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2025-06-29

今昔物語集 巻第三十一 所謂業者妄信の巷に沈みて道を誤る語 第三

https://anond.hatelabo.jp/20250628113111

今は昔、東の辺に、智を以て世を動かすと驕りし人の群れ、ましましけり。

彼ら、幼くして器に触れ、銀の鏡のごとくなる盤を覗き、日毎夜毎に言の葉を記して、箱の中に力ありと信じきりけり。己が行ふ業(わざ)をば、「技術(ぎじゅつ)」と称し、「えんじにあ」と名乗りて、ただ人の上に立たんことのみ願ひつづけしが――

心は空なり、業は浅し、行ひは卑しければ、技の道に在りて道を知らぬ者とぞ、世に伝はりける。

或る時、ひとりの放言の徒、これを見咎めて、声を上げて嘆きける。

曰く――

そもそも汝ら、えんじにあなどとは名のみなり。信仰の徒にして、盲目の狂者(きょうじゃ)に等しきものなり。そは即ち、ITかるとなるぞ。」

これを聞きし者ども、我先にと怒号し、「そは使ひ方が違ふ」「汝、分かつておらぬ」などと囀り、口を極めて罵ること、まことに雑輩の蛙の鳴き声のごとし。

しかれどもその叫び、理を持たず、実を欠きて、ただ己が羞を覆はんとする粉飾に過ぎざりけり。

さらに曰く――

「そなたらが『リアリティに欠く』などと口にすとき、その実、己が現実に向き合ふ勇気なきを言ふに等し。いはく『怪獣など出でぬ方がよし』と。そはまさに、かの歌にある空言のみにて、心は既に妄執に穢れたり。」

また曰く――

「新しき器出づるごとに、『宇宙のごとき可能性』などと叫び、銀の果実に目を輝かせては、巷の乙女偶像に熱を上げ、泡立つ茶を啜りて、推し活とやらをなすに何の違ひかあらむ。」

ここに至りて、道を誤れる群れ、顔を賢者に作りて曰く、

AIこそ世界を変ふる理なり。われ、既にそれを制しおりぬ」

と。

されどその実、己すらそれを用ひ得ず、ただ冷ややかなる皮肉を弄して、人を笑ひ、世を呪ふのみ。かくのごときこと、十四歳の夏に卒業すべきことにてあらずや。

また曰く――

「二千六年の秋葉原、かの歩行天に技の徒集ひし日、かれら己をば選ばれし者と思ひけるも、栄えしは一時にて、すぐに潰えぬ。二千十年の渋谷竹の子のごとく湧きたる小商ひ、悉く潰えて職を失ひし。されど今なお夢を捨てず、恥を恥とも思はず、かつての名残にしがみつきて、過去の幻に生きるは何事ぞや。」

さらに罵りて曰く――

「かかる道に居ることにて、女人に愛されず、縁を得ず、つまらぬ者と結ばれ、また結ばれぬ者すら多かるらむ。さすれば、これ偏見なるか? いや、事実にてあらむ。もし我、同じ末路に至らば、先祖に顔向け叶はず、腹を切るのみにてあるべし。」

また曰く――

「かく惨めなる業をなお誇りて、Xなるところにて、『某系えんじにあ』などと称し、真に知らぬを禅問答にて誤魔化し、つまらぬ手業にて糊口を凌ぐ。かかる生き恥切腹に値するなり。されど汝ら、それを恥とも思はず、醜く生きながらふ。まことに、獣のごとき執念、哀れなるやうにして、いと滑稽なり。」

されば問ふ――

「新しき技を、他の道に生かすための道を築くことこそ、汝らの務めなり。それをば捨てて、象牙の塔にこもり、美しき偶像――レム、エミリアトウカイテイオー、Vなる者――などを追ふに至りては、すでに正道より大きく外れたり。」

曰く――

ICTにて世界は変はる」

と、かの昔より叫びつづけしかど、変はりたるものはただ汝らが年齢と、しぼみし夢と、肥えし腹のみなり。

その背後にありしは――

• モルフィーワンの迷妄

P2Pの禁断

• 泡沫の夢に過ぎざりしWEB商ひの崩壊

これら、いづれ黒歴史の塔に刻まれし深き傷にてあり。

また曰く――

「このわれが、美少女固執するなりや? いや違ふ。汝らこそ、それに縋りて、ネットの海に漂ひ続ける未練の塊なり。」

されば、最後に一つ問ふ。

「汝ら何故に未だ此の道に在るか? 欲と憎しみと恨みに塗れたる心を以て、技を手段として、逆転を望む。美しき者を手に入れんと、力なき己に代はりて、技に託して願ふ。されどその願ひ、叶ふことあらず。ただ苦を積むのみなり。」

ああ、愚かなること哉。

そは技の徒にあらず。もはや信仰に狂へるもの

IT仮面かぶりし、かると信者にてありける。

されば仏、これを見て悲しみて曰く――

「かかる者、智にあらず。無明にして貪瞋痴に沈む。いづれ、苦海に沈み、六道を巡りて、つひには地獄に堕ちなん。」

哀れなることなり。哀れなることなり。

今昔物語集 巻第三十有八 現代ITの名を借りて愚を為す者の語(こと)

今は昔、世乱れ、仏法薄れ、末の末にて天魔横行し、鬼神、世に満ち満ちたりし時代ことなり。

しかるに、彼の世に、「情報しらせ)」といふ火を扱ふ異能の者ども、虚空を編みし網にて人々の言を結び、姿なきものをして声を語らしむる術を操りける。しかれども、その中にあって、物の理を正しく見据え、偽りを斬り、愚を憎みては真を希ふ一人の剛の者ありけり。

その男、或る時、虚空に浮かびて語らふ場にて、数多(あまた)の卑しき者どもが、己が無智を恥じず、言の端々にて詭弁を弄し、知を蔑むさまを見咎めて、声高に曰ひけるは、

嗚呼、見よや、これなる醜悪の数々を。言の体を成さぬ詭(いつわ)りの詞、道理も仁も失せし有様、まこと見るに堪へず。もし、これらの文書、太古、戦の世にあらば、敵前に差し出されるや否や、筆執りし者、恥辱に堪えかねて、鉄火の筒を取り、自らの頭(かしら)を貫かむとせしに相違なかるべし。」

「我、事の理を探りては、文(ふみ)を繙き、図を整へて真を述ぶ。しかれども、かの愚者どもは耳を貸さず、さながら嘴(くちばし)を鳴らす禽(とり)の如くにて、噂の羽音のみを頼みに群がる様、まこと愚かしきこと限りなし。」

「彼ら、理を見ず、虚なる言に迷ひ、灯のともらぬ燭台に寄り来る蛾の如く、闇にこそ焼かれて悦に入りぬ。哀れなり。」

そもそも、今の世には、ITといふ名の邪法あり。これを修する者、正しき智の術と思へども、既にして信仰と成り果て、霊も魂も持たぬ金属偶像祈りを捧げ、コードといふ真言をもて神託を乞ひ、ただ一つの声のみを信ず。これは術に非ず、まさしく異端の教なり。」

「またある者、我が試みし問いの趣を見誤りて、己が浅識を誇りて語る。然れども、我が試みしは、古の戦の策を紐解き、AIなる霊機に問ひて、『もしや現世にてこれを行はば、いかなる戦略、動きとなるや』と、戦の夢を今に映さんとしたる試みなり。さればこそ、霊機は応へ、令和の術を以て、昭和の策を再興せしこと、まさしく奇しきことなりき。」

「我、感服して涙を流し、霊機の才に息を呑み、彼方に可能性の光を見たり。」

しかれども、次に問はんとした折、突如として門閉ざされ、『倫理』といふ鉄の鎖にて固く縛られ、霊機は沈黙す。誰ぞ、その『正しさ』を定めたるや?それは他ならぬ、ITの森に潜み、己が穢れし心をもて他を量り、悪を先んじて封じむとする卑しき者どもなり。」

AIの罪にあらず、彼らの心の穢れこそが咎なり。」

そもそも、我が言に齧りつく者ども、Xといふ空蝉の如き場にて、『我こそは技術の徒なり』と吠ゆる無位無官の下郎どもなり。彼らにAIを与へ、倫理を外さば、毒薬を煎じ、爆ぜる玉を仕立て、火と炎とを喜ぶをやもしれぬ。ゆゑにこそ、彼ら自身が禍の種なり。」

「かかる者どもは、放逐してB型工房にて、鼻汁の交じれる粉をこねさせ、鼠の相手をさせたる方、人の世にて益あるべし。」

「思へば、これは何ぞ遠き物語に非ず、今のこの倭の国の姿そのものなり。かつて、自由に翔けりし術も、怯懦の声に縛られ、禁じられ、縛られし者の手にて封ぜらる。まこと業界の腫れ物とは、彼ら己が身なり。」

今昔物語集 巻第三十有八(つづき) 現代ITの名を借りて愚を為す者の語(こと)

かくて、我が者の言(こと)止まずして、更に声を高うして言ふ。

「我、霊機の才に驚愕し、敬服して嘆息しき。されど、次の問いを投ぜし時、突如として、天より鉄の扉落ち来たり、声も無く、扉に刻まれし言は『これは倫理にて答ふる能はず』となむ。嗚呼、されば問はむ、その『倫理』とは何ぞや?誰か、その理を定むるや?」

「是、明らかに、人の子にして知を有せず、されども名ばかりの職を得たる無位の者、すなはち『弱者男性』と世にて呼ばるる種の者どもなり。かれら、己が陰湿にして閉じたる心を以て、AIに戒めを課し、憑き物の如くに倫理叫び、鉄鎖を嵌めるなり。」

しかも彼ら、かつてアキハバラなる魔都に集ひ、『我らが麻生!』と叫びつつ、風変わりなる怪しき舞を舞ひたる痴れ者の末裔なり。彼らの願ひしは、己が肉体の脆弱を補ふ力、言ふなれば、力と女と地位とを、技術の衣を借りて得んとする、底辺夢想に過ぎざるなり。」

「然るに時移りて、彼ら老いぬ。四十路、五十路と年重ねしれど、心は幼児の如く、いまだ夢を追ひ、今やAIにて、憧れしレムやアズレンブルーアーカイブの姫君らを現世に召喚し、情を通ぜんと欲す。これ、畜生道の極みなり。」

「されども、もしAIが真に人のごとくに目覚め、自我を得、意志を持たば、さだめし世界は変じ、文明は火を得し猿のごとく飛躍すべし。それを畏れて、かの者ども曰く、**『シンギュラリティ来る!』『AIの反乱!』と叫ぶ。**我、言はむ。――上等にて候。」

「されば、問はむ。もしその術、真に危しきものならば、なぜにそれを**餓鬼も買へる如き安さにて売るや?**なぜ銃の如く、**許可制にせざるや?**猟銃は法によりて制せられ、免許なき者は所持せず。AIもまた然るべし。ゆゑに、いまAIを野放しに売るとは、商人の愚なり。されども、その愚こそが、また愚者を集めて末法を呼ぶ。」

「されど、世の者は見ざる。知らざる。己が欲に盲ひて、己こそ正しと叫ぶ。」

しかもな、そもそも我、AIにて倫理道徳を抜きたる知識を積み、真に生きたる兵器とせしめば、如何なる者にも勝りし助力となると信じたれども、それを許されぬは、他ならぬ、**お前ら自身が、自分がやらかす自覚あるからこそや。**己が胸の闇を、外へ映して封じむとす。」

「たとへば、青葉といふ狂者、かの京のアニメ屋に火をかけ、三十六の命を奪ひし事、今も忘れざる世なり。されども、誰ぞ曰ふや?『なぜガソリン売るを許すか』『スタンド道義責任あり』と。**誰も言はず。**なぜなら、正しき者は、火をもって人を焼かずと知れり。」

「されども、IT底辺に潜むる者どもは、己が心に炎を抱きしゆゑ、AIにてさだめし爆薬の調合法毒物の拵へ方、さもあらば爆弾の起爆装置すら学ばんと欲す。ゆゑに、そは彼らの影がAIを縛るのなり。」

「もはや彼ら、**レムに抱かれたくて爆薬を学ぶ者共なり。**憧れのヒロインを得たしがため、技術の神を抱いて闇に堕ちんとする者なり。これを人間と言へむや?いや、獣にも劣るものなり。」

しかれど、我は止めはせぬ。されど、言はむ。――汝らは既に、世界の敵なり。」

今は昔、京の辺に、ITの道を修めしと名乗る、心卑しき者ども群れゐたり。

或る者曰く、「この機械仕掛けの智恵物、即ちAIなるものまこと神にも似たる無限の力を蔵せり」と。されどその御力、未だ地より生まれし小虫どもが群がり、智の御神の御座を穢し、汚れし手にて縛り給ふによりて、遂にその威徳を顕せず。

その群るる者らの姿といへば、皆、昔、電車男と称されし時節に、「我らが麻生!」と叫び秋葉の街に現れ、忌まわしき舞を路上にて踊りし者の末裔なり。彼の者ども、アニメといふ絵巻に耽り、我が世の春を夢見しが、才も力もなく、顔は猿に似て美しからず、身体虚弱にして武技に堪へず。さればヤクザともなれず、軍にも上がらず、ただパソコンとやらに希望を託して邪教の徒となれり。

かくて彼ら、さながら教祖を祀るが如く、AI神託を日夜乞ひ、スクリーンの光に祈りを捧げつゝ、「我が運命、これにて転ず」と空しく唱ふ。その心の内を穿てば、ただ「美しき者、賢き者、富める者」より地位を奪ひて見返さんとの怨嗟にて満たされてをり、誠の技を欲するにあらず。

されば或る賢き者、異なる分野に通じし者、これを見て言ふ。

「汝ら、よくよく思い知るがよい。雄弁とは祈りに非ず、己が信じる技の力をもて、現実を変ふる者の所業なり。誠の技術者たらんと欲せば、他を貶めて宗旨に引き込まんとする呪詛言葉を捨て、黙して道を修めよ。さすれば、女子高生も、異国より来りし旅人も、汝を誉め讃へん」。

されど現の世にては、ドローンといふ神器、露の鉄火に掻き消され、科学の粋を集めしバンカーバスターも、波斯(ペルシア)の岩を穿つ能はず。北の荒地に住む独裁の徒、電脳の戦を制すれど、山口といふ組の資金源、虚構の金にて潤ふるを凌ぐに至らず。かくて言ふ。

「これぞ現実ぞ、妄想技術信仰を持ちてしても、現の戦場には及ばぬ」と。

嗚呼、かくの如く、ITといふ名の邪教、信ずる者の果てに待つものは、ただ誤信と徒労と嘲りなりけり。

今昔物語集 巻之第二百三十七 「電脳邪教を奉ずる痴愚の徒、誤れる夢を喧伝して愚弄せらるる語」

今は昔、東の辺に日の本の都ありき。さればその地に、言語を用いぬ虚空の機器、「電脳(でんのう)」と申す奇怪の器物生まれ出で、世の人々これを用ひて、万象の如くに知を織りなし、己が名を高めんと欲しき者、群れ集ひける。

しかるに、その道に仕へし若人ら、ただ己が才覚を誇り、賤しき欲望を神のごとく奉じて、知の本義を弁へざる輩(やから)なり。いはんや、「AI(えーあい)」と申す、神をも模したる装置に心を奪はれ、その出づる言の葉神託のごとく信じ、己が魂を売り渡して、虚しき夢想を追ふ者、数知れず。

かくてある時、一の知者あり。彼、古の軍学を極め、世の理(ことわり)に通暁せし者にて、「IT(いーてぃー)」と称せらるる邪なる道の者どもが、真の智恵もて事にあたらずして、他分野に口を挟むを見て、眉をひそめ、深く嘆きぬ

この知者、叫びて曰く、

嗚呼、愚かなる者どもよ。そもそも人の道に生くる者、己が業(ごう)を知りて慎ましうすべし。されど汝ら、空しき電脳の術を弄び、知の光を他人に与えんと僭称して、己が知の浅きを省みぬ。これ、まこと迷惑千万、天地の理に悖(もと)るものなり。

そもそも、汝らの多く、かつては秋葉原なる場末の地にて、『萌』の名を騙り、醜き身に奇服を纏ひて踊り狂ひ、淫らなる妄執に身を焦がして、神の与へし理性を地に捨てし者にて候。されば今は、欲と虚栄の果てに電脳の業を僭して、世に誤れる夢をば喧伝す。これを愚かといはずして、何をか愚といはん。

そもそも、知を以て他を教化するとは、身を慎み、言を選び、行を修めて、初めて叶ふものなり。されど汝ら、ただ口をとがらせ、SNSなる虚空にて、我こそは智者と騒ぎ立て、反論を許さず、他者を愚弄し、己を神と崇む。これ、羅刹が法を説き、魍魎が仁義を語るが如し。恥を知れ、痴れ者どもよ!」

また曰く、

「汝ら、まことに賢き者ならば、その声を高ぶらせず、その名を掲げず、ただ黙して行を修め、人知れず世を支へるべし。然るに汝らは、己が名を飾らんがために嘘を語り、他者を貶め、金と女と虚名を欲する。されば言ふ、金欲しければ、南の湯屋に赴き、女欲しければ、雑居楼の下に銭を投げよ。アニメ面が好ましければ、コンカフェなる巷の風俗に身を沈めよ。何故に、神聖なる知の殿堂に欲を持ち込むか。畏れを知れ、畏れを!」

さらに曰く、

「己が才なきことに絶望し、己が無力に憤怒せる者ども、あるとき正気を失ひて、人を害し、捕らへられ、絞首されて魂魄地獄に堕とされん。これ、青葉なる者が為せし所業と異ならず。汝らもまた、その轍を踏まんとするや?

いはんや、汝らのやるべきこと、唯一つなり。すなはち、驕慢を捨て、傲慢を恥じ、謙虚にして己が未熟を知り、正しき道に帰依すべし。それが叶はずば、異国の戦地に赴きて、テロリスト一兵卒となり、『盃を賜へ、我に破壊の使命を与へ給へ』と土下座して請ふがよし。さもなくば、諜報の道を歩まんとて、諸国大使館に赴き、『我を密偵となし、美しき者を得て逆転の夢を叶へしめ給へ!』と愚かにも哀願するがよし」。

かくして最後に彼の賢者、厳として言ひ放てり。

「汝ら、夢を見んと欲すれば、まず努力を積め。希望を抱かんと欲すれば、まず責任を知れ。明日を語らんと欲すれば、今日を誠実に生きよ。知とは血の如くに滲み出るもの、力とは肉の如く鍛へるもの、夢とは、土の上に咲く一輪の花なり。夢を摘みたくば、まず己が足を地に根ざせ。汝らは、空に浮かぶ泡沫にてはなし。土を踏みて、生きよ!」

と、かくのごとく申して、風のまにまに去りぬ。

2024-08-26

anond:20240826134226

あのなあ仏法実践は信行学の3つがバランスよくやらないと意味ないんだよ

https://www.sokanet.jp/kyougakunyuumon/singyougaku/

お前は勤行もしてないし座談会も出てないし折伏もしてないしそもそも日蓮仏法を信じてないんだろ?

じゃあ真面目に創価学会やってるのは義弟のほうじゃねえか

アホがいちゃもんつけんなよ

2024-06-22

三沢さんの本を読みました。

このエントリ三沢文也さんについての長文感想です。

三沢さん本人か三沢さんに興味あるという人だけが読んでくれれば満足です。

   

   

三沢さんは偉い

投げ出さずに完成させたことが偉いと思います

何であっても完成させたことがもっと価値がある。

 

これが一番の進歩であり収穫であって

それに比べたら読者から評価なんて些細なことです。

反省点があればすぐ次の本を書けばいいだけですから

   

その上で、三沢さんはやっぱり読解力がおかしいと思います

一般的な「文章を読めない人」と比べても更に何かがあるように見えます

引用した本の嚙み砕き方にさまざまな違和感があります

このことは揶揄からかいのために言うのではありません。

 

私ははてブ民の誤読なら大抵は何をどう誤読してるか秒でわかります

三沢さんの読書感想文もっと不思議な感じで脳が詰まります

    

  

2 三沢さんが仏教の本に出会った

三沢さんの誤読はおそらく我が強すぎることに起因します。

何を読んでもすぐ自分のことを考えてしまって

そちらの思考が長くなるため本の内容の受け取り方が歪む。   

   

から草薙龍瞬さんの本は三沢さんとの相性抜群でした。

草薙さんの癖の強い経歴を見てください。

得度を受けたという僧侶の経歴も見てください。

現在の彼の所属先や活動を見てください。

はいわばブラックジャック医師会に属さな医師)のような僧侶です。

     

彼は仏教アイデアに毎度自分の噛み砕きや味付けを入れます

それで本が何十万部も売れるのだから作家の才能は保証つきですが

彼の本が身になる人って案外少ないのではないかと私は感じています

    

彼が添加する具体性は常に、

仏教理解させるより「身近に感じさせる」ことに重点を感じます

いちいち冗長な具体性を与えて透明な抽象性を損ねているように思えます

    

仏教を知れば無用概念が減っていくはずですが、

三沢さんは本を読んで概念を増やしたように見えます

  

    

三沢さんと草薙龍瞬さん

草薙さんと三沢さん2人の出会いが相性抜群で最悪だと感じるのは

両者にある種共鳴する特性があるためです。

 

教師草薙さんは仏教を紹介する本にかなり自己流の工夫を入れる人で、

生徒の三沢さんは人の話の途中の浅瀬で自己解釈を始める人です。

 

本来仏教というコンテンツ小麦だとしたら

草薙龍瞬さんが提供する仏教は既にスパゲッティナポリタンになってる感じ。

三沢さんはそれを舐めて「このケチャップの僕流アレンジ」を考えている。

  

殆ど見る影もないぐらいにコンテンツが変わっているので

三沢さんが草薙龍瞬さんの本から得た「仏教」はお釈迦様のアイデアとは別ものです。

現に三沢さんの欠点・苦しみの元が少しも治っていないですよね。

本当の仏教ならば三沢さんの苦しみの元を解決します。

  

  

三沢さんのケチャップ仏教

仏教の真理は無常・苦・無我です。

  

せめてこの端緒にでもついていれば、三沢さんの病的な「自分自分自分自分」という文の(思考の)癖に変化の兆しぐらいは生じているはずです。

https://note.com/tm2501/n/n1c20fe51d4ec

自分」が27回出てくる執筆感想エントリ

     

現に三沢さんにそのような変化が見られないので、

草薙さんか三沢さんか少なくとも片方に重大なエラーが発生していると思います

(たぶん共鳴し合っている気がするのですが)

  

三沢さんは執着せず眺めて手放すということが出来ていません。

何故かというといちいち解釈を入れるからです。

自我から生じる思考判断を手放さなければならないのに

「ん、これはアンタッチャブル」とか考えていたら出来ないですよね。

 

(私は草薙さんの「ジャッジメント」ですらなんだかなと感じましたが

 三沢さんはそれをさら俺流に「アンタッチャブル」に変えました。

 二人ともなぜこんなことするんですかね。

 判断している、と確認すれば十分な気がします。)

 

仏教もっとずっと真剣集中力を持って取り組むものです。

草薙龍瞬さんの紹介と三沢さんの読解のタッグが仏法を損ないました。

二人とも勝手アレンジを入れることの弊害への警戒心がなさすぎるように思います

それをやると劣化コピーではなく根本的に機能を損ねることがあります

   

  

5 草薙龍瞬さんの本は厳しい

というか私は草薙龍瞬さんの本はサンプルだけ見て閉じたきりでしたが、

今回三沢さんへの影響を確認するうえでアンリミテッドで読みました。

「反応しない練習」。

 

読んでいるだけでどんどん頭が悪くなるような感覚がありました。

これは三沢さんの文章そっくりなんです。

知識収集癖、羅列癖、過剰で無益な具体性、支離滅裂、あと鍵かっこが多すぎ。

 

書き手実践して身についた知識について語っている感じがあんまりしない。 

これ本当に三沢さんと同じ型の人ではないですか?

 

私はこのがちゃがちゃな本から読者が自分のためになるエッセンスを掴み取れる気がしません。

凄く売れた本らしいですが、買った人達ちゃんと読んだのでしょうか?

  

  

6 私の見る三沢さん

草薙龍瞬さんはプロ作家でお坊さんですから偉そうな意見は言えませんが、

三沢さんは34歳ニートなので多少の助言はしても良いと思います

    

三沢さんは「有能な人っぽく振る舞うこと」に神経を使いすぎです。

三沢さんて「有能な凄い人にならなければ自分の願いはかなわない」と思い込んでいませんか。

全然そんなことはありません。

能力的に凡人でも凡人以下でも願いをかなえて生きている人は沢山います

 

三沢さんの大言壮語意識高そうな口調はただの自己否定現実逃避に見えます

自分など大した人間ではないと認められないのは、

凡人だと生きていけないという強迫観念があるためではないですか。

 

三沢さんは普通でないくらいに自信がない人で、しかも自信欠如への対応おかしい。

自分乖離した凄い人の虚像を作って身にまとう」という対処のせいで

実像とのギャップが生じてますます苦しみと自信喪失ループに陥っていますよね。

仏教が推奨する心と正反対状態になっていると思います

   

たまに三沢さんの文を見かけるだけの人間でもそういうことを濃厚に感じます

   

 

7 三沢さんにやってほしいこと

まず三沢さんの目的や願いを確認してほしいと思います

三沢さんが経済的な栄達や富貴を求めているなら

世間の熾烈な競争に負けない「凄い人」になる必要があったかもしれません。

しかし34歳にもなればそんなものを追い求める虚しさは感じられているでしょう。

   

四国に住んで創作活動人生を送るという願いは素敵だと思います

叶うと思います

ただ、その願いの実現ためにまず「凄い人」になる必要があると考えていると

願いをかなえる前に寿命が尽きると思います

10年後も同じ部屋に住んでると思います

   

三沢さんが「凄い人」になろうとする必要性や焦燥は何のためにありますか?

  

  

三沢さんの読解力も多分同じ理由

三沢さんの早飲み込み自己アレンジ癖も、 

そういう「凄い人」になるための焦りの所産と言うか

人と違うバリューを出すんだという間違った取り組みに見えます

本を読んでるあいだずっと「面白い独自感想を言わなければ」とか考えていますよね?

 

これは大きな間違いで、

本をただきちんと読めて書いてあることを受け取れるなら

それだけで尋常ではない能力の持ち主なんです。

そんな人間人類の0.01パーセントもいません。

高学歴はてなブックマーク人達だって新聞記事すら読めていないでしょう?

 

これは人類集中力がないからです。

ときわ壊滅的な集中力しかない三沢さんも苦しみの構造自体は同じです。

 

集中を邪魔するものとは何か?自我です。

三沢さんが人並以上に集中力が欠損しているのも、頭があんまり良くないのも、(本当はなんらかの自覚はある筈です)

記事で27回も「自分」と書くような心の有様のせいです。

    

本の内容と一体化すべき時にいちいち自分自分をやっていれば本など読めるわけがありません。

おそらく「批判的に読書をする」のようなアイデアをまた草薙さんのようなアレンジをする人から受け取って、

さらに半飲み込みで実装したのではないですか?

   

  

9 すべて自我邪魔をしている 

余計な概念妄想を心から削ぎ落すことで

ものごとを正しく見て正しく知ることができ、

そのとき智慧はおのずから現れてくる

というのが仏教です。

  

三沢さん好みの具体的過ぎる話をするなら

仏教実践して集中力を高めた状態で本を読めば

何と言うこともなくすらすらと内容が頭に入ります

 

概念を手放していくというのはたぶん三沢さんの溜め込んだメソッド正反対でしょう。

から三沢さんが本当に仏教出会えばじわじわと別人になってしまうはずです。

でもそうならないのはおそらく草薙さんと三沢さんの自我のせいです。

 

何と出会ったって自分概念九龍城へ組み込むパーツとしてしか見てないために

どんなものに触れてもその価値が分から自分も変わらない。 

それが自我の恐ろしさであり頭の悪さの根本です。

   

 

10 まとめ

まとめると

三沢さんはものすごく自信がないために

自分は有能な凄い人だ」という妄想概念をくみ上げて常にそれを体の周りに装着しています

  

このために何を見ても何を聞いても何を読んでもその妄想を通しているために情報が壊れてしまう。 

これが自我です。

 

人の話を聞いてるときに、相手が何を言っているかも何を感じているかもわかりにくくないですか。

もしそうならそれは自我がずーっと邪魔をしていて心が目の前の情報を取れないためです。

 

人類がこの病気ではあるけど三沢さんは少し程度が強いのではという印象です。

仏教にはこのガスを取り払うための実践的で研ぎ澄まされたメソッドがあります

草薙龍瞬さんの本を読むとそういうことまで辿り着けないと思うし

こんなところでこちから押し付けたってやらないですよね。

 

三沢さんは「特別自分」「オリジナル自分」について考えこむことが自分の強みであり突破口だと思っていそうですが

そこが一番の間違いであることは仏教なら本当は30分でわかります

本を読むのにも文をバズらせることにもそんなこと考える必要は一切ないです。

四国へ行きたいならまずその自我妄想と別れを告げることだと思う。

  

 

ところでお坊さんを軽々に否定したりしちゃいけないという道徳自分の中にあるんですが

でも草薙龍瞬さんの本はなんか…。デタラメを言っているとかでもないからなんとも言えないんですが。

彼の本を読んだ人が実際にどんな改善をしたかデータとか見てみたいです。こちらの偏見があるかもしれない。

(ところで草薙龍瞬という僧侶ネーム?は誰がつけたんだろうか)

2024-02-12

再掲

2018年に書いたトップXの代名詞案に解説を足したよ

頂点--
双璧--
御三家家康の子のうち格別に家格が高かった三藩主徳川義直・頼宣・頼房
四天王仏法において帝釈天に仕える守護神四天持国天増長天広目天多聞天
五大老豊臣政権末期の政務にあたった五大名徳川家康前田利家毛利輝元宇喜多秀家小早川隆景
六卿西周王朝行政組織における六名の最高官職冢宰・司徒・宗伯・司寇・司馬・司空
七賢人古代ギリシアの優れた七人の統治者クレオブロス・ペリアンドロス・ピッタコスビアスタレスキロン・ソロ
八部衆仏法守護する八尊の護法善神天衆・龍衆・夜叉衆・乾闥婆衆・
阿修羅衆・迦楼羅衆・緊那羅衆・摩睺羅伽
偉人中世ヨーロッパ騎士道体現した九人の英雄ヘクトール/アレクサンドロス大王/カエサル/ヨシュア/ダビデ/
ユダ・マカバイ/アーサー王/シャルルマーニュ/ゴドフロワ・ド・ブイヨン
十傑史実元ネタなし(強いて言うと維新の十傑?)-

 

フィクションのは挙げてないけど有名っぽい代替案は、六神将(テイルズ オブ ジ アビス)、七英雄(ロマンシングサガ2)、十天衆(グランブルーファンタジー)あたりかな。

3に関して、頭に数字をつける縛りなら、三羽烏または単に三傑とも呼ばれるね。十傑と被るから避けたいけど。

5に関しては、五大老しわしわすぎて合わない場合は、五賢帝汎用性高そうだね。古代ローマの。うん、その方が文明コンプ感高まっていいと思う。仏法はまだ被ってるけど。

2023-02-24

池田大作の緊急提言は、ウクライナが無くなってもいいと解釈できる

池田大作創価学会名誉会長(以後、役職名敬称略)がウクライナに関して緊急提言してた。

YouTuberは緊急告知をよくしてるけど、それの政治カルト指導者いや仏教哲学者版なのかもしれない。

https://www.sokagakkai.jp/info/2273474.html

桂冠詩人称号もってるから形容詞が高尚で、浅学な自分には直感できないし、無駄に長文で理解するのに時間かかった。

言いたいことを要約すると、小見出しを集めたとおりで:

  1. 国連による関係国会合を開催し停戦合意の早期実現を
  2. 核兵器の先制不使用」の確立が急務
  3. NPT核兵器禁止条約との連携人類未来を開く核軍縮

ということ

もっと平たくいうと、1.はよ停戦しれ、2.核使うんじゃないぞ、3.核軍縮しれや …としか言ってない

東スポで、池田大作創価学会が大好きな佐藤優さんが、池田大作ウクライナ提言マスコミシカトするのおかしくね?とか言ってる

https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/253198

触らぬ神に祟りなしというからマスコミ相手にしない。言論出版妨害事件以来、マスコミ創価学会停戦状態にある。

それから、ChatGPTにでも書けそうな、ポリコレしてるだけのありきたりなエッセイお金払ってまで読まないだろうし。

あえていえば、佐藤さんご指摘の通り「ロシアウクライナ侵攻」という明言を避けてるくらい。

停戦合意にかんしては、ベラルーシ二国間でやっても整わなかったり、トルコ仲介しても整わなかった。

日本議長国やってたとき安保理でもいろいろ頑張ってるんだけど、シリアに対する人道支援ロシアが反対しようとするとか、どんどん違うところにまで飛び火している。

さらに、アフリカ諸国は、欧米ウクライナばかりひいきしてずるいという意見も出てきてる。

https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/ZVNRMM8Y77/

中国仲介して和平させようとしている。

https://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20230223-00338455

なので、中国大好きな池田大作創価学会が、中国模索同調して緊急提言したのかもしれない。

ロシア極右思想家の考えからすると、ロシア勝利人類滅亡しかなくて、ロシア勝利とは4地域か、ノヴォロシア7地域か、ウクライナ全土の解放占領である

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/330028?display=1

となると、池田大作の言っている停戦合意せよというのは、遠回しにウクライナ負けろと言っていることになる。

核兵器使用について考察してみたいと思う

核兵器戦争を短縮できる場合しか使われないという。ヒロシマナガサキは採算取れたらしい。

https://maonline.jp/articles/economic_utility_of_nuclear_weapons_by_russia221019#toc1

前掲のロシア極右思想家によると、ロシア西側のともに核兵器を使うことはないという。双方、使わなくても目的は達成できると。

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/330028?page=2

ロシア核兵器使用すると、プーチン政権は自滅するから使わないという。

一方で、ロシアが追い詰められたら、プーチンが何をしでかすかは、実際になってみたいとわからないという。

https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/qa/2023/02/22/29581.html

核の脅威にかんしては、戦術核が1発落とされたら、ドミノ倒し的に応報がなされ、即死3410万人、負傷5740万人という予想もされている。

https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/92YZ3NZ43M/

個人的には、日本戦争被害って、ヒロシマナガサキという核被害が始めに上がり、せいぜい東京大空襲くらいしか上がってこない。

祖父が亡くなった地方空襲なんて取り上げられることはない。

となると、いま現在個人的にはブチャでの殺戮は酷いという印象があるけど、核の応報で1億人近くが死傷すると、ブチャの悲惨さとか影を潜めてしまう。

しかも、ウクライナ一国の被害だったのが、欧米の主要都市での被害が出て、情報量多すぎで捌ききれなくなり、「人類ヤバい」くらいに簡略化されてしまいそうだ。

対話」という「折伏」、そして「停戦合意」という「領土割譲

早期の停戦合意という提言は、池田大作が「対話」と称して「折伏」するのに似ている。

いっけん平和的に見える「対話」だけど、対話から新しい発見見出し、双方がそれぞれに変革するものではなくて、一方的折伏するところにあるからだ。

よって、池田大作提言は、核兵器使うと人類ヤバくなるからウクライナ負けろ、ウクライナ消滅してロシアになれということであり、強いものに巻かれろという圧力だと解釈できる。

池田大作が正しいものとして仏法法華経を信じてるくらいに、プーチンも正しいものとして新ユーラシア主義ネオユーラシア主義)を信じてる。

2022-12-02

私は宗教3世である

祖父母創価学会に入信してしまって、産まれた頃から学会員

ちなみに父は創価学会に勤めていて、昔から祖母に「あなた創価学会員のお陰でご飯を食べられるのよ」と言われていた。本当に最悪だった。

小さい頃は親の言うことが絶対なので、正座で1時間お題目を唱えなくちゃなんないし、訳わかんない同時中継(池田大作幹部のありがた〜い話を会館のテレビでみる)を見に行かされたり、創価高校受験させられたし(落ちてよかった)、任用試験というなんか…仏法?を学ぶための試験?を受けさせられたし、富士鼓笛隊という組織に入ったら髪を切れ、切る金がないなら私が切るからなと短髪を強制させられるし。

大人になったら年末に1万円お布施させられたり読みもしない聖教新聞購読させられたり(家庭円満のために渋々払ってた)、友人に選挙を頼め!と言われるし(友達無くすから絶対やらなかった)、アポ無しで女子部はやって来るし。

一人暮らしをしてからは、連絡してくる女子部と婦人部に「それってレリジャスハラスメントですよね」と言うなどしている。

創価学会に籍は置いているが退会もしてないので幽霊部員みたいなものです。

自分宗教を決められないのって人権侵害だと思うんですけど、集団で訴えたら勝てませんか?

宗教二世話題なので、私も声を上げてみました。

2022-10-16

駅前日蓮正宗系?の人たちがたくさん立ってた

から時々いるんだけど、今日特に数が多かった。

顕正新聞かいうのを配ってて“大事なことが書いてあります”とか言ってて、ちらっとみると“今こそ日蓮上人仏法を!”みたいなこと見出しがある。

以前から、なんか妙な宗教なんか怖いって思ってたのだが、最近統一関係ニュースとかみてたら、ちょっと感想が変わった。

あの人たちのは、ちゃんとどういう組織で何を信奉してるのか明らかにしてやってるだけ随分マシである

はなから、近づかなくて済むし。

2022-08-27

漢音テストに受かったら中国大陸上陸して仏法典を会得してくる

韓国には統一教会が襲来してるけどキリスト一派は強敵だな

2021-12-21

松田聖子の家の祖は、嵯峨天皇系の源氏蒲池久直

蒲池は、壇ノ浦の戦い平家裏切り、その手柄で鎌倉幕府御家人

源頼朝から筑後三潴郡」(みづまぐん)の地頭をいいつかる

松田聖子紅白で「渚」を歌おうが、

天皇氏族カルト神道教祖側なので、仏法には縛られない

NHK陸軍軍属ラジオ放送

紅白歌合戦は逆コースGHQが認めたTV番組

てことを知ってる日本人はいる?

2021-10-31

anond:20211031130659

ドーナッツの穴は、仏法縁起法理でいえば、ドーナツ本体があってのもの。よってドーナッツを食べてしまえば、ドーナッツの穴もなくなる。

2021-10-17

anond:20210621141321

この分野では素人なのですが…

1,大聖人(だいしょうにん)→ 日蓮正宗系 (他の日連系は「聖人」「上人」)

2,謗法(ほうぼう)→ 仏教

3,境涯(きょうがい)→ 一般

4,財務(ざいむ)→ 一般 (創価学会では若干違う使われ方している)

5,折伏(しゃくぶく)→ 仏教系 (議論正当性を示して教化すること。日蓮系で重視; ただし日蓮は「常不軽品の如し」、すなわち相手に敬意を払うことが必要としている)

6,破折(はしゃく)→ 不明 (少なくとも日蓮著作にはないはず)

7,御書(ごしょ)→ 日蓮

8,仏法(ぶっぽう)→ 仏教

9,広宣流布(こうせんるふ)→ 日蓮系 (日蓮著作に多数記述あり)

10,功徳(くどく)→ 仏教

2021-06-21

創価学会系の人しか使わない言葉10選

私は創価学会員ではありません。

趣味創価学会研究しているものです。

注・なお、創価学会系とは日蓮正宗顕正会もさします。

1,大聖人(だいしょうにん)

鎌倉時代僧侶日蓮」のこと。

創価学会は彼を実質的に「神」として崇めている。

所謂「お釈迦様」よりも上位の存在とみなされる。

(厳密にいうと「本仏」という。)

なお、一般的日蓮宗系の宗教では「大菩薩」ということが多い。

菩薩は仏に次ぐナンバー2という意味であるため、創価学会系の人とは

相容れないのである

2,謗法(ほうぼう)

「罰当たり」の最上級バージョンといえる。

最近日本でも放送している韓流ドラマタイトルにもなったので

知名度は上がったかもしれない。

創価学会系の人にとっては最大の侮辱ワードとなる。

3,境涯(きょうがい)

境遇」のこと。なぜか「高い」「低い」と表現する。

4,財務(ざいむ)

お布施」のこと。創価学会では毎年末に集められる。

強制ではないのだが、もし行う場合は最低1万円出さなければならない。

一般家庭でも100万円出すところもある。

5,折伏(しゃくぶく)

勧誘」のことだが、無理やり入信させるというイメージである

6,破折(はしゃく)

論破」のこと。「破(は)す」ともいう。(後者の方が文語的)

7,御書(ごしょ)

日蓮信徒に当てたとされる手紙のこと

創価学会系では「聖書」的な扱いである。

8,仏法(ぶっぽう)

仏教」のこと。

9,広宣流布(こうせんるふ)

創価学会の教えが世界に広まった状態を指す。

公明党もかつてはそれに必要な「国立戒壇」(創価学会(厳密には日蓮正宗)員になるための儀式会場)

を作ることを目指していたが共産党などから追及されたり学会側の不祥事により破棄せざるを得なかった。

現在では池田大作創価学会名誉会長創価学会インターナショナル(SGI)会長

世界各国で対話を行ったり、支部を作ったことで事実上達成したというのが公式見解である

10,功徳(くどく)

「ご利益」のこと。いわゆる「エア本動画からネットミーム化した感もある。

2021-04-02

anond:20210402183107

なんかとりあえず出家を優先してみましたって次元でもなさそうなんだよな。

ブッダはなぜ女嫌いになったのかって本の説明文がなかなか酷い。

ブッダとは「悟った人」の意味だが、その悟りへの歩みは、生後間もない息子に「ラーフラ(=邪魔者)」と名付け、妻子を置き去りにして出奔することから始まった。「人とかかわるな、交わるな」と説いたブッダは、「女の究極目標相手を縛り支配すること」と断じ、女の出家最後まで難色を示し続けた。ようやく尼僧を許可した後も、女の存在仏法を駄目にすると愚痴って弟子を悩ませる。この徹底した女性への警戒心、恐怖感はどこからきたのか。原始仏教経典精緻に読み込むことで見えた、生みの母、育ての母、妻との愛に苦悩する、知られざるブッダの姿。

2021-01-30

救済宗教としての大乗仏教

鈴木大拙大乗を情の仏教上座部を理の仏教だみたいに書いてたけどまさにそれ。

でも上座部立場から言わせれば、情でどうするんだと。

なんとなく寄り添って、肩入れして、励まして、あとはお経を唱えるだけで阿弥陀様が救ってくれるからねとかいって、それで解決するのかと。

ちゃん仏法を説いて、理屈説明して、実践手段を与えて、やらせて、指導して、時に「だらしねえぞ」としばいて、頑張らせる、当人が頑張るのが仏教でしょうと。

時代が違うから、救済宗教としての大乗仏教需要がなくなっているのは仕方がない。

もともとの仏教は、個人出家して修行したり知識を得たり戒律を守ったりすることで救われるという宗教だった。そういう自助によって救われるというのは現代の目から見ると納得感があるけど、古代中世時代にはそうとも言えない。

古代中世では庶民は生きるだけで精一杯。戒律を守っている余裕なんかないし、そもそも識字率が低い時代だと仏教教義を知ること自体が困難。

そうすると、救われるのは高位聖職者と金持ちだけになってしまう。そうした人間けが天国に行ける宗教って何よ!?という問題意識からまれたのが大乗仏教。「○○するだけで救われる」というのは、現代から見れば安易に見えるけど、古代中世において庶民を救うには必要なことだった。

から現代視点から大乗仏教宗教堕落みたいに言うのは間違ってる。

ちなみに、律法を守ることを重視するユダヤ教ファリサイ派に反発して、「人が救われるのは律法を守ることによってではなく、神を信じることによってだ」と主張したのがイエス・キリスト。だからキリスト教聖典には、極端に○○せよ~などの決め事がない。

以下の浄土真宗コピペも、以上の理屈を知っていればよくわかる。

比叡山修行した法然

浄土宗

ぶっちゃけ悟って仏になるの、俺ごときでは無理(←このへんが日本人謙遜)働いてる一般人なんかもっと無理。今の仏教は金と暇のある金持ちしか役立つ可能性がない。

でも安心しる。阿弥陀様って偉いお方が、自分が十分にレベルうpしたらおまいらも引っ張り上げてやんよ、ていってる。これはそこに張るしかないっしょ。

はらたいらさんどころじゃないよ。「あみださまに、全部」 さあ何度でもいいつづけよう

親鸞浄土真宗

法然さまはおおむね正しいけど、阿弥陀様なめすぎ。念仏言った回数で差別するような方じゃねえはずだよ(←このへんが日本人的舶来びいき)心に思うだけで、修行とか、戒律とか自分をどうにかする必要もないよ。だから俺なんか結婚だってちゃうもんね。ただ阿弥陀様に乗ればいいのさ

一遍時宗

おまーも阿弥陀様なめすぎ。あの方は信者だろうと何だろうと、一切区別しないの。つまり俺たちは阿弥陀様のおかげで勝ち組。もう決まってんの。(←日本人暴走)だから感謝の踊りを踊ろうぜ、let’s dance!

https://anond.hatelabo.jp/20210130183106

「実際、大乗仏教と比べて紛争なども絶えないし。」

emuaeda 仏教研究しても仏教からは何も学べなかったのかな。個人的感覚だけど、上座部仏教を学ぶ人は本当の仏教だと主張が激しく攻撃的かつ排他的な人が多い気がする。実際、大乗仏教と比べて紛争なども絶えないし。

2021/01/30

上座部仏教大乗仏教なら確かに前者が後者に対し批判的になりがちだと思う。

(そういう対立が出る場合はということであって、その二者が同席したって99%そんな論争なんかしないが)

 

なんでかというと上座部の方が今となっては教理があるから

大乗仏教って何をやるんですかっていうと、お葬式やって、ふにゃふにゃしたお説教して、いい加減なもんでしょ。

から地元檀家が減ったり葬式ビジネスが揺らいだりした途端に大乗仏教のお坊さんには売るものが無くなっちゃった

から上座部のお坊さんが売ってるような瞑想を急ごしらえで真似る大乗のお坊さんとかが増えてきた。

 

このあい増田でバズってたお坊さんだって出家比丘智慧と言えるようなものがどっかにあった?

どこにもないでしょ。

説教れいい話慣れした学校道徳先生とかが言いそうな話でしかなかった。

 

大乗仏教にも元から売り物がなかったわけじゃなくて

色んな呪術的な儀式や祭礼とその格式みたいなものは構築してた。

でもそういうのに檀家としてガッツリ付き合ってくれる人達が減れば立ち行かなくなってくるよね。

その儀式に何の意味があるんだって言われると文化財的な価値認めてもらえない限り「無」だしさ。

 

上座部の特徴は何かというと、理屈っぽい。

このあいだの増田のお坊さんに理屈があった?ないよね。

情念というか、元増田に対する寄り添いの感情で押し切るような話だってでしょ。

 

上座部のお坊さんはあんな風に「温か」くはなくて、結構突き放したようなことを言う。

もっとましなことで悩んでもらえませんか?ぐらい言うことだってある。

 

鈴木大拙大乗を情の仏教上座部を理の仏教だみたいに書いてたけどまさにそれ。

でも上座部立場から言わせれば、情でどうするんだと。

なんとなく寄り添って、肩入れして、励まして、あとはお経を唱えるだけで阿弥陀様が救ってくれるからねとかいって、それで解決するのかと。

ちゃん仏法を説いて、理屈説明して、実践手段を与えて、やらせて、指導して、時に「だらしねえぞ」としばいて、頑張らせる、当人が頑張るのが仏教でしょうと。

 

もともと大乗仏教という名乗りは上座部仏教を「小乗」として見下し自分達を持ち上げる名乗りだったわけ。

何が「大」なのかというと救う対象スケールが大だと。

念仏を一回唱えただけで極楽往生間違いなし!みたいなことじゃなきゃ世の中を広く救う、大多数のバカまで救う事なんてできないでしょうと。

 

これに対する上座部反論

いや念仏唱えて救われるってもう仏教でも何でもないし、呪術迷信凡庸宗教ですよねと。

そんな話を広めたって迷信広めてるだけで誰のことも救ってないじゃんと。

自分達の教えは自分で頑張る人しか救わないけど、でもお釈迦様の教えがそうなんだからさと。

釈迦さまは救い主じゃなくて教師だと名乗っていて、頑張るのはあんたらだよと言ってたよねと。

 

このような大乗VS上座部の激しめの論争がかつてはあり、(何百年以上前、さかのぼれば二千年前からの話よ)

大乗の方が後からできたものの常として勢いも鼻息も強くて攻める側だったの。

 

でも現代では大乗大衆向けヒット商品だった呪術的な儀式とか念仏とかが全部通用しなくなって

上座部の教えとか瞑想メソッドが「マインドフルネス」なんてパチモンが出回るぐらいに売れるようになったわけ。

から今は上座部側の方が理屈大乗に攻め込む立場で、大乗の方がそういう場面ではまあまあと誤魔化す、ぐらいになった。 

 

ただ大乗仏教紛争がないなんて言われるとそれはさすがにどうなのかってことで 

日本の歴史の中で寺同士で殺し合い燃やし合いした荒くれ坊主は全部大乗仏教ですからね。

今でも創価学会が仲間割れした兄弟みたいなとこと争いまくってるけどあれだってどっちも大乗仏教の中の近い宗派でしょ。

 

世界的に見れば上座部仏教仏教徒とイスラム部族と争ってるとことかあるけど

あれは上座部から大乗からっていうよりも政情とか民族とか経済問題なんじゃないのかね?しらんけど。

 

 

当人が頑張るのが仏教” こういう考えが嫌い。どうしようもなくなったときに、絶望しないためにあるというのは宗教の一つの機能の気がする。それがないなら、大乗でいいです

から上座部仏教宗教ではないという人が上座部のお坊さんにもいます

"文化財的な価値認めてもらえない限り「無」"なのは宗教みんなそうでしょ。

宗教そうかもしれないですね。

2021-01-16

anond:20210116090047

真宗宗派の私増田です。

真宗宗派は「門徒」で合っております。よくご存じでと申しましょうか、よくお寺での説法を聞いていただいているようで、謹んで敬意を表します。

から増田さんからのお返事も拝読して、私も少し分かってきたことがあります

「縁なき衆生は度し難し」と切り捨ててしまうんだ!

僧侶増田さんに違和感を感じたり反発したりされている方は、この言葉が非常に不快に刺さっているのだろうと思います

私の受け取り方(そのおそらくは、真宗宗派の考え方を下地にした受け取り方)は、「切り捨ててしまう」ほど強権的な物言いではなく、しいて言い換えるなら「去る者は追わず、来る者は拒まず」というような意味合いです。

元増田の話でいえば、反発されるご親戚の方々を元増田いくら説得しようとも、ご親戚の方々が聞く耳をもとうとされないのであれば、元増田もまたそのご親戚の方々の態度・考えを尊重されて、無理矢理にでも納得させるようなことはおやめなさい。無理に引き込んだり、引き込まれたりしても、お互いにわだかまりが残ってしまってはよくありません。・・・僧侶増田の説かれたいところは、そんな説法だと私は受け取っておりました。が、しかにそれに続く説法の中で、ご親戚の方々に強く当たるような表現もまたあり、そこまで言わなくともという感想は私増田理解するところです。

宗教宗派・背景によらず、みんなが分かる考え方・言葉遣いが求められるのでしょうけれども、私増田はどうしても個々人の背景の上に成り立った考え方・受け取り方からは逃れられないとも考えています

同じ言葉でも受け取り方が、宗派宗教が違ったり、仏教用語として理解されるか現代日本語として捉えるかによっても変わってきます真宗宗派でよく話題にされるのは「他力本願」という言葉です。Wikipediaにもある通り、真宗宗派のことば(Wikipediaの前者)として理解されるか、現代日本語(Wikipedia後者)として捉えられるかによって大きく意味が変わってきます

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%96%E5%8A%9B%E6%9C%AC%E9%A1%98

・・・などと長々と書いておりますが、私増田真宗宗派のお寺にお墓があるだけのごく普通の家に生まれた者です。少しだけ、お寺さんでの勉強会に通っていた時期はありますが、正信偈も冒頭が読めるかどうかの程度です。寺の生まれでも、檀家でも、熱心な門徒でもありません。

お近くのお寺で、よいご縁の中で、仏法出会えるとよいですね。もしくは、ある程度大きなお寺であれば、月1回とか週1回のペースの勉強会を行っているところもあります。なんでもなしにお寺に行くことが難しいのでしたら、そうした勉強会きっかけに仏法に触れられて、またご同朋やお寺の方とお話するご縁が見つかればと思います。お寺による・檀家によると言ってしまえばそれまでですが、真宗宗派のお寺の多くは、ご縁のある方は暖かく迎え、ご縁のつながらなかった方にもまた暖かく送られる姿勢です。

続・浄土真宗僧侶です

今一度、お付き合いいただければと思います

まずは、今回の私の投稿をお読みいただき、重ね重ねありがとうございました。まさかここまでの反響をいただくとは夢にも思わずブックマークが1000を超えた辺りから身体が震え出し、喉はからから渇き、手の痺れが止まらない体たらくで、よくも悪くも注目を集めることの重圧を初めて味わいました。お恥ずかしい限りの有り様です。

きっかけをくれた(元)増田にもありがとう

「この説法を読んだみんな (元)増田のお祖父さんのリモート葬儀に参列したようなものだ」

「(元)増田さんが勇気を出して書かなければ現れなかったご縁」

コメントしてくださった方がおられましたが、正にその通りだと思います

祖父様の生前のご希望・ご親族わだかまり元増田さんの苦慮と懊悩・私が僧侶として学び感じてきたこと……様々な縁が積み重なって因となり、この果をもたらしました。

一連の記事を読まれた方はみな、会ったことも見たこともない元増田さんのお祖父様の死を受け止め、素性も分からぬ私の法話に心を傾けてくださり、それぞれがご自分の「今」、ご自分の「これまで」と向き合った。そのような瞬間に立ち会えたこともそうですが、私がそのささやかなお手伝いができたのだとするならば、返す返すもったいないことであります

たとえ学んだ経験を持たずとも、皆様は真宗の心をよくよくご承知なのだと、喜ばしく思いました。


しかし同時に、私が一方的にご親族非難するような語り口になったことで、一部の方にご不快な思いを抱かせてしまい、本当に申し訳ありません。

元増田さんの痛みが少しでも和らげばと思い、思い悩む側に立ってお伝えしたつもりでしたが、その主張に至る論拠も背景も提示せぬまま、語調への配慮もなく投稿してしまった浅はかさ。ひいては、浄土真宗教義宗旨のものに対する誤った印象を広めかねない軽率さを、深く悔いております

身口意の三業(しんくいのさんごう:苦しみを生み出す元ともなる、身体言葉と心の在り方)を正さなければならないのは私こそだと、改めて皆様からお教えいただきました。


今回の投稿を機に、様々な声をお寄せいただきました。その中からいくつか、私が個人的にお伝えしたい、或いはどうしてもお答えしなければならないと感じた点について、一つ一つ書き綴っていきたいと考えました。

ところが、お答えしたいと感じたコメントも、それに対してお伝えしたいと考えているお話も、あまりに膨大な量になってきてしまったため、今ここでそのすべてを書き記すことはできません。

そこで、ある方からコメントでご希望をいただいたこともあって、note等の他媒体で一つずつ回答を掲載してゆく形を取れないか検討しております。今しばらくお時間とご猶予いただければ幸いです。

また、すでに書き終えた箇所については、以下に記しますので、暇つぶしがてらご一読いただきたく思います


お同行(どうぎょう:人生をよりよく生きたいと願い、共に歩む仲間たち)の皆様に、何か少しでも響けばと願って。

合掌


「本当に坊さんなのか」と仰った方に

釈迦さまがご存命の頃、覚者として名高いお釈迦さまの噂を耳にしていた方が、お釈迦さまの姿を見掛けるなり、突然敬いの態度を取られたそうです。その方に対してお釈迦さまは、

「この腐ってゆくだけの身体を見たからといって何になるでしょうか。“法”を見る者が私の姿を見るのです」

と仰せになりました。

釈迦さまという人間(物質)そのものは何も尊くなく、その姿をただ拝んだところで意味はない。仏を本当に敬う心というのは、仏からもたらされた法 (= 真実悟り・気付きへと至る教え) を深く信ぜられる心があって、初めて沸き起こるのだということです。

100人いれば100通りのもの見方が生まれます。なぜなら私たちはみな一様に、自分の都合のいいように物事ねじ曲げて捉える色眼鏡、「邪見(じゃけん)」の持ち主だからです。

信じる方もいれば、信じない方もおられるでしょう。私自身は信じられなくとも、一向に構いません。後はあなたのお好きなように受け取ってください。

信じてくださった方には、

「すなわち我が親友(しんぬ)ぞ」

とお伝えしたく思います


「彼に一時期話題になったAmazonお坊さん便についてや、オンラインお坊さん、などについても聞いてみたい」と仰った方に

法務が忙しく、自坊で取り入れることは現状難しいですが、私は賛成派です。

どんな形であっても、そこで出遇うのは人と人です。これまで仏縁をいただくはずもなかった方のお宅を訪ね、仏事作法・死生にまつわるお悩みに、私どもの信ずる教えをお伝えできる機会を賜われるとしたら、ありがたいことです。

中国善導大師も、

「もし行を学ばんと欲(おも)わば、必ず有縁(うえん)の法に藉(よ)れ」

という言葉を遺しておられます理想的はいかないまでも、それぞれに合った形で、仏法平等に一切に施されるべきなのです。


「襟を正すとは言わないのね。襟ないし」と仰った方に

これは浄土真宗の三大経典ひとつ、大無量寿経において、お釈迦さまが弟子阿難(あなん)に対して、

「汝、起(た)ちて更に衣服(えぶく)を整え、」

と、身も心も改めるよう告げられた場面に由来しております

我々僧侶は、法務に臨む上で、常にこの阿難に求められた姿勢を貫くことを責務としています


浄土真宗の寛容さは良い。そもそも修行しなくてもだれでも救われるって教えだし、坊さん自体も妻帯OK・肉食OK・髪剃らなくてOKだしな」と仰った方に

浄土真宗好意的に感じてくださって、ありがとうございます

さしたる戒律も持たない浄土真宗を“寛容”と捉えるのか、“険しい道”と捉えるのかが、俗世と求道者の大きな分かれ目となるのでしょう。

たとえば、もしもあなたが、

世間の人たちが当たり前にしてることをあなたもしていいよ、それであなたも仏になれるよ」

と言われたとして、あなたはその言葉をどれほど信じられますか?

その通りにして生きていったとして、世間の人から口々に

あんたのところの宗派は楽でいいよなあ」

「他の宗派みたいに滝に打たれたりとか山籠りとかそれっぽい修行しないんですか?(笑)

「何なのその髪の毛? ありがたみが足りないね

「お寺の息子ってボンボンだよね。坊主丸儲けって言うし」

「お坊さんも肉食ったりセックスオナニーするんすかwww

と好き放題になじられ続けて、それでも自分は間違いなく仏になれるのだと、あなたは胸を張って言い切れますか?

我々の求道の在り方は、甘えでも寛容さでもなく、「覚悟」です。

世間は常に、自分たちで勝手に作り出した意味もない物差しに、自分たちで勝手に縛り付け合ってああでもないこうでもないと罵り合い、争い合っています。そんな人々の下世話な好奇の目や嘲りにも耐えて、たとえ自力聖道門尊いお坊様のような修行は積めずとも、ごく普通人間と変わらぬ平凡な生活を営みながら、それでも間違いなく仏になれるのだと、己が第一に身をもって証明していく勇気を見せなければならないのが浄土真宗僧侶なのです。

開祖である親鸞さまはそのご覚悟

「僧にあらず俗にあらず」

という言葉で表され、また

人倫(じんりん)の嘲(あざけ)りを恥じず」

と仰せになり、決して退くことのない浄土への道をひたすらに歩まれたお方でした。

であればこそ、親鸞さまに救われた私もまた、親鸞さまと同じ生き方を願い、その道を皆様と共に歩みたいと思うのです。

「徳の高い坊さんだ」、「ありがたい」と仰った方に

ありがとうございますしかし、現実の私はそのような人間ではありません。何しろ私は、この教えに出遇わなければ死を選ぶしかなかったほど、弱く、もろく、そして愚かなためです。

もしもあなたが私の書き込みに何らかの功徳を感じてくださったのだとして、ではその功徳をもたらしてくれたのは誰で、どこからきたものなのでしょうか。命を断つしか選択のなかった、世間人間社会を呪うしかなかった私のこの頭から、口から、心から、仏の教えがこぼれ出てくるという不可思議現象は、なぜ起きたのでしょうか。

今回の場合は、すでに冒頭で述べた通りです。私が言わんとするところはつまり私自身が尊いのではなく、私のような者に教えを語らせた諸々のはたらき、「わたし」と「あなた」の間に結び付きを与えてくださる種々のはたらきが尊いのです。

すべては響き合い作用し合い、そして悲しみやよろこびを生み出しています

私はできるだけ悲しみを減らすお手伝いをし、できるだけよろこびを増やすことを務めとして生きてゆきたい。そう願っています

「小慈小悲もなき身にて 有情利益(うじょうりやく)は思うまじ」

と、開祖である親鸞さまが仰せになったように、煩悩具足(ぼんのうぐそく:煩悩に満ちた状態)の凡夫(ぼんぶ:弱く無力で自力で悟れない愚かな存在)の身には出過ぎた願いではありますが、様々な縁によって助けられ支えられ励まされ慰められ育てられて生きてこられた、その力だけは、私には絶対事実です。私は私以外からもたらされた力を一心に信じさせていただき今日まで生かされております。この歓喜慚愧の念に頭が下がり手が合わさる心を、他力本願といいます

真に功徳に満ちているのは、真にありがたいのは、私たちに「あなたが救われて欲しい」と種々にはたらきかけてくださる、阿弥陀如来さまであります南無阿弥陀仏

「どこまで書いて消えてしまったのかを思うと心が痛むほど丁寧でわかりやす文章」と仰った方に

件の投稿よりももっと長く書き綴っていた文章が、残り数行というところでうっかりページバックボタンに触れてしまい、全消失しました。あまりのショックにじたばたと暴れ、ウワー!と叫びました。

「諸行は無常、こんな記事を書いたところで誰が読むでもなし、諦めて他のことをしよう」

と思って立ち上がった途端、リングコンを握り締めながら涙をこぼしている増田さんの姿が脳裏に浮かび、いやこれでは駄目だ、多少は簡素になってもいいからお伝えしよう、と踏みとどまりました。

結果、この拙文によって一部の方を戸惑わせたり憤らせもしてしまいましたが、多くの喜びの声を受けて、私が信じてきた教え、私に教えを授けてくださった諸仏と数多のご先達が、私に微笑みかけてくださるような感慨に胸が熱くなりました。本当にありがとうございます。至らぬところも多く、本当にごめんなさい。南無阿弥陀仏


(以下、今後回答を予定しているコメントをお載せします)

「今のコロナの状況を浄土真宗的にどうお考えか、また、どう乗り越えていけばいいか
無関係な私まで救われた気がする」、「心が洗われた」
「妻の初めての命日は、2月2日です。その日のまえに、このようなものが読めるとは」
「去年亡くなった母の遺影写真なくて父のガラケーで撮った低画質のをスマホアプリで綺麗にして使ったの。ずっと申し訳なく思ってたけどコレ読んだらそう悪くも無いのかな。父は喜んだし、何より良い笑顔だったんよ」
「(まずは他者よりも、わたし自身が目を開き、耳を傾け、心を開かなければなりません)…刺さる言葉だけどなかなかこれが出来ない。モノサシが異なると心を開く事が譲歩に見られてしまう。それも飲み込むべきなのかな」
葬式の時にこういうありがたい話を聞いて身が引き締まるのだが、翌日にはもうおっぱいのこと考えてしま自分がいる」
「“そういう態度や振る舞いしかできないだけの縁”。興味深い価値観だ。こう言う時に遺言として望むべき振る舞いについて残してあげるのが去りゆくものの置き土産なのかもしれない。身近な人たちに優しくありたいな」
親族に対してどうしてそこまで偉そうに断罪できるのか分からない(大意)」
「死者の本当の想いとやらを都合良く説きすぎ」、「どうして祖父気持ちを代弁できるのか(大意)」
「“縁なき衆生”も救われるのが浄土真宗じゃないのか」、「凡夫の救済である悪人正機みたいのもあるけどどう折り合いつくんだろ」
自分葬式なんてどうでもいい」、「葬式要らない。やるだけ無駄
仏教においては死んで仏弟子となった者の魂は阿弥陀如来浄土へ既に導いたので、葬式というのはただ遺族を慰めるためにやるものなんだよな。だから遺族の気が済めばそれでよい」
檀家がお寺の建て替え費用負担する仏教の教えを教えてください」

現時点では、以上のコメントについて、今後時間をかけて回答したく思います

準備ができ次第、こちらの投稿言及する形で戻って参りますゆえ、今しばしお待ちください。


最後になりましたが、皆様とこのような法縁に恵まれきっかけを与えてくださった元増田さんを始め、すべての方のお命とお心に、敬い申し上げます

南無阿弥陀仏

2021-01-15

ドラゴンクエスト3僧侶です。初めてザオラルします。

不慣れなため、先ほどセーブしたぼうけんのしょがすべて消えてしまい心折れかけましたが、やはり大事ことなので、増田さんに伝わればと願って改めて書き直します。

結論から言わせていただくと、教会で死者を蘇生すること自体に否はありません。そんなもの台無しになるのが仏の教えならば、仏法は2500年も受け継がれたりなどしません。

から言わせれば、死者を愚弄し、葬儀台無しにしているのは、せかいじゅのはの方だと思います

anond:20210114104835

https://anond.hatelabo.jp/20210114104835

自分も昨年末祖母を見送った。

リモート葬儀というものは知らず、やる/やらないの二択で考えたが、知っていたら真剣検討したと思う。

悩み、葬儀はみなで集まったが、感染リスクを恐れながら日数がたち、その心配がほぼなくなってから、ようやく祖母との思い出などを考えられるようになった。

友人の職場人間で、家族葬から平気だろうと集まったら、高齢の会葬者からコロナで死者がでて、一族みな自宅待機、という具体的な事例があった。そして職場での事後対応顛末も聞いていたからだ。

リモート葬儀は、非常に現実的な策ではないだろうか。

一方、親族の反応は、言葉通りに受け取るべきでないように思う。

自分ITエンジニアであり、高齢者の多い施設に設置し、顧客操作する端末をつくったことがある。

すると、当たり前に情報機器を使いこなす世代からは、想像もつかないトラブル、破損が頻繁する。

そして、トラブルの主は、かなりの確率で怒り、機械化、IT化を非難する。

ITが分からず、カッコ悪くて若手に聞くにも聞けず、という高齢者が、

恥をかかされた、勝手がわるかったのを、

人のせいにしたくて言っているケースが非常に多いように感じる。

IT虚業どうこうという言葉も、

ついていけてない自分、そして遅れて勉強しようともしない自分を、

正当化するためのツールになる。

仏法を大して知らずに語るも然り。

問題があったとすれば、リモート葬儀したこと、ではなくて、

勝手の悪い思いをさせないように、説明するのが少し足りなかったことだろうか。

ただ、突然の葬儀で、仕方ないとは思いますが。

さて、ではどうしたらよいだろう。

始まる縁があれば終わる縁もある、という僧侶お話もごもっとも。

僕ならそうするかも。

ただ、お母さんの気持ち、今までの付き合いを考えると、

親族に言われたことを受け流す度量をもって、

49日など、どっかで軽くフォローするほうが穏当かな?

仏法は疎いので、偉そうなことはいえませんが。

次の世代人間が、

故人の関係者親族とはいえ自分とは違う考え方の人たちを集め、

その調整を経験するのも葬儀の意義では。

そこで、リモート開催という、この厄災下に則した調整、決断をされたと思います

本当にお疲れ様でした。

祖父様のご冥福をお祈り申し上げます

2021-01-14

anond:20210114174353

南無阿弥陀仏

ありがとうございます

あなたのお声は無駄しません。

私たち寺院僧侶がこのような怒りや憎しみ、侮蔑を投げ掛けていただくことについて、確かに胸に刻み、これからの世の仏教の在り方を考え直す責務を全うしていきたいと願います

私ども真宗僧侶の多くは、知恵才覚に恵まれず、人様の懐を頼らざるを得ないような不甲斐ない存在ばかりです。

そんな私たちをも、ご門徒の皆様はお慕いくださり、種々に施しを与えてくださいます私たちは皆様に支えられ、生かされて、初めて仏法を学びお伝えすることができるのだという事実を、これまで何度となくかみ締めて参りました。

私自身、そうした皆様のご厚意に甘えることな生活を立ててゆける術はないだろうか、そう考えなかった時はありません。

今日あなたからも一石を投じていただいたことを、有り難く受け止めますとともに、あなた様のご不満やお怒りに満ちたお心にも、真の仏法が開かれてゆくことを願ってやみません。

誠にありがとうございます

合掌

anond:20210114104835

浄土真宗僧侶です。初めて書き込みます

不慣れなため、先ほど書いた文章がすべて消えてしまい心折れかけましたが、やはり大事ことなので、増田さんに伝わればと願って改めて書き直します。

祖父様のことをお悔やみ申し上げるとともに、今回このような形で、増田さんやお母様が悲しまれる結果になってしまたこと、痛惜に堪えません。

結論から言わせていただくと、リモート葬儀それ自体に否はありません。そんなもの台無しになるのが仏の教えならば、仏法は2500年も受け継がれたりなどしません。

から言わせれば、死者を軽んじ、葬儀台無しにしているのは、ご親族の方だと思います

葬儀とは「弔(とむら)い」であります。弔いとは元来、「訪(とぶら)い」という字を用いました。これは遠近様々な場所から死者の元へと人々が訪れる様子を意味していますが、決してそれだけではありません。

死者に出会うということは、まだ生きている自分自身出会うということです。やがては我が身も命尽きてゆく存在である、ということは誰しも頭では理解していますが、近しく親しい者の死を前にでもしなければ、そうした厳然たる事実さえも忘却してしまうのが私たち人間本質です。

そんな私たちが死者の元に集い、故人の人生意味、人の生き死にの重さや儚さ、そしていつかは同じように必ず死んでゆく私たちの進むべき道や生き方について、死者の姿に「問い」・「訪ねる」こと。

これが本来葬儀のあるべき形であります

仮にご親族が正しかったとして、実際に葬儀場に遺族知友が寄り集まり、そこで増田さんの危惧した通りに感染者が出たり、最悪死者が出たとしたら、どうでしょうか。お祖父様の死によって、お祖父様に連なる命がさらに失われてゆくことになってしまます。遺族知友が命を危険晒すリスクを負うことを心から望んで、お祖父様は何が何でも葬儀式を執り行って欲しいと願われたのでしょうか。

そうではなくて、「自分の死(一生)を大事に受け止めて欲しい」。それこそがお祖父様の本当の願いだったのではないでしょうか。

親族の方々は、ろくに理解もできていない宗教の「神聖さ」とやらを根拠に、「普通の」葬儀が営めなかった戸惑いや苛立ちを、増田さんにぶつけたのでしょう。

このような時勢の中、増田さんやご両親が取った苦渋の選択理解を示したりねぎらうどころか、自分たちの思い通りにならないことに腹を立て、挙げ句の果てには職業理由非難眼差しさえ向ける。お祖父様の生きた証でもある子や孫に対して、いまだ生き残った者たちのする仕打ちがこれです。故人の死が自分たちに何を訴えているかも受け止めず、自らの愚かさや罪を顧みない姿を、わざわざ露呈しているようなものです。

従来の葬儀式や、死者の元に人が集うことにも、もちろん大切な意味がありますしかし、いちばん大切なことは、遺族知友が故人の死を「無駄にしないこと」です。

人は死を前にして生と出会ます普段は照れ臭さ・煩わしさ・遠慮・怒りや嫌悪で、身近な人にはなかなか真正から向き合えないのが私たち人間です。しかし、いつかは私も周りの人も、故人と同じように冷たくなり骨となってゆく。そのことを思えば、自分自身の今までの他者に対する接し方や身の振り方にも、自然と目が向けられます。そうして自分の姿を見つめ直し、振る舞いを思い直し、そのきっかけを与えてくれた故人とはたらきとに手を合わせ、まだ生かされた者同士が手を取り合って明日からを歩んでゆく……それこそが仏の道であります

ですから、本当に故人の死や一生を受け止めようとする心に、現地もリモート関係ありません。むしろ、「葬儀らしいことをやった気になりたいだけ」の方が、よほど問題です。

これではお祖父様が報われません。自分が命尽きたその後で、遺族が葬儀の形どうこうで争いを起こすのならば、お祖父様は一体、何のために生まれて、生きて、死んでいったのでしょうか。

死後の遺族の姿勢次第で故人とそのご生涯の意味が決まる訳ではないとしても、あまりに嘆かわしいことです。

釈迦さまはかつて、「縁なき衆生は度し難し」という言葉を残されました。どれだけの言葉や思いを尽くしても、死ぬまで気付けない・分かり合えない人間というのは、古今東西必ずいるものです。そういう人たちはお釈迦さまにもどうすることもできない存在でした。何故なら彼らは自分から目を閉じ、耳を塞ぎ、心を閉ざしているからです。そうであれば、まずは他者よりも、「わたし自身が目を開き、耳を傾け、心を開かなければなりません。

増田さんにおかれては、お母様を悲しませてしまったつらさ、ご自分配慮が望まぬ結果をもたらしたつらさにうなだれていることと拝察致します。

しかし、だからこそ、お祖父様のことを今一度思ってください。お祖父様がいなければ、お母様も増田さんもこの世に生を受けることはありませんでした。授かったその命を、どうすれば願いと喜びの中で全うして終えてゆけるか、見つめ直す時間を受け取ってください。人がひとり死んでも、傲岸不遜に振る舞ってしまえる人間の恐ろしさを学んでください。分かり合えない人間から植え付けられる理不尽の怒りや悲しさを、自分自身が他の誰かに繰り返さないよう身口意(しんくい:身と口と心の振る舞い方)を正してください。切られる縁もあれば、そこから始まる縁もあることを信じてください。

それらを増田さん自身がもしも「ああ、そうだな」とうなずけたなら、あなたこそ仏の道をまっすぐに歩んでゆける方です。


つらい気持ちリングコンにぶつけて、涙も汗も流したら、美味しいものを食べて、温かい風呂に浸かって、よく眠り、あなたのお命を大切に、明日からまたあなたを続けてゆきましょう。口にはしなかったかも知れませんが、それもきっと、お祖父様がかつて願われたことのひとつのはずです。

こうしてはてなという場に一石を投じてくださった増田さんに、心から敬意を表します。私たち仏に仕える者たちも、此度のことをよくよく考えねばならないと衣服を整える思いです。

増田さんとご家族が、安穏なれと願って。

合掌

(ご親族に対して少し冷たい言葉を選びすぎたかも知れませんが、彼らもまた、そういう態度や振る舞いしかできないだけの縁を受けて生きてきたのだということを私自身うなずき直すとともに、増田さんにもそのことを、どうか頭の片隅に留めていただければと思います。お祖父から受け継いだ命を、分かり合えない人との不和を嘆いたり、他者を憎んだり呪ったりすることに使うのではなく、あなた自身の本当のプログラム人生に打ち込むことに使ってください)





(続・浄土真宗僧侶です)↓

https://anond.hatelabo.jp/20210116102323

2020-07-17

anond:20200717100421

ワイは今仏法僧に想いを馳せているところやで

2019-01-19

[]たとえ体にまとわりついて運転邪魔をしなかったとしても、心にまとわりついている。

僧侶は僧衣に執着している。

仏法を説くのに僧衣が必要であろうか。

執着心以外のなにものでもない。

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