はてなキーワード: 日本兵とは
そんな激怒されるようなことしてるか?っていうとそれぞれ単体では問題なさそうなんだよな。
日本人慰霊碑に献花は他の首相もやってるし、日本兵だけの慰霊碑でもない。
ただ、その後に行った国家記念碑には日本の占領政策下で亡くなった人もまつられているわけで、そこに邦人を慰霊した後「マレーシアの歴史に思いを馳せました」と言ってしまうと「日本の慰霊碑と比べると他人事みたいに言うけどなんで死んだか分かってんの?」となってしまう。
2つを並べた事によって「日本人は慰霊するけど、日本がやった加害行為には向き合わない人」って文脈が発生しちゃってる。
まあなんも考えてなかっただけだと思うが…
発信なのがダメだったようだ
旧twitterでちらっと言ってる人がいて知ったけど、
対応して大々的に抗日狩りをやって9万7千人の投獄と大虐殺になってたのね
華人以外のマレー人とインド人もたくさん殺されたのは見当がつく
イスラエルがハマスを狙うと言ってパレスチナ虐殺してるの連想しちゃったよ
wikipediaが全部本当かは疑わないといけないけど参考には助かるね
ついでに関連ブクマ
旧日本軍兵士を「英雄」とたたえ怒り招く、マレーシアで慰霊碑の撤去要求
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.afpbb.com/articles/-/3217673
2025 今回の件
マレーシアに訪問し慰霊碑に頭を下げた高市早苗にマレーシア人がブチギレ「日本帝国軍がマレーシアで多くの人を虐殺したのを忘れない」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/posfie.com/@unnojuza/p/66x8XDw
2018年から日本はマレーシアの各地13箇所に日本人慰霊碑を建てた
日本とマレーシアの関係は深くマレーシアで亡くなった日本人には色んな経緯があるが、その中にはマレーシア侵略で亡くなった日本兵も含まれる
日本人の集落の日本人墓地で日本の金だけで建てた慰霊碑で除幕式も日本人しか参列していないので基本的にはマレーシア人の関心の外の場所のようだ
しかし今回、マレーシアを訪問した高市は日本人慰霊碑で追悼の意を示す写真と、マレーシア独立闘争で亡くなったマレーシア兵の像の写真を載せた
本日、クアラルンプール日本人墓地を訪問し、慰霊碑に献花しました。マレーシアで命を落とした先人を慰霊することができ、感慨深く思います。
これに続けて、二度の大戦やマレーシアの独立闘争で亡くなられた兵士と市民の霊を慰める国家記念碑も訪問し、マレーシアの歴史に思いを馳せました。
抜粋すると以下のようなことを言っている
これは本当に腹立たしいです。マレーシアの地で残忍に首をはね、殺し、拷問し、レイプした兵士たちに敬意を払うってどういうこと?「マレーシアで命を落とした」って、ちょっと待って、私たちの祖先は日本の恐怖から自由を得るために彼らの命を捧げたんですよ。
日本人たちが、まるで彼らが英国からマラヤを救った英雄の血統から来ているかのように妄想しています。一方、こちらの人々は「アジアのためのアジア」という名目で私たちの国を侵略したあなたたちの祖先によって残酷に殺され、虐殺され、強姦されました。すべての植民者にはみんなくそくらえ
あなたは第二次世界大戦で戦った人々のためにトゥグ・ネガラで敬意を表し、それから私たちの祖先を植民地化し、虐待し、殺害した日本兵、つまり私の曾祖父が死の鉄道を建設中に亡くなり、私の祖父が父なしで育つ原因となった日本兵をも称えたのですか?
石破も慰霊碑訪問はしてるが無風だったので、独立像と同列にしたこと、というかあたかも日本兵が独立に力を貸したせいで死んだかのような発信なのがダメだったようだ
伊藤博文役でリリー・フランキーが出演してるから興味あって鑑賞したんだがマジで安重根が朝鮮民族の英雄として描かれてて酷かった。
映画は安重根がハルビンでリリー・フランキーを銃殺して旅順で死刑になるまで(1910年3月)しか描かれないのだが、エンドロールの手前にこんな説明文が挿入される
「その後も日帝の抑圧は強まり義士達の闘争は続いた。そして36年後、遂に韓国は独立した」みたいな感じの文章なんだが、これだけ読むとまるで義士達の闘争の成果として韓国が独立したかの様に誤解してしまいかねないめちゃくちゃイデオロギッシュな悪文なんだよ。実際は米帝のおかげなのに。
もっと言うと安重根がハルビンでリリー・フランキーを殺害しちゃったせいで日韓併合論の機運に拍車がかかった事実を無視してる。
日帝は伊藤博文暗殺事件を口実に日韓併合に踏み切ったわけで、その意味では安重根は祖国を亡国へ導いた人物とも言える。
それ故かこの映画では日韓併合について作中では一切触れないし説明文すらない。
つまり安重根がリリー・フランキーを殺害した時点でも、旅順で処刑された時点でも、韓国は日帝にまだ併合されてなかったという事実に触れないんだよな。
安重根が日韓併合の口実を作ったという不名誉かつ不都合な事実に触れたくないという意思を感じる映画で俺はそこが不満だった。
あとシアターの雰囲気も独特で俺の右隣の老紳士は作中の台詞(韓国語)を小声で反芻してて、安重根がリリー・フランキーを殺害したシーンでは幾度も首を縦に振ってた。
この記事はけっこう刺さってしまったなあ。このおじいさん2010年当時95歳か。この世代の戦争体験を生の声で聞ける時代は、もう終ってしまったのだなあ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2b0b23e248c99cadd393ab67a11a0a5ce4a6662d
「許してくれ、許してくれ」とガマで泣き崩れた 沖縄戦で母子を撃った90代の元日本兵が謝罪
6/19(木) 6:04配信
元兵士の照屋さん(仮名)が住民をあやめてしまったと告白した時に巡った壕。入り口に生える草は光がさす方に背を伸ばしていた=3月6日、沖縄本島(竹花徹朗撮影)
「私は銃の引き金を引いてしまった。今でも何度も夢に見る。苦しくて、苦しくて。このにおいは間違いなくあの親子のいた場所です」
2010年のある日、沖縄本島内のガマで、照屋さん(仮名)は泣き崩れた。90代半ばの元日本兵。言葉にならないような震えた声で「許してくれ、許してくれ」と何度も謝った。
臨床心理士の吉川麻衣子さん(49)=那覇市=が沖縄戦体験者でつくるグループ「語り合いの場」を立ち上げて5年目だった。
参加の意思があるか、ないか。体験者に繰り返し確認するのが吉川さんの手法だ。
事前面談が21回に及んだ照屋さんは、吉川さんにだけ、自身の過去を打ち明けていた。「みんなの前では語らないけれど、場には参加したい」との相談に、吉川さんは「無理しないで、自分のペースとタイミングを大切にしましょう」と伝えた。
体験者は照屋さんを含め9人。グループは月1回、それぞれの戦争体験で関わりのある場所を巡ったり、公民館で集ったりした。
「私は兵士でした」。照屋さんはそう自己紹介した以外、ほとんど口を開かず、表情も変えずに部屋の隅でじっと座っていた。記憶が残る戦地をどう巡るか意見を出し合った時も、「私にはそういった所はないので、みんなに任せます」と仏頂面だった。
それでも、会を重ねるごとに表情は和らいでいった。吉川さんと出会って6年が過ぎた頃、「話がある」と切り出した。「いまさらで申し訳ない。皆さんがいい、って言ってくれたら、あのガマで手を合わせたい」。吉川さんは「ようやく照屋さんのタイミングが来たのだな」と受け止めた。
慰霊の日を終えた後の夏の日だった。照屋さんは仲間たちとあのガマを訪れた。
意を決したように入り口に近寄るが、すぐに立ち止まる。しばらくして再び歩を進めると、また止まった。
そんな動作を何度か繰り返すと、仲間の男性が照屋さんの手を取り、中へ入った。
「間違いない」。照屋さんはそうつぶやくと、ごつごつとした岩場に膝をつき、嗚咽(おえつ)を漏らした。
90代半ばの元日本兵、照屋さん(仮名)は一通り泣いた後、語り出した。
所属部隊のガマが米軍に見つかったこと。住民が避難していたガマを部隊が使うと決めたこと。ガマには住民がぎゅうぎゅう詰めで、上官が「ここは今から我々が使うから、一人残らず出て行け」と命じたこと。痩せ細って泣く赤ん坊を抱いた母親が照屋さんの足にすがり「お願いです。この子だけは生かして」と叫んだこと。そして照屋さんがその親子を銃で撃ったこと-。
告白の後、参加者全員で線香をたいて手を合わせた。メンバーの一人に「話してくれてありがとう」と声をかけられると、今度は声を上げ、子どものように涙を流した。
帰り際「一人では二度とあの場所に近づけないと思っていたが、みんなが背中を押してくれた」と頭を下げた。「戦争の時にしてしまったことは消えないけれど、供養になれば…」と言葉を継いだ。
照屋さんは1915年、沖縄本島中部で生まれた。厳しい父と優しい母に育てられ、かけっこが得意だった。25歳の時、五つ年下の女性と結婚。生まれた娘には豊かな子に育ってほしいという願いを込め、「トミ」と名付けた。
太平洋戦争で東南アジアの戦地に出兵。「家族を守るため自分の命をささげる」との決意だった。戦争が激しくなった44年、沖縄に配属された。日本軍と県は住民の県外疎開を促していた。照屋さんと入れ替わるように妻と子は船に乗った。
45年8月15日、日本の敗戦を伝える玉音放送を収容所で聞いてうなだれた。ようやく戦争が終わったと実感したが、県外に渡った妻子とは連絡が取れなかった。行き先は聞いていなかった。
2人が長崎に疎開し、原爆で命を落としたことを知ったのは数年後のこと。自分が殺してしまった親子への罪悪感と、心の拠(よ)り所だった家族を失い「生きている価値がない」との絶望感から沖縄を離れたが、仕事の関係で間もなく戻らざるを得なくなった。
それでも故郷の集落には足が向かなかった。手元に1枚だけ残った妻と子の写真は肌身離さず持ち歩き、なるべく人と接しないよう、ひっそり暮らした。
戦時の体験を明かすまで65年。照屋さんと対話を重ねてきた臨床心理士の吉川麻衣子さん(49)は「話したからといって、罪悪感を払拭したいという思いがあったわけでも、自分の行為を正当化したかったわけでもないと思う」と胸の内を推察する。
「照屋さんにとってこの場なら大丈夫と安心して、自分で話せるようになるのに、それだけの時間が必要だった。私はただ待って、機が熟したと本人が感じた時にそっと背中を押すという距離感を保ってきた」と振り返った。(戦後80年取材班・吉田伸)
この記事、読んでいて本当につらかった。
なにより衝撃だったのは、泣き叫ぶ子どもだけでなく、その母親まで撃ったということ。あまりに酷すぎて、もし自分が家族だったら、このおじいさんを絶対に許せないと思った。久米島守備隊の住民虐殺事件など、日本軍の行動を思い出しても、本当にひどい。
きっと、当時の兵士にとって、住民は守るべき存在ではなく、戦闘の妨げになる「障害」と見なされていたのだろう。でも、もしそうだとしたら、一体何のために戦っていたのか? 普通に考えれば疑問に思うはずだ。だが、その「普通に考える」という倫理観は、命の危機にさらされた極限状態では働かなくなってしまうものなのだろう。
一方で、彼は自分の妻子を県外に避難させようとした。冷静な倫理観を失っていなかったともいえる。しかし、妻子は長崎で原爆により命を落とすという皮肉な結果を迎える。「因果応報」という言葉が浮かぶが、亡くなった家族にとってはあまりに残酷すぎる結末だ。
このおじいさんは1915年生まれ。つまり、戦中派(特攻世代)より一回り上の世代にあたる。戦後80年、この世代の体験談を聞ける機会はもはや残されていない。「普通に考えればわかるはずの倫理」が破綻した時代を生きた世代だ。象徴的な人物としては大岡昇平や奥崎謙三、俳優では池辺良。池辺のエッセイには、部下に恨まれた将校が海に放り込まれたエピソードなどがさらっと描かれており、ユーモアを交えて将校時代の下克上が語られている。奥崎は、部下の処刑をめぐって上官を追及したドキュメンタリーで知られる。
第一に、1910年代以前の生まれの「戦争を指導した大人世代」。上官や責任ある立場で戦争に関与し、戦後は沈黙を保って生き延びた人々。戦場で人間性を喪失し、それでも帰ってきた。
第二に、大正末期から昭和一桁生まれの「特攻・戦中派世代」。三島由紀夫、鶴田浩二、吉田満らが代表で、国のためひとのために尽くし、「美しく死ぬこと」に倫理を見出し、ある種過剰に倫理的だった。岡本喜八の映画作品にみられるこうした倫理へのアンチテーゼもまた戦中派の主題となった。
第三に、終戦時に少年期だった「焼け跡世代」。彼ら子供に目には、戦争から帰って沈黙した親たちの世代と国家報恩を信じて裏切られた兄たちの世代間ギャップがみえていたはずだ。
このうち、戦後に戦争体験を最も語ったのは特攻世代だった。戦前派は血塗られた過去に沈黙を貫き、焼け跡派は語れるほどの戦地体験を持たなかった。
特攻世代の特徴は「死の意味」を内面化しようとしたこと。彼らにとっては、「美しく死ぬ」ことで自分の運命を受け入れるしかなかった。その純粋さが戦後の道徳観につながり、吉田満に代表される感性は現代の保守層に理想視されてもいる。
しかしその倫理観には、自己満足や欺瞞が含まれている可能性もある。過去の自分の非を、倫理的になった「現在の自分」が糾弾するかたちには、どこか自己満足と偽善が入り込んでいる。ご都合主義というやつだ。
そして、その倫理観は被害者に対しても危うい。「恨まれて当然のことをした」という構図を強化してしまいかねない。戦場での行為は謝って済む話ではないことがほとんどだ。怨恨は抽象化され、「慰安婦」や「ホロコースト」のように象徴的な言葉として拡散され、世代を超えて敵意の燃料となっていく。
脚本家・橋田壽賀子も戦中派世代。「おしん」に出てくる夫・竜三は、隣組組長として若者たちを戦場に送り出した責任をとって自決する。そこには戦中派の「死によってけじめをつける」という倫理観が濃く反映されている。
死によって責任を取るという倫理のあり方は、戦争中は自分も戦意を煽っておきながら戦後になると民主主義的な道徳を語り始めた知識人の自己批判にも似て、実は同根なのかもしれない。終戦直後、小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。
知識人たちのある種の自己嫌悪に対する小林の態度は考えさせられる。
岸田秀は「ものぐさ精神分析」のなかで、酒を飲んでやらかしてしまった失態を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも「自己嫌悪」とは何かを分析した。倫理的に覚醒した自分がコントロールを失って暴れた自分を自省し、本来の自分は倫理的で、酔って暴れた自分は本来の自分ではなかったという卑怯なポジショニングのもとで成り立っているからだと喝破した。
現代のSNS社会では、こうした加害者の欺瞞的な贖罪を被害者がつけ込む形で、この構造がさらに先鋭化する。加害者には「反省し続ける姿勢」が求められ、被害者には「傷ついたままであること」が期待されてしまう。
ときに「病みアピ」とも呼ばれる行動は、関心を集めるための戦略になりがちだ。弱ったときは周囲が心配してくれ、攻撃されれば誰かが擁護してくれる──そんな「おいしい被害者」のポジションに依存してしまい、自分でも気づかぬうちに抜け出せなくなってしまう。
でも本当に必要なのは、「赦し」なのだと思う。贖罪は再生のきっかけにすぎない。
この記事に描かれた世代は、「死を美化する」戦中派とは違い、倫理的な生き方などできなかった。理不尽で泥臭い体験を抱え、時にはそれを笑いに変えてでも、ぶざまに生きてきた人たちだ。過去の行為を忘れたい、でも忘れられない──その葛藤とともに、不器用に、ぶざまに、しかし確かに生きてきた。
この世代の葛藤を描いだ作品に、山田洋次原作『少年寅次郎』(脚本・岡田惠和)がある。戦地から戻った父が罪悪感から娘の顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。魂が抜けたように無口な毎日を過ごす夫に対して、いつものちゃらんぽらんな性格にもどってほしい、とつぶやく妻のセリフは印象的だ。ひとたび戦場で倫理が破綻してしまった人間に対するまなざしとはそういうものだったのだろう。
これに対して戦中派の苦悩を描いだ作品として、山田太一のドラマ『男たちの旅路』も思い出す。特攻の記憶を引きずる鶴田浩二と、彼に恋する部下を演じた桃井かおり、上司役の池辺良の三者が見せたのは、世代間の倫理観の激突だった。上司役の池辺良が放った「筋を通すな」という一言は、戦中派の倫理観に対する戦前派からの強烈なカウンターだった。山田太一の、戦前派と戦中派の葛藤に対する繊細なまなざしがここに凝縮されている。
記事のおじいさんはまさに沈黙してきた世代だ。生きるために沖縄に戻らざるを得なかったこと、その土地で暮らしたこと、そして65年の沈黙。たった一度の涙より、その沈黙の重さにこそリアリティがある。
「贖罪でも正当化でもない」と吉川さんは言った。語らなかった時間のほうが、語られた言葉よりも重いのだと思う。
私たちは「贖罪の涙」や「被害者のトラウマ」ばかりに注目しがちだが、本当に大事なのは、「赦し」へ向かうゆっくりとしたプロセスだ。
「話してくれてありがとう」と言ってくれるグループの存在。「自分のペースとタイミング」で見守る吉川さんのような人の存在。そのほうがよほど重い。
被害者の側も、いつまでも「被害者であり続ける」ことはできない。
辺見庸の『もの食う人々』では、フィリピンの住民が「日本兵に家族をブタの丸焼きのように食べられた。でももう恨んでいない」と淡々と語った。その表情に、辺見は「悲しんでいる余裕もなく生きてきた強さ」を見たという。
人生って、つらい経験ほど上書き保存、楽しい記憶は名前をつけて保存──本来そうあるべきなのに、振り返ると逆になっていることが多い。
贖罪より、赦しの方がずっと尊く、強い。
人間、図太く生きていたいものだ。戦前派の多くはそうして沈黙を貫いてきた。自分もそうありたいし、あのおじいさんも赦されてほしい。
65年経って懺悔されても──という思いもあるが、戦争が人間性を狂わせるということは、後世の私たちが覚えておけばいい。
山田太一で思い出した「太一」つながりで、昨日は国分太一の番組降板が話題になっていた。あれがどんな問題だったかは知らないが、この記事のおじいさんのことを思えば、本当に取るに足らない騒ぎに思えてしまう。
沖縄戦における日本軍の便衣兵の存在について(学術的観点から)
沖縄戦(1945年3月~6月)は、第二次世界大戦末期における激戦の一つであり、日本軍とアメリカ軍の間で熾烈な戦闘が繰り広げられました。この戦いにおいて、日本軍が「便衣兵」を組織的に運用していたかどうかについて、学術的な議論を整理します。
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便衣兵(guerrilla fighters in civilian clothes) とは、軍服を着用せずに民間人の服装で戦闘行為を行う兵士 を指します。
国際法的には、
ハーグ陸戦条約(1907年) 第1条では、交戦者としての資格を「指揮系統のある部隊が、一定の距離から識別できる標識を有し、武器を公然と携行し、戦争法規を遵守すること」と規定しています。
便衣兵はこれを満たさないため、戦時国際法違反とされ、捕虜としての保護を受けられません。
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沖縄戦に関する主要な学術研究(たとえば吉浜忍『沖縄戦の研究』、戸部良一『日本の敗戦』など)では、日本軍が組織的に便衣兵を運用したという明確な証拠は確認されていません。
沖縄の戦闘は基本的に防衛戦であり、日本軍は地下陣地を利用しながら正規戦を展開していました。
一部の日本兵が軍服を脱ぎ、民間人に紛れる事例はあったものの、これは戦闘行為の継続というよりも逃亡・生存のためであることが多かったとされています。
一方で、日本軍は戦況が悪化するにつれて、散発的なゲリラ戦を展開しました。
「斬り込み戦法」や「夜襲」を行う際に、民間の服装を利用する事例があった可能性は否定できません。
しかし、これは戦術的な便衣兵の運用ではなく、むしろ戦場での混乱の中で生じた事象と考えられます。
沖縄戦では、多くの民間人が日本軍の戦闘行為に協力することを強いられました。
沖縄県民による**「防衛召集」や「義勇兵制度」** によって、学生や一般市民が軍の補助をしました。
鉄血勤皇隊(男子学生)やひめゆり学徒隊(女子学生)は、戦闘支援の役割を担い、場合によっては武装もしていました。
こうした背景の中で、米軍が便衣兵の存在を疑い、民間人を日本兵と誤認するケースが発生しました。
米軍は「便衣兵の可能性がある」と警戒し、民間人を敵対的な存在と見なすことがありました。
その結果、投降しようとした住民が射殺される事件 も発生しました。
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現時点での学術研究では、日本軍が沖縄戦で便衣兵を組織的に運用したという証拠はない というのが主流の見解です。
ゲリラ戦の要素はあったものの、それは軍としての正式な戦術ではなく、戦局の悪化に伴う個々の兵士の行動の範囲 にとどまります。
(2) 住民動員が誤認を招いた
便衣兵の有無に関係なく、沖縄の民間人が戦争に巻き込まれたことは事実であり、その混乱の中で米軍が民間人を便衣兵と誤認するケースが多発した ことが記録されています。
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4. まとめ
1. 日本軍が便衣兵を「組織的」に運用したという証拠はない。
2. 一部の日本兵が軍服を脱いで逃亡を試みたり、ゲリラ戦を行った可能性はあるが、それは個々の行動である。
3. 沖縄住民が動員され、戦闘に巻き込まれた結果、米軍が便衣兵と誤認する事例が発生した。
4. 便衣兵の有無よりも、「住民が戦闘に巻き込まれたこと」が沖縄戦の悲劇として重要な論点である。
沖縄戦の研究は今も進んでおり、新たな資料が出る可能性もありますが、現時点では**「便衣兵の組織的運用はなかったが、一部の個人的な事例や誤認があった」** というのが学術的な結論と言えます。
この前、CBDのベイプを買った帰りに電車乗ってたのよ 水蒸気で煙でないやつね
その日、朝帰りだったから電車が空いてて僕以外に5人くらいしか乗ってなかったんよ
そしたら5mは離れたジジイがつかつかこっちに歩いてきて「車内は禁煙ですよ」とか言ってきた
だからこれは水蒸気で煙ではないこととか、わかりやすく説明してあげたのよ
普通にそこでブチギレて「あなたみたいなのがいるから大麻合法化が進まないんですよ」ってつい叫んじゃったの
感情的になった俺も悪いけどさ、そのタイミングで渋谷について山手線だから人が一気に入ってきたのね
で、ジジイvs俺の構図が続いてるわけ
端っこに座ってる俺とその前に立つジジイ
その周りだけ人がいなくて、聖域のようになってたわけ
でジジイが叫んだんだよね「うるせえ!GHQに言え!!!!!!」
ここで僕はジジイに抱いていた違和感の正体に気づくんだよね。旧日本兵の服着てるのよ
吸ってるのが厳密にはCBDではなくCH-CCHっていうやつで、これ吸ってちょっとポワポワしてたのね※違法ではないから安心して
それで気が付かなかったんだけど、どうもこいつも一癖ありそうだなと。
なぜなら別に吸わないし、繊維として使ってた。それをGHQがきて「大麻とか吸うやろ!違法や!」とか言ってきて政府が必死に交渉して繊維の利用は合法にさせたのよ
そういう歴史があるからジジイは「GHQに文句言え」っていったのね。
そこで僕、いや俺は立ち上がって握手を求めた「日本のために戦ってくれてありがとうございました」
俺身長が187cmなんだけど、日によって身長って30cm上下するやん
で今朝測ったら243cmあって電車に頭ぶつけてたんこぶで来てさ、そのたんこぶが成層圏突破して日本で15万人目の宇宙到達者になれたのが2075年のハイライトかな
っていう嘘松を書くくらいには年末でテンションが上がってる!!!!!!!!!!!
年末って最高😎😎😎😎✋✋✋✋✋✋✋
『虎に翼』がだいぶ残念な感じになってきた。
自然法的な考えの無さそうな主人公(憲法が停止したら人権も停止すると考えてそうなクチ)に対して、「何故人を殺してはいけないのか」と問いかけるキャラ(ラスボスになるのだろうか)は面白かったし、被爆者訴訟についても楽しみなのだが、それらを横に追いやって下らない話ばかりしているように見えて、ドラマとして退屈だ。
かつて野田秀樹が岸田國士戯曲賞の選評で、ある作品についてこう述べた。
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この人のはいつ読んでもとてもイヤーな感じになる。いつもじぶんを正しい所に置いて、他人をやっつける。ニュースステーションのようで私はダメだ。エリートはすべてしょうもない奴、日本兵はすべて悪い奴、常にステレオタイプだ。「ベトコンを扱う米兵のように」という要らぬ形容の卜書きに作家の創作の姿勢が現れている。
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誰の何の作品に対する評なのかはここでは関係ないので触れない。
『虎に翼』でいわゆるリベラル的な主張が展開される時に感じる違和感、もう少し言うと嫌悪感は、上の感覚に似ている。
民法改正で「家族制度」にこだわった保守の論客を、単に頑迷な老人として描いていたのは、単純に卑劣だと感じた。保守は基本的に人間の理性を信頼していないので、だからこそ「家族は互いにたすけ合わなければならない」という一文を入れるのにこだわったのだろうが、そういった保守の考えは全く描かれぬまま、温かい家庭で両親の愛情を浴びまくって育った主人公が「なんでそんな言わずもがなの一文入れるんでしょうね」とぶった斬る。あのシーンは醜悪だった。
同性婚についても触れ始めているが、当然同じ俎上に上げて議論すべき近親婚の不当な禁止については触れようともしない。
絶対に勝てる試合を組んで主人公に戦わせる出来レースをずっと見せられている気持ちになる。
主人公が「自分は永遠に公平な視点など持てるはずがない」という当然の自覚をもっていないのも痛々しい。(現パートナーにかつて助言されたにも関わらず)
連続ドラマなので、上のような疑問や不快感は今後の展開で一掃されることもあるかもしれない。それを期待して見続けてきたが、どうやらそれには応えてくれなさそうな予感が強くなってきた。
私の故郷は、海抜六〇〇メートルの丘陵地に佇む半農半漁の村で、後方は形のよい峯が三つ並び、前方には大きな入江があって多島海に伸び、子供の頃は、その入江で魚つりに興じました。
竹の棒に糸を張った粗末な釣具で、餌もミミズでしたが、満潮の時などは入れたら釣れ、入れたら釣れで、一時間もすれば小鯛などバケツいっぱいになりました。
腹が立つのはフグで、五回に一度はかかり、フグに毒があることは子供にも分かることでしたから、腹立ちまぎれにフグの白い腹を石にこすりつけるとみるみる大きくなり、このガキッとばかりに思い切り石に叩きつけと、パーンという音がして腹が裂け、溜飲を下げました。
私は五人兄弟の次男として畑仕事や魚釣りに勤しんでいましたが、田舎の貧しい暮らしから豊かな生活を夢見て、一足先に日本へ行った八歳年上の兄祥雨を追いかけて◇◇へ来ました。
その時十七歳で、一九三九年でした。兄は布施(東◇◇市)でセルロイド工場を経営し、腕輪やクシを作っていました。
その兄の元へ身を寄せ、普通学校四年を卒業したものの、価値ある社会活動をしていくためにはさらに学が必要だと感じ、向学心に燃えて◇◇・東成区の夜間学校(◇◇商工実務学校)へ通うことにしました。
工場住込の私の仕事はまず、朝五時に起きて無煙炭をおこし、六時半に出勤する職人さんの仕事に間に合うように湯を湧かしておくことでした。
そして、仕事が終わるのは夕方の六時。急いで自転車を走らせ学校へ行き、帰りは一〇時で、それから夕食をとり、深夜の一時過ぎ、二時過ぎまで勉強して、寝るのが連日三、四時間でした。
その死にものぐるいの努力が効を奏して、成績はトップとなり、幸か不幸か、級長をやらされました。
戦時中でしたから、訓練ばかりで、「前へ進め」「全体とまれ」と号令をかけるのが級長の役目でした。
ところが、私は強度の「どもり」でしたから、その号令の文句がなかなか言えず、落ち込んでしまって、《死んでしまおう》と何度線路に寝込んだかわかりません。
星の光が目に入るたびに、《ちょっと待て、死ぬんだったら、もういっぺん努力してみよう》という気持になり、「どもり」の矯正学校を五つも修了して、死ぬほどの努力を重ね、矯正しました。
こうして、《ヤレバデキル、ダメナコトハナイ・・・》の信念を貫いて苦節の日々を克服したことが、大きな自信となりました。
終戦後の一九四八年のことですが、体を悪くして、マイシンの注射を打ったところ、耳に障害が発生し、聞こえなくなってしまいました。
これまた、苦節の日々で、断食をしたり、いろんなことをやってみましたが、完治するまでには至らず、補聴器の世話になる毎日となりました。
ところで、戦争は激しくなり、私も協和会の勤労報国隊に徴用されて、九州の炭坑で二ヶ月ほど働かされました。
石炭を掘って出てきたら顔は真っ黒で、目が辛うじて見え、つらい日々でした。
そうこうするうちに戦争が終わり、兄はそのまま日本に残りましたが、私は里心がついて故郷へ帰りました。
日本兵が釜山の港からどんどん引き揚げて行くさなか、私も小さな船で玄界灘の荒波を掻き分け、決死の覚悟で日本へ戻ってきました。
一九四八年に兄と、資本金二〇万円の◇◇グリップ化工株式会社を設立し、自転車のハンドルグリップをセルロイドで製造し、販売しました。
以来、資材をセルロイドからプラスチックに変え、◆◆◆グリップの普及に努力しました。
その途上、兄を交通事故で失い、私が会社を引き継ぐことになりましたが、中小企業信用保証協会や育成協会からの資金融資は韓国人業者としては第一号だと思います。
一九九〇年に◇◇グリップ化工から◆◆◆技研に社名を変え、現在では日本全国の占有率九〇パーセントを獲得し、一億人以上の人に◆◆◆グリップを握ってもらっています。
私は、金属、木材等で作られている従来の物をプラスチックに代えて作るという物づくりを企業の基本理念の一つにしてきましたから、事業の発展に伴い、グリップの他にも車輪、カゴ、チェインケース、泥除け等、タイヤ以外のものは全てプラスチック化し、その間の特許も数百にのぼって、◆◆◆製品は世界のブランドとなりました。《継続は力なり》の精神で、より精度の高い関連商品の開発に努めています。
一九六〇年頃、日本と韓国との間にはまだ国交はなく公式には往来できない時で、金融機関の祖国産業視察団の一員として、初めて祖国を訪問しました。
懐かしい山河の景色、幼なじみの顔、感激の涙に浸るばかりでした。
その感激もさめやらぬ時、町から一キロも離れていず、一六〇戸もあるわが懐かしい村には電気も水道設備もないことに気づき、昔と変わらぬ貧しい古い部落がそこにありました。
《故郷のために何かしてやりたい》という衝動にかられ、その後、回を重ねて訪問する毎に藁葺きの集会所を二階建の近代的な建物にして
事務所や老人らの憩いの場に使用できるようにし、また、電気架設の資金協力や子供たちの遊び場等も寄贈し、植木やスピーカー等も添えて故郷の人の心を癒やすことに努めました。
人間は誰しも食うがため、生活するがために働き、事業するものだと思いますが、私もご多分に漏れず世間並みの生活を夢見て渡日し、口では言えない苦労と努力を重ね、一応の目的は達したと、自分を顧みています。
これまで、通産大臣や府知事、税務署長などの表彰を受け、韓国政府からも国民勲章冬柏章を受章しましたが、私の企業活動に対� =キる評価だと喜んでいます。
現在、◆◆◆ー技研のグループ企業として◆◆◆販売と韓国◆◆◆があり、◆◆◆技研は私の長男に任せています。
◆◆◆販売は兄の息子が取りしきり、ヘルメットを中心としたオートバイ・スポーツ用品を製造販売し、韓国◆◆◆は弟の息子が社長を務め、スキー・水泳用品を主力としたスポーツ製品を製造・販売し、輸出による外貨を稼いで祖国の経済発展に寄与しています。最近は中国青島にも進出し、六〇〇人ほど雇用しています。
兄の処世訓は《まず、自分自身が立派になり、次に家族の支えなり、その次に身近な社会に貢献する》ということでした。
私は、兄の遺志も引き継いで、家族会を設け、年一回会合を開いて、十親等以内の全学徒に、成績に応じて奨学金を支給しています。
その家族会の会長は私ですが、弟の息子がすべて代行してやってくれています。
いわば、祖国故郷で私の夢を実現してくれる代理人のような存在です。後は、全家門の子孫たちが末永く仲良くしてくれればいいと願うばかりです。
振りかえってみれば、私の人生は苦しいことのみの連続で、喜びや楽しみというものがあっただろうかと思う時がありますが、◆◆◆販売の新社屋落成式(一九八四年)に、私が挨拶をし、息子夫婦、兄の子供夫婦、韓国の甥夫婦を紹介し、その三人を後継者として披露しました。
三人はそれぞれに立派に成長してくれ、私の夢を実現してくれる後継者になってくれたことが人生最大の喜びです。それに子孫たちが、私の喜寿(七十七歳)をニューオオタニホテルで祝ってくれたことも忘れられない喜びです。
外孫まで入れると四十五、六人になりますが、アメリカに行っている七、八人の子孫たちもその日(一九九八年九月一八日)にはみな帰っ� =トきて祝ってくれました。
私たち韓国人は、税金も人一倍納め、社会に貢献しているにもかかわらず、後ろ指をさされる傾向が強いのですが、人間というものは生存競争のなかにあってライバル意識を持ち、自分より事業を大きくやっていたり変わったことを大きくやっていたりすると、ねたみの心が出てきて、あらぬ中傷に走るのではないでしょうか。
私たち韓国人の側にも虐げられたひがみ根性というものが抜けきれないのではないかと思いますが、真面目に生き、社会に貢献していくことが肝心で、価値ある社会人になるためには自分自身が努力し、そのためには人の話を聞くことです。
何か疑問を感じたら、聞くのが一番の近道で、その疑問を解いてくれる人が見つかるまで聞きつづけたらいいのではないでしょうか。聞くことにお金はかかりませんし、それが私の処世訓の一つです。
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そういう当たり前の事をきちんとやりません。
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スパイ防止法とほざく。
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不都合な人士、つまり日本人を守り、外人の謀略の魔の手から守ろうとする
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などと思っていらっしゃるようですが、
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https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904020000/
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ttps://www.amazon.co.jp/山本五十六は生きていた―誰がなぜ歴史の真相を歪曲したか-ヤコブ-モルガン/dp/4887190239
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やけどや傷の手当てをしてくれました。
これが日本兵だったら見捨てられていたでしょう。
日本兵は住民に銃剣を突きつけて『ここは日本軍が使う』と言って、
大切な食料を日本兵に奪われることも珍しくありません。
http://www.asyura2.com/15/warb15/msg/799.html
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推進してるのが自民党=統一教会を中心とする外人優遇勢力だから、です。
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と記されているそうです。
https://twitter.com/teds8888/status/1560617726829215745
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https://twitter.com/soulflowerunion/status/1553317255756529664
笹川良一の運転手をしていたのが維新の松井一郎の父親の松井良夫。
笹川の部下で同じくA級戦犯だった児玉誉士夫の運転手だったのが
ハマコーの運転手をしていたのが「芸能界のドン」バーニング周防。
石元太一を「ヤンキーアイドルオーディション」の審査員にしていたのがエイベックス。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1235072792?fr=pc_tw
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元NGT48山口真帆さん襲撃犯はバーニング役員の子と噂されています。
襲撃犯は釈放されました。山口さんをいまだに誹謗中傷する工作員がいても放置されている。
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むしろ犯人に不都合な人士を虐殺するために「スパイ防止法」という名の
違憲な軍事独裁ファシズム悪法(戦中の治安維持法のような)を作ろうとしているのは
「お花畑」でなければわかりきった事のはずです。