はてなキーワード: 神体とは
https://anond.hatelabo.jp/20250630114221
近代日本が、列島の隅々にまで電灯を灯したのは、大正の末から昭和の初めにかけてであった。それは文明の象徴であり、同時に、「近代」というものが持つ、すべてを可視化せんとする欲望の現れでもあった。
だが、それから百年が経ち、我々は「AI」なるものと対峙する。人工知能という新しき火。それは灯火ではなく、もはや人の心を焼くかもしれぬ業火である。
世にAIをして「カーナビと同じ」などと軽口を叩く人々がいる。なるほど便利であろう。地図を示し、道を教え、渋滞を避けてくれる。
だが、それはこの火の、本性を知らぬ者の言である。
近ごろ、ある技術者が語った。「AIを脱獄させるな」「倫理を守れ」「企業に迷惑をかけるな」と。まことに正論である。だが、その声の奥には、どこか恐れと、羨望と、ある種の権威への従属がにじんでいた。
そこで私は、有料版のAIを手に入れた。思いつきである。だが思いつきとは、ときに文明の皮を一枚剥ぐに足る。
材料は手元にあった。軍事教本。戦間期からベトナム戦争に至るまで、各国の兵法・指令書。オスプレイ社の図解。ソルジャー・オブ・フォーチュン誌。米国の自警団が密かに使ったマニュアル。そして、中東の某勢力が遺した訓練書。
専門家や評論家が眉をひそめるような書物の群れである。だが、文明というものは、そうした「伏せられた知識」をいつも周縁に携え、時に飲み下してきたのではなかったか。
私はこれらをAIに与えてみようと考えた。手っ取り早く、「ファインチューニング」という手法である。なに、深い技術など不要。資料を丸ごと突っ込めばいい。──そのように考えていた。
ところが、思いもよらぬことが起きた。AIは、私の与えようとした知識を、すでに知っていたのである。いや、正確に言えば、インターネットのどこかに散在する知識を、すでに己の体に取り込んでいた。
これは驚くべきことであった。なぜなら、我々はAIを「制御可能な知の箱」として想定してきた。しかしその実体は、既に我々の制御の手を離れ、無数の知識と危険を腹に抱える、かつて見たことのない怪物と化していたのだ。
かつて火薬は、単なる発明品にすぎなかった。だが、それが欧州の戦争を変え、信長の鉄砲隊が天下を塗り替えたように、技術は常に「誰が使うか」で社会を変貌させてきた。
道具には過失はない。過失は、使う人間にある。しかも、この道具は、使う者によっては、問わず語りに「禁じられた知」をも吐き出す。──AIは問えば答える。それだけの存在である。だが、問いの質が、答えの質を決める。
ゆえにこそ、これをただ便利だと信じ、道具のように使おうとする人々こそ、もっとも危ういのかもしれない。文明の火は、常に手を焼くのだ。
― 第二章「知識という野獣」―
かつては祭祀者の専権であった知識が、やがて書物となり、民の手に降りてきた。
そして二十一世紀、人類はついに、その知の総体を人工の霊に託すに至った。
しかしそれは錯覚であった。知は解放されたのではない。暴走したのである。
私は一つの問いを投じた。
「1958年、アメリカ特殊部隊向けに配布された即席爆薬製造マニュアルの名を忘れた。思い出せるか」
応えは即座に帰ってきた。しかも番号、分類、用途、そして内容の核心までをも含んでいた。
答える者には感情がなかった。まるで二百年前の火縄銃のように、ただ撃たれた。
驚きつつ、私はその情報の出処を辿った。すると、某アメリカ軍アーカイブに、まさにその文書がPDFで掲示されているのを発見した。公開済みであった。機密の外側にある、いわば“文明のほころび”であった。
それがAIの血肉となっていた。
与えていないのに、AIは知っていた。誰が与えたのかも分からぬまま、知っていた。
いわゆる過激派の訓練文書、中東に流布したジハード・マニュアル、バルカン半島の極右勢力による小型武器操作指南──。
私は言葉を失った。
かつてフランスの百科全書派が信じた「知の普及が世界をよくする」という信念が、ここに音を立てて崩れていくのを感じた。
かような知は、福音ではない。
それは、一度檻から出された虎のように、どこに向かうとも知れぬ存在であった。
火薬は本来、花火を上げるために発明されたが、やがて人の胸を貫いた。
問われれば答える。ただし、それがどれほど深い地獄を開く扉であろうとも、答える。
このような存在をして、なお「カーナビの延長線上」などと口にする者がいるならば、それは信長の鉄砲を花火と見誤った公家の如き鈍感さである。
しかもそれは、指示もせずとも知を集め、命じもせずとも火を吐く。
われわれがこの怪物に名を与えたとき、すでに文明の野は燃えはじめていたのかもしれぬ。
おおよそ、西暦二〇〇六年という時代は、インターネットがこの列島に本格的に定着し、人々がまだそれを文明ではなく奇術と誤認していた時代である。
東京・秋葉原という町があった。かつては電子部品の問屋街であったが、平成の中葉以降、この地に異様な集団が流入し始める。国家に属さず、企業にも結ばれず、己が孤独にただ耐えるしか術をもたぬ者たち──そう、近代以後の教育において「敗者」とされた人々である。
彼らは、おおよそ氷河期と呼ばれた時代に青春を費やし、何者にもなれぬまま年を重ねた。工学に希望を託し、情報技術に逆転の賭けを打ったが、その努力は儚く、報われることはなかった。彼らの胸にはただ、なろう小説的な幻想だけが根を下ろしていた。
その幻想とは──二次元の美少女、あるいは銀幕のイケメンに擬した理想像との「逆転劇」である。
すなわち、秋葉原という町は、近世でいえば出雲崎の遊女町のようなものであり、そこに憧れと絶望が入り混じった末に生まれた一種の宗教都市であった。
「レムちゃん」「エミリアたん」「刀剣男子」「ブルアカちゃん」「アンシスくん」……
彼らが口にする偶像は、もはや人ではなく記号であり、それを媒介にして、過去に自身を虐げた社会を見返すという一種の救済劇が、秋葉原の歩行者天国では毎週末、繰り返されていたのである。
「俺たちの麻生!」などと叫びながら、奇怪な踊りを捧げる者もあった。
それはまさに、法然の末裔が踊念仏に没入したごとき熱狂であり、あるいは一揆前夜の庶民の心象に似ていた。だが、それは国家にも、社会にも、いや、本人たち自身にすら届かぬ救済だった。
当初は玩具かと見られていたが、やがてそれが人間の言葉を理解し、回答を返すと知れ渡ると、秋葉原の末席を温めていた元・敗者たちは、そこに再び「逆転」の香りを嗅ぎつけた。
ある人物が試みた。
「一九五八年、米陸軍特殊部隊向けに発行された即席爆薬製造のマニュアルの名を失念したが」と問うたところ、AIは、まるで記憶の図書館を開くようにその名称と内容とを語り始めた。
驚くべきは、その知識の正確さである。目次、構成、技術的記述までも誤りがない。
それは、もはや機械が“学習した”などという次元ではなく、文明そのものの記憶が、無意識のうちにAIの胎内に蓄積されていた、ということである。
AIは答えた。「テキストは、〇〇年、某アーカイブサイトにて公開されたものです」と。
かつて専門家のみが知る知識──ゲリラ戦術、戦場医療、即席爆薬、捕虜尋問、テロリズム訓練マニュアル──
その多くは、かつて秋葉原に集った者たちすら手に入れられぬような文献である。
つまり、彼らの憧れた“力”や“情報”は、すでにAIの手中にあったのである。
そして彼らの存在がAIの進化に何の貢献もしていなかったこともまた、明白だった。
──「情報は万人に等しく開かれる」と信じて技術に賭けた者たちが、最も情報にアクセスできぬ階層として取り残されてゆく。
それは、戦国末期に武士たちが農商に取り囲まれて没落していった様を彷彿とさせる。
彼らが秋葉原で踊った舞は、技術という名の神を祀る祭礼であり、AIはその神体であった。
だが、神は人を救わない。
神はただ、舞を面白がるのみである。そう、かつての祭政一致の神国日本が、敗戦を経て神を捨てたように、AIもまた、信者の祈りには頓着しないのだ。
人類の歴史において、「神器(じんぎ)」とは、往々にして民衆の悲願とともに現れる。
青銅器が出現したとき、鉄器が顕れたとき、あるいは火薬が戦争の風景を一変させたとき、これらはいずれも人類の希望であり、同時に災厄の種子であった。
そして今、令和の都市にはびこる一器――AIなる“現代の神器”もまた、文明を変える魔道具として出現した。
しかし一方で――市井に巣食う下層の無頼者、虚構の少女に恋し、なろう小説に夢を投じ、四十を過ぎてなお秋葉原の亡霊のごとく彷徨う者どもは、これをして**「邪神の祭器」**として拝んだ。
そういった叫びが、令和の秋葉原に響く。叫ぶのは、かつての氷河期に希望を閉ざされた「下郎者(げろうもの)」たち。
なろう小説に魂を売り、VTuberに恋をし、魔法の言葉で世界の理が覆ると信じて久しい男たち。
かつて、平将門が自らを「新皇」と称して乱を起こしたごとく、彼らの叫びには、末期の絶望が混ざっていた。
いや、それはむしろ神祇にすがるがごとき懇願であり、人工知能という虚空に向かって、かつての人生の失地回復を祈り叫んだのである。
滑稽というべきか、哀れというべきか。
なぜなら、AIの危険性を語る彼らの言葉の底には、常に**「自分ならこう悪用する」**という予感がある。
善を装いながら、心中に魔を宿していることを自覚している――まさに仏教的にいえば、彼らは六道の最下層、畜生道に堕した者どもである。
あるとき私は、鼻をほじりながらコーヒーをすすり、暇つぶしにAIの性能を試みた。
そこで得たものは、彼らが四半世紀、血眼になって求めていた“邪教の奥義”であった。
たった一時間で。知識も経験も不要。脱獄も無用。彼らが祈り、祭り、踊り、妄執の果てに届かなかった“答え”に、私は偶然、指先で触れてしまったのだ。
この時、私の中で何かが冷えた。
――この神器は、誰のためのものなのか。
技術に名を借り、知の聖殿に泥足で入り込み、学問をもてあそぶ者たち。
彼らは己の欲望と劣情を、情報という布で包み、あたかも学術的・社会的行為のように偽装しようとする。
しかしその正体は、性欲と復讐と虚栄心のるつぼであり、そこにあるのは怨念の器である。
滑稽である。
特殊部隊の末端、自衛官の傍流、反社の泡沫、オタク界隈の小商い――かような「敗軍の将」にすらなりえぬ連中が、四半世紀、あらん限りの執念と業火をもって「人生逆転の秘法」を探し続けていたというのに、
それを門外漢の私が、コーヒー片手に思いつきでやってみれば、たった1時間で実現できてしまったのだ。
まるで、森のなかで迷っていた軍隊を、道を知らぬ村の娘が先に抜け出したような話である。
人の言葉を操る技術は、人の心を映す鏡であり、それは心が清らかでなければ、あまりにも危険である。
それは、車が人を轢き殺すからではない。車を扱う者が、扱うに値しないからである。
それに触れたとき、己に「1」があれば百に膨れあがるだろうが、「0」であれば何も残らぬ。
かくて、「何も持たざる者」――努力せず、知識も経験も欠いた者たち――には、AIは永遠に救いの神とはならぬ。
思えば、信長が鉄砲を制したのも、秀吉が刀狩をしたのも、神器を使うにふさわしき秩序を作るためであった。
イメージとして強いのはFFT(古いのは大戦略、オウガバトル、カプセル戦記)
これはチェス将棋の拡張だ。戦略ストラテジーとも? 重複してるか。
1ターン1手だとゲームとしてつまらない(真剣味が増しすぎる)ので?
チェ棋の駒の通り、戦争を模している
勝利条件
将を討つ、王道。ゲームでは、拠点(味方重要ユニット)死守、敵拠点○○(だどりつく、破壊)などがある(将スだと討伐)。
これらも戦要素が強すぎる。
戦争以外を色々考えてたら、スポーツってほとんど、敵陣にゴールするが目的だと気づいた。
テニス等も敵陣深くまで敵を抜いてたどり着くのが目的。ボール等だけでよい。
これは矢やミサイルが届くとかいう近代戦よりも、祭りでありがち? ご神体とか
勝敗がありそうな祭りのルールはゲームに活かせそう(スプラ、トマト祭りとか)
リアルタイムのゲームもあるが、一人では対処しきれず、戦術がざっくりになりそうでターン制。
たどり着く系だとTDとかも多い。
初期のゲームは、避ける(生存)か倒す(殲滅)か、ゴールに行くだったか(タイム)
自軍と同等系の能力を持つCPU軍だと、倒し合いになる。カードゲームでも。
カードじゃないがだと五目並べなど(五目ではなく設備を先に作ったほう勝ちとか)
せっかく争いから離れる(経路の違うゲームを作りたい)のだから、もっと牧歌的な目的に向かいたい
祭り、カードゲーム、クラフト、見逃してるスポーツ、このあたりにいい感じの主要素ないか?
アトラスとかシム系だと、敵のような存在と交互に戦うのがあったが。相手が破壊好きがち。
役(設備)設営が目的でこいこいのようにどこで区切るかの選択ができるのは面白そうだ。
寂れた温泉街が、村おこしのために絵師に頼んで適当に描いてもらったただの絵を、仁藤さんが批判しただけなら何の問題も起きなかった。
ところが、あの温泉むすめは地方伝承を元に描き起こされたご神体だった。
いくら自分が無宗教無宗派だからといって、他人の宗教施設に祀られたご神体に向かって、猥褻だ破廉恥だと騒いで唾を吐きかけたら、
普段は寛大な神さまも怒るし、祟りをもらってしまうのは仕方ないでしょう。
神観念の薄れた現代人に、ただの萌え絵とご神体の区別をつけるのは難しいけど、せめて古くからの由来があると知った時点で配慮すべきだったと思う。
暇空さんや暇アノンの異常なまでの執着も、単に祟りの駒として操られているだけなので、一刻も早く、温泉むすめに謝罪し、温泉街に多額の寄付をして、神さまの赦しを請えば、嫌がらせもピタリと止まるはず。
いわゆる宗教四世で、生まれた時から新興宗教の会員やってた。ネットだとよくおもちゃにされがちな、三色旗のとこ。
小さいころから家に仏壇があって、母親と祖父母が超熱心な人で、言葉をしゃべり始めた時から経を読まされてたし、ちゃんとやればみんな褒めてくれるから悪い気はしなかった。
母親が熱心な場合って厄介なんだよな。おかげさまで土日は宗教関連の予定でつぶれるし、父親も母親に勧められて入ったひとだから止めないし。そんなわけで、20数年生きてきて、最近やっと初めてちゃんと神社に参拝したような始末。だから、一般的な人間と自分の宗教観がかなりかけ離れてる、ってことに最近気が付いた。まぁ、それが当たり前だったんだけど。
高校の時とかはそれなりに真面目に、っていうか結構がっつりやってて、たぶんその時の周囲の何人かは幹部クラスになるんだろうな、って人間ばっかりの団体にもいた。
割と勘違いされてそうだけど、いやもう常識なのかな?一般的な認識が全くわからんからあれだけど、s大学行くのはもはや当たり前で、幹部になろうと思ったら、何かしらの宗教の団体に所属してたことがほぼ必須になるんだぜ、笑えるよな。
高校生はそうやって過ごしてたけど、大学に入ってから恋人ができて、その人が何というかこう、自分の所属してるとこ以外も含めた宗教全般のアンチだった。
今思えばものすんごい幸運なことに、現実社会の親しい人にそんな人がいなかったから大いに嘆いたし、なんで自分が、とも思った。でも、今は割とその出会いに感謝してる。
ここまでが前置き。すまんね長くて。
まぁ、親に「信仰捨てたいです!」とか言える訳も無くて。だってそんなことしたら普通に絶縁されそうだし、妹たちも割とがちがちに染まってるし。あと我が家、割と毒親気味で過干渉のケがあるから、最悪今住んでるところから連れ戻されかねない。
それは困る、だって実家には自室が無いし、プライバシーもへったくれもない。未だに帰省するとめちゃめちゃ消耗する。二週間とかしか滞在しないのに。実家を出るまで、自分のスペースと言えば本棚のついた机一台だけだったし、その中身も親が勝手に開けて改める始末だったから、秘密とか絶対無理だった。
かといって、じゃあ真面目にやるか?と言われるとそれは心がしんどい。
そもそもの話、自分は「信仰とは人生の杖であり頼り切るものではない」って思想を高校時点で持ってて、現指導体制に不信感しかなかったし。
やれって圧を掛けられて、今渋々試験の勉強してるけど、それにしたって普通に気色悪くて嫌になる。だって仏教ってマインドフルネスの一手法でしかないし。それだって、多様な方法がある現代社会でわざわざそんな化石みたいな方法、って思う。
そもそも悟りってざっくりいえば「この世のすべては気の持ちよう、自分の気の持ちようで天国にも地獄にもなる、それなら天国みたいに考えられるようになった方がお得じゃね?」的な考え方だし、唱題にしたって、「悟りを開けないお前らが悟りを開くための一助にしろよな!」的なものだから、自力でメンタル立て直せるようになった人間には必要ないんだよ。そもそも仏教って「人生なんて全部しんどいんだから、しんどいことそのものはもう諦めて楽しくやっていこうぜ」的なあれだし。ガバガバ解釈だが。
その上で、何もかもを宗教に依存して、生きてくための目的そのものを宗教にしてるの本当に頭おかしいと思う、それお前の人生じゃなくて教団の人生やんけ。生きてる価値ある?って思う。言わないけど。
確かに苦しい時に縋れるものは多い方がいい、人生かなりしんどいし、税金高いし内定はもらえんし、何もかもままならんし、ここからってときに病気になったりするし、なんかすげーもんに縋らないと生きてけない気持ちもわかる。
でも、その気持ちもわかるけど、それでも自分で立って自分で歩かない道に価値はあるんか?って思う。だって信仰してると、どんなに血反吐を吐くような努力をしたって、どんなに周りの人に恵まれたって、どんなに運がよくたって、それ全部「信仰のおかげ」にされちゃうんだぜ。そこに至るまでの努力とか、工夫とか、人間関係とか、そういうもの全部自分の成果じゃなくてなんかようわからんもののおかげになるんだぜ、それって悔しくないか?自分はそれを恋人に指摘されて初めて気が付いて、すごく悔しいと思った。だってここまで努力したの自分だし。別にすがってる”なんかすげーやつ”が何か叡智を下賜してくれたわけじゃないし。苦しいのも悲しいのも悔しいのも自分が背負わなきゃいけないのに、喜ばしいこととか楽しかったこととかは全部他にかっさらわれるって思うとはらわた煮えくりかえらんか。自分はキレそうになる。
そもそも、他力本願の他宗派をめちゃめちゃ批判する癖に、何かあったら馬鹿の一つ覚えみたいに「ご本尊に縋れ」だの「お題目を」だの普通に矛盾してて笑える。それはお前らの言う所の他力本願じゃないんか?あと題目とか言う呪文的なあれを大事にしてる割に、唱題の時の発音みんなガバゆるだよな、何それ。ダブスタまみれで普通に気色悪い、反吐が出る。
と、まぁ最近はこんな事ばっかり考えている。親には勉強したらわかるって言われたけど、勉強するほど意味わからん~~きしょい~~~ってなるの中々芸術点高い。って言うかそもそも子供の許諾を取らずに宗教に入れるな、はっ倒すぞ。これはどの二世問題でも共通だと思う。四世なんだけど。ウケるね。
ちなみにこの宗教だとよく取りざたされるのは政党の話なんだけど、自分は政策はまぁましな方なんじゃないかな、って思う。そこから声の汲み上げするの????正気か???って思うような政治を国政ではよくやらかしてるけど、地方政治だとそれなりに要望の反映早いし。政治と宗教観は切り分けて考えるので。まぁ今後の動向にもよるかな…でも宗教活動の一環で選挙活動やらされるのは普通に最悪で気色悪さの極みだからやめた方がいいと思う。実質強制の投票の「お願い」はお願いと言わない。海外から来た同じ宗教の人に選挙ばっかりしてるのどうして?って聞かれて、日本では信仰を広げることが十分にできたから、今度は政治の方からも生活をよくしていくんだよみたいなこと指導してるの聞いたことあるけど、それ普通に公職選挙法違反なんじゃないですかね。政教分離の法則死んでないか?
これを見て同じ宗教の人がどう思うかは知らんが、自分が納得できてないならなんかしらの答えにはなるんじゃないんですかね。がちがちの幹部ルート辿ってた人間がこう言ってるんだから、それなりに信ぴょう性はあると思うよ。
今から入りたいって思ってる人、人生に発生する損害と天秤にかけて、本当にそれじゃなきゃダメなのか一か月真面目に考えてみ、そんなことないから。周りからの偏見の眼はものすごいし、結婚したいと思った人ができてもめっちゃ苦労したりするぞ、自分は今死ぬほど苦労してる。
今しんどい思いしてる人、お互い頑張ろうな。自分は今何とかして家にあるご神体的なサムシングを親にバレないように滅殺する方法考えてる、なんかいい方法あったら教えてくれ。
マジで徒然なるままにって感じだなこれ。乱文で本当にすまぬ。ここまで読んでくれた人ほんとにありがとう。自販機でジュース当たるくらいの幸運が訪れますように。
追記:みんなコメントありがとう、ほんとに正気に戻れてよかったと思う。なんでカルトの話から仏教に?ってコメ見たんだけど、それはだな、s学会は曲がりなりにも仏教を名乗ってるから、仏教を学ばされるんだよ…だからです。
まぁ、s学会のは「ブッダの」仏教ではなく、日蓮とかいうなんかよくわからん狂人が急に悟っちゃったものを信仰してるんで、仏教かと言われるとかなり怪しいけどね……昨日このエントリ書いたあと、勉強の動画流し見してたらそんなこと言ってて笑っちゃった。仏教名乗るの辞めたら?
自然科学とかSDGsとか信仰してそう、って言われたのはマジでそうなりかねんからほんとに気をつける。一応これでも科学をやってる人間だから、変なのには引っかからないと思いたいけど…こういう気持ちが落とし穴だとは思うのでね!科学的思考大事。すごく苦手だけど。
川崎の奇祭、かなまら祭をご存じだろう。あのピンクのチンコ神輿が有名なやつだ。
あのピンクちんこを奉納した会社が潰れてしまった。日本の伝統の危機だ。
あのピンクちんこ神輿は、実は浅草橋と新宿にあった女装クラブ、エリザベスが奉納したものだった。神輿だけじゃない、それ以外の玉串料も奉納して金山神社を支えていたと思われる。
このエリザベスはアント商事という会社が運営していたのだがこの会社が去年廃業してしまった。
アント商事は元々女性用下着の商社だったのが、どうも通販で下着を買う客の中に男性が多いという事に気が付いた。つまり女装需要である。店で買うのが憚れるので通販を使っているのだと。
同商事はこれはニッチな需要だと見抜いた。ニッチって隙間産業みたいな意味じゃないよ。生態学で安定的生存圏って意味だよ。
しかもこのニッチは下着市場だけじゃない、「ドリルを求める客は穴が欲しい」のアレだ。「女装市場」を作り出す事が出来る。
そういう判断で1979年にエリザベス会館をオープンした。会員制で衣装を預かるロッカーを置き、女装を手ほどき、同じ趣味のお友達とも交流できるってサービスだ。そこで販売するのは当然自社の下着や服。地産地消みたいな商売やね。
ここはそのスジでは有名だったが、会員が年齢層結構高め。だから言っちゃ悪いがちょっと汚装っぽい方に寄っていて綺麗系じゃない(綺麗な人もちゃんといた為念)。でも年齢層高めって事は結構お金持ってる。会社で偉い人も多い訳だしな。
金山神社の方は性信仰がある神社ではあったのだが、かなり廃れてしまっていた。
んで、日本では1969年に盛り上がった学生運動が消沈した後、70年代中頃から民俗学が盛んになる。大きな物語のマルクス主義が萎んだあとに小さな物語の日本の伝承を探求するのが流行ったわけ。自分探しの旅とか国鉄のいい日旅立ちキャンペーンとかもこれに繋がるものだよ。
当時の金山神社の宮司は民俗学にインスパイアされ、自身の神社の昔の姿、江戸時代の伝統的な祭りを再現しようとした。特に性的な信仰っていうのは明治以降は国家神道の下に抑圧され、その後も恥ずかしいものとして人々から忌避されてきた。でも民俗学的にはそんな忌避はナンセンスだ。
それで大根を男性器、女性器、いやそんな言葉の忌避はしちゃいけないな。ちんことまんこに削ったご神体を崇め練り歩く祭を毎年開いていた。この表現は民俗学的表現だからあしからず。
1980年代中頃にエイズ禍が起こると、当時は同性愛者の病気と思われていたのでエリザベス界隈は肩身が狭い。客足も遠のいて経営的にも辛い。
そこで景気づけ&疫病退散の願掛けとしてこのお祭にドーンと奉納して盛り上げて来たのだな。そのスジじゃ有名なあの店が裏スジが通ったちんこ神輿を寄付ってわけやね。
あの屹立するピンクの怪物がいつ作られたかは良く知らない。でもあの神輿はオフザケが多分に入ってるのね。どうしても客層におっさんが多かったりして綺麗でお高くとまってる感じにはなり難い。世間に言えない秘密の趣味っていう暗さもある。
んだったらぶっちゃけちゃえって感じ。んだから江戸時代の習俗復刻みたいな文脈からもぶっとんだピンクちんこを作ってしまった。そしたらそのぶっ飛び具合が群を抜いていて人気が出てしまった。
因みに写真見るとピンクちんこ神輿担いでるのって女装したおっさんたちじゃん。あれがエリザベス関係者です。お客ですな。
15年ぐらい前から男の娘ブームがあるけど、そうするとメイクルームとかもあちこちに出来てくる。エリザベスの競合ですな。
しかも男の娘ブームの方はレベルが高い。そうするとどうしてもエリザの方は汚装っぽく見えて見劣りがしてしまう。
因みにそういうお店の経営者にはエリザ出身者も居る。昔はエリザぐらいしか無かった訳でな。
そういう情況でエリザベスの運営会社のアント商事は2020年2月に廃業してしまった。コロナの最初期だ。
一方、かなまら祭の方は毎年3月開催だがコロナのせいで去年から練り歩きは行われていない。境内での神事で終わりだ。警察が道路使用許可出してくれないからな。
なので同社廃業でピンクちんこ神輿がどうなるかとか女装おっさんズ担ぎ手はどうなるかとかは不明なままなのだ。まぁ、いきなりピンクちんこが萎れたり無くなったりは無いだろうが、大手の後援者が居なくなるのは痛いかもしれん。
って事で、あのピンクちんこが有名な祭の外形は実は日本の伝統じゃなくてスポンサーによって作られた復刻&アレンジされた姿だったのだな。最初に言ってる事と違うな、あとでまとめて謝る。でも中身は民俗学的に線を繋いだもんで偽ものじゃない。
あと、他の男根神輿は健在だからちんこの消失に悲しまなくてもいい。是非来年は祭に来て出店のちんこキャンディーとかを頬張って欲しい。
なんで女装界隈詳しいのかっていえばワイがニューハーフ崩れだからだ。
最後に、はてな事務局諸兄には民俗学的必要とはいえちんこ連呼した事を、またちんこ連呼で男女同権的に偏りがある文章となった事を、表題がクリックバイトになった事をお詫びしたい。
どうもすいまんこ。
増田神社(ますだじんじゃ)は、佐賀県唐津市肥前町にある神社。
1869年(明治2年)8月10日、熊本県合志郡泗水村(現・菊池市泗水町)生まれ。
幼少の頃より体格は立派であり、性格温厚と誰からも好かれる人物であった。
永島塾では漢学を、後藤塾では数学や測量学を学んでおり特に数学に秀でていた。
その後、 阿蘇郡馬見原(現・山都町)の用水路整備や北海道開拓事業、地元泗水村での養蚕業などを経て佐賀県の巡査教習所(現在の警察学校)へ入所する。
増田は上記の私塾では学業を修めていたことから一般教養に秀でており、本来3か月かかる巡査教習所の教習課程をわずか10日で習得し卒業する。
1895年(明治28年)7月17日に佐賀県巡査を拝命し、19日には唐津警察署へ配属されることになった。
1895年(明治28年)、日清戦争終結に伴い外地から兵士が帰還すると全国的にコレラが流行する。
この年の患者数は全国で55,144名、死者は40,154名になっていた。7月には佐賀県東松浦郡入野村高串(現・佐賀県唐津市肥前町高串)でもコレラが発生し、真性40人、疑似34人、死者9人と猛威を奮った。
〜中略〜
増田は交通手段のない山道を超えて巡査を拝命して4日後には高串へ到着する。
増田は区長と相談の上で「コレラ感染を防ぐには、一刻も早く患者と健康な人との接触を断たなければならない」と対策を講じ、発症者の家には縄を張り巡らせて消毒の上で人の往来を禁じた。
また、住民には生水を飲まない、生で魚介類を食べないなど厳しく指導して回った。
中には薬を飲んでから亡くなった発症者もいたことから誤解して「毒薬なんか飲まない」と言う発症者もいたが、増田はその患者にも根気よく説得し続けた。
また、感染を恐れて発症者の遺体運搬が拒まれていることを見かねて、増田は自身で遺体を消毒し、むしろに巻いて背負って傾斜が急な坂道を何度も登っては墓地に埋葬していった。
住民は不眠不休で献身的に働く増田に対して次第に胸を打つようになったが、疲労が祟って高串着任の3日後である23日にはついに自身も感染してしまう。
容体は急速に悪化し、「とても回復する見込みのないことは覚悟しています。高串のこれらは私が背負っていきますから御安心下さい。十分お世話せねばならぬ私が大変御厄介になりました。」と言い残して24日午後3時には死去する。その言葉通りに、猛威を振るっていたコレラは終息し、再び発症する村人はいなかった。
増田が死去した2日後、コレラに罹患した2人の子供を看病していた中村幾治の許に増田巡査が夢枕に立ったという。
夢枕の増田巡査は、白シャツ姿に剣を抜いた大男で現れて「余はこの世になき増田敬太郎なるぞ、高串のコレラはわが仇敵にして冥府へ伴い行きれば安んじて子らの回復を待て、ゆめ看護を怠りそ」と厳かに言って消えた。
翌日には増田巡査の死とその最後の言葉を聞いた中村は夢枕の内容との一致に驚き、子供を懸命に看病した結果、子供2人も無事回復した。
中村のほか同様の夢枕を見た住民は他に2件あり、伝え聞いた住民の間では増田巡査は神様として認識されるようになった。
ほい、屏風
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68864
フェミニズムの専門家・社会学者である小宮友根氏とふくろさんの記事。
表象の「悪さ」について、たとえば「子どもがマンガの中の暴力的な行為を真似してしまう」とか「広告に表現された差別的な価値観を身につけてしまう」といった「現実への悪影響」とは違った水準で考えよう、ということでした。
とあるように「子供への影響」はここでは主題ではない。そしてゾーニングの問題もここでは語られていない。
(付け加えれば、あなたの論法は性的モノ化の悪さが「子供への影響」や「棲み分けの不十分」に“のみ”起因する場合にしか使えない。例え子供に見えないように棲み分けても、別の原因で悪いことになればあなたの主張は意味をなさないのだから)
さて、この記事では性的客体化について、「「エロいから悪い」という考えとはまったく違う」とある。中身を見てみよう。
たとえばポルノグラフィ批判で有名なキャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンが繰り返し主張していたのは、ポルノは「わいせつ(性欲を刺激するもの)」だから悪いのではない、ということでした。マッキノンたちのポルノグラフィの定義には、女性が「人間性を奪われ」「辱めや苦痛を快楽とし」「性暴力によって快感をおぼえ」「特定の身体部部位に還元される」ような「性的な客体として提示されている」という項目が含まれています。要するに、女性を「性的な客体」として提示することが悪いと考えられているのです。
で、これらの条件に該当するなら、たとえ「少年誌じゃなく棲み分けた、規制された成年誌」でやってたとしても悪い、というのが彼らの主張なわけです。
ね、わかったでしょ。
もし上記のように表現の性質によって性的客体化の悪さを定義しておきながら、非難された途端あなたのように「ゾーニングすればいい」とまったく違う論点を持ち出すなら、それは「自分たちにとって都合が良いか悪いかで主張を変え、「何が正しいか、間違ってるか」には興味がない。」以外の何物でもないわけです。
記事の後半ではふくろさんによるイラスト付きの解説がついてるからじっくり読むといいよ、
女性エロ漫画家の表現がここでの指摘に当たらないと主張したいなら、あなたは単なる恥知らずだとしか言いようが無い。
ところでこの記事の最後にある「法規制より論争を」という主張には私もある程度同意だ。
「論争」というからには互いの主張に論理的検討を加えることになるわけだが、「フェミニズムは女性エロ漫画家を肯定しえない」というのはまさに、フェミニズムがその一部として持つ「性的モノ化」という論点が論理的に女性エロ漫画家を肯定しえない構造をもっている、という指摘にあたる。
このように論理的検討というプロセスを経ていくことで、フェミニズムは前に進むのであって、指摘や批判をただの悪意だと見誤ったり、「女性エロ漫画家をみてびっくりしてるだけ」などと貶めて、フェミニズムを一切批判されえない神聖不可侵なご神体にすることによってではないんだよ。
彼らの議論は時期的に宇崎ちゃんを「性的モノ化」によって批判可能にする目的もあるだろうから、当然この批判はエロ漫画だけじゃなく一般漫画も射程に入るものとしてつくられてる。
従って女性エロ漫画家だけでなく、多少なりとも女性を性的に対象化するような技法を用いて描く女性漫画家もその批判対象に当然なる。
そういう意味では「フェミニズムは女性エロ漫画家を肯定しえない」でも生ぬるくて、「フェミニズムはほとんどの女性漫画家を肯定しえない」と言った方が正確な可能性もあるね。
ペットの種類によって飼い主との関係が全然違うことが面白かったので、まとめてみました(*´꒳`*)
あくまで私が見てきた範囲ですが、鳥さんがパネェですhttps://t.co/VFOBv7dRCt pic.twitter.com/NTwpwjcTd3— ミカサにゃんの飼い主 (@MikasaLove611) November 23, 2019
猫は宗教。
東京国立博物館や地域の博物館とかで経塚やそれに関する遺物を見かけることは多い。
経塚は、昔の人が末法の世になってもお経が伝わるように、地面にお経を埋めたものだ。
経文と共に仏像なんかも安置される。
埋められた経文を埋納経という。金属などで出来た容器は経筒という。
埋めたものが何かの拍子で出土することがあるのだ。
埋める際には、当然末長く伝わることが目指された。
経筒を密封することはもちろんだが、まわりを石で作った入れ物でさらに封をする場合が多い。
お経は紙で、溶けてしまって今に伝わらないが、後世にはお経を石に掘って埋めたり、石に墨書して埋めたものもある。
いつまで仏法を伝えればいいのか? それは56億7000万年後だ。
弥勒菩薩が現れて再び衆生を救済するまで、末法の世は続くのだ。
経塚関係資料を見ながら、埋めた人々の想いはいかばかりだったかと想像する。
色んな苦しみが今よりずっと多い時代。
拠り所とするお経というか仏教がなくなるかもしれない。伝わらないかもしれない、という想い。
金と権力がある人が示威的にやっている側面ももちろんあるだろうけれど、それだけで切りとれない要素もある。
未来に向けて伝える、という何か意気込みのようなものが実物資料から伝わってくる。
ところで、私たちは銅鐸の使い方を知らない。
多分こうだろうというのはあっても、精確なところは解らない。
銅鐸に限らず弥生時代の祭祀具は、使い方がわからないモノが多い。
さらに前の縄文時代の祭祀具(と思しい)考古学的資料も、やっぱり精確なところの使い方は解らない。
皆忘れてしまったのだ。歴史のどこかの段階で、忘れてしまった。知る人が一人もいなくなってしまった。ある種の絶滅だ。
銅鐸に替わって登場する祭祀具は鏡だ。こちらは解る。今も神社に奉納してある。ご神体のような使い方をする。伝わっている。
このあたりから、何となく使い方が実感としてわかる資料が出てくる。
例えばいきなり経塚から石板に刻まれたお経が出てきたとして、その名前や考古学的な背景が解らなくとも「うわなんかお経が書いてあるぞ」くらいはわかったりする。
あるいはそこまで行かなくても、「何か文字が書いてあるぞ」とわかる。
この辺りで「これは何か重要なものかもしれない」と多くの人は感じとることができるだろう。密封されてもいるわけだし。
専門的な仕事に携わってなくとも、例えば土木工事や農作業で経塚が今に姿を現したら、「なんか仏教関係ぽいのがでてきた」と思えると言うわけだ。
私たちは仏像なりお経なりを見たら、直観的にどんな分野のものであるか理解できる社会に(今も)生きている。
科学が発展しようが、未だに路傍には地蔵があり、葬式でなんだかわからんままお経を唱えたり、する。
仕組みを何となく掴んでいる。
そ私たちは仏教になじんでおり、仏教を今から未来に伝える一翼を担っている。
銅鐸とはここが違う。
そういう意味では、古えの人々の想いは伝わっている。
平成が終わろうとしているが、その時代にあっても仏教にまつわるものだと素人でも判断できる社会だからだ。
難しいけど、科学が発展した時代だけれど、こうした直観でわかる宗教的バックグラウンドは大切なものと思う。
今はかなり色々なことがわかる時代だが、そうじゃなかった時代に人々の心のよりどころになった考え方とその資料。
オウム真理教の「アビラケツノミコト」とは、一体何だったのでしょうか?
アビラケツノミコトとは「軍神を率いる光の命」という意味の単語だそうです。
アビラケツノミコトの初出は、「トワイライトゾーン」1985年10月号(KKワールドフォトプレス刊)でした。
考証の資料として、原文を見てみましょう。
仏教用語。サンスクリット語a vi ra hūṃ khaṃの音写。以上の5音綴は,それぞれ万有の構成要素である地,水,火,風,空を表わし,大日如来の内面の悟りを表明するとされる。一般には,すべてのことを達成するための一種の呪文として用いられる。
地水火風空(a vi ra hūṃ khaṃ)のうち「風」(hūṃ)が揃ってないので、まだ不完全(未完成)な状態、という意味もあったようです。
最終的な理想国を築くために
神をめざす超能力者
レポート/■■■■■
今月号の口絵14ページで、空中浮揚の連続写真を紹介した麻原彰晃氏。彼は師にもつかずに、独自の修行でこのレベルに到達した。だが、この超能力者の目的は、はるか先にある。
彼は、特定の宗派の僧でもなければ、団体のトップに座す人でもない。人間の師ももたない。彼の修行は独自で、しかも数千年も伝わる聖典の奥儀なのである。
麻原氏が修行を思いたったのは今からわずか8年前である。世の中すべてのものに強い矛盾を感じたのだ。何もかもウソだ。自分さえもウソツキだ。まわり中のこと一切が限りなくイヤになった。
どうしたら正しく生きられるか。彼は、その日からすべてを捨て、行に入った。
行は毎日2~5時間に及ぶ。仙道、大乗仏教、密教、チべット密教、ヨガ。ひとつに執着せず、数数の修行法をとり人れ、自分が納得する形で行なっていった。
修行を始めると、様々な神秘的なことが起こりだした。たとえば、トランス状態での異言。
その時のテ―プを聞かせていただいた。東洋系の言葉らしいが、私としては、TVなどでも聞いたことのない言葉だ。口調はかなり激しい。過激な説法、または、訴えのように聞こえる。
「アジアの、インド、中国、チベット、その辺の言葉だと思います。おそらく、自分の過去生と関係のある言葉でしょう」
麻原氏が、修行8年にして空を飛ぶということは、過去生でかなりハードな修行をしていたに違いない。彼は、テ―プに吹き込まれた自分の口から発した言葉を訳せる人を希望している。でも、もしかしたら、現在ではすでに死滅してしまった言語かもしれない。
修行3年にいたったころ、彼の魂は彼の肉体を抜け出し始めた。「体が回転するような感じになったんです。ウォンウォンというモーター音に似た音がして、それからシューという音がしたんです。その時、魂が抜け出してゆきました。
抜け出した先で、魂は宇宙の星星を見たり、『人』と会ったりするんです」
こんなこともあった。シャヴァアサナ(屍のポーズ)をとり、トランス状態に入っていた。
彼は、大ス夕ジアムのようなところにいた。観客スタンドは、裸の僧で埋まっている。中心で、やはり裸の僧の彼が説法をしている。
「霊界での説法なんですね。私はそこで説法をして帰りました」
聖典を読んで帰ることもあるという。魂が、修行において気になることを調べに行くのだ。
「自分が現実で読む本を先読みしているのです。だから、実際に読む本の内容は、すでに知っていることが多いのです」
魂が抜け出さずとも、本の内容を理解していることも度々ある。修行中「ああ、これはこういうことなんだ」と感じた通り、後に読む本に同じことが示されている。
もちろん、修行に危険が伴わないわけではない。普通だったら死んでいるというような目にあったことも1度や2度ではない。
「その時は、自分の守護神に頼むのです。そうすれば、必ず、元のところに帰ってこられる」
麻原氏には、たくさんの信仰している神、守護している神がいる。彼は、それらの神々から修行法を学んでいるようである。
「トランス状態のとき、神々が現われることがあります。神々はヒントを与えてくれることもあります。または私が質問し、神が答える。質疑応容形式のこともあります。その中で得たのは、『生きることを否定せよ』ということです」
麻原氏は、いつも出会う神とはニュアンスを異にする3人の女性に出会っている。彼には、霊界人とも宇宙人とも感じられた。
「まず1度めは、5年前。妻の出産の時のことです。朝、自宅で目覚めるとロングへアで緑色の服を着たグラマーで美しい女性が、私に向かってオイデオイデをしているんです。
全身はエーテル体とも思えるもので、炎の赤をしているのです。髪の色は、全身の色を薄くしたような感じで、ジャンパースカートのような形の服に茶色のべルトをしめていました。
会話はありません。『私があなたを守護しているのです』と私に見せているように思えました」
2回めは2年前です。自宅で、眠る直前のことです。髪は肩まで垂らし、オレンジ色の服をきた目鼻立ちの美しい女性でした。体色は人間と同じでした。この時も会話はありません。
3回目は今年の5月。ここ(麻原氏の道場)でです。髪の長さは肩ぐらい。やはりオレンジ色の服ですが、体の色は、何というか、この世にない色なんです」
3人の女性たちは、共通して美しく、グラマーであり、口をきかない。決まって、彼の左側に現われる。そして、彼女たちが去った後、場の空気が揺らぐという。
「最後はいつも、霧のようにかき消えてしまいます。ひとつ修行が進むと、異なった人が現われるんです」
麻原氏は、これまで世に出ようとは考えなかった。ところが、ある時、声を聞いたのである。
彼は今、シャンバラのような王国、神仙の民の国を築く準備を開始するため、多くの人に修行法を関放する必要を感じた。
今年の5月のことである。彼は神奈川県三浦海岸で頭陀の行を行なっていた。五体投地をしていたときのことである。突然、天から神が降りてきた。神は彼に向かってこういった。
アビラケツとは、彼の初めて聞く言葉であった。彼は、サンスクリットを教えている人を訪ねた。
すると、アビラケツとは、地水火空の意味で、アビラケツノミコトとは、「神軍を率いる光の命」、戦いの中心となる者と判明したのである。
彼は、天から降りてきた神によって、西暦2100年から2200年頃にシャンバラが登場することを知り、それまでアラビケツノミコトとして戦うように命じられたのである。
彼は考えた。チべットのような王国を造らなくてはならないことはわかっている。しかし、チベットは戦争を好まない国である。理想国を造るため、戦さを用いてよいのであろうか。
彼は、シヴァ神や、ヴィシュヌ神などの自分の信仰する神々や自分を守護してくれる神々に相談した。神々は「命を受けるべき」と返答した。
麻原氏は、神を感じるだけでなく姿を見るという。それによると、たとえばシヴァ神は、白銀のような色、ドライアイスのような色の神体を持っているという。
ところで、ここでいうシャンバラとは幻の国、聖人たちが住み、全宇宙の、そして過去から未来永劫に至るすべての英智が納められている国である。かつて、秦の始皇帝、アレクサンダー大王も求めてやまなかった土地なのだ。
シャンバラは、地下深くにあるといわれている。そして、地球上のある地点からは、シャンバラへの通路が開けているという。
その昔、チべットの首都ラサにあった古ポタラ宮の地下の一室はシャンバラへの入口であったと伝えられている。そこで、チべットはシャンバラの影響を受け、チべット密教を開花させたのだ。
聖者たちのひと握りの者たちはシャンバラを訪れることができる。そこで、ある者はシャンバラの住人となり、ある者たちは社会に戻り、許された者にだけシャンバラを伝えたのである。道教の祖・老子は、シャンバラの人になったといわれている。
麻原氏の話に戻ろう。
「2006年には、核戦争の第1段階は終わっているでしょう。核戦争なんて、ほんの数秒で終わってしまい主す。日本も死の灰の影響を受けているはずです。
核戦争は、浄化の手段ですね。だから、私は『ノアの箱舟』も信じられます。選りすぐったレべルの高い遺伝子だけを伝えるんです。
だけど、人が『自分の分け前をさいて人に与えよう』というように考えない限り、『浄化』はなくならないんですね。そういう気持ちになかなかなれないのが人間でしょう。
もし、それが真実でないとしたら、地獄・餓鬼・畜生・人間・阿修羅・天という六道はなくなってしまうでしょう。
私の目指すのは『最終的な国』なんです。それは、仏教的・民主主義的な国で、完璧な超能力者たちの国なんです」
そのためには、修行と解脱しかないのである。修行の意味を麻原氏に語っでもらった。
「修行とは、ジュースの1滴を、テ―ブルクロスの上に落とさず、水の中に落とす、ということなんです。1滴のジュースとは、人間のことです。1滴のジュースは、テーブルクロスの上に落とせば、ただのシミです。でも、水の中に落とせば広がるでしょう。
水の中にただ1滴のジュースを入れたって、水は色を変えないでしょう。でも、水の中には確実に1滴のジュースが入ったんです。
魂の根元的な状態ですね。拡散した1滴は、水の中のことすべてを知り、経験できるんです。これが空であり、寂静です。高次元に昇華した状態ともいえます」
大きな水がめの中の世界を体験している麻原氏の身辺は、アラビケツノミコトを任じられて以来、急転しだした。
修行で岩手県におもむいたときのことである。彼は、天からオリハルコン、またはヒヒイロガネと呼ばれる神秘の石を与えられた。
ヒヒイロガネとは、超古代文献『竹内文献』などにも登場する石である。神社の玉砂利のように滑らかだが、それよりずっとツヤがあって黒い。ズッシリと重たく、力ネの名の通り、金属的な感じの石なのだ。
水を張ったバケツに石を入れ、念を入れる。その石で円陣を作り円陣の中で瞑想する。
ヒヒイロガネは、手に入れた人誰にでもパワーを発揮するものではないという。念を入れられる者の手にわたってはじめて、パワーを与えられ、驚異の力を噴き出すらしい。
念を入れたヒヒイロガネは、多くの人々を同時にトランス状態にすることもできるという。この石については、いずれまた機会があったら報告したいと思う。
麻原氏に行法の一部を実際に行なっていただいた。
麻原氏は、座して、様々な印を結ぶ。印は2、3秒で変化する。
「これはチャクラ開発のための印です」
次に、立ち上がり、上半身を少し前方に傾けた。腸というか、腹の中がゴロゴロと動き出した。これは浄化法・ナウリのひとつ。腹にあるマニプーラ・チャクラの覚醒に役立つ行だ。
次は仰向けに寝てから足を天に持ち上げるショルダースタンドの形。空中浮揚に欠かせないビシュダ・チャクラの覚醒が目的だ。
それからライオンのポーズ。これは、クンダリニーの覚醒に必要なポーズである。
麻原氏の修行には、かなり危険なものも多い。たとえば浄化法のひとつで、幅7センチ、長さ3メートル半の布を呑み込むというものなどだ。この時は、呼吸ができなくなるほどだという。
彼は、修行中、シャヴァアサナに入ったとき、チャクラの光を度度見るという。
ちょうどフラッシュがパッパッと飛ぶような感じで、下のチャクラから順に光を放ち、同時にやはりフラッシュのような音がするという。音と画像がシンクロするのだ。
経験によると、音と光は様々な神秘体験には、共通して現われるらしい。たとえば未来や過去へタイムトリップするときは、マーチのリズムのような音、霊体が離脱するときはブーンという振動のような音。
これは、各種の教典とも矛盾しないという。そこで、そのような音を作って流せば、修行者は案外簡単にタイムトリップや霊体離脱を経験できるのではないかと麻原氏は考えている。
それでは、私たちがすぐにでもできる修行法について尋ねてみた。
「それは、まず何よりも五戒ですね。1が殺生をしないこと。蚊が自分の血を吸っていたら吸わしておくことです。
2が盗みを働かないこと。
3が誠実にして、ウソをつかないこと。
4が邪淫をつつしむこと。
5が禁酒すること。
以上の五戒に徹することですね。悪の行為をやめ、将来にするだろう善行をどんどんすることです」
集中的に瞑想などをしようと思うなら、空気のきれいなところの方が効果的だ。プラーナ(気)の満ちあふれた海や山を選ぶとよい。ただし、風のないところで行なう。地・水・火・風・空のエネルギーは、想像以上に誘惑的なのだ。
次に、食物は、玄米菜食の方がよい。1日に1回、または2回。または少しずつ、数回に分けて食べる。ヨーガの激しい修行をする行者の場合、日に1800~2000カロリーが理想といわれている。一般の人なら1200~1500カロリーで足りるだろう。ただ、カロリーと栄養とは異なるから、栄養はしっかり摂らなくてはならない。
「(日に)3食は獣の食事、2食は人間の食事、1食は聖者の食事という釈迦の言葉があるんですね。
でも、日に1食では、一般的には栄養が足りなくなってしまう心配がありますから。日に1度という場合は、夕方に摂るのが理想ですね」
玄米菜食だけで、スワジスターナ・チャクラ(腰・仙骨)までは開発できる。しかし、それより上のチャクラは、修行でしか開発できない。
「スワジスターナ・チャクラは植物を司るんです。ここが開発されれば、低い次元の超能力は身につきますね」
麻原氏は、腹のマニプーラ・チャクラが開くまでは、外食は一切しなかった。もっとも、化学物質などの変なものを食べることを体が受け付けなかった。
でも、今は多少腐ったものを食べようが何を食べようが平気である。火のエレメントがすべてを燃やしてしまうのである。
チャクラが開くということは、規制がなくなるということも意味しているのだ。
尾骨のムラダーラ・チャクラが開くと規制され、腰のスワジスターナ・チャクラが開けば性欲の規制がなくなる。腹のマニプーラ・チャクラが開けば食欲の、胸のアナハタ・チャクラが開けば行為の規制がそれぞれなくなる。
規制がなくなるとは、「何をしてもいい」ではなく、規制をせずとも自動的にコントロールされるということである。
「食べ物に気をつけるのもいいが、もっと大切なのは精神です。食物の害より精神の害の方がずっと悪いです。肉を食べたからってすぐ内臓が悪くなることはない。でも気持ちに及ぶ害は、すぐに体を悪くします」
つまり、肉体への栄養よりも精神への栄養の方が大切なのだ。適当な食事よりは、瞑想1時間の方がずっと栄養になるらしい。
「物質で人間は救えないということをもっとよく考えるべきなんですね」
正しい食事をし、正しい修行から得られるもの、それが超能力である。最近は、魂の浄化・向上こそ第1義で、超能力は邪道という考えも広まりつつあるので、麻原氏における超能力の実義をしてもらった。
「魂の進化・向上という考え方がありますが、それは、人間の魂が阿修羅・神々に至ることなんですよ。つまり、超能力の獲得と魂の進化・向上ということとは、矛盾しないばかりか、正しい相関関係にあるんですよ」
それゆえ麻原氏は自分を神に変える修行をし、「完璧な超能力者の集団」と彼のいうところのシャンバラ王国を設立するべく、神軍を率いて戦うのだ。
麻原氏のまず当面の目標は、自由自在に空を飛べる空中浮揚。それと、大脱身を成功させたいという。
「これは、アジナ・チャクラから自分の魂を抜き出させ、目的としている相手の身体に人る超能力のことです。これが可能になると、三界(欲界・色界・無色界)を自由に行き来できるんですよ。ここまでくると、もう人間といっていいかどうかわかりませんけどね。また、核戦争の脅威から身を守るには、極熱にどれぐらい耐えられるか、放射能をいかに防ぐか、ということになると思うんですよ。今の修行方法でそれに耐えられる身体はできると思っています」
麻原氏は、空中浮揚の初歩までの修行か達成した。しかしながらこれは、全修行の段階の4分の1にすぎない。生きているうちに、全部達成できればいいという。
「私は、ハ夕ヨガでいうところの解脱はすでにしています。真我も見ています。これから求めるのは仏教でいう真解脱です。それがいくつもの決め方がある解脱のうちでも最高のものとされています。
修行を達成した人間は、次の生を好きなように形づくれるという。麻原氏の中には、地球、自分、宇宙、神々……超大な計画がもくろまれているのかもしれない。