが流行した。
昭和3年に人口が増えて町制施行されることになったが、調布町とすると京王線沿線の調布と被ってしまうので「東調布町」と呼称。
だがその僅か五年後には荏原郡自体が東京市に編入されて東調布町も消滅。短い命であった。
初めは東急(の子会社デベ)が開発した駅前の高級宅地だけが田園調布だったが、住居表記施行で町名変更が可能になると、元の田園調布の周りの○○沼とかの町も「沼とかヤダ田園調布にしたい」という事になって、全域が田園調布となった。
Choo Choo Train (choo-chooは蒸気機関車の擬音)
ファミリーマートに入った時になるメロディはファミマ特製のものではなくて、パナソニック/ナショナルが1982年から作っている赤外線入店センサー、メロディサインシリーズ。
EC5117/EC5227/EC5347型。一番安いのは4000円。
東京などJR東日本の駅には緑の文字盤の時計が吊るされていて、JR東のコーポレートカラーの緑の特注品に見える。
しかしこれはSEIKOの親子時計(駅や工場など時間狂いが許されない箇所に使われるシステムで、正確な親時計が30秒or1分毎に指令を出して子時計が運針する)のうち、バックライトがなくても視認できる蛍光塗料を使った商品で特注ではない。つまりは目覚まし時計が緑なのと同じ。
無印の横長で四角い「駅の時計」は国鉄ものと誤認されがち。だが国鉄は秒が刻まれた時計を採用していたので間違い。
目盛りが分刻みのあのデザインを使っていたのは地下鉄の交通営団。天井の低い銀座線、丸の内線で使っていた。
名古屋でもういろうは売られていたが、ういろうの名産地と言ったら小田原だった。
だが東海道新幹線が開業すると、ういろう販売店の内、名古屋の青柳総本店だけが車内販売権を獲得。当社は電車が名古屋を出ると「名古屋名物ういろう」と売りまくったためにういろう=名古屋と利用者に刷り込まれた。
漢の時代の中国で四季に合わせて漢詩を詠む事が教養となり、それを日本も倣った。漢詩→和歌→俳句→散文と受け継がれ、風流と教養から手紙の頭などに必ず季節を入れるのが常識となった。
この為に日本の特徴的な季節である梅雨などは無視されるか夏に入れられている。
梅雨前線が停滞することで起きるので青森~台湾~中国沿岸部しか梅雨にならず、中国沿岸部の梅雨は軽度でしかなかったため。
商店街が銀座を名乗るのは賑やか、高級のイメージと思われているが、最初に銀座を名乗った戸越銀座がそう名乗ったのは本物の銀座で使われていた煉瓦を舗装に使ったため。
関東大震災の復旧で銀座の舗装をやり直す事になり、それまで使われていた煉瓦の敷石が戸越に譲渡された。戸越は煉瓦舗装で雨の日でも泥まみれにならなくなったので「戸越銀座」を名乗った。つまり銀座の根拠は煉瓦舗装。
ペリーの黒船は蒸気機関車と混同されて鉄製+石炭蒸気船のイメージがあるが、木造の帆船。
木に腐食防止のコールタールを塗っていたので黒く、普段は帆走していて港での移動にのみ蒸気機関による外輪を補助的に使っていた。
昔のヨコハマタイヤが看板広告に使っていた、タイヤの中に濃い顔があるデザインは頭おかしい系怖いデザインとして有名だが、実はヨコハマタイヤの意匠ではない。
アメリカのBFグッドリッチ社がディーラーサイン(取扱店)として配布していたもの。(The Smileage!)。だからヨコハマタイヤのも取扱店の目印で、大村崑のオロナミンCホーロー看板と同じ。
BFグッドリッチが使っていたのは戦前~戦後初期と古く、また白黒イラストに赤文字だったのだが、戦後下ってから何故かヨコハマタイヤが色付けして復刻。その姿で多くの幼子を泣かせた。
錆びると紫外線遮蔽力が弱い白目部分と赤い唇の塗料が先行して剥げ易く、目と口から赤い錆汁を垂らすようになる。サイレントヒル。
尚ヨコハマタイヤは古河財閥とBFグッドリッチの合弁。戦争で関係が切れていたが戦後に関係が復活したのでキャンペーンデザイン統一した意味があったのかもしれない。
BFグッドリッチ社はオーチスエレベータ等も擁するユナイテッド・テクノロジーズ社に吸収されて消滅。タイヤのBFグッドリッチブランドはミシュランが持っている。
google:image:BF GOODRICH TIRES SMILEAGE
新幹線は固有名詞になっているが、元は単に幹線鉄道に平行する新しい幹線、って意味。
元は瀟湘八景で、中国湖南省の水郷地帯を季節を違えて八か所描いた山水画。
「四季」と同じくこれが日本で教養化されたもの。元が侘び寂び的であるので日本で更に洗練された。
山水画だけでなく連句を詠む/選ぶ、散文に登場させる、浮世絵、写真、単に選ぶなどのスタイルで流行した。
晴嵐、晩鐘、夜雨、夕照、帰帆、秋月、落雁、暮雪のテーマをなるべく入れる事が求められ、何も入っておらず単に綺麗な景色8選だと無教養と評される。
金沢八景は全八テーマが網羅された景色であり、多くの漢詩や俳句や浮世絵が作られた。
当地は沈降海岸(リアス海岸)で入り江と小さい島が多く松島のような絶景で富士山詣での返りにわざわざ訪れたりするほどの景勝地だった。
後に埋め立て等で景色は全て失われて八景の由来も判らなくなったが、「眺めが素晴らしい金沢」みたいな駅名である。
だがその駅により周囲の埋め立てが進んで八景が無くなったのだから皮肉である。
数年前の鬼怒川決壊氾濫で、過去にも「鬼が怒った」ような暴れ川だったと考える人が居るが、単に鬼怒川の源流付近を昔「けぬ」と言っていたからである。
前橋から奥日光、群馬から栃木西側に掛けてけぬ(毛野)と呼ばれていた。後に上野国(こうづけのくに)下野国(しもつけのくに)となるが、読みの「こうづけ」の「け」は「けぬ」の「け」であって、漢字の方で脱落してしまったもの。
ビショーネという。google:image:biscione
故安倍晋三前総理も若い時に乗っていたというアルファロメオのエンブレムには十字架とビショーネが描かれているが、これはアルファの象徴という訳ではなく、都市国家ミラノを支配していたヴィスコンティ家の紋章である。
ミラノの商人や貴族はビスコンティ家より紋章が描かれた皿を下賜され、忠誠の証しとして家に飾っていた。
余談だが安倍総理が乗っていたアルファは年代的にアルフェッタという車種と思われる。https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b4/1978_Alfa_Romeo_Alfetta_GTV_%287254572400%29.jpg
実はこの年代のアルファはソ連製鋼板の品質に由来する品質問題を抱えていて評判を低下させた時期である。自動車用鉄板は防錆の為に亜鉛メッキされているのだが共産国ソ連の生産管理のダメさによって亜鉛メッキがちゃんとされておらず錆だらけになってしまう。
なぜソ連製鉄板など使っていたかというとデタントでソ連との交易を増やそうというイタリア国策である。だがこれはイタリアが東寄りだったいう訳ではなく旧枢軸国の独裁国でフランスなどに経済制裁されていたスペインにも工場進出しており単に節操がない。
当時日本の鉄鋼が米国を打ち負かす程の伸長をしており、日本製鋼板を使っていればこんな事にならなかった。アルファに乗っていた安倍氏は卒業後に日本の鉄鋼会社に勤めていたというのが皮肉である。
あと一つ入らないから続く→https://anond.hatelabo.jp/20230613182714
来客がキッチンシンクを皿用スポンジで洗いやがった、清潔観念がおかしいもう絶縁だとか、旦那がそれやりやがった、もう離婚考えているとか、シンクをスポンジで洗う事で発生するトラブルは多い。
これは畢竟、ケガレの観念の問題だ。シンクは下(シモ)の範疇になっているのである。
実は日本人のこのシンク=シモの感覚というのは20~30年前に定着したもので結構新しい。それまではシンクは上(カミ)の範疇であり、1990~2000年頃はこれらが混じり合った状態だった。また、調理の現場ではまだシンク=カミだ。
ところで古い国鉄時代の特急などでレバーやボタンを放すと即座に水が止まってしまって手が洗えない洗面台に困惑した事はないだろうか?
シンクというのは元の意は「溜め」だ。水を溜めて使うのがシンク。これとは別に「流し」もあった。これは小学校のプール付属の長いのが判り易いね。
故にキッチンシンクも水を溜めて使う、流しとして使うの二つを兼ねる事が前提になっていた。これは洗面台も同じ。
だからキッチンシンクにも洗面台も水を溜める為の栓が必ず付属していた。
また、1990年代前半までのシステムキッチンのCMでは、シンクに水を張ってそこに野菜をまるごと投入して洗うというシーンがよく登場した。それは清涼感の演出のためであり、つまりはシンクはカミだったのだ。
洗面台ではゴム栓だけではなく、もっと機能的なレバーやノブ式の排水栓が一般化していた。洗面水栓の近くにあるノブなどを引っ張ると水がたまるのだ。
今では洗面台ボウルは手を洗った水受けや歯磨きうがいした後の水の吐き出し受けになってるから洗浄後でも水を張ってそこに顔を付けるという行為はしたくない人が多いだろう。つまりはシモである。
このシンクやボウルに水を張って使うというのは80年代後半~90年代に廃れ、キッチンでもシンクにボウルを入れてそこで洗うというのが一般的になった。
この為に2000年代前半から各調度品メーカーは水溜めの栓とか排水蓋を付属しなくなる。洗面台のレバー式排水栓も廃止された。
こうなると利用者の方のケガレ観念も完全にアップデートされてシンク、ボウルはシモのケガレあるものとなり「皿用スポンジでシンク洗いしやがった、信んじらんねぇ!」となるようになったのである。
一方、プロの調理場の方ではシンクは水溜めのままだ。シンクに水溜めて食材洗うし食器のすすぎもする。カミのままなのだ。
だから皿用スポンジでシンクを洗った人は調理場で働いている可能性もある。汚いという意識が発生しない(排水口の網などは別だ。ここは単純に不衛生だ)。
増田も「気まぐれクック」で金子がシンクに魚置いているのを見て「不潔だな」と思う口だったが、実際に自分でも魚捌きをやるようになると、シンクの中でやらないといけない作業が結構ある。
すると食材をシンクに置くなんてとんでもない!というケガレ意識はなくなった。
特急で多客期や臨時列車などで国鉄時代の電車が来ることがある。
トイレが和式なのも困るが、後に手を洗おうとするとすると、出水レバーやボタンから手を離した途端に水が止まってしまうので両手をすり合わせての手洗いが出来ない。一定時間で止まる装置が壊れちゃったのか?
しかもお湯と水の二つのボタン、レバーがあるが、お湯の方を押すと火傷する熱さで手洗い出来ない。なんだこれ!どうやって使うんだ!?
こういう体験した事ないだろうか?
また、昭和中期の古いホテルや旅館に泊まると、同じように水栓が湯水二つあり、こっちは普通の蛇口で出しっ放しには出来るものの、お湯の方はやはり熱くて使えない。
しかもメインのボウルの他に小さなボウルがある。これは一体どうやって使うんだ…。
これも説明しよう。
例を用意した。
これは戦後すぐに製造or改装された旧型客車の手洗いで、ボタンを押している時だけ湯水が出る、洗面ボウルの右にワンタッチ排水栓がある、メインのボウルの左手前に小さいボウルがあるというこの問題の全入り品だ。
https://twitter.com/ma_mere_loye/status/1642412578201800704/photo/1
小さいボウルがある。水栓は湯/水二つ式だったのを潰して後付け水道管に変更されている。
なんでこうなっているかというと、今の人は手も顔も水を出しっ放しにして手を洗い、流水を掌に受けて顔を洗うだろう。
だが昭和中期までの日本人は流水でそんな事をしなかったのである。ほぼ必ず洗面器のボウルに水を溜め、それを掌で掬い、顔を洗ったのだ。だからお湯と水を洗面台で混ぜて適温にしていた。
昔は冷房も無く窓を開けていたので蒸気機関車の煤煙で顔が汚れた。長時間の乗車も多い。夜行列車も多かった。だから洗面は必須だった。
そしたら歯磨きしたりうがいした吐き出しはどうすればいい?
それが手前の小さいボウルなのだ。ここは吐き出し専用で、痰が残ったりしたら手で水を掬って水で流すのだ。
つまりは洗面台=手を洗うところ、夜行なら歯磨きや洗顔の排水受け、または化粧直しの場という風になったのは昭和後期であり、それまでは洗面台はその名の通りに水を張って顔を洗う場所だったのだ。
因みに洗面器という名もその通りで、水を溜められない流しなどでは洗面器に水を張って手で掬って顔を洗う為の物であった。その洗い方では石鹸で水が汚れるが、そしたら水を交換して2回くらいで洗顔する。
ただ、この洗顔法は昭和後期には誰もやってなかった筈であり、感覚的にも大勢が痰や唾を吐いたり手洗いの排水受けた洗面ボウルに水張って顔洗えるかという感覚だった筈だ。国鉄は融通が利かずに規格化されたこのタイプの洗面台を発注していたが当時から手洗いしにくい不便なものという評価だったと思われる。
だからJRになると今のと同じ、自動水栓や時間水栓に交換されたりした。
そういう訳でシンクや洗面台に対する日本人の清潔感情、ケガレの意識がアップデートされ、それによって水を溜めるという構造の調度品が作られなくなり、それでまた更に清潔感情がアップデートされ、となって来た。
故にシンクを皿用スポンジで洗うと非常識に驚き、古い構造の洗面台は使い方すら判らない、という事になるに至ったのである。
だが調理場ではシンクは未だ水溜めて使うカミのものであるから、そういう従事者が他業種の人と交差するとトラブルになる。
またハードな料理をすると家庭でもどうしてもシンクで食材扱うようになるから感覚は変わる。