はてなキーワード: 厳島神社とは
みんなどこに行くのか知らんけど歩きまくってて、激混みだった
休もうと思っても空いてる椅子がない
仕方ないので持ってきた椅子で休んだ
大屋根リングは圧巻だしそこから見える景色も綺麗で、壊すのはもったいないな
建設費が350億円だし
あんなの作って見れるの今だけだよな
モン・サン・ミシェルと厳島神社を綱で繋いだり
オリーブの木を植えたり
行きたかったな
でも合計10数個のパビリオン回れたし、花火もドローンショーも見れたし満足
食費と交通費くらい
運営費は黒字だと言ってたけど警備費とか建設費とか合わせたら完全に赤字だよな
税金の無駄遣いとは思ったけど、使ってしまったのなら、行かなきゃ損だよな
そんな気持ちで3回行ったよ
50年後ならギリいける気がする
フランス館かな。モン・サン・ミシェルと厳島神社がしめ縄で結ばれてて笑ってしまった
どうしても心苦しく逃げ出したくなったので、仕事を休んで旅をした。
その顛末を話したい。
大学時代、親(同じく学校教員だ)に強く勧められなんとなく教職課程の受講を始めた。
なんとなく高校教員になろうと思っていたが、何の因果か教育実習は中学校に配属された。
実習中は忙しかったものの、生徒が人懐っこくこちらに近づいてくれたことが非常にうれしく、授業以外でも彼らとの交流(体育祭の練習に一緒に参加するなど)に楽しさを覚えた。
これって本当に教員の仕事か?と思えるような事務作業がやたらと多かった。
また、「校務分掌」という名目でやたらと多くの業務が割り振られた。日本は年寄りは何でもありの価値観が蔓延しており、年齢の低い私には特に業務が集中した。
これらの業務は事務職員の仕事ではないらしい。事務補佐員は人数が少なく短時間しかいない。また、個人情報を含むものの取り扱いができないため依頼できることがほとんどない。
やっと作業が終わり(もちろん時間外)ヘトヘトになったところで始めるほかなかった。
建前では休憩時間はあるらしいが、その時間も業務が振ってきて休むこともできず。
おまけに最近はアクティブラーニングやICTの重要性が叫ばれており、授業の事前及び当日の準備はそれどころではない大変さがあった。
それでも、教育実習の時と変わらず、コミュ障の私に偏見を持たず純粋な心で関わって、笑顔を見せてくれる生徒たち(教室に来れない生徒にも)に元気づけられていた。
体育祭は大嫌いで、私は自チームを応援する気は起きなかった(自チームカラーの服を着ている先生が目立ったが、私はどのチームにも関係ない色のものを着ていた)が、練習は一緒に楽しんだ。
生徒に交じって競技を楽しむのもまた一興。一緒に生徒の中に混ざるだけで生徒は喜んでくれた。
授業はただ真面目にやるのではなく、時にネタを入れると生徒が反応してくれてうれしかった。
アイマス(担当アイドルの話とか)をはじめとしたソシャゲネタ、鉄道ネタ、自虐ネタ、淫夢ネタにちょっと不謹慎なネタなどを入れるだけで笑いが取れた。
定期テストも、かなり完璧主義的に作ったにもかかわらず、その結果を見て教えたことをしっかり身に付けてくれたこともうれしかった。
しかし、どうしても大変なことは大変で、それが私を疲弊させた。
例えば、生徒の失くしもの(学校からの貸与品)の捜索を命令され、どうしても見つからず教頭に報告すると「知るか、自分で何とかしろ」の一点張りで取り付く島もない。
なければ学校に余りはありますか、それとも購入は可能ですか、と聞くと「お前さぁ、それ教育者としてやることか!?」と怒鳴られた。
また、目標申告書(全国でやっている)で下っ端は記入不要の項目も「制度上は記入義務はないがみんなやっている」と強制された。
(余談だが、記入例に不登校生徒減少の話があったが、なぜ不登校は生徒自身の選択なのにそれを無視して無理やり連れだす必要があるのか、それが原因で自殺されたら本末転倒ではと思った)
まあいいやこんなこともあると思いつつ耐えていたが、こんな出来事があり、ついに限界が来た。
生徒が下校した後、いつも通り雑用に追われていたが、なぜか隣の校舎の窓に火が見えた。
他の先生方に相談したところ、無関係な私が急行するよう言われた。するとなぜか鍵が閉まっていた。
鍵を開けると、面識のない生徒数人がおり、その隣には火柱が上がっていた。
どうやら裏側から侵入して火遊びをしていたらしいが、すぐに水をかけ消火した。
事情を聴くと「これは作業だ」「面倒だから仕方ない」「効率的だからやっている」と。
今後こういったことはやめるよう言えば「燃料は自腹だ。100円の自腹がもったいない」と反論。さすがにこちらもキレて「命と100円どちらが大事なんだ」と言って無理やりやめさせた。
重大事案なので当該生徒が在籍する学年に報告すると、ある先生は「あー…最悪のメンバーがそろってる」と。
管理職に報告するとこちらの責任のあることではないのにやはり怒鳴られた。「どうするか自分で考えろ」「早くしろ」とわけのわからないことを言われ。
教頭から「怒るのはあなたを信頼して成長してほしいからだ」と言われたが、(わざわざ応募して選考を突破した)管理職と下っ端は意欲が違うし、成長したくないので信頼せず放置してくれと思う。
校長は「生徒の失敗を大目に見たらどうか」と状況を理解せず、面倒をこちらに丸投げする発言。
なぜ私だけこんな目に遭わなければいけないんだと思った。
気づくと、どうすればこんなことから解放されるだろうと思い色々検索していた。
隣の先生にこれを見られ、「行動に出る前に管理職に相談した方がいい」「教頭は口調がきついから真に受けないほうがいい」「私も色々失敗した」などといろいろ慰めの言葉をくれた。
私と同時に着任した先生などにも相談に乗ってくれた。「あなたは完璧を目指そうとしてたんだ。60点でいいのでは」とも言ってくれた。
また、該当生徒の指導はその生徒が在籍する学年に依頼できることになり、非常に助かった。
何もかもやる気を失った。大好きな曲を聴いても拒否反応がすごかった。
テレビをつけると、時代劇の切腹シーンが出てきてますます気分が沈んだ。
通勤途中に外国人観光客を見ると、なぜ日本人だけ労働に苦しまなければいけないのかと思った。私も自由気ままに旅行したいのに。
(日本は労働法規に甘く、バカンスもなく権利行使がしにくい、下手すると同じ立場の労働者が権利行使を妨げてくるのはなぜだろうか。一説には資源の少なさと正社員制度が原因だというが…)
その後の数日、外出したいとも思わなかった。
そういえば、今までも出勤できていたものの、疲れというかなんとなく休み明け出勤したくない気分になることがしばしばあった気がする。
しかし今回はその気持ちが特に強かった。そんななか、ベッドの上のぬいぐるみが私に話しかけてきた。
渋谷凛「もう休めば。疲れてるでしょ」
島村卯月「早く休まないと…大変です!」
本田未央「よく頑張ったねプロデューサー。思い切って休んじゃお!」
あれ、苦しいときは休めばいいんじゃね?なんでこんな簡単なこと思いつかなかったんだろう。
今まではこんなこと考えつかなかったが、思いついた途端肩の荷が一気に下りた気がして、気がすごく楽になった。
そういえば、小学校の頃の私は皆勤至上主義で、ひどい風邪でも登校していた。
高校でそのおかしさに気づき少しでも体調が悪ければ欠席するようになったのだが、なんでこの解決法を忘れてしまったんだろう。
だが、この計画は勤務校はもちろん、何かの機会で口外するリスクのある同僚には当然言えない。
一見仲間にも見える両親にも口外してはならない。
母親は祖父(母方の曾祖父)が職を失いつまらなそうにしていたのを見て、仕事があることが素晴らしい、働かせていただいていると思うようになったそう。
つまり、「クビになりそう」→「ならないようにどんなことでもする」という感覚の持ち主だ。
父親は偉そうに上司にも独りよがりなイデオロギービジネスマンとしての心構えを力説していたらしい(それで啖呵を切って職を転々としていたらしいが)。
「自分の思い通りにならない、またはその仕事の責任を120%果たせないなら辞めるべき」と思っているらしい。
その日は特別な準備を要する授業や前述の生徒の指導も予定されており、休んだら迷惑かと思ったが、どうでもよくなっていた。
となると、どのような手段で休もうか。
休むのは電話すればいいのは知っているが、真っ暗な家で引きこもっても体調回復は絶望的だろうと思った。
じゃあ逃避行してしまおう。せっかくだし最近行っていない江ノ島に行こう。
ふと気になった。この休みはどういった扱いになるのだろうか。休暇の一覧表をみると、「病気休暇」があった。
利用条件は「ケガや病気で勤務できないとき」とのことだが、「病気」の詳しい定義がない。
ということは、「精神的に辛く体調がすぐれない」(これが悪化したものが「うつ病」「適応障害」などの精神疾患)も問題ないはずだ。
日数でいろいろ条件も変わるらしいが、今回の場合はまずは電話一本で、正式な手続きは出勤できてからで問題ないらしい。
ところで、病気休暇を取得している期間は病気の療養に専念しなければならない。
逃避行で精神の不調が回復するのならそれも療養であるから問題なく、むしろ進んで行わなければならない。
病気休暇が使えないなら年次有給休暇の利用、それもダメなら(給与が減るが)欠勤扱いでもよい。いずれも無断欠勤よりずっとマシだ。
今日は出勤しなくていいんだ。そういうつもりで髭剃りと歯磨き、自宅の風呂掃除とトイレ掃除を念入りに。
教員の労働環境のブラックさが世に知られ叩かれ出したことから、働き方改革の一環で電話は始業時間までつながらない。
始業後に連絡すると迷惑だろうから、自分が所属する学年団への連絡手段(こちらは連絡時間の制限は特にない)があったので、先にそちらに体調不良の旨連絡した。
学年団の先生方(原因となった出来事を直接は知らない人含め)は「ゆっくり休め」と言ってくれた。
「次の日も厳しいかもしれない」と続けて言えば、「好きなことをしてしっかりとリフレッシュしなさい」とも。事情を知っているのかな?
元気のない声で、やる気を出そうにも空回りしている雰囲気を出した。
何の問題もなく休暇が取れた。休暇届提出は次回の出勤日でいいらしい(説明もその時するから急ぐなとのこと)。
混雑したバスが来るいつもと変わりないバス停。そこに私はとてもラフな出で立ちでいた。
家を出発する際は、勤務するときと同等の服装だったが、バス停近くの隠れられる場所で着替えた。
・本田未央ちゃんのフルグラフィックTシャツ(二次元コスパ)を着てアロハシャツを羽織り
・本田未央ちゃんの腕時計(キャラアニ。スーパーグルーピーズじゃないよ)を左腕に
・本田未央ちゃん、渋谷凛ちゃん、島村卯月ちゃんのぬいぐるみをカバンにしまい
・八宮めぐるちゃんやライブ(空は澄み、今を越えて。他)記念のキーホルダーをカバンに付けた。
どうだ、カッコイイだろ。
普段の通勤と時間があまり変わらないので混雑がストレスになるのは変わらない。
まあすぐに解放されるしいいか、と思っているうちに新宿駅に着いた。
ATMでお金を引き出し、藤沢までの切符とロマンスカーの指定券を購入(本当は特急券不要の快速急行でもよいのだが、せっかくなので…)。
江ノ島方面のロマンスカーは夕方までないとのことなので、相模大野で普通電車に乗り換えることにした。
横断歩道で信号待ちをしていると、知らない人からサイエントロジーとかいう宗教団体のチラシをもらった。すぐ捨てた。
コンビニで酒(ほろよい桃味)とつまみを買ってから(車内は)滅多に人が来ないところなんで、そこでしこたま酒を飲んでから(デレステを)やり始めたんや。
飽きたので、Amazonで大崎甜花ちゃんのフルグラフィックTシャツをポチっと購入。送料込みで7,321円也。
小田急線を乗り通すのは15年ぶりだ。複々線区間が代々木上原~向ヶ丘遊園まで伸び、列車種別構成の大きな変更があり、準急が緩行線を走行するようになったらしい。
藤沢に着いた。片瀬江ノ島まで行っても江ノ電を使ってもよかったが、せっかくなので大船まで戻る。
乗り換え専用改札があった。こういう改札は利用区間が制限されないICカードでしか通行できないものだが、聞いてみるとICカードとここまでの切符の組でも通れるという。
ここまでの切符を入れ、すばやくICカードをタッチすれば通行できた。ちなみに、新幹線乗り換え口でも似たようなことができるらしい(クレジットカードやEX-ICは不要)。
ここからは神奈川のジェットコースターとも評される、湘南モノレールに乗車。
強烈な地響きとともに列車が入線。駅壊れるぞ。
大船を出たばかりなのに猛スピード。おい、右に葬儀場があるぞ。車両は棺桶じゃないぞ。
思ったほど揺れなかったが、心配なのは走行高度が低すぎる点だ。大型路線バスとかぶつかるのでは。
湘南深沢から先はさらに本気を出した。70-80 km/hは出したか。これに匹敵するのは東京モノレールの一部区間(昭和島付近)だけだ。
15分程度で終点の湘南江の島に到着。テラスでアイドルたちと記念撮影。
そのまま南に歩き、湘南海岸公園に。やることがないので近くの岩場で昼寝。
雲が動き日差しがまぶしいので、目隠しをした。時に涼しく時に熱くなるがこれが気持ちいい。
1時間ほど寝たら、桟橋の方を覗いてから15年ぶりに新江ノ島水族館へ。
岩場を歩いたり、飛び込み泳ぐペンギンさんが人間の言葉を話せたら何を言うのか、不謹慎なセリフを考えると非常に面白い。
最後に物販店でくじ引き。2等が当たり、店員さんがハンドベルを鳴らした。後ろから拍手。恥ずかしいだろ。
江ノ島にも行った。
恋人同士が鳴らす鐘らしきものの前で、本田未央ちゃんと一緒に記念撮影。
気づかず徒歩で戻ったのだが、どうやら船で江ノ島大橋のところまで帰れたらしい。
時間が足りず、江ノ島シーキャンドルやそのまわりの施設群、しらす丼は手付かずだった。また今度行った時味わおう。
江ノ電は意外にもVISAのタッチ決済による運賃収受を行っているらしい(決済端末は改札内なので、一部改札は不正通行検知装置を切っている)。
日本の改札は専用の券を駅などで購入し、機械に通す方式を取っており、欧州で一般的なQRコード付きの切符を任意の場所で印刷して通行するようにするのは難しいとのこと。
そこでVISAのタッチ決済による運賃収受が導入されたが、おそらく江ノ電は日本で2-3番目あたりには早く導入したかと思う。
本田未央「今日は楽しかったね!ねぇねぇ、明日も一緒にどっか行こうよぉ!」
勤務校と学年団に連絡した。2回目なので良心の呵責は全くない。
電話は教頭ではなく事務職員が取るため、こちらの事情は知らない。「はい分かりました」で終わり。
そこで、今日はアロハシャツの下には乙倉悠貴ちゃんのTシャツを。
いつものバス停に行く途中、ネームホルダーが落ちていた。手に取って見ると近くの幼稚園のものだと分かった。
グーグルマップでその幼稚園の電話番号を調べ電話をかけると、「どこに落ちていたのですか」と聞かれた。近いので「そちらに持っていきます」と伝えすぐに向かった。
その幼稚園に着くと、ちょうど登園時間とかぶっており保護者が子供を預けに来ていた。
乙倉悠貴ちゃんのTシャツ丸出しの男はロリコン扱い間違いなしなので、アロハシャツのボタンを閉めて事務室へ。
対応した職員さんは、電話に出た人とは別のようだが、「これ落ちてました」と言えば「ありがとうございます」で終わり。さっさと退散。
暑いので路地裏に入って下着を脱ぐ。肌の上に直接乙倉悠貴ちゃんがくっついてきて興奮する。
昨日歩きすぎたのか、右足小指に水ぶくれが。
昨日よりかは早いが、それでもまた出発が遅れてしまった。
今日もバスと電車を乗り継いで新宿へ。今日は小田原方面に向かうのでロマンスカーも多く走っている。
なんと小田急の自動券売機はクレジットカードに対応していた。箱根湯本までの切符と特急券を買うと、なぜか乗車券は小田原→箱根湯本のものしか出てこなかった。
小田急の改札は切符を2枚重ねで投入できるが3枚重ねはできず、しかたなく新宿→小田原の切符と特急券を投入。箱根湯本到着後有人改札で事情を話すことにした。
今日もセブンイレブンに行き酒とつまみを買い乗車。今日は酒2本(ほろよい桃味とぶどう味)。
電子レンジによる加熱が必要だが温め忘れてしまったものがあった。まぁ生で食べて腹を壊せば休みを伸ばせて都合がいい。
車内でつまみを全部食べ終わってから Permalink | 記事への反応(12) | 13:12
そこに厳島神社があるじゃろ
G7が終わった。
広島県民ならわかっていて、他の県民にはわかっていない情報を共有せねばならない。
「何故、厳島神社の集合写真で、フランス大統領マクロンは所定位置からズレたのか」問題である。
厳島神社の最強映えスポットにして、最高にアイコニックな場所は、当然海に浮かぶ鳥居。みんな知っている。
今回、日本の岸田大統領を中心に各国代表が、鳥居、海、山をフレームに入れて撮影したのも当然である。
だが、その時、マクロンはズレた。1メートルほど、何故かズレたのである。
何故か。
答えは簡単。
山にぶっ建っているのだ。ヤバげな御殿が。
都会の人間たちも、知ってほしい。そういうものが、大統領すら動かしてしまうくらい、侵食していることを。
敵は統一だけではない。
増田の蛮勇には敬意を表したいが、さすがに突っ込みどころが多すぎる。
同種の百選としては2005年の新建築・臨時増刊『日本の建築空間』(asin:B00GUJ1HIE)がある。
https://japan-architect.co.jp/shop/special-issues/book-110511/
2005年なので現存しないものや非公開の私邸が含まれるけれども、優れた選出だと思うので紹介したい。
■古代 592-1180
| 法隆寺西院伽藍 | 飛鳥時代 | 奈良 |
| 新薬師寺本堂 | 奈良時代末期 | 奈良 |
| 榮山寺八角堂 | 763年 | 奈良 |
| 平等院鳳凰堂 | 1053年 | 京都 |
| 浄瑠璃寺本堂 | 1107年 | 京都 |
| 三仏寺投入堂(三仏寺奥院) | 平安時代後期 | 鳥取 |
| 高蔵寺阿弥陀堂 | 1177年 | 宮城 |
■中世 1180-1543
| 浄土寺浄土堂 | 1194年 | 兵庫 |
| 東大寺南大門 | 1199年 | 奈良 |
| 長寿寺本堂 | 鎌倉時代初期 | 滋賀 |
| 西明寺本堂 | 鎌倉時代初期 | 滋賀 |
| 熊野神社長床 | 鎌倉時代初期 | 福島 |
| 法界寺阿弥陀堂 | 鎌倉時代初期 | 京都 |
| 厳島神社社殿 | 1241年 | 広島 |
| 永保寺開山堂 | 1352年 | 岐阜 |
| 東福寺龍吟庵方丈 | 1387年 | 京都 |
| 正福寺地蔵堂 | 1407年 | 東京 |
| 吉備津神社本殿・拝殿 | 1425年 | 岡山 |
| 慈照寺東求堂 | 1485年 | 京都 |
■近世 1543-1853
| 妙喜庵待庵 | 1581年 | 京都 |
| 園城寺勧学院客殿 | 1600年 | 滋賀 |
| 園城寺光浄院客殿 | 1601年 | 滋賀 |
| 妙法院庫裏 | 1604年 | 京都 |
| 大崎八幡宮本殿・石の間・拝殿 | 1607年 | 宮城 |
| 三渓園聴秋閣 | 1623年 | 神奈川 |
| 二条城二の丸御殿 | 1626年 | 京都 |
| 西本願寺飛雲閣 | 1628年 | 京都 |
| 西本願寺書院 | 1633年 | 京都 |
| 延暦寺根本中堂 | 1640年(再建) | 滋賀 |
| 三渓園臨春閣 | 1649年 | 神奈川 |
| 曼殊院書院 | 1656年 | 京都 |
| 桂離宮 | 1663年 | 京都 |
| 慈光院書院 | 1672年 | 奈良 |
| 江川家住宅 | 江戸時代前期 | 静岡 |
| 閑谷学校講堂 | 1701年 | 岡山 |
| 東大寺大仏殿(東大寺金堂) | 1705年(再建) | 奈良 |
| 大峰山寺本堂 | 1706年 | 奈良 |
| 大国家住宅 | 1760年 | 岡山 |
| 岡山後楽園流店 | 江戸時代後期 | 岡山 |
| 栗林公園掬月亭 | 江戸時代後期 | 香川 |
| 角屋 | 1787年 | 京都 |
| さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂) | 1796年 | 福島 |
| 大徳寺孤篷庵忘筌 | 1799年 | 京都 |
| 渡邉家住宅 | 1817年 | 新潟 |
| 羽黒山三神合祭殿 | 1818年 | 山形 |
| 旧高野家住宅 | 江戸時代後期 | 山梨 |
| 旧金比羅大芝居(金丸座) | 1835年 | 香川 |
| 岩根沢三山神社本殿・庫裏 | 1841年 | 山形 |
| 柏倉家住宅座敷蔵 | 1866年 | 山形 | |
| 旧大明寺聖パウロ教会堂 | 1879年 | 愛知 | ブレル、大渡伊勢吉(棟梁) |
| 宝山寺獅子閣 | 1882年 | 奈良 | 吉村松太郎(棟梁) |
| 旧風間家住宅 | 1896年 | 山形 | |
| 旧武徳殿 | 1899年 | 京都 | 松室重光 |
| 旧花田家番屋 | 1905年 | 北海道 | |
| 吉島家住宅 | 1907年 | 岐阜 | 西田伊三郎ほか(棟梁) |
| 古谿荘 | 1909年 | 静岡 | |
| 高松城披雲閣 | 1917年 | 香川 | 清水組 |
| 住友ビルディング | 1926年 | 大阪 | 住友合資会社工作部(長谷部鋭吉・竹腰健造) |
| 聴竹居 | 1927年 | 京都 | 藤井厚二 |
| 旧大倉精神文化研究所本館 | 1932年 | 神奈川 | 長野宇平治 |
| 軽井沢 夏の家 | 1933年 | 長野 | アントニン・レーモンド |
| ※両関第二工場酒蔵 | 1933年 | 秋田 | |
| 旧日向別邸 | 1936年 | 静岡 | ブルーノ・タウト |
| 近江神宮 | 1940年 | 滋賀 | 角南隆、谷重雄 |
| 旧前川國男邸 | 1941年 | 東京 | 前川國男 |
| 旧吉田五十八邸 | 1944年 | 神奈川 | 吉田五十八 |
| 神奈川県立近代美術館 | 1951年 | 神奈川 | 坂倉準三 |
| 斎藤助教授の家 | 1952年 | 東京 | 清家清 |
| コアのあるH氏のすまい | 1953年 | 東京 | 増沢洵 |
| 南台の家(吉村順三邸) | 1957年 | 東京 | 吉村順三 |
| 八幡浜市立日土小学校 | 1956年 | 愛媛 | 松村正恒 |
| 香川県庁舎 | 1958年 | 香川 | 丹下健三 |
| スカイハウス(菊竹清訓邸) | 1958年 | 東京 | 菊竹清訓 |
| ※ホテルオークラのメインロビー | 1962年 | 東京 | 谷口吉郎 |
| 日本生命日比谷ビル(日生劇場) | 1963年 | 東京 | 村野藤吾 |
| 国立屋内総合競技場 | 1964年 | 東京 | 丹下健三 |
| 大学セミナー・ハウス | 1965年 | 東京 | 吉阪隆正 |
| 旧千代田生命本社ビル | 1966年 | 東京 | 村野藤吾 |
| 白の家 | 1966年 | 東京 | 篠原一男 |
| 塔の家(東孝光邸) | 1966年 | 東京 | 東孝光 |
| ※虚白庵(白井晟一邸) | 1970年 | 東京 | 白井晟一 |
| KIH7004 | 1970年 | 東京 | 鈴木恂 |
| 中銀カプセルタワービル | 1972年 | 東京 | 黒川紀章 |
| ※大分県医師会新館 | 1972年 | 大分 | 磯崎新 |
| ※プロジェクトマグネット | 1973年 | 店舗模型 | 倉俣史朗 |
| 阿部勤邸 | 1974年 | 埼玉 | 阿部勤 |
| 北九州市立中央図書館 | 1974年 | 福岡 | 磯崎新 |
| 幻庵 | 1975年 | 愛知 | 石山修武 |
| 上原通りの住宅 | 1976年 | 東京 | 篠原一男 |
| ※中野本町の家 | 1976年 | 東京 | 伊東豊雄 |
| 小篠邸 | 1981年 | 兵庫 | 安藤忠雄 |
| 弘前市斎場 | 1984年 | 青森 | 前川國男 |
| SPIRAL | 1985年 | 東京 | 槇文彦 |
| ※バーオブローモフ | 1989年 | 福岡 | 倉俣史朗 |
| 海の博物館 | 1992年 | 三重 | 内藤廣 |
| 豊田市美術館 | 1995年 | 愛知 | 谷口吉生 |
| ウィークエンドハウス | 1998年 | 群馬 | 西沢立衛 |
| せんだいメディアテーク | 2000年 | 宮城 | 伊東豊雄 |
| 横浜港大さん橋国際旅客ターミナル | 2002年 | 神奈川 | アレハンドロ・ザエラ・ポロ、ファーッシド・ムサヴィ |
| 金沢21世紀美術館 | 2004年 | 石川 | 妹島和世、西沢立衛 |
子供の頃の自分は大英博物館のことをダイエー博物館だと思っていた。その後多少なりとも知識を付け、セゾングループが展開している文化活動やサントリー美術館のようなものなのだとより確信を深めていった。
大学4年の頃、友達と卒業旅行で広島に行く機会があった。新幹線で広島に行き、そこからトロッコで原爆ドームなどを回り、厳島神社で牡蠣を食べた。帰りの新幹線で「社会人になってお金を貯めたら海外旅行に行こう」という話になり、その中で友人の1人が行き先にあげたのが大英博物館だった。「福岡か〜」と反応すると友人は不思議な顔をしていた。後で知ったのだが、ダイエーの本社は福岡ではなく兵庫らしい。その頃の自分は福岡ダイエーホークスの先入観でダイエー博物館は福岡にあるのだと信じ込んでいた。それからしばらくして、東北の復興ボランティアで
とうらぶとは刀剣乱舞の略であり、この度五周年を迎えて半年ほどたったソシャゲ系列ではそこそこ長生きしているジャンルである。
長生きできるソシャゲだ、さぞかしゲームも素晴らしいのだろう。といえば全然そんなことはない。クソゲーだ。クソゲー以外の何者でもない。
レア度があれどレベリングすれば低レベでも十分戦えるしまず戦うというかほぼ全てオートだ。画面ぽちぽちゲー。
イベントも五年前に実装されたイベントから増えたものはほぼない。強いて言うならノルマが上がった。くっっっっそだるいだけだ。特命調査という新イベもできたが賽子振って進んで敵を倒すだけで今までと大きく変わったことは一切ない。
では何故五年もサ終せずにあるのか?
刀剣という性質上、現存していれば刀を展示すればコラボを作れる。アニメは二作品、ミュージカルと舞台はそれぞれ大々的に行われている。映画化もされた。
紅白も厳島神社も日本博も東京ドームの大演練も全部てんごである。
私はてんごが苦手だ。
映画で初めててんごに触れ、ステに足を踏み入れた。
ステはどうにか見てたが今回のステは関東住みでもないので諦めたらなんだかどうでもよくなった。
ミュはミュージカルという音楽要素が苦手なので一挙配信で一通り見た以上には見ていない。内容もうろ覚えである。
けれど、本丸に帰れば私の推したちが本丸にいるし気にしていなかった。ステミュ両方とある本丸の話でうちの本丸は関係ない。
私の課金はてんごのコネを使うために行ったものじゃない。新ボイスやゲーム性向上、新規イラストなどそういうものに求めたのであって上層部おぢさんの自己満ユーミンのために課金したんじゃない。
こういうのに埋め込むと怒られそうなので問題あったら消すので叫んでほしいんだけど、私の思いはここにある(私のツイートではない)。
https://twitter.com/bunbun9922s/status/1293154129477435393?s=21
そしてそれについてた反論がコレだ。
https://twitter.com/abetachibana/status/1293181893265915907?s=21
まあこの人がいう内容は私には一切受け付けられないので考えるべきではないのかもしれないが、この方のリプを見ていくと
ノットフォーミーでも愚痴は友達にLINEして、運営ワッショイワッショイ神輿を担いどけば巡り巡って配当が返ってくるよお
今までもステが嫌、ミュは嫌い、地上波歌番組なんて恥ずかしい、何で歌舞伎?、講談て意味わかんね、沢山ネガティブは見てきたけど、結局客層の裾野や運営の人脈が広ければ広がる程、良いことに返ってくる。そのおかげが厳島や小田原城、JAPAN EXPOに紅白や日本博が叶い、最たる物が大演練だと思うよ。
という文言が出てくる。
違う、私が言いたいのはてんごじゃなくてゲームに還元してくれってことなんだ。
日本博なんてよく知らない人間からしたら伝統舞踊観るつもりで見たらなんか若い男の子がなんかしてるなあってだけだし、それまで喜ばなきゃいけないのか?
事前登録からずっととうらぶをしている。結局五周年記念の日よりもずっと大袈裟に祝われてる大演練を見てあまりにも虚無を感じる。
てんごを許容できない人間はもう顧客じゃないのだろうか。てんごを見ているのはしんどい。関東でも関西でもない地域に住んでいれば現地に行くのも難しい、そもそも原作にもない話を見せられるなら原作を知りたい。原作ゲームが一切変わらないまま外ばっかり進化していく。
最近の新刀剣男士だって、言い方はひどいがアレはパクリで怒られないのか?色々思うところがありすぎる。
それと最近はコラボのための実装が多すぎるよなと思う。去年の北谷からだよね、多分。
桑名松井山鳥毛で時期的な問題もあってちがねくんは違ったけど日光はそうだよね。
コラボ許可しない博物館系の実装も望めない、非現存はもっと無理、キャラデザはどんどんひどくなっていく。
とうらぶが新しいところに行くならいっそ、サ終して原作の存在をなくしてから羽ばたいていってくれ。
私はもうそれには興味を持てないしメディアミックスありきの原作置き去り状態に耐えられない。
大演練で2億くらい儲かったって見たよ。もうゲーム、いらないのでは?
てんご=2.5次元舞台の略として使用。私の周りは普通に使ってるのでてっきり常用されてるのかと思っておりました。あまり聞き慣れない言葉だったんですね。
排外主義が蔓延する現在、“純“日本人に対して「おまえらが移民や難民になったらどうするんだ?」と問いかける以外の目的で2020年に「日本沈没」を語り直す意味ってある?
これなんのために作ったの?
助けを求めて日本にやってきた人たちに入管でやってるようなことを日本人もされるんだよ、こういう状況になったら
何ロシアですんなり受け入れられて普通に豊かな暮らしを享受してるねん
主人公姉弟はいわゆるハーフだけど、これ絶対ストーリー変えて主人公も”純”日本人にした方がよかったよ。ネトウヨという設定だったらもっとよかったと言いたいとこだけど、一般的な日本人は大体ほんのり差別的で排外的だから別にどっちでもいいかもね
主人公姉弟がハーフであることに作劇上の必然性はあったのかな?
私もハーフなのでフィクションの中にハーフのキャラが出てくるとすごく嬉しいんだよね、ハーフであることに必然性がないともっと嬉しい、でもこれに関してはなんか警戒しちゃった
ラップバトルの中で吐露される姉弟の気持ちがいかにも”純”日本人が考えましたって感じで
あと最終話に出てきた在りし日の「日本」の風景アーカイブ、製作陣の「日本」に対するイメージが貧しすぎて絶望しちゃった
取ってつけたような金閣寺、取ってつけたような厳島神社、取ってつけたようなメイド
「何で?」
「そらそうやよ? 平家のきらびやかさは、まさに上方好み。驕れる平家て言葉もあるけど、驕ってたんは藤原氏も源氏も変わらんし、平家が生み出したもんは藤原と比べても遜色ない。平家納経、厳島神社、日宋貿易、薩摩守忠度の和歌……何と言うても、家紋が揚羽蝶。平家を名乗った織田信長の家紋の一つも、揚羽蝶」
「優雅やね」
「一方、源氏は……頼朝らは大阪発祥『河内源氏』の末裔やけど、関東ローム層という厳しい土地の磁場のせいか、華やいだ文化には至らなかった」
「質素の何が悪いねん、て源氏ファンの関東人さんらは言わはるんちゃう?」
「それが『民族性』ということ。上方圏は平家寄り、関東圏は源氏寄り。『平家海軍国際派』という言葉がありますが、裏を返せば『源氏陸軍国内派』……これ、関東そのものと思わへん?」
「鎖国、陸軍の暴走、関東軍、国際連盟脱退……ほんまやね。ほな上方は平家系民族で、海に向かって開かれてるわけか。インバウンドが絶好調やったんもわかる」
「平家ゆかりの厳島神社がある広島、壇ノ浦で平家について戦った松浦党ゆかりの長崎……関東が始めた戦争で何であんなことにならんとあかんかったんやろね? あの戦争で起きた空襲も地上戦も核爆弾も、それと今問題のタンク入りの汚染水も、全部その原因作った地方で引き受……」
「何で?」
「そらそうやよ? 平家のきらびやかさは、まさに上方好み。驕れる平家て言葉もあるけど、驕ってたんは藤原氏も源氏も変わらんし、平家が生み出したもんは藤原と比べても遜色ない。平家納経、厳島神社、日宋貿易、薩摩守忠度の和歌……何と言うても、家紋が揚羽蝶。平家を名乗った織田信長の家紋の一つも、揚羽蝶」
「優雅やね」
「一方、源氏は……頼朝らは大阪発祥『河内源氏』の末裔やけど、関東ローム層という厳しい土地の磁場のせいか、華やいだ文化には至らなかった」
「質素の何が悪いねん、て源氏ファンの関東人さんらは言わはるんちゃう?」
「それが『民族性』ということ。上方圏は平家寄り、関東圏は源氏寄り。『平家海軍国際派』という言葉がありますが、裏を返せば『源氏陸軍国内派』……これ、関東そのものと思わへん?」
「鎖国、陸軍の暴走、関東軍、国際連盟脱退……ほんまやね。ほな上方は平家系民族で、海に向かって開かれてるわけか。インバウンドが絶好調やったんもわかる」
「平家ゆかりの厳島神社がある広島、壇ノ浦で平家について戦った松浦党ゆかりの長崎……関東が始めた戦争で何であんなことにならんとあかんかったんやろね? あの戦争で起きた空襲も地上戦も核爆弾も、それと今問題のタンク入りの汚染水も、全部その原因作った地方で引き受……」
「何で?」
「そらそうやん。平家のきらびやかさは、まさに上方好みやよ? 驕れる平家て言葉もあるけど、驕ってたんは藤原氏も源氏も変わらんし、平家が生み出したもんは藤原と比べても遜色ない。平家納経、厳島神社、日宋貿易、薩摩守忠度の和歌……何と言っても、家紋が揚羽蝶。平家を名乗った織田信長の家紋の一つも揚羽蝶」
「一方、源氏は……頼朝らは大阪発祥『河内源氏』の末裔やけど、関東ローム層という厳しい土地の磁場のせいか、華やいだ文化には至らなかった」
「質素の何が悪いねん、て源氏ファンの関東人さんらは言わはるんちゃう?」
「それが『民族性』いうこと。上方圏は平家寄り、関東圏は源氏寄り。『平家海軍国際派』という言葉がありますが、裏を返せば『源氏陸軍国内派』……これ、関東そのものと思わへん?」
「鎖国、陸軍の暴走、関東軍、国際連盟脱退……ほんまやね。ほな上方は平家系民族で、海に向かって開かれてるわけか。インバウンドが絶好調やったんもわかる」
「平家ゆかりの厳島神社がある広島、壇ノ浦で平家について戦った松浦党ゆかりの長崎……関東が始めた戦争で何であんなことにならんとあかんかったんやろね? あの戦争で起きた空襲も地上戦も核爆弾も、それと今問題のタンク入りの汚染水も、全部その原因作った地方で引き受……」
旅行をするときは、事前にこなすべきリストを作って、旅行記を書きながらそれをこなしていくのがスタイルになっている。
そうすると、旅行であった事を覚えておけて、初日の事件が3日目に意味を持って繋がる様な思わぬ出会いがあったりするし、ちょっとしたトラブルがあっても大して気にしないですむ。
今年は例年になく旅行に行った年で、社員旅行で行った南の島も含めると4回旅する事になった。
その中で3回の一人旅をまとめました。
3泊4日
タスク:英語か広東語でチェックインする/オクトパスカードを買う/飲茶する/鴛鴦茶と菠蘿包で軽食/国境を越え深圳と広州へ/QRコード決済をしてみる
ネット界隈で話題になっていたQRコード決済を体験してみたくて香港経由で中国へ。
事前に3ヶ月ほど広東語の勉強をしたもののさっぱり通じなかったが、広東語と国語の聞き分けは出来るようになり、東京に思いのほか香港人が来ていることに気づいた。
渡航前後ではIT界隈や経済界しか騒いでなく、同僚に説明しても「なにそれこわっ」という反応だったQRコード決済が、帰国して半年経ったら狂想曲のごとき騒ぎになっていた。
あと、プーアル茶が飲めるようになった。
3泊5日
タスク:レートの良い両替店で両替/バインミーを食べる/ベトナムコーヒーを飲む/チェーを飲む/フレンチコロニアル様式の建物を撮る/サイゴン駅で券売機などのデザインを見る
はてな界隈ではうっすら話題になっていた外国人技能研修生制度だが、帰国した直後に外国人労働者に関する法案が通るとか通らないとかの話になり、俄にニュースになり始めた。
新興国なのでスリなどにあうのかなー、などと思っていたが、ベトナム人には何ら金をせびられず、なぜかエストニアから来た白人に金をせびられた。
6泊7日
タスク:広島風お好み焼きを食べる/厳島神社を撮る/博多うどんを食べる/太宰府天満宮のスタバにいく/別府温泉で湯治
療養中の1ヶ月に滅多にない折角の長期休暇なので、行った事のなかった広島と九州へ。
BTSが原爆Tシャツ騒動で揉めたおりに原爆ドームをこの目で見る事になった。
いい歳をして行きの広島では長距離バスを利用したので、肘が痛くなった。
整形外科の先生に聞くと、「治ったときに神経を巻き込んだだけで、骨にも腱にも異常はない。痛いだけだから気にするな」といわれた。
以上です。良いお年を。
春月庵を出てしばらく歩き、大橋駅から大牟田線線に揺られて暫くすると太宰府に到着した。
太宰府では参道にある隈研吾設計のスターバックスも見たかったが、あまり寄り道をしていると日が暮れてしまう。
入り口前で既に多くの外国人の興味を集めているそれを通り過ぎ、天満宮に向かう。
何だろうと覗いてみると、天満宮の象徴の一つ、御神牛が石座の上に蹲っていた。
一枚撮ろうと並んでみる事にする。
待ってる間に御神牛について調べてみると、頭をなでれば頭が良く、疾患のあるところを撫でれば快癒するらしい。
良く見れば御神牛の頭は磨かれてピカピカだ。
自分の番が来てファインダーに収めたのち、折りたたんでいる前足をさすった。肘の痛みが治れば良いのだけれど。
鳥居を潜った太宰府天満宮は、その隅々までが美しく、息を呑んだ。
島の自然の中、雄大で幻想的な美しさを湛えていた厳島神社とは全く違う、配色まで計算して端整に造り込まれた様な美しさだ。
店内を撮り、店員のお姉さんと香港名物 鴛鴦茶風の仕上がりを再現できるカスタマイズについて話し合った後に一休み。
行きに通り過ぎた時に入り口で写真を撮っていたのもおそらくは中国人だったが、店内にも中国、韓国、香港、或いは台湾から来たと思しき人は多い。
残りの滞在時間に福岡でできることは多くないが、博多駅から驚異的な近さの国際空港、福岡空港国際線ターミナルは見てみたい。
降り始めた小雨に、折り畳み傘を広げ、スタバを出た。
大牟田線を天神まで引き返して、案内カウンターのご婦人に福岡空港までの行き方を尋ねると、バスが出ているという。
天神駅3階のバスターミナルに向かい国際線ターミナル乗車の列に並ぶ。
一緒に並んでいるのは当然だが外国人で、言葉を聞けば韓国の人だった。
あっという間に着くと思われた空港行きバスは遅々として進まず、結局国際線ターミナルまでは1時間30分程の乗車。
しかし、その大半は駅前の渋滞に巻き込まれていて、渋滞しない時間帯なら天神バスターミナルからは30分足らずで着きそうな距離だ。
降り立ったターミナルは思いの外落ち着いた雰囲気で、ややコンパクトな印象だったが、綺麗で近代的だった。
到着便の出発元は
桃園
全てアジアだった。
どうやら時間帯によってアムステルダムやグァムの便もある様だが、21:00過ぎには閉まってしまう福岡空港国際線ターミナルにあって、19:00過ぎのこの時間帯ではほぼアジアの到着便しかない様だ。
何れにしても全ての時間帯で東アジアからの到着便が一番多いのだろう。
歴史的な経緯からか、外国人の中で意外と欧米人の比率が多かった広島と違い、福岡は日本におけるアジアの空の玄関口である様だった。
行きの天神で、バスは渋滞に巻き込まれて正確な時間を計れないので、今度は国際線から国内線の短距離送迎バスを経由して、地下鉄を利用する。
このルートで戻ると、国際線ターミナルから博多駅はわずか20分だった。
これは、仁川から国際線に乗れば、出入国手続きやチェックインに1時間30分ほどかかったとして、フライトが1時間30分、諸々の待ち時間が30分あまりあっても、4時間あれば博多市内にやって来られる事になる。
韓国のLCC エバー航空で1週間後の往復便の価格を見れば、1万円余り。
韓国人にとって一番身近な外国の大都会が、北京、上海と、この福岡だった。
ネットで韓国の芸能人がナショナリズムめいた騒動に巻き込まれると、すぐに「Kの法則」だの「縁を切れ」だのと言った意見が書き込まれるが、そういう人はどうやって韓国人を御断りする気だろう。
日本旅行記を書く韓国人に「放射能まみれの汚染食品で死ね」「塩分過多で成人病まっしぐらだね御愁傷様」と海を挟んだ半島側で書き込む人々と、こちら側で「本当に…気持ち悪い…来なくていいです。」「チョウセンヒトモドキ」と書き込む人々はお互い相手の国に行った事があって書き込んでいるのだろうか。
そんな人々にきっと目も向けることなく、たくさんの韓国人、日本人がお互いの国を訪れ、ソウルや福岡の食べ物を食べ、街を見て、お土産を手に、思い出を胸に祖国に帰っていく。
この目で見てこの身体で感じない事を「知っている」ということは出来ない。
あまりのんびり歩いていると食事を取る時間を失いそうなので、路面電車に乗る事にした。
一昨日も利用した広電だが、スーツケースを引っ張りながらでも乗り降りにストレスが無いのは有難い。
搬送力以外にも、このあらゆる利用者に対する優しさも都市のモビリティとして魅力的だと思う。
この街に暮らすとはどういう事か。
何を使って、何を食べて、何を見て、何を感じながら日々を送るのか。
でも、やはり行ってみないと分からない事がたくさんある。
昨日、駅構内の観光案内でお勧めされた、ラーメンが名物であるローカルなうどんと和菓子のチェーン店、ちからで広島最後の食事を終え、12:27発 山陽新幹線のぞみに乗り込む。
僅か2泊3日、いや2.5日と言ったところで一部しか見られなかった広島だが、独自の文化や自然環境、都市風景があり、一言で「地方」と片付けるのは「無知」というものだな、と思われた。
揺れもなく滑り出した新幹線は加速し、あっという間に広島市街から遠ざかって行く。