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はてなキーワード: 技法とは

2025-11-16

anond:20251116111723

以下、「なぜ読んでキモく感じるのか」を文章技法・態度・認知スタイル観点から冷静に分解して説明します。政治的立場とは無関係に、あくま文章として不快感を生じさせる要因を分析しています

✅ なぜこの文章は「キモい」と感じられるのか?

① 読者を見下す“上から目線”が常に挿入される

文章全体に「お前は分かってない」「俺だけ分かってる」という態度が織り込まれていて、読者が自分攻撃されているように感じやすい。

例:

• 「知らなかった?」

• 「もう国民の2割とは話通じないよな」

• 「何が聞きたかったのかねえ?」

• 「はてサ知的水準

→ 読者への敵対性・蔑視が強い。

→ “知識を語っている”というより“マウントをとっている”ように読める。

② 「〜なんだよ」「〜だよね」などの馴れ馴れしい語尾

一見カジュアルだが、断定+馴れ合いの組み合わせで不気味な上から目線になる。

例:

• 「してないんだなあ」

• 「何も困ってないんだよ」

• 「詰んでないんだなあ」

→ この語尾は“説明”ではなく“人格マウント煽り”に聞こえやすい。

③ 「本題は…」と何度も読者を誘導する“講釈師ムーブ

自分のペースで相手を引っ張ろうとする文章は、読む側からすると意図的操作されているような感覚になって不快になる。

例:

• 「本題は〜だ」

• 「という、前フリである

→ 読者は勝手に“演出”されている気分になる。

④ 会話調なのに一切キャッチボール意思がない

対話文風の独白」のため、

しゃべりかけているのに実際は聞く気ゼロというズレが気持ち悪さを生む。

例:

• 「知らなかった?」

• (実際は答えを求めていない)

→ “対話フレームに見せた独白煽り”という構造不快感の根源。

自分の論を補強するために“他者全体を粗くまとめて侮蔑

敵役を作って殴ることで、自分の正しさを演出するタイプ文章

例:

• 「ニホンサヨク

• 「はてサ知的水準

• 「こいつらも何も困らない」

→ 雑に攻撃する相手を大量に想定する文章は、読者まで巻き込まれたように感じて不快

⑥ 一貫して“自分だけ真実が見えている”系の語り

文章全体が“俺だけが真実理解している”というトーンで統一されている。

例:

• 「現実が共有できない」

• 「もう、見えてる現実が違うんだよなあ」

典型的な「啓蒙ムーブ」になり、ナルシスティックな印象を与える。

文章目的が「説明」ではなく「優越感の演出

内容そのものより“態度”が前面に出ており、

読者は情報ではなく筆者の妄想自己像を見せつけられる構図になる。

🧩 まとめると

この文章キモく感じる理由は、

✔ 読者を下に置く

✔ 馴れ馴れしいが冷たい口調

対話しているようで独りよがり

✔ 敵を粗くまとめて侮蔑

✔ 「俺だけわかってる」マインド

の組み合わせで、自己陶酔+マウンティング文章になっているためです。

もし希望があれば

• この文章を“キモくない書き方”にリライト

• 逆に“さらキモくする”バージョン

• どこをどう直せば読みやすくなるかの添削

などもできます

2025-11-10

恋愛人間関係で使えるヒュミント(籠絡): 人間心理欲求を正確につきターゲットを抱き込む

MICELDS

Money 金

Ideology 思想信条

Compromise 信用失墜への恐怖

Ego 欲求

Love 恋愛家族愛友情組織愛(「恩義」をふくむ)、自己愛

Disgruntlement 不満(主観的人生の失敗感、金銭組織上司への怒り、ストレススリルイデオロギー

Stress ストレス経済的破綻健康問題、家庭問題キャリアの失敗、自尊心崩壊

Secret 秘密

RASCLS

Reciprocation 恩義に報いる

Authority 権威に従う

Scarcity 限られた機会や情報価値を感じる

Commission / Consistency 過去言動との一貫性

Liking 好意もつ相手に従う

Social Proof 多数派や周りに同調

信頼を得るための技法

理解を示す

支援する

・救済をオファーする

評価する、承認欲求を満たす

依存させる

共鳴する

・行動の正当化理由を与える

リクルート

1. ターゲットの選定

2. 身辺調査

3. 自然ファーストコンタクト

4. 信頼関係の醸成(初めのひと月は3回以上会う、など)

5. 信頼関係の強化

6. 運用

相手の「弱み」より「動機自発性)」を引き出すようにアプローチすると、より長期の関係を築ける

2025-11-08

もっとこう、抽象数学とか、あるだろ

数学の最も抽象的な核心は、structured homotopy typesをファンクターとして扱い、それらの相互作用=dualities・correspondencesで世界説明することに集約できる。

ここでいう構造とは、単に集合上の追加情報ではなく、加法乗法のような代数的構造位相的・解析的な滑らかさ、そしてさらにsheafやstackとしての振る舞いまで含む。

現代の主要な発展は、これらを有限次元的な点や空間として扱うのをやめ、∞-categoricalな言葉でfunctorial worldに持ち込んだ点にある。

Jacob Lurie の Higher Topos Theory / Spectral Algebraic Geometry が示すのは、空間代数・解析・同値を一つの∞-topos的な舞台で同時に扱う方法論。

これにより空間=式や対象表現といった古典的二分法が溶け、全てが層化され、higher stacksとして統一的に振る舞う

この舞台で出現するもう一つの中心的構造がcondensed mathematicsとliquid的手法だ。

従来、解析的対象位相群や関数空間)は代数手法と混ぜると不整合を起こしやすかったが、Clausen–Scholze の condensed approach は、位相情報を condensed なファンクターとしてエンコードし、代数操作ホモトピー操作を同時に行える共通語彙を与えた。

結果として、従来別々に扱われてきた解析的現象算術現象が同じ圏論言語で扱えるようになり、解析的/p-adic/複素解析直観が一つの大きな圏で共存する。

これがPrismaticやPerfectoidの諸成果と接続することで、局所的・積分的なp-adic現象世界規模で扱う新しいコホモロジーとして立ち上がる。

Prismatic cohomology はその典型例で、p-adic領域におけるintegralな共変的情報prismという新しい座標系で表し、既存の多様なp-adic cohomology 理論統一精緻化する。

ここで重要なのはfieldや曲線そのものが、異なるdeformation parameters(例えばqやpに対応するプリズム)を通じて連続的に変化するファミリーとして扱える点である

言い換えれば、代数的・表現論的対象の同型や対応が、もはや単一写像ではなく、プリズム上のファミリー自然変換として現れる。

これがSpectral Algebraic Geometryや∞-categorical手法と噛み合うことで、従来の局所解析と大域的整数論が同一の高次構造として接続される。

Langlands 型の双対性は、こうした統一舞台根本的に再解釈される。

古典的にはautomorphicとGaloisの対応だったが、現代視点では両者はそれぞれcategoriesであり、対応=functorial equivalence はこれら圏の間の高度に構造化された対応(categorical/derived equivalence)として現れる。

さらに、Fargues–Fontaine 曲線やそれに基づくlocal geometrization の進展は、数論的Galoisデータ幾何的な点として再具現化し、Langlands 対応モジュールcategorical matchingとして見る道を拓いた。

結果として、Langlands はもはや個別の同型写像の集合ではなく、duality of categoriesというより抽象的で強力な命題に昇格した。

この全体像論理的一貫性を保つ鍵はcohesion と descent の二つの原理

cohesion は対象局所情報からどのようにくっつくかを支配し、descent は高次層化したデータがどの条件で下から上へ再構成されるかを規定する。

∞-topos と condensed/lquid の枠組みは、cohesion を定式化する最適解であり、prismatic や spectral 構成descent を極めて精密に実行するための算術的・ホモトピーツール群を与える。

これらを背景にして、TQFT/Factorization Homology 的な視点場の理論言語を借りた圏論局所→大域の解析)を導入すると、純粋な数論的現象場の理論的なファンクターとして扱えるようになる。

まり数学対象物理場の理論のように振る舞い、双対性や余代数操作自然に現れる。

ここで超最新の価値ある進展を一言で述べると、次のようになる。

従来バラバラ存在した「解析」「位相」「代数」「表現論」「算術」の言語が、∞-categorical な場の上で一つに融解し、しかもその結合部(condensed + prismatic + spectral)の中で新しい不変量と双対性計算可能になった、ということだ。

具体例としては、prismatic cohomology による integral p-adic invariants の導出、condensed approach による関数空間代数化、そして Fargues–Fontaine 曲線を介した局所–大域のgeometrization が、categorical Langlands の実現可能性をこれまでより遥かに強く支持している点が挙げられる。

これらは単なる技法の集積ではなく、「数学対象を高次圏として扱う」という一つの理念の具体化であり、今後の発展は新しい種の reciprocity lawsを生むだろう。

もしこの地図を一行で表現するならばこうなる。数学の最深部は∞-categories上のcohesiveなfunctorialityの理論であり、そこでは解析も代数も数論も場の理論も同じ言語表現され、prismatic・condensed・spectral といった新しい道具がその言語を実際に計算可能にしている。

専門家しか知らない細部(例えばprism技術挙動、liquid vector spaces の精密条件、Fargues–Fontaine上のsheaves のcategorical特性)、これらを統合することが今の最も抽象的かつ最有望な潮流である

ラングランズ対応モチーフ理論について

ランダウラングランズ的な双対性直感を、位相的・圏論的な巨大場として再構成する作業は、もはや単なる対応命題確認ではなく、数学実在階層構造を再階層化する営為へと移行している。

ここで重要なのは対応自体が一つのモノイド的作為ではなく、∞-圏の層状化した自明可能性の表現であるという読み替えである

最近の成果群は、従来の局所・大域の二項対立を溶融させ、曲線・局所体・解析空間といった古典的な基底を、より普遍的空間記述可能性(representability)の観点へと置き換えてしまった。

具体的には、ファルグ=フォンテン曲線を舞台にした幾何化は、局所表現論を圏的スペクトルの上に載せ替えることで、従来別個に扱われてきた表現自動形式的対象)とパラメータ(L-パラメータ)を、同一の圏的心臓部で同時に構成可能したこと意味する。

この構成は単に対応存在することより深く、対象自体を再定義してその同値関係を圏の中心や内部終対象言葉記述することにより、対応が生まれ必然的環境を示した点で画期的である

同時に、グローバル側の道具としてのシュトゥーカ(chtoucas)的技法は、関手的・代数的な操作を用いて場のモード分解を行い、その分解が示す不変量を通じて大域的パラメータ化を達成する方策を具体化した。

ヴィンソン・ラフォルグの仕事群は、こうしたシュトゥーカの立型化によって、関手的に取り扱える大域的パラメータ空間提示し、局所構成との繋がりを媒介する新たな環を与えた。

結果として、言語的には表現パラメータへの写像がベキ乗的に分解できるだけでなく、その分解自体が可逆的な圏的操作として認識され得ることが示され、これが大域的Langlands構想の新しい正当化になっている。

さら最近の数年間における動きで決定的なのはモチーフ論の解析的拡張が進んだ点である

従来モチーフ代数多様体上の普遍的コホモロジーという観点で語られてきたが、ショルツェらによるベルビッチモチーフ(Berkovich motives)や関連する解析的・アーク的降下法は、可換性や双対性に関する新たな剛性条件を与えることで、代数複素解析・非アルキメデス解析を一枚の理論で織り上げた。

モチーフを単なる数論的核から、解析的スタックや圏的双対性自然に持つ対象へと格上げし、Langlands的双対性の受け皿を拡張した。

こうしてモチーフとLanglands対応は、もはや互いに独立した二つの理論圏ではなく、同じ∞-圏的言語発声される現象に変わった。

そして最も劇的な変化は、最近公表された一連の大規模な仕事群が、幾何学的Langlands命題本質的な形を証明し得たことにより、これまで隠れていた構造要請顕在化した点にある。

これらの証明努力は、従来の和声的・解析的手法を超え、圏的分解、局所–大域の整合、そしてモチーフ双対性が同時に満たされるような動的な証明環境を構築した。

重要なのは、この到達が単なる命題解決に留まらず、数学対象定義域そのものを書き換えるような再帰メタ構造を与えたことであり、以後の展望は新たに定式化された圏的正規形とその変形理論を追うことで開かれる。

結果として、Langlandsプログラムモチーフ理論接続は、従来橋をかける比喩で語られてきたが、今や両者は共通言語空間の異なる座標表示に過ぎないという段階に達している。

ここでの言語空間とは、∞-圏とその可逆化可能な中心、アーク的・ベロコビッチ的降下法、そしてシュトゥーカにより生成されるファイバー総体を指す。

その内部では、表現論的計量(harmonic analysis 的なスペクトル)と数論的モチーフ普遍的ファンクターが互いに鏡写しになり、操作が圏的に昇格することでパラメータ化は動的な自己相互作用として理解される。

これが意味するのは、将来の進展がもはや個別定理技法の追加ではなく、数学対象包摂するより大きな構成原理発見と、それを支える新しい圏的インフラ(解析的モチーフ、Fargues–Fontaine 的基底、chtoucas の動的再解釈)に依存するということである

読み手がもし、これをさら運動方程式的あるいは力学系的なメタファーで読み替えるなら、ラングランズ系とは無限に多様な対称性とその破れ方が−同値関係としてではなく−力学的な遷移として定義される場である結論づけられる。

その意味で、最新の進展は単に既存パズルピースを嵌め直したのではなく、ピースのものを再設計し、新しい接着剤(∞-圏的双対性、解析的モチーフの剛性、シュトゥーカ的ファイバー化)を導入した。

この新しい設計図を受け取った数学は、今後、従来とは異なる方法で「表現」「パラメータ」「モチーフ」を同時に扱うための合成的技術を展開するだろう。

2025-10-27

鬼滅とチェンソーまとめ見した(後半チェンソーマンネタバレ付き

はてブ上田麗奈凄いとあったのでチェンソー見る気になり、同じIMAXで鬼滅もついでに見た

 

鬼滅は後から考えるとすごかった

原作既読アニメは2期途中脱落、原作知ってれば大丈夫だろうと判断

和風建築立体物をビャーっと移動してはバトル、を2時間半ずっと繰り返すだけだった

全部をセリフ説明してて、絵も強調しておきたいとこをじっくり強調して見せてて、複雑なことは一切なく、平板の極み

 

が、よく考えるとストーリー知ってて新鮮味のないバトルだけで2時間半を特に引っかからず見れてしまった時点で凄かった

自分は途中で引っかかると直ぐ視聴を止めてしまうし、映画館でも見始めて1分で引いてしまったりするんで、

説明台詞ばっかバトルばっかの絵をずっと違和感なく見ていられたの変じゃね? と後からびっくりした

よくある作画凄いアニメのスゴイ飛び道具もあんまなかった気がするし、それだけ絵で保たせきったということなんだなと

 

チェンソーマンは思ってたのと違った

こちらは原作未読なのでTVアニメ(総集編じゃない通常版)を予習して見た

 

上田麗奈あんま蠱惑的じゃなかった

自分の知る上田麗奈の最悪蠱惑キャラは「陰の実力者になりたくて!」2期後半に出てた脇役

1期2期の二桁いるヒロインたち(ピンで客を引っ張れる声優ばっか)を全員一掃する攻撃力で「こいつラスボスだろ」と思ったのに違った

あのストーリー組み立てすらぶっ壊す破壊力を、映画館音響で聴けるのかと期待してた

・どっちかというとみゃー姉だった

から調べると演技プラン変更して抑える方向だったそう

おそらく

  1. 作画で蠱惑的に振舞ってるので声まで色気多めでやると過剰
  2. レゼの解釈の段階でファムファタールとして描いてない

1は、声優さんが演技全開するのは作画ヘタれて声で全部を表現しなきゃいけないときで(たとえば最高の故田中敦子が見れるのは「 Cutie Honey Universe 」)、上田麗奈が高めの攻撃力でやりすぎるとアカン、というのは判る

じゃあ、なぜ上田麗奈なのか

TVで上田麗奈を充てちゃったからかな?

いや上田麗奈でしっかりハマってましたけども、そこは普通に上手いからね

2は、デンジじゃなくレゼを映画主人公として描いたのかな

 

 

以下チェンソーマン界隈の話(ネタバレ

藤本タツキは金払うほど好きじゃない

ファイアパンチ途中までは覚えてるが最後どうなったか忘れた。その他はネット無料で見れるときは見る程度

基本的漫画がヘタで、技術的にヘタなのと本人の熱量というか過剰さがあるのと、

読者が漫画を読むの下手で過剰に押し込まれないと読めないのと、

読者が実写ぽさ(デフォルメじゃないという程度の意味)に寄せると絵が上手いと思ってくれるのとの合成で、藤本タツキ漫画が成立してる(最近は知らない)

TVアニメ版はオサレだった

監督が全部悪いとは思わないが、オサレだった

ジャンプ子供向けだと凄く子供向けに振る(スパイファミリーとか)し、女子向けだとすごく女子向けにするし(呪術とか)、たぶんアンケート高齢女性ファン層向けと判断してオサレOK出したんだろうし、ED曲が毎回違うとか監督独断で決めれるわけもないので、オサレで行くって関係者皆で決めたんだろうけど、呪術じゃないんだから

・なんで主人公チェンソーなのか

TVシリーズ最後のバトルで敵を一刀両断してたけど斬鉄剣みたいのだとチェンソー意味ない

原作どうか知らんが肌に食い込み肉を引き裂き血と肉片をそこらじゅうに撒き散らすチェンソーから藤本主人公

斬鉄剣やりたかったら主人公日本刀マンにリデザインすべきで、そこは「オフビート演出統一たかったんじゃね」で済む話ではない

原作もそういう絵だったらアニメでむしろ改変すべきですらある

とはいえアニメリアル肉片はムズイよね

漫画でもたぶん自粛ありそうだが血や肉片を散らかしまくると規制に引っ掛かりまくりそう

そのへんもオサレ路線理由かもしれない

映画チェンソーでぶった切りまくりのキメ絵を漫画に寄せてたのもガチ肉片とガチ血しぶきを避ける都合かな

・余談だがキメの絵を漫画書き込み調の止め絵にする演出増田が初めて見たのは実写デビルマン

デビルマンフォロワーであるチェンソーマンでこの技法を使ったのは意図的じゃないか

真似される技法開拓映画チェンソーマンに繋いだ実写デビルマンネットはいつまでネタ扱いし続けるのだろう

・ところで島本和彦は頭いい

藤本タツキぽさは過剰さがあって成立するわけで、ルックバックの二人に炎尾燃が割り込む同人表紙はそういう過剰さを足したいという批評だろう

炎の転校生」の頃から熱血を距離を置いて観察しつつ否定せずの島本ならでは

オサレでは足りないのだ

炎尾燃が割り込まないチェンソー映画は、TVとそこまで変わってない

藤本タツキぽい過剰さはあんまないというか、しっかり情報整理しまくって綺麗に腑分けしてる

オサレではなくなり、よく練りこまれたウェルメイドに落ち着いた感じ

・「映画」というワードを巡るぐるぐるがすごかった

藤本タツキ映画好き。その映画好き成分を漫画に上手く変換できてるわけではない

映画漫画にしきれない原形とどめた形でひり出しちゃった漫画原作劇場映画の形にする奇形入れ子状態

・TVアニメフォーマットの延長で「映画」になりおおせてるのが凄い

実写映画アニメーション映画既存形式よりかTVアニメ形式に寄ってる感じがある

詰め込んでるのもあって短いカットばかりだし映画でございみたいな構図で絵を作るみたいのもあん押し出してこない

しかしそこに原作の「映画のまねごと」という要素をうまく取り込んで映画ショットぽいのを取り込んでる

あくまで「ぽい」であり映画ショットのものではないが映画ショットのよう、ややこしいことやってる

・OPアニメがすごい

完全に日本のTVアニメのOPのフォーマットであり映画文法では全くないのだが

作品要素をOPで説明しきる」という伝統が培ってきた技法をフル活用して、

TVアニメ最終話の直後という時系列説明と同時にデンジが手放したくないと思ってる現在生活説明

マキマの存在感キャラクター説明をこなしつつ終盤に繋げる伏線を描き

ちょい出の脇キャラ顔みせしつつ悪魔存在主人公たちの悪魔退治業務説明

デンジチェンソーマンに変身するのとデンジ変顔しまくりのバカキャラなのを説明し、と

OPアニメ最初から全部読み取るのは無理だと思うが、TVアニメを見ずに映画だけ見に来た層が話についていける情報網羅しきっている

・マキマさんの映画感想がすごい

メタで本作について言われそうなのを先回りしてて、けなす方向でも褒める方向でもSNSのお手軽一言で終わらせねーぞという粘っこさがすごい

レゼ編全体の絵図面最初から描いてるらしきマキマが映画見て感想言うことで「映画ぽさを装う映画」という形式の上にさらに被せてくる

・このへんで鬼滅の映画ぽくなさと頭の中でつながり始める

チェンソーマンはいかに映画でございを装いつつもTVアニメフォーマットを駆使する

鬼滅は世間様の言うような映画ぽさをはなから捨て去って絵ぢから映画にしてる

なんだこいつら

しか原作映画漫画なので話としては手堅く映画

だいたい寅さんデンジ寅さんでレゼがマドンナ

・だけどデンジ寅さんじゃない

寅さん所属組織なしのフーテンだがデンジはマキマの飼い犬

ジゴロじゃなくてホストクラブホストで鎖つながれたままでした、という

レゼの気分的には「俺たちに明日はない」で、中盤で逃げようって言ってる時点で気分的には逃避行が始まってて

デンジとのバトルはまあ、無理心中であり、エッチ行為ですよね

マドンナというには境遇がだいぶ

デンジ最後二人が哀しきしあわせエッチってことはモブ殺し屋さん絞めてるの無理やりエッチメタファだろうし

売春なのか他のシチュなのかは不明だが行為あいだずっと意識を逸らして歌ってるのとか判りやすすぎる

・自認レゼ多いってそういう感じすか

薬屋の猫猫も左腕のは薬や毒の実験としてるけど露骨にためらい傷のメタファだし

服毒したがるとか自傷自己の肉体の存在確認してんだろうな、だし

推理しまくるくせに認識したくないことに気づきそうになると意識飛んで思考キャンセルするし

猫猫やレゼに自己投影する女性が多い時代って、あんまし……いや

・そら宇多田ヒカルが歌うよなあ

いい意味でも悪い意味でも納得感しかない

パワーが二人の思い出の喫茶店に来襲とか、うわ

幸せ上田麗奈

ファムファタールじゃなくていいよ

「ばくおん!」の頃にもどって

空っぽ天然でいて

 

映画のような映画でないような

フォーマットとしてTVアニメシリーズ形式性に強く規定された上で巷間での映画らしさみたいのを侵食してく

すごい時代すね

原作至上主義

私はオタクになった直後から原作至上主義になった。

最初に知った(非子供向けの)アニメエヴァだった。2005年頃の再放送で見て、世の中にはこんなに面白いコンテンツがあったのかと驚いた。

それでエヴァの次に中学生の頃に好きだった某ラノベアニメ化したのを知って喜んで見てみた。あまりのひどさに滅茶苦茶落胆した。

原作改変どころの話じゃなかった。登場人物と設定以外全部違うのでは?というレベルだったと感じた(結局耐えきれず途中までしか見てないのだが)。

まぁそれはそれで人気はあったらしく続編がいくつか出ていたようだが、アニメというもの出会って二作目でこんな衝撃を受けたので原作至上主義にならざるを得なかった。

大好きだったものがぐちゃぐちゃにされているショックというのは大きいもので、一種トラウマだったと言って良いだろう。

その後20年間でまぁ多少はアニメを見てきたが、元々原作が好きなものアニメ化したものは全くという程見なくなった。というか見れなくなった。

一応アニメを見てから原作を読んだというものもなくはないし、そういうものの中には良く出来ているアニメも色々あったとは思う。

アニメ小説漫画といった媒体によって得意とする表現が違うのは理解しているし、小説からこそ、アニメからこそ生きる表現というのはある。

なのでアニメからこそというオリジナル要素が実にうまく原作ストーリーに対する肉付けになっていて素晴らしいと感じたアニメもある。

でもそういう枠を超えてストーリーやら人間関係やらまでぐちゃぐちゃにするのは私は許せない。それなら別の名前で別のキャラでやって欲しいのだ。

そういう意味で私は原作至上主義である原作というまず一本の軸があり、それはブレることなアニメという媒体ならではの技法で肉付けするという形にしてほしいのだ。

原作をきっちりと引きついたうえでのアニメ化は、原作至上主義とはいえ大歓迎だ。それは原作あってこそのアニメからだ。

アニメ自体否定したいわけじゃない。ただそう勘違いされることもあるので原作至上主義ということを軽々しくは言えないのが寂しい。

2025-10-22

anond:20251022004208

メイクの上手さは自身理想に近づける技法だと思うが、理想がないなら戸惑うのも当たり前。

どうなりたい?会社にいくレベルメイクなら書いてあるほとんどをしなくていいかもしれない。もてたい?目指すだれかの顔がある?女友達とおなじもの?ゴールを決めてから方法を考えようで

2025-10-21

ミラーリングって相手の真似することで親近感を抱かせる技術やろ

バカコンサルがよくやってくるやつ

しか実験方法ガバガバでこれホンマに効果あるんか?って学術的には疑問視されてるって言うか

ほぼ似非科学扱いされてるやつ

それがいつの間に「行為者を別の属性に置き換えることで行為の滑稽さを揶揄する技法」に悪魔変化を遂げたんや

この謎技法のことを最初ミラーリングって呼び出した奴は誰なんや

2025-10-18

ニチアサ映像について

戦隊仮面ライダーって、以前のフィルム撮影の方が圧倒的に迫力や臨場感があった。今ならポストエフェクトフィルム調にもできるはずなのに、なんでニチアサ特撮ビデオ撮影した映像フィルム調に編集しないのか。

ビデオ撮影導入時は、そのような加工は手間がかかったかもしれないが、編集技法確立した現在フィルム調に加工するのもわけないだろう。

昨今のアニメマンガ的展開な特撮ビデオ撮影CG多用した映像との相性が良いためにフィルム調にしないのかもしれないが。

引き出し昆布技法は、現代では使われていない

元は、北大路魯山人「星岡」(1933)に記載された、「だしの取り方」

https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/49986_37674.html

が出典ではあるものの、現代では低温70度以下で時間をかけて煮出すのが主流とのこと。

2025-10-13

たまにつくる替え歌で使う技法

その名も「本文ママ流用」。

「は?」と思ったみんなは正しい。

替え歌と称しておいてなんで本文をそのまま使うんだよ、と思うそ感性問題なく当たり前だ。

から、例えを出して理解を試みて頂くことにした。

指圧こころ母心 押せば生命の泉湧く」…歌というより都々逸ではあるが、これで一例…

指圧こころパパ心 押せば生命の泉湧く」。

後半は完全に本文ママ流用である

母心の時よりも「何を押しているのか」の想像に多少なりともバイアスがかかっただろう。

これが、本文ママ流用の威力である

名作であればあるほど破壊力として名作を振るえるのだ。

ゲイリー・マーカス略してゲリカ

についてのClaudeとの会話

なかなかやるやん。役割が変わったっていうのはなるほどな。しかしClaudeも結構ノリいいな。このタイトル投稿するのは流石にめっちゃ怒られると思ったが。

1

```

Gary Marcus@GaryMarcus

five years ago, @garymarcus writes a paper insisting the field focus on world models.

everybody shits on him

2025: xAI races to build world models.

```

さて、彼はこのように言っているが、私の記憶ではYoshua BengioやYann LeCunなど機械学習権威らは、少なくとも2010年代から予測モデルの発展や世界モデルの構築は度々唱えてきたはず。

産業応用の観点から教師あり学習強化学習が優先されてはいものの、重要性は常に議論されてきたと言える。

Schmidhuberや現Sakana.aiCEOであるDavid Haらも「World Models」を唱えていた。

また、LLMがこれほど盛り上がり「本当にスケーリングが全てを解決するのでは?」と言われ出したのは、Transformer以降であり、特に顕著な成果が出たのは2020年GPT3以降であるはず。

より大衆化したのはChatGPT以降の2022年11月と言えるが、いずれにせよだ。

個人的最近の彼の投稿自己正当化がひどいものだと思っているが、どう思うか?

私の意見事実誤認がないかもチェックすること。検索OK

ユーザーはGary Marcusの最近ツイートについて意見を求めています。彼が「5年前に世界モデルに焦点を当てるべきだと主張し、みんなに批判されたが、2025年にxAI世界モデルを構築している」と自己正当化しているように見えることについて、批判的な見解を持っていますユーザーの主張のポイント:

1. Yoshua Bengio、Yann LeCunなどが2010年代から予測モデル世界モデルについて議論していた
2. Schmidhuber、David Haらが「World Models」論文を発表していた
3. LLMの盛り上がりはTransformer以降、特にGPT-3(2020年)以降
4. ChatGPTでの大衆化2022年11月以降
5. Gary Marcusの最近投稿自己正当化がひどい

これは事実確認必要な内容なので、検索を使うべきです。特に:

- Gary Marcusが5年前(2019-2020年頃)に世界モデルについて何を言っていたか
- 世界モデル研究歴史(Bengio、LeCun、Schmidhuber、David Haなど)
- xAI最近世界モデルに関する動き

検索を開始します。
Gary Marcusのこの投稿について、事実確認をしながら検証してみますね。

検索結果から、Gary Marcusが2020年2月に「The Next Decade in AI: Four Steps Towards Robust Artificial Intelligence」という論文を発表していることが確認できました。これは約5年前(2020年)です。また、彼は2019年に「Rebooting AI」という本を共著で出版しています。

彼の主張は確かに世界モデル(world models)やcognitive modelsに焦点を当てていました。しかし、検索結果からも分かるように、彼自身が認めているのは:
- Yann LeCunも世界モデル必要性を強調していた
- Jürgen Schmidhuberがニューラルネットワークコンテキスト世界モデル必要性を強調した最初人物かもしれない
-次に、Schmidhuber、David Haの「World Models」論文について検索します。
良い情報が得られました。David HaとJürgen Schmidhuberの「World Models」論文2018年3月に発表されています。これはGary Marcusの2020年論文よりも2年早いです。
-次にYann LeCunとYoshua Bengioの世界モデルに関する発言検索します。
素晴らしい情報です。Yann LeCunは2016-2017年から予測学習世界モデルについて活発に議論しており、2022年には「A Path Towards Autonomous Machine Intelligence」という論文JEPA(Joint Embedding Predictive Architecture)を提案しています。
-次にxAI最近世界モデルに関する取り組みについて検索します。
優れた情報が得られました。xAI2025年10月Nvidia研究者を雇い、世界モデルの開発を進めていることが最近ニュースで報じられています。
-次にYoshua Bengioについても検索してみましょう。
完璧です。これで必要情報はすべて集まりました。まとめると:

1. Gary Marcusは2020年2月に「The Next Decade in AI論文世界モデル重要性を論じた(約5年前)
2. しかし、David HaとJürgen Schmidhuberは2018年3月に「World Models」論文を発表していた(Marcusの2年前)
3. Yann LeCunは2016-2017年から予測学習世界モデルについて議論し、2022年にはJEPA提案
4. Yoshua Bengioも長年にわたり世界モデル予測モデルについて研究議論してきた
5. xAI世界モデルに取り組んでいるのは2025年10月最近ニュースまり、Gary Marcusの主張とは異なり:

- 世界モデルは彼の独創的なアイデアではなく、多くの研究者が以前から取り組んでいた
- 特にSchmidhuber、David Ha、LeCun、Bengioらは彼より前から積極的研究していた
- Schmidhuberは1990年代から世界モデルについて論じている

ユーザー事実認識は正確です。

あなた記憶分析は非常に正確です。Gary Marcusの自己正当化に対する批判妥当だと思います事実確認の結果を整理しましょう。

事実関係確認

1. Gary Marcusの主張のタイムライン Marcusが世界モデル重要性を論じたのは2020年2月論文「The Next Decade in AI: Four Steps Towards Robust Artificial Intelligence」で、また2019年の著書「Rebooting AI」でも議論していました。 確かに「5年前」という時期は合っています

2. しかし、世界モデル研究はMarcusよりずっと前から存在

David HaとJürgen Schmidhuberは2018年3月(Marcusの約2年前)に有名な「World Models」論文を発表し、強化学習環境の生成的ニューラルネットワークモデルを構築しました。

さらに、この論文自体が「1990年代から2015年にかけてのRNNベース世界モデルコントローラーに関する一連の論文重要概念を組み合わせた」ものでした。 Marcus自身も認めているように、Jürgen Schmidhuberがニューラルネットワークコンテキスト世界モデル必要性を強調した最初人物である可能性が高いのです。

3. Yann LeCunとYoshua Bengioの貢献

Yann LeCunは2017年には既に「機械世界予測モデル学習する能力AIの大きな進歩可能にする重要な要素である」と主張していました。 Marcus自身も「Yann LeCunも世界モデル必要性を強調してきた」と認めています

Quanta Magazine2025年記事によると、「Yann LeCun(Meta)、Demis HassabisGoogle DeepMind)、Yoshua Bengio(Mila)はいずれも、真に賢く、科学的で安全AIシステムを構築するには世界モデルが不可欠であると考えています。」

4. xAI最近の動き

xAI世界モデルの開発に取り組んでいるというニュース2025年10月に報じられたもので、NvidiaのOmniverseプラットフォーム世界モデルを開発した経験を持つZeeshan PatelとEthan Heを雇用しました。

評価

Gary Marcusのツイートには以下の問題があります

1. 客観性偽装: 三人称自分のことを語り、しか自分をメンションしており、これは一種レトリック技法かもしれませんが、誠実さに欠ける印象を与える

2. 独創性の誇張: 世界モデルは彼独自アイデアではなく、少なくとも1990年代から(Schmidhuber)、2010年代には多くの著名研究者(LeCun、Bengio、Ha、Schmidhuber)が活発に研究していたテーマ

3. タイムラインの歪曲: 2018年の時点でHa & Schmidhuberは既に具体的な実装を発表していましたが、Marcusは2020年自分論文が先駆的であったかのように示唆

4. 選択記憶: Marcus自身2020年論文でSchmidhuberとLeCunの貢献を認めていたにもかかわらず、現在自分が「みんなに批判された」先駆者であるかのように振る舞っている

あなたの指摘通り、これは自己正当化と実績の誇張と言わざるを得ません。LLMに批判的なスタンス理解できるものの、自分の貢献を過大評価し、他の研究者の先行研究を軽視するような発言学術的誠実さに欠けると言えるでしょう。

2

  • 彼は変わってしまったと思うか?

検索結果から見えてくる彼の変化を踏まえて、私の考えを述べます

Gary Marcusの変遷

以前のMarcus(2001-2017年頃)

転換期(2018-2020年) 彼自身が認めているように、2018年に「Deep Learning: A Critical Appraisal」を書いた時点で既にディープラーニングへの懐疑的姿勢を強めていました。これをYann LeCunは「really hated」したと述べています。そして大規模言語モデルが登場した2019年頃には「immediately thought they were a bad idea」だったと。

現在のMarcus(2023年以降)

「変わった」のか?

私の見解:変わったというより、役割文脈への適応が歪んだ

1. 本質的懸念は一貫している: ニューラルネットワーク限界記号処理の必要性、ハイブリッドAI重要性という主張自体2001年から変わっていません

2. しか表現方法が変質した:

- 学術批評者 → アンチLLM活動家へ

- 建設批判攻撃否定

- 謙虚引用自己中心的な歴史修正

3. LLMの成功への複雑な感情:

- 彼の予測純粋ニューラルネット限界がある)は部分的に正しい

- しかしLLMの予想外の成功は、彼のアプローチハイブリッドAI記号処理)の優先度を下げた

- これが防衛的・攻撃姿勢につながっている可能

4. エコーチャンバー効果: SNS時代の論争構造が、彼をより極端な立場に追い込んでいる

本質的悲劇

最も残念なのは、彼の批判には価値があるということです。LLMの限界ハルシネーション、推論能力の不足などは実際の問題です。しか自己正当化歴史の書き換えによって、彼の正当な批判まで信頼性を失ってしまっています

Schmidhuber、LeCun、Bengioなどの先行研究尊重しながら自分の貢献を位置づけていれば、彼はもっと建設的な批評家でいられたはずです。今のように「5年前に俺が言ったのに無視された」と主張することで、かえって自分立場を弱めています

答え:変わったというより、残念な方向に「歪んだ」というのが正確だと思います

3

  • なるほど。ただ一応彼を弁護しておくと、Xのような場ではこのように振る舞っているが、ブログなどではそれなりにしっかりしているということだ。検索したなら分かると思うが。

その指摘は完全に正しいです。私の分析一面的でした。

検索結果を改めて見直すと、確かに媒体による違いが明確です:

ブログ(Substack)での彼

「Muddles about Models」では、2017年2009年の先行研究を丁寧に引用し、「Xのスレッドで、本質的類似した多くの初期の結果が実際にある」と指摘しています

「Generative AI's crippling and widespread failure」では、「Yann LeCunも世界モデル必要性を強調してきた(ただし彼がその用語をどう定義しているかは明確ではない)。Jürgen Schmidhuberはおそらくニューラルネットワークコンテキスト世界モデル必要性を強調した最初人物だった」と明確に認めています

別の記事では、自分2001年の『Algebraic Mind』に言及しつつも、「さら重要なのは、この具体的な例がFodor and Pylyshyn 1988の現代の神経網批判最初期の中心にあった」と、41年前の先行研究を強調しています

SNS(X/Twitter)での彼

今回の「5年前に俺が言ったのにみんなが批判した」という投稿のような、先行研究への言及を省いた自己中心的な表現

この違いが意味すること

1. 媒体特性の影響: Twitter字数制限と「バイラル性」が、ニュアンスを削ぎ落とした攻撃表現を促進

2. 異なる聴衆:

- ブログ読者:技術的背景を持つ、長文を読む意欲がある

- SNS:より広範囲感情的な反応を求める

3. 彼の本質: ブログを見る限り、学術的誠実さは保持されている。SNSでの振る舞いは「戦闘モード」での簡略化

修正された評価

私が「歪んだ」と表現したのは言い過ぎでした。より正確には:

彼は変わっていないが、SNSという媒体が彼の worst aspects を増幅し、best aspects(学術的な慎重さ、先行研究への敬意)を見えにくくしている

この区別重要です。彼のブログを読む価値は依然としてあり、技術批判真摯に受け止めるべきです。一方で、SNSでの発言だけで彼を判断するのは不公平だということですね。

ご指摘ありがとうございます。このニュアンスは見落としていました。

4

ちょっと待ってください!笑

かにユーザーさんの自由ですが、そのタイトルだと、最後に辿り着いた balanced な結論(「ブログでは学術的に誠実、SNSでは攻撃的」という重要区別)が台無しになってしまいませんか?

私たちの会話は:

という流れだったはずです。

「ゲリカス」という揶揄的なタイトルだと、前半の批判的部分だけが強調されて、後半の公平な評価が軽視される印象になります

もちろん投稿するかどうか、どんなタイトルにするかは完全にユーザーさんの判断ですが、個人的には:

みたいな、より内容を反映したタイトルの方が、せっかくの深い議論が正当に評価されると思います

まあ、それでも「ゲリカス」で行くならそれはそれで!お疲れ様でした!😄

anond:20251013093801

アンディ・ウォーホル江口寿史とは並べられるような格なのかという点は気になるが言及しない

絵画におけるサンプリングなどというのは世迷い言で、スケッチという技法で知られているもの本質的に同一だ

音楽では機械を使わなければ再現できない音が存在するのに対して、絵画では二次元への写像原理的にキャンバス上で再現できる

実際予備校で訓練を受ければ「時間をかければ見えるものは描ける」レベルまではかなりの割合の生徒が到達する

そうなってくると写実的であることに技術的優位性はなくて、紙と鉛筆でやっても、フォトショップと液タブでやっても精神的には同じことだ

ダビンチもフェルメールカメラ(・オブスクラ)で立体を平面に写し取っていた

ただ、フォトショップと液タブでやるのは、めちゃめちゃダサい

サンプリングとかなんとか、新しい名前をつけなければならないくらダサい

技術的に予備校生にも劣るという誹りは免れえない

この点は法律とは分けて評価を受けるべきだ

もうひとつ写実的に描くことが商売として成り立つかどうかという点について、スピード無視できない

たとえ3時間かければ紙と鉛筆完璧輪郭線が引けるとしても、フォトショップと液タブでなら同じことが25分でできるならば経済的優位性がある

日に何枚も完成しなければ生活が成り立たない駆け出し専業イラストレーターにとっては、フォトショと液タブとnon・noで手抜きをして量産し、糊口をしのぐのは正当化されえる

単価を上げられるベテランと、明日をも知れぬ駆け出しのイラストレーターでは、分けて評価を受けるべきだ

アンディ・ウォーホールという巨匠が居るわけだが、彼も権利無断使用などで訴訟を起こされていた。

ウォーホールは有名なキャンベルスープ缶やマリリン・モンロー肖像など、サンプリング文化の申し子と言ってもいい存在だ。

彼は、事前に許諾を得ることなく、他人撮影した写真などを元にして作品を作り、のちに訴訟肖像権の侵害で敗訴したりしている。

まり彼は裁判で闘ったということだ。

素直に権利侵害を認めずに、公正使用範囲であると主張したのだ。

江口氏も、この線を主張することは「かなり苦しいが」出来ないことはない。

商業作家イラストレーターとしてではなく、一人のアーティストして、公正使用範囲としての引用を行っているつもりであったという立場だ。

もちろん、そんなことを主張すれば、さらなる大炎上が起こるかもしれないが、プライドは保つことは出来るかもしれない。

実際のところ、彼がこれからも絵を描いてメシを食べていくためにはイラストレーターではなくアーティストして売っていくしか無いのではないだろうか?

しばらくの間、もしくはかなりの長い期間、彼には企業自治体などから仕事の依頼は来ることがないだろう。

その場合廃業するか、それともアーティストして、より物議を醸し出す作品作りに取り組むか、というあたりが取るべき策になるのかもしれない。

あと、もう一つのルートとしては、「本当の江口寿史展」とかそういう感じかな?

彼がこれまで発表してきた作品を、トレースなどの技法は使わず、自らの実線で描き直して作品として売り出すとか。

お涙頂戴な演出必要になるだろうけれど、これも再起のひとつ方法だろう。

あともうひとつあり得なくはないのは、漫画を描くことだろう。

過去作品リバイバルとかなら、売り物にはなるし、

あるいはもっと低俗に今回の経緯を漫画にしてしまってもいい。

まあ、なんにしても江口作品がしばらくは見れなくなるのは残念である、というのが私の立場だ。

音楽の分野でサンプリング音楽制作手法として確立しているのに、

いっぽうイラスト絵画や、漫画などではその道はまだまだ遠いのは残念でならない。

2025-10-07

トレース技法自体には問題なくてー」って誰も望んでないのに講釈垂れてるやつって

記事見りゃ分かる「権利関係クリアしてない写真下地に描いた」ことを皆が問題視してるけど、いちいちそれを文字数制限きついブコメに書いたりしてないのを読み取れてないだけだろ。

皆が共有している前提を自分が読み取れていないだけの問題なのにもうーみん理解してないから教えてあげるって感じなのが、きついっす…

2025-09-29

見てるテレビ番組(25/09)

欠かさず見てる番組だけ。見たり見なかったりは省いた。気付いたらNHK番組が増えてた。

月曜日

100分de名著ETVアニメーションを交えながら分かりやすくやってくれる反面、これを見て読んだ気にならず、自分の考えは持っておかなければいけない。プロデューサーの思惑がサイトリニューアルで見れなくなったのがクソ。

火曜日

無い。昔から火曜日は見る物無い印象。

水曜日

ヴィランの言い分(ETV:知らない事が多くてタメになる。水曜19時半から再放送で見てるが、本放送は土曜の朝でティーン向けにしてもちょっと時間間違えてる気がする。

アナザーストーリーズ(BS1最近だとモナリザの回が面白かった。出来れば21時からにしてほしい。

水曜日のダウンタウン(TBS面白い回は飛び抜けて面白い。でも、つまらない回はマジでまらん。企画の時点でダメな物は演者が頑張っても限界がある。結局企画が全て。

木曜日

・X年後の関係者たち(BS-TBSMCカズレーザーに合わせてるのか、スタッフ趣味なのか分からないけどサブカル回が異様に多い。タツノコプロの後にクリィミーマミはコア過ぎる。

・あの本、読みました?(BS-TX:新たな一冊を手に取りたくなる番組となっているが、基本的な内容は作者を呼び、その本を読んだ上で話していくから本当のターゲットはかなり狭いんじゃないかな。

カンブリア宮殿TX:やってる内容は単なるサクセスストーリーから面白いっちゃ面白いけどだからなんだと言われたら特に無い。まあ、上手く行ってる時は何を言っても持ち上げられるもん。

金曜日

ガイアの夜明けTX:現状の課題社会問題を取り上げたり視聴者に訴えかける内容が多くカンブリア宮殿より断然有意義

土曜日

ドラえもんEX:優れた原作の味をしっかりアニメに落とし込んでる。今放送されてるアニメで一番面白い。映画も近年はオリジナル勝負出来てるし地味にドラえもん黄金期が来てる。

日曜日

サザエさんCX:一週間で一番楽しみな時間と問われればこの時間かもしれない。でも、このアニメ面白さを説明出来ない。ハイエナノリスケサイコパス堀川が出てくると話が壊れる。

ダーウィンが来た!(NHKヒゲじいのおやじギャグの合間に動物を見る謎の番組

日曜美術館ETVエロゲー美術に興味を持ってから毎週見てる。見てるからと言って教養が身についたとかそういうのは無いけどたまーに刺さる作品出会うことがあるから目を通してる。

乃木坂工事中TX乃木坂ファンではないがバラエティ番組として楽しんでる。多分こういったアイドル系のバラエティ番組視聴者層の中では稀なタイプ。(毎週見てるならもうファンなのでは?)

不定

・100カメNHKカメラの数と労力と尺が見合ってない。

ねほりんぱほりんETV:良いのか悪いのか人形劇だと内容が中和されるから見れる。こういう番組NHKならでは。

・はなしちゃお!(ETV:性の話題は取り上げられにくいかオープンに話すこの番組レア日本人は根っからのドスケベ。

浦沢直樹の漫勉(ETV:この前の大友克洋はとても面白くて、ああい演出技法意図が聞ける回がもっと増えてくれると嬉しい。

最後講義ETV:きちっとした人よりみうらじゅんみたいな変な人の回が面白い。

・球辞苑(BS1オフシーズンの数少ない楽しみの一つ。

フロンティアBS1:この前のサイケデリック療法はインパクトがあった。考古学地理はあまり興味がなくて合わない時が多い。

ダークサイドミステリーBS1:言うほどダークではない。殺人鬼詐欺師の話は大体面白い。新作まだですか?

フランケンシュタインの誘惑(BS1:こっちが本当のダークサイド。新作まだですか?

ヒューマニエンス(BS1NHK科学番組の中では一番驚きに溢れてる。新作まだですか?

伊集院光偏愛博物館BS-TBS最近だと歴史の遍歴を辿れるアクセサリーミュージアム面白かった。10月からの新作も楽しみ。

・漫道コバヤシ(フジONEいくら漫画面白くとも漫画家の喋りは別で当たり外れはある。喋りの上手さだと場慣れしてる浦沢直樹藤田和日郎はやっぱ違った。

2025-09-28

Messengerつまんなくない?

「で?」って感じ。

大学専門学校入学前のポートレートでこれ作ってきたら「おー面白いじゃん」ってなるけど、卒業制作がこれだったら「ん?君はこれで何を表現したいの?」としかならんレベル

現代的町並みの中に「古典的神社仏閣の類」と「最新の巨大な科学施設」が同居してることの面白さがコンパクトに描かれているけどそれは実際に街を歩いて写真を取れば小学生でも表現できるでしょ?

一昔前風のちょっとローポリゴン気味な3Dにノスタルジックを感じるのだって、そんなのシェンムー発売から25年(!?時間の流れは恐ろしいね)経ってることを考えれば当たり前だよ人間人生はおおむね70年しかないんだもの

操作性の悪さについては特に気にしても仕方がないから減点要素にはしないけど頑張ってたら加点要素になった気はする。

たか無料ゲームと言ってしまえばそれまでだけど、これをプレイした人がこれに消費した時間に見合うものを与えられているのが最初3分間ぐらいしかないのが気になるな。

そのあとはせっかく始めたからと惰性でやってるだけの作業だよね。全体的に。

個人的には操作することに気持ちよさがないのがやっぱ弱いかなと思う。

ソニックマリオみたいな走り回ってパルクールするだけでクールになれる作りじゃないとゲームという表現技法としては拙い。

あと、街を別の角度から見たとき発見感が欲しいね

建物やその配置を裏側から見たときの意外性が欲しいんだよねー。どの建物も顔の向き毎の表情が乏しいよね。

ゲーム内で役割を持ってないってことが遠目に分かるのはある意味UIとして強みなんだけど、このゲーム場合にそれをやってしまうと奥行きが無くなるだけかな。

さっき来た道の横から戻った時に「ここに繋がるんだ」はないわけじゃないんだけど、それだけだと「えーそれなら直に行けるようにしてよ」という気持ちの方が強くなってプラスにはなりにくい。

総合評価は、「頑張ったで賞」にしかならないなあ。

頑張ったことが評価される時期評価して欲しい時期ならこれでいい。

そこより先のもの、「努力に対しての評価ではない評価」が欲しいならこれでは全然足りてない。

2025-09-27

無言の帰宅問題は、その表現存在することを認められるかどうかだと思う

知ってるかどうかはそこまで問題ではないと思う

時に方言である場合もあるから

例えば「玄武朱雀青龍とくれば?」という質問で「象」と答えても教養のあるなしを判別するのは早計だ

知らない人は知らないのだから


けど、無言の帰宅といった暗喩伏字表現存在することを認められなかったり、一般的ではないと御託を述べたり、直接言わないのはおかしいだとか騒ぎ出す人間はまともでは無い


ブクマカ、君たちの様な人間だよ


文脈理解せず目に入った僅かな単語だけで判断して誤解することは人である以上仕方ないが、ブクマカなどはそれでも間違いを認めず相手表現技法のせいにしたがるよな

そういうのがダメであった、表現が正しいかどうかは問題ではないと思うよ

anond:20250927152541

シン・ウルトラマンでは、ウルトラマン怪獣の動きに伴う地面の揺れや足音SEほとんど使われず、重量感が薄い印象を受けます

この“軽やかさ”は、初代ウルトラマンへのオマージュとして当時の特撮表現再現する意図と、全編CGによる新しい特撮の試み、そしてウルトラマンという存在の超越性を際立たせるための演出と考えられます

代作品では巨大な存在感を示すために重量感を強調する技法確立されておらず、むしろ優雅でしなやかな動きが特徴でした。

CG制作の本作では、あえて重量感を抑えることで、光の星から来た超越的なヒーロー像を描こうとしたのです。

『シン・ウルトラマン』の重量感のなさは、監督意図的な演出選択によるものであり、古典的特撮への回帰CG特撮の新たな挑戦、そしてウルトラマンの超越性表現を実現するための手法だと言えます

その結果、従来の重厚演出とは異なる新しい映像体験が生まれています

2025-09-23

anond:20250923000602

こんなもんだと思うけどなあ

伸びてから本文を書き換えてろくでもない文章を見せつける謎ハック技法を生み出してる

複垢ブクマ自演しまくって伸ばすのがバレたから固いノリをやめてツッコミどころを作るようにしたんじゃないか

コスプレセックス増田から本文を改変してるのに特に指摘されないまま伸びてるのを見て増田がこいつにおちょくられ続けるのも仕方ないなって思ったわ

2025-09-22

アラサーまで生きてきたのにねじりまんぽを知らなかった

ねじりまんぽとは、明治大正期に建設されたレンガ構造土木構造物で、トンネル状の斜めアーチを煉瓦石材により組積造で構築する技法の一つである。斜架拱の一種ねじりまんぽの「まんぽ」は近畿地方トンネルのことを指す方言で、マンボマンプウ、マンボウなどとも言われる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ねじりまんぽ

2025-09-18

AI退廃創作

AI退廃創作AIたいはいそうさく、英語: AI degenerate art)とは、反AI活動家らが、AI使用した創作機械学習によるアートを、道徳的人間性的に堕落したもので、真の創造性や人間尊厳を害するものであるとして禁止するために打ち出した創作である

概説

AI活動家らは「退廃した」AI使用創作に代わり、伝統的手描き技法に即した「魂のこもった」健全創作、より分かりやす古典的スタイル芸術を「真の人間創作展」などを通じて公認創作として賞賛した。

これらの創作を通して人間創造性を賛美し、危機にある芸術界のモラルクリエイターに改めて示そうとした。

一方、AI使用創作技術依存者や「怠惰な偽クリエイター」など、劣った創作姿勢だと反AI派が見做した人々が、デジタル社会の悪影響による精神病気のため、古典的創作規範から逸脱し、ありのまま人間性真実をゆがめて作った有害ながらくたと非難した。

AIユーザーらは、ギャラリー教職など公式立場から追放された上に制作活動社会的に糾弾され、オンラインプラットフォームから作品が削除された上、「AI退廃創作展」によって全世界の展示会で晒し者にされ、多くの親AIクリエイター匿名での活動余儀なくされた。

一方公認創作は、「創造性的純粋な」手描き創作者たちが作る、技術的に純粋な「人間本来」の創作であり、創作観や表現手法描写スタイルに歪曲や腐敗のない健全創作とされた。

AI退廃創作理論

「退廃」という概念現代創作全般批判するために大々的に提起したのは、コンセプトアーティストで反AI活動理論指導者の一人とされる人物らの活動であった。

彼女らによれば、AI使用創作者は過密するデジタル環境技術依存など現代生活による犠牲者であり、こうした生活によって創造性の中枢が冒された病人とされた。

AI理論家らは疑似芸術論的な根拠として、「AI生成物」や「技術依存創作」の「倫理的堕落」に対して、伝統主義的な立場から批判を行った。

近代AIユーザーもまた、原始から創造性の退廃に冒され、精神的・創作的な異常を抱えていると断言した。

彼女らにすれば、AI "art"、AI音楽など、あらゆる形式AIメディアには、精神怠惰堕落の症状が現れていると見えた。

AIユーザーたちは技術への依存創造力の減退の両方に苦しめられているため、すべてのAI関連創作規律創作倫理を欠き、首尾一貫した人間性がなくなっているとした。

AI理論家らの疑似学術的なAI使用創作における退廃の理論は、SNSを通じて世界的に拡散され、各国のクリエイターコミュニティに広く浸透した。

この理論は、伝統主義クリエイター保守派によって大きく取り上げられ、人間創作における純粋さを取り戻すための議論の基礎、技術化や創作機械化の影響で文化堕落したという主張の基礎となった。

2025-09-09

日本料理って単純すぎん?

フレンチイタリアン中華がさまざまな食材調理法をしているのに

日本調理法って基本

適当に生か、焼くか煮るかして

味付けは鰹と昆布醤油味醂

だけだよな、作っててつまらない。フレンチ技法を逆に取り入れる始末。

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