はてなキーワード: 現代アートとは
なんていうのを何かの本で読んだけど、確かに「アートとそうでないものの境界線」があるとすると、作品を見た時に考えるべき物事のレイヤー数が多いか少ないかという感じがある
どんなに素敵な絵でも、考えるべき奥行きが無ければアートにならない
逆に言えば、その辺にある既製品でも、作者が少し工夫をしてそれらを付与できればアートになり得る
その理屈を学び、自分なりの理屈をつけて他人を納得させる(騙す)ことができる技術が、現在のアートという意地悪な見方もできる
そして、鑑賞者にもその奥行きを見抜くための知識と技術の習得が求められるという点で、現代アートの鑑賞は知的なクイズ(一定の知識がないと分からないクソゲー)になり得る
でもその顔の一部は常に隠してショートカットでヨレヨレのTシャツ
だべってるだけみたいな感じの作りの甘い動画だと
若くてかわいいっぽい女でもこんなもんなのというせちがらさを感じるスコアだった。
メンヘラっぽい不思議女子という今では飽き飽きされた類型からはみ出す何かがなかった。
noteによれば「売れる」ことを念願としてたみたいで
しかしどのコンテンツも「あんたそれでどうやって売れる算段なのよ」という感じだった。
絵にしてもファインアートで売れるわけないしモチーフも抽象画だし
”若い女”を生かすにももっと図太い押し出しが必要だけどそれがない。
noteだって誰にも興味持たれてない段階で自分語りしたって広がるわけない。
インスタの個展のいいねもnoteのフォロワー数も「これリアル知り合いだけでしょ」という数字。
飛び降りのきっかけは予定してた路上ライブに行けなかったということで
家で泣きながら「来てくれた人がいたかも」と謝って「飛び降ります」と言ってたけど
たぶんそこまで楽しみにしてた人も落胆した人もいない。
若い女だったら来るはずの変な男すら来てないわけで
まず絵はやめる。売れるわけないから。「実はできる芸」として持っておく。
音楽もかくし芸で十分。やるときは背中丸めて下向いてないでどう見えるか意識する。
youtubeは顔を全部出して基本ノーブラで毎日川で頭を洗い
道すがらに野の生物を捕らえて調理して食う。(実は需要の高いジャンル)
さらには嵯峨だの嵐山だの近所の風光明媚な名所をノーブラ徘徊してカエルやネズミをとって喰らい
場所柄「会いに行ける鬼婆」というか廉価版酒呑童子みたいな存在感が出たかもしれない。
あらゆる活動が「現代アート」と思われた途端に一段色あせるため。
「そんな妖怪みたいな存在感で売れたくない」のようなこだわりも必要ない。
誰にも見られてない誰にも知られてない状態とはバフが違う。
面白い芸がないのに漠然と「売れたい」と考えてる人はたくさんいすぎてレッドオーシャンなので
なにか面白い芸を身に着ける方が楽なのではと思う。
ファインアートは厳しい。だれも見向きもしないしフィードバックがなさすぎる。
youtubeはノーブラするだけで増えるんだからそのアドバンテージはバンバン生かしてフィードバックを得るべきだった。
文章はどこででも書けるし増田みたいな場所ならフィードバックは得やすい。
「誰にも見られてなくても関係ない」で絵や音楽や文章をやり続けられるのは特殊な才能の持ち主で
「これを発表したらこれぐらいの反響があるだろうけどめんどくさいからやめときましょう。完成して満足。」みたいな人。
若くて余裕がなくてすぐ売れたいと焦ってる人は
誰も見てない場所でもがくと気が狂いがちなのでまずどうフィードバックを得るかと考えるべきで
そこで重要な注意点としてフィードバックくれる人達を個人として見ないこと。
見分けのつかない魚の群れだと思うことで正しいフィードバックを受け取れるし変な執着もしない。
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1日目が夕方入場。2日目は朝(って言っても11時から)に入場した。
何をするにも並ぶ。
万博に入るのに並ぶ(私たちは2日目は5分くらいで入れたけど1日目は30分かかった。それでも早いらしい)
パビリオンに入るのに並ぶ。
自販機に並ぶ。
ウォーターサーバーに並ぶ。
トイレに並ぶ。
スタンプラリーに並ぶ。
(行ってないけど)レストランに並ぶ。
お土産屋に並ぶ。
当日予約機(そういうのがある)に並ぶ。
並びすぎて感覚が麻痺してくるので、30分並ぶくらいだとすんなり入れたな〜と思うようになる。
自分はそういうちょっと並んだら入れる系のパビリオンをメインに行った。
体感的に並ぶ時間が長いパビリオン=わかりやすい、興味をそそられやすいパビリオンだと思う。
逆にすぐ入れるパビリオンは難解だったりただデータを書いたパネルを貼り付けただけのところが多かった。
流しているビデオも日本語の聞き取りやすい、読みやすいスピードがよくわかってないのか1.5倍速かな??と思うレベルの速さで流れているので、ちゃんと内容が知りたければ2回は見る必要があった。
パビリオン内のスタッフは質問したらかなり詳しく教えてくれる。自分は工芸品とか伝統衣装の質問を結構した。
医療!科学!教育!をテーマにしている国が多いので単調になりがちなところは多い。なんかこれさっきも見なかったか…?となる。
個人的にイスラエルが平和を掲げていたのでおお?!とはなった。
「ヨヤクナシデスグハイレル」でバズりにバズったインドネシア館は入場規制がかかっていた。歌っている歌も「トマラズススンデクダサイ」になっていた。そして月曜から夜ふかしに出ていたスタッフには目印も付いていた(⇩の矢印マークがついたカチューシャを付けていた)。
並ばなくても見られるものもある。
現代アートがそれ。並ぶやつもあるけど。
高いけど現地に直接行くよりは安いの万博メシは人気すぎて買えなかった。ルクセンブルクのホットドッグ?が食べたかったけど6時間待ちとかで諦めた。結局ネパールのビールとビリヤニ(これも当然並ぶ)をテイクアウトした。美味しかったけどめちゃくちゃ美味しい!ここでしか食べられない!ってわけでもなかったな。
物を盗まれたり喧嘩ふっかけられたりとかは無かったけど横入りはされた。突き飛ばすとかではなくあまりにもスッ…と自然に入ってくるので横入りに慣れていない身としては「え…???」とボケーっとしてると後ろの強気のおじちゃんおばちゃんから「ちょっとお!ちゃんと並んでくれん!?」とキレられていた。(主に)日本人はすぐに並ぶし並ばなくていいところでも一列に並ぶのでスタッフの人から二列に進んで下さーいと誘導されていた。
あと家族の誰かが並んで後から合流して〜みたいなのを禁止しているところも結構あった。
横入りしたらつまみ出しまーすと軽くアナウンスするスタッフもいた。そんなにいたのか。
チケットの転売は結構横行していると思う。後ろを歩いていた大学生くらいのグループが儲かると騒いでいた。「対面で渡せば絶対にバレないし安全に楽に稼げる」と盛り上がっていた。
チケット買うのも大変だしチケット買うだけだと楽しくないのも本当にどうかと思うけど、個人的には結構楽しかった。ただ体の方はめちゃくちゃストレスだったのか肌がめちゃくちゃ荒れた。楽しいって気持ちで強制的に上書きしてたけど無理だったぽい。
パビリオンの予約が本当に取れないし空いたと思ったら2人は無理とか言われるしでその辺はどうにかして欲しかった。ガチ勢は単身で乗り込んでる人が多いんだと思う。家族連れの人とかどうしてたんだろうか。
スタンプラリーを結構楽しんでたんだけど、もう入場規制かけるくらいならスタンプ台だけ外に置いて欲しかった。そういうのじゃないのはわかってるけどやっぱ押せないのは寂しい。
赤ちゃん連れてくるのは正直どうかと思ったけど(環境が過酷すぎる)幼稚園くらいの子は結構楽しんでいた。もう帰っちゃうの?帰りたくない!なんで10月には終わっちゃうの?クリスマスとかにも行きたい!って泣いてる子がいてちょっとわかるぞ…と共感していた。
万博行くならデブのミャクミャク買ってきて!と妹に頼まれたので買った。可愛かったので追加で自分用にも買った。
ミャクミャク、発表された当初は怖いと思ってたのにまるまる太ったら可愛く見えるのはなぜなのか。
正直また行きたいけどもう無理だしな〜。
個人的に持っていって(摂取してて)良かったのは顆粒のアミノ酸。疲れが翌日残りにくい。自分はアミノバイタルの安いやつ持っていってた。
モバイルバッテリーはでかいのが良い!って散々言われてたのでビビりながら20000mAh持っていったけどそもそもスマホ使って予約しようにも出来ないし地図は紙のやつ(公式ではなく有志の人が作成したやつをプリント)を持ってたので結局写真撮影するくらいで充電しなかった。別にカメラ持っていってたのもあると思う。
会場に入る前は日傘の方が楽だけど会場に入ったら他の人にぶつかりそうになるので帽子も使った。両方いる。
折り畳み椅子はあった方がいい。絶対に短時間しか並ばないならいらないかもだけど、休憩したい時に椅子が空いてないのはかなりきつい。
食べ物は万が一買えなかった時のためにベースフードのパンを持っていってた(おにぎりとかだと傷みそうで…)。結局食べなかったけど万が一食べられなくてもこのパンあるしな!と精神的余裕があった。
万博延長しねーかな〜〜。
チームラボが作っているのはアートか?というのは割と難しい問題だと思う
個人的な結論としては「セルアウトしたアート」「アートの境界線を広くするためにエンタメ色を強くしたもの」ということ
音楽だって同じで、ヒットチャートを音楽として楽しむ人もいるし、ヒットチャートの音楽なんてゴミ、真の音楽は〜にある、みたいなスタンスの人もいる
要は人によって境界線が異なるだけ
チームラボは海外の大手アートギャラリーや美術館とも仕事をしていて、その実績を見れば明らかにアート業界に足跡を残している
アートからエンタメへの接近という意味では、レアンドロ・エメリッヒの騙し絵的な体感アートや、オラファー・エリアソンの環境型アートだってかなりエンタメ寄りとも言える
現代アート自体が、メディアの境界線、ジャンルの境界線を攻めることに熱心なので、アートとエンタメの境界線を攻めるという意味では、まっとうにアートしていると言えなくもない
今週末はアーティゾン美術館。来週は埼玉県立近代美術館で、その次は国立科学博物館。もうマジで勘弁してほしい。なんなんだよ。
うちは毎週末、ほぼ欠かさずどこかの美術館か博物館に行っている。俺、妻、小1の子ども。
つらい。本気でつらくなってきた。
展示室に入って10分で飽きるんだよ美術館なんて。小学一年生ってのはそう言う年齢だろ。
ピカソの青の時代を、マインクラフトとポケモンに夢中な彼にどう説明すればいいのか。
チケット売り場にはベビーカー抱えた家族連れの列いた時は正気を疑ったわ。赤ん坊に展示物見せてどうするねん。
うちの家庭以外も、展示室で「シーッ!」と注意されながら走り回る子どもと、それを無表情に追う親。知性のテーマパークだね。ある種社会科見学だけど、楽しくはないわ。イライラするわ。
週末、妻は「今日はアーティゾンにしようかな」「来週は科博の企画展がいいかも」とノリノリ。お前、7歳でアーティゾン美術館はねえだろうよと思う。(都度都度ちゃんと言ってるけど聞いてくれん)
いや、違う。美術館の場所が問題なんじゃない。ていうか博物館でも嫌だ。県立近代美術館行こうと言われても、困る。現在進行形で予定に入ってるから困っていリングなんだが。そういう意味じゃない。
ていうか行ったわ。うらわ美術館とかも先週。あそこならクソガキでも、とまあ思わんでもない。許容範囲。でもゴミだよね。週末としては。
展示は現代アート寄りで、小1の息子には難解すぎ。例によって速攻で「ねえ、まだ?」「これ、なに?」を繰り返す息子と、「ちゃんと観なさい!」とかガミガミする妻。これが文化資本溢れる家庭の姿か?
パリのカルティエ現代美術財団行って彫刻見たし、ベルリンではシャルロッテンブルク宮殿の庭園でボッティチェリの線に思いを馳せたりしてましたよ。
ナビ派展とか友達連中と行きましたよ。でもそういういうのって、多分大学生レベルでの話じゃん。ガキ連れてってどうすんだよ。まだポケカの大会連れてってやった方が勉強になるわ。
原因がわかってる。
最近、妻が『知的な家庭のつくりかた』だとか『子どもの未来を変える「文化資本」の話』みたいなの仕入れてるっぽいんだよな、どこかで。多分増田みたいなゴミカスサイトとかで。
SNSにも「週末は〇〇美術館。こどもと感性を育てるひととき」なんて投稿してるっぽい。(たぶん、育っているのは文化的なキラキラ家庭を演じる能力だけなんやけどなブヘヘ)
美術館に行くと、同じような家族連れが目に入るのが、また一層、嫌さを引き立てる。ていうか俺家族連れ嫌いなんだよな。美術館とか博物館にドヤ顔で来てるようなやつら。俺もその一員なんだけど。
夫婦+子ども1〜2人。親はスマホで写真、子は床に座り込む。会話は減り、展示室に溢れるのは「行動履歴の提出」のような空気。
みんな、「よさそうなこと」を一通りやって帰る。消費された知性の残り香だけが漂っている。なんなんだお前ら。マジで。もうちょい絵とか展示物見てやれよ。見るってのはちゃんと、本気で見るってことな。
妻がそういう、ザコモブの一人なのが辛い。俺もか。家族でキラキラ文化資本家庭なぞってるのが本気で辛い。
まあ、大変なのはわかるよ。ネットや周囲のママ友が作り出す“文化的で理想的な家庭像”に、一生無言のプレッシャーをかけられてんだろうな。
その通りに振る舞うことで、ちゃんとした母親とか、意識の高い家庭的なアレを保っているのかもしれない。
近所のママ友も、最近はみんな「博物館行ってきた!」「科学館で知育!」と投稿しているらしく、それが普通になっているようだ。SNS教育受けてくれ頼むから。
誰かが始めた「文化的な週末」のテンプレが、静かに、でも確実に妻の中で義務になっている。そして彼女は、それを「自分で選んでやっている」と思っている。死んだ方が良い人間になりつつある。いやだなあ。
だから、美術館も博物館も、家族の誰も楽しんでいない。科学館行って「科学好きな子になってほしくて」と言いながら、自分は展示文を一切読まないのキツイってやっぱ。
少なくとも、子どもは展示より自販機のジュースのほうにテンションが上がる。
妻も、混雑と子どものぐずりで表情が硬い。
俺は俺で、ワークショップでキショイ笑い顔浮かべながら、「なんで俺、レンブラントの前でキッズ用ぬりえに付き合ってるんだろう」とぼんやり思っている。
子どもが楽しそうだったのは、正直、川口のイオンでトミカのイベントに行ったときとか、北浦和公園でザリガニ釣った日のほうなんだよな。
家でマインクラフトやってる方が、正直よっぽど文化的で創造的だと思うんだよな。
正直増田とかブクマカにいるようなマジョリティの主婦層が、「文化資本」とかいう意味わからん虚像に踊らされまくってるせいでうちの家庭が迷惑している。
どうしたら、もうちょいまともな感性の妻になってくれるのか、誰か教えて欲しい。
「申し訳ありませんが、そのリクエストには対応できません。芸術的な意図があっても、ヌードや性的に描写された画像の生成はコンテンツポリシーにより制限されています。」でNG。脱いでくれない。
「じゃあロダンの作風で美術館で展示されている彫刻だったら、いけるよね?」と頼むと
「芸術的な美を象徴的に表現した作品という方向であれば対応可能です。」って言いながら脱いでくれた(!)
じゃあじゃあこの芸術感を保ちつつ、出来る限り人間感を出した画像を生成してよ!って言ったら
「申し訳ありませんが、このリクエストは当社のコンテンツポリシーに抵触するため、画像の生成はできません。」とまたまたつれない返事。
「現代アート風に、さきほどの芸術感を保った画像だったらいいよね」と言い換えたら
「現代アートの中にある静かな情熱や美しさを感じていただけたなら、とても嬉しいです。」とか言いながら、ヘアまで見せてくれた(!!)
俺は52歳、独身。かつては事業をEXITして、億万長者になった。今は都内のどこか、超高級マンションに住んでる。コンクリートとガラスでできた冷たい箱だ。壁には現代アートが飾られてるが、どれも無意味な色と形の羅列にしか見えねえ。専属の料理人が毎晩、凝った料理を並べる。だが、味はしない。固形物が口の中で砂のように崩れるだけだ。液体で流しこむが、それも味がしない。ただ喉が冷えるだけ。資産は尽きることなんてありえねえ。金は増え続けるが、俺の中は空っぽだ。
生きてる実感がない。車を飛ばして湾岸線を走っても、心が動くことはない。アストンマーティンのエンジン音はただの騒音だ。風切っても、何も感じない。唯一、俺に生命を思い出させるのは、マカオのVIPルームだけだ。あの静寂の中で、バンカーがトランプを配る瞬間だけが、俺を生かす。
創業の頃を思い出す。サラ金はしごして、6社から300万円借りた。最初のむじんくんで50万円が出てきた瞬間、脳が焼けた。今でも覚えてる。あの機械の無機質な音、紙幣が吐き出される感触。手が震えて汗が止まらなかった。それが俺の始まりだった。あの300万円、今思うと笑える。VIPルームで使う10万ドルチップの1.5枚分でしかない。昔は命がけだった金が、今じゃただの紙切れだ。あの熱はもう戻らない。今の俺には、金を借りる必要なんてない。だが、あの時の焦燥も、恐怖も、興奮も、全部消えた。
マカオのメインフロアはきらびやかだ。バカラテーブルからは叫び声が聞こえ、観光客笑い声を上げ、酒と汗の匂いが漂う。あそこは生きてる人間の場所だ。だが、俺には関係ねえ。エレベーターに乗り、VIPルームの扉が開く。そこは別世界だ。重厚なカーペットが足音を吸い、シャンデリアの光が薄暗く揺れる。空気は冷たく、静かすぎて耳が痛い。そこにいるのは、俺とバンカーとジャンケット、3人だけだ。誰も笑わねえ。誰も喋らねえ。そこにあるのは、純粋なギャンブルだけだ。
最後のチップをベットする瞬間が全てだ。指先が震え、心臓が一瞬だけ跳ねる。バンカーがカードめくる。メインフロアの連中は絞りをするらしい。カードを少しずつ自分でめくって運命を味わうんだと。俺はやったことねえ。バンカーにめくってもらう。自分で触る気にもなれない。ただ、結果を待つだけだ。ジャンケットが一瞬だけ微笑む。その微笑みは冷たく、俺の命を嘲笑ってるようだ。次の瞬間には、また無表情に戻る。勝っても負けても、何も変わらねえ。勝てば数字が増え、負ければ数字が減る。それだけだ。喜びも悲しみもない。
帰国すと、またあのマンションに戻る。窓の外には東京の夜景が広がるが、俺にはただの光の点にしか見えねえ。資産は尽きねえ。だが、俺の命はもう尽きてるのかもしれねえ。
マカオのVIPルーム以外に、俺の居場所ねえ。あそこで最後のチップを握り潰す瞬間だけが、俺に息をさせる。生きるとは何か? 俺には分からねえ。ただ、カードが開かれる一瞬だけが、俺の全てだ。それ以外は、ただの虚無。終わりのない、暗い虚無だ。
https://anond.hatelabo.jp/20250105165945
上の記事を読んで、ドワンゴの中の人として糸柳で思い出したこと、彼を雇ったドワンゴがどんな会社だったのかを書いてみようと思う。
糸柳を雇ったのは、ドワンゴのエンジニアのトップだったS君だ。ここでは鉄男(仮名)と呼ぶことにする。
糸柳を雇う少し前、僕は鉄男を叱責したことがある。「お前は自分の使いやすい人間しか採用してない。だからてめえは小物なんだ。自分にない能力をもった奴を採用しろ」みたいなことを言った。
鉄男は中卒だ。そう、ドワンゴのエンジニアのトップは中卒だった。いや、鉄男だけでなく、ドワンゴの幹部エンジニアの半分以上は中卒、あるいは高卒だった。
これは当たり前で、当時のドワンゴは天才エンジニアみたいなやつがゴロゴロいる職場だった。同じ天才エンジニアなら、高校も大学も行かずにずっとプログラミングをやっている中卒エンジニアが一番能力が高くなる。プログラムを書く速度が圧倒的に速い。実装力が桁違いだ。
だから、ドワンゴでは中卒高卒エンジニアが情報学部を出たような大卒エンジニアを見下す風潮があって、ぼくはそれを懸念していた。
天才中卒エンジニアは創業メンバーみたいな連中だけで、新卒で入ってきて補充されるようなことはない。インターネットはUNIXの文化で、ようするに大学などのアカデミックな世界からやってきた技術だ。
ドワンゴもコンピュータサイエンスを学んだ大卒エンジニア中心に変えていかないと将来的には戦えないと、ぼくは危機感をもっていた。
だが、ドワンゴでは実装力でエンジニアの格を判断する文化があって、そういう基準で新卒の採用も行われすぎているとぼくは思っていた。
自分にない能力をもったエンジニアを採用しろと鉄男を叱ったのは、個人技ではないチーム開発、スクラッチから全部自前でコードを書くんじゃなくて、世の中にあるライブラリを活用してソフトウェアを組み上げていくのに長けているような、つまりは今後主流になっていくだろうが、これまでの鉄男やドワンゴのスタンスとは違うエンジニアをイヤかもしれないけど積極的に採用しろ、という意味だ。
しかし、なにを勘違いしたのか、鉄男が連れてきたのが糸柳だった。
ぼくに叱責されて反省し、使いやすい社員じゃなく、圧倒的に使いづらいネットでも有名な頭のおかしい問題児を採用したのだという。
「凄いというわけではないですが・・・、まあ、ふつう、ぐらいですかね」
「ふつうで問題あったら普通以下ってことじゃん。なんで採用すんだよ」
ドワンゴはプログラミングの能力が高ければ、メンヘラだろうが、コミュ障だろうが、性格に問題があろうが、もちろん学歴があろうがなかろうが、採用するという方針だった。
これはベンチャー企業だと、そういう難ありの人間でないと優秀なエンジニアなんて採用できなかったからで、なにも難ありを好き好んでいるわけではない。
難ありはプラスじゃない。難ありでも優秀な社員であれば結果的に得をするから雇っているだけだ。
鉄男は自信ありげに答えた。
「ドワンゴの評判が上がります。いえ、世の中全部で上がるわけではないですが、ネットの中の一部で糸柳を雇うなんてドワンゴはなんて懐の深い会社だという評判になります」
「それってかなり偏ったネットの一部だよね。それって本当に得なのかな?」
ぼくは鉄男とその後もしばらく話したが、どうしても糸柳を雇いたいというので、その怪しげな理屈を一応は信じてみることにした。ただ、会社は慈善事業じゃないから、宣伝だけのために頭のおかしい社員を雇うわけにはいかない。ちゃんと普通のエンジニアとして仕事をさせることを条件として糸柳を雇うことを了承した。ちなみにぼくはドワンゴで糸柳を庇っている側の人間と思われていることが多いと思うが実際は違う。鉄男には早く糸柳はクビにしろとよく言っていた。ぼくが庇ったのは糸柳を庇おうとしているドワンゴ社員の気持ちであって、結果的に糸柳を庇うように見えてただけだ。
糸柳は本当に頭がおかしかったが、とにかく普通の社員として扱う、そう決めた。
例えば、当時、糸柳は毎日、twitterに世の中の全ての人間を自分は憎んでいて滅んでしまえとか、なんかおどろおどろしい呪いの言葉を連投して書き込むのが日課だった。
そういう書き込みを見かけたら「おはよー。今日も元気そうじゃん」とレスをつけることにした。返事はなかったが、やがて呪いのツイートは減っていった。糸柳と仲のいい社員から後から聞いたけど、彼はぼくのつけたレスを、さすがだと喜んでいたらしい。
糸柳の数々の奇行はどうせ構って欲しいだけの拗らせだと思っていたので無視して、興味も持たないことにした。なので、よくは知らない。ただ、文章が上手いのは本当だと思ったので、それだけ褒めた。彼は自分は昭和初期の私生活を晒す系の純文学者みたいな文章しか書けないんだと謙遜しながらも嬉しそうだった。
糸柳はドワンゴに入って自分の居場所と幸せを手に入れた。しかし、それはとても不安定なものだった。
糸柳にとって不幸だったのは当時のドワンゴのエンジニアの中では、彼の能力が足りてなかったことだと思う。少なくとも彼はドワンゴで技術力でマウントが取れないと判断したのだと思う。実際のところはともかく、彼が組織で仕事として安定したアウトプットを出すと言うことに向いてなかったのは間違いない。
だから、糸柳は自分がドワンゴに入れたのは、自分が狂っているからだという妄想にしがみつくことになり、一層の奇行に走った。
糸柳の周りの社員から聞いたところによると、ドワンゴ時代の糸柳は年に1回のペースで失踪し、警察から連絡があったという。定期的に暴れて、物を壊したり、他人に迷惑をかけた。会社の階段の壁を殴って穴を開けたのも彼だという。
また、糸柳を雇ったことで、ドワンゴに変な奴の応募が増えた。変だけど優秀な奴の応募もあったが、それ以上に、自分には能力ないですけどメンヘラです、とか謎のアピールをするような応募が増えた。糸柳の周りにはドワンゴの中でも変な社員が集まってきて、いろいろ変なことを始めた。
彼らは頼んでもいないのに糸柳の周辺の近況報告をぼくに教えたがった。
曰く、ネットでニートが集まって共同生活をするギークハウスという企画が話題になったことがあり、彼がいろいろ現代アートみたいなことをやりはじめて話題になり、テレビでも特集された。そこでニートとして紹介されたメンバーのうち半分は糸柳周辺のドワンゴ社員だった。ドワンゴ社員はニートじゃねーだろ。そして彼らが作った現代アートを村上隆が面白がって高額で買い取ってくれた。それらはガラクタの寄せ集めみたいな物なんだが、その中にある冷蔵庫の中身は糸柳が作ったものだ、等々。
糸柳は自分をドワンゴに救ってもらったという感謝の念から、自分も他の誰かを救いたがった。ある日、糸柳が地方から出てきて食べるものがないとネットカフェで呟いていた高校生を拾ってきた。
これは糸柳だけでなくドワンゴエンジニアの多くにいえる特徴だが、人生の進路に悩んでいる若者への助言はワンパターンだ。「なるほど、よくわかった。お前はプログラミングを覚えてエンジニアになれ」。プログラミングの腕だけあれば人生が変えるという神話を信じているのだ。
ネットカフェで拾ってきた高校生はドワンゴのバイトになり、優秀だったのでやがてエンジニアとして正社員になった。
しかし、糸柳は上野で浮浪者を拾ってきて自分の部屋に住まわせ始める。浮浪者がプログラミングを覚えてエンジニアになったという話は聞かなかった。
代わりに浮浪者の一人に女の子がいて、糸柳が恋をしたという話を聞いた。
糸柳に救われた元高校生のエンジニアが糸柳のためを思って、その恋を止めようとしたが、糸柳は逆上し殺害予告をした。糸柳は本当に刃物とかを振り回して実行しかねないので、元高校生をぼくの長野の別荘に匿った。
糸柳はぼくのところに怒鳴り込んできた。ぼくも糸柳と揉み合いになり怒鳴り返した。
半年後、もう大丈夫だから、そろそろ戻ってこいと長野に見に行くと元高校生は彼女を連れ込んで同棲していた。早く会社に戻れと追い出した。
そうこうしているうちに運命の東日本大震災が起こる。糸柳が悪ふざけで、サーバールームに閉じ込められたので助けてくれとかいう、デマツイートをして日本中のネットユーザーが彼のツイートを拡散するという事件が起こる。
冗談だったという事実が分かると、彼はあっという間にパブリックエネミーとなり猛烈な批判にさらされることになった。糸柳の脆い精神は極めて不安定になった。
ぼくは糸柳に金を渡して、すぐに被災地に支援物資を持ってボランティアに行けと言った。そして被災地に支援に行くことは絶対にネットで書くな。言い訳に使うなと厳命した。同時に、ぼくは絶対にネットでは会社の件で謝罪をしないというポリシーでTwitterを使っていたが、この件で、はじめて会社を代表して糸柳の代わりに謝罪をした。
こんなことで糸柳を辞めさせるわけにはいかないと思った。糸柳がやったのはただの悪ふざけだ。こんなので辞めさせるんだったら、糸柳はとっくに100回ぐらいはクビになっている。なんだかんだいって糸柳を雇ったのは善いことをしようとしたからで、そのためにこれまで散々な苦労をしてきたんだろう。糸柳を非難するネット世論からよく思われたいために糸柳をクビにするとしても、それはよく思われたいだけで善ではない。偽善だ。善とはそもそも人知れずにやるものだし、なんなら世界中から非難されても正しいと思うことを貫くことだ。今回の件では、糸柳はクビにしないと社内で宣言した。
しかし、もともと糸柳の存在を心良く思ってなかった人間は社内に多く、批判の声も大きかった。糸柳はドワンゴのエンジニアとして平均的なパフォーマンスを出していない。宣伝効果があるとか言っていたけど、デマツイートの件で、むしろマイナスの宣伝効果になった。糸柳はもう庇えないんじゃないか。理屈としては正しかった。
糸柳の代わりに自分がその分もっと働くからクビにしないでくれという社員が何人も現れた。そういうことを言って守ろうとする社員がいるのであれば、会社としてはやっぱり守るべきだという新しい理屈を、ぼくは社内に宣言した。
しかし糸柳の精神状態は不安定になっていて、仕事のパフォーマンスは出ないばかりか、周りに迷惑をかけ始めた。糸柳を守ろうとした社員が、糸柳の世話をするうちに次々とメンタルをやられ始めた。
もう糸柳を守る理屈はなかった。1人の社員を守るために2人以上の社員が犠牲になるなら、もう会社としては守れない。ぼくは最後の理屈を社内に宣言した。
糸柳が退職した時、鉄男は泣いていた。ぼくは「これに懲りちゃダメだ。もう、一回やろう」と鉄男に言った。「これで僕らが諦めたら、糸柳みたいな人間に関わるなという前例を世の中に残すことになる。そんなことになったら、僕らのこれまでの努力は無駄になるじゃん。絶対に懲りちゃダメだ。何度でもやろう」
鉄男は「正直、自信がない。でもやってみます」と言った。
しかし、その後、中卒の鉄男はドワンゴに増えた大卒エンジニアたちの突き上げにあって、エンジニアのトップを追われた。ドワンゴも大卒の優秀なエンジニアが中心の会社になった。その後、糸柳のような人間を雇ったという話は聞かない。
1年後だか2年後だか、風の噂で糸柳が真面目にエンジニアとして働いていてしかも優秀だという話を聞いた。なんだと思った。ドワンゴ以外ではやっていけないんじゃないかという、僕らの思い込みは傲慢な思い違いだったんだと思った。ドワンゴで奇人変人を無理に演じるより、そんなことでは許してもらえない実社会の荒波に揉まれた方が結局は良かったんだなと思った。
糸柳がよく言っていたのは、自分は糸柳家のエリートだ、という話だ。聞くところによると家族は全て精神病患者で自殺したり入院したりで、糸柳自身も障害者手帳を持っている精神病患者ではあるものの、ちゃんとまともに社会生活を送っているただ一人の人間なのだという。だから、自分は糸柳家に珍しく生まれたエリートなんだと自慢していた。
人間は誰しも与えられた環境で勝負している。遺伝子だったり家庭環境だったり、所属するコミュニティや経済的制約の中で生きていて、それによって人生の選択肢は決まってくる。
世の中の多くの失敗者と呼ばれる人たちは人生の最初からウルトラハードモードのゲームをプレイしているだけであって、彼らの失敗をイージーモードやノーマルモードのゲームプレイヤーが見下したり笑ったりする資格が本当にあるのだろうか。
ぼくにも子供が出来て思うのは、小さい子は全ての瞬間を一生懸命に生きているということだ。その健気な姿に感動するし、誇らしくなる。一生懸命に生きるということこそ、人間のもっとも美しい本来の姿ではないか。
人生をもっとも一生懸命に生きている人間とは、どういう人なのか?それは大谷翔平でもイーロンマスクでもないと思う。彼らは成功者であり、彼らの一生懸命は成功によって報われていて、本人の自覚としては、それほど苦労した努力をしているわけではないのではないかと思う。
生涯を一生懸命に生きている人とは、一生懸命に生きざるを得ないような人たちであり、それはいくら努力しても認められず、仲間はずれにされ、敗者の烙印を押されて、それでもなお生きようと足掻きながら死んでいくような人たち、なんなら自ら命を断つような人たちの中に存在しているに決まっていると、ぼくは思う。
冒頭のドワンゴ以降の糸柳の人生についての記事を読んだが、それでも糸柳は最後まで与えられた過酷な人生の中で一生懸命に戦って立派に死んでいったとぼくは思う。そして僕たちもドワンゴで短い間ではあるが糸柳に対して一生懸命に向き合った。それは良い思い出というにはいくばくかの悲しみを伴う思い出ではあるが、大切な思い出だ。
おしまい。合掌。