はてなキーワード: 出兵とは
酢か塩
原則的には上から順に辞めていって時間稼ぎし、その間に議会や司法がなんとかする
まず国防長官が辞め、次にが辞め、そこでも止まらなかったら統合軍司令官も辞める
指揮系統上代わりはいくらでもいるが「平時水準の引き継ぎ」を実施してなんとか引き伸ばす
で大統領府側はこれを回避するためにCIAに指揮権のある特殊部隊があったり、
上院で戦時予算案を通さずとも少しだけ動ける仕組みを使って軍を指揮したりする
今回は既に総参謀長は罷免されてトランプ派にすげ替えられてるし、国防長官も犬なので機能しない
結果としてホルジー大将が2ヶ月間の引き継ぎに突入して作戦指揮を掣肘する形になった
ちな合衆国憲法では宣戦は連邦議会の権限で、最高指揮官大統領は戦争遂行の責任者となっている
この記事はけっこう刺さってしまったなあ。このおじいさん2010年当時95歳か。この世代の戦争体験を生の声で聞ける時代は、もう終ってしまったのだなあ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2b0b23e248c99cadd393ab67a11a0a5ce4a6662d
「許してくれ、許してくれ」とガマで泣き崩れた 沖縄戦で母子を撃った90代の元日本兵が謝罪
6/19(木) 6:04配信
元兵士の照屋さん(仮名)が住民をあやめてしまったと告白した時に巡った壕。入り口に生える草は光がさす方に背を伸ばしていた=3月6日、沖縄本島(竹花徹朗撮影)
「私は銃の引き金を引いてしまった。今でも何度も夢に見る。苦しくて、苦しくて。このにおいは間違いなくあの親子のいた場所です」
2010年のある日、沖縄本島内のガマで、照屋さん(仮名)は泣き崩れた。90代半ばの元日本兵。言葉にならないような震えた声で「許してくれ、許してくれ」と何度も謝った。
臨床心理士の吉川麻衣子さん(49)=那覇市=が沖縄戦体験者でつくるグループ「語り合いの場」を立ち上げて5年目だった。
参加の意思があるか、ないか。体験者に繰り返し確認するのが吉川さんの手法だ。
事前面談が21回に及んだ照屋さんは、吉川さんにだけ、自身の過去を打ち明けていた。「みんなの前では語らないけれど、場には参加したい」との相談に、吉川さんは「無理しないで、自分のペースとタイミングを大切にしましょう」と伝えた。
体験者は照屋さんを含め9人。グループは月1回、それぞれの戦争体験で関わりのある場所を巡ったり、公民館で集ったりした。
「私は兵士でした」。照屋さんはそう自己紹介した以外、ほとんど口を開かず、表情も変えずに部屋の隅でじっと座っていた。記憶が残る戦地をどう巡るか意見を出し合った時も、「私にはそういった所はないので、みんなに任せます」と仏頂面だった。
それでも、会を重ねるごとに表情は和らいでいった。吉川さんと出会って6年が過ぎた頃、「話がある」と切り出した。「いまさらで申し訳ない。皆さんがいい、って言ってくれたら、あのガマで手を合わせたい」。吉川さんは「ようやく照屋さんのタイミングが来たのだな」と受け止めた。
慰霊の日を終えた後の夏の日だった。照屋さんは仲間たちとあのガマを訪れた。
意を決したように入り口に近寄るが、すぐに立ち止まる。しばらくして再び歩を進めると、また止まった。
そんな動作を何度か繰り返すと、仲間の男性が照屋さんの手を取り、中へ入った。
「間違いない」。照屋さんはそうつぶやくと、ごつごつとした岩場に膝をつき、嗚咽(おえつ)を漏らした。
90代半ばの元日本兵、照屋さん(仮名)は一通り泣いた後、語り出した。
所属部隊のガマが米軍に見つかったこと。住民が避難していたガマを部隊が使うと決めたこと。ガマには住民がぎゅうぎゅう詰めで、上官が「ここは今から我々が使うから、一人残らず出て行け」と命じたこと。痩せ細って泣く赤ん坊を抱いた母親が照屋さんの足にすがり「お願いです。この子だけは生かして」と叫んだこと。そして照屋さんがその親子を銃で撃ったこと-。
告白の後、参加者全員で線香をたいて手を合わせた。メンバーの一人に「話してくれてありがとう」と声をかけられると、今度は声を上げ、子どものように涙を流した。
帰り際「一人では二度とあの場所に近づけないと思っていたが、みんなが背中を押してくれた」と頭を下げた。「戦争の時にしてしまったことは消えないけれど、供養になれば…」と言葉を継いだ。
照屋さんは1915年、沖縄本島中部で生まれた。厳しい父と優しい母に育てられ、かけっこが得意だった。25歳の時、五つ年下の女性と結婚。生まれた娘には豊かな子に育ってほしいという願いを込め、「トミ」と名付けた。
太平洋戦争で東南アジアの戦地に出兵。「家族を守るため自分の命をささげる」との決意だった。戦争が激しくなった44年、沖縄に配属された。日本軍と県は住民の県外疎開を促していた。照屋さんと入れ替わるように妻と子は船に乗った。
45年8月15日、日本の敗戦を伝える玉音放送を収容所で聞いてうなだれた。ようやく戦争が終わったと実感したが、県外に渡った妻子とは連絡が取れなかった。行き先は聞いていなかった。
2人が長崎に疎開し、原爆で命を落としたことを知ったのは数年後のこと。自分が殺してしまった親子への罪悪感と、心の拠(よ)り所だった家族を失い「生きている価値がない」との絶望感から沖縄を離れたが、仕事の関係で間もなく戻らざるを得なくなった。
それでも故郷の集落には足が向かなかった。手元に1枚だけ残った妻と子の写真は肌身離さず持ち歩き、なるべく人と接しないよう、ひっそり暮らした。
戦時の体験を明かすまで65年。照屋さんと対話を重ねてきた臨床心理士の吉川麻衣子さん(49)は「話したからといって、罪悪感を払拭したいという思いがあったわけでも、自分の行為を正当化したかったわけでもないと思う」と胸の内を推察する。
「照屋さんにとってこの場なら大丈夫と安心して、自分で話せるようになるのに、それだけの時間が必要だった。私はただ待って、機が熟したと本人が感じた時にそっと背中を押すという距離感を保ってきた」と振り返った。(戦後80年取材班・吉田伸)
この記事、読んでいて本当につらかった。
なにより衝撃だったのは、泣き叫ぶ子どもだけでなく、その母親まで撃ったということ。あまりに酷すぎて、もし自分が家族だったら、このおじいさんを絶対に許せないと思った。久米島守備隊の住民虐殺事件など、日本軍の行動を思い出しても、本当にひどい。
きっと、当時の兵士にとって、住民は守るべき存在ではなく、戦闘の妨げになる「障害」と見なされていたのだろう。でも、もしそうだとしたら、一体何のために戦っていたのか? 普通に考えれば疑問に思うはずだ。だが、その「普通に考える」という倫理観は、命の危機にさらされた極限状態では働かなくなってしまうものなのだろう。
一方で、彼は自分の妻子を県外に避難させようとした。冷静な倫理観を失っていなかったともいえる。しかし、妻子は長崎で原爆により命を落とすという皮肉な結果を迎える。「因果応報」という言葉が浮かぶが、亡くなった家族にとってはあまりに残酷すぎる結末だ。
このおじいさんは1915年生まれ。つまり、戦中派(特攻世代)より一回り上の世代にあたる。戦後80年、この世代の体験談を聞ける機会はもはや残されていない。「普通に考えればわかるはずの倫理」が破綻した時代を生きた世代だ。象徴的な人物としては大岡昇平や奥崎謙三、俳優では池辺良。池辺のエッセイには、部下に恨まれた将校が海に放り込まれたエピソードなどがさらっと描かれており、ユーモアを交えて将校時代の下克上が語られている。奥崎は、部下の処刑をめぐって上官を追及したドキュメンタリーで知られる。
第一に、1910年代以前の生まれの「戦争を指導した大人世代」。上官や責任ある立場で戦争に関与し、戦後は沈黙を保って生き延びた人々。戦場で人間性を喪失し、それでも帰ってきた。
第二に、大正末期から昭和一桁生まれの「特攻・戦中派世代」。三島由紀夫、鶴田浩二、吉田満らが代表で、国のためひとのために尽くし、「美しく死ぬこと」に倫理を見出し、ある種過剰に倫理的だった。岡本喜八の映画作品にみられるこうした倫理へのアンチテーゼもまた戦中派の主題となった。
第三に、終戦時に少年期だった「焼け跡世代」。彼ら子供に目には、戦争から帰って沈黙した親たちの世代と国家報恩を信じて裏切られた兄たちの世代間ギャップがみえていたはずだ。
このうち、戦後に戦争体験を最も語ったのは特攻世代だった。戦前派は血塗られた過去に沈黙を貫き、焼け跡派は語れるほどの戦地体験を持たなかった。
特攻世代の特徴は「死の意味」を内面化しようとしたこと。彼らにとっては、「美しく死ぬ」ことで自分の運命を受け入れるしかなかった。その純粋さが戦後の道徳観につながり、吉田満に代表される感性は現代の保守層に理想視されてもいる。
しかしその倫理観には、自己満足や欺瞞が含まれている可能性もある。過去の自分の非を、倫理的になった「現在の自分」が糾弾するかたちには、どこか自己満足と偽善が入り込んでいる。ご都合主義というやつだ。
そして、その倫理観は被害者に対しても危うい。「恨まれて当然のことをした」という構図を強化してしまいかねない。戦場での行為は謝って済む話ではないことがほとんどだ。怨恨は抽象化され、「慰安婦」や「ホロコースト」のように象徴的な言葉として拡散され、世代を超えて敵意の燃料となっていく。
脚本家・橋田壽賀子も戦中派世代。「おしん」に出てくる夫・竜三は、隣組組長として若者たちを戦場に送り出した責任をとって自決する。そこには戦中派の「死によってけじめをつける」という倫理観が濃く反映されている。
死によって責任を取るという倫理のあり方は、戦争中は自分も戦意を煽っておきながら戦後になると民主主義的な道徳を語り始めた知識人の自己批判にも似て、実は同根なのかもしれない。終戦直後、小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。
知識人たちのある種の自己嫌悪に対する小林の態度は考えさせられる。
岸田秀は「ものぐさ精神分析」のなかで、酒を飲んでやらかしてしまった失態を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも「自己嫌悪」とは何かを分析した。倫理的に覚醒した自分がコントロールを失って暴れた自分を自省し、本来の自分は倫理的で、酔って暴れた自分は本来の自分ではなかったという卑怯なポジショニングのもとで成り立っているからだと喝破した。
現代のSNS社会では、こうした加害者の欺瞞的な贖罪を被害者がつけ込む形で、この構造がさらに先鋭化する。加害者には「反省し続ける姿勢」が求められ、被害者には「傷ついたままであること」が期待されてしまう。
ときに「病みアピ」とも呼ばれる行動は、関心を集めるための戦略になりがちだ。弱ったときは周囲が心配してくれ、攻撃されれば誰かが擁護してくれる──そんな「おいしい被害者」のポジションに依存してしまい、自分でも気づかぬうちに抜け出せなくなってしまう。
でも本当に必要なのは、「赦し」なのだと思う。贖罪は再生のきっかけにすぎない。
この記事に描かれた世代は、「死を美化する」戦中派とは違い、倫理的な生き方などできなかった。理不尽で泥臭い体験を抱え、時にはそれを笑いに変えてでも、ぶざまに生きてきた人たちだ。過去の行為を忘れたい、でも忘れられない──その葛藤とともに、不器用に、ぶざまに、しかし確かに生きてきた。
この世代の葛藤を描いだ作品に、山田洋次原作『少年寅次郎』(脚本・岡田惠和)がある。戦地から戻った父が罪悪感から娘の顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。魂が抜けたように無口な毎日を過ごす夫に対して、いつものちゃらんぽらんな性格にもどってほしい、とつぶやく妻のセリフは印象的だ。ひとたび戦場で倫理が破綻してしまった人間に対するまなざしとはそういうものだったのだろう。
これに対して戦中派の苦悩を描いだ作品として、山田太一のドラマ『男たちの旅路』も思い出す。特攻の記憶を引きずる鶴田浩二と、彼に恋する部下を演じた桃井かおり、上司役の池辺良の三者が見せたのは、世代間の倫理観の激突だった。上司役の池辺良が放った「筋を通すな」という一言は、戦中派の倫理観に対する戦前派からの強烈なカウンターだった。山田太一の、戦前派と戦中派の葛藤に対する繊細なまなざしがここに凝縮されている。
記事のおじいさんはまさに沈黙してきた世代だ。生きるために沖縄に戻らざるを得なかったこと、その土地で暮らしたこと、そして65年の沈黙。たった一度の涙より、その沈黙の重さにこそリアリティがある。
「贖罪でも正当化でもない」と吉川さんは言った。語らなかった時間のほうが、語られた言葉よりも重いのだと思う。
私たちは「贖罪の涙」や「被害者のトラウマ」ばかりに注目しがちだが、本当に大事なのは、「赦し」へ向かうゆっくりとしたプロセスだ。
「話してくれてありがとう」と言ってくれるグループの存在。「自分のペースとタイミング」で見守る吉川さんのような人の存在。そのほうがよほど重い。
被害者の側も、いつまでも「被害者であり続ける」ことはできない。
辺見庸の『もの食う人々』では、フィリピンの住民が「日本兵に家族をブタの丸焼きのように食べられた。でももう恨んでいない」と淡々と語った。その表情に、辺見は「悲しんでいる余裕もなく生きてきた強さ」を見たという。
人生って、つらい経験ほど上書き保存、楽しい記憶は名前をつけて保存──本来そうあるべきなのに、振り返ると逆になっていることが多い。
贖罪より、赦しの方がずっと尊く、強い。
人間、図太く生きていたいものだ。戦前派の多くはそうして沈黙を貫いてきた。自分もそうありたいし、あのおじいさんも赦されてほしい。
65年経って懺悔されても──という思いもあるが、戦争が人間性を狂わせるということは、後世の私たちが覚えておけばいい。
山田太一で思い出した「太一」つながりで、昨日は国分太一の番組降板が話題になっていた。あれがどんな問題だったかは知らないが、この記事のおじいさんのことを思えば、本当に取るに足らない騒ぎに思えてしまう。
まず中高大一貫校の関東学院で中学から大学までを過ごしている。
高校での募集は行って居らず、大学の偏差値は40台前半といったところ。所謂F欄。
関東学院大を卒業した進次郎氏は東京大学よりも格式が遥かに高い、ニューヨークのコロンビア大学大学院に入学するのである。コロンビア大はアイビーリーグの一つ、という説明も不必要な程の名門校である事は言うまでもない。日本人留学生の受け入れも多く、明石康氏も同校出身だ。(実は大島てるも出身)
関東学院からコロンビア大学院。すごい努力だ。すごい努力が見える。
しかも知日派、ジャパンウォッチャーとして名高い保守系国際政治学者、ジェラルドカーティスゼミを指名。カーティスに師事した。
卒業後はCSIS(戦略国際問題研究所)の研究員として就職。ここも保守系シンクタンクの名門で、日本などの金融系シンクタンクが分析に留まるのに対して、アメリカの政治に影響を与える力を持つ。ぶっちゃけ、ここが「ここは戦争をした方が良い」と意見を出したら西側諸国は戦争を始めるのである。
そんな世界を動かすトップレベルなところに研究員として就職したのだ。
そしてこれが唯一の職歴だ。エリート中のエリートの仕事、世界を動かす仕事以外した事が無い。因みにCSISは1年で退職した。
関東学院卒なのにこんなすごい経歴なんだが、週刊新潮がそのからくりを説明している。
「小泉進次郎、名門「コロンビア大学院」留学は「特別なプロセス」 関係者が証言」
https://www.dailyshincho.jp/article/2021/08200557/?all=1
つまり、カーティスゼミに入る事を前提に、関係者が色々手を回した。
そのキーマンがマイケル・グリーンであったと。グリーンはジャパンハンドラー(日本転がし/日本の飼い主)の代表的人物だ。ブッシュ政権ではNSC(国家安全保障会議)の日本朝鮮担当部長を務め、その後はCSISで上級顧問日本部長を務めている。日米関係の超重要人物だ。
こうして進次郎氏はコロンビア大学院に入学出来、卒業も出来た。
更にCSISにも入社出来た。マイケル・グリーンが東亜担当部長やってるんだからそりゃ通るし部下として配属されるわな。
新潮の記事ではビクター・チャ氏が骨を折ってくれたと書かれているが、この人は記事にある通りに後にNSCアジア部長となり、トランプ政権ではトランプの北朝鮮限定戦争を抑止した人物である。
なんともすごい人物が続々登場して努力した結果、進次郎氏はコロンビア大→CSISの学歴職歴をゲットした。
CSISで進次郎氏のような人材が必要だったんだろうか?普通に考えたら判るがそんな訳がない。
つまりはコネだ。それまでの自民党総裁は米側の要求はなんだかんだと有耶無耶にして結局日本が大損ならやらないし、吉田茂や角栄を筆頭に憲法9条があるからと再武装を有耶無耶に断って出兵もしないし、経済成長に全振りするから低価格高品質化した日本製品に北米市場を喰われてしまう。米企業には、軍事機密に属する技術のコピーは出来ないという縛りがあるのに、軍事産業が無いという建前の日本は、新技術が軍事技術に属するかとか気にせず、それどころか米軍の装備の実物が無いのに機能だけから脳内逆アッセンブリして応用技術として製品に組み込んでしまう。汚いな、流石日本汚い。
だが小泉純一郎総理は比較的アメリカの要求を聞いてくれるし、革新的であり、その革新さはアメリカのネオコンサバティズムに立脚している。
一般企業で数年以上働いてしまうと、経験と思想のすり合わせが必要だ、とか直線的に目標達成すると周囲の環境を折り込めていない天ぷら的なものを作ってしまって全体としてはコストが余計に掛かったり、パイを縮小させてしまう、といった事を覚えてしまう。
進次郎氏も実質的な「一般的に認識される職歴」というのはゼロなので、全アイデンティティであるコロンビア大→CSISコースをやるしかない。これは歴史と思想とアイデンティティの問題であり、進歩主義の一つである。
ただ、ネオコンサバティブで問題となる、戦争を引き起こす問題は現在封印されてはいる。イラク戦争で大失敗して「change」を旗印にしたオバマ政権が誕生し、色々妨害したがオバマは8年務め、足元の共和党はトランプに塗り替えられてしまって居場所がない。
でもそれ以外のアメリカの要求が来た時に、それが日本の国益を著しく損なわないか、国際社会で受益する以上甘受すべき不利益なのか、Winwinなのか、構造改革なら先行の効果測定結果があるのかという判断はどうせ進次郎には出来ないだろう。
この辺の魂胆は党内でも同じなんだろう。
岸田のように、カルト議員のパージを行うかも?という不安、裏金問題で公正や法治の方に舵を切るのでは?という不安を抱えなくて済む。
顔もいいので国民からの批判も緩む。例えば大阪知事の吉村洋文は株券印刷業と揶揄されるアンジェスの人間をすっかり信用して「大阪の会社が初のワクチンを供給する」と考えてしまい補助金を出した。製薬業に無知過ぎた。するとそれを見たイソジン製造元の営業は怪しい話を吉村に吹き込む→信じて記者会見でイソジン治療法を発表→イソジン爆売れというのをやらかした。明らかに製薬業周辺の知識がない所をつけ込まれているいるのだが、顔がいいのでスルーされてしまった。イケメンはバカを超えるのだ。
これは利用しない手はないな。って事で、イケメン、バカ、純粋培養、社会人経験なし、世襲という条件がたまらなく利用価値があるって事なんだろう。
コネは普通は仕事回して貰えるとかの限定的な利益だが、進次郎さんのコネはもっとスケールが違うので、実質はリモコンだと思われる。
最近、織田信長関連のYouTube動画ばかり見ているが、天正元年(1573年)のスピード感にうっとりと酔いしれてしまっているので、少し語らせてほしい。
大前提として、信長の天下取りのあゆみは、秀吉のそれと比べると結構ぐだぐだしてる。これは、戦国時代の時間の過ぎ去り方というのがそういうものであり、また、何事もそうであるが、物事は趨勢が決まるまでが大変なのであるということしか意味しないが、単純な年月の経過からいえば比較的ゆったりしているのである。
信秀が死去したのが1552年(天文21年)、そこから桶狭間の戦いが1560年(永禄3年)なので、8年が経過している。また桶狭間の戦いのあとの直後のようなイメージのある松平元康との清洲同盟は実は合戦の2年後、美濃平定にはさらに5年を要する。本題の朝倉・浅井関連でいえば、コトの起こりにあたる、信長の越前出兵からの金ヶ崎の撤退戦が1570年4月(元亀元年)で、その2ヶ月後に姉川の合戦で勝利するものの、1573年(天正元年)に至るまで3年以上、朝倉氏浅井氏とは対立を続けている。繰り返すが、織田信長がのんびりしていたわけではなく、それが、俗に言う信長包囲網などの当時の状況における当然の時間の経過である。問題はこの後の経過の早さだ。
天正元年8月8日に、浅井配下の武将が織田方に裏切ったのを契機に小谷城に向けて信長が出兵、救援に来た朝倉軍を4日後の8月12日に小谷城付近で撃破、撤退した朝倉軍を越前まで追撃して、その8日後の8月20日に朝倉義景を自刃に追い込んだ後、とって返して小谷城を攻撃し9月1日までには浅井長政も自刃させている。この間、1ヶ月に満たない。本当にすごい。
もしこれが我が国にも飛び火すれば、、
もう9条なんて言ってられないからこれを機にリベラルを自認する連中を一気に一層できるし
国を守る大義名分があれば国主導で有無を言わさず国民総動員してスムーズに事が進むし、
古き良き日本の魂を蘇らせることができるし
日頃の不満を外国に逸らせるからみんな一致団結して政権支持率上がるから政権も安泰だし
みんなの愛国心が高まってワールドカップ優勝以上の熱狂と高揚感が味わえるし
輸入が厳しくなってエネルギーや食糧不足になるけどそれで苦しんだり出兵で血を流したり空襲で家を焼かれるのは自分等じゃなくてお金ない人たちだから別にいいし
より金が物を言うようになって、ちょっと前より再チャレンジとか逆転とか難しくなったから、今自分等の地位が安泰なら次の世代にも安定してそれを引き継げるし
いいことばっかじゃん
って思ってそう。
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第8巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第8巻 下」
「地球の歩き方 E03 イスタンブールとトルコの大地 2019-2020 【分冊】 1 イスタンブールとその近郊」
「A20 地球の歩き方 スペイン 2024~2025 (地球の歩き方A ヨーロッパ) 」
宮下遼『物語 イスタンブールの歴史-「世界帝都」の1600年』★★★
先月たくさん行ったしこれでOK。
満州国については通史でしか知らなかったので、こうして改めて本で読み返すと得るものが多い。
釘貫亨『日本語の発音はどう変わってきたか 「てふてふ」から「ちょうちょう」へ、音声史の旅』
今井宏平「トルコ現代史 オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで」★★
維羽裕介、北國ばらっど、宮本深礼、吉上 亮「岸辺露伴は叫ばない」
Jam「続 多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。 孤独も悪くない編」
田澤 耕「物語 カタルーニャの歴史 増補版-知られざる地中海帝国の興亡」★
今井むつみ、秋田喜美「言語の本質: ことばはどう生まれ、進化したか」
安藤 寿康 『能力はどのように遺伝するのか 「生まれつき」と「努力」のあいだ』
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第9巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第9巻 下」
旅先の歴史についての本や、旅先でも読めるくらいの軽さの本を読んでいる。岸部露伴は地中海を飛び越える飛行機の中で楽しんだ。
言語学の本を少し含んでいる。
なお、イスタンブールのドルマバフチェ宮殿には美術館が併設されており、そこにも行ったのだが流し見だった。今回の旅行のテーマは絵画ではなく建築だったからだし、軍事博物館のイェニチェリの演奏を聞きたかったからだ。
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 10巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第10巻 下」★★★
下村智恵理「AN-BALANCE:日本非科学紀行 第S4話 露出狂時代」
飯村周平『HSPの心理学: 科学的根拠から理解する「繊細さ」と「生きづらさ」』
きい著、ゆうきゆう監修「しんどい心にさようなら 生きやすくなる55の考え方」。
堀晃 他「Genesis されど星は流れる 創元日本SFアンソロジー」
小川一水 他「Genesis 時間飼ってみた 創元日本SFアンソロジー」
「トルコ共和国建国100周年記念 山田寅次郎展 茶人、トルコと日本をつなぐ」
柞刈湯葉も柴田勝家も一度読んでから「しばらくは読まなくていいかな」と思ってしばらくしてから読みだした。柞刈湯葉は表題作が普段のクールというか知的なアイディアを軽やかに扱う感じではなく、意外な側面に驚かされた。柴田勝家はVtuber文化と死後のアーカイブを肯定的に表現していたのが大変面白い。
ブアレム・サンサルはもう何年も前にWIERD誌が紹介していたので読書メモに載せていたので読んだ。数歩遅れて読むことなどよくあることだ。僕は最先端を追うことにそこまで興味がない。
フレドリック・ブラウン「フレドリック・ブラウンSF短編全集1 星ねずみ」
柴田勝家「ヒト夜の永い夢」
フランチェスコ・ヴァルソ (著), フランチェスカ・T・バルビニ (編集)「ギリシャSF傑作選 ノヴァ・ヘラス」
高水裕一「時間は逆戻りするのか 宇宙から量子まで、可能性のすべて」
フレドリック・ブラウン「フレドリック・ブラウンSF短編全集2 すべての善きベムが」
トーマス・S・マラニー「チャイニーズ・タイプライター 漢字と技術の近代史」★★
SFが多くを占めた。面白いが徐々に飽きてくる。新人賞の作品は読んでいるそのときは面白いんだけど、新しい思考の枠組みや発想に触れて、それが後まで自分に影響を与え続ける作品ってのは少ないのかも。
逆に星新一の源流の一つ、フレドリック・ブラウンなんかは、古びたアイディアと今でも色褪せないアイディアの両方がある。
タイプライターの歴史も面白く感じられた。あとは、純文学が少し恋しい。
他に読みたいのは歴史の本かなあ。それか、第二次世界大戦を舞台とした小説か。「火垂るの墓」とか「野火」とかいい加減に読まないとと思っている。
池田利夫訳・注「堤中納言物語 (笠間文庫―原文&現代語訳シリーズ) 」
フレドリック・ブラウン「フレドリック・ブラウンSF短編全集3 最後の火星人」
成美堂出版編集部「いちばんわかりやすい 家事のきほん大事典」
池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 第10巻「能・狂言/説経節/曾根崎心中/女殺油地獄/菅原伝授手習鑑/義経千本桜/仮名手本忠臣蔵」★
フレドリック・ブラウン「フレドリック・ブラウンSF短編全集4 最初のタイムマシン」
木村光彦「日本統治下の朝鮮 - 統計と実証研究は何を語るか」☆
エリック・H・クライン「B.C. 1177 古代グローバル文明の崩壊」☆
日本語の活字についてや、日本の植民地政策について読み始めたのは、先月の中国語タイプライターの本に、日本製の中国語タイプライターについての記述があったためだ。
楊海英「日本陸軍とモンゴル 興安軍官学校の知られざる戦い」☆
小倉孝保「中世ラテン語の辞書を編む 100年かけてやる仕事」★★
宗美玄(ソン・ミヒョン)「女医が教える 本当に気持ちのいいセックス」★★★
木村泰司「人騒がせな名画たち」
なし
読んだのは全体的に近現代史が多い。
第二次世界大戦についての本は通史を何度か読んだが、テーマごとに読むとまた面白い。歴史は技術史とか思想史とか文学史とかの別の軸で見直さないと立体的に見えてこない。とはいえ、少しは立体的に見えたとしても、知らないことが無数にあり、出来事すべてを頭の中に残しておくのは難しい。歴史は誰と誰が知り合いかとか、活躍した時代以降にどう生きたかがわかってくると更に面白くなるんだろうが、あいにくそこまで行っていない。
12月は当たりが多く、上位3冊を選ぶのに悩んだ。ほぼすべてがオススメ。
来年からは方針を変えて、すべての本を★1つから5つまでの段階で評価してもいいかもしれない。
一年を通してみると、「昆虫記」のウェイトが大きく、それから第二次世界大戦の本を多く読んでいる。それに並んで平安時代、江戸時代などを扱った新書が多い。外国の歴史の本は少ないが、旅先のイスタンブールとバルセロナの歴史を扱った本が印象深い。
SFの新人賞を数年分まとめて追いかけるのが習慣なのだが、もう少し純文学を読みたい。学生は岩波や新潮の古典ばかり読んでいたのにどうしてだろう。
人権関係で読みたい本が多数ある。とはいえ、悲しい気持ちになるので元気のある時にしか読めないし、いつ元気になるかは予測ができない。
ここ最近は美術展に行っていないなと思いきや、振り返るとほぼ毎週行っている月があったので、まとめてみるのは大事だ。秋以降は少なかったが、これは理由がわかっている。
以上。
| 年 | 名称 | 概要 |
|---|---|---|
| 463年 | 吉備氏の乱 | 雄略天皇が吉備田狭の妻を奪ったので、吉備田狭は新羅と結託して反乱を起こしたが、失敗した。 |
| 479年 | 星川皇子の乱 | 雄略天皇と吉備田狭の妻のあいだに生まれた星川皇子が、吉備氏と結託して皇位を奪おうとしたが、誅殺された。 |
| 527年 | 磐井の乱 | 朝鮮半島へ出兵しようとした大和朝廷軍に対し、北九州の豪族である筑紫磐井が反乱を起こしてそれを阻んだが、討伐された。 |
| 587年 | 丁未の乱 | 仏教の布教を巡って、大臣・蘇我馬子と、大連・物部守屋が対立し、戦に発展した。蘇我氏が勝利した。 |
| 645年 | 乙巳の変 | 中大兄皇子・中臣鎌足らが、朝廷を壟断していた蘇我入鹿を暗殺、続いて蘇我氏を粛清した。 |
| 672年 | 壬申の乱 | 天智天皇の後継者争いが発生し、皇太子・大友皇子に対して、天智天皇の弟・大海人皇子が挙兵した。大海人皇子が勝利して天皇となった。 |
| 729年 | 長屋王の変 | 皇族の長屋王に謀反の疑いがかけられて兵が差し向けられ、長屋王は自害した。藤原四兄弟による陰謀とされる。 |
| 740年 | 藤原広嗣の乱 | 藤原四兄弟の死により藤原氏の勢力が退潮し、九州に左遷されて不満を持った藤原広嗣が太宰府で挙兵したが、朝廷軍により討伐された。 |
| 757年 | 橘奈良麻呂の乱 | 橘諸兄の息子・橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂を疎んでクーデターを企てたが、事前に発覚して逮捕され、獄死した。 |
| 764年 | 藤原仲麻呂の乱 | 孝謙上皇と対立した太政大臣・藤原仲麻呂(恵美押勝)が反乱を企図したが失敗、討伐された。 |
| 780年 | 宝亀の乱 | 朝廷に帰順して功績を上げていた蝦夷の族長・伊治呰麻呂が、陸奥按察使・紀広純を殺害して反乱を起こした。 |
| 782年 | 氷上川継の乱 | 天武天皇の曾孫で臣籍降下していた氷上川継が、光仁天皇の崩御に乗じて謀反を企んだが、事前に発覚して流罪となった。 |
| 807年 | 伊予親王の変 | 藤原宗成の謀反計画が判明し、その首謀者の嫌疑をかけられた伊予親王が自死したが、のちに冤罪と認められた。 |
| 810年 | 薬子の変 | 平城上皇と嵯峨天皇の対立が激化し、平城上皇は挙兵を決断するに至ったが、嵯峨天皇が先んじて兵を差し向け、平城上皇は出家した。 |
| 842年 | 承和の変 | 嵯峨上皇の崩御に伴い、皇太子・恒貞親王を擁立する側が謀反人とされて失脚、藤原良房の支持を受ける道康親王が皇太子となった。 |
| 866年 | 応天門の変 | 応天門に放火があり、大納言・伴善男が「左大臣・源信の仕業だ」と告発したが、逆に伴善男が真犯人だとされて流罪になった事件。 |
| 878年 | 元慶の乱 | 長年の苛政に不満を抱いた蝦夷の民が蜂起して秋田城を襲撃した。朝廷の軍はいちど敗れたが、蝦夷を懐柔・慰撫することで鎮圧した。 |
| 889年 | 寛平・延喜東国の乱 | 関東の治安が低下し、群盗の蜂起が相次いだ。その鎮圧に功のあった平高望が勢力を広げ、いわゆる坂東平氏の礎となった。 |
| 901年 | 昌泰の変 | 右大臣・菅原道真が失脚し、大宰府に左遷された事件。左大臣・藤原時平の陰謀だとされる。 |
| 938年 | 天慶の出羽俘囚の乱 | 朝廷に服属していた蝦夷たちが反乱を起こして秋田城を襲撃した。その後の経過は不明。 |
| 939年 | 承平天慶の乱 | 東では坂東平氏の平将門が、西では藤原一族の藤原純友が、ほぼ同時に反乱を起こしたが、朝廷により鎮圧された。 |
| 947年 | 藤原是助の乱 | 伯耆の豪族・藤原是助が、前任の国司だった物部高茂・忠明父子を襲撃した。物部忠明が追討軍を率いて鎮圧したという。 |
| 969年 | 安和の変 | 謀反の計画が密告され、それに関係したと見なされた左大臣・源高明が太宰府に左遷された。藤原氏による陰謀だとされる。 |
| 986年 | 寛和の変 | 皇太子の外祖父であった右大臣・藤原兼家が、孫の即位を早めるために、当代の花山天皇を唆して出家させた事件。 |
| 995年 | 長徳の変 | 「花山法皇が自分の恋人に言い寄っている」と勘違いした藤原伊周が法皇を襲撃して左遷された。政敵の伊周が失脚したことで藤原道長が台頭していく。 |
| 1028年 | 平忠常の乱 | 坂東平氏の有力者だった平忠常が反乱を起こし、三年に渡って争いが続いた。元・主人の源頼信が追討に差し向けられ、忠常は戦わずして降伏した。 |
| 1107年 | 源義親の乱 | 源義家の子である源義親がまず九州、次いで出雲で乱暴狼藉を働いていた。平正盛が追討に向かい鎮圧、のちの伊勢平氏の繁栄のきっかけとなった。 |
| 1113年 | 永久の変 | 千手丸という童子が鳥羽天皇暗殺を企んでいると密告があり、輔仁親王の護持僧・仁寛が首謀者とされ、流罪となった。 |
| 1156年 | 保元の乱 | 後白河天皇・藤原忠通派と、崇徳上皇・藤原頼長派が対立して戦に発展し、後白河天皇派が勝利した。頼長は死に、崇徳上皇は流罪となった。 |
| 1160年 | 平治の乱 | 信西の権勢に反発した藤原信頼・源義朝がクーデターを起こし、信西を死に追いやったが、のちに平清盛に敗れ、信頼は処刑された。 |
| 1180年 | 治承・寿永の乱 | いわゆる源平合戦。平清盛を筆頭とする平氏政権が打倒され、源頼朝によって鎌倉幕府が樹立された。 |
| 1184年 | 三日平氏の乱 | 平氏の都落ちのあと、伊賀の平田家継、伊勢の平信兼・藤原忠清といった平氏残党が蜂起したが、鎌倉軍に鎮圧された。 |
| 1189年 | 大河兼任の乱 | 奥州藤原氏の家臣だった大河兼任が出羽国で反乱を起こし、藤原氏の残党も取り込んで暴れたが、鎌倉幕府の追討軍に敗れた。 |
| 1199年 | 梶原景時の変 | 源頼朝の死後、その腹心だった梶原景時が有力御家人に弾劾されて鎌倉を追放された。のちに謀反を企てたが敗れて一族は滅亡した。 |
| 1201年 | 建仁の乱 | 梶原景時に恩のあった城長茂が京で兵を挙げ、本拠の越後でも城一族が反乱が起こしたが、鎌倉幕府に鎮圧された。 |
| 1203年 | 比企能員の変 | 将軍・源頼家の舅として台頭した比企能員が、政敵の北条一族に謀殺され、比企一族も滅ぼされた。それに反発した頼家も将軍の地位を追われた。 |
| 1203年 | 三日平氏の乱 | 二十年前の三日平氏の乱で敗れた藤原忠清の孫・若菜盛高が再び伊勢・伊賀で反乱を起こしたが、幕府軍を率いる平賀朝雅に鎮圧された。 |
| 1205年 | 畠山重忠の乱 | 平賀朝雅および北条時政の謀略で、彼らと対立していた畠山重忠とその一族が討伐された。直後に時政は失脚し、朝雅も誅殺された。 |
| 1213年 | 泉親衡の乱 | 北条氏打倒の企みが発覚して和田義盛の息子などが捕縛された。首謀者の泉親衡は合戦ののち行方をくらませた。続く和田合戦のきっかけとなった。 |
| 1221年 | 承久の乱 | 後鳥羽上皇が北条義時追討を宣言して挙兵したが、鎌倉幕府はそれを打倒した。後鳥羽上皇は隠岐に配流された。 |
| 1293年 | 平禅門の乱 | 平頼綱は北条氏の執事として権勢を振るったが、その権勢を危ぶんだ執権・北条貞時に討伐された。頼綱とその一族は滅亡した。 |
| 1305年 | 嘉元の乱 | 得宗・北条貞時の命令として北条時村が誅殺されたが、続いて「それは北条宗方による陰謀だった」として宗方が誅殺された。 |
| 1325年 | 安藤氏の乱 | 津軽で起きた蝦夷の反乱と、蝦夷代官・安藤氏のお家騒動が重なり、それを幕府が上手く調停できなかったため内乱に発展した。 |
| 1324年 | 正中の変 | 後醍醐天皇の側近たちが鎌倉幕府打倒を計画したとされ、日野資朝が佐渡へ流罪となった。後醍醐天皇は不問となった。 |
| 1331年 | 元弘の乱 | 後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を計画し、いったんは失敗して隠岐へ配流されたが、その後に盛り返して幕府を滅ぼした。建武新政が開始された。 |
| 1335年 | 中先代の乱 | 最後の得宗・北条高時の息子である北条時行が幕府再興を掲げて挙兵、いったんは鎌倉を占領した。足利尊氏に追討されて時行は逃亡した。 |
| 1336年 | 建武の乱 | 後醍醐天皇と、そこから離反した足利尊氏の戦い。尊氏が勝利して室町幕府が成立するも、後醍醐天皇も吉野に逃れて南北朝時代が始まった。 |
| 1366年 | 貞治の変 | 室町幕府で権勢を振るった斯波高経・斯波義将父子が、周囲の不満の高まりにより失脚した。追討の軍が送られ、斯波氏の領国は没収された。 |
| 1375年 | 水島の変 | 九州に派遣された今川了俊が、同じ北朝の少弐冬資と対立したため、彼を暗殺した。了俊の仕打ちに反発して島津氏や大友氏などが離反した。 |
| 1380年 | 小山氏の乱 | 鎌倉公方・足利氏満と下野守護・小山義政が対立し、小山氏が滅ぼされた戦い。小山義政は自害したが、遺児・若犬丸はその後も抵抗を続けた。 |
| 1387年 | 小田氏の乱 | 常陸の小田氏が小山若犬丸を匿っていたことが発覚、鎌倉公方・足利氏満が小田氏を討伐した。小田氏は降伏し、所領を没収された。 |
| 1389年 | 土岐康行の乱 | 有力守護の弱体化を図る将軍・足利義満が、土岐氏の後継争いにつけこんで当主の土岐康行を討伐した。康行はのちに許されて伊勢守護となった。 |
| 1392年 | 明徳の乱 | 一族で十一カ国の守護となり権勢を誇った山名氏が、将軍・足利義満の挑発に乗って反乱を起こしたが敗れた。山名氏の所領は三カ国まで減らされた。 |
| 1395年 | 田村庄司の乱 | 白河結城氏と対立していた田村庄司氏が反乱を起こし、そこに小山若犬丸が逃げ込んだことで、鎌倉公方・足利氏満が出陣して田村庄司氏を滅ぼした。 |
| 1399年 | 応永の乱 | 六カ国の守護である大内義弘が将軍・足利義満と対立、鎌倉公方と手を結び、土岐氏・山名氏の残党と手を結んで挙兵したが敗れた。義弘は戦死した。 |
| 1411年 | 飛騨の乱 | 飛騨国司・姉小路氏は三家に分裂しており、その内紛から姉小路尹綱が挙兵、幕府の追討軍によって鎮圧された。尹綱は戦死した。 |
| 1413年 | 伊集院頼久の乱 | 島津家の後継者争いをきっかけに、当主・島津久豊と対立した重臣の伊集院頼久が反乱を起こした。一進一退の末に両者は和睦した。 |
| 1416年 | 上杉禅秀の乱 | 関東管領を更迭された上杉氏憲が、諸将を味方につけて鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。幕府が持氏を救援し、氏憲は敗れて自害した。 |
| 1422年 | 小栗満重の乱 | 室町幕府と鎌倉公方が対立するなかで、幕府と結びついた小栗満重などの北関東の武将が、鎌倉公方・足利持氏に対して挙兵したが鎮圧された。 |
| 1423年 | 越後応永の乱 | 室町幕府と鎌倉公方が対立するなかで、幕府側の越後守護・上杉頼方が、鎌倉公方側の守護代・長尾邦景を討伐しようとしたが、邦景が勝利した。 |
| 1429年 | 大和永享の乱 | 幕府との結びつきが強い筒井氏と元・南朝の越智氏の長年の争いが激化し、最終的に室町幕府の追討軍に越智氏は敗れた。 |
| 1438年 | 永享の乱 | 鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の対立から、室町幕府が持氏討伐を決めた。派遣された追討軍に敗れた持氏は自害した。 |
| 1441年 | 嘉吉の乱 | 三カ国の守護である赤松満祐が、酒宴に招いた将軍・足利義教を暗殺した。幕府軍の追討により赤松氏は滅亡した。 |
| 1443年 | 禁闕の変 | 南朝復興を唱える勢力が御所を襲撃し、三種の神器のうち剣と勾玉を奪った。すぐに幕府軍に鎮圧されたが、勾玉は奪われたままとなった。 |
| 1455年 | 享徳の乱 | 足利持氏の息子・成氏により鎌倉公方が復活したが、関東管領との争いも復活してしまい、二十八年にわたって両者が争った。最終的には和睦した。 |
| 1457年 | 蠣崎蔵人の乱 | 陸奥国田名部の領主・蠣崎信純が反乱を起こし、南部氏がそれを鎮圧した。蠣崎信純は北海道に逃れて、のちに勢力を築いた。 |
| 1457年 | 長禄の変 | 赤松再興を目指す赤松氏の遺臣が、禁闕の変で奪われた勾玉を奪還した。その功績により赤松氏は再興を許された。 |
| 1467年 | 応仁の乱 | 畠山氏の跡目争い、斯波氏の家督交代、赤松氏再興、将軍の後継問題などから、東軍・細川勝元と西軍・山名宗全が戦った。東軍有利で和睦に終わった。 |
| 1476年 | 長尾景春の乱 | 関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春が待遇への不満から挙兵したが、太田道灌によって鎮圧された。これをきっかけに享徳の乱も和睦に向かった。 |
| 1479年 | 毛利次郎の乱 | 赤松氏らの支援を得た因幡の国人・毛利貞元などが、山名氏に対して反乱を起こした。鎮圧されたが、国人たちの勢力は保たれた。 |
| 1486年 | 江戸城の乱 | 扇谷上杉氏の当主・上杉定正が、麾下の名将・太田道灌を誅殺、その居城である江戸城を占拠し、道灌の息子の太田資康を追放した。 |
| 1487年 | 長享の乱 | 享徳の乱を経て、関東管領の山内上杉氏とその分家の扇谷上杉氏が対立し、太田道灌誅殺をきっかけに戦乱となった。最終的に扇谷上杉氏が降伏した。 |
| 1487年 | 長享・延徳の乱 | 将軍・足利義尚が自ら軍を率いて近江守護・六角氏の討伐に向かったが陣中で病死した。後を継いだ足利義材が再び六角討伐を行った。 |
| 1489年 | 山名新九郎・小太郎の乱 | 前伯耆守護・山名元之の息子である山名新九郎らが、赤松氏の支援を得て伯耆守護・山名尚之に反乱を起こしたが、鎮圧された。 |
| 1490年 | 佐竹の乱 | 佐竹宗家と以前から断続的に争っていた佐竹庶流・山入氏らが、佐竹義治の死去を機に佐竹氏の本拠を攻撃したが、最終的に山入氏は滅ぼされた。 |
| 1502年 | 伊庭氏の乱 | 長享・延徳の乱の後、近江守護に復帰した六角高頼に対し、近江守護代・伊庭貞隆が二度に渡って出奔・挙兵するが、最終的に鎮圧された。 |
| 1507年 | 永正の乱 | 越後守護代・長尾為景が謀反、越後守護・上杉房能とその兄である関東管領・上杉顕定を敗死させた。関東管領の後継争いから関東を二分する戦いに発展した。 |