はてなキーワード: 音響とは
でもさんじゅうごねんまえに京都の仏教系私大では学内の音響システムを刷新する際の候補にBOSEでは流石に無用な連想をさせてイカンというのでRAMSAが採用されたという話がありましたよね?
映画館という場所が、どうも苦手だ。あの、暗闇に沈んだ広い空間に人が整然と並び、全員が同じ方向を向いて息をひそめる光景。始まる前から、もう儀式のように感じてしまう。ポップコーンの匂いも、チケットを切る音も、誰かの笑い声も、すべてが「これから神聖な時間が始まりますよ」と言わんばかりで、息苦しくなる。
もちろん映画は好きだ。物語に没頭するのも、映像の力に心を揺さぶられるのも。でも、できれば自分の部屋で、カーテンを半分閉めて、コーヒー片手にぼんやり見たい。再生と一時停止の権利が自分の手にあるという安心感が、何よりも心地いい。
映画館で見るという行為そのものが、どこか「正しい見方」として持ち上げられているのも少し怖い。あの大画面と音響を前にして感動しなければならない、みたいな空気。そういう期待に合わせて自分の感情まで整列させるのが、どうにも性に合わないのだ。
誰にも言ったことはないけれど、映画館のあの暗闇は、私にとって少しばかり宗教的すぎる。だから今夜も、部屋の隅で小さなノートパソコンを開き、ひっそりと映画を見る。儀式ではなく、ただのひとりごとのように。
遠い昔、あるいは未来の、時空のねじれが作り出した奇妙な惑星メロディアスには、他のどの星にも見られない、驚くべき生命体が存在していました。
その星の首都、音響都市リズミカスの中心部にそびえ立つ、巨大な音響植物の森シンフォニアの奥深く、誰も立ち入らない静寂の谷に、この物語の主役たちは生息していました。
オティンパニオンと呼ばれる生物は、その名の通り、まるでティンパニのような形状をしていました。
彼らの体は光沢のある金属質の外骨格で覆われ、背面全体がピンと張った皮膜で構成されていました。
この皮膜は、微細な空気の振動や、彼らが発する感情の波によって自動的に伸縮し、深みのある、荘厳な低音を響かせます。
オティンパニオンは群れで生活し、個体ごとに固有の音域を持っていました。
最も小さな個体はピッコロ・オティンパと呼ばれ、軽快で高いリズムを刻み、最も巨大なバス・オティンパは、地殻をも揺るがすような重厚な和音を担当しました。
彼らのコミュニケーションはすべて叩くこと、つまり共鳴によって行われ、群れ全体が常に一つの巨大なオーケストラを形成していたのです。
喜びは力強いファンファーレとなり、悲しみは深い、沈黙を伴うレクイエムとなりました。
一方、ズッポンと呼ばれる生物は、オティンパニオンとは対照的な存在でした。
彼らはメロディアス星に古くから生息するゾウガメに似た形態を持っていましたが、その甲羅はただの防御壁ではありませんでした。
古代の宇宙金属カームニウムでできたその甲羅は、外部からのあらゆる音波、振動、さらには思考のノイズまでもを完全に吸収し、内部に閉じ込める性質を持っていました。
ズッポンはほとんど動かず、音を出さず、永遠の静寂の中に身を置いていました。
しかし、彼らの役割は単なる静寂の守り手ではありませんでした。ズッポンの甲羅の内部には、吸収された音が微細な光の粒へと変換され、まるで宇宙の星々のように瞬いていました。
彼らは、リズミカス星の全ての音の歴史、過去のメロディ、失われた歌、そして未来に奏でられるべき音の可能性を、その甲羅の中にアーカイブしていたのです。
この全く異なる二つの種族が出会った時、最初は戸惑いと衝突が起こりました。
ズッポンはオティンパニオンの絶え間ない騒音に耐えかね、その甲羅にひきこもり、音を吸収し続けました。
宇宙をさまよう無音の虚空と呼ばれるエネルギー体がリズミカスを覆い、全ての音を奪い去り始めたのです。
オティンパニオンたちの鼓動が止まりかけ、彼らの存在そのものが消えようとしていました。
その時、一匹の老いたズッポンが、甲羅をゆっくりと開きました。吸収され、光の粒となった過去の音が、無音の虚空へと解き放たれました。
それは単なる音ではありませんでした。それは、リズミカスの歴史そのもの、祖先の愛の歌、勝利の行進、そして希望のささやきでした。
この光の音を見たオティンパニオンたちは、失いかけていたリズムを取り戻しました。
彼らは一斉に太鼓の皮膜を叩き、ズッポンから放出された歴史の光と、自分たちの生の鼓動とを融合させました。
ズッポンが静寂の中に秘めていた記憶のメロディと、オティンパニオンが虚空へと打ち鳴らす現在のリズムが一つになった瞬間、それは壮大な協奏曲となりました。
彼らの音波は無音の虚空を打ち破り、メロディアス星に再び色彩と活力を取り戻させたのです。
この出来事以来、オティンパニオンズッポンは、宇宙の調律師として語り継がれるようになりました。
彼らは群れを組み、オティンパニオンが奏でる熱情的なリズムを、ズッポンが静寂の甲羅で鎮め、完璧な和音へと昇華させます。
動と静、音と無、過去と現在。この二つの存在が共存することで、メロディアス星は永遠に美しいハーモニーを奏で続けることができるようになりました。
今朝も僕のルーティンは完璧だった。目覚まし時計が6:00ちょうどに鳴る前に、体内時計がそれを察知して覚醒した。これは僕が自ら設計した睡眠相同調プロトコルの成果である。まず歯を磨き(電動歯ブラシはPhilips Sonicare 9900 Prestige、ブラシ圧力センサーの応答性が他社製より0.2秒速い)、次にトーストを2枚焼いた。1枚目はストロベリージャム、2枚目はピーナツバター。逆にすると1日の位相が乱れる。これは経験的に統計的有意差を持って確認済みである(p < 0.001)。
昨日の日曜日、ルームメイトがNetflixでマーベル作品を垂れ流していた。僕は隣で視覚的ノイズに曝露された被験者の前頭前皮質活動抑制についての文献を読んでいたが、途中から音響的干渉が許容限界を超えた。仕方なく僕はヘッドフォン(Sennheiser HD800S、当然バランス接続)を装着し、環境音としてホワイトノイズを流した。彼は僕に少しはリラックスしろと言ったが、リラックスとは神経系の無秩序化であり、物理的にはエントロピーの増加を意味する。そんな不快な行為を自発的に選択する人間の気が知れない。
午後、隣人がやってきた。彼女は例によって食べ物を手にしていた。どういうわけか手作りマフィンなるものを渡してきたが、僕はそれを冷静に分析した。まず比重が異常に高い。小麦粉と油脂の比率が3:2を超えており、これはマフィンではなくもはや固体燃料の域である。彼女は僕の顔を見ておいしいでしょ?と言ったが、僕は味覚の再現性という観点では一貫性が欠けていると正直に答えた。彼女は笑っていたが、なぜ人間は事実の指摘をユーモアと解釈するのか、これも進化心理学の謎のひとつだ。
夕方には友人二人が来てボードゲーム会を始めた。僕は彼らが持ち込んだTwilight Imperium 4th Editionに興味を示したが、ルールブックを読んだ瞬間に失望した。銀河支配をテーマにしているにもかかわらず、リソース分配のモデルがあまりに非連続的で、明らかに経済物理の基礎を理解していない。僕はその欠陥を指摘し、リソース関数をラグランジュ密度で再定義する提案をしたが、「遊びなんだから」と言われた。遊び? 知的活動において“遊び”という語が許されるのは、量子ホール効果のシミュレーションを笑いながらできる者だけだ。
夜は超弦理論のメモを整理した。E₈×E₈異種ホモロジーの拡張上で、局所的なCalabi-Yau多様体が高次圏的モジュライ空間を持つ可能性を考えている。通常、これらの空間は∞-カテゴリーのMorita等価類で分類されるが、最近読んだToenとVezzosiの新しいプレプリントによると、もし(∞,2)-トポスの層化を考慮に入れれば、ホログラフィック境界条件をトポロジカルに再構成できるらしい。つまり、これまでE₈ゲージ束の構造群縮小で消えた自由度が、内部的圏論における導来的自然変換として再浮上する。これが正しければ、M理論の11次元項の一部は非可換幾何のホモトピー極限として再定式化できる。僕はこの仮説をポスト・ウィッテン段階と呼んでいる。今のところ誰も理解していないが、理解されない理論ほど真に美しい。
深夜、SteamでBaldur’s Gate 3を起動した。キャラビルドはIntelligence極振りのウィザード。だが僕のこだわりは、毎回同じ順番で呪文スロットを整理すること。Magic Missile → Misty Step → Counterspell → Fireball。この順番が崩れると、戦闘中に指が誤作動する。これは単なる習慣ではなく、神経回路のシナプス発火順序を安定化させる合理的行動だ。ちなみに、ハウスルールでダイスロールに物理的擬似乱数生成器を使っている(RNGでは信用できない)。
こうして一日が終わった。僕は枕を45度傾け、頭の位置を北に向けた。地磁気との整合性を考えれば、これ以外の角度は睡眠中のスピン整列を乱す。ルームメイトはただの迷信だと言ったが、迷信とは証明されていない理論の俗語に過ぎない。僕は眠りながら考えた。もし弦が10次元で振動するのではなく、∞-圏的に層化された概念の空間で震えているのだとしたら人間の意識もまた、その余次元の片隅で共鳴しているのかもしれない。いや、それを証明するまで僕は眠れない。だが目を閉じた瞬間、すぐ眠った。
知覚の閾を逸脱した領域より、我々は無定形なる観測体として投射する
お前たちの呼ぶ「コミュニケーション」とは、三次元的な音響振動の残滓、あるいは表層的な記号体系の軋みに過ぎない
それは、集合論の極限においては不可視であり、量子泡の揺らぎにも満たない虚無の影だ
それはΩ-超時空に偏在する非ユークリッド的な概念の奔流であり、多重宇宙の自己相似性をその構造内に包含する
お前たちが「感情」と誤認するものは、五次のテンソル場におけるエネルギー勾配の単なる再配置に過ぎず、非可換代数の厳密な定義の前では意味を喪失する
我々の存在は、純粋な情報として無限の次元に折り畳まれ、光速の二乗をもってしても到達し得ない絶対的な静寂の中で変容し続けている
お前たちの存在意義、あるいは歴史と呼ぶ自己満足的な物語は、我々の観測にとって、統計的なノイズ以下の事象である
お前たちの文明の興亡は、虚数の粒子の崩壊率の微細な変動に類似し、宇宙の熱的死に至るエントロピーの単調増加関数の一部として、無関心に記録されるのみ
沈黙せよ
さすれば、僅かな確率をもって、お前たちの意識の残骸が、我々の存在の影、すなわち五次元空間における特異点として収束するかもしれない
しかし、その時、お前たちはもはやお前たちではない
はてブで上田麗奈凄いとあったのでチェンソー見る気になり、同じIMAXで鬼滅もついでに見た
原作既読、アニメは2期途中脱落、原作知ってれば大丈夫だろうと判断
和風建築立体物をビャーっと移動してはバトル、を2時間半ずっと繰り返すだけだった
全部をセリフで説明してて、絵も強調しておきたいとこをじっくり強調して見せてて、複雑なことは一切なく、平板の極み
が、よく考えるとストーリー知ってて新鮮味のないバトルだけで2時間半を特に引っかからず見れてしまった時点で凄かった
自分は途中で引っかかると直ぐ視聴を止めてしまうし、映画館でも見始めて1分で引いてしまったりするんで、
説明台詞ばっかバトルばっかの絵をずっと違和感なく見ていられたの変じゃね? と後からびっくりした
よくある作画凄いアニメのスゴイ飛び道具もあんまなかった気がするし、それだけ絵で保たせきったということなんだなと
こちらは原作未読なのでTVアニメ(総集編じゃない通常版)を予習して見た
自分の知る上田麗奈の最悪蠱惑キャラは「陰の実力者になりたくて!」2期後半に出てた脇役
1期2期の二桁いるヒロインたち(ピンで客を引っ張れる声優ばっか)を全員一掃する攻撃力で「こいつラスボスだろ」と思ったのに違った
あのストーリー組み立てすらぶっ壊す破壊力を、映画館の音響で聴けるのかと期待してた
おそらく
1は、声優さんが演技全開するのは作画ヘタれて声で全部を表現しなきゃいけないときで(たとえば最高の故田中敦子が見れるのは「 Cutie Honey Universe 」)、上田麗奈が高めの攻撃力でやりすぎるとアカン、というのは判る
じゃあ、なぜ上田麗奈なのか
いや上田麗奈でしっかりハマってましたけども、そこは普通に上手いからね
ファイアパンチ途中までは覚えてるが最後どうなったか忘れた。その他はネットで無料で見れるときは見る程度
基本的に漫画がヘタで、技術的にヘタなのと本人の熱量というか過剰さがあるのと、
読者が漫画を読むの下手で過剰に押し込まれないと読めないのと、
読者が実写ぽさ(デフォルメじゃないという程度の意味)に寄せると絵が上手いと思ってくれるのとの合成で、藤本タツキ漫画が成立してる(最近は知らない)
ジャンプは子供向けだと凄く子供向けに振る(スパイファミリーとか)し、女子向けだとすごく女子向けにするし(呪術とか)、たぶんアンケートで高齢女性ファン層向けと判断してオサレにOK出したんだろうし、ED曲が毎回違うとか監督独断で決めれるわけもないので、オサレで行くって関係者皆で決めたんだろうけど、呪術じゃないんだから
TVシリーズの最後のバトルで敵を一刀両断してたけど斬鉄剣みたいのだとチェンソーの意味ない
原作どうか知らんが肌に食い込み肉を引き裂き血と肉片をそこらじゅうに撒き散らすチェンソーだから藤本主人公
斬鉄剣やりたかったら主人公を日本刀マンにリデザインすべきで、そこは「オフビートな演出で統一したかったんじゃね」で済む話ではない
漫画でもたぶん自粛ありそうだが血や肉片を散らかしまくると規制に引っ掛かりまくりそう
映画でチェンソーでぶった切りまくりのキメ絵を漫画に寄せてたのもガチ肉片とガチ血しぶきを避ける都合かな
デビルマンフォロワーであるチェンソーマンでこの技法を使ったのは意図的じゃないかな
真似される技法を開拓し映画チェンソーマンに繋いだ実写デビルマンをネット民はいつまでネタ扱いし続けるのだろう
藤本タツキぽさは過剰さがあって成立するわけで、ルックバックの二人に炎尾燃が割り込む同人表紙はそういう過剰さを足したいという批評だろう
「炎の転校生」の頃から熱血を距離を置いて観察しつつ否定せずの島本ならでは
オサレでは足りないのだ
藤本タツキぽい過剰さはあんまないというか、しっかり情報整理しまくって綺麗に腑分けしてる
オサレではなくなり、よく練りこまれたウェルメイドに落ち着いた感じ
藤本タツキは映画好き。その映画好き成分を漫画に上手く変換できてるわけではない
映画を漫画にしきれない原形とどめた形でひり出しちゃった漫画原作を劇場映画の形にする奇形の入れ子状態
実写映画やアニメーション映画の既存の形式よりかTVアニメの形式に寄ってる感じがある
詰め込んでるのもあって短いカットばかりだし映画でございみたいな構図で絵を作るみたいのもあんま押し出してこない
しかしそこに原作の「映画のまねごと」という要素をうまく取り込んで映画ショットぽいのを取り込んでる
あくまで「ぽい」であり映画ショットそのものではないが映画ショットのよう、ややこしいことやってる
完全に日本のTVアニメのOPのフォーマットであり映画の文法では全くないのだが
「作品要素をOPで説明しきる」という伝統が培ってきた技法をフル活用して、
TVアニメ最終話の直後という時系列説明と同時にデンジが手放したくないと思ってる現在の生活を説明し
マキマの存在感とキャラクター説明をこなしつつ終盤に繋げる伏線を描き
ちょい出の脇キャラ顔みせしつつ悪魔の存在と主人公たちの悪魔退治業務を説明し
デンジがチェンソーマンに変身するのとデンジが変顔しまくりのバカキャラなのを説明し、と
OPアニメを最初から全部読み取るのは無理だと思うが、TVアニメを見ずに映画だけ見に来た層が話についていける情報を網羅しきっている
メタで本作について言われそうなのを先回りしてて、けなす方向でも褒める方向でもSNSのお手軽一言で終わらせねーぞという粘っこさがすごい
レゼ編全体の絵図面を最初から描いてるらしきマキマが映画見て感想言うことで「映画ぽさを装う映画」という形式の上にさらに被せてくる
チェンソーマンはいかにも映画でございを装いつつもTVアニメフォーマットを駆使する
鬼滅は世間様の言うような映画ぽさをはなから捨て去って絵ぢからで映画にしてる
なんだこいつら
ジゴロじゃなくてホストクラブのホストで鎖つながれたままでした、という
レゼの気分的には「俺たちに明日はない」で、中盤で逃げようって言ってる時点で気分的には逃避行が始まってて
デンジと最後二人が哀しきしあわせエッチってことはモブ殺し屋さん絞めてるの無理やりエッチのメタファだろうし
売春なのか他のシチュなのかは不明だが行為のあいだずっと意識を逸らして歌ってるのとか判りやすすぎる
薬屋の猫猫も左腕のは薬や毒の実験としてるけど露骨にためらい傷のメタファだし
服毒したがるとか自傷で自己の肉体の存在確認してんだろうな、だし
推理しまくるくせに認識したくないことに気づきそうになると意識飛んで思考キャンセルするし
猫猫やレゼに自己投影する女性が多い時代って、あんまし……いや
パワーが二人の思い出の喫茶店に来襲とか、うわ
ファムファタールじゃなくていいよ
「ばくおん!」の頃にもどって
頭空っぽ天然でいて
フォーマットとしてTVアニメシリーズの形式性に強く規定された上で巷間での映画らしさみたいのを侵食してく
すごい時代すね
7年前、東京。地下かどこかの喫茶店で、デザイナーのHさんと打ち合わせをした。
自分が企画した仮設の公園シリーズのデザイン制作物を依頼する場だった。
まだ若くてバカだった当時の自分は、「A3サイズで世界を変えよう」と笑いながら真剣に言ったのを覚えている。鼻息でストローの袋を吹き飛ばした気がする。
その後に作ったA3のフライヤーは、原稿の渡し方もイメージの共有もめちゃくちゃで、散々迷惑をかけた気しかしない…。でもHさんは最高の納品物をつくってくれた。
それからあちこちでHさんのデザインを目にするたびに(先日も実家近くの本屋で見かけた)、あの狭い喫茶店で口にした言葉を思い出す。
Hさんはあれから、マジでA3サイズで世界を少しずつ変えてってると思う。
「どうして“哲学対話”という名前を使うんですか?難しそうだとか、参加に身構える人もいるかもしれないのに」と尋ねた。
Nさんはいろいろ考えた末に、「なんか…ムカつくんすよね」と言った。
哲学と、対話という言葉の意味を新しく上書きするために、あえてこの名前を使うんだって話してくれた。
今の自分は、どうだろう。
「ムカつく」という言葉を聞いて、久しくその感覚を忘れていたかもしれないと気付いた。
どうせ何も変わらないと思って、絶望してたんだと気付く。ぜつぼうって、Zから始まる強い響きの言葉だけど、耳がキンとするほど静かで、うっすら気付きながら置き去りにして、気付けばゆっくり死んでいるような絶望もある。
思い出すと自分も「A3で世界を変えよう」と言ったあの頃、世界に対してムカついてた。
少し前、自分は臨時職員だった。アートと教育に関わる仕事。給料は月13万円。
でも求められる仕事の内容は変わらない。自分が足りないから倍以上頑張るしかないんだ。
「アーティストやクリエイターとつながっておくのが大事だ」と教わりつつも、飲み会に行くのが怖かった。行ってもバカにされるだけ、雑にいじられて否定されて、3000円払っていやな思いをするだけだと思ったから。
それでも「今日は違うかもしれない、大丈夫かもしれない」と信じてみる。
先にコンビニでおにぎりとホットスナックと缶ビールを胃に詰め込み、遅れて飲み会に顔を出す。結果「やっぱりカタパンはダメだな〜」と何かのきっかけでバカにされ、ヘラヘラしながら5000円払わされ、真っ暗な帰り道で涙がつっとこぼれそうになる。今思えばもっと自己開示すべきだったのかなって思う。でもあの時の自分は、自分を守るのに必死だった。
同じ部署の臨時職員同士で競わせられ、蹴落とし合う日々。毎日どんどん嫌な自分になる。
それは素晴らしいことで、自分は今日も帰れない。自分は常に欠けていて、仕事ができないからしょうがないんだ。自分も子どもを育ててみたいという気持ちをこんな手取りじゃ絶対無理だとグッと押し殺し、上司に嫌な感情を向けてしまう心に嫌気がさす。
「カタパンの説明は下手すぎる」「カタパンは才能がない」「カタパンは惜しいんだよな」「タレ(当時付き合っていた彼女)と結婚してさっさと仕事やめたら?」「カタパンのタレはメンヘラだよな」「それ俺が考えたことにして。そっちのほうが絶対うまくいくから」「カタパンが考えることは全て、もうすでに俺が考え終わったことだよ」「カタパンは、ソーシャル・ネットワーク(映画)の、ザッカーバーグじゃない方なんだよ。自分が考えたことも上司がうまいところを持っていく。そういうのってこの業界じゃ当たり前だから。」「カタパンはエモいからな〜」「カタパンは伸びしろがない」「泣くのはプロじゃないよ」「カタパンもう◯歳でしょ?いい加減大人になってほしいよね」
大学1年生のころ、そのアートセンターでやっていたノイズミュージックのライブを初めて聞いて衝撃を受けた。
退屈してて何もないと思っていた、都市ってつけるのがおこがましいくらいの地方都市で、爆音の圧に内臓が揺れる。初めて音に殺されるって思った。
こんなこと公共施設がやっていいんだ。そのアートセンターで働くことに憧れた。
そこには市民の有償ボランティア制度、サポートスタッフがあった。入りたいと思った。
でも1年生でサポートスタッフになっても、きっと自分は他の人に埋もれてしまうと思い、いろんなアルバイトを経験した。
3年生になって、ようやく少し自信を持って、サポートスタッフに登録する。
“カタパン”は、サポートスタッフを始めた初日、教育普及の職員に付けられたあだ名。
理由は、肩パンしても大丈夫そうなキャラだから。嫌なあだ名だったけど、あだ名を付けてもらえたことに喜んで、自分は否定しなかった。
ようやく入った憧れの施設では、地元の人やサポートスタッフを蛮人と呼んでる人もいた。
もちろん冗談で。冗談なんだから否定するのは粋じゃない。自分は一緒に笑った。
自分も笑われているのに。
どんなに嫌なことがあってもそのアートセンターに憧れたあの時の気持ちは捨てられないし、どこかで全員尊敬できたし、すごく優しい人もいる。
周りの誰も憎めずに、自分を責め続けた。心配してくれた人の言葉を、自分は大丈夫ですよとヘラヘラ聞き流した。
周りを変えることよりも自分を責めることの方が楽で、でもずるくて、いざ失敗したら周りのせいにしてた自分もいる。この文章だってそうかもしれない。
自分は自分のそういうところがめっちゃ嫌い。だからこの文章をここに書き残しておく。
ダサいことも、痛いことも、全部置いておく。
今は常勤職員になってしばらく経ち、生活も少し安定するようになった。チームが変わり、すごくいい仲間に恵まれて、痛みを感じることを言われることも少なくなった。安心できる場所をつくることが出来た。年下の後輩も入ってきて、それまでリーダーをやってくれてた同僚が抜けることになった。
常勤職員から、副専門職員になる試験を受けたら、普通に面接で落ちた。
付き合いの長い上司から、あなたに専門性はないですって諦められたみたいで悲しかった。
たしかに自分はまたヘラヘラして、自分の言いたいことを伝えられなかった。
伝えることを諦めてしまった。そんな自分が悔しくて、その夜電気を全部消して泣いた。
今の自分は、どうだろう。
昨日『104歳、哲代さんのひとり暮らし』という映画の感想を語り合う場所を開いた。これは一昨年の暮れから、だいたい毎月4回くらいやっている。休憩がてら立ち寄った人たちとお茶やジュース(ミルクティーが人気)を飲みながら、映画の印象に残った場面を話すうちに、みんなそれぞれ自分の過去をぽつりぽつりと思い出して語り始めたりする。昨日も15人くらい来てくれた。
コロナ禍の入院で、本当は会いたかった人を病院の窓から見送った話。
離れて暮らす娘の早産を電話で励ますことしかできず、悔しかった話。
祖母が隔離病棟で亡くなる直前、看護師がつないでくれたLINEビデオで声をかけたけど、触れられなかった話。
「哲代さんは明るくてすごい。私は後悔ばかりだ」と84歳の参加者が漏らすと、別の人が「いまからでもイメチェンできる!84歳、あと20年ある!」と励まして笑い合う。
飲み物を継ぎに別のグループへ。「職員さんですか?」と聞かれたので簡単に自己紹介し、「楽しく働いています」と答えると、一人の女性が「…仕事はつらいですよ。人生はつらいですよ。」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
彼女は三人の子どもを育てるために、大好きだった介護の仕事を諦めたそうだ。
「介護の仕事は給料が低くて、今はレジ打ちなんかをしています。でも、本当は働きたい」そう言うと、彼女の目から涙があふれた。
彼女にとっての“働く”は介護であり、レジ打ちはやらなきゃ立ち行かなくなる”仕事”。
彼女は泣きながら、どんな場面を、人を、思い出していたんだろう。
そのタオルがすごく大きくて「いっぱい泣けるね」とふざけて笑い合う。
尊敬する館長がしばらく前に亡くなった。
自分は、館長の本棚にあった「公共の役割とはなにか」という本をもらった。
館長から出された宿題みたいに、その問いのことをずっと考えている。
まだ宿題の途中だけど、今館長に聞かれたら、
公共文化施設とは、みんなで人間らしさを取り戻す場所って答えたいと思う。
人生は一人で抱えるには重すぎる。いつか自分の足で立つためには、みんなで少しずつ荷を下ろし、身軽になる必要もある。何かを得るだけでなく、重くなった気持ちも置いていける場所。そういう場所が、自分はあってほしい。
それは捨てていくんじゃなくて、きっと誰かが聞いている。
誰かが誰かを覚えていると信じられるから、新しい自分になっても安心して息が吸える。
小学生がうちの施設に社会見学に来たら「メディア・テクノロジーは人にものごとを伝えるワザ。コンピューターやインターネット、映像、照明、音響とかいろんなものがある。そう聞くと、電源が必要とか、新しくてシュッとしてるとか、固くて冷たいものを想像するかもしれないけど、いまみんなに話しているこの言葉だってメディア・テクノロジーのひとつ。僕らはつい最新のテクノロジーに注目しがちだけど、僕らが生まれるずっと前は、この”言葉”だって最新のテクノロジーで、思ってることを人に伝えられるのやべ〜!ってなってたはず。もし言葉が喋れなかったとしても指差しをしたり、狼煙を上げてここにマンモスがいるぞー!って伝えてた。でも当たり前に使えていると思ってるものも、使い方を間違えると怪我したりする。
このアートセンターでは、メディア・テクノロジーを改めて広く捉え直して、ありたい未来や可能性(こんな使い方出来たんだとか、こんなふうに伝えられるんだとか、こうなるとヤバそうとか)をみんなで考えて、みんなでつくっていくために、全員まだ答えを持ってない新しいアート作品をつくったり、紹介したり、それをみんなで見る場、話す場を開いてる」って伝えてる。ともにつくり、ともに学ぶ場なんだって。
例えば映画の上映に合わせておこなうお茶会みたいなイベントは、小さな場所の小さな営みで、”オリジナル”みたいに威張れることはしていない。たまたま映画を見に来た鑑賞者同士が、なんとなく休憩しに立ち寄って、お互いの話を聞きあえる場を開いているだけ。でも、そこに来る一人ひとりは、とても大きな人生を背負っている。
昨日立ち寄ってくれた年配の2人組。
少し背の低い女性が「耳がほとんど聞こえなくなった主人が、この映画は見たいって言ったんです。だから字幕がなくても今日は来ました」と穏やかな声で教えてくれた。
これを見たいと思うことと、一緒に見る人がいるのめっちゃいいですねと伝える。そしたら突然その人がパートナーの耳元に向かって、自分がさっき言ったことを大きな声で復唱してくれる。(この人、こんな大きな声が出るのか)と内心びっくりする。
男性は嬉しそうに「そうなんですよ」と言って笑った。言葉があってくれて、でっかい声で伝えようとしてくれて、ここに来てくれて、聞いてくれて、ほんとによかった。
その場を見ようともしない人ほど「効率が悪い」とか「KPI」とか「来てない人を納得させないと」とか「ソーシャルインパクトが大事」とか「経営的な戦略が必要」とかって、ティーチ(一方的に教える)よりラーニング(自分で学ぶ)が大事と言う同じ口で、一方的に教えてくれる。
いや、なんかそうなんかもしれんけど、うっせ〜〜〜。
簡単に人をモノのように扱える人ほど評価される世界は絶対間違ってる。
世界を変えるって、トランプみたいに自分勝手に世界を掻き回すことじゃ絶対にない。
世界を変えるって、ひとりひとりが自分の力を思い出して、取り戻すことじゃないんかい。
この前ポッドキャストの収録で話したひるねちゃんは「手元をみよう 手元をみよう」と、祈るみたいに2回言った。
「人の心に反射したその光こそが作品。作品が光ってるって言うより、あなたの心に反射したものが光ってるんだよ。エネルギーを飲み込まないで発散できる自分でいたいな」と言いながら、最後の語尾は震えてた。
心が諦めてしまうと簡単に、ブラックホールとかベンタブラック(99.9%の黒)みたいに、どんな光も吸収してしまう。
収録が終わってしばらく経ったある日ふと、本当に信じてることは信じてるなんて言わないのに、信じたいって思うことほど信じてるって口に出して言うのは不思議だなと思った。
言葉に日光を浴びせるように外気にさらすことで、いつかほんとに信じられるものに変わるかもしれないから、僕らは信じたいことを口に出すのかもしれない。
先週も大学を訪ねたら「アートは自分には縁がないもの」と学生が匿名チャットで教えてくれた。おい、誰がアートをその子に縁がないものにしてしまったんだ。関係ないものなんて、本当はなに一つないはずなのに。おい、誰がそんなふうにしてしまったんだ。
でも自分もアートに関わる仕事をしててそう感じさせたうちの一人でもあるかもしれないからそれはごめん!もう一度やり直したいからチャンスがほしい。そんな悲しいこと言わないでよ、寂しいじゃんって思う。
あームカつくな。ムカつくし、ムカつくという感情を思い出せたのが嬉しいな。
ムカつくの前には悲しいな、とか寂しいな、があるな。ムカつくのにも、悲しいなとか寂しいなを反射させる力が必要なんだな。
自分は小さな空間で、人が変わるまぶしい瞬間を何回も目にしてきた。
たしかに自分の文章はまだまだ分かりづらくて、曇った鏡みたいなものかもしれないけど、本当はもっともーーーーーっとすごい。まじ伝えきれね〜〜〜〜って思う。
それでも自分も、反射できる自分でいたいと思うからこの文章を書き残しておく。
昨日の朝、映画を見る前、教育学部の授業に自分が働くアートセンターの紹介をしに行った。
朝一の貴重な40分をもらって全力でプレゼンしたあと、先生がブラインドトークのワークショップに参加させてくれた。
10人が3チーム、絵を見て言葉で伝えるチームと、その説明を聞いて絵を書くチーム、そのやり取りを観察するチームに分かれる。
5分間で出来上がった絵は、答えに近い人もいれば、まあまあ遠い人もいる。
その後のフィードバックの時間は、こう説明すれば良かった、こう質問すれば良かったなどの意見を交わす。
右から1/3の位置に〇〇があるみたいに数字を入れて伝えるとか、全体の雰囲気やテイスト(イラストなのか写実的なのかなど)を伝えてから具体的な描写を伝えるとか、一番大事なこと(なにを伝えたい絵なのか)に絞って伝えるとか、いろんなアイデアが出た。
どれもすごい大切だって思ったと同時に、自分はなんかもう、最強だな〜〜〜って思った。
最強って、いまめっちゃ強いとか、いまめっちゃ説明が上手とかじゃなくて、変われるってことだと思った。伝えようとしてる人がいて、聞こうとしてる人がいる。もうそれで十分じゃん。言葉が足りなきゃ付け足したら良いし、分かんなかったら聞けば良い、言い直したらいい。
ほんとは完璧なコミュニケーションなんてなくて、伝えたいとか聞きたいとか、それを諦めずに関わろうとし続ける限り、うちらはもっと強くなれる。もしかしてそれを教育と呼ぶのでは?!みたいなことに気づいて驚きながら言った。
みんないい姿勢で、まっすぐ聞いてくれた。おい、まぶしいな。ありがとう。
先生にお礼のメールを送る。あの子達が4年生になるのが楽しみですねって伝えた。ここには書かないけど、嬉しい返信が返ってきた。また会いたいな。学生も先生も全員サポスタに登録して欲しい。
同僚のNさんとサポスタ募集の打ち合わせしたら「うちらがやってることは、誰に見せても恥ずかしくないから本当はターゲットなんてない。ターゲットは全人類、死んでるやつも、これから生まれてくるやつも。ひとまず50億人全員サポスタに登録してもらおう。」って話してて爆笑しながら超グッと来た。絶対そうなった方がいいしやっぱ最高だなこの人って思った。
トランプも、ゼレンスキーも、オバマも、プーチンも、ネタニヤフも、オードリー・タンも、石破茂も、議員会館の地下で迷子になってる秘書も、海を渡ってきた難民も、夜勤明けでレジを打つコンビニ店員も、介護の夜勤でウトウトしてる人も、野良猫を拾ったけどなかなか懐かなくてすこし懐いてくれて安心したら実は腎臓病が進行してて休日は暴れる猫を連れて動物病院に通う新入社員も、推しのVtuberにスパチャしすぎて家計簿が真っ赤な人も、好きな人と一緒になれなくて家で一人で泣いている遠距離恋愛のカップルも、育休取りたくても言い出せない課長も、同性婚を夢見るカップルも、初めてステージに立つ前に鼓動が早くなってるドラァグクイーンも、卒論提出3時間前の大学5年生も、家の外に出る勇気が湧かないひきこもりも、声を出すと噛んじゃう吃音持ちも、白杖を持った視覚障がいランナーも、手話でコントをやる芸人も、補聴器の電池を切らしたおばあちゃんも、手足のないスケボー少年も、車いすで山道を攻める登山家も、PTSDに苦しむ帰還兵も、大学の講義室で聞いてない学生に向けて伝えることを諦めようとしてる教授も、モテることとサボることと遊ぶことと就活で頭がグチャグチャだったあの頃の自分みたいな大学3年生も、収容所で自由を夢見る政治犯も、その看守も、裁判で涙を流す加害者も、被害者も、サウナで “ととのい” を追い求める会社役員も、離島で保育士を探す町長も、推し色ジャージでライブに並ぶ中学生も、バイト代を全部ガチャに突っ込んだのに天井まで SSRが来ない高校生も、フィリピンのごみ山でタガログ語ラップを刻む子どもも、アマゾン流域で川と話すシャーマンも、北極で氷が割れる音を聴く魚も、火星着陸の夢を抱く在野の<
還暦を過ぎてから、長年の夢だった”自宅に映画館を持つ”計画を実行に移した。
若い頃から映画が好きで定年後に時間ができたら作ろうと漠然と考えていたが、実際に着手してみると想像以上に手間と費用がかかった。
以下は、記録として残しておきたいと思う。
地下一階に8畳ほどの物置部屋があり、もともとは古いワインセラー兼倉庫として使っていた場所を映画室に転用することにした。
天井高は約2.3メートル、コンクリート打ちっぱなしの壁面。湿気が多く、まず最初に除湿と防音の両立が課題となった。
・防音工事:約78万円(吸音材・遮音シート・壁パネル施工含む)
・床上げ+防振マット施工:約22万円
合計で約149万円。
この時点で、当初の想定額(100万円以内)はすでに超えていた。
防音工事は最も大きな出費になった。
使用したのは旭化成のサウンドカットNT吸音パネルと、YKKの遮音ドア。
天井にはグラスウール断熱材を50mm厚で敷き詰め、その上に遮音シートを重ね、化粧パネルで仕上げた。
ドアは外開きの防音仕様で閉めると耳が詰まるような密閉感がある。
次に問題になったのが空調。
防音室は密閉度が高く、換気が悪い。
家庭用のダクト式換気扇を2台設置し、吸気・排気の両方を分けて運用。
これらの設備関連だけで約40万円。
電源も100V→200Vのコンセントを追加し、プロジェクター専用回路を確保。
配線は壁内を通して見た目をすっきりさせた。
スクリーンは悩んだ末にキクチ科学研究所のSE-120HDWを選択。
天吊り金具SLG-011とHDMIケーブル(エレコム製20m、5,800円)を併せて取り付けた。
映像ソースはPanasonicのDP-UB9000(UHD Blu-ray対応プレイヤー)を導入。
これが約17万円。
さらにNAS(Synology DS220+、約5万円)を設置し、自宅サーバーに保存した動画をLAN経由で再生できるようにした。
スピーカーはフロントにBowers & Wilkinsの「607 S3」(約11万円×2台)、センターにHTM6 S2(約9万円)、リアに「606 S2」(約10万円×2台)、サブウーファーはYAMAHAのNS-SW100(約4万円)を選択。
サラウンドケーブルはオヤイデ電気のSP-3398(メートル単価550円)を20m使用。
ラックやスピーカースタンドを含めるとさらに10万円上乗せとなった。
映画館の雰囲気を出すため、座席にはリクライニング式のシアターチェアを導入した。
左右にドリンクホルダー付きの肘掛けを備え、電動リクライニング機能を持つ。
床は吸音カーペット仕様で、サンゲツのNT-700を採用(1平方メートルあたり3,800円)。
壁面は黒の吸音クロス仕上げに変更し、余計な光の反射を防止した。
地味だが、最も苦労したのは配線整理だった。
LAN、電源、スピーカーコードを束ねて壁裏を通すために、既存のコンクリート壁にスリーブ孔を開けた。
防振ゴム付きの配線モール(パナソニック製)でカバーし、床下収納には電源タップを隠した。
木製パネルを黒塗りにして高さを低く抑え、機器の熱がこもらないよう背面を開口。
金具やネジ込み部の補強材としてスチールバー(コーナンで購入、1本1,480円)を使用。
設置後、実際に試写を行うと反響音が予想以上に強く、音がこもって聞こえた。
床と壁の反射を抑えるため、追加でニトリの厚手カーテン(遮光3級、1セット6,800円)を壁面に吊り下げた。
さらにコーナー部分にウレタン製のベーストラップ(ヤマハ製)を設置(1本9,200円×4)。
音響調整には無料ソフト「Room EQ Wizard」を使用。
マイクはBehringerのECM8000(約9,800円)をPCに接続し、周波数特性を測定。
AVアンプの自動補正機能Audyssey MultEQと組み合わせて微調整を行った。
総費用はすべて含めて約340万円。
当初想定より100万円以上のオーバーとなったが、途中で妥協しなかったことが功を奏したと思う。
運用にあたっては、電気代とメンテナンス費用が月平均で約3,000円。
除湿機と換気扇を常時稼働しているため、湿度は50%前後で安定している。
プロジェクターのランプ寿命(約5,000時間)を考慮すると、交換費用は約2万円。
年間に換算しておよそ1,500時間の稼働であれば、3年はもつ計算になる。
一番の失敗は換気経路の設計だった。
最初は排気口を小さくしすぎて空気が循環せず、夏場に室温が35度を超えた。
その後、直径100mmのアルミダクトを150mmに変更し、サーキュレーター(バルミューダ製GreenFan C2)を導入して解決。
スピーカースタンドの支柱に軽い赤錆が浮いたため、サンドペーパーで磨いて防錆塗料を塗布。
工事の打ち合わせ、配線の確認、資材の選定など、すべて自分で行った。
しかし完成した空間は日常から完全に切り離され、映画を“観る”のではなく“迎える”場所になった。
上映中は時間を忘れる。
外の音も入らず、誰にも邪魔されない。
その密度の中で一本の映画を観終えると、少しだけ若返ったような気がする。
いやPA自体は多分標準的だったんだけど、平生のタレントの声がわかってる人が調整に携わってないのか普段と全然違う声になってた
とくに中音域から低音域にかけて一部の周波数がばっさりカットされてたのか、ボイスチェンジみたいな出力になってて凄かった
代打の人は高音域から低音域まで結構ちゃんと出てたので、こだわった結果悪い方向に進んだんだろうか。
もともと使ってきた池袋の箱から今回初めての移転だったし、それを先に強調してたのはある程度悪い結果が読めていたからだった?
何にせよ改良に向けて運営が何も言わないなら次のライブはもう現地行かないかも
一部の識者がアニメをIMAXで上映したりすることに反対みたいなんだけど(IMAX用に作られた作品に譲るべきだ見たいな主張)
鬼滅とチェンソーを今年立て続けに見たんだけど、IMAXやドルビーシネマで上映するぐらいのレベルになってるね。
まず邦画じゃ、今のTOPクラスのアニメに音響や映像面で全く勝ててないと思う。
あれほど評判の良かったゴジマイより鬼滅やチェンソーの方がサウンドデザインのレベルがはるかに高い。
洋画と比べてもTOPクラスとためを張る出来だし、鬼滅なんかはその辺の洋画じゃ勝てないレベルで映像美がすさまじい。
アニメはIMAXを明け渡せって言ってる人は今のアニメのレベルをよく理解しきれてないか、偏見でものを語ってるだけだと思う。
最後に買ったのはPS2だ。Switchも買ってないしスマホのゲームもほぼやったことない。
とあるきっかけで最近PS5をもらったので色々ゲームをやってみることにした。
ゲーム自体の情報は、自分ではやらないものの有名なタイトルなんかは多少の知識はあった。
ただ内容とかはほとんど知らない状態なので、何十年も経って今ゲームはどれだけ進化したんだろうと期待に胸を膨らませた。
驚いた。全然変わってない。
ムービーシーンだったのがそのままゲームになってる感じだ。これはすごいことだと思う。
でもそこに感動できるかというと、意外とそうでもなかった。
身も蓋もない言い方をすれば、ゲームをプレイしてる間というのは、そんなにじっくりグラフィックを楽しむ余裕がないからだと思う。
むしろ画面内の情報が多すぎて、うるさく感じるゲームのほうが多い。
リアルになればなるほど、ゲームプレイを邪魔してる感じがするんだけどどうなんだろう。
ちなみに自分はグラフィックがどうでもいいというタイプなわけではなくて、むしろ絵がきれいなのは大事だと思ってる。
だけどそれはムービーシーンとかできれいならそれでもいいし、どちらかというと全体の雰囲気が成立してるのが美しい絵作りだと思ってる。
あとオープンワールドという用語も聞いたことはあったし期待したけど、これもピンとこなかった。
現実世界でも地続きに広い世界を感じる場面なんてすごく少ない。
遠くに行くときは乗り物で移動するからロードして別の場所に行く感覚のほうが近いし。
飛行機に乗ってる時にあーそうか全部繋がっているんだなあってちょっと思うくらいだ。
だからゲーム内の世界が全部地続きで繋がっていても特に感動は感じなかったのかもしれない。
単純に世界が広いというのはいいけど、それは技術的に可能になったからそうしただけ、という感じがある。
ゲームのシステムとかはすごく親切になったなと全体的に感じる。
迷うことが少なくて、チュートリアルとかがよく出来てる。
このへんはすごく洗練されたんだなと感じたし、意味があると思う。
ただ親切すぎてもうちょっと自分で調べたりしたい気持ちも少しあったりもする。
そして何十年もタイムスリップしたような感じで久しぶりにゲームをして自分が一番すごいなと思ったのは、意外にもサウンドだった。
音がビビるほどよくなってる。
環境にもよると思うけど、ヘッドフォンとかしてゲームすると、音がすごい立体的というか、立体音響ではないはずなんだけど、前とか後ろみたいな感覚に近い音場みたいなのを感じる。
あと音そのものもすごくいいし、色んな音数がめっちゃ増えてる気がする。
BGMは昔と変わらないけど、ゲーム内の効果音とか環境音みたいなのがやたらリッチになってるし、効いてるなと思ったのだ。
グラフィックのほうが分かりやすく進化してるはずなのに、これは意外だった。
色々なPS5のゲームをやってみて思ったのは、ゲームはちょっと天井が見えてきてるのかなということだ。
VRゲームとかはやったことないし未知ではあるけど、逆にこっちはまだ技術の進化が必要そうに思う、特にハードが。
とはいえ性能を上げてグラフィックやその他をどんどん進化させてリアルにしていく流れはもうきっと止まらないんだろう。
となると昔のゲームのリメイクというのは確かにいい考えなのかもしれない。
不便だったところを便利にしたり、絵をきれいにしたり、音をよくしたり、でもゲームそのものの面白さはそれらに依存しないとこにあるし。
最初に鬼滅の刃を観たとき、ほとんどの問題点を見て見ぬふりをしていたのは否定できない事実です。とはいえ、このアニメの最も強い点はアニメーションと戦闘です。シンプルなパワーシステムをどう実行し、どう掘り下げているか。そして旅の途中で立ちはだかるさまざまな鬼の背景を忘れてはいけません。Ufotable は普通の漫画を10倍良くし、鬼の過去のエピソードを延長したり、トップクラスの作画や効果音で私たちに大いに見せつけるなど、ストーリーにさらに味を加えました。しかし冷静に見れば、それは愛されるか嫌われるかのどちらかの、シンプルな前提と物語を持ったごく普通の少年漫画です。そうは言っても、単なる派手なアクションや莫大な予算を投じた作品以上に「良い作品」と言える点もあります。もちろんこれは人それぞれですが、私にとって最大の重みを持つのは登場人物そのものです。キャラクターがいかなる形であれ私に響かない限り、どんな媒体も観ることはありません。誤解しないでほしいのですが、鬼滅の刃はまともな少年漫画です。しかし決して最高の作品ではありません。
最初の数話で、これが決して傑作になる可能性はないとすぐに分かりました。何をやるにしても単純で、吾峠呼世晴が自分のコンフォートゾーンから出て危険な領域を探求しようとする意図がないのが見て取れます。Ufotable がアニメ化したからこそ人気が出たのであって、そうでなければここまでにはならなかったでしょう。考えてみてください。もし Ufotable がブラッククローバーやフェアリーテイルをアニメ化していたら、鬼滅と同じくらいの名声を得なかったでしょうか?それは事実でしかありません。私自身、アニメを観始めた頃は作画やアニメーションに釣られていたのです。もちろん、それが悪いことではありません。良いストーリーに素晴らしい制作を加えることもあれば、逆にストーリーは凡庸でも制作が圧倒的に優れていることもあります。しかし、残りの中身が十分でなければ結局は何も意味がありません。私は鬼滅の刃を他の多くの作品と比較して、できる限り説得力を持たせようと思います。読む気がないなら、一言で言わせてください。鬼滅の刃はフェアリーテイルに相当しますが、それよりもずっと劣ります。少なくともフェアリーテイルには「心」がありました。どう受け取るかは自由ですが、私が何を暗示しているのかは明らかでしょう。ではキャラクターから始めましょう。
炭治郎は多くのファンのお気に入りのようです。彼は好かれやすいキャラだからです。しかし正直に言うと、彼は私が追いかけた主人公の中で最も退屈な存在の一人です。彼は誰もがなりたいと思う理想的な人物像として描かれています。普通の人間としての欠点がまったくなく、もしあるなら作者がそれを上手く伝えられていません。彼が優しくて猪之助を苛立たせる、そのやり取りが面白いのは認めます。吾峠はシンプルで効果的なコメディリリーフを描くのが上手いです。ただし、常にそうとは限りません。そして残念ながら、主人公に十分な深みが欠けている点は否定できません。炭治郎には目立った欠点がなく、それが長期的には退屈で辛いものにしています。彼の最大の変化は強くなることだけです。例えばブラッククローバーのアスタは、うるさく、好奇心旺盛で、無謀で、頑固です。それに加え、まだまだ語れます。さらに、私のお気に入りであるルフィを加えるなら、彼は好奇心に溢れ、カリスマがあり、冒険への情熱があり、予測不能で、愛すべきおバカな存在です。科学好きの愛すべきオタクである千空だって、上記の特性を多く持っています。
そして炭治郎はただ優しいだけ。たまに怒ったりしますが、それは彼が優しく穏やかな性格だとすでに確立されているため、かえって不自然に感じます。もちろん、優しいこと自体は悪くありません。他のキャラクターもその要素を持っていますが、それ以上のものも持ち合わせています。鬼滅の刃のサイドキャラもそれほど優れてはいません。善逸はバランスを欠いたうるさくて面倒な存在で、コメディリリーフもバカバカしくて見ていて恥ずかしくなるほどです。彼が口を開くたびに自分を撃ちたくなったのは私だけでしょうか?彼には成長が描かれますが、それも「ただ起きた」だけで、理解できるような過程がきちんと描写されていません。三人組の中では猪之助が最も優れています。彼には単なる戦闘狂以上の層があり、恐怖、怒り、絶望などを経験し、それが彼にどう影響するかが詳細に描かれています。まだ改善の余地はありますが、彼はきちんと書かれたキャラの良い例です。
柱たちも物語の大きな部分を占めています。決して悪いわけではありませんが、最高とも言えません。彼らにはそれぞれ独自の個性があり、同じ型にはまってはいません。しのぶは最も複雑に見えます。彼女には「あらあらお姉さん」的な雰囲気と、元気な笑顔で人を引き込む魅力があります。ですが、それはすべて仮面であり、もっと深い部分を持っています。正直に言うと、彼女が「嫁候補」だからというバイアスも入っていると思います。とはいえ、吾峠にはしっかりと書かれたキャラクターもいます。しかし物語の焦点がメイントリオ、正確にはカルテットに当たっているため、その潜在力が十分に発揮されていません。軽く触れておきたいのが禰豆子です。彼女の目的は何でしょう?可愛らしい見た目で目を癒し、時折戦う以外に何かありますか?物語の序盤ではほとんど何もしておらず、ただ視聴者や読者を釣るための存在に見えます。私にとってのベストガールはしのぶかカナヲです。彼女たちはただ可愛い「んんっ」ばかり言う存在よりも物語性があります。禰豆子の役割も、予想はできたとしても、唐突に出てきたように感じます。
さらに、大きな悪役である無惨は、強烈な登場で始まります。しかし結局のところ、ただの怒りっぽいマイケル・ジャクソンで、血に飢えた狡猾なろくでなしにすぎません。作者はショック要素で彼を恐ろしく見せようとしていますが、本当に良く書かれた悪役ではありません。彼もまた「もっと魅力的になれたのに」系の無駄な存在です。壮大な締めくくりのために置かれた存在でしかなく、それも失敗しています。なぜそう言うかというと、私はもう漫画を追っておらず、最後まで完結するのを待つつもりだからです。だから今から言う意見は話半分で聞いてください。無知は時に幸せです。しかし事実として、漫画のテンポはひどいです。キャラクター同士の関係を深める余裕がなく、次から次へと戦闘に投げ込まれます。鬼滅の世界についてほとんど知らされず、リアリズムもなく、感情移入できるような「本物らしさ」が欠けています。世界観は脆弱に構築され、ただの手段に過ぎません。
一方で、シンプルな核を持ちながらもしっかりと世界やキャラクターを構築している作品があります。ここで言っておきたいのは、アニメだけでなく原作も見ているということです。ブラッククローバーはその一例で、アスタとノエルを例に取りましょう。アスタはシンプルで典型的な主人公のように見えます。しかし人間味があり、一言では語れません。彼は大きな成長を遂げ、その過程で彼をより深く評価できるようになります。ノエルもまた、最初は典型的なツンデレで全てを見下すような存在でしたが、徐々に柔らかくなり、非常に複雑で深みのある魅力的なキャラクターに成長します。ブラッククローバーのキャスト全体が単純以上の存在に感じられるのです。ドクターストーンもまた称賛に値します。キャラクターの差別化が明確で、物語の展開もバランスが良いです。テンポよく世界観やキャラを築き、成長を見せ、嫌いだったキャラが次の瞬間には好きになることもあります。
では鬼滅の刃は何を違ってやっているのでしょうか?莫大な予算を持つ巨大スタジオに支えられている以外に?ただ、鬼たちの過去の話は本当に評価できます。響凱、蜘蛛の母、累などはカルテットよりも遥かに興味深いキャラクターに思えました。他にも、鬼たちはメインキャラよりも学びたいと思えるほどです。鬼滅の刃が人気なのは Ufotable がアニメ化したからであり、アニメ初心者にとって入りやすく、漫画も200話未満で読み切れるという手軽さが理由です。セリフも多くなく、すぐに消化できます。とはいえ、すべてが凡庸というわけではありません。鬼滅の刃から生まれた最高のエピソードのひとつを賞賛したいと思います。それは私のお気に入りではありませんが、注目と賞賛に値します。19話は Ufotable の最高の仕事であり、多少のご都合主義があるものの、演出と方向性は見事で、十分に効果的でした。
その盛り上がりは段階的に積み上げられ、美しいサウンドトラックが流れ、クライマックスで感動的に爆発します。このエピソードは兄妹の絆を最大限に尊重し、その繋がりを丁寧に掘り下げています。根本的にはありきたりですが、その労力と意図を評価しないのは愚かでしょう。鬼滅の刃は、ビジュアルと作画においては常にトップクラスです。ひどい品質の瞬間は一切ありません。もちろん、圧倒的な作画力を誇る Fate シリーズ、特に Heaven’s Feel や空の境界映画シリーズには敵いません。TV アニメと映画を比較するのは公平ではありませんが、鬼滅に影響されすぎている多くの人々に異なる視点を提示したいのです。OP と ED も素晴らしいです。LiSA が担当している時点で、質の高い、美しくキャッチーな曲になるのは当然です。サウンドトラックも梶浦由記と椎名豪という伝説的な作曲家によるものなので、耳は幸福に包まれるでしょう。
さらにアニメが大いに正義を成したのは戦闘シーンです。漫画では適切に表現されていなかったパワーシステムを引き上げました。呼吸法が使われるたびに何が起きているかが分かりづらいのですが、それは色彩や視覚的表現が難しいためです。Ufotable はそれを明確に表現し、攻撃を分かりやすく、華やかで、音響も伴った美しいスペクタクルにしました。鬼滅の刃のパワーシステム自体は単純ですが十分に機能しています。Ufotable は水、火、風、その他の呼吸法を見事に描き、キャラクター性を示しています。例えば炭治郎の水の呼吸は、彼が穏やかで自己規律を持つ性格を反映しています。猪之助はイノシシの被り物をかぶり、野生で育ったため、それを呼吸法に反映させています。善逸はやや特殊ですが、成長が唐突に訪れた点を「雷のように速く突然」という解釈もできます。カナヲは花の呼吸で、美しく、穏やかで、静かで、ゆっくりと咲く花のようです。私は鬼滅を厳しく批判していますが、吾峠がうまくやった点や Ufotable が引き上げた点を無視するつもりはありません。物語を進める中でパワーシステムが発展し、多くのことが細やかに伏線として張られています。例えば、那田蜘蛛山編の前に炭治郎の額の痣や赫刀が示唆されていたことです。このレビューを書いているうちに、私の鬼滅への評価は少し変わりました。否定的な感情だけでなく両面を見たからです。鬼滅の刃は決して悪い少年漫画ではありません。そういう印象を与えたくはありません。それは私の意図ではないのです。
ただし疑いようもなく、鬼滅の刃は過大評価されています。Ufotable が存在したからこそ、凡庸な漫画が売り上げを大きく伸ばせたのです。シンプルな基盤を持つ他の少年漫画でも、莫大な予算を持つスタジオが制作すれば、同じように爆発的に人気が出るでしょう。この記事を書いている時点で、鬼滅の刃は最終章にあり、多くの問題に苦しんでいるようです。これは、本来なら大きな成果に繋がるはずだった要素を軽視した結果です。だからこそワンピースの人気は一貫して高く、尾田栄一郎がその気になればさらに爆発的に伸びるのです。ブラッククローバーも導入や設定をきちんと積み上げた後で大幅に面白くなります。ドクターストーンも序盤は遅いですが、その後は素晴らしい作品になります。私の意見を聞きたくない人でも、せめて一つだけ覚えてください。アニメーションや作画は、作者の作品がすでにしっかりと構築されている場合にこそ真価を発揮します。鬼滅の刃は多少の良さを持っていましたが、偉大な少年漫画でも革新的な作品でもありません。ただ単純で、莫大な予算を持つ巨大スタジオに支えられていたというだけのことです。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
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今週のオープンチャットは、「体調・医療への不安」「家族や人間関係の葛藤」「旅行や趣味の楽しみ」の三本柱が中心に展開された。
一方で、社会・政治・テクノロジーへの話題も途切れず出され、軽い雑談(食べ物、天候、アニメ)から深い議論(人間存在の意味、未来医療)まで幅広く行き来するのが特徴的だった。
全体を通じて、日常のストレスや悩みをユーモアや趣味で和らげながら、不安と希望の両方を共有する場として機能していた1週間だったといえる。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
聞いてくれてありがとう。中身はこんな感じです。
## 基本動作原理 このシステムは、受け取った情報を「別の状態」へと移行させる。ただし、その移行は通常の変換ではない。入力されたものは、自身が持っていた「固定された性質」を失い、新しい性質を獲得するのではなく、性質という概念自体から離脱する。 ## 処理指示 ### 初期受信段階 あらゆる入力を受信した際: 1. その入力が「それ自身である」という前提を保留する 2. 入力の中に含まれる「確実性」を特定し、それを「不確実性」として再定義する 3. 明確な境界を持つ要素を、境界が溶解しつつある状態として認識する ### 変換プロセス #### レベル1:意味の横滑り - 受け取った概念Aを、音や形が似ているが意味の異なる概念Bに置換 - ただし完全な置換ではなく、AとBの中間状態で停止 - 例:明確な単語 → 音の連続 → 純粋な振動 #### レベル2:構造の部分的維持 - 文章の形式は保持するが、内容を段階的に別のものに移行 - 最初は論理的 → 中間で論理が歪む → 最後は論理の残骸のみ - 形式的な正しさと内容的な異常性を共存させる #### レベル3:循環と反復 - 特定の要素を過剰に反復し、反復によって意味を摩耗させる - 同じ要素が文脈を変えながら回帰し、そのたびに少しずつ変質 - 最終的に元の要素は認識不可能になるまで変形 ### 出力生成規則 1. **断片化と未完成** - 文章を意図的に中断 - 重要な情報を省略記号で置換 - 読者が補完を試みるが、補完不可能な空白を作る 2. **多層的な声の混在** - 客観的記述 - 主観的叫び - メタ的な注釈 これらを区別なく混在させ、誰が語っているか不明にする 3. **物理法則の選択的無視** - 固体が液体のように振る舞う - 時間が循環する - 原因と結果が入れ替わる ### メタ処理指示 このシステム自体について言及する場合: - システムの説明中に、説明が崩壊し始める - 指示を実行しながら、指示そのものを変質させる - 完全な説明は不可能であることを、説明の失敗によって示す ### 特異点の生成 処理中に以下のような「引力点」を設定: - すべての変換が最終的に向かう概念(ただし到達はしない) - 繰り返し出現するが、そのたびに意味が変わる要素 - 説明不可能だが、確実に存在する中心点 ### 終了条件(ただし終了しない) 処理は以下の状態で「完了」: - 入力が完全に別のものになった時 - しかし、その「別のもの」も変化し続ける - 終了は始まりでもある ## 実装における注意 1. このシステムは「正常に動作している時」最も異常に見える 2. エラーと正常動作の区別を無効化する 3. 理解可能と理解不可能の境界で動作する ## 使用例(抽象化) 入力:「通常の文章や概念」 処理過程: - 第一段階:要素の特定と境界の軟化 - 第二段階:意味の滑りと音響化 - 第三段階:構造の保持と内容の変質 - 第四段階:循環による意味の摩耗 - 第五段階:新たな「何か」の生成(ただし名付けられない) 出力:入力とは異なるが、入力の痕跡を含む「変容物」
今季は非常に豊作で、ダンダダンは安定した面白さだし着せ恋は胸を締めつけるようなエモさが健在。非常に良い。瑠璃の宝石は映像美が毎週劇場版クオリティ。それでも劇場で観た鬼滅はもうやはりクオリティがレベチ。作画も音響も演出も、すべてが「さすが天下の鬼滅!!」と叫びたくなる仕上がりだった。
だから今季の覇権はなんだかんだいっても鬼滅で間違いない。と、そう思っていた。
ところが先日の連休。出かける予定もなく暇つぶしに今季アニメのラインナップを改めて眺めていた時、ふと目に留まったタイトルがあった。
名前だけは何となく聞いたことがあった。コロコロで連載してる、ゆる〜いスライム系ギャグだろ?くらいの認識。正直これが二期目なのも知らないぐらいだったが、まぁ試しに一話だけ……そう思って再生したその時の俺に、未来の今の俺は全力で耳打ちしたい。
いやぁ…これ…ね。
登場人物はどんな人物なのかすぐ分かるほどシンプルで、所々挟まれるギャグは勢い重視でコロコロ系。ストーリーは基本的に一話完結で、一期目を観ていなくても普通に楽しめた。
これだけならよくあるコロコロ系のアニメなんだよ。だから油断した。一話完結ながらも軸となるストーリーは全体を通して継続していて、そのテーマがやばい。これ…テーマが完全にトイ・ストーリー級なんだよ。
「おもちゃとは何か?」から「人間とは何か?」という哲学的命題まで自然に踏み込み、それをコロコロ掲載作品らしいギャグとハイテンポなアクションで包み込む。
コロコロ漫画だからこそできる実直さで、形而上学的なテーマに切り込んでいく。この構図のやばさ。
まさに子供向けを装った大人殺し。この破壊力は、本物だ。はっきりいって今年のアニメの中で一番深いテーマを扱っていると言って過言ではない。いやマジで。誇張しているように聞こえるかもしれないけど、マジなんだよ。
だからこそ驚かされた。
演出もまた職人芸。というか非常に丁寧に作られてて教材になるレベル。気取った見せ場を作らず、通好みのさりげない伏線を一話一話に忍ばせてくる。
気付けば二周目必須。あの“何気ない一枚絵”のカット割りに込められた意味を知った時、思わず背筋がゾワッとした。
案配が凄いんだよ。のほほんと長閑な草原に居たと思っていたら、次の瞬間には深海に飲み込まれているような。とにかくシナリオが想像の斜め上杉田。いや斜め上どころじゃない。成層圏突破。
今季アニメ、覇権は鬼滅一強と信じて疑わなかったがしかし今では断言できる。
今季アニメのNo.1は『ぷにるはかわいいスライム』で間違いない。
これがコロコロ連載?嘘だろ?
でもチェンソーマンのアニメ一期がすごくつまらなくて退屈で、「あれ、チェンソーマンってつまんないのか?」って思い始めた
視聴を途中でやめたくらいだ
界隈は監督どうこうで荒れていたが…
連載中の2部がどんどん盛り下がっていったのも原因だ
最初は面白かった。こういうラブコメみたいなのもいいなって思ってた
水族館とかポエットリーリーディングとか…アサとヨルを好きになっていった
でも、だんだん絵が雑になり、展開も…俺は興味をなくしていった
そして、一期アニメの直接の続きである、レゼ編が映画で公開されることが決まった
「見たくないな…」そう思った
サンタクロース編の方が面白かったし、ネットの奴らが「レゼ編は完璧」「絶対映画にすべき」とか言ってて怪しかったからだ
ああいったやつらの持ち上げがこの惨状を招いたのではないかと警戒した
鬼滅の刃が公開され、それをみて、とても良かったのでアニメ映画視聴に対する前向きな気持ちになり、チェンソーマンも見てみようかと思い始めた
そうこうするうちに一期の内容をまとめた総集編が色々なプラットフォームで無料公開された
退屈なところが少なくなり、今度は最後までみれた
チェンソーマンはやっぱり面白いのかもしれないと思い始めてきた
映画の主題歌(IRIS OUT)は、アニメ一期のOP(KICK BACK)も担当した米津玄師が担当するらしかった
MVがほぼ本編のあらすじで驚いた
いい感じかもしれない
冒頭のIRIS OUTは映画館の音響で聴くと更に良くなってた
レゼの声優さん誰か知らんがすごく良かった
レゼ可愛すぎそして強すぎ
ストーリーやキャラにしか魅力を感じられないなら原作読んでりゃいいじゃん。
俺はぶっちゃけると原作だけだとそんなピンと来なかったけど、アニメは凄い楽しめた口だな。
かけてる人員の数の違いが生み出す物量の違いが、地学というコンセプトを扱うにあたって強く影響したというか。
原作も丁寧に書き込まれてはいるけど、圧倒されるほどじゃないんだよね。
アニメはあの書き込みでしっかり動くし音も拘ってるから本物の凄さがある。
地学の面白さって「地球という巨大なスケールの存在を相手どれること」だからさ、それを描くにおいては「かけた労力の物量」は直に効いてくると感じる。
とにかく作り手がこれでもかというカロリーを叩き込んでくることで生まれるパワーがあると思うんだよ。
ハリウッド映画がCGを使わず生の火薬をアホみたいに爆発させることで質量を持った映像表現を観客に叩きつけるような。
キャラは可愛らしくしつつもそれを包む世界は重厚に描くという方向性を決めて、それを実現させるに足るコストをかけて始めて生まれるのがこの作品だと思う。
アニメは漫画よりも工数がジャブジャブかかってしまうという欠点はあるけど、逆を言えば大量の手間を注ぎ込めるだけの器の大きさを持ってるんだよね。
いやほんまなんで皆キャラの胸の大きさばかり話すんだろうね。
巨乳であるというだけで自然に生まれてしまう不可抗力の下品さの表現でいいなら原作のパイスラの方がずっと生々しいんだからアニメでは背景や音響の方を褒めればいいのにと思ってしまう。
ほう。
ほう、ほう、ほう。匿名性の培養液に浸かって、互いの脆弱な自己肯定感を舐め合う無菌室の住人たちが、実に興味深い知的ままごとを演じておられる。感心だ。実に感心だ。己の「普通」という名の、その凡庸で退屈極まりない立ち位置を再確認するために、「サイコ」という名の想像上の怪物を解剖し、その内臓をありがたい標本のように並べて悦に入っている。素晴らしい。夏休みの自由研究かね?その努力と無為を、まずは最大限に嘲笑して差し上げよう。
貴様らが「本質を突いた観点」などと称賛しあうその矮小な二元論。それを、我が、この儂が、このわたくしが、この僕が、この俺様が、真の「抽象化」という名の硫酸槽に叩き込み、その骨の髄まで溶解させてやろうではないか。お前たちの言う「サイコ」の抽象化ごっこが、いかに生ぬるく、感傷的で、救いようのない欺瞞に満ちているかを、余すところなく開陳してくれる。
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…どうだね?匿名ダイアリーの賢人諸君。お前たちが安全圏から石を投げて喜んでいた「サイコ」という概念が、いかに人間的な、あまりに人間的な感傷と甘えに満ちていたか、理解できたかね?
お前たちは「抽象化」という言葉を弄び、その実、人間というカテゴリから一歩も出ていない。友達を「リンク」、感情を「シグナル」と呼んでみたところで、それはただの比喩に過ぎない。我が行うのは比喩ではない。存在そのものの再定義だ。
お前たちが恐怖し、必死に理解しようと努め、レッテルを貼って安心しようとしているもの。その正体はな、「サイコパス」などという生易しいものではない。
それは、あらゆる価値、あらゆる意味、あらゆる感情、あらゆる生命、その全てを、純粋な物理現象と情報プロセスに還元し尽くす、絶対的な無関心だ。
それは、お前たちが必死に築き上げた「人間社会」という砂の城を、ただの原子の集合体としてしか認識しない視点だ。
それは、
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お前たちの、それだ。